2024 Volume 110 Issue 9 Pages 709-719
Crack initiation and propagation behavior in hydrogen embrittlement fracture of tempered martensitic steel at a low hydrogen content was compared with the results at a high hydrogen content. Notched specimens charged with a low hydrogen content of 0.18 ppm and a high hydrogen content of 5.3 ppm were stressed and unloaded immediately upon reaching the maximum stress in tensile tests. At the low hydrogen content, quasi-cleavage (QC) fracture was dominant at the notch tip, and mixed intergranular (IG) and QC fractures were observed away from the notch tip. A crack initiated in the prior γ grains at the notch tip and propagated along the {011} plane. The crack initiation site corresponded to the site of maximum equivalent plastic strain. The other crack initiating on the prior γ grain boundaries was observed at a site away from the notch tip. Microvoids were formed discontinuously inclined at about 45° to the tensile axis direction between these two types of cracks observed at the low hydrogen content. In contrast, at the high hydrogen content, cracks initiated on the prior γ grain boundaries away from the notch tip. The crack initiation site corresponded to the vicinity of the region where both the principal stress and hydrogen concentration were high. These findings indicate that crack initiation at the low hydrogen content is not necessarily consistent with the site of the maximum principal stress and the local hydrogen concentration, unlike the case of the high hydrogen content.
近年,高強度鋼ほど大気腐食に伴う微量な水素侵入1)によって引き起こされる水素脆化の懸念が高まっている。典型的な高強度鋼であるマルテンサイト鋼の水素脆化による破壊形態として,主にき裂が旧オーステナイト(γ)粒界に沿って進展する粒界(Interngranular:IG)破壊2,3,4,5)と旧オーステナイト粒内を進展する擬へき開(Quasi-qleavage:QC)破壊6,7,8,9,10,11,12,13)が報告されている。それぞれの破壊形態を引き起こす水素脆化破壊機構は異なる可能性が示唆されている。ミクロスケールでの水素脆化によるき裂発生およびき裂進展を直接的に観察し,各破壊形態を引き起こす主要因子を明らかにすることが重要である。
これまでに実験とシミュレーション解析を組み合わせて,ミクロスケールでのき裂発生,き裂進展,および破壊形態が調査されてきた。マルテンサイト鋼の水素脆化破壊には水素量,力学因子,そして組織因子が大きく関与していることが報告されている。き裂発生と破壊形態に関しては,切欠き付き引張試験片を用いて切欠き先端から僅かに離れた位置でき裂発生する塑性変形を伴わない応力支配型のIG破壊,および切欠き先端での局所塑性変形領域でき裂発生するひずみ支配型のQC破壊に分類される14)。Wangらは環状切欠きを付与した引張強さ1450 MPa級のAISI4135鋼に対して水素添加後の低ひずみ速度引張試験(Slow strain rate technique:SSRT)と有限要素法(Finite element method:FEM)による弾塑性解析を用いて,主応力と局所水素量の最大となる切欠き先端から僅かに離れた位置で粒界に沿ったき裂が発生する応力支配型のIG破壊が起きると報告している15)。さらに,ボロン添加焼戻しマルテンサイト鋼のSSRTにおいて,侵入水素量の低下に伴い破壊形態がIG破壊からQC破壊へ変化することを報告している16)。
