2021 Volume 107 Issue 12 Pages 1085-1094
This paper presents an introduction of the relationship between the electrochemical properties of microstructures and pitting corrosion resistance of carbon steels in chloride-containing near-neutral pH environments. Recent investigations by micro-scale electrochemical measurements have been demonstrated that the pitting corrosion resistance of typical microstructures was ordered as follows: (high) as-quenched martensite > primary ferrite > pearlite (low). In the case of pearlite, it has been reported that pits proceeded along the lamellar structure consisted of Fe3C and ferrite. On the other hand, in the case of martensite, according to the studies based on the first-principles calculations, it has been proposed that the superior corrosion resistance was related with the electronic interaction between Fe and interstitial C. It was reported that the electronic density of states of Fe around the Fermi level decreased by the presence of interstitial C.
1. 緒言
炭素鋼は現代社会を支える基幹材料であり,大型の建築物や橋梁などのインフラストラクチャーに広く用いられている。したがって,炭素鋼の腐食機構を理解することは,鋼構造物の長寿命化や維持管理コストの低減において重要である。炭素鋼は,基本的には鉄(Fe)と炭素(C)の合金であり,熱処理によりCの存在状態を変化させることで,マルテンサイト,パーライト,フェライトなどの多様な金属組織を作製することができる1)。マルテンサイトはFeにCが過飽和に固溶したものであり,高強度であることが特徴である。パーライトはフェライト(αFe)とセメンタイト(炭化鉄,Fe3C)のラメラ状組織であり,伸線加工により強度と靭性を共に向上させることができる。フェライトは他の金属組織に比べ塑性変形能に優れている。これらの多様な金属組織を使い分けることで,炭素鋼では用途に応じた機械的特性を確保することが可能となっている。
ところで,炭素鋼の金属組織は耐食性にも影響を及ぼすことが知られている2–7)。たとえば,酸性環境での炭素鋼の耐食性は,フェライト,パーライト,マルテンサイトなどの金属組織で異なり3),セメンタイトの量が多いほど全面溶解での腐食速度が増加することが知られている2,4)。しかし,pHが中性付近の環境での局部腐食においては,金属組織の影響が酸性環境とは異なることが,近年の研究で明らかにされている。炭素鋼の多くは大気腐食環境で使用されており,腐食の初期形態は塩化物イオンによる孔食8,9)であることが多い。したがって,耐孔食性と金属組織との関係に関する最近の研究成果を整理しておくことは有益であると思われる。近年,マイクロ電気化学計測10,11)や第一原理計算12–14)などの新しい研究手法を用いて,炭素鋼の金属組織と孔食発生・成長挙動との因果関係が調べられている。本稿では,そのような新しい研究手法を紹介すると共に,著者らの研究を中心に,炭素鋼の孔食発生機構と高耐食化に向けた取り組みについて概観する。
炭素鋼の金属組織と孔食の発生・成長との関係を解析するためには,個々の金属組織のみからなる微小な試験面を使用するマイクロ電気化学計測が有用である15–18)。腐食は金属が溶解するアノード反応と,水溶液中の化学種によるカソード反応による複合電極反応である。したがって,金属の耐食性を評価するためには,分極曲線を計測して電流密度と電位との関係性を電気化学的に評価・解析することが不可欠である。また,金属材料のミクロ組織のどのような場所が孔食の起点となるのかを解析するためには,水溶液中で試験片表面をその場観察することが必要である。すなわち,金属組織と孔食との関係を把握するためには,孔食の発生・成長段階の形態的な特徴や経時変化を分極挙動と対応させて解析することが重要である。その際,試験面全体を観察するためには,微小な電極面が必要である。従来の腐食研究では,一般的に約10 mm四方の比較的大きな電極面が試料として用いられているが,試験面全体を高い分解能で,しかもリアルタイムで観察することは困難である。さらに,複相や複合組織の鋼では,試料電極面内に複数の相や組織が含まれることとなり,電流が試験面内のどの部分を流れたものかが不明であるため,分極曲線から金属のミクロ組織の電気化学特性を解析することも困難である。さらに,炭素鋼などの鉄鋼材料ではMnSなどの介在物が局部腐食の起点となりやすいことが知られている15–18)。約10 mm四方の大きな電極面では介在物が含まれる確率が高くなり,金属組織ではなく介在物の耐食性を評価してしまう可能性もある。
