2020 Volume 106 Issue 6 Pages 352-361
The precipitation of iron carbides is a crucial factor that determines the properties of tempered martensite. However, the effect of alloying elements on the carbon concentration of ε carbide has not yet been clarified. In this work, we studied the effect of alloying elements on the carbon concentration of ε carbide using first-principles calculations and a three-dimensional atom probe. The first-principles calculations showed that ε carbide with a lower carbon concentration tends to form by the inclusion of Si. The carbon concentration in ε carbide measured by the three-dimensional atom probe was consistent with the first-principles calculations.
オーステナイトの急冷によって生成されるマルテンサイトには過飽和炭素と合金元素が含まれる。その上,マルテンサイトは高い転位密度と微細ミクロ組織で特徴づけられる。そのため,マルテンサイトの強化は固溶強化,転位強化,結晶粒微細化強化によって起こると考えられる。マルテンサイトは靱性向上のために焼戻しが通常施される。固溶強化や転位強化によって得られている強化量は焼戻しによって低下する。それと同時に,合金元素を含む鉄炭化物の析出が起こる。炭化物の析出はその析出初期においては強化をもたらす。しかし,長時間の焼戻しは析出物の凝集による強度低下を引き起こす。従って,析出は焼戻しマルテンサイトの特性を決める上で重要な因子である。
最近の研究ではη炭化物やχ炭化物についても調べられているが1–3),ε炭化物とセメンタイトは焼戻し中に生成される典型的な析出物である4)。これらの炭化物の生成は合金元素の影響を受ける。セメンタイトの生成やε炭化物からセメンタイトへの遷移はSi添加によって妨げられることが知られている5–9)。SaitoらはSiがε炭化物の核生成サイトの数を減少させることで,フェライト中のε炭化物の数を減少させると報告した10)。一方,Miyamotoらはマルテンサイトにおけるε炭化物の生成はSiとMnの添加によって影響を受けないと報告した11)。つまり,これらの実験は母相や炭素濃度が異なっているものの,鉄炭化物の生成に対するSiの影響の見解が異なっている。3次元アトムプローブ(3DAP)で測定されたセメンタイトの炭素濃度は平衡状態のセメンタイトに予想される値25 at.%に近い12)。しかし,ε炭化物は焼戻し中に準安定に生成されるため,ε炭化物の炭素濃度は明らかにされていない。ε炭化物の炭素濃度を決めるために多くの試みがなされているが,その値は25 at.%と33 at.%の間でばらついている4)。その上,最近の3DAPを用いた観察では上記の論文に比べて低い値が報告されている。例えば,Miyamotoは0.6 wt.%Cと2.0 wt.%Siを含む焼戻し鋼においてε炭化物の炭素濃度が19-25 at.%であることを示した13)。Clarkeらは油焼き入れしたマルテンサイトのミクロ組織中の炭素クラスターの炭素濃度が12-14 at.%であるとした12)。しかし,炭素濃度に対する合金元素の影響についてはこれまで明らかにされていない。
鉄炭化物に対しては数多くの理論的な研究がなされている14–19)。FangらはFe2Cの結晶構造と安定性の関係について調べ15),ε-Fe2.4Cの高安定性と,ε-Fe2.4Cからχ-Fe5C2とθ-Fe3Cへの遷移に必要なε-Fe2.4C,χ-Fe5C2,θ-Fe3Cの構造の相関を見出した。Shangらはε-Fe6Cx(x=0, 1, 2, 3)の相安定性の計算からε炭化物中のC原子間には反発力が生じることを示した17)。JangらはSi置換によるε-Fe2.4Cの不安定化を見出した18)。しかし,ε炭化物の炭素濃度に対する合金元素依存性については理論的にも明らかにされていない。そこで,本研究においては,ε炭化物の炭素濃度に対する合金元素の影響に焦点を絞った。ε炭化物の安定性に対する合金元素と炭素濃度の影響を調べるため,第一原理計算を実施した。ε炭化物とη炭化物のエネルギー差は僅かであることから15),η炭化物の第一原理計算は実施しなかった。また,焼戻しマルテンサイト中のε炭化物の炭素濃度の合金元素依存性を3DAPによって観察した。
密度汎関数理論20,21)を基にしたProjector-Augmented-Wave(PAW)法22,23)を採用しているVienna Ab-initio Simulation Package(VASP)24,25)を用いた。交換相関エネルギーにはPerdew-Burke-Ernzerhof(PBE)の一般化勾配近似を用いた26)。波動関数のカットオフエネルギーは400 eVとした。Monkhorst Pack27)の9×9×9の逆格子点メッシュと0.2 eV幅のMethfessel-Paxton smearing28)を用いて占有状態の積算を行った。構造最適化における各原子にかかる力の閾値を0.02 eV/Åとした。構造最適化後に,Blöchl補正を用いた四面体法によって全エネルギーを算出した。
ε炭化物の結晶構造をFig.1に示した。ε炭化物の計算はFe11MCx(M=Fe, Si, Mn)(x=3, 4, 5)の単位胞で実施した。炭素サイトの占有率は文献4)を参考にして決定した。CI,CII,CIIIの占有率は,Fe11MC3に対してCI=1,CII=1/2,CIII=0,Fe11MC4に対してCI=1,CII=1,CIII=0,Fe11MC5に対してCI=1,CII=1,CIII=1/2とした。

