Journal of Buddhist Culture
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はじめに――玄奘の実像

 みなさまは『西遊記』の三蔵法師をご存知かと思います。そのモデルとなったのは玄奘という中国僧です。唐代に実在した人物で、西暦六〇二年に生まれ、六六四年に亡くなりました。唐の都長安を出発し、西域・インドを巡ること十七年六ヶ月、大量の仏典を持ち帰った大旅行家です。一方、玄奘を『般若心経』の翻訳者としてご存知の方も多いかと思います。『般若心経』を唱えるとき、経題の後に「唐三蔵法師玄奘訳」と添えることもあります。大般若会で転読される『大般若経』も玄奘が翻訳したものです。

 このように、玄奘には旅行家・冒険家としての一面と、翻訳家・学者としての一面とがありますが、それらが一つの人格に具わっているところに私は大きな魅力を感じています。本日は、この実在の三蔵法師・玄奘の生涯について、しばらくお話させていただきます。

 玄奘の旅行記としてよく知られているのは、玄奘訳・弁機撰の『大唐西域記』です。玄奘の見聞録を弟子の弁機がまとめたもので、西域・インドの地理誌として比類ないものです。しかし、『大唐西域記』には玄奘が実際にどのような旅行をしたかについては、まったく記されておりません。それを知るには、玄奘の伝記である慧立本・彦悰箋の『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』(『慈恩伝』)を紐解かなくてはなりません。作者の慧立と彦悰は、どちらも玄奘の訳場に参加していた人物です。したがって、『慈恩伝』には作者が玄奘から直接聞いた話や、実際に見た出来事が反映されていることでしょう。なかには玄奘を持ち上げる誇張した表現もみられますが、話の骨子についてはおおむね信用できると思います。そこで以下、この『慈恩伝』に基づいて玄奘の生涯をたどってゆくことにいたします。

 なお『慈恩伝』の現代語訳には長澤和俊先生のもの(『玄奘三蔵―大唐大慈恩寺三蔵法師伝―』光風社出版、一九八八年。『玄奘三蔵―西域・インド紀行―』講談社、一九九八年)があり、『西域記』の現代語訳には水谷真成先生のもの(『中国古典文学大系 大唐西域記』平凡社、一九七一年。後に東洋文庫)があります。

一、玄奘の旅立ち――沙漠を越えて

 玄奘は隋の仁寿二年(六〇二)洛陽の東南、緱氏県の陳堡谷という所に生まれました。四人兄弟の末っ子で、俗名を陳褘といいました。十歳頃に両親を亡くしたため、出家した兄のいる洛陽の浄土寺に移り住み、十三才で得度して僧籍に入ります。しかし、隋が滅びると各地で群雄が挙兵し、その戦火は洛陽にも及びました。そこで、玄奘は兄に勧めて長安へ移り、さらに南の方、成都に入りました。唐の武徳元年(六一八)、玄奘十七才のときのことです。当時の成都には各地から名僧が集まっていました。玄奘は道基・慧景・宝暹・らの指導を受け、仏教の基礎を学びました。

 しかし武徳五年(六二二)に具足戒を受けると成都を離れ、相州の慧休、趙州の道深、長安の道岳など、各地に高僧を訪ねて歩くようになりました。そして、貞観元年(六二七)秋八月、ついにインドを目指して長安を出発するのです。それにしても、いったい何が玄奘を「西天取経」の旅に駆り立てたのでしょうか。

 玄奘は当時流行の『摂大乗論』を研究し、唯識思想を学んでいました。唯識とはあらゆる存在はただ心の現われであるとみて、自己の心のありかたを変革する大乗仏教の思想です。唯識ではわれわれの意識の奥底にアーラヤ識という根本心理があると説きます。当時の中国では、このアーラヤ識が真なるものか、妄なるものかをめぐって議論が分かれ、仏教界に大きな混乱が生じていました。玄奘が成都以前に師事した人々は、アーラヤ識を如来蔵や仏性と同一視する傾向にありました。なかには、アーラヤ識のさらに奥に清浄無垢のアマラ識なるものがあるという主張もありました。心の奥底には本来清らかなものがあり、それが煩悩によって曇らされているのだ、という考え方です。しかし、『摂大乗論』にはそのようなことはハッキリと書かれてはおりません。つまり一つの解釈なのですが、これが当時の中国で流行していた考えだったのです。

 これに対し、玄奘は違う考えを持っていたようです。人の心が本来清らかならば、人はなぜ怒ったり、妬んだり、憎んだり、争ったりするのだろうか。そうすると心の奥底にはそのような煩悩を作りだす汚れたものがあると認めざるを得ない。その大本を覆さない限り、悟りは得られないのではないか。『摂大乗論』は本来そのような思想を説いているのではないか。玄奘はおそらくそのように考えて、二十歳で成都を離れると、それまでの諸師とは違う思想傾向をもつ、いわば非主流派の高僧を中国各地に訪ね歩いたのではないかと思います。それでも玄奘の疑問は解決しませんでした。唯識思想を本当に理解するためには、唯識の百科全書である『瑜伽師地論』を学ばなければならず、それはまだ中国に伝わっていなかったからです。『瑜伽師地論』を学ぶには、自らインドへ趣くしかありません。玄奘がインドを目指して旅に出た理由は、ここにあったのです。