このような課題の解決にはマイクロ電気化学計測が非常に有用である19–26)。マイクロ電気化学計測とは,材料表面の微小な領域について電気化学計測を行う手法であり,電極面積は一般に約100 μm四方かそれ以下のサイズである。電極面積が微小であるため,結晶粒の大きさによっては単一の金属組織のみを含む試料面を作製することができる。さらに,Chibaらによって開発された光学顕微鏡と水浸対物レンズを用いる手法によると,マイクロ電気化学測定中の試料表面を高い分解能でその場観察することが可能となり,分極曲線と腐食による表面の侵食形態を直接結び付けて解析することができる15–18)。
2・2 金属組織ごとの耐孔食性の違いマイクロ電気化学計測システムを用いて計測した機械構造用炭素鋼S45Cの分極曲線をFig.1に示す。この実験では,熱処理条件を変化させることで初析フェライトとパーライトからなる組織,焼入れままのマルテンサイト組織,および焼戻しマルテンサイト組織を作り分け,それらの組織のうち約100 μm四方の領域を試料電極面として測定を実施している27–30)。初析フェライトとパーライトからなる組織の場合は,初析フェライトのみからなる電極面とパーライトのみからなる電極面の二種類を作製している。前述したように,鉄鋼材料ではMnSなどの硫化物系介在物が起点となり,孔食が発生することが知られている15–18)。しかし,Fig.1の実験では,純粋に金属組織に依存する耐孔食性の違いを解析するため,介在物を含有しない微小な領域を試料電極面として選択している27–30)。溶液は,100 mMまたは500 mMのNaClを含むホウ酸-ホウ酸塩緩衝液(pH 8.0)とし,NaCl濃度が100 mMの場合(Fig.1a)には約-0.3 V(電位基準:Ag/AgCl,3.33 M KCl,以下同様)から,500 mMの場合(Fig.1b)には約-0.1 Vから動電位分極測定を開始し,23 mV min-1で電位を貴な方向に掃引している。NaCl濃度が100 mMの場合(Fig.1a),パーライトでは0 Vにおいて急激な電流密度の増加がみられる。この電流密度の増加は,塩化物イオンによる孔食の発生によるものである。これに対して,初析フェライトおよび焼入れままのマルテンサイトでは急激な電流上昇は見られず,孔食は発生しないことがわかる。なお,これらの試料では,1 Vより卑な電位域において電位の掃引にともなって電流密度が緩やかに上昇する挙動が見られるが,これは不働態皮膜が厚くなることに対応しており,孔食によるものではない。また,1 V付近から電流密度が大きく増加しているが,これは水の電気分解によるものであり,腐食によるものではない。NaCl濃度が500 mMの場合(Fig.1b),初析フェライトでは孔食発生にともなう電流増加が0.2 V付近で観察されるが,焼入れままのマルテンサイトでは孔食は発生しない。以上のように,炭素鋼の代表的な金属組織の耐孔食性は,(優)焼入れままマルテンサイト > 初析フェライト > パーライト(劣)の順に優れることがマイクロ電気化学計測により明らかにされている28)。また,Fig.1bには焼入れで作製したマルテンサイトを873 Kで15時間あるいは1時間焼戻した試料の分極曲線も示している29)。15時間の焼戻し試料では,孔食発生にともなう電流増加が約0.05 Vにみられるが,1時間の焼戻し試料では孔食は発生しない。このように,焼戻し処理はマルテンサイトの耐孔食性を低下させるが,短時間の焼戻し処理であれば焼入れままマルテンサイトと同等の優れた耐孔食性が維持される。ここで,Fig.1bの焼入れままマルテンサイトと1時間焼戻しマルテンサイトでは,不働態域において電流密度に差がみられる。不働態域におけるこのような電流密度の差も,金属組織の違いに起因すると考えられる。焼戻し試料には,焼戻しにより析出したFe3Cなどの炭化物が存在する一方,焼入れまま試料には炭化物は存在しない。このような金属組織の違いに由来する試料の表面状態が,不働態皮膜の形成しやすさにも影響をおよぼしているのではないかと予想される。
Potentiodynamic anodic polarization curves of the small areas consisting of as-quenched martensite, tempered martensite, primary ferrite, and pearlite in boric-borate buffer (pH 8.0) with (a) 100 mM and (b) 500 mM NaCl. Reproduced with permission from J. Electrochem. Soc., 164 (2017), C962. Copyright 2017 and J. Electrochem. Soc., 165 (2018), C711. Copyright 2018. The Electrochemical Society. (Online version in color.)