Crystal structure of ε carbide. (Online version in color.)
本研究ではFe-0.6 wt.% C-1.0 wt.%MnとFe-0.6 wt.%C-1.0 wt.%Mn-2.0 wt.%Siを使用した。合金の化学成分をTable 1に示した。熱間鍛造,1280°Cの均質化処理,熱間圧延,表層脱炭層研削,冷間圧延が施された合金に,以下の熱処理を行った。1100°C,240秒のオーステナイト化熱処理後,マルテンサイト変態温度域を1100°C/s以上の速度で冷却し,液体窒素温度でサブゼロ処理を行った。加えて,100-700°Cの温度で1200秒の等温焼戻しを行い,室温まで空冷した。
| C | Mn | Si | P | S | N | Fe | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 0.6C | 0.59 | 1 | <0.02 | <0.02 | 0.001 | 0.0033 | bal. |
| 0.6C-2Si | 0.64 | 1 | 2 | <0.02 | 0.001 | 0.0028 | bal. |
鉄炭化物の析出挙動を3DAPと電界放出型透過電子顕微鏡(TEM)で観察した。TEM観察は日立HF2000を用い,印加電圧200 kVで行った。3DAP観察にはCAMECA LEAP4000XHRを用いた。試料温度50 Kにて,レーザーエネルギー30 pJのパルスレーザーモードで解析を実施した。焼戻しマルテンサイト試料中には複数の炭素濃化領域が3DAPで観察された。炭化物中の炭素濃度は以下の手順によって求めた。まず始めに,IVASソフトウェアを用いて炭素濃化領域を横切る円柱形状の領域を設定し,0.5 nmステップで円柱の長手方向に沿った一次元濃度プロファイルを求めた。ここで解析用円柱の直径は,炭素濃化領域の大きさよりも十分小さい値を選択し,炭化物サイズに応じて2-8 nmに設定した。次いで,個々の濃度プロファイル(Fig.14)を描き,横軸の長さ方向に炭素濃度がほぼ一定になっている領域の炭素濃度を炭化物の炭素濃度とした。
鉄炭化物の生成エンタルピーHfは式(1)で定義される。
| (1) |
ここでH[ ]は括弧内の化学単位の全エネルギーであり,MはFe,又は,合金元素である。H[M]とH[C]の全エネルギーはbcc鉄に固溶したMとCのエネルギーとして,次のように定義した。
| (2) |
| (3) |
炭化物の生成エンタルピーの計算結果をFig.2に示した。炭素濃度の高い炭化物は負に大きい生成エンタルピーを示す。これは,文献17)に述べられているように,炭素濃度の増加が鉄炭化物の生成を促進することを示している。言い換えれば,鋼中のC原子は固溶するよりは鉄炭化物として析出する傾向にある。これは焼戻しによって過飽和の炭素を含むマルテンサイト鋼中に炭素クラスターや炭化物が生成するとの実験観察と合っている。Fe12C3の平衡体積での生成エンタルピーは,ε炭化物がセメンタイトよりも安定であることを示している。しかし,炭素濃度25 at.%,つまり,Fe12C4ではセメンタイトがε炭化物よりも安定であることを示している。従って,ε炭化物はセメンタイトと比べてより炭素空孔を含有しやすい傾向にある。Fe12C4からFe12C3への炭素濃度低下に対するε炭化物の平衡体積の減少が-3.1%であるのに対して,セメンタイトはその半分である。炭素濃度低下に伴うε炭化物の体積減少はFe原子層間距離の違いに起因している。

