2020 Volume 106 Issue 6 Pages 372-381
The pop-in phenomenon as a plasticity initiation during nanoindentation was analyzed to investigate the effect of solute carbon on the plastic deformation for Fe-C binary alloys and interstitial free (IF) steel. The maximum shear stress τc calculated from the critical pop-in load increases as solute carbon concentration increases. Based on a model in which the elementary step of pop-in is the nucleation of a dislocation loop, it is considered that solute carbon increases the resistance to the growth of a dislocation loop, thus higher stress is necessary for the nucleation. Frequency distributions of the pop-in load shows two peaks when the sample includes solute carbon. One peak on the lower load corresponds to the nucleation at a region of solute carbon free. The other peak on the higher load is attributed to the nucleation at a region with solute carbon. Displacement burst during pop-in Δh decreases with increase in solute carbon concentration. Considering that the Δh is proportional to the number of dislocations, it is concluded that solute carbon decreases the mean free path of dislocation movement.
炭素は,微量添加であっても鉄鋼材料の強度を著しく上昇させることが知られており,最も重要な添加元素の一つである。例えば,Fe-Cマルテンサイト鋼は,焼入れままの状態において,わずか1%弱の炭素添加によって3倍程度の強度に上昇する1)。パーライト鋼は,典型的な鉄炭化物であるセメンタイトとフェライトのラメラ組織で構成され,伸線加工を施すことにより4 GPaを超える引張強度が達成されており,鉄鋼材料で最も強度が高い2)。炭素による強化機構モデルは,大きく分けて固溶状態(クラスターや偏析を含む)による強化と,その再配列(炭化物析出)による強化に分類される。しかし,鉄中に固溶する炭素は室温でも拡散が容易であることや,軽元素であるために存在状態の検出が難しく,強化機構の詳細は不明な点が多い。本研究では,炭素による強化機構の素過程を考える上で最も基本的で重要である固溶状態を主な対象とする。
固溶炭素原子あるいは炭素偏析の影響と考えられている典型的な現象として,固溶強化3–7),降伏点降下現象3),(動的)ひずみ時効8),ホールペッチ係数への影響9,10)等が挙げられる。この中で,最も基礎となる現象として固溶強化が挙げられ,これまでに転位論に基づいた種々のモデルが提案されてきたが,未だ未解明点が残されている。たとえば,固着力モデル3,4)や摩擦力モデル5–7)が代表的な機構モデルとして提唱されているが,双方に課題が残されている11,12)。固着力モデルは,降伏点降下現象やひずみ時効の説明には成功している一方,転位が溶質原子との固着から離脱した後の運動において,溶質原子の影響を考慮できていない。