 ところで、当時は唐が建国したばかりで政情がまだ不安定でした。国法では玉門関より西へ行くことは禁じられており、役所に西天取経の願いを出しても許可が下りませんでした。しかし、求法の念はやみがたく、ついに玄奘は国禁を犯して旅立つことを決意します。玉門関の先には五つの要塞があり、それを超えると莫賀延磧、広大なタクラマカン沙漠が広がっています。玄奘はひとり痩せた馬に乗り、果敢に沙漠を渡って行きます。その時のエピソードを『慈恩伝』から引用してみましょう。

①是れより已去は、即ち莫賀延磧なり。長さ八百余里。古に沙河と曰ふ。上に飛ぶ鳥無く、下に走る獣無し。復た水草も無し。是の時影を顧るに唯だ一なるのみ。但だ観音菩薩及び般若心経を念ずるのみ。…中略…

②沙河の間に至り、諸もろの悪鬼に逢ふ。奇状異類にして、人の前後を遶る。観音を念ずと雖も去らしむること能はず。此の〔般若心〕経を誦するに及び、声を発して皆な散ず。危きに在りて済はるるを獲たるは、実に焉に憑る所なり。

③時に行くこと百余里にして道を失ふ。野馬泉を覓むるも得ず。水を下して飲まんと欲するも、袋重く手を失ひ之れを覆へす。千里の行資、一朝にして斯に罄く。又た路を失ひて盤迴し、趣く所を知らず。乃ち東帰して第四烽に帰らんと欲す。

④行くこと十余里にして自ら念ふ。「我れ先に発願す。若し天竺に至らざれば、終に東帰すること一歩もぜずと。今何の故に来たる。寧ろ西に就きて死すべし。豈に東に帰りて生きんや」と。是に於て轡を旋らし、専ら観音を念じ、西北して進む。

⑤是の時、四顧するに茫然として人鳥倶に絶ゆ。夜は則ち妖魑の火を挙げ、爛ること繁星のごとく、昼は則ち驚風の沙を擁し、散ずること時雨のごとし。是の如きに遇ふと雖も、心に懼るる所無し。但だ水の尽くるを苦しむのみ。渇きて前むこと能はず。

⑥是の時、四夜五日、一渧の喉を沾すもの無し。口腹乾燋し、幾んど将に殞絶せんとす。復た進むこと能はず、遂に沙中に臥す。観音を黙念して、困ずると雖も捨てず。

⑦第五夜の半に至り忽ち涼風有り。身に触れ冷快なること寒水に沐するがごとし。遂に目の明くるを得、馬も亦た能く起つ。体既に蘇息し少しく睡眠するを得。即ち睡中に於て一大神を夢みる。長さ数丈、戟を執り麾きて曰く。「何ぞ強行せずして、更に臥するや」と。法師驚寤して進発す。

⑧行くこと十里可りにして、馬忽ち路を異にす。之れを制するも迴らず。数里を経て忽ち青草の数畝なるを見る。馬を下りて恣に食はしむ。草を去ること十歩、迴転せんと欲するに、又一池水に到る。甘澄鏡澈たり。即ち就きて飲む。身命重ら全うし、人馬倶に蘇息するを得。

⑨此れを計るに、応に旧の水草に非ず、固より是れ〔観音〕菩薩の慈悲の生ずるところなるべし。其の至誠の神に通ずること、皆な此の類なり。即ち草池に就きて一日停息す。後日水を盛り、草を取りて進発す。

  (『慈恩伝』巻一、大正五〇、二二四b―c)

 ①「上に飛ぶ鳥無く、下に走る獣無し」という大沙漠、水も草もありません。孤独に耐えかねて振り返ってみると、痩せ馬に乗った自分の影だけが、ポツンと沙漠に落ちている。何という光景でしょう。玄奘は観音菩薩と『般若心経』を念じ、意を強くして進みます。

②しかし、あまりに単調な環境が続くと、身心に変調をきたします。それは悪鬼の姿となって玄奘の前後に現れました。観音菩薩を念じても消えません。しかし、『般若心経』を唱えたとたん、悪鬼は声をあげて退散したのです。この話は玄奘の帰国後に喧伝され、『般若心経』は僻邪の経典として大流行するようになりました。

 ③ところが、ついに道に迷ってしまいます。泉があると聞いていましたが、それらしきものは見当たりません。水を飲んで落ち着こうとしましたが、袋が重くうっかり落としてしまいます。水はサーっと沙漠に吸い込まれ、跡形もなく消え去ってしまいました。さすがの玄奘もあせりを覚え、いったん東に帰ろうとします。