Carbon concentration dependence of the formation enthalpy of ε carbide and cementite as a function of unit cell volume. The vertical solid and dashed lines correspond to the volumes of Fe12 and Fe12Va1, respectively. (Online version in color.)
Fig.2中の縦の実線と破線は,それぞれ,Fe12とFe12Va1に相当している。ここでVaはFe原子の副格子の空孔である。空孔による体積減少を無視できるとの仮定の下で,Fe12Va1の体積はFe12と1つの空孔の体積の和と等しいとした。Fe12Va1は転位のような欠陥による引張歪場とみなすこともできる。Fe12の体積でのFe12Cxの生成は均一核生成による析出に相当し,一方,空孔や転位での不均一核生成はFe12Va1の体積で起こると考えることができる。実際の空孔濃度は1/13に比べて圧倒的に小さいため,この場合はFe原子の副格子の空孔数の極限に相当する。つまり,核生成サイトの歪量はFe12での均一核生成とFe12Va1での不均一核生成の間にあると考えられる。Fe12Va1の体積ではFe12C3(ε)の生成エネルギーはFe12C3(θ)に比べて低く,つまり,Fe12C3(ε)は空孔や引張歪場のある核生成サイトで優先的に生成される。高い炭素濃度,つまり,Fe12C4において,優先的に生成する析出物はFe原子の副格子の空孔数に関わらずセメンタイトである。
3・2 合金元素を含む鉄炭化物ε炭化物において,Fe12C4のFeサイトは全て等価であるが,Fe12C3とFe12C5には2つのFeサイトが存在する。Fe12C3の1つのFeサイトは非占有のCIIサイトの近傍に位置しており,ここではサイト1とする。もう1つのFeサイトは占有されたCIIサイトの近傍に位置しており,サイト2とした。Fe11MCx(M=Si, Mn)(x=3, 5)の全エネルギーをFig.3に示した。Fe11MC3ではSiはサイト2に比べてサイト1のFe原子と置換される傾向にある。これはSiが炭素空孔の近傍に位置しやすいことを示しており,bcc鉄中でSi原子とC原子の間に強い斥力相互作用が働くこと29)と同じである。一方,Fe11MnC3の全エネルギーはエネルギー差は小さいものの,Mnはサイト1のFe原子と置換するより,サイト2のFe原子と置換した方が安定であることを示している。これはMn原子とC原子の間の弱い引力相互作用を示している。bcc鉄においてMn原子とC原子の引力相互作用が実験30–33)と第一原理計算34–36)で得られている。Fig.3に示すようにSi原子とMn原子の優先置換サイトはFe11MC5においても類似の傾向が得られている。Si原子とC原子の結合が好まれないのはFe原子からの電荷移動によってC原子が負に帯電しているのと関係している。ε炭化物中のC原子の電子状態はFe原子に比べて低いエネルギーに存在する。C原子の電子状態のエネルギー位置はbcc鉄中37)と同様にFe原子からC原子への電荷移動に起因している。従って,ε炭化物中でC原子は負に帯電している。これはFe原子とC原子の価電子数が中性では14個と4個であるのに対し,ε炭化物中ではそれぞれ13.6個と4.6個であることで確認される。つまり,ε炭化物中でC原子はFe原子からの電荷移動によって負に帯電することで安定化されている。ε炭化物中のSi原子の電子状態は,Fig.4に示すように,C原子の電子状態に近いエネルギー領域に存在している。これはC原子がSi原子からの電荷移動では安定化されないことを示している。従って,Si原子はC原子の近傍には存在しにくい。一方,Mn原子の価電子数はFe原子に比べて少ないため,Mn原子の電子状態は,Fig.4に示すように,Fe原子の電子状態に比べて高いエネルギー領域に存在する。従って,C原子がMn原子からの電荷移動によって安定化され,Mn原子とC原子が近接することになる。合金元素M原子とC原子との相互作用は合金元素M原子とC原子との原子間距離にも反映される。Fe11MCx(M=Si, Fe, Mn)(x=3, 4, 5)においてM原子が優先置換サイトに位置した時のM原子とC原子の第一近接原子間距離をFig.5に示した。Si原子とC原子の原子間距離はFe原子とC原子の原子間距離に比べてかなり長く,Mn原子とC原子の原子間距離はFe原子とC原子の原子間距離に近い。