摩擦力モデルは,応力等価性(stress equivalence)と呼ばれる現象13)を個々の元素の影響と1つの障害物単位に含まれる元素数の両因子でモデル化することに成功しているが,熱活性化過程において転位と相互作用する溶質原子数の取扱いに課題が残されている。このように,最も基礎的な現象である固溶強化においてもその機構は未だ十分に明らかになっていない。固溶炭素原子が及ぼす種々の影響をさらに理解するためには,単独の固溶炭素原子あるいは1つの障害物単位と転位との相互作用を実験的に捉えることが理想的である。従来のマクロ力学試験では,結晶粒界や第二相粒子などの影響を受けるため,固溶炭素原子の影響を評価するには単結晶を対象とする必要があった。これを実用材料でも可能にするためには,局所的な力学試験によって固溶炭素原子以外の影響を排除した粒内の力学特性を抽出して評価する必要がある。
本研究では,局所的な力学特性を評価する手法として,ナノインデンテーション法に着目した。ナノインデンテーションは,μNオーダーの荷重分解能とnmオーダーの押込深さの分解能を持つ押込試験であり,サブミクロン単位の局所領域の力学応答を直接的に求められる手法である14)。ナノインデンテーションを荷重制御条件で行った場合,荷重-変位曲線の負荷過程上にポップイン(pop-in)と呼ばれる変位バースト現象が発生することが知られている15)。ポップイン現象の機構として最も有力な説は,圧入応力下における転位の生成や増殖に起因する塑性変形の開始であり,理論16,17)と実験18,19)の双方で多くの報告例がある。ポップイン現象は,理想強度レベルの高い応力下で発生すること18),塑性変形開始応力が剛性率17),温度21,22)やひずみ速度23)に強く依存すること,粒界24),転位25),溶質原子26,27)などの格子欠陥の影響を受けることなどが示されており,塑性変形の素過程に深く関係すると考えられる。
本研究では,固溶炭素濃度を系統的に変えた試料を用い,固溶炭素濃度を定量的に評価した上で,ポップイン現象に及ぼす固溶炭素原子の影響を評価することによって固溶炭素原子による強化機構の素過程を明確化することを目的とする。
市販の高純度鉄(東邦亜鉛社製純度99.99%)をアルゴンと水素の混合ガス雰囲気下でアーク溶解し,インゴットを作製した。さらに,比較材として高純度鉄にTiを0.043 mass%添加したTi添加IF(Interstitial Free)鋼を作製した。IF鋼は,インゴット作製後に均質化のために真空中で1473 Kで24 h焼鈍し,炉冷した。これらのインゴットを溝ロール圧延,スウェージング加工によって1.0 mmφの線材に加工した。加工によって形成した集合組織を除去するために,γ単相域となる1273 Kで1 h焼鈍した。本試験で用いた市販試料は純度4Nであり,炭素や窒素などの不純物が含まれる。そこで,サンプル中に含まれるこれらの侵入型溶質原子を除去するために,水蒸気圧6.59 kPaの湿水素を100 ml/minの流量でフローさせながら973 Kで24 h湿水素焼鈍を施した。その後,炭素のみを添加するために,メタンと水素の混合ガス雰囲気において998 Kで4.5 h浸炭焼鈍を行った。添加する炭素はメタンと水素のガス分率を変えることで調節した。浸炭時間は,丸棒の中心の炭素濃度が表層の炭素濃度の95%となる時間に対して2倍の時間とした28)。浸炭条件をTable 1に示す。浸炭後,真空において998 K,1 hの溶体化処理を行い,水焼入れすることで添加した炭素原子を固溶させた。なお,以降の試験を実施するまでは室温時効を抑制するために,液体窒素中で試料を保管した。
Expected carbon concentration (at. ppm) | Gas flow (ml/min) | Temperature (K) | Annealing time (h) | |
---|---|---|---|---|
CH4 | H2 | |||
125 | 2.1 | 185 | 998 | 4.5 |
192 | 3.4 | 197 | 998 | 4.5 |
湿水素焼鈍前後および浸炭後試料に含まれる固溶炭素濃度を,内部摩擦法により測定した。内部摩擦は,逆吊りねじり振り子型装置を用い,共振自由減衰法により測定した。100 Paのヘリウム雰囲気下で,振動数を約1 Hzとし,200 K~400 Kの温度域を低温から1 K/minで昇温させながら測定した。測定波数は104とし,磁壁の移動による内部摩擦を防ぐため,1.6×10-4 A/mの直流静磁場を試料の長手方向に印加した。
