2024 Volume 2 Pages 13-15
2023年は、日本社会で「ビジネスと人権」が最も多く語られた一年だったと言っても過言ではないだろう。そのきっかけのひとつは、故ジャニー・喜多川氏による性加害問題、つまり「旧ジャニーズ事務所問題」である。
2023年7月に、国連の「ビジネスと人権ワーキンググループ」が来日し、この問題の関係者へのヒアリングを行ったことによる影響は大きかった。問題はエンターテインメント業界のスキャンダルにとどまらず、社会的な事件として、そして人権問題として報じられ、議論された。そして日本の芸能界に長く君臨し続けた旧ジャニーズ事務所をあっという間に崩壊に追い込んだ。同事務所の所属タレントを使った企業コマーシャルは次々に放映中止となり、企業側はタレントとの関係の見直しを迫られた。各社とも、この判断をする過程で、事件の本質は何なのか、それがなぜ企業イメージを傷つけるのか、そしてどのようにリスクを回避するのかを「わがこと」として考え、議論を重ねたはずだ。
また、旧ジャニーズ事務所問題は芸能活動をする人たちの人権という、より広いテーマへと発展し、その後発生した宝塚歌劇団における団員の「転落死」1)でも、「いじめやパワハラがあったのではないか」と、組織としての責任が追及される事態となった。組織側は「いじめ」やパワハラの事実を否定しているが報道は続いている。「見て見ぬふり」「芸能界とはそういうもの」といった考え方が通用しない社会になった、その根底には、旧ジャニーズ事務所問題をきっかけに急速に「わがこと」となったビジネスと人権という概念があるように思える。
ビジネス活動もまた、公正な社会を作るためのルールに厳しくのっとって行われなければならない。この考え方は、THINK Lobbyの若林秀樹所長が、ニュースサイトwith Planetで執筆しているように2)、実は1970年代から国際社会で取り組まれている「古くて新しい課題」だ。しかし、国際社会においても、議論が本格化し、具体的な取り組みのために指標が生まれたのは2000年代に入ってからである。そこからは関心が高まり、2010年代の後半から2020年代にかけて、欧米諸国の政府は相次いで企業による人権課題への取り組みを「義務化」している。日本では2020年に、政府がビジネスにおける人権尊重について行動計画を策定。続いて2023年4月にかけて、企業が具体的に行動するためのガイドラインや実務参照資料を発表した。
「ビジネスと人権」といっても、経済活動における人権保護について企業だけの責任を問うという意味ではない。前述のこの課題をめぐる国際的な動きには、国家の人権保護義務や救済メカニズムの提供をはじめ、政府として果たすべき役割も明示されている。また消費者としての市民社会も、経済活動を通した公正な社会づくりに貢献する責任の一端があるだろう。
ようやく「ビジネスと人権」という視点を実装し始めた日本で、市民社会は企業とどう向き合い、あるいは協業していくのか。本コラムでは、JANIC/THINK Lobbyのコーポレート・ソーシャルジャスティス(CSJ)プロジェクトが作成している「公正な社会の実現に向けた対話のための企業行動チェックリスト」を中心に、2023年11月11日に東京都内で開催された「HAPIC(Happiness Idea Conference)2023 課題解決の先へ。」3)(JANIC主催)での議論などを通して、企業と市民社会がどのように公正な社会の構築に取り組んでいくのか、を考えたい。
HAPIC2023では、「ビジネスと人権」に関係するセッションが複数開かれた。そのうち、「Synergy Talks:企業とNGOの対話でつくる公正な未来」と題されたセッションでは、CSJの企業行動チェックリストが冒頭で紹介された。
チェックリストは、10の行動領域について、自社の企業活動が「公正な社会の実現に向けて」行われているかどうかを確認する仕組みになっている。10個の行動領域は以下の通りだ。
1.ステークホルダーの人権尊重
2.自社特有の人権リスクへの対応
3.ステークホルダーのDEI&J(Diversity, Equity, Inclusion and Justice)の尊重
4.環境への権利の尊重と脱炭素社会への公正な移行
5.汚職贈賄の防止
6.適正な納税
7.適正な政治活動
8.国際規範に沿った法の支配の尊重
9.ステークホルダー、特にライツホルダーとの対話
10.負の影響を受けた人々に対する救済へのアクセス
それぞれが、「人権」「環境・気候変動」「コンプライアンス・公正な事業慣行」というテーマに分類することができ、いずれもが現在、国際的にも国内的にも主要な社会問題となっていることがわかる。国内であろうと国外であろうと、企業活動に向けられる市民社会の視線は、前述のように、すでにこれらの概念を重視している。企業行動リストは、企業が上記の領域における健全さを自ら診断する「健康診断」のためのツール、といってもいいかもしれない。
セッションに登壇したTHINK Lobbyの若林所長は、「企業はこれまで、目の前で起きている社会不正義について、能力がありながらも沈黙しがちであった。しかし企業にも、公正な社会の実現に向けてなすべきこと(人権デューデリジェンス)がある、という認識に基づいて考えたい。『ビジネスと人権』とは、企業活動における人権リスクのマネジメントという問題であり、突き詰めれば構造的な課題に業界として踏み込み、突破しようとする活動だ。そこには企業の社会的責任もあるが、新しいビジネスチャンスも生まれるはず。そして、企業の責任だというだけでなく、私たち市民社会もそこで一緒に取り組んでいきたいと考えている」と、述べた。