Variation of the total energies of the ε carbide (a) Fe11SiC3, (b) Fe11MnC3, (c) Fe11SiC5 and (d) Fe11MnC5 with volume. (Online version in color.)

Density of states of the ε carbide (a) Fe11SiC4 and (b) Fe11MnC4. (Online version in color.)

First nearest neighbour bond lengths between M and C atoms for the preferred M location of the ε carbide Fe11MCx (M=Si, Fe, Mn) (x=3, 4, 5). (Online version in color.)
Table 2はMn原子の近接位置にC原子が1つある場合にのみ,そのMn原子のスピンの向きがFe原子と反対向きになることを示している。Mn原子はbcc鉄中ではFe原子と反対向きのスピンを持ち,C原子もbcc鉄やε炭化物の中でFe原子と反対向きのスピンを持つ。ところが,bcc鉄中でC原子の近傍のMn原子はC原子と反対向きのスピン36),つまり,Fe原子と同じ向きのスピンを持つ傾向にある。従って,Mn原子のスピンの向きはFe原子とC原子との相互作用の競合によって決まる。結果として,Mn原子のスピンの向きは炭素濃度と置換サイトに依存する。Table 2に示すように,近接C原子の多いMn原子はFe原子と平行なスピンを持つ。近接C原子が少ないMn原子の磁気モーメントは大きな値となる。単位胞は炭素濃度上昇とともに膨張するため,Fe11MnCx(x=3, 4, 5)の中で2つの近傍C原子を持つMn原子の磁気モーメントの違いは平衡体積に因っている。単位胞体積が大きいほど磁気モーメントが大きくなるのは磁気体積効果によるものである。
| Mn1 | Mn2 | |
|---|---|---|
| Fe11MnC3 | –2.56 (1) | 2.19 (2) |
| Fe11MnC4 | 2.25 (2) | |
| Fe11MnC5 | 2.42 (2) | 1.99 (3) |
セメンタイトFe11MC4(M=Si, Mn)の全エネルギーをFig.6に示した。セメンタイト中でSi原子とMn原子はWyckoff位置の8dと4cに置換することができる。過去の文献19)と同様に,Si原子とMn原子のいずれにおいても8dサイトへの置換が4cサイトへの置換に比べて安定である。8dサイトと4cサイトの近接C原子数はそれぞれ3個と2個である。Si原子は近接C原子の少ない4cサイトよりも,近接C原子の多い8cサイトに置換されやすい。これはε炭化物中の優先置換サイトとは異なっているように見える。Fig.7に示すように,8dサイトのFe原子と近接C原子との距離の内の1つは2.39 Åであり,残りの2つの距離1.99 Åと2.00 Åに比べてかなり長い。Si原子と近接C原子との距離は2.16,2.21,2.64 Åと長くなる。4cサイトのFe原子と近接C原子との距離は1.96 Åと1.99 Åである。これらの結合距離はSi原子の置換によって原子間距離が3-4%長くなり,2.04 Åと2.05 Åになる。8dサイトにSi原子が置換された際には原子間距離は8%以上長くなっており,4cサイトに置換された場合に比べて置換による原子間距離の増加率が大きい。言い換えれば,セメンタイト中のSi原子の置換サイトはSi原子とC原子の間の結合数ではなく,原子間距離によって決められている。セメンタイト中のMn原子の優先置換サイトは近接C原子の数で決まり,ε炭化物と同様である。8dサイトにMn原子が置換された場合にはMn原子とC原子との原子間距離は僅かに短くなるが,Mn原子が4cサイトに置換された場合には逆に長くなる。

