Journal of Buddhist Culture
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はじめに

今日は「縁起と空」というタイトルで、少しお話しをさせていただきます。涅槃会記念講演会ということですが、縁起というのはむしろ成道会にふさわしいテーマと言えるかも知れません。とはいえ、このテーマは私の専門と多少なりとも重なるところであり、またおそらくどなたもご関心がおありかと思います。

私は学生時代から仏教に関心があってこの専門を選んできました。仏教の一つの特色でもありますが、禅もあれば念仏や唱題もあり、それから天台・真言の伝統を背景に、日本の仏教が今に至るまでどうしてこのようにバラエティーに富んでいるのか。これが率直な関心でもあったし、分からない点でもあったわけです。

そこで、インドにさかのぼって勉強しようと思いました。今になっても全体像がつかめたとはとても言えませんが、仏教の大きな道筋をたどってきたということです。

今日のテーマは、縁起と空です。縁起については後に様々な解釈があるわけですが、仏教における思想的な道筋、バラエティーに富んだ仏教思想の骨格になっているものを一つ挙げろと言われれば、まぎれもなく縁起思想、仏陀が悟ったという一つの道理、これをおいて他にはありません。ただここで道理というのは一つの大乗仏教的な解釈になるわけですけれども、ともかく、今日はこの縁起を中心に、仏教の中心線、骨格をなしているものを考えてみようと思っております。

縁起とは何か

われわれが「縁起」という言葉を聞くと、仏教の基礎的な知識のある方は、ブッダが菩提樹下に悟ったのが縁起であり、弟子のために分かりやすく説明したのが四聖諦の説であるというのは、ご存じのことかと思います。

けれども、ただ日常的に縁起という言葉を聞いたときには、「良いこと、悪いことの起こる兆し」だとか、あとは「縁起を担ぐ」という使い方を思い浮かべます。「験を担ぐ」という言葉も、私の聞いたところでは「ギエン」、つまり縁起の逆さ言葉だそうです。江戸時代に流行った言葉で、縁起を逆さまにしてギエンにして、縮まってゲンになったということです。

それからもう一つは、ご承知のように「寺社・仏閣の縁起」と言うと、「寺社や仏閣の沿革やら由来」を意味します。実は二番目と三番目の意味は、一番目の意味を踏まえています。必ずしも無関係ではありません。

それでは、縁起とは何なのでしょうか。縁起はもともと、インドのサンスクリット語という言葉で「プラティーティヤサムウトパーダ」(pratītya-samutpāda)と言います。これは「縁って生じること」を意味します。素直に理解すれば、原因によって、依存して生じるという意味です。「依存性」と訳す人もいますけれども、「縁起」という言葉は現代語としても半ば使われていますので、これをあえて現代語に訳す必要はないだろうと思っております。

今われわれは、仏教用語を改めてふさわしい現代語に直したらどうなるか、ということを考えるプロジェクトをやっておりますが、縁起とか空という言葉はそのまま残したい、と考えています。それほどに定着した言葉です。また漢語の便利なところは、大変コンパクトな表現で表せるということです。縁起を英語ではよくdependent arisingとかdependent originationと訳しますが、それも少し長ったらしい。これを日本語にして「よって生じること」と直訳しても長い訳語になってしまいます。ですからここでは縁起という伝統的な漢訳語をそのまま使いたいと思います。

この縁起とは、いかにすれば人はその苦悩から解放されるのかという問題と深く関わっています。解放されるというのは、静けさに満ちた境地をいかに得るかということですが、仏教ではその境地のことを「ニルヴァーナ」(涅槃 nirvāṇa)と言います。正確には仏教のみに特有な術語ではないですが、当初は仏教に固有の、煩悩の炎が消え去った状態という意味でこの言葉が使われていました。

それをいかにして獲得するかと考えたときに、とにかく苦悩がもたらされる因果の系列をブッダは辿ったということです。それが端的に縁起という言葉で表されるようになりました。ですから縁起は、いかにすれば人はその苦悩から解放されるのか、という人生の普遍的な課題に対する回答という性格を持っています。