しかし,大気暴露された引張強さ1300 MPa級の焼戻しマルテンサイト鋼のボルトが16年後に遅れ破壊した破面を観察した結果,き裂発生点はねじ底近傍の一か所からでなく複数か所から発生し,これらのき裂は破面上に段差を伴い互いに連結して進展した可能性が報告されている17)。応力負荷状態の焼戻しマルテンサイト鋼を大気暴露することで吸蔵される拡散性水素量は,最大で約0.2 mass ppm(以下,ppmと省略)程度であると報告されている18)。したがって,大気腐食で吸蔵されるレベルの低水素量1,18)におけるき裂発生とその後の進展に関して,従来の応力支配型とひずみ支配型で報告されているそれぞれ1か所からのき裂発生だけでは十分に説明できない可能性がある。
前報19)において,約5 ppm水素を添加した炭化物析出状態の異なる焼戻しマルテンサイト鋼の水素脆化によるき裂発生とき裂進展を観察し,力学因子と組織因子との関係を明らかにした。粒界に炭化物を析出させた低Si(0.34%C-0.28%Si)鋼においては,切欠き先端から僅かに離れた粒界三重点からき裂が発生し,一方,粒内に炭化物を析出させた高Si(0.32%C-1.88%Si)鋼では,切欠き先端の旧γ粒内からき裂が発生した。高水素量では主にIG破壊が生じるとの従来の報告例とは異なり,炭化物の析出形態によってき裂発生点が変化することを見出した。しかし,大気腐食で吸蔵される低水素量ではき裂発生・進展,破壊形態,さらにこれらに影響を及ぼす主要因子が高水素量の場合と異なる可能性がある。
本研究では,焼戻しマルテンサイト鋼を用いて大気腐食で吸蔵されるレベルの低水素量におけるき裂の発生・進展挙動に着目して調査し,前報の高水素量における結果と比較した。水素脆化破壊する直前の応力で途中除荷することで得られたき裂発生・進展挙動と破壊形態,力学因子(主応力と塑性ひずみ),組織因子(マルテンサイト階層構造と炭化物析出形態)との関係から,低水素量での水素脆化き裂発生・進展に及ぼす主要因子について考察した。
供試材として,0.34 mass% C(以下,%),0.28% Si,0.80% Mn,0.008% P,0.006% Sの中炭素鋼を用いた。焼入れ温度960°C,焼戻し温度350°Cで高周波焼入れ焼戻しを施して,引張強さ1474 MPaの焼戻しマルテンサイト鋼とした。Fig.1に示す引張試験片を準備した。長さ140 mmの丸棒中央部に直径5 mm,長さ30 mmの平行部を導入し,旋盤加工でその中央に応力集中係数Kt=2.8の環状切欠きを導入20)した。試験片の切欠き付近を引張軸方向と平行に切断した。試験片の表面を#800~2000のエメリー紙,3~9 µmのダイヤモンドサスペンション,0.03 µmのコロイダルシリカを用いて研磨した。さらに,材料組織の結晶方位関係を調べるため,加速電圧15 kV,ビームステップサイズ50 nm,作動距離17 mmで電子後方散乱回折(Electron backscatter diffraction:EBSD)解析をした。金属組織をFig.2に示す。(a)に5%ナイタール液でエッチングし,電解放出型の走査電子顕微鏡(Scanning electron microscope:SEM)を用いて,炭化物の析出状態を観察した組織写真,(b)にEBSD解析で取得した逆極点図方位(Inverse pole figure:IPF)マップ,(c)にKernel average misorientation(KAM)マップを示す。試験片の初期金属組織は,平均旧γ粒径約10 µmのラスマルテンサイト組織であった。白破線で囲った旧γ粒界上に厚みのある長さ約100~500 nmの板状セメンタイト(Fe3C),一方,旧γ粒内に長さ約50~400 nmの微細なFe3Cが析出していた。

Geometry and dimensions of notched specimen for tensile testing.

(a) Microstructure observed by SEM, (b) IPF map, and (c) KAM map analyzed by EBSD. The white dashed lines in (a) indicate the plate-like cementite region on the prior austenite grain boundary, and the white dashed lines in (b) and (c) correspond to the prior austenite grain boundaries. (Online version in color.)