 ④しかし、しばらくして思い直します。「私は先に誓ったではないか。インドに達するまでは一歩も東には帰らぬと。何のためにここまで来たのか。東に向かって生きながらえるより、むしろ西に向かって死ぬべきである」と。こうしてひたすら観音菩薩を念じ、また西北を目指して進んだのです。

 ⑤行けども行けども沙漠ばかり。夜は怪しげな火が綺羅星のごとく輝き、昼は強風が巻き上げた砂が雨のように降ってきます。しかし、玄奘の心にもう恐れはありません。ただ水がないため、喉の渇きだけはどうしようもありません。⑥五日間、一滴の水も飲めず、口から腹までカラカラに乾き、ついに沙漠に倒れ伏してしまいます。それでも玄奘は心の中で観音を念じ続けました。⑦すると、夜中になって涼しい風が吹いてきました。火照った体が冷めてきて、ようやく目は開きましたが、体はまだ起こすことができません。そのまましばらく眠ろうとしたところ、夢の中に大神が現れました。高さ数丈、戟を振り上げて、「なぜ前へ進まぬ。いつまで倒れているのか」と励まします。玄奘は驚いて出発しました。

 ⑧しばらくすると、沙漠の中に忽然と草原が現れました。池もあります。オアシスです。おかげで玄奘、命拾いをしたのであります。⑨『慈恩伝』の作者は、そこには元来オアシスはなかったが、玄奘の至誠に感じた観音菩薩が慈悲心によってそれを出現させたのだ、と述べています。この一連の話は、玄奘の不退転の決意を伝えるとともに、『般若心経』や観音菩薩の霊験を説くものともなっているのです。

 しかし、たった一人で沙漠を渡るというのは、若さゆえの無謀な行為と言えなくもありません。沙漠を越えた玄奘は、高昌(トルファン)の王、麹文泰の供養を受け、旅の資金や馬、人夫などを提供してもらいます。その後も、各地の国王から市井の庶民に至るまで、さまざまな人々の協力を得て、旅行を無事に完遂することができました。志は立派でも、一人の力には限界があります。玄奘は旅行を通じて、物事が助け合って成り立つということ、すなわち「縁起」ということを、身をもって理解したのではないでしょうか。

 ちなみに、沙漠で玄奘を励ました大神は「深沙大将」と名付けられ、玄奘の西天取経を守護した善神として尊崇されるようになりました。憤怒の形相で、髪は逆立ち、ドクロの瓔珞(首飾り)を付けた、恐ろしい姿で造形されますが、あれは沙漠で倒れた玄奘を励ましている姿なのです。日本では絵画や彫刻の作例がいくつも残っています。中国では玄奘伝説とともにその姿を変え、最終的には『西遊記』の「沙悟浄」となりました。

二、唯識思想の継承――玄奘インドを行く

 玄奘は貞観三年(六二九)の春に、中国で「大雪山」と呼ばれるヒンドゥークシュ山脈を越え、カピシーに到着したと思われます。初めは、北インドのカシュミールに二年間滞在し、説一切有部の僧称(Saṃghakīrti)から『倶舎論』などのアビダルマを学びました。大乗仏教からみれば小乗仏教の教義ですが、唯識の基礎となる重要な教学です。おそらく語学もここで訓練したのでしょう。その後、仏跡を巡礼しながら南東に進み、中インドのナーランダーに入りました。そこは当時のインド仏教の最高学府で、僧院では数千人の僧侶が勉学に励んでいます。ナーランダーには「正法蔵」と尊称される齢百歳を超えた瑜伽行派の長老・戒賢(Śīlabhadra 五二九―六四五)がおりました。戒賢は玄奘の来訪をたいそう喜びました。かつて夢の中で、やがて来る中国僧に教えを伝えるよう文殊菩薩から告げられたというのです。この因縁に玄奘もいたく感激しました。こうして、玄奘は戒賢から『瑜伽師地論』の講義を受け、ついに唯識教学の体系を修得することができたのです。ナーランダーでの勉学には五年の歳月が費やされました。

 ここで、玄奘が学んだ瑜伽行派について簡単に紹介しておきましょう。瑜伽行派は四―五世紀に弥勒・無著・世親によって興された、中観派と並ぶ大乗仏教の二大流派の一つです。弥勒(Maitreya)は、友愛の師という意味で、漢訳では「慈氏」「慈尊」等と訳されます。兜率天の内院に住む弥勒菩薩であるという説と、実在の人物であるという説とがあります。玄奘の求法の目的であった『瑜伽師地論』は弥勒の作といわれています。