苦悩には必ず原因があります。病気には必ず原因があるのと同じです。それをひとまず自分のうちに探れば、煩悩、またはそれに根ざした行為が関係しています。その原因である煩悩が静まった状態をニルヴァーナと言います。また、苦悩から解放されたという結果に焦点を合わせて表現すれば、「解脱」になります。インドの言葉では「モークシャ」とか「ヴィムクティ」などと言われます。これらは、仏教を離れてインドの多くの宗教思想、とりわけゴータマ・ブッダ時代に現れた沙門型の宗教、出家遊行者型の宗教で広く用いられます。ブッダ自身も禅定によって悟りを得たということですから、広い意味でのヨーガ行者であることは間違いないわけです。

さて、苦悩がいかにもたらされるかという因果関係を、法の連鎖と言います。法というのはインドの言葉で「ダルマ」と言って、支え保つものという意味を持っています。仏教では、われわれの生きている世界の様々な要因、項目となっているものをダルマと呼びました。ですから仏教的な意味合いでダルマと言えば、この世界を支えている物質的・精神的要素というのが基本的な意味です。英語ではよくelementsなどと訳されますが、なかなか簡単に訳せるものではありません。単に法と言っても、理法、あるいは教法などと様々な意味を持ちうるからです。

ダルマには大きく分けて三つの意味があります。まずは先ほど述べた要素としてのダルマです。

それから、要素を貫いている共通の性質や道理としてのダルマです。例えば「諸行は無常である」と言うときの「無常」だとか、「一切の諸法は空である」と言うときの「空」であるとか、これらが諸法に共通した性質、道理としてのダルマであり、後世の言葉で言えば、「理法」にあたります。実は「理」というのが付くのは中国に入ってからです。インドにそのままぴったり当てはまる言葉があるわけではありません。様々な要素に共通の一つの道理として、そのように訳されるようになるわけです。

そして最後に、この二つを説いたものがブッダの教え(教法)だということで、ブッダの教えがまた法として訳されたりもします。

ここで縁起というのは、理法、すなわち道理としての法にあたります。これは要素としてこの世界を構成しているものではありません。例えば見る機能を持っている視覚器官だったり、音を聞く耳という器官だったり、それによって聞こえる対象の色や形だったり、そういった個別の要素ではない。個別の要素が必ず縁って生ずるというあり方でもって、共通の理法に貫かれている、そういうときに使うのが縁起ですから、これはもし法という言葉を当てたとしても、それは理法、道理としての法ということになります。

初期仏教における縁起

原始仏教、最近ではしばしば初期仏教という言い方をしますが、これは部派に分裂する以前の仏滅後百年あまりの間の仏教を指します。この初期仏教が大きく二つの部派に分かれ、さらに多くの部派に分かれていく。これを部派仏教と言います。これらの部派の中で論書が生まれ、議論が積み重ねられて、それぞれ経典や律の伝承を最初は口頭で伝えながら、後に書写して伝承するようにもなるというわけです。こういうことで大乗仏教が登場した、少なくとも表に出てきた頃には、十八の部派があったと言われています。

縁起については、部派仏教の時代から大乗仏教、そして近代に到るまで多くの論争がありました。縁起とはそもそも何なのかという問いに対して、「縁起は論理的な関係を言っているのではないか」とか、「そうではなくて、三世にわたる輪廻の説明原理として使われている」とか、これが明治の終わりから大正にかけて、近代の研究者間でも大きな論争のあったテーマです。そういうわけで、縁起は仏教の思想史において特に重視され、様々な解釈と論議をもたらしました。後に触れますが、大乗仏教の如来蔵縁起やアーラヤ識縁起といった説も、もとを辿れば初期仏教の縁起の解釈からスタートしているともいえます。

 さて、初期仏教と縁起についてですが、ブッダの成道の場面を描くときにいくつかの表現がある中の、代表的なものが縁起の説です。その他に、四禅によって三明を明らかにしたという話もありますが、三明も実は縁起説と無関係ではありません。過去の宿習と煩悩の克服、未来の生という三つの観点から、無明を明に転じたということは、ある種の縁起の解釈につながるからです。

 ただなんと言っても、この縁起の道理を理解することで、初期仏教は体系的に理解できようかと思います。初期仏教の説というと、中道、四諦、八正道などをばらばらに教わって終わりかねませんが、これらは全て縁起をしっかり理解することで、体系的に理解できるというところがあります。初期仏教の説をいかに体系的に理解するか、これが大事なポイントです。