Variation of the total energies of the cementite (a) Fe11SiC4 and (b) Fe11MnC4 with volume. (Online version in color.)

First to third nearest neighbour bond lengths between M and Catoms of cementite Fe11MC4 (M=Si, Mn, Fe). M atom is located at (a) 8d or (b) 4c site. (Online version in color.)
bcc鉄と鉄炭化物との間の合金元素の分配エンタルピーは以下のように計算される。
| (4) |
| (5) |
平衡体積でのbcc鉄と鉄炭化物との間の合金元素の分配エンタルピーはFig.8に示すように,SiとMnで逆の傾向を示す。Siはε炭化物やセメンタイトに分配されにくい。そして,Siの分配エンタルピーには炭素濃度依存性を見ることができる。炭素濃度20 at.%のε炭化物におけるSiの分配エンタルピーは0.62 eVであるが,炭素濃度25 at.%では炭素濃度20 at.%の2倍程度になる。前述のように,Si原子はε炭化物中の炭素空孔の近傍に置換しやすい。Si原子の優先置換サイト,つまり,炭素空孔の近接サイトが高炭素濃度の鉄炭化物で少なくなることと,Siの分配エンタルピーが炭素濃度上昇に伴って増加することは関係している。低温焼戻し時のパラ平衡で析出する析出物は母相と同程度の合金元素を含有している。つまり,Siを含有する鉄鋼材料中にパラ平衡で析出する析出物にはSiが含有されているはずである。その場合,高炭素濃度のε炭化物はSiの分配エンタルピーが高いので,低炭素濃度のε炭化物が生成する傾向にあると考えられる。Mnの分配エンタルピーの絶対値はSiに比べて小さいが,Mnの分配エンタルピーは負であり,Mnの分配による鉄炭化物の安定化をもたらすと考えられる。そして,ε炭化物はMnによって炭素濃度に関係なく安定化される。

