2020 Volume 106 Issue 1 Pages 20-27
The effects of hydrogen charge on the defect formation behavior in austenitic stainless steels and nickel-chromium alloys during slow strain rate tensile tests (SSRT) were investigated by positron lifetime spectroscopy. Vacancy clustering was significantly promoted by hydrogen charge, although there was no remarkable difference in the dislocation density and mono-vacancy equivalent vacancy density between hydrogen-charged and uncharged samples under the same tensile strains. In various steels and nickel-chromium alloys, vacancy cluster sizes showed a good correlation with breaking elongations of hydrogen-charged samples, implying the vacancy clustering contributes to hydrogen embrittlement by affecting local plasticity.
水素はクリーンなエネルギー源であり,近い将来に様々な水素エネルギーシステムでオーステナイト系ステンレス鋼が広く使用されることが期待されている。そのためオーステナイト鋼の水素脆化についての関心が高まっている。また,ニッケルクロム合金については高耐食性を生かして油田のサワー環境などの過酷な腐食環境で各種配管や構造用部材として利用されているが,水素環境下での脆化が問題になっている。
水素脆化の機構については格子脆化理論1)や水素助長凝集力低下理論2),水素助長局所塑性変形理論(Hydrogen Enhanced Localized Plasticity model, HELP)3,4),水素助長歪誘起空孔理論5,6)など多くの理論が提唱されている。格子欠陥に着目した研究としては水素環境下での塑性変形過程に形成される転位組織や空孔,空孔クラスターが調査されており,水素が格子欠陥の形成挙動に影響を与えることが明らかになっている。
ニッケル基超合金の引張変形材では透過型電子顕微鏡観察結果から水素添加が転位組織に影響を与えることが明らかになっている7)。水素無添加材では特定のすべり面上で刃状転位がプラナーに配列する性質があるのに対し,水素添加材ではらせん転位に転じ,交差すべりが促進されることが報告されている。
空孔を定量する方法として昇温脱離法と陽電子寿命法が用いられている。Takaiらは昇温脱離法を用いてオーステナイト系材料8)や伸線パーライト鋼9)の水素吸放出量を調査し,水素環境下の塑性変形により原子空孔が高密度に導入されると結論付けている。
陽電子寿命法は空孔を直接検出し定量可能な手法である10,11)。Sakakiらは水素添加有無で10%,20%引張変形を加えた純鉄を用いて陽電子寿命測定を行い,水素添加により空孔密度が数倍増加することを報告している12)。しかし報告されている空孔密度は引張破断材においても最大で1 atppm以下と非常に微量であり,直接破壊の原因になるとは考えにくい。Doshidaらは陰極水素チャージ下で一定荷重をかけて破断させたマルテンサイト鋼に対して陽電子寿命測定を行った13)。試験前の平均陽電子寿命150 psから,水素チャージ下での定荷重試験により平行部の平均陽電子寿命が170 ps,破断部近傍では220 ps程度まで増加した結果から空孔クラスターが水素雰囲気での応力下で多量に形成されたと結論付けている。しかし空孔密度については定量化されていない。Hatanoらは水素暴露後に引張試験を行ったSUS304とSUS316Lに対して陽電子寿命法を適用し,水素添加による空孔クラスターサイズの増大を報告している14)。Doshidaらの報告13)を参考に水素脆化は空孔密度の顕著な増加が原因であると結論付けている。以上のように陽電子寿命法を用いた検討において空孔クラスターサイズの増大は確認されているものの,水素環境下の塑性変形により空孔密度や転位密度がどう変化しているのかについては十分に明らかになっていない。