 漢訳の仏典であれパーリの仏典であれ、われわれが初期の仏典を見ると、およそ縁起と言えば、十二支の縁起説が出てきます。これは基本的に惑業苦といって、煩悩と行為とその結果という三つの要素をどれだけ詳しく説明するかという話です。まず煩悩が、身口意の三業、すなわち身体的な行為、言葉を発する行為、思考行為という様々な行為を生み出します。この三つの行為をツールにして、様々にもがきながら執着して自ら苦悩を招く、というのが縁起説の骨組みです。もう少しコンパクトな縁起説は、比較的初期のブッダの考えを伝えると言われる『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などに出ます。

 ですから、縁起説の骨組みは煩悩と行為と結果としての苦楽の問題なんですね。煩悩が基礎になっていれば行為がいつまで経っても浄化されないので、結果として苦悩が導かれるということになります。因果系列を辿り、根っこにあたる煩悩をコントロールしきればいいんだ、それによって結果として苦悩から解放された静けさに満ちた境地が得られると、これが縁起説の骨組みです。

四諦と縁起

 ただこの縁起を悟ったブッダは法を説く段になって、縁起をそのまま縷々説明することもありましたが、ある時代以降になるとこれをもう少しコンパクトに説明したいということで、苦集滅道の四諦説が登場します。これもまた苦とその原因(集)と、苦を止めることで得られる涅槃(滅)と、涅槃に導く道ということで、やはり苦の問題をテーマにしています。集というのは本来、苦が生じることという意味です。ただ苦が生じる元となる法は何かということで、アビダルマ時代になって原因という意味で使われるようになります。

 こういう展開というのは、多くの部派に見られます。縁起説は後に、原因としての諸法を究めることが縁起の探求だと解釈されることにもなり、抽象的な道理としての縁起ではなくて、何が原因で苦という法がもたらされるのかという、上座部的な解釈です。これは南方の上座部と、北伝の代表的な部派であった説一切有部とに共通しています。説一切有部のいわゆる五位七十五法の中には、縁起はどこにも出てきません。どうしてかというと、縁起は原因としての法と結果としての法に尽きている。原因としての法がいかなるあり方をしているかによって、結果として苦楽のいずれかが導かれる、と理解しているため、縁起を究めることは原因を知ることだということになります。

大乗仏教徒はまさにこのような解釈を問題にします。ブッダは原因としての法を悟ったのではなくて、因果関係という道理を智慧によって見極めたのだ、と。「智慧によって」というのは、パーリ語で「パンニャーヤ」、サンスクリット語で「プラジニャヤー」と言います。あとは動詞の形で「パジャーナーティ」や「プラジャーナーティ」など「洞察した」という言い方で出ます。『般若経』の「般若」というのは、実はここに由来すると考えられます。ブッダが般若の智慧によって縁起という理法を見ぬいた、というこの般若(プラジニャー)に焦点を当てて般若経典と名づけているわけです。

ともかく、後世の言い方をすれば因果関係が縁起ですから、縁起の原因と結果を、原因は何、結果は何というように整理すると先の四聖諦の四つになります。有部アビダルマや南伝の上座部では、縁起はブッダが悟ったもので、それは原因としての縁を学ぶことに尽きるのだから、弟子はこの四つの真理を学びなさいと、そしてそれらを学ぶ弟子はアーリヤだと説いています。アーリヤというのは四聖諦の「聖」にあたり、聖人というような意味づけになります。

 苦集滅道の「集」というのは漢訳としては多少なりとも誤解を招きやすいですね。苦「因」滅道などとなっていれば良かったと思いますけれども、これには理由があります。「集」の原語はサムダヤと言って、「まとまって生ずる」というような意味ですが、「集起」とか「集生」と訳されることもありました。漢訳から一字ずつ抽出する際に、苦滅道はそのままで構わないのですが、集のところは訳語が二文字だったので、冒頭の一文字を取り出してしまったということです。いずれにせよ、苦とその原因と、苦を止めるための道である八つの正道と、苦の消滅という四つが聖者である仏弟子たちにとって真実(諦)であるということです。

その他の教説と縁起

 さて、初期仏教の時代の教えのうち、代表的な要素説に、五蘊・十二処・十八界があります。五蘊というのは、『般若心経』に「色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」とあるように、色・受・想・行・識ですね。色は人の物質的な要素、受想行識は四つの精神的な要素です。なかなか五蘊説は人を知情意の観点からよく捉えています。

 色というのは狭い意味でいえば人間の身体、広い意味でいえばその対象となっている色形や音声も入ります。それから受想行識、この中で一番重要なのは行ですね。行は端的に言うと意思です。意思が表に現れると身口意の三業になりますから、のちに行は意思を基礎にした体と言葉と心による活動、ないし行為という意味になります。行があって初めて対象の事物のイメージが湧いてくる、焦点が合うわけです。