Partitioning enthalpy of Si and Mn between bcc iron and iron carbide at the equilibrium volume. (Online version in color.)
合金元素を含む鉄炭化物の生成可能性を調べるため,平衡体積での生成エンタルピーをFig.9に炭素濃度の関数としてプロットした。図中には,炭素濃度25 at.%でのセメンタイトの生成エネルギーと,炭素濃度0 at.%,100 at.%での原点を直線で結んである。炭素濃度100 at.%での原点は固溶炭素のエネルギーに相当する。炭素濃度25 at.%以下の線は,析出物が存在するか,それとも,bcc鉄とセメンタイトに分解するかの閾値を示している。炭素濃度25 at.%以上の線は,析出物が存在するか,それとも,セメンタイトと固溶炭素に分解するかの閾値を示している。合金元素を含まない鉄炭化物では,炭素濃度25 at.%のセメンタイトと炭素濃度29 at.%のε炭化物が生成しうるが,炭素濃度20 at.%のε炭化物は不安定である。いずれの炭素濃度においても,最も安定な鉄炭化物は合金元素添加によって変わらない。しかし,ε炭化物とセメンタイトのエネルギー差は合金元素によって影響を受ける。このエネルギー差はε炭化物からセメンタイトへの遷移と関係している。炭素濃度20 at.%でのSiを含有しないε炭化物と破線とのエネルギー差は0.043 eV/atomであるのに対して,Siを含有するε炭化物と赤実線とのエネルギー差は0.013 eV/atomである。従って,bcc鉄と炭素濃度25 at.%のセメンタイトの二相状態との比較で,Si置換が炭素濃度20 at.%のε炭化物を安定化する。また,Si置換は炭素濃度29 at.%のε炭化物を不安定化する。このことは鉄炭化物がSiを含有しにくいとの前述の結果と合致している。そして,Si含有によってε炭化物の炭素濃度が25 at.%以下になると考えることができる。炭素濃度20 at.%と29 at.%のε炭化物はMn置換によって安定化される。

Formation enthalpy of Fe11MCx (M=Si, Mn) (x=3, 4, 5). (Online version in color.)
Fig.10は200°Cと400°Cで焼戻しされた0.6C試料と400°Cで焼戻しされた0.6C-2Si試料のTEM像と析出物のナノ回折パターンである。0.6C試料においては,200°Cの焼戻しでマルテンサイト中の転位に析出した微細なε炭化物が観察され(Fig.10(a)),400°Cでの焼戻し後にはα鉄の〈110〉方向に延びた大きなセメンタイト(θ炭化物)が確認された(Fig.10(b))。転位でのε炭化物の優先析出は,ε炭化物が転位や空孔のところに生成しやすいとした理論からの考察と合致する。Fig.10(c)に示されるように,0.6C-2Si試料では400°Cでの焼戻し後にε炭化物が観察されている。また,300°Cの焼戻しではε炭化物とセメンタイトが共存していることがFig.11から分かる。セメンタイトとε炭化物は異なる位置に存在するので,セメンタイトがε炭化物とは別に析出した可能性がある。ε炭化物と母相との方位関係は[1120]ε//[001]αと[0002]ε//[110]αに近い。炭化物が延びている方向は,ε炭化物が〈100〉α,セメンタイトが〈110〉αであり,文献4)で報告されているものと合致していた。700°Cで焼戻しされた試料ではセメンタイトだけが観察された。なお,今回,ε炭化物とした鉄炭化物の多くはη炭化物として指数付けすることも可能であった。

Bright-field TEM images (a-c), nano-beam diffraction patterns taken from the carbides indicated by arrows (d-f), and corresponding diagram of (g-i) showing the existence of ε-carbide or θ-carbide in 0.6C steel tempered at 200ºC (a,d,g), at 400ºC (b,e,h), and 0.6C-2Si steel tempered at 400ºC (c,f,i). In (a), carbides are observed on dislocation (region in the dotted line). Diamond mark in (g) shows reflections from magnetite formed on the specimens. (Online version in color.)

A bright-field TEM image (a), nano-diffraction patterns taken from the carbides indicated by arrows (b,c) and corresponding diagram (d,e) showing the coexistence of ε-carbide and θ-carbide in the matrix of 0.6C steel tempered at 300ºC. (Online version in color.)
400°Cで焼戻しされた0.6C-2Si試料の主な析出物は,過去の報告11)にあるように,ε炭化物である。Siを含有していない0.6C試料の400°Cの焼戻しでは安定炭化物のセメンタイトが主に観察されていることから,セメンタイトの生成がSi添加によって抑制されていることは明らかである。ε炭化物の平均サイズをFig.12に示す。ここで析出物のサイズはTEMでは円として,3DAPでは球と仮定してその半径を評価したものである。図に示すように,Si添加により鉄炭化物の成長が抑制されている。Fig.8は鉄炭化物中へのSiの分配が鉄炭化物を不安定化することを示している。核生成と成長のいずれが抑制されるのかを区別することは困難だが,鉄炭化物の不安定化は鉄炭化物の成長抑制を引き起こす可能性がある。