 無著(Asaṅga)は、北インドのガンダーラの人です。はじめは小乗の空観を修めましたが、それに飽きたらず、兜率天に昇り弥勒から大乗の空観を学び、大悟したといわれています。唯識思想の綱要書である『摂大乗論』を著し、唯識教学の基礎を築きました。『摂大乗論』とそれに対する世親の注釈は、真諦(Paramārtha 四九九―五六九)によって漢訳されました。隋末唐初に北地で盛んに研究され、若き日の玄奘も熱心にこれを学びました。帰国後の玄奘は『摂大乗論』を改めて翻訳しています。

世親(Vasubandhu)は無著の実の弟です。はじめは小乗の説一切有部に学び、アビダルマの綱要書である『倶舎論』を著しました。しかし、後に無著に勧められて大乗に転向、唯識教学を大成しました。世親の『唯識三十頌』は、唯識の要義を三十の偈頌にまとめたものです。これには後世さまざまな論師が注釈をつけました。玄奘は帰国後に『成唯識論』という論書を翻訳しますが、これは『唯識三十頌』に対する複数の注釈を、戒賢の師である護法(Dharmapāla 五三〇―五六一)の解釈を中心にまとめたものとされています。

 ところで、ナーランダーに至るまでの道のりは、苦難の連続でもありました。ここでは、玄奘が盗賊に襲われる場面を『慈恩伝』から引用してみましょう。

①此れより東南に行くこと六百余里、殑伽河(Gaṅgā)を渡り、南のかた阿踰陀(Ayodhyā)国に至る。寺百余所。僧徒数千人。大小乗を兼学す。大城の中に故き伽藍有り。是れ伐蘇槃度(世親)菩薩の此に於て大小乗の論を製し、及び衆の為に講ぜし処なり。…中略…城の西南五六里に故き伽藍有り。是れ阿僧伽(無著)菩薩の法を説きし処なり。菩薩は夜覩史多天(兜率天Tusita)に昇り、慈氏(弥勒)菩薩の所に於て、『瑜伽論』『荘厳大乗〔経〕論』『中辺分別論』を受け、昼は則ち天より下りて衆の為に法を説く。…中略…

②法師、阿踰陀国より聖跡を礼し、殑伽河に順ひ、八十余人と同船して東に下り、阿耶穆佉(Ayamukha)国に向はんと欲す。行くこと百余里可り、其の河の両岸は皆な是れ阿輸迦(aśoka)の林にして、非常に深茂す。林中の両岸に於て、各おの十余の船賊有り。棹を鼓ち流れに迎ひ、一時に出づ。船中驚き擾れ、河に投ずる者数人あり。賊遂に船を擁して岸に向ふ。諸人をして衣服を解脱せしめ、珍宝を捜し求む。

③然も彼の群賊、素より突伽(Durgā)天神に事へ、毎に秋中に於て、一人の質状端美なるを覓め、殺して肉血を取り、用以て之を祠り、以て嘉福を祈る。法師の儀容偉麗にして体骨之れに当たるを見て、相顧み喜びて曰く。「我等神を祭る。時将に過ぎんと欲するも人を得ること能はず。今此の沙門、形貌淑美なり。殺して用て之れを祠らば、豈に吉に非ざらんや」と。法師報ふ。「奘の穢陋の身を以て、祠祭に充つるを得れば、実に敢へて惜しむに非ず。但だ遠きを以て来る意は、菩提の樹・像、耆闍崛山(霊鷲山)を礼し、并びに経法を請問せんと欲すればなり。此の心未だ遂げず。檀越之れを殺さば、恐らくは吉に非ざらん」と。船上の諸人皆な共に同じく請ふ。亦た身を以て代はらんと願ふもの有り。賊皆な許さず。

④是に於て賊帥、人をして水を取らしめ、花林中に於て、地を除き壇を設け、泥を和し塗掃せしむ。〔賊帥、〕両人をして刀を拔かしめ、法師を牽きて檀に上らしむ。〔両人〕即ち刃を揮はんと欲す。法師の顔に懼れ有る無し。賊皆な驚異す。〔法師〕既に免れざるを知り、賊に語る。「願はくは少時を賜ひ、相逼悩すること莫れ。我をして安心歓喜して滅を取らしめよ」と。法師乃ち心を覩史多宮に専らにして、慈氏菩薩を念ず。「願はくは彼に生ずるを得、恭敬供養して『瑜伽師地論』を受け、妙法を聴聞して〔神〕通・〔智〕慧を成就し、還来下生して此の人を教化し、勝行を修めて諸もろの悪業を捨てしめ、及び諸法を広宣し、一切〔衆生〕を利安せんことを」と。是に於て、十方の仏を礼し、正念して坐し、心を慈氏に注ぎ、復た異縁無し。心想の中に於て、蘇迷盧山(須弥山Sumeru)に登り、一二三天を越え、覩史多宮の慈氏菩薩の妙宝台に処りて、天衆に囲繞せらるるに似るが若し。此の時身心歓喜し、亦た壇に在るを知らず、賊有るを憶はず。