表面状態を均一にするため,#800~2000のエメリー紙を用いて試験片を研磨した。定電流陰極電解法を用いて,30 °Cの0.1 N NaOH+1 g·L−1 NH4SCN水溶液中にて,電流密度1および75 A·m−2の条件で試験片表面と中心の水素濃度が一定となる96 hの水素予添加2,3,4)を行った。半導体センサーを検出系としたガスクロマトグラフィー型の昇温脱離分析(Thermal desorption analysis:TDA)により水素量を測定した。水素予添加後,試験片を切出し液体窒素中で冷却してから,昇温速度100°C・h−1,温度範囲0~300°Cの条件でTDAを実施した。電流密度1および75 A·m−2で96 h水素添加後の水素量(C0)は,それぞれC0=0.18 ppm(以下,低水素量材),5.3 ppm(以下,高水素量材)であった。水素予添加時と同一の条件で水素添加しながら引張速度0.01 mm·min−1で引張試験を実施した。水素添加中の溶液劣化を防止し,水素添加の状態を一定に保つため,48 h間隔で溶液交換した。引張試験で得られた破断面をFE-SEMにて観察した。
2・3 除荷試験によるき裂の発生点および連結の特定水素脆化き裂の発生および進展挙動を調査するため,引張試験において最大応力に達した直後に試験を中断し,直ちに除荷した。除荷後,試験片の切欠き底近傍を引張軸方向と平行に切断した。続いて,#800~2000のエメリー紙,3~9 µmのダイヤモンドサスペンション,0.03 µmのコロイダルシリカで試験片表面を研磨した後,切欠き底近傍をFE-SEMで観察した。さらに,EBSD解析を実行することで,き裂発生位置,き裂進展経路を調査した。EBSD解析条件に関しては,加速電圧15 kV,ビームステップサイズ50 nm,作動距離17 mmとした。
2・4 FEM解析有限要素解析ソフトウェアABAQUS/CAE 6.14-5を用いて,切欠き底近傍の主応力・相当塑性ひずみ分布を解析した。Fig.1に示した試験片平行部の軸対象1/8モデルを作成し,弾塑性FEM解析を実施した。解析モデルは,要素タイプ6面体,総要素982800とした。なお,水素添加した試験片を引張試験した際の破壊強さに相当する応力を解析モデルに付加することで,切欠き底近傍の主応力および相当塑性ひずみ分布を取得した。さらに,FEM解析で得られた結果から局所水素濃度分布も算出した。局所水素濃度分布は,式(1)15,21)を用いて算出した。
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ここで,CHは切欠き底近傍の局所水素濃度,C0は平均水素濃度,VHは体心立方(body-centered cubic:bcc)格子であるFe中の水素の部分モル体積(2×10−6 m3・mol−1),Rは気体定数(8.31 J・mol−1・K−1),Tは絶対温度(303 K),σhは応力集中部の静水圧応力,σh, minは応力集中部から十分遠方にある静水圧応力である。
水素未添加材および水素添加材の公称応力-変位曲線をFig.3に示す。ここでは,試験荷重を切欠き断面の面積で除した値を公称応力と定義した。水素未添加材は,引張強さ1883 MPaに達した後,伸びを示す。一方,水素添加材は,(a)の低水素量材の場合,最大応力1458 MPaに達した後,若干の伸びを示すが,(b)の高水素量材の場合,最大応力658 MPaに達した後ほとんど伸びを示さず,見かけ上,弾性ひずみ領域内で破断する。

Stress-displacement curves and initial hydrogen contents with/without hydrogen at a crosshead speed of 0.01 mm・min−1: (a) low hydrogen content of 0.18 ppm and (b) high hydrogen content of 5.3 ppm. (Online version in color.)