炭素や窒素などの侵入型溶質原子がBCC金属に固溶状態で存在する場合,これらは八面体位置に存在する。侵入型溶質原子が八面体位置に存在すると,最近接原子を外側に押し広げ,結晶格子に一軸性のひずみが生じる。八面体位置には,一軸性のひずみの向きが異なる3つのサイトが存在し,それらは物理的に同等である。有限温度で外力を付与していない場合,侵入型溶質原子はこれらの等価な3つのサイト間をある確率でジャンプしている。外力を付与すると,応力により格子間隔が広がることでエネルギー的に有利となるサイトにジャンプする割合が徐々に高まる。その結果,侵入型溶質原子の分布に偏りが生じ,付与された格子応力が緩和される。この応力誘起緩和現象をスヌーク緩和といい,スヌーク緩和に起因したピークをスヌークピークという29)。温度を走査して内部摩擦を測定すると,スヌークピークは欠陥の種類に起因した温度で発現し,欠陥の量に応じたピーク高さを示す。すなわち,スヌークピークが発現する温度から欠陥の種類を,ピーク高さから欠陥の量を算出することができる。内部摩擦は,次式で表される。
(1) |
ここで,Q-1は内部摩擦,Δは緩和強度,ωは角振動数,τは緩和時間であり,ωτ=1の場合,すなわちQ-1=1/2Δとなる条件で内部摩擦値は極大となる。ここで,炭素,窒素の1 at. ppm当たりの緩和強度がNowick and Berry30)によって報告されており,炭素は4.3×10-5/at. ppm,窒素は4.0×10-5/at. ppmである。なお,本試験で用いた装置の測定下限値は,1 at. ppmである。
2・3 ナノインデンテーション溶体化処理後,焼入れた1.0 mmφの線材を長さ20 mmに切断し,縦断面が研磨面となるように樹脂に埋め込んだ。ナノインデンテーションは,試料表面状態の影響を強く受けるため,試料表面を機械研磨により鏡面に仕上げた後に最終仕上げとして電解研磨を施した。253 Kに冷却した10 vol.%過塩素酸エタノール溶液を用い,約18 Vの印可電圧で3~10秒間研磨した。ナノインデンテーションは,Bruker社製Hysitron Tribo Indenter(TI900)を用い,300 Kの室温下で荷重制御方式により実施した。Berkovich 型ダイヤモンド圧子を用い,最大荷重は1000 μN,またはより高荷重でポップインが発生する試料では2000 μNとした。負荷および除荷速度は50 μN/s,最高荷重における保持時間は10 sで,走査プローブ顕微鏡SPM(Scanning Probe Microscope)で判断した結晶粒界から20 μm以上離れた粒内に30点以上押込みを行った。
Fig.1(a)に,湿水素焼鈍前後の試料の内部摩擦測定結果を示す。振動数の2乗は,200 Kでの値で規格している。湿水素焼鈍前の試料では,320 K付近で振動数が急激に低下し,Q-1にも明確なピークが認められる。これに対して,湿水素焼鈍後の試料では,振動数はほぼ線形で,湿水素焼鈍前に認められたピークが消失したことが分かる。このように,侵入型溶質原子によるスヌーク緩和に起因したピークであれば,振動数は急激に低下する。これに対し,緩和が起こらない場合では振動数は温度に対して線形的に低下する。本研究では,緩和によるピークであるのか,それとも実験上のエラーなど外乱によってピークのようなものが発現したのかを振動数の変化で判断した。振動数の変化を伴う緩和によるピークであれば,ピーク分離を行い,ピーク温度から求めた活性化エネルギーにより溶質原子の同定を,ピーク高さから溶質原子濃度の定量を行った。その結果,このピークは固溶炭素原子と固溶窒素原子に起因するピークが重なったものであり,それぞれのピーク高さから求めた固溶濃度は,湿水素焼鈍前では炭素が137 at. ppm,窒素が17 at. ppm含まれているのに対して,湿水素焼鈍後では炭素が3 at. ppm含まれているのみで,窒素は測定限界である1 at. ppm以下であることが分かった。
Internal friction Q–1 and the square root of resonance frequency f. (a) Before and after wet H2 annealing, (b) After carburizing annealing.