同じくパネリストで、CSJが作成した企業行動チェックリストのパイロット評価に参加した株式会社IHIの人事部DE&Iグループ主査、葉山木綿氏は、「IHIは1853年創業の総合重工メーカー。社会のインフラ、人々の生活の向上に貢献してきた自負があるが、一方で経済合理性を優先したがゆえに、配慮が不十分だったこともあると自覚をしている」と、振り返ったうえで、「公正な社会という視点はとても重要だと思っており、パイロット評価に参加した。その目的は2つある。一つは、専門性の高い市民社会の皆さんの視点と問題意識を、事業に反映すること。もう一つは、企業とNGOが社会課題の解決という共通の目標を持つのであれば、当初から一緒に取り組んだほうが効率的だという考え方だ」と語った。
一方、NGOの立場で登壇した「世界の医療団日本」事務局長の米良彰子氏は、「企業にとってリスクだから、ビジネスと人権の課題に取り組むのではなく、よりよい社会づくりという積極的な理由で取り組んでほしい」と指摘した。
米良氏の指摘は2つの点で重要だ。まず、冒頭の旧ジャニーズ事務所問題への企業対応が象徴するように、日本の多くの企業にとって「ビジネスと人権」に取り組むことは、まだリスク回避という側面が強い。エンタメ業界の枠を超えて、あるいは自社の社員の労働環境といった枠を超えて、自社の事業活動にかかわるすべての人たちにとって公正な社会を作り上げるという観点が広く語られるほどには思考が成熟していない。事件や事故が発生してから、あるいは発生しないように、対策を考えるという水準から、より積極的な活動へと変容しなくてはならない。
もう一つは、リスク回避だけを目的にした取り組みの場合、表面的には活動していても実態が伴わないという危険性をはらむということだ。
健康診断は受けただけでは意味がない。診断結果で改善点があれば良くなるように取り組む必要があるし、あるいは健康状態を維持し、向上させるための起点としなくてはならない。企業行動チェックリストも同じだ。前述のセッションでIHIの葉山氏は、「10の行動領域の重要性は十分に認識している。企業の現在地を知ることができるという意味では、チェックリストは有用だが、現在地を知った企業が、改善に向けてアクションをとりたい、と思わせるような働きかけや仕組みが必要だと思う」と、指摘した。
チェックリストで現在地を認識した企業が、そこからどのように自身を向上させていくのか。CSJメンバーによると、チェックリストは「できていないことをあぶりだす」ことが目的ではない。チェックリストに取り組み現在地を認識することだけでも、企業の行動変容を促すきっかけになる、と考えているという。さらに、チェックリストをきっかけに、様々な関係者と「対話」を開始する入り口でもある、という。CSJは、企業自身による取り組みの上質化を後押しできるよう、セルフチェックの情報公開、専門家によるフィードバックやコンサルテーション、関係者を集めた会議のファシリテーションなどさまざまな方法を提案している。
HAPIC2023で開かれたセッション「成長戦略としてのNGO・企業連携を考える-双方担当者からの声-」で登壇した中山雅之・国士舘大学大学院グローバルアジア研究科教授は、「伝統的な企業観では、企業は株主の利益を増大させることが主要な目的であり、社会的な目標と経済的な目標は両立しない、ということだった」と、述べた。しかし、この企業観は大きく変化した。現在では「社会環境にコミットし、社会貢献をすることが結果的に企業利益をもたらす。つまり社会価値と企業価値は両立する」という社会経済的企業観に変わってきているという。
この新たな企業観が主流になれば、企業はよりポジティブにチェックリストを利用するだろう。それぞれの企業価値が発揮されやすい社会価値の領域やテーマは何なのかを知るためのツールであり、企業価値と社会価値のマッチング機能としても活用できるからだ。「足りないこと」をあげつらうことがチェックの目的ではなく、企業が保有する経営資源をどこに投資すれば、より効率的にインパクトを出すことができるか、を検討する素材になる。企業が得意とする領域やテーマが明確になれば、同じ分野で活動する市民社会組織とも協業しやすくなるだろう。
上記のセッションでは、企業が経営資源を得意分野に投資してインパクトを出している事例が挙げられた。それは、塩野義製薬とワールド・ビジョン・ジャパン(WVJ)など市民社会組織が協業して継続しているアフリカでの母子保健プロジェクト「Mother to Mother SHIONOGI Project4)」だ。セッションでは、WVJの理事・事務局長である木内真理子氏が、2015年から続いているこの事業について説明した。木内氏はこの事業を通じて、企業と市民社会との協業が長く続くためには、「複数年にわたり、相互に関係を持ち続けること。短期でのリターンにつながらなくても、中長期で深くかかわろうという意思が経営層にあることが必要。さらにNGO側に、その思いにこたえるだけの事業形成力、実施力があることが必要だ」と、市民社会側の課題も含めて語った。
2023年、「ビジネスと人権」は日本社会において、衝撃的かつネガティブな印象をもって語られることが多かった。しかし、これはきっかけにすぎない。ビジネスと人権の本質は、企業と市民社会とが共に公正な社会を築くために協業することだ。お互いの強みは何か、補い合うべき足りない部分は何か、まずはそれを知ることが、行動変容へとつながる。2024年は、企業価値と社会価値の両立という新しい企業観がポジティブな景色とともに広がり、日本社会に根付くことを期待したい。
(完)