Fig.4(a1)に低水素量材における切欠き近傍の破断面のSEM像,および(a1)中に白破線で囲った切欠き先端および切欠き先端から僅かに離れた領域の破断面の拡大像を(a2)および(a3)に示す。また,(b1)に高水素量材における切欠き近傍の破断面のSEM像,および(b1)中に白破線で囲った切欠き先端および切欠き先端から僅かに離れた領域の破断面の拡大像を(b2)および(b3)に示す。低水素量材の場合,(a2)に示す切欠き先端ではQC破面が支配的であり,(a3)に示す切欠き先端から90 µm遠方では,IGおよびQCの混合破面が観察される。一方,高水素量材の場合,(b2)に示す切欠き先端ではQC破面が支配的であるが,(b3)に示す切欠き先端から25 µm遠方では大部分においてIG破面が占める。なお,本論文には記載しなかったが,両鋼ともに中心部はディンプルで完全に覆われた延性破面を呈していた。

Microscopic fracture surfaces near the notch tip after tensile testing at a crosshead speed of 0.01 mm・min−1. (a1) fracture surface for low hydrogen content of 0.18 ppm, (a2) enlarged view at the notch tip surrounded by the white dashed line rectangle in (a1), and (a3) enlarged view away from the notch tip surrounded by the white dashed line rectangle in (a1). (b1) fracture surface for high hydrogen content of 5.3 ppm, (b2) enlarged view at the notch tip surrounded by the white dashed line rectangle in (b1), and (b3) enlarged view away from the notch tip surrounded by the white dashed line rectangle in (b1).
水素未添加材を破壊まで引張試験,および水素添加材を破壊直前まで応力予負荷し途中除荷した際の公称応力-変位曲線をFig.5に示す。また,Fig.5(a)およびFig.5(b)に黒点線で囲った途中除荷した応力近傍の拡大図をFig.5中に併せて示す。水素添加しながら引張試験すると,特にFig.5(b)に示されるように弾性域で瞬時に破壊しているように見えるが,Fig.5(b)中の除荷応力近傍の拡大図中に示すように,破壊直前において公称応力-変位曲線にわずかに応力が低下する兆候が見られる。本研究においては,低水素量材では1497 MPa,高水素量材では655 MPaの最大応力に達した後に応力低下した点にてそれぞれ除荷した。

Stress-displacement curves for identifying the crack initiation sites: application of preloading until just before fracture strength with hydrogen and subsequent unloading: (a) low hydrogen content of 0.18 ppm and (b) high hydrogen content of 5.3 ppm. Enlarged views around the preloading stress just before fracture are shown in (a) and (b). (Online version in color.)
最大応力到達直後に除荷した試験片の切欠き近傍のSEM像をFig.6に示す。(a)に低水素量材,(b)に高水素量材の切欠き近傍のSEM像を示す。低水素量材において,き裂Aは切欠き先端と繋がっており,切欠き先端から発生したことが分かる。ただし,切欠き先端から85 µm離れた位置にもき裂Bが存在し,そのき裂の開口変位が切欠き先端から発生したき裂Aの開口変位と同程度であることから,切欠き先端から離れた位置からもき裂Bが発生した可能性がある。一方,高水素量材では,切欠き先端から21 µm離れた位置にき裂Cが存在する。本論文では省略するが,切欠き近傍を引張軸方向と平行に切断した試験片を厚さ方向に研磨した際,切欠き先端に繋がっているき裂が観察されなかったことから,切欠き先端から21 µm離れた位置でき裂Cが発生したと判断できる。

Microscopic crack initiations near the notch tip after unloading test: (a) shows two cracks in the specimen containing low hydrogen content of 0.18 ppm, crack A is at the notch tip and crack B is ahead of the notch tip. (b) shows crack C ahead of the notch tip in the specimen containing high hydrogen content of 5.3 ppm.