筆者らは陰極水素チャージ下の塑性変形過程での空孔形成挙動について調査するために,マルテンサイト系ステンレス鋼SUS410や1000~1500 MPa級の低合金マルテンサイト鋼SCM435を対象に陽電子寿命法を適用し,空孔クラスターサイズと空孔密度,転位密度を定量化した15–17)。その結果,転位密度や単空孔換算の空孔密度は同じひずみ量で比較した場合,水素添加なしと比較して変化せず,空孔クラスターサイズが水素チャージにより顕著に増加することが明らかになっている。この結果は空孔クラスターサイズの増大という点においては以前の陽電子寿命法を用いた報告と一致している。一方で空孔密度の観点では水素助長歪誘起空孔理論から予想される顕著な空孔密度の増加は見られていない。
以上のように陽電子寿命法を用いて水素環境下での塑性変形過程での格子欠陥の形成挙動については知見が得られているものの,空孔クラスターサイズの増加の機構や塑性変形能に与える影響については十分に明らかになっていない。体心立方格子構造中と比較して面心立方構造中では低温での空孔拡散の速さが極めて遅いため,体心立方格子構造中の結果と比較することで,空孔のクラスター化の挙動の理解に役立つ知見が得られることが期待される。そこで本研究では,オーステナイト系ステンレス鋼およびニッケルクロム合金を対象に,水素添加後の低ひずみ速度引張試験材に陽電子寿命法を適用した。空孔や転位などの格子欠陥形成に及ぼす水素の影響を,特に空孔クラスターサイズや空孔密度に着目して検討し,空孔のクラスターサイズの増大やそれが水素脆化に与える影響について考察を行った。
本研究で用いたSUS304,SUS316L,Type205,56Ni-Cr,79Ni-Cr合金の化学成分をTable 1に示す。SUS304およびSUS316Lについては,厚さが5 mmの市販の固溶化熱処理された板材を用いた。Type205,56Ni-Cr合金,79Ni-Cr合金については,真空溶解後,熱間鍛造,熱間圧延を経て,12 mmの厚さの板材とした。この板材を用いて,Type205については1050°Cで30 min保持後水冷の固溶化熱処理を,56Ni-Cr合金と79Ni-Cr合金については大気中1100°Cで1 h保持後水冷の固溶化熱処理を施した。
Material | Fe | C | Si | Mn | Ni | Cr | Mo | N |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
SUS304 | bal. | 0.06 | 0.37 | 1.19 | 8.62 | 18.31 | 0.19 | 0.019 |
SUS316 | bal. | 0.02 | 0.51 | 0.89 | 12.22 | 17.79 | 2.25 | 0.041 |
Type205 | bal. | 0.13 | 0.28 | 14.6 | 1.55 | 17.30 | – | 0.35 |
56Ni-Cr | – | – | – | 56.86 | bal. | – | 0.0018 | |
79Ni-Cr | – | – | – | 79.93 | bal. | – | 0.0009 |
塑性変形下における欠陥生成挙動を観測するために,板材から,試験部の幅が4 mm,長さが20 mm,厚さが0.5 mmの平板引張試験片を採取し作製した。また,水素分析用に幅10 mm,長さ40 mm,厚さ0.5 mmの平板試験片を採取した。平板引張試験片および平板試験片ともに,2・2で述べる水素添加前に,表面を600番エメリー紙で乾式研磨した。
2・2 水素添加200°C,98 MPaの高温高圧水素ガス中に96 h暴露することによって水素添加を行った。200°Cにおける水素拡散係数はオーステナイト系ステンレス,ニッケルの文献値18,19)から計算するとそれぞれ7×10-13 m2/s,2×10-11 m2/sであり,0.5 mm厚さの板材中に水素を充填できる時間はそれぞれ50 h,2 hと計算される20)が,余裕を見て添加時間は96 hとした。