次に,Fig.1(b)に浸炭焼鈍後の内部摩擦測定結果を示す。Fig.1(a)と同様に,振動数の2乗は,200 Kでの値で規格している。IF鋼以外の試料では,320 K付近で振動数の低下およびQ-1のピークが認められる。これらは,湿水素焼鈍した後に浸炭焼鈍を施したため,窒素は1 at. ppm以下であり,ピーク分離の結果からも炭素のみの単一ピークである。浸炭焼鈍材の固溶炭素濃度は,33,123 at. ppmである。また,IF鋼は窒素も炭素も測定限界である1 at. ppm以下である。以降,IF鋼を0C,湿水素焼鈍材を3C,浸炭焼鈍材を30Cおよび120Cと呼ぶ。
3・2 ナノインデンテーションFig.2に,ナノインデンテーションにより得られた典型的な荷重-変位曲線を示す。全ての負荷過程には,2点鎖線矢印で示される変位の急激な増加,すなわちポップインが発現した。ポップイン前の曲線は,1点鎖線で示された以下に示すヘルツの接触式31)とほぼ一致する弾性変形を示した。
(2) |
Typical load-displacement curves for all samples.
ここで,Pは荷重,E*は式(3)に示す圧子と試料の複合ヤング率,Rは圧子先端の曲率半径,hは押込み深さである。
(3) |
E,νはそれぞれヤング率とポアソン比であり,添字のiとsは圧子とサンプルを意味する。
Fig.2に示すように,ポップインが発生する臨界荷重Pcは,固溶炭素濃度の上昇に伴い上昇する。さらに,ポップイン発生時の変位バースト量Δhは,Pcの上昇に伴い大きくなる。
Fig.3に,Pcから求められる圧子下の最大せん断応力τcと固溶炭素濃度との関係を示す。τcは,次式より求められる31)。
(4) |
Relationship between solute carbon concentration and maximum shear stress beneath the indenter.
丸印で示される点が平均値で,エラーバーは標準偏差である。固溶炭素濃度が高くなると,τcの平均値が上昇するとともに標準偏差も大きくなる傾向が示されている。
偏差の変化をより明確化するため,各試料に対するPcの確率分布をFig.4に示す。Pcの分布形状は,0Cおよび3Cではガウス分布に近く,350 μN付近にピークが認められる。これに対して,固溶炭素濃度が上昇すると,350 μN付近のピーク高さが低下し,500 μN以上の高荷重側にもピークが現れる。さらに,そのピーク位置は,30Cと120Cを比較すると固溶炭素濃度がより高い120Cでピーク位置が高荷重側にシフトするとともに,ピーク幅が広がる。ピークの位置に関わらず,いずれのピークもガウス分布に近いことから,ポップイン現象は熱活性化過程に律速されると考えられる。これを検証するためには,試験温度を変化させることが有効と考えられるが,試験温度を高めることは炭素原子の存在状態を変化させ,炭化物の析出やクラスター化を促進する恐れがあるため好ましくない。そこで,本研究では,室温において一定荷重での保持中にポップインが発現するかを調査した。もし,ポップインが力学条件のみで支配される決定論的な現象であれば,負荷過程で発生しない場合は保持中でも発生しない。一方,熱活性化過程による確率論的な現象であれば,ある確率で負荷過程で発現しないまま最高荷重に達した後,保持中に発生することが起こり得る。荷重保持試験は,120Cを用い,Pcの平均値である1255 μN前後の1000 μNおよび1500 μNで保持することとした。1000 μN以上の荷重では,圧子下の最大せん断応力はすでに理想強度レベルであるため,熱活性化過程が支配的であれば,ある確率でポップインが発現すると考えられる。荷重保持試験の結果,ポップインが,1)負荷過程で発生,2)保持中で発生,3)保持中では発生せず除荷中に発生,4)負荷・保持・除荷で発生しない,4種類の結果が得られた。Fig.5(a)(b)および(c)(d)に,それぞれ2)と3)の典型例を示す。(a)(c)は荷重-変位曲線を,(b)(d)は制御パラメーターである荷重とそれに対応した変位の時間変化を示す。(a)(b)に示す2)のケースでは,負荷過程でポップインは発生せず,ヘルツの接触式に従い弾性変形で保持荷重に達した後,荷重保持を開始してからおよそ9~12 s後に変位の急激な増加が起こり,ポップインが発生したことが分かる。(c)(d)に示す3)では,負荷・保持中にポップインは発生せず,除荷中にポップインが発生したことが分かる。これらの結果は,ポップインが応力によって確定論的に決まる現象ではなく,熱活性化過程によって確率論的に発生する現象であることを示唆する。さらに,この試料は固溶炭素原子を含む試料であることから固溶炭素原子が関係する場合であってもポップインの発生には熱活性化過程が支配的であると判断される。これは,Fig.4のヒストグラムにおいてピーク位置に関わらずガウス分布を示した結果とも整合する。
Frequency of the critical pop-in load.