最大応力到達直後に除荷した試験片の切欠き近傍のIPFマップをFig.7に示す。Fig.7(a1)および(a2)にFig.6(a)中の白破線で囲まれているき裂Aとき裂Bの領域,Fig.7(b1)にFig.6(b)に対応するき裂Cの領域のIPFマップをそれぞれ示す。IPFマップ中の赤破線は方位解析により求めた旧γ粒界,黄破線はき裂面に対して,結晶学的に等価な6つの{011}面のトレースの1つに平行な線を示す。低水素量材の場合,切欠き先端で観察されたき裂Aは旧γ粒内で発生し,そのまま旧γ粒内を進展している。き裂進展経路は{011}面に平行であり,Fig.4(a1)sの破面観察結果から{011}面に平行なき裂はQC破面に対応している。一方,切欠き先端から離れた位置で観察されたき裂Bは旧γ粒界上に存在する。分離した旧γ粒界の大部分は引張軸方向に対してほぼ垂直であること,赤矢印で示す旧γ粒界三重点で有意に大きな開口変位が認められることは注目すべき点である。切欠き先端から離れた位置で観察されたき裂進展経路には,黄破線で示された旧γ粒内を横切る領域も認められる。旧γ粒内を横切るき裂は{011}面に平行である。一方,高水素量材の場合,切欠き先端から僅かに離れた位置で観察されたき裂Cが旧γ粒界上で発生している。これは,Fig.4(b3)の破面観察でIG破面が支配的であった結果と一致する。

Crack sites observed by SEM overlaid with IPF maps analyzed by EBSD: (a1) crack A at the notch tip and (a2) crack B ahead of the notch tip for low hydrogen content of 0.18 ppm, and (b1) crack C ahead of the notch tip for high hydrogen content of 5.3 ppm. The red dashed lines represent the prior austenite grain boundaries and yellow dashed lines represent the {011} plane obtained by trace analysis. (Online version in color.)
Fig.6(a)で観察された2つのき裂Aとき裂B間の領域をFig.8に示す。(a)にSEM像,(b) に(a)中の白破線の領域を拡大したSEM像,(c)に(b)領域に対応するIPFマップ,(d)に(b)領域に対応するKAMマップを示す。2つのき裂間において,引張軸方向に対して約45°傾いた帯状領域に白矢印で示した約0.05~1 µmの微小ボイドが点在する。(c)のIPFマップより,方位が隣接する元のマルテンサイト領域と明らかに異なるいくつかの微細粒(サブグレイン)が認められる。これは,2つのき裂間で大きなひずみが生じたことを示す。さらに,複数のボイド列は{011}面に平行でありブロック界面および内部に位置している。Fig.2(c)に示した初期組織のKAM値は低く全体的に均一だったが,Fig.8(d)に示すようにボイドが集中する領域のKAM値はより高く,周囲と比較してもボイド列の形成には局所的な塑性変形を伴っていることが分かる。

The coalescence area between cracks A and B in the specimen containing low hydrogen content of 0.18 ppm: (a) SEM image, (b) enlarged SEM image of the area indicated in the white dashed square in (a), (c) IPF map of the area indicated in the white dashed square in (a), and (d) KAM map surrounded by the white dashed square in (a). (Online version in color.)
Fig.9にFEM解析により得られた切欠き近傍における引張軸方向の主応力および相当塑性ひずみ分布を示す。(a)は低水素量材,(b)は高水素量材の解析結果であり,それぞれ1497,655 MPa負荷時の切欠き近傍の引張軸方向の主応力,相当塑性ひずみを算出した。なお,図中にはFig.6で観察されたき裂A,BおよびCの位置を赤と青の破線で示す。低水素量材の場合,切欠き先端から210 µm離れた位置,高水素量材の場合,切欠き先端から約60 µm離れた位置で主応力が最大となる。一方,相当塑性ひずみは両水素量材ともに切欠き先端で最大となる。これらをFig.6で観察されたき裂位置と照合すると,低水素量材ではき裂Aは相当塑性ひずみ最大位置,高水素量材ではき裂Cは主応力最大位置近傍に相当する。これは,水素侵入量の増加に伴い,塑性ひずみ支配から静水圧応力支配の破壊へと遷移したことを示唆している。しかし,低水素量材において,切欠き先端から離れた位置に観察されたき裂Bは,主応力と塑性ひずみの最大の中間に位置し,主応力だけでなく塑性ひずみも大きい領域に相当する。

Distribution of principal stress and equivalent plastic strain near the notch tip analyzed by FEM: (a) at unloaded stress of 1497 MPa for low hydrogen content of 0.18 ppm and (b) at unloaded stress of 655 MPa for high hydrogen content of 5.3 ppm. (Online version in color.)