⑤同伴の諸人、声を発して号哭す。須臾の間に、黒風四起して樹を折り沙を飛ばし、河流涌浪して船舫漂覆す。賊徒大いに駭き、同伴に問ひて曰く。「沙門は何処より来たるや。名字は何等なるや」と。報へて曰く。「支那国より来る。法を求むる者此なり。諸君若し殺さば、無量の罪を得ん。且つ風波の状を観るに、天神已に瞋る。宜く急ぎ懺悔すべし」と。賊懼れ、相率ゐて懺謝し、稽首して帰依す。〔玄奘〕時に亦た覚えず。賊手を以て触る。爾して乃ち目を開き、賊に謂ひて曰く。「時至るや」と。賊曰く。「敢へて師を害さず。願はくは懺悔を受けん」と。…中略…求法殷重なるに非ざれば、何を以て茲れを致さんや。

(『慈恩伝』巻三、大正五〇、二三三c―二三四b)

 ①玄奘は中インドのアヨーディヤーに着きました。瑜伽行派の無著と世親が活躍したところです。無著が兜率天に昇って弥勒から教えを受け、それを大衆に説いたという伽藍もここにあります。長い旅路を経て、ようやく仏教の本場にやって来ました。玄奘は感動しながら仏跡を巡拝したことでしょう。②この地を後にした玄奘は、八十人ばかりと同船してガンジス河を下りました。しばらくすると、両岸の林の中から十艘ばかりの船が、いっせいに近づいてきます。盗賊です。船中は大混乱に陥ります。河に飛び込んで逃げる者もいます。玄奘たちを乗せた船は賊船に取り囲まれて接岸し、船に乗り移ってきた盗賊は乗客から金目のものを奪っていきます。

 ③賊たちはドゥルガー神を信仰し、毎年一人、見目麗しい人物を生贄にして神を祀るという習慣をもっていました。彼らは船中にいる美丈夫の沙門に目をつけます。玄奘です。賊「これは美しい沙門だ。こいつを神に捧げれば、必ずや善い報いが得られよう」。玄奘「私ごときが神の祀りに役立つのなら、命もさして惜しくはない。ただ、私は遠くから来て仏跡を巡礼し、仏法を学ばんとする者である。その志を遂げないうちに殺したとあっては、汝らに善い報いはあるまいぞ」。乗客はみな玄奘の命乞いをしました。なかには自分を身代わりにと言い出す者もいます。

 ④しかし、賊の統領は林の中に土で祭壇を作らせると、二人の賊に刀を抜かせ、玄奘をその上に登らせました。賊たちが刀を振り上げても、玄奘の顔に恐れの色は見えません。これには賊たちも驚きました。玄奘「しばらく待て。安心歓喜してあの世へ行きたい」。玄奘は心を兜率天に注ぎ、弥勒を念じました。「願わくば兜率天に生じ、弥勒菩薩を供養して『瑜伽師地論』を受け、妙法を聴聞し、神通・智慧を成就できますように。またこの世に下生して、賊たちを教化し、善を行い悪を捨てるようにさせ、さらには普く仏法を広めて、一切衆生を利安できますように」。

 すると、玄奘は心のうちに須弥山を昇り、次々と天界を越え、ついに兜率天の弥勒菩薩のもとに達し、諸天に囲まれている心境になりました。ここで玄奘は、禅定の中で弥勒に会っています。これは無著が兜率天に昇って弥勒から教えを受けたのと同様の体験といえるでしょう。先ほど弥勒は実在の人物か否かという話をしましたが、少なくとも瑜伽行派の人々にとっては、弥勒とは深い禅定の中で会うような存在だったのではないかと思います。

 さて、玄奘の運命やいかに。⑤同行の者たちが悲鳴をあげるや、一転にわかに掻き曇り、暴風が吹き荒れ、河は波打ち、船は覆る。賊たちはパニックに陥ります。賊「いったいこの沙門は何者なんだ」。同行者「この方は中国から聖法を求めに来られたお方だ。この方を殺せば無量の罪を得るだろう。この波風を見ろ。お前たちの神様もお怒りだぞ。すぐに懺悔するがいい」。賊たちは恐れおののき、玄奘の前に首を揃えて懺悔します。しかし、深い禅定に入った玄奘は、まったく気付きません。賊が手を触れると、やおら目を開きます。玄奘「時が来たのか」。賊「もはや危害を加えるつもりはございません。どうか我々の懺悔を受けてください」。玄奘は悪業には相応の報いがあることを諭し、賊たちに戒を授けると、不思議と波風は収まったといいます。