Load-displacement curves (a, c) and the relationship between time and penetration depth and load (b, d).
固溶炭素濃度が120 at. ppmまでの範囲では,固溶炭素濃度の上昇に伴いポップインの臨界応力τcは顕著に上昇し,120Cは0Cよりも1.7倍近く上昇した。一方で,結晶粒径が40 μm程度のIF鋼と120 at. ppm程度の固溶炭素原子を含む場合を比較すると,引張試験では降伏応力が80 MPaから120 MPa程度におよそ1.5倍上昇する9)。これは,局所的な挙動であるポップイン現象が捉える固溶炭素原子の影響が,巨視的な引張試験に現れる特性変化に深く関係することを示唆する。
ポップイン現象は,ヘルツの接触式から逸脱する点で発生することから,弾性変形から弾塑性変形への移行点,すなわち塑性変形の開始であると理解されている。Zhang and Ohmuraは32),ナノインデンテーション後の押込み位置直下の転位組織を観察し,ポップインが発生することなく弾性変形を示した場合では押込んだ領域に転位が全く観察されなかったのに対し,ポップインが発生した場合ではポップイン直後の圧痕下に多数の転位が観察されることを示した。この結果は,ポップイン現象が無欠陥領域からの転位の生成に対応することを実験的に示したものである。転位の生成については,核生成の機構について議論がなされている。Lorentzらは33),実験で測定されるポップイン時のせん断応力が理想強度と良く合うことから,転位の生成をせん断転位ループの均一核生成と結論付けている。一方,Schuhらは34),ポップイン応力の確率分布関数から活性化体積を求め,その値が1.0 b3(bはバーガースベクトル大きさ)以下の小さな値を示すことから不均一核生成であると指摘している。いずれの場合も,せん断転位ループの発生が素過程であると考えられることから,Satoら35)は有限温度の分子動力学法を用いてこの素過程をモデル化し,τcの温度依存性と押込み速度依存性がタングステンと鉄の実験結果とよく合うことを示している。このように,ポップインの発生には,転位の核生成が必要であることが実験および原子シミュレーションにより示されており,Fig.5に示されるように固溶炭素原子が存在する場合も熱活性化過程が支配的であると判断されることから,固溶炭素原子はこの核生成過程の抵抗になるためにτcを上昇させる効果があると考えられる。機構の詳細なモデルは,後述する。
次に,Pcの頻度分布が固溶炭素濃度によって変化する理由を考察する。Fig.4に示すように,固溶炭素濃度の上昇に伴って350 μN付近の低荷重側のピーク位置は,位置がほぼ一定のまま高さのみが低下する。また,高荷重側に新たなピークが現れるようになる。さらに,その高荷重側のピークは,固溶炭素濃度が高いほどピーク位置がより高荷重にシフトする。固溶炭素濃度が上昇しても濃度が均一であるならば,素過程に関与する固溶炭素原子の数は増えても測定位置によらず同じ機構が支配的なので,分布形状は単一ピークのままで平均値だけが上昇するはずである。したがって,ピークが複数になる事は,異なる機構が存在することを示唆している。低荷重側のピークは,固溶炭素濃度に依らずピーク位置が一定であることから,核生成に対して同じ抵抗を発現する機構であると判断され,かつ,0Cで最もピークが高くなることから,固溶炭素原子がほとんど関与しない機構に起因すると考察される。一方,炭素添加によって現れる高荷重側のピークは,単独,もしくは複数の固溶炭素原子と転位とが相互作用したことに起因したピークであると考えられ,これらがより高い抵抗を生む機構であることを示している。