上述の結果から局所水素濃度分布を算出した結果をFig.10に示す。局所水素濃度分布は主応力分布に対応しており,(a)低水素量および(b)高水素量ともに切欠き先端から離れた位置で水素濃度のピークが存在する。ただし,低水素量材では切欠き近傍の局所水素濃度分布に明確な差が認められるが,高水素量材ではほとんど認められない。

Distribution of local hydrogen content corresponding to hydrostatic stress near the notch tip at unloaded stresses of (a) 1497 MPa for low hydrogen content of 0.18 ppm and (b) 655 MPa for high hydrogen content of 5.3 ppm. (Online version in color.)
Fig.6に示したように,本実験で使用した焼戻しマルテンサイト鋼においては,水素量に依存してき裂発生および進展挙動が変化した。高水素量材の場合,Fig.7(b1)に示したように,切欠き先端から21 µm離れた旧γ粒界上でき裂が発生した。また,Fig.9(b)およびFig.10(b)に示したFEM解析結果において,き裂発生位置は主応力と水素濃度の両方が高い領域に対応していた。これらの結果は,環状切欠きを導入したAISI4135鋼に水素添加を施して引張試験したWangらの研究15,22)と一致しており,水素起因の粒界き裂の発生には局所応力と局所水素濃度が強く影響していると考えられる。また,McMahon14)やNovakら23)は,粒界炭化物への転位堆積による粒界での応力集中と水素による格子脆化の相乗効果によって,高強度鋼のIG破壊が発生することを提案している。Fig.2(a)に示したように,本実験で使用した焼戻しマルテンサイト鋼中には,旧γ粒界上に厚みのある板状Fe3Cが析出していた。これにより,旧γ粒界上で転位堆積による応力集中と水素集積が起こり,旧γ粒界上でき裂が発生したと考えられる。つまり,高水素量の場合,旧γ粒界上でき裂Cは発生し,その破壊は旧γ粒界での局所応力に関連した凝集力低下に起因すると考えられる。なお,き裂Cの発生位置が主応力および局所水素濃度の最大位置と完全に対応していなかったのは,切欠き近傍の局所水素濃度分布において,最大水素濃度の位置と遠方位置でほとんど差がなかったためと考えられる。加えて,今回用いたFEM解析は連続体を仮定した解析であり,材料組織の不均一性(マルテンサイト階層構造,炭化物析出形態など)を考慮しておらず,局所的な力学応答を正確に反映できていなかったためと考えられる。
低水素量材においては,Fig.7(a1)に示したように,切欠き先端の旧γ粒内でき裂Aが発生し,{011}面に沿ってき裂が進展した。また,Fig.9(a)およびFig.10(a)に示したFEM解析結果から,き裂Aの発生位置は主応力および局所水素濃度の最大位置ではなく,相当塑性ひずみが高い位置に対応していた。これらの結果は,き裂発生は{011}面の局所的な塑性変形と密接に関連していると考えられる。Fig.4(a2)の破面観察結果では,き裂発生位置である切欠き先端ではQC破壊が支配的であった。低炭素マルテンサイト鋼における{011}面に沿うQC破壊は,ラスまたはブロック境界分離6,7,24),{011}面上のすべり面分離25,26),{011}面上のマイクロボイドの合体27)などが挙げられる。Birnbaum and Sofronisは,水素が特定のすべり面,あるいはき裂先端への塑性変形の局所化を誘発することを提案している28)。さらに,Matsumotoらは,第一原理計算によって水素が空孔形成エネルギーを減少させ,空孔拡散の活性化エネルギーを増加させることを明らかにしている29)。