この話は『慈恩伝』の作者によって相当ドラマティックに演出されていると思います。しかし、当時の旅行に盗賊の難は付きものであり、高僧の威徳に感じて賊が帰順するという話も少なくありません。ですから、玄奘は賊に殺されそうになったが、毅然とした態度で助かった、という話の大筋を疑う必要はないでしょう。『慈恩伝』の作者は、これを玄奘の求法の念の篤さを示す話としていますが、私は、その中に瑜伽行派の弥勒観が窺えるところに興味を覚えます。

 なお、玄奘はインドでも名声を博しました。ナーランダーでは戒賢に称賛され、『摂大乗論』の講義を任されるようになりました。また、当時のインドの覇者である戒日王(ハルシャ・ヴァルダナ)は、玄奘のためにインド中から諸王や宗教者を集め、大規模な無遮大会を開きました。玄奘はそこで小乗仏教徒や外道との論争にみごと勝利を収め、大衆に激賞されています。

三、玄奘の翻訳事業――大慈恩寺にて

 玄奘は帰りも海路ではなく陸路を選びました。戒日王らの支援を受けて、旅は順調に進みます。しかし、極寒のパミール高原を越えるとき、それまで荷物を運んでくれた象が死んでしまします。なんとかタクラマカン沙漠の西南、于闐(コータン)までたどり着きます。玄奘はここから唐の皇帝太宗に上表し、国禁を犯したことを詫び、帰国の勅許を請いました。太宗は玄奘の帰国を喜び、万事出迎えの手はずを整えさせます。

 貞観十九年(六四五)春正月、玄奘はついに長安に到着。街をあげての大歓迎を受けました。皇帝の命令で大行列が組まれ、玄奘を讃えながら長安中を練り歩き、群衆が押し寄せて大変な熱狂となります。出発するときは一人の見送りもなく、ひそかな旅立ちでした ので、何という違いでしょう。玄奘の将来したものは、仏舎利一五〇粒、仏像七躯、経典五二〇夾六五七部にのぼります。その後、洛陽にいる太宗に謁見し、経典翻訳の勅許を得ることができました。ここに天下の名僧が集められ、一大翻訳事業が開始されたのです。貞観二十年(六四六)には『大唐西域記』が完成。同二十二年(六四八)には、玄奘の宿願であった『瑜伽師地論』の翻訳も完成します。玄奘は新訳経典に御製の序を請い、太宗はこれに応じて「大唐三蔵聖経序」を著しました。新訳経典はこの「序」を冒頭に付して、いわば皇帝のお墨付きで、全国に頒布されたのです。

 太宗は貞観二十三年(六四九)に崩御しますが、後を継いだ高宗も翻訳事業の支援を続けました。玄奘の訳場は何度か変わりましたが、なかでも有名なのが長安の大慈恩寺です。永徽三年(六五二)、玄奘が将来した経典や仏像を保存するレンガ造りの塔が、寺内に建てられました。これが有名な大雁塔で、以後長安(西安)のシンボルとなりました。顕慶四年(六五九)には『成唯識論』が完成します。これは以後の東アジアにおける唯識研究の中心となりました。龍朔三年(六六三)には仏教史上最大の経典『大般若経』六〇〇巻の翻訳が完成します。そして、麟徳元年(六六四)に玄奘が示寂すると、翻訳事業も停止されました。梵本は大雁塔に保存されたのでしょうが、その後の行方は残念ながら分かっていません。

玄奘は十八年八ヵ月、休むことなく翻訳を続けました。翻訳総数は七五部、巻数にして一三三五巻にのぼります。インドから持ち帰った経典は六五七部ですから、訳出されたのはそのうちの一割強にすぎません。しかし、玄奘が翻訳した七五部、一三三五巻というのは、決して少ない量とは言えないのです。試みに中国の六大翻訳家の翻訳総数を比較してみると、次のようになります(『貞元録』による。真諦のみ『開元録』による)。

竺法護(二三九―三一六)   一七五部 三五四巻

鳩摩羅什(三四四?―四一三?) 七四部 三八四巻

真諦(四九九―五六九)   三八部 一一八巻

玄奘(六〇二―六六四)   七五部一三三五巻

義浄(六三五―七一三)   六一部 二三九巻

不空(七〇五―七七四)    一一〇部 一四三巻

 部数こそ竺法護や不空が上回りますが、これは短い経典が多いためで、巻数では玄奘が圧倒的に多いことが分かります。ちなみに玄奘を除く五人が翻訳した経典の総数は四五八部、一二三八巻ですから、五人合わせてもなお玄奘に及ばないことになります。もちろん玄奘は国家の全面的な支援を受け、優秀な翻訳僧たちと共同で翻訳していますので、他の翻訳家と一概に比較することはできません。しかし、『至元録』(元代に作られた経典目録)によれば、元代までに翻訳された経典の総数は一四四〇部、五五八六巻です。そのうちの約四分の一を玄奘一代で翻訳しているというのは、やはり驚異的な数と言うべきでしょう。