以上のように,炭素鋼の耐孔食性は金属組織に依存して大きく変化する。したがって,その原因を解明することができれば,合金元素の添加に頼らない,金属組織制御による鋼の高耐食化が可能になるものと思われる。
パーライトはFe3Cとフェライトからなるラメラ構造を有している。ここでは,初析フェライトとパーライト組織内のフェライトを明確に区別するため,パーライトのラメラ構造を構成しているフェライトを“フェライトラメラ”と呼称することとする。パーライト組織における孔食の発生・成長とラメラ構造の関係が,動電位分極中(23 mV min-1)の試料電極面のその場観察によって調べられている。Fig.2は,パーライト組織のみから構成される試料面におけるピット発生と,その形状変化を分極中に観察した光学顕微鏡像の時間変化として整理したものである27)。Fig.2aは,ピットが発生する直前の画像である。解析のため,このときの時間を0 sと定めている。Fig.2bに示すように,0.09 s後にピット(Pit Aと呼称する)が発生した。その際,ピットは円形である。その後,ピットは徐々に成長し,0.32 sまでの間に直径が3 μm程度になっている。0.32 sから0.92 sの間の挙動に着目すると,ピットは等方的に成長するのではなく,一定方向(Fig.2内の赤色矢印)に優先的に成長する傾向があることがわかる。そして,0.92 s以降はピットは全方位に,ほぼ等方的に成長している。
Optical microscopy images of the initiation processes of pit A in pearlite. Reproduced with permission from J. Electrochem. Soc., 164 (2017), C261. Copyright 2017, The Electrochemical Society. (Online version in color.)
パーライトでのピットが発生の初期段階において優先的に成長する方向は,パーライトのラメラ方向と同一であることが明らかにされている27)。Fig.3はピットの成長挙動(ピット間口の経時変化)を,分極測定前に撮影したピット発生位置の金属組織の画像(ナイタールエッチング後)と対応させたものである。Fig.2のPit Aに加え,他の箇所で発生したPit BとPit Cについても,金属組織とピット間口部の輪郭の経時変化を示している。すべてのピットにおいて,ピット間口部の成長方向はパーライトのラメラ方向に一致している。このように,パーライト中に発生したピットはラメラ構造に沿って成長することが見出されている。
Relationship between pearlite lamellae and pit growth directions: (a, c, e) microstructure before polarization and (b, d, f) changes in the outlines of the mouth of the pits. Reproduced with permission from J. Electrochem. Soc., 164 (2017), C261. Copyright 2017, The Electrochemical Society. (Online version in color.)
ところで,パーライトのラメラ構造を構成するFe3Cとフェライトラメラのうち,Fe3Cの溶解速度はフェライトよりも低いことが明らかにされている31,32)。Yumotoらは,1 mass% NaCl水溶液中でのFe3Cの溶解速度がフェライトのものよりも低いことを報告している31)。また,Tsuchiya らは,0.12 mass% Cを含む炭素鋼中のFe3Cの不働態域での溶解速度は,フェライトの溶解速度よりも低いことを報告している32)。著者らの研究でも同様の傾向が確認されている。Fig.4に,低温ガス浸炭処理33,34)により作製したFe3C試料と,フェライト試料の10 mM NaClを含むホウ酸-ホウ酸塩緩衝液中での動電位アノード分極曲線を示す35)。溶液のpHは8.0と6.0である。pH 8.0の場合(Fig.4a),フェライトでは-0.6 V付近に活性溶解による電流密度の上昇がみられる。その後,電流密度は低下して試料は不働態化するが,0 Vより貴な電位域において再び電流密度の増加がみられる。高い電位での電流密度の増加は,孔食の発生によるものである。Fe3C試料では,-0.3 V付近に活性溶解による電流密度の増加がみられるものの,フェライトの活性溶解電流密度と比較して一桁以上電流密度は低い。このように,Fe3Cはフェライトより活性溶解の速度が低く,不働態化しやすい。pH 6.0の場合(Fig.4b),フェライトには不働態化の兆候が見られない。これに対して,Fe3Cでは腐食電位が貴であることに加え,0 V付近でわずかに電流密度の低下がみられる。このように,フェライトが脱不働態化するような環境でも,Fe3Cは不働態状態に維持されるため,パーライト組織内で発生した孔食の成長に対して,障壁作用を示すものと考えられる。Fe3Cの活性溶解が抑制される原因として,Fe3C表面にCを主成分とする皮膜が形成されることなどが考えられている35,36)。また,Fig.4においてはフェライトとFe3Cのカソード電流の値にも差がみられるが,その原因や詳細は明らかとなっていない。
Potentiodynamic polarization curves of the Fe3C and ferrite in boric-borate buffer with 10 mM NaCl at (a) pH 8.0 and (b) pH 6.0. Reproduced with permission from J. Electrochem. Soc., 166 (2019), C345. Copyright 2019, The Electrochemical Society. (Online version in color.)