 われわれは焦点を合わせて日常的な活動をしています。例えば、焦点を合わせないと文字を理解することさえできません。どこかに焦点を合わせることで初めて文字も図像も理解できます。これは音でもそうですね。必ずどこかに焦点を合わせているから、雑音を排除しながら特定の音に耳が向くわけです。私の家も少し離れたところに環七が通っていますから、最初の頃は車の音が気になっていましたが、住み慣れてくると次第にその雑音に焦点が合わなくなり、気にならなくなるということがあります。

行(意思)によって焦点を合わせ、特定のイメージをつかむ作用を想と言います。想によって識、つまり認識や意識が生まれます。識が生まれると同時に、苦や楽、快・不快の感覚を覚える、これが受です。意思作用があって目や耳をそばだてるという行為をしますね。そうするとある特定の像が浮かび上がってきて、これはうちの犬だ、これは美しい花であるというような感覚を覚えるというわけです。これが、人が直接的に経験できる五つの要素である、ということです。

 十二処・十八界の方は、六識と言って、視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚そして意識、この六つがいかなる感官と対象の接触から生まれるか、という認識と意識の構造を分析しています。これらは初期仏教の代表的な要素法とされるものです。

 縁起の道理は、これらがどのような因果関係によって成立しているかを説明しているわけです。ただし縁起の道理は苦楽が一番大事なテーマになっています。ゴータマ・ブッダは苦楽に直接関わらないような議論を一切相手にしなかったと伝えられています。苦楽の問題こそが人にとってきわめて重要なテーマであって、宇宙に果てがあるかとかないとか、心と体は同じか別かなど、当時の都市で議論が盛んだったテーマについては捨て置いたと言われています。

 縁起説を分かりやすく説明したのが四諦説ですが、そのうちの「道」、すなわち苦悩を止めるには何をなしたらいいのかということで、八正道が説かれました。八正道とは、①正見(正しい見解)・②正思惟(正しい思考)・③正語(正しいことば)・④正業(正しい行為)・⑤正命(正しい生活)・⑥正精進(正しい努力)・⑦正念(正しい心がけ)・⑧正定(正しい心統一)ですね。戒定慧の三学はこの八つに開くことができます。

 三学とは学処、すなわちわれわれが学ぶべきテーマを三つに分けたものです。そのうち慧にあたるのが、八正道でいうと①正しい見解です。②正しい思考・③ことば・④行為というのは、先ほど言った身口意の三業に関わることで、⑤正しい生活も含めて広い意味での戒に関わることです。それから最後の三つ、⑥正しい努力・⑦心がけ・⑧心統一というのが、広い意味での禅定に関わるテーマです。これらの三学、開いて八正道によって、いかに苦悩の原因をコントロールし、涅槃の境地を得るかというのが、初期仏教の―和辻哲郎などに言わせれば―実践哲学ということになります。

 これらの八つの道は極端な苦行によっても快楽主義によっても得られないものですから、不苦不楽の中道というのは八正道全体のありようを表しています。それから非有非無の中道、これはナーガールジュナなどが重視した中道説ですが、初期仏教のある経典で正しい見解とは何かという問いへの回答のなかに出る表現です。物事はある条件が整えば生じてくるので、存在しないというのも一つの極端です。しかし条件が変われば変化することがありますから、あり続けるということもないのです。このように、「いきなりなくなることもなければ、あり続けることもない」というものの見方、これがこの正しい見解の意味するところです。

 縁起として物事を見るというのは、すべてのものは色々なものに出会って変化するという見方をすることです。あり続けることも、いきなりなくなることもないから非有非無である。このように、非有非無の中道というのは、縁起を正しく理解することで当然理解される、極端に陥らないという立場だということになります。

初期の仏典にみられる縁起説

 初期仏教の教説は縁起を基礎に理解されうるという趣旨から、四諦説と縁起の関係などをごく簡単に説明しました。初期仏教の教説を見ると、ブッダはさほど理解しがたいことを説いてはいません。むしろわれわれがそのとおりに実践できるかという方が難しいのかもしれませんね。ここで少し、初期の仏典の記述を見てみましょう。