ピーク位置が固溶炭素濃度の上昇とともに高荷重側へシフトするのは,固溶炭素原子間の距離が縮まるためと考えられる。これらは,Satoら35)の転位核生成モデルから以下のように考察される。ポップイン発生の素過程をせん断転位ループの核生成とすると,転位ループに与える外力と転位ループが線張力によって収縮する力が釣り合っている場合は,除荷するとループは消失する。せん断転位ループが安定的に成長する臨界サイズに達するためには,さらに外力を大きくするか,あるいは熱ゆらぎによって線張力が弱くなる必要がある。すなわち,転位が核生成しポップインが発生するためには,Pcにおいて転位ループの臨界サイズを超える必要がある。ある一定の外力下における転位ループは,熱活性化過程によりある確率で様々なサイズのものが生成し,臨界サイズ未満のものは消滅する。また,付与する応力が高いほど,転位の核生成に必要な活性化エネルギーは低下するため,臨界半径は小さくなる。以上のモデルに基づいて固溶炭素原子の影響を考察すると,固溶炭素原子は転位線の移動をピン止めして転位ループの成長に対して抵抗を与えるため,臨界サイズに達するためには,同じ温度においてより高い応力が必要になると考えられる。固溶炭素濃度が上昇した場合に現れる高荷重側のピークは,単独または複数の固溶炭素原子が大きな抵抗を生む障害として働くために発現すると考えられる。固溶炭素濃度が上昇するほど固溶炭素原子間の距離が縮まり,一部の原子はクラスター化することも考えられる。固溶原子濃度,クラスター数密度,クラスターサイズの増大によってピーク位置がより高荷重側に移行すると考察される。このような炭素原子のクラスター化について,Ushiodaら36)は低温時効に伴う硬さの変化と組織観察から指摘している。低炭素アルミキルド鋼を溶体化処理後に焼入れ,炭素原子を過飽和に固溶させた後,323 Kで低温時効させると,1.1×104 sからビッカース硬さが上昇し始め,5.8×105 s(16 h)で著しい時効硬さを示し,その後,8.6×105 s(10 d)まで高い硬さを維持することが示されている。さらに,透過型電子顕微鏡とアトムプローブトモグラフィを用いた観察の結果,ピーク時効初期の1.0×105 s(28 h)では,炭素濃度がマトリックスに対して10倍以上高い領域が不定形状の10 nm程度の大きさで認められ,これが炭素クラスターであると指摘している。さらに,ピーク時効後期の8.6×105 sでは,炭素原子のクラスターが板状の鉄炭化物に遷移することが示されている。炭素原子のクラスター化が炭素原子の拡散に律速すると仮定すると,323 Kでクラスターが形成された際と同じ炭素原子の拡散距離を得るためには,室温(300 K)では14 d程度の時間が必要である。本研究では,測定開始から14~21 d程度の時間を要しているため,クラスターが形成されている可能性は高いと考えられる。
次に,固溶炭素濃度が高いほど,高荷重側の分布幅が広がる理由についても考察する。これは,Fig.3のエラーバーが大きくなることと同義であり,測定誤差というよりも,むしろ固溶炭素原子の分布が寄与する本質的な結果であると考えられる。固溶炭素濃度が上昇すると炭素原子間の平均距離が短くなることに加え,クラスターのように局所的に炭素が凝集した領域が存在しやすくなる。このとき,クラスターのサイズは大小様々なものが存在し,それに関連して数密度の空間分布も発生するであろう。高荷重側の分布幅が拡がる理由は,クラスターの数密度やサイズの分布が,固溶炭素濃度が高いほど大きくなることによると考えられる。