試験片中に吸蔵された水素濃度は,昇温脱離法により測定した。600番エメリー紙を用いて研磨することで表面付着物を除去した後にアセトン洗浄,乾燥を行った。水素分析には四重極質量分析装置を用いた。昇温速度は10°C/minであり,900°Cまでの昇温分析を行った。バックグラウンドとして試験片をチャンバーに入れない場合の測定から得られた値を,水素吸蔵試料の測定曲線から差し引いた。得られた昇温脱離曲線のピークを積分し,吸蔵水素濃度を求めた。得られた吸蔵水素濃度はTable 2に示すように50-111 wtppmであり,高圧水素ガス環境(80~98 MPa, 85~250°C)のオーステナイト系材料の吸蔵水素濃度と同レベルである。比較用に水素を添加していない試験片も準備を行った。200°C加熱が組織に与える影響を考慮し,同一形状の引張試験片に対して200°Cのアルゴン雰囲気で96 h加熱を施した。
Material | SUS304 | SUS316L | Type205 | 56Ni-Cr | 79Ni-Cr |
---|---|---|---|---|---|
Hydrogen content (wtppm) | 70 | 62 | 111 | 62 | 50 |
水素中,またはアルゴン中熱処理を行った試験片に対して常温大気中,ひずみ速度3×10-6/sで低ひずみ速度引張試験を行った。破断材の他に,8%または30%のひずみ量で破断前に試験を途中で止め,除荷して取り出した中断材についても作製し,評価を行った。破断した試験片および破断前に途中取り出しした試験片の全長を測定し,試験前の試験片の全長と比較することで,全伸びを測定した。また,破断材については,試験後の破断面を走査型電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope,SEM)により観察した。
2・4 陽電子寿命測定水素暴露により水素を予添加した試験片,またはアルゴン中熱処理により水素添加を行っていない試験片,その後に低ひずみ速度引張試験を施した試験片の試験部から,放電加工により応力負荷軸に垂直に4枚の陽電子寿命測定用の試料を採取した。破断材については破断部から3 mm以上離れた均一変形部から試料採取を行った。陽電子寿命測定にはTeledyne Lecroy製デジタルオシロスコープWaveRunner 610ZiとBaF2シンチレータをマウントした2対の光電子増倍管(浜松ホトニクス製H3378-51)で構成された測定システムを用いた。陽電子線源としては強度0.8 MBqの日本アイソトープ協会製22Na薄膜陽電子線源NA351を用い,4枚の陽電子寿命測定用の試料で挟み込んだ状態で25°Cの大気雰囲気中にて約12時間の陽電子寿命測定を行い,300万カウントの陽電子寿命スペクトルを収集した。測定システムの時間分解能と陽電子線源成分の陽電子寿命と相対強度はSUS304,SUS316L,Type205では純鉄の,56Ni-Cr,79Ni-Cr合金では純ニッケルの完全焼鈍材の陽電子寿命スペクトルをRESOLUTION21)で解析することによって決定した。測定システムの時間分解能は173 ps,線源成分は陽電子寿命380-390 ps,相対強度20%であった。試料の平均陽電子寿命は陽電子寿命スペクトルから線源成分を差し引き,POSITRONFIT Extended22)を用いて,一成分解析することによって得た。
次に陽電子寿命スペクトルの多成分解析を行った。引張ひずみ量30%以上の試料では格子欠陥密度が高く,完全結晶部での陽電子消滅割合が低いため,転位成分,空孔クラスター成分の二成分に分解することで十分に実験スペクトルを再現することが出来た。二成分解析により得られた転位成分の陽電子寿命は146-156 psであったため,転位成分の陽電子寿命を150 psに固定して以降の多成分解析を行った。得られた空孔クラスター成分の陽電子寿命を用いてクラスターサイズを評価した。
引張ひずみ量が小さい79Ni-Cr合金についてはトラッピングモデル23)を仮定して自由陽電子成分,転位成分,空孔クラスター成分の3成分に陽電子寿命スペクトルを分解した。空孔クラスター成分の陽電子寿命は空孔クラスターサイズの推定に用いた。転位密度,空孔密度は3成分解析結果から以下の式(1)-(2)を用いて評価した。
(1) |
(2) |