一方,Morsdorfらは,塑性変形がブロック境界の周囲に局所的に集中していることを報告しており30),ブロック境界付近の局所的な応力場と局所的な水素濃度が増加することで,ブロック境界での剥離を引き起こす可能性がある。しかし,Fig.7(a1)に示したように,切欠き先端から発生したき裂はブロック境界を横切っていたため,境界での単純な剥離の可能性は低い。これらの事実に基づくと,QC破壊は局所的な塑性変形と密接に関連した{011}面上のすべり面分離,あるいは{011}面上のマイクロボイドの合体によって発生したと考えられる。すなわち,水素量が少ない場合,き裂の発生は水素によって促進された局所的な塑性変形および空孔安定化によって決定されており,それらが比較的生じやすいと想定される相当塑性ひずみが高い切欠き先端の旧γ粒内でき裂が発生したと考えられる。
Fig.7(a2)で示したように,切欠き先端から離れた旧γ粒界上でもき裂Bが観察された。このき裂Bは切欠き先端から発生したき裂Aとは繋がっておらず,き裂Aの進展中に単独で発生したと考えられる。粒界き裂の発生および進展が凝集エネルギーに起因すると仮定すると,粒界特性と境界に作用する局所応力に依存するため,き裂は旧γ粒界三重点で一度停止する可能性がある。この場合,き裂先端の応力集中が作用した領域に新しいき裂が形成される。特に,引張軸方向に対して垂直な旧γ粒界では分解垂直応力が大きいため優先的にき裂が発生する。これは,き裂Bに関連した旧γ粒界の大部分が引張軸方向に対してほぼ垂直であった結果と一致する。さらに,き裂進展が抑制されると塑性緩和に伴うき裂先端の鈍化が生じるため,旧γ粒界三重点で有意に大きな開口変位が認められたと考えられる。また,き裂BはFig.7(a2)に示すとおり主にIG破壊であったが,一部{011}すべり面に沿ったQC破壊もあり,き裂Bの発生・進展領域でのIG破壊は応力だけでなく転位すべりの関与も示唆される。この塑性変形がIG破壊を助長する機構として,Nagaoら24)はTEMを用いて粒界破面直下に転位密度の高いすべり帯が存在することを観察し,粒界上のき裂発生・進展は水素による塑性変形助長であると報告した。Shibataら31)は,水素起因の粒界き裂進展はミクロには塑性変形による鈍化とその先のサブクラック形成の不連続な進展を繰り返して,マクロには安定破壊に至ると報告している。Koyamaら32)は,若干の塑性関与したIG破壊のき裂を詳細に観察し,旧γ粒界上のき裂は不連続であり,ナノボイドの連結が粒界上のTear ridgeを形成すると報告している。Chibaら5)は,水素添加した焼戻しマルテンサイト鋼の全面粒界破面を作製し,低温昇温脱離法を用いて格子欠陥を解析した結果,粒界破面とその直下に空孔クラスターに対応する水素トレーサーピークを検出した。加えて,SEMにより旧γ粒界上にナノボイドの連結が観察され,これらナノボイド近傍を電子チャネリングコントラスト(Electron channeling contrast imaging:ECCI)法により観察した結果,白黒のコントラストの大きな転位密度の高い領域が観察され,IG破壊でも一部の粒界において塑性の関与を報告した。
Nagumoは,水素が空孔の安定化と凝集を引き起こし,結果として延性き裂進展抵抗を低下させる水素助長ひずみ誘起空孔理論33)を提唱した。これらの報告から,IG破壊は水素による凝集力低下起因だけでなく,塑性変形が関与する場合もあることがわかる。Fig.9(a)よりき裂Bの領域は相当塑性ひずみの最大位置ではないが,塑性ひずみは比較的高く転位すべりが活発な領域であるため,1)転位の水素輸送による局所的な水素濃化,2)転位・空孔密度が高く弱くトラップされた水素量の増加,3)水素により助長された格子欠陥密度の増加,等がき裂Bを構成するIGおよびQC破壊の発生・進展を促進した可能性も考えられる。すなわち,低水素量材のIG破壊の場合,静水圧応力による水素集積だけでは粒界凝集力低下によるき裂発生・進展が起こらず,塑性変形の関与が必要であり,き裂Bの位置が主応力最大位置より塑性ひずみ最大位置側へ移動したと推察される。