これに対して,低荷重側の分布幅は固溶炭素濃度が高まった場合でも変化しない。上述のように,このピークは炭素原子が関与しない機構によると考えられるため,固溶炭素原子を含む場合であっても,測定位置によって炭素原子が存在しない領域がある確率で存在する事を示している。この領域の体積は,押込みにより形成される塑性域と同程度以上と考えられる。圧子下の塑性域を半球状と仮定した場合,その直径は押込み深さの10倍程度であることが報告されている37)。低荷重側のピークに対応する押込み深さは10~20 nmであるので,この時の塑性域の直径は0.1~0.2 μmと見積もられる。すなわち,固溶炭素原子が存在しない領域はこの大きさ以上と推定され,これが試料内にランダムに分散していると考えられる。以上を踏まえると,Fig.4中の模式図のように,固溶炭素濃度が高くなるにつれ,ほとんど固溶炭素原子が存在しない領域は存在しつつ,固溶炭素原子が存在する領域ではその濃度が高まり,同時に濃度や存在状態の不均一性が発生すると考えられる。
4・2 変位のバースト量,Δhに及ぼす固溶炭素の影響次に,ポップインが発生する際の変位のバースト量であるΔhに着目する。Fig.2に示すように,ΔhはPcの上昇に伴い増加する。Δhの大きさについて,ポップイン発生時に生成する転位の本数に対応するモデルが提案されている38)。上述のように,ポップインがヘルツの接触式に従う弾性変形であり,ポップインが発現するまでに材料中には弾性ひずみエネルギーが蓄えられることから,ポップインは弾性ひずみエネルギーを転位の生成により解放する緩和現象であると捉えることができる。したがって,Pcが高いほど材料中に蓄えられる弾性ひずみエネルギーが高まるため,Δhも大きくなると理解できる。
Δhに及ぼす固溶炭素濃度の影響を評価するために,Fig.6にPcとΔhとの関係を示す。固溶炭素濃度が33 at. ppmまでは,同程度のPcで比較した際にΔhに大きな差は認められない。これに対して,120Cでは固溶炭素濃度が少ない供試材と比較して同一のPcに対するΔhは小さい。特に,Pcが1000 μN以上の高い領域では,明確にΔhが低くなることが分かる。この理由について,以下に考察する。
Relationship between the critical pop-in load and excursion depth.
上述のように,ポップインでは瞬時に多量の転位が生成する32)。この時,生成した転位はあるすべり面上を長距離運動する。固溶炭素濃度が高い場合では,転位は固溶炭素原子から抵抗を受けながら運動するため,1本の転位が運動する際に消費するエネルギーは固溶炭素濃度が低い場合よりも大きいと考えられる。つまり,同程度の弾性ひずみエネルギーを駆動力として転位が生成・運動を開始したとしても,固溶炭素濃度が高い場合では,蓄えた弾性ひずみエネルギーを少ない数の転位で消費すると考えられる。その結果,転位源から放出された先頭転位の平均自由行程が短くなり,後続の転位はより大きな逆応力(back stress)を受ける。固溶炭素原子による平均自由行程の変化は,1つのすべり面だけでなく,交差すべり頻度にも影響すると考えられる。Konishiら39)は,Fe-0.02%C単結晶を用い,冷間圧延による組織変化に及ぼす炭素原子の存在状態を調査した。彼らは,冷間圧延前に固溶炭素原子が存在すると,冷間圧延で変形帯の形成が促進されることを示し,この変形帯形成の促進を固溶炭素原子によってすべり系が{211}〈111〉に限定されたためと結論付けている。すなわち,固溶炭素原子の存在によって,交差すべり頻度が低下することで,平均自由行程が短くなり,Δhが低下した可能性も考えられる。