以上の研究知見より,Fig.2とFig.3において見られたパーライトのラメラ構造に沿ったピットの成長は,ピットの成長にともなってフェライトラメラが優先的に溶解する一方で,Fe3Cが溶解せずに残存したことに起因すると考えられる。すなわち,Fe3Cは,ピット発生の初期段階において,溶解せずに残存してピットの成長を妨げるバリアーの役割を果たす。したがって,パーライト鋼などにおいて,Fe3Cの形態を適切に制御することができれば,孔食の成長を初期段階で停止させる高耐食鋼を開発できる可能性もあると考えられる。
3・2 パーライトの孔食発生起点Fe3Cが孔食の成長を妨げるバリアーとなる一方,Fig.1に示したように,パーライトはその他の金属組織と比べて耐孔食性に劣る。これは,パーライトには孔食の起点となり得る硫黄(S)などの合金元素の偏析が存在するためであると考えられている27)。Fig.5に,初析フェライトとパーライトからなる試料についてEPMA(電子線マイクロアナライザ分析)による解析を行った結果を示す27)。Fig.5aは,EPMAによる解析を行う前の金属組織の観察画像(ナイタールエッチング後),Fig.5bから5 gは,Fig.5aに対応する領域のEPMAによる元素分析結果である。Fig.5bより,パーライト中にCの濃度が高い領域が縞状に存在していることがわかる。この領域はパーライトのFe3Cラメラに対応している。ここで,着目すべきは,パーライト中に点状のS 濃縮部が複数確認されることである(Fig.5dの矢印部分)。一方,初析フェライト中にはS濃縮部は存在しない。これらS濃縮部では,Mn濃度は必ずしも高くない(Fig.5c)。このことから,S濃縮はMnS介在物ではなく,Sの偏析によるものであると考えられる。Fig.5eは,SとCのEPMAマップの合成画像である。この画像はFig.5a中の正方形で囲んだ領域に対応している。Fig.5eにおいて,Sの高濃度部とCの高濃度部の位置は一致していない。したがって,パーライト中のS偏析の位置は,Fe3Cラメラ部ではなく,フェライトラメラ部に位置している。偏析したSはMnS介在物と同様に優先的に溶解し,その際,以下に示す加水分解反応によりS2O32-やSO42-のS系化学種とH+を生成すると考えられる37)。
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(a) SEM image and (b-g) EPMA mappings of the ferrite-pearlite structure: (b) C, (c) Mn, (d) S, (e) C and S, (f) P, and (g) Si; (e) is a color-composite image of C and S in the area surrounded by yellow lines in (a). Reproduced with permission from J. Electrochem. Soc., 164 (2017), C261. Copyright 2017, The Electrochemical Society. (Online version in color.)