ここでCは欠陥密度,τは陽電子寿命,Iは相対強度,μは欠陥への陽電子比捕獲速度であり,添字fは完全結晶部,dは転位,vは空孔クラスターを表す。τfは完全結晶部の陽電子寿命である。純ニッケルの完全焼鈍材の陽電子寿命測定結果寿命からτf=104 psとした。陽電子比捕獲速度としてニッケル中での文献値24)μd=1.2×10-4 m2s-1,μv=2.2×1015 s-1を用いた。式(2)により求められる空孔濃度Cvは物理的には空の格子点が全体に占める割合である。n個の空孔を含む空孔クラスターでは陽電子比捕獲速度μが単空孔のn倍になることが知られており25),その場合の空孔クラスターの数密度はCv/nで表わされる。
Table 3に水素予添加,水素添加なしの引張試験における相対絞り(Relative RA,RRA),絞り(Reduction in Area,RA),相対伸び(Relative El,REl),伸び(Elongation,El)を示す。79Ni-Cr合金やType205においては水素添加によって絞りや破断伸びが大幅に低下し,水素による脆化が起こっている。一方でSUS316Lでは顕著な変化は見られなかった。Fig.1に水素添加後の引張試験片の破断面のSEM観察結果を示す。水素添加に伴う絞りや破断伸びの減少が大きいほど脆性的な破面形態を示していた。SUS316Lではディンプル状の延性破面,SUS304では粒内割れ,Type205では粒内割れと粒界割れが,79Ni-Cr合金では脆性的な粒界割れが観察された。
Material | RRA (%) | RA (Ar) | RA (H2) | REl (%) | El (Ar) | El (H2) |
---|---|---|---|---|---|---|
SUS304 | 70 | 55 | 39 | 74 | 101 | 75 |
SUS316L | 102 | 53 | 54 | 93 | 79 | 73 |
Type205 | 58 | 50 | 29 | 54 | 74 | 40 |
56Ni-Cr | 64 | 49 | 32 | 94 | 60 | 56 |
79Ni-Cr | 34 | 24 | 8 | 31 | 48 | 15 |
SEM images of fracture surfaces after SSRT, (a) SUS304, (b) SUS316, (c) Type205, (d) 79Ni-Cr.
引張試験中断,破断後の試験材の陽電子寿命測定結果をFig.2に示す。塑性ひずみ量の増加に伴って平均陽電子寿命が増加した。各合金の平均陽電子寿命を同一ひずみ量で比較すると水素添加を施した試料の方が有意に高く,水素添加による破断ひずみ量の減少が見られたものほどその傾向が顕著であることから,水素環境下での格子欠陥の生成挙動の違いを反映していると考えられる。
Mean positron lifetime versus plastic strains.
Fig.3に79Ni-Cr合金の引張中断材,破断材の陽電子寿命スペクトルの多成分解析結果を用いて評価した単空孔換算の空孔密度,転位密度を示す。水素添加なしの引張破断材のエラーバーが他の条件と比較して顕著に大きいのは自由陽電子成分の相対強度(式(1)-(2),1-Id-Iv)が小さい(格子欠陥密度が高い)ためである。転位密度,空孔密度ともにひずみ量に依存して増加しており,同じひずみ量で比較すると水素添加による顕著な転位密度や空孔密度の変化は見られなかった。
(a) Vacancy concentration, (b) dislocation density, versus plastic strains of 79Ni-Cr alloy.
Fig.4に陽電子寿命スペクトルの多成分解析の結果得られた空孔クラスター成分の陽電子寿命とひずみ量の関係を示す。空孔クラスター成分の陽電子寿命はひずみ量では変化せず,水素添加によって顕著に増加する傾向を示した。これは水素環境下において形成される空孔クラスターのサイズが増加していることを示唆している。その傾向は水素添加による破断ひずみの減少が顕著な合金でより強く見られており,水素脆化に伴う破断伸びの減少と強く関連していると考えられる。
Positron lifetime for vacancy cluster component versus plastic strains.