「熱意をもって思念するバラモン(=ブッダ)に、諸法が立ち現れるとき、かれの疑念はすべて消え失せた。

[すべての諸法には]原因があるという性質を洞察したのであるから。」(『律蔵』大品・大犍度)

 ここに挙げたのは、『律蔵』の冒頭、仏伝の中でブッダが悟りを得て、そして法を説き始めるという箇所です。大品にはブッダの生涯の大事な場面の説明が出ますが、その中の有名な一節です。諸法が立ち現れるときに、かれの疑念は全て消え失せた。どうしてかというと、全ての諸法は原因を持つという性質があることを洞察したからだ、と。「原因があるという性質」、「サヘートゥダンマ」と言いますが、この言葉について、初期仏教の注釈文献は少し独特な解釈をしています。「原因があるという性質を洞察したからだ」というのが正しい解釈だと思いますが、注釈は「原因を持つ結果としての法を洞察したから」と解釈します。いかがなものかという気はしますが、上座部の長い伝統を踏まえた要素主義的な縁起解釈ですから、これはこれで尊重する必要はあるかと思います。

 しかしながら、大乗仏教徒はそのような理解を避け、批判しました。そのときに彼らが注目した、縁起を説明する初期の仏典があります。これは大乗仏教だけではなく、説一切有部のアビダルマなどでもしばしば引き合いに出される箇所です。

「比丘たちよ、縁起とは何か。比丘たちよ、誕生(生)を縁として老死がある。如来たちが生まれようと生まれまいと、この基礎(界)は定まり、法の定立性、法の確立性、此縁性である。如来はそれを証得し、洞察する。証得し、洞察したのちに説き、示し…(中略)…明らかにし、汝らは見よ、という。

比丘たちよ、誕生を縁として老死がある。生存(有)を縁として誕生がある…(中略)…無明を縁として諸行がある。如来たちが生まれようと生まれまいと、この道理は定まり、法の定立性、法の確立性、此縁性である。如来はそれを証得し…(中略)…汝らは見よ、という。

無明を縁として諸行があるというのは、比丘たちよ、そこにおいて真如、不虚妄性、不変異性、此縁性があるが、比丘たちよ、これが縁起といわれる。」(『相応部経典』因縁篇・因縁相応)

これは『相応部経典』という大乗仏教も重視した初期仏典からの引用です。テーマごとにブッダの教説を配置していて、漢訳では『雑阿含経典』が対応しますが、縁起とは何かをテーマとしています。

 ここには後代、大乗仏教徒たちがいろいろな意味で重んじた縁起解釈が示されています。まず「如来が生まれようと生まれまいと」とあります。仏はその縁起を洞察し見抜いたから成道したのですが、仏が成道する前にもこの道理はあったのだということです。「依法不依人」というような言い方がありますが、理法にあたるものは誰かが悟る以前から元よりあった、と。それは諸法のはっきりした定まり、ルールにあたるものだというのがこの後の台詞です。「此縁性」とか「法の定立性」とか「界」というのは、法界という言葉があるように大乗仏教できわめて重視された大事な概念です。また「真如」という言葉がありますが、これはタタターと言って、「その通りであること」という意味です。この言葉は大乗仏教の、ある時期以降の般若経典に登場します。またこの真如を重視したのは瑜伽行唯識学派という、中国の法相教学につながる学派でした。実は「その通りであること」というこの表現は縁起を形容したものです。縁起という道理はそのままのものであり、人の迷いや悟りの基礎となっている。これはブッダが生まれようと生まれまいともある、ということです。

 これはどうしてかというと、縁起には二通りの意味合いがあるからです。それを伝統的には「流転門の縁起」と「還滅門の縁起」と言います。展開する縁起と止める縁起ということで、それぞれプラヴリッティ、ニヴリッティと言います。縁起の流転門は迷いの系列を説明し、他方の還滅門は原因をコントロールし、結果である苦悩から解放される道筋を示しています。

 縁起というのは、煩悩によって行為が生まれ、苦悩が引き起こされる、というだけでは話になりません。その煩悩がコントロールされ、行為が浄化されて、結果として苦悩から解放されること、すなわち流転門を還滅門に転換するというところにポイントがあります。行為がなくなるのではなくて、それが浄化されて、苦悩から解放された静けさに満ちた境地に至るというわけです。この両面をあわせ持つのが縁起ですから、迷いの根拠でもあるし悟りの根拠にもなります。

縁起の発展的解釈

 部派アビダルマの縁起解釈では