このような反応により生じる局部的なpH低下とS系化学種の存在が脱不働態化を促進し,再不働態化を阻害することが,フェライトラメラのS偏析が孔食の発生起点となる原因であると考えられる27)。なお,合金元素の偏析部では不働態皮膜の形成が阻害され,局部腐食が発生しやすくなるという報告38)や,偏析部では周囲と比較して腐食電位などの電気化学特性が異なり,局部腐食の発生が促進されるという報告37)もある。
Fig.1で見られるように,パーライトの耐孔食性が低いのは,このようなS偏析が原因であると考えられる。なお,リン(P)などもパーライトに偏析する可能性があり39),孔食の起点となりやすいと考えられている38)。一方,フェライト-パーライト鋼中の初析フェライトには,S偏析などは生じにくいことがKadowakiらの解析によりわかっている28)。初析フェライトがパーライトに比較して耐孔食性に優れるのは,これが原因であると思われる。マルテンサイトにもS偏析は形成されにくい28)。このように,偏析の生じやすさと,炭素鋼の金属組織ごとの耐孔食性の間には密接な関連がある。熱処理条件を適切に制御することで偏析を低減できるという報告もあり40),耐食性にとって有害な元素の偏析を低減できる技術の開発が望まれる。
Fig.1に示したように,焼入れままのマルテンサイトは長時間焼戻したマルテンサイトや初析フェライトよりも耐孔食性に優れている。最近の研究によると,焼入れままのマルテンサイトの優れた耐孔食性は,固溶Cに起因していると考えられている28)。マルテンサイトはオーステナイト域から炭素鋼を急冷することで得られる金属組織であり,bct型のFe格子中に固溶Cが存在している。一方,マルテンサイトを焼戻すことで,炭化物の析出が起こり,固溶C 濃度が低下する。焼戻しの時間を長くするほど,固溶C濃度は低下することになる。
マルテンサイトの腐食挙動に及ぼす固溶Cの影響を解析するため,低Cマルテンサイトと高Cマルテンサイトの耐食性を比較した研究が行われている41)。低Cマルテンサイトは空気中で炭素鋼を長時間加熱することで表面領域を脱炭した後,オーステナイト域から急冷して作製されたものであり,高Cマルテンサイトはそのような脱炭処理を経ずに作製されたものである41)。Fig.6に,低Cおよび高Cマルテンサイト試料の50 mMフタル酸水素カリウム溶液(pH 4.0)中での分極曲線を示す41)。どちらの試料も,電位の掃引に伴い電流密度が大幅に増加していることから,試料表面では活性溶解が生じていると考えられる。同じ電位における電流密度を比較すると,高Cマルテンサイトの活性溶解の電流密度は,低Cマルテンサイトのものよりも低い。このように,固溶Cはマルテンサイトの活性溶解を抑制することが見出されている。固溶Cによる活性溶解の抑制は,炭素鋼以外のFe基合金で広く確認されいる。Chibaらは,0.1 M Na2SO4含有0.05 M Na2B4O7緩衝液(pH 10.0)中で分極測定を行い,Fe-33Mn-xC鋼(x:0.0,0.3,0.6,0.8,1.1 mass%)の溶解速度が固溶C濃度の増加とともに低下することを報告している42)。鉄鋼材料に浸炭処理を行い,固溶C濃度を高くすることで耐孔食性が向上するという報告も多数存在する43–50)。例えばSunは,浸炭処理を行ったSUS 316Lステンレス鋼の分極挙動を0.5 M NaClおよび0.5 M HCl-0.5 M NaCl中で測定し,浸炭処理により耐食性が向上することを明らかにしている45,46)。Heuerらは,Type 316Lステンレス鋼にガス浸炭を施すことで,0.6 M NaCl中での耐摩耗性と耐孔食性が向上することを見出している47,48)。孔食の発生は局所的に不働態皮膜が破壊されて活性溶解が生じることではじまり,その後の成長は再不働態化を阻害する活性溶解の継続によるものである。したがって,耐孔食性は鋼の活性溶解特性に強く依存する。Fig.1で見られるようなマルテンサイトの優れた耐孔食性は,固溶Cによる鋼の活性溶解の抑制によるものと結論づけられている。
Potentiodynamic polarization curves of the high and low C martensitic specimens in 50 mM potassium hydrogen phthalate (pH 4.0). Reproduced with permission from Corros. Sci., 163 (2020), 108251. Copyright 2019, Elsevier. (Online version in color.)
以上のように,固溶Cを多量に含有するマルテンサイトでは,固溶Cにより活性溶解の速度が低下する。Kadowakiらは,高Cマルテンサイトに見られる活性溶解の抑制には,固溶Cの存在にともなうFeの電子構造の変化が密接に関連していると考えている41)。Fig.7に,低Cマルテンサイトと高CマルテンサイトのX線光電子分光法(XPS)によるFe 2pスペクトルを示す41)。いずれも,十分にスパッタリングを行い真空中で酸化皮膜を除去した後に測定を実施したものである。Fig.7bはFig.7aのうちの灰色の背景の部分を拡大したグラフである。Fig.7b中の点線はFe 2pスペクトルのピーク位置を示している。高Cマルテンサイトのピークは,低Cマルテンサイトのものよりも高エネルギー側に位置しており,固溶Cが多量に存在する場合,Feの2p軌道の電子の結合エネルギーが高くなることが明らかである。このことより,固溶CはFeの電子構造を変化させる可能性があると推察される。Chibaらも,鋼の仕事関数が,固溶C濃度にともなって変化することを報告しており42),Fe原子と固溶C原子の間には,比較的強い相互作用が存在することが示唆される。また,Sunは,SUS 316Lステンレス鋼の表面の電気化学的な反応活性が固溶C濃度に依存することを明らかにしている45,46)。上述の研究はオーステナイト組織を有する鉄鋼材料に関するものであるが,Fig.7の結果から,炭素鋼のマルテンサイトにおいても,固溶CはFeの電子構造に影響をおよぼし,その結果,活性溶解速度などの電気化学反応特性が変化している可能性がある。
Fe 2p X-ray photo electron spectra of the high and low C martensitic specimens. (b) is an enlarged graph around the gray-colored region in (a). Reproduced with permission from Corros. Sci., 163 (2020), 108251. Copyright 2019, Elsevier. (Online version in color.)