得られた結果から水素環境下の欠陥生成機構,さらにはそれらが水素脆化特性に及ぼす作用について考察する。
4・1 水素による空孔のクラスター化の促進水素添加,または水素添加なしの引張試験材では,Fig.2に示すように平均陽電子寿命が塑性ひずみ量に依存して単調に増加していた。これはFig.3の欠陥密度の評価結果から,塑性ひずみ量の増加に伴って転位が導入され転位密度が増加すること,転位の切り合いにより形成された空孔密度が増加することが要因であると推測される。また,塑性ひずみ量の増加に伴う転位密度の増加や,空孔密度の増加の傾向は水素の予添加により変化しなかった。一方でFig.4に示すように空孔のクラスター化は水素予添加により著しく促進された。これらの結果はマルテンサイト系ステンレス鋼の引張変形材を用いて検討した筆者らの過去の研究15–17)とよく一致している。本研究では鉄基,ニッケル基の面心立方格子構造を持つ合金を対象にしているが,それぞれの合金中の空孔クラスターを構成する空孔の個数と陽電子寿命の関係については報告がないため,参考のために同じ結晶構造を持つ純ニッケル中の空孔クラスターの陽電子寿命と比較する。Puska and Nieminenの理論計算によると空孔クラスターを構成する空孔の個数が1,2,4,6,13の時,空孔クラスターの陽電子寿命はそれぞれ184 ps,203 ps,263 ps,288 ps,376 psと増加することが報告されている26)。引張試験材の陽電子寿命測定により得られた空孔成分の陽電子寿命と比較すると,水素添加なしのアルゴン中熱処理材では175-209 psが得られており,単空孔や二重空孔に相当する。水素添加材ではSUS304,SUS316L で230-244 psが得られており,5-6個,Type205,56Ni-Cr,79Ni-Cr合金では304-327 psが得られており,10個前後の空孔クラスターが存在していると推測される。このように水素添加材の破断伸びの減少は空孔クラスターサイズの顕著な増加と対応していることが明らかになった。
水素添加による顕著な空孔クラスターサイズの増大は筆者らの以前の報告(フェライト系のSCM43515,16),SUS41017))においても確認されている。Fig.5に種々の合金に対して水素添加後の引張試験材の陽電子寿命測定により得られた空孔クラスター成分の陽電子寿命を示す。本研究で得られたSUS304,SUS316L,Type205に関するデータをAustenitic Steelとして,56Ni-Cr,79Ni-Cr合金をNi-Cr alloyとして図中に示している。まず水素添加なしの条件に着目すると,水素添加なしの条件においても水素添加ありと同様に,空孔成分の陽電子寿命が長いほど破断伸びが減少する傾向を示していた。空孔成分の陽電子寿命が長いSCM435やSUS410については焼き戻しマルテンサイト組織を有しており,塑性変形時の転位同士の切りあいが高頻度で起こり,生成される空孔量も多いため,空孔のクラスター化が促進されている可能性が考えられる。次に水素添加ありの条件に着目する。水素添加ありの場合も陽電子寿命が長いほど破断伸びが減少する傾向を示すが,水素添加なしの条件と比較して長い陽電子寿命を示していた。これらの結果は空孔のクラスター化挙動が組織の影響を受けること,水素添加により空孔のクラスター化が特異的に促進されることを示唆している。
Positron lifetime for vacancy cluster component versus breaking elongations of steels and nickelchromium alloys.
次に積層欠陥エネルギーと空孔クラスター成分の陽電子寿命の関係について考察する。オーステナイト系ステンレス鋼やニッケル基合金では積層欠陥エネルギーが水素脆化挙動に大きく影響を及ぼすことが報告されている14,27)。Fig.6に積層欠陥エネルギーと空孔クラスター成分の陽電子寿命の関係を示す。オーステナイト系ステンレス鋼の積層欠陥エネルギーについては化学成分からYonezawaらの回帰式28)を用いて推定した結果,SUS304 25 mJ/m2,SUS316L 34 mJ/m2,Type205 7 mJ/m2と推定された。56Ni-Cr,79Ni-Cr合金についてはClementらの59.2Ni-Cr,80Ni-Cr合金についての実験値29)から56Ni-Cr 75 mJ/m2,79Ni-Cr 74 mJ/m2と推定された。アルゴン中熱処理材では積層欠陥エネルギーによらず,単空孔から二重空孔に相当する陽電子寿命を示しているが,水素添加材では最も積層欠陥エネルギーの低いType205を除いて積層欠陥エネルギーが大きいほど空孔クラスターサイズが増大する傾向が見られた。同じく面心立方格子構造を持つ純アルミニウムにおいては,水素が転位ループの形成を阻害することで空孔クラスター化が進行する機構30)が提案されており,積層欠陥エネルギーが高いほど転位ループの形成が抑制されることを考慮すると,本研究で得られた空孔のクラスター化傾向と定性的に良く一致する。しかし水素添加により顕著な空孔クラスターサイズの増大が観察された79Ni-Cr合金においてもFig.3に示したように空孔密度の増加は観察されておらず,また56Ni-Cr合金と積層欠陥エネルギーがほぼ等しいのにも関わらず空孔クラスター成分の陽電子寿命が大きく異なることから,転位ループ形成との競合のみで空孔のクラスター化挙動を説明することは困難である。最も積層欠陥エネルギーの低いType205ではプラナーな転位が形成され,同一すべり面上でのすべり変形が促進される機構が提案されている27,31)。このことから積層欠陥エネルギーが空孔のクラスター化挙動に影響を与えていることが示唆される。
Positron lifetime for vacancy cluster component versus stacking fault energies.