 インドでは経律論のすべてに通じた高僧を「三蔵」と尊称しますが、中国ではインドから仏典を将来し、それを翻訳した僧を「三蔵法師」と称します。したがって、中国には六大翻訳家をはじめ、たくさんの三蔵法師が存在しました。『至元録』によれば、歴代の訳経僧は一九四名を数えるといいます。しかし、一般に三蔵法師といえば、玄奘その人のことを指します。これは玄奘が『西遊記』で有名になったからでもありますが、もとはといえば、実在の玄奘がまさに三蔵法師を代表する人物だったからに他なりません。

 それではここで、玄奘が大慈恩寺で翻訳にいそしんでいる様子を、『慈恩伝』から引用してみましょう。

①〔永徽元年〕法師慈恩寺に還る。此れより後は専ら翻訳に務め寸陰を棄つる無し。毎日自ら程課を立て、若し昼日に事有りて充たらざれば、必ず兼夜にて以て之を続く。過乙(午後十一時)の後、方に乃ち筆を停め、経を摂め已る。復た礼仏行道し、三更(午前一時)に至りて暫く眠る。五更(午前五時)に復た起き、梵本を読誦して次第を朱点し、明旦に翻ずる所に擬す。

②毎日斎訖はるより黄昏までの二時(午後一時から五時)に新経論を講ず。及び諸州の聴学の僧等、恒に来りて疑を決し義を請ふ。既に上座の僧事を任ずるを知れば、復た来りて諮禀す。復た内使の功徳を営ましむる有り。前後に一切経十部、夾紵宝裝、像二百余躯を造るに、亦た法師の進止を取らしむ。日夕して已に去る。

③寺内の弟子百余人、咸な教誡を請ひ、廊廡に盈溢す。皆な詶答処分して、遺漏する者無し。衆務輻湊すと雖も、而も神気綽然として、擁滯する所無し。猶ほ諸徳と西方聖賢の立義、諸部の異端、及び少年に此に在りて講肆を周遊せし事を説く。高論劇談して竟に疲怠無し。其の精敏強力の人を過ぐること斯のごとし。復た数しば、諸もろの王卿、相来過して礼懺す。逢迎誘導すれば、並皆発心し、其の驕華を捨て、粛敬を称嘆せざる莫し。

(『慈恩伝』巻七、大正五〇、二六〇a―b)

 ①玄奘はしばらく太宗に陪従していましたが、その崩御にともなって、永徽元年(六五〇)久しぶりに慈恩寺に帰ってきました。しばらくは翻訳に専念できる。そう思った玄奘は、寸暇を惜しんで翻訳しました。毎日のスケジュールを立て、昼に用事があって予定通りに進まないときは、必ず夜に残りを翻訳しました。午後十一時を過ぎると筆を止め、行道して、午前一時頃にようやく就寝。午前五時頃には起床して、梵本を読誦しながら朱点を入れ、その日に翻訳するところの準備をします。おそらく行道や朝食をはさんで、朝から昼までが翻訳の時間に当てられていました。

 ②昼食後から夕方までの二時、すなわち午後一時頃から五時頃には、新訳の経論を講義しました。玄奘は全国から集まってきた僧侶たちの質問に答え、彼らのさまざまな疑問を解明していきます。その間に、寺の事務に関する質問に応じたり、内裏から来る使者に修功徳の指導をしたりしています。修功徳とは、功徳を積むために仏事を行うことで、ここでは一切経や仏具・仏像の作製などがあげられています。

 ③玄奘には慈恩寺の中だけでも百人を越える弟子がいました。教えを請うものが廊下まであふれていても、玄奘は彼らの質問に一つ一つ答えていきます。どんなに仕事が重なっていても、精神はおだやかで、滞ることがありません。また、弟子たちにインドの大徳たちの解釈や、さまざまな部派の教義、若いころ講義を聴くために中国各地を旅したことなどを説いて聞かせました。興味深い話を名調子で語り、疲れを知りません。まさに精力絶倫です。王侯貴族もしばしば礼懺に来ましたが、玄奘が彼らを誘導するとみな発心して驕りや贅沢を捨て、つつしみと敬いを称嘆するようになったといいます。

 この引用からは、西天取経を通じて命がけで学んできたことを、翻訳を通じて何とか弟子たちに伝えたいという玄奘の熱意がひしひしと伝わってきます。また、ここからも旅行家と翻訳家という二つの面が、沙門玄奘という一つの人格に見事に統合されていたことが分かります。大勢の弟子たちの中には、中国人だけではなく、新羅や日本からの留学僧もいました。玄奘は彼らの熱心な質問に答えながら、唯識思想が東アジアに広がっていく確かな手ごたえを感じていたに違いありません。