マルテンサイト中の固溶CがFeの電子構造に及ぼす影響を詳細に解析するため,第一原理計算による解析が実施されている。第一原理計算とは,シュレディンガー方程式に則って物質の熱力学的パラメータや電子構造など,様々な特性評価を行う計算手法である51–53)。腐食科学以外の分野では,鉄鋼材料の諸特性に及ぼす固溶原子の影響の解析に応用されている54–56)。例えば,Ohtsukaらは,マルテンサイト鋼の軸比や磁気モーメントの固溶Cによる変化を調査している54)。Abbasiらは,オーステナイト鋼の積層欠陥エネルギーに及ぼす固溶Cの影響を解析している55)。第一原理計算を用いれば,Fe格子中におけるCやBなどの合金元素の安定位置を検討することも可能である56)。
本稿では,第一原理計算として密度汎関数理論(Density Functional Theory,DFT)に基づき,Vienna Ab-initio Simulation Package(VASP)を用いて行われた解析例を紹介する。計算条件はSaengdeejingらが用いたものと同一である57)。Projector Augmented wave(PAW)法58)により,スピン分極を考慮した一般化密度勾配近似(Generalized Gradient Approximation of Perdew-Burke-Ernzerhof,GGA-PBE)を適用した計算となっている59)。マルテンサイトと同じbct型のFeバルク相から構成されるスーパーセルを用い,固溶CはFe格子中の八面体位置に配置し計算が行われたものである41)。
第一原理計算によってFeの電子状態密度(Density of States,以降はDOSと記載)が算出されている。DOSとは,ある狭いエネルギー範囲において電子が占有できる状態数を示したものである。Fig.8に,純Feと5.88 at.%(1.33 mass%)の固溶Cを含むFeのDOSを示す41)。横軸は,フェルミ準位からのエネルギー差であり,フェルミ準位をゼロと定義したときのエネルギーである。フェルミ準位とは,電子が占有している最も高いエネルギー準位のことである。したがって,フェルミ準位よりも低いエネルギー準位は,電子により占有されている。一方,フェルミ準位より高いエネルギー準位は,電子が非占有の状態である。縦軸の状態密度の正と負の符号(値)は電子スピンの向きを示している。正の符号はmajority-spin,負の符号はminority-spinを示している。Fig.8bは,Fig.8aのフェルミ準位近傍を拡大したものである。Feの溶解反応も含め金属の電気化学反応(酸化・還元反応)には,電子伝導を担うフェルミ準位近傍の電子(価電子)が関与している60)。したがって,フェルミ準位近傍のDOSを解析することで,金属の電気化学的な反応活性を評価できると考えられる61–63)。言い換えると,フェルミ準位近傍のDOSが高い場合,金属は電気化学的な反応活性が高いと判断することができると思われる。これに対し,フェルミ準位近傍の状態密度が低いと,電気化学反応の活性も低く,反応速度定数などが小さな値になるものと考察される。マルテンサイトの活性溶解もFeの酸化反応であり,電気化学反応である。このため,フェルミ準位近傍のDOSから,Feの活性溶解の反応速度に及ぼす固溶Cの影響を推察することが可能であると思われる41)。
Electronic density of states of pure Fe and Fe-5.88 at.% C: (b) is an enlarged graph around the Fermi level. Reproduced with permission from Corros. Sci., 163 (2020), 108251. Copyright 2019, Elsevier. (Online version in color.)