Size of iron carbides of the 0.6C and 0.6C-2Si specimens tempered at 100-400ºC determined by TEM and 3DAP. (Online version in color.)
Fig.13は3DAPで観察された鉄炭化物中の炭素比率を示している。200°Cで焼戻しされた0.6C試料のε炭化物の平均炭素比率は22.6 at.%であり,最近の3DAPによる観察結果とも整合している12,13)。一方,Siを2%含有した鋼のε炭化物の平均炭素比率は200°C焼戻し材で18.9 at.%であり,Si無添加鋼のε炭化物に比べて低い値を示した。更に,400°Cで焼戻しされた0.6C-2Si試料中のε炭化物の炭素比率も200°Cで焼戻しされた0.6C試料中のε炭化物の炭素比率に比べて低い。Fig.12で示されたように,400°Cで焼戻しされた0.6C-2Si試料中のε炭化物の平均サイズは,200°Cで焼戻しされた0.6C試料のε炭化物に比べて大きい。鉄鋼材料中の炭素凝集の炭素比率は焼戻し中に増加することが報告されている38)。一般的に,炭化物と母相の界面近傍での局所曲率の変化によって,炭素比率は小さいサイズの炭化物ほど低く見積もられる可能性がある。従って,ε炭化物の炭素比率はSi添加によって低下すると考えることができる。0.6C-2Si試料のε炭化物中のSiの濃度は母相領域と大きくは違わないことがFig.14から分かる。つまり,ε炭化物と母相の間でのSiの分配は400°Cの焼戻し中には殆ど起こらないと判断できる。鋼中での置換型元素と侵入型元素の拡散の大きな違いによって,侵入型元素のみが平衡状態になるパラ平衡の条件39)で,析出物が生成していると考えられる。従って,ε炭化物の低い炭素比率はε炭化物中にSiが含有されたことに起因している。

Carbon fractions in iron carbides observed for (a) 0.6C and (b) 0.6C-2Si specimens tempered at 200-700ºC determined by 3DAP.

Carbide interfaces defined by isoconcentration surfaces of 8 at% C, and the concentration profile of C, Si and Mn across the selected interfaces for 0.6C tempered at 200ºC (a,d) and 400ºC (b,e), and 0.6C-2Si tempered at 400ºC (c,f). Diameter of cylinder box set for the analysis of 1D concentration profile, dcylinder, is 3 nm or 8 nm. (Online version in color.)
以上をまとめると,実験的に得られた炭化物中の炭素比率は,理論的に評価した合金元素を含むε炭化物の安定性の炭素濃度依存性と整合することが示された。また,Si原子とC原子の間の斥力相互作用からSi添加による低炭素濃度のε炭化物の安定化を議論した。理論的に得られた安定性が実験的に観察されたことから,鉄母相中の原子間相互作用が鉄炭化物中でも影響しうることが示された。
鉄炭化物の析出現象は焼戻しマルテンサイトの特性を決める重要な因子である。しかし,ε炭化物の炭素濃度に対する合金元素の影響は明らかにされていなかった。本研究では,ε炭化物の炭素濃度に対する合金元素の影響を第一原理計算と3DAPを用いて調べた。炭素濃度20 at.%でのSiの分配エンタルピーは炭素濃度25 at.%に比べてかなり小さい。そして,Si原子は炭素空孔の近傍に置換しやすい。つまり,Siの含有によって炭素濃度の低いε炭化物が生成しやすいことが第一原理計算から示された。ε炭化物の炭素比率は,0.6C試料に比べて0.6C-2Si試料が明確に低いことが3DAPで測定された。従って,第一原理計算と3DAPの結果はSi添加がε炭化物の炭素濃度を減少させる傾向にあることを示している。