このような理想強度レベルの応力下で転位が生成,運動する挙動は,破壊靱性の考察にも応用可能であると考えられる。亀裂の進展機構の議論において,亀裂先端の応力集中部からの転位生成は亀裂進展を抑制する“転位遮蔽効果”として知られている40)。これは,亀裂先端において生成した転位の応力場によって亀裂先端に圧縮の応力場が生じ,外力による引張応力集中を緩和することで亀裂の進展が抑制される現象である。Higashida and Tanaka41)は転位遮蔽効果に加え,亀裂先端塑性域の形成が転位の易動度に律速されると考え,脆性-延性遷移現象を議論している。特に,亀裂先端での塑性緩和能力を律する主要因として転位の易動度を考え,易動度を高めた場合に遷移温度が低下することを示している。これは,転位の易動度が高まると,亀裂先端から放出される先頭転位が遠距離まで移動することが可能なため,後続の転位に対する逆応力が低下し,放出される転位数が抑制されずに塑性緩和能力を維持できるためである。ポップイン現象におけるΔhは,亀裂先端と同様に高い応力集中部からの転位射出の難易度を反映していると考えられるため,Δhが小さくなることは転位が放出される本数が低下することを意味し,亀裂遮蔽効果が小さいことを示唆する。本研究で得られた固溶炭素濃度の上昇によるΔhの低下は,マクロな脆化傾向を反映している可能性があると考えられる。非常に希薄な固溶炭素濃度の試料を用いて破壊現象を調査した報告として,Matsuiら42)による超高純度鉄を用いた低温脆性の研究が挙げられる。彼らは,残留抵抗比(RRRH)が2000以下の鉄と3600の鉄とを用い,高純度であるほど脆性-延性遷移温度が低下することを示している。これらの試料に含まれる不純物には炭素,窒素,酸素などの侵入型溶質原子が含まれ,固溶炭素原子のみの影響とは断定できないが,炭素や窒素が同様の効果を示すならば,本研究で得られた固溶炭素濃度の上昇によるΔhの低下はマクロな脆化傾向を反映している可能性があり,超高純度鉄の結果と整合する。
本研究では,ナノインデンテーション法で現れるポップイン現象に及ぼす固溶元素原子の影響を明らかにすることを目的に,固溶炭素濃度を定量的に評価したFe-C二元合金を用い,ポップイン現象に及ぼす微量固溶炭素原子の影響を調査し,以下の結論を得た。
(1)固溶炭素濃度の上昇に伴い,ポップイン現象の発生応力τcは上昇する。ポップイン発現の素過程を転位ループの核生成とするモデルに基づき,固溶炭素原子が転位ループの成長に対する抵抗となって,核生成に必要な外力を高めたためと考察される。
(2)ポップインの発生頻度は,固溶炭素濃度の上昇に伴って低荷重側のピーク位置はほぼ一定のままピーク高さが低下し,高荷重側新たなピークが現れる。低荷重側のピークは固溶炭素原子がほとんど関与しない機構に対応し,高荷重側のピークは固溶炭素原子や炭素クラスターの影響を受けた機構に対応すると考えられる。
(3)固溶炭素濃度の上昇に伴い,ポップイン発現時の変位バースト量Δhは低下する。固溶炭素原子によるΔhの低下は,ナノインデンテーションによる応力付与で活性化する転位源から放出される先頭転位の平均自由行程が短くなるためと考察される。1本当たりの転位が運動する際に消費するエネルギーが高まることや,固溶炭素原子が交差すべり頻度を低下させることが理由と考えられる。このことは,亀裂先端での転位生成に準えてモデル化できると考えられ,破壊靱性に対しても応用可能である。
本研究における試料作製および固溶炭素濃度の測定にあたっては,大阪府立大学教授沼倉宏先生にご協力頂いた。ここに記して感謝の意を表す。