おわりに――唯識思想の流伝

 最後に、玄奘が伝えた唯識思想が、中国・日本でどのように継承されたのかを見ることにしましょう。

 玄奘の新訳に依拠して唯識を研究する人々を「唯識学派」といいます。唯識は本来すべての仏教を総合する立場(普一切乗)ですので、その教学にはアビダルマから般若、唯識まで含まれています。そのことは玄奘の翻訳によく表れており、唯識論書以外にも、アビダルマや般若経典が大量に翻訳されています。したがって、初期の弟子たちの研究領域は広く、その解釈にも幅がありました。しかし、玄奘が晩年に『成唯識論』を翻訳してからは唯識研究が一段と盛んになり、円測(六一三―六九六)や基(窺基、慈恩大師、六三二―六八二)らの優れた解釈も生まれました。なかでも基の解釈は、弟子の慧沼(六五〇―七一四)、その弟子の智周(六八八―七二二)に継承され、発展をみました。基の門流は「慈恩宗」または「唯識宗」と呼ばれます。日本の留学僧はこの系統に学びましたので、彼らの注釈書(基の『成唯識論述記』『成唯識論掌中枢要』、慧沼の『成唯識論了義灯』、智周の『成唯識論演秘』など)は、日本で特に尊重されました。

 日本に伝えられた唯識思想は、「法相宗」を中心に学ばれました。奈良時代の道昭(六二九―七〇〇)は、六五三年に入唐して玄奘に師事しました。六六一年に帰国して飛鳥の元興寺(今の飛鳥寺の地)の東南隅に禅院を建て、仏舎利や経典などを安置します(元興寺禅院は七一四年に平城京に移り禅院寺と号しました)。道昭は各地に井戸を掘り、川に橋を架けるなどの社会事業も行いました。また、六九二年に持統天皇が故天武天皇のために薬師寺講堂の阿弥陀仏繍帳を造った時、道昭は大僧都としてその開眼講師を務めています。このことから、道昭は薬師寺の造営に深く関与していたことが推定されます。道昭の弟子に有名な行基(六六八―七四九)がいますが、彼も元興寺・薬師寺で学んだ法相宗の僧でした。行基と同時代人の玄昉(?―七四六)は、七一六年に入唐して智周に学び、七三五年に帰国して興福寺で法相宗を宣揚しました。弟子の秋篠の善珠(七二四―七九七)は、『唯識義灯増明記』を著して日本の法相教学を大成しました。

 平安時代になると、法相宗と天台宗の間で、華々しい論争が繰り広げられます。徳一(八―九世紀)は奈良を離れて東国の会津に住し、関東から東北にかけて法相宗の教線を拡大しました。徳一は『仏性抄』などを著して天台宗を批判、最澄と論争したことでも知られています。天台宗ではこれを「三一権実論争」と称し、法相宗は三乗真実一乗方便を主張したと説明しています。しかし、先にも述べましたように、唯識は普一切乗ですから、一乗から五乗(五姓各別)まで、さまざまな教義が存在します。法相宗と天台宗の論争は、唯識の教義をきちんと踏まえた上で、見直してみる必要があるのではないかと思います。なお、平安後期の論争では、松室の仲算(九三五―九七六)と比叡山の良源(九一二―九八五)が対決した「応和の宗論」が有名です。

 鎌倉時代には、笠置の貞慶(一一五五―一二一三)が法相宗を中興しました。彼は持戒堅固で、解脱上人と称されました。著書に『愚迷発心集』や『成唯識論同学鈔』があります。また、良遍(一一九四―一二五二)も法相宗の復興に努めました。著書に『観心覚夢鈔』や『唯識二巻抄』があり、どちらも唯識の入門書として知られています。

 法相宗の寺院には、先にあげた元興寺、薬師寺、興福寺のほかに、法隆寺(現在は聖徳宗)、清水寺(現在は北法相宗)などがあり、そこでは今でも玄奘の伝えた唯識思想が学ばれています。また、薬師寺や慈恩寺(埼玉県)には玄奘の御頂骨も祀られています。これらのお寺にお参りしたり、『般若心経』を唱えたりするとき、玄奘のことを偲んでみてください。十七年六ヶ月の大旅行を経てインドから仏典を将来したこと、帰国後は十八年八ヵ月も精力的に翻訳し続けたこと、そして、玄奘の唯識が今でも学ばれているということを。私は僧ではありませんが、玄奘の生涯に触れるとき、仏教にはこのように立派な人物が生涯をかけるだけの何かがあるに違いない、と思わずにはいられません。それを見つけることができるか否かは、ひとえに私たちの努力にかかっているのだと思います。

 本日は唯識の中身まで触れることはできませんでしたが、玄奘の生涯を通じて唯識に少しでもご関心をお持ちいただけたならば幸いです。ご清聴ありがとうございました。

Acknowledgments

*本稿は、東大仏教青年会主催第二八九回公開講座「玄奘三蔵はるかなる旅―唯識思想を求めて―」(二〇十四年十二月十一日)での講演草稿に大幅に加筆したものである。

 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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