Fig.8bにおいて,固溶Cの影響は,主にmajority-spinのDOSにあらわれている。まず,フェルミ準位でのDOSを比較すると,固溶Cを含むFeの方が純Feよりも明らかに低い。さらに,固溶Cを含むFeと純FeのどちらのDOSにおいても,-1 eV付近にピークが存在しているが,固溶Cを含むFeではこのピークの高さが純Feのものよりも明らかに低くなっている。このことは,固溶CによりFeのフェルミ準位近傍の電子状態が減少したことを意味している。すなわち,固溶Cを含むFeの方が,純Feよりも,電子伝導に関与する電子が存在できるエネルギー準位の数が少ないと考えられる。フェルミ準位近傍の電子が電気化学反応に関与することを考慮すると,固溶CによるFeの電子構造の変化が,電気化学的な活性溶解速度の低下を生じているものと考察される。
Fig.9に,固溶Cを含むFeの格子面について,Bader解析の手法64)を用いて電荷密度分布を算出した結果を示す41)。固溶C原子とそれに近接するFe原子の間には,Fe原子-Fe原子間と比較して電荷密度の高い領域(白色の矢印で示した領域)が存在している。これは,合金化に伴いFe原子と固溶C原子の間で電荷の授受が行われたことを意味している。Fig.9における各原子の価電子数を解析すると,固溶Cに近接するFe原子の価電子数は7.8,固溶Cの価電子数は5.6であると算出されている41)。すなわち,固溶Cに近接するFeの価電子数は純Feの価電子数である8.0よりも約0.2小さく,固溶Cの価電子数は純Cの4.0よりも約1.6大きい。これらの結果は,合金化に伴いFe原子からC原子へ価電子が移行し,その結果,Fe原子の価電子数が減少したことを意味している。前述したように,フェルミ準位近傍の価電子がFeの電気化学反応に関与している。そのため,Feの価電子数が減少したということは,Feの電気化学反応に関与する電子の数が減少したということであり,Feの電気化学的な反応活性が低下することを意味していると考えられる。このような固溶CによるFeの電子構造の変化が,マルテンサイトの活性溶解を抑制し,優れた耐孔食性をもたらす要因のひとつであると考えられる。
Charge density distribution around the interstitial C. Reproduced with permission from J. Electrochem. Soc., 167 (2020), 081503. Copyright 2020, The Electrochemical Society. (Online version in color.)
ところで,マルテンサイト鋼は固溶C濃度が高いほど,強度は高くなるが靭性は低下する。そのため,実用的なマルテンサイト鋼のほとんどは,焼戻し処理を施した状態で使用されている。焼入れままのマルテンサイトは,Fe中にCが過飽和に固溶した状態であるが,焼戻し処理によりFe3Cの析出が起こり,固溶C濃度が低下し靭性が向上する。したがって,固溶C濃度を高くしてマルテンサイトの耐孔食性を向上させる場合,耐孔食性と靭性はトレードオフの関係になる。しかしながら,Fig.1bに示したように,焼戻しの時間を短時間にすることで,耐孔食性を維持しつつ,靭性も確保することが可能である29)。実際に,マルテンサイト組織を有するS45Cについて,焼戻し処理を行ったとしても,焼戻し時間を短くし,0.1 mass%程度の固溶C濃度を確保することで,NaClを含むホウ酸-ホウ酸塩緩衝液(pH 8.0)中での孔食発生を抑制できることが明らかにされている29)。さらに,Cと同様にFeに対する侵入型元素であるNを固溶させることも,炭素鋼の耐孔食性向上に効果的であることが明らかとなっている65)。
著者らの研究成果を中心にして,炭素鋼の金属組織と耐孔食性との関係についてレビューを行った。金属組織は炭素鋼の優れた機械的特性を発現する根源であるだけでなく,耐孔食性にも多大な影響をおよぼしている。鋼を高耐食化するため,従来は表面処理やCrをはじめとした希少元素の添加などの手法が主に用いられてきた。しかし,金属組織と腐食現象との関係性を,原子・電子レベルからマクロスケールまで系統的に解明することができれば,将来的には金属組織を制御することで耐孔食性を向上させるという新たな高耐食化原理の導出も可能であると期待される。近年は,結晶粒の微細化66)や第二相の微細析出による高強度化67)など,優れた機械的特性を発現させるためにナノレベルで複雑に金属組織を制御する材料設計が発展している。そのような微細で複雑な金属組織を有する鋼についても,腐食メカニズムの解明や耐食性の向上に向けた研究展開が望まれる。