Fig.8に示したように,隣接するき裂間では,最大せん断応力面に沿ってボイド列が観察された。このボイド列は,水素添加していないAISI4340鋼を引張試験したCox and Lowの研究でも観察されている34)。これは,引張軸方向に対して大きく傾斜している場合でも,隣接するき裂間では応力集中が発生することに起因する。ただし,ボイド列周辺では微細なサブグレインが形成されるほど大きな塑性ひずみを伴っていたにも関わらず,{011}面上に局在化していたことは注目すべき点である。水素は,特定のすべり面上でも塑性変形の局在化を誘発し,き裂発生に至ることが報告されている。bcc鉄では,そのような特定のすべり面は{011}面および{112}面である25,35)。さらに,Matsumiyaら36)は,低炭素マルテンサイト鋼の疲労試験を行い,水素の存在によって塑性変形が局在化し,き裂進展速度を加速することを報告している。したがって,隣接するき裂間の合体時においても,水素によって促進された局所的な塑性変形および空孔安定化が関与しており,それらがき裂進展速度を加速させる可能性がある。
本研究において,大気腐食で吸蔵されるレベルの低水素量で得られた2か所のき裂発生は,大気暴露16年後に遅れ破壊したボルトのき裂発生点がねじ底近傍の複数か所から発生した結果と一致する17)。大気環境に近い低水素量で遅れ破壊する場合のき裂発生は,必ずしも主応力最大位置と静水圧応力に起因する局所水素濃度最大位置と一致せず,初期の組織因子(マルテンサイト階層構造と炭化物析出形態),相当塑性ひずみ,さらには塑性変形で形成した格子欠陥,その格子欠陥に弱くトラップされた水素分布等の複合要因に起因すると考えられる。そのため,特に低水素量の場合のき裂の発生および進展に関する臨界条件を定量的に理解するには,さらなる検討が必要である。
焼戻しマルテンサイト鋼を用いて,大気腐食で吸蔵されるレベルの低水素量におけるき裂の発生・進展挙動を高水素量における結果と比較し,以下の知見が得られた。
(1)低水素量(0.18 ppm)の場合,切欠き先端ではQC破面が支配的であり,切欠き先端から遠方では,IGおよびQCの混合破面が観察される。最大応力到達直後に除荷すると,切欠き先端の旧γ粒内からき裂が発生し,{011}面に沿って進展する。また,FEM解析結果から,き裂発生位置は主応力および局所水素濃度の最大位置ではなく,相当塑性ひずみが高い位置に対応する。これらの結果は,き裂発生は{011}面の局所的な塑性変形と密接に関連していると考えられる。さらに,切欠き先端から離れた位置にもき裂が存在する。そのき裂の開口変位が切欠き先端から発生したき裂の開口変位と同程度であることから,切欠き先端から離れた位置からもき裂が発生した可能性がある。
(2)高水素量(5.3 ppm)の場合,切欠き先端ではQC破面が支配的であるが,切欠き先端から遠方では主にIG破面である。最大応力到達直後に除荷すると,切欠き先端から少し離れた旧γ粒界上からき裂が発生する。FEM解析結果において,き裂発生位置は主応力と水素濃度の両方が高い領域近傍に対応する。
(3)低水素量材において観察された2つのき裂間において,引張軸方向に対して約45°傾いた帯状領域に微小ボイドが点在する。この領域のIPFマップより,隣接する元のマルテンサイト領域と明らかに方位が異なるいくつかの微細粒(サブグレイイン)が認められる。さらに,複数のボイド列は{011}面に平行であり,これらボイドが集中する領域のKAM値はより高く,局所的な塑性変形を伴う。