水素環境下での塑性変形過程における空孔クラスターサイズ増加の原因について考察する。水素は空孔クラスターと高い結合エネルギーを持つため,空孔クラスターのエネルギー安定性を高めることで空孔クラスターサイズの増加に寄与していると考えられる。空孔については塑性変形時の転位の切り合いによって生成され,空孔がクラスター化する過程で前述のように水素が作用し,空孔のクラスター化が促進されていると考えられる。しかし室温付近での原子拡散は非常に遅く,空孔の拡散係数をオーステナイト鉄中,ニッケル中の300 Kにおける自己拡散の拡散係数32,33)から推定するとそれぞれ10-55 m2/s,10-57 m2/sのオーダーである。一方で空孔密度から計算した空孔クラスター間の距離は均一分布を仮定しても10 nm以上であり,塑性変形後に空孔が拡散してクラスター化するのは困難である。よって空孔のクラスター化は塑性変形過程での転位運動による引きずり等による空孔拡散の促進が必要であると考えられる。空孔クラスターサイズの増加のためには空孔の形成位置の局所化と空孔の拡散距離の増加が不可欠であり,空孔のクラスター化がすべり変形の局所化により引き起こされていることが示唆される。Fig.4やFig.5に示すように,空孔クラスターサイズが大きい条件では破断ひずみが小さい傾向が結晶構造や合金組成に関わらず見られることもこの仮説を支持するものである。
Nagumoら5,6)やTakaiら8,9)は前述のように,水素添加後の引張塑性変形材の水素放出量が,水素添加無しのものと比較して大きいことを主な根拠に,水素環境下の塑性変形により空孔密度が増加すると推定しており,水素助長歪誘起空孔理論の論拠となっている。しかし現状では水素放出量と空孔密度の定量関係や,さらにクラスターサイズの依存性については明らかになっておらず,昇温脱離法を用いた空孔密度の定量評価は難しい状況である。これに対して本検討では,陽電子寿命法を用いて空孔密度と空孔クラスターサイズを定量解析することで,水素は空孔密度よりも空孔クラスターサイズに強く影響すること,空孔クラスターサイズの増加は塑性変形の局所化と密接に関係していることを明らかにした。
オーステナイト鋼およびニッケルクロム合金の水素添加後の低ひずみ速度引張試験過程の空孔形成挙動を陽電子消滅試験により調査した。得られた知見は以下である。
(1)オーステナイト鋼およびニッケルクロム合金において水素添加により引張変形過程で形成される空孔のクラスター化が促進されることが明らかになった。空孔クラスター成分の陽電子寿命は破断ひずみと良い相関を持っていた。79Ni-Cr合金では転位密度および空孔密度はひずみ量に伴って増加し,水素添加の影響は見られなかった。
(2)空孔クラスターのサイズが大きいほど破断ひずみが減少する傾向が水素添加材,アルゴン中熱処理材ともに確認された。これはSCM435やSUS410に関する以前の研究と同じ傾向であった。
(3)空孔のクラスター化は塑性変形過程で起こっていると考えられ,すべり変形の局所化と密接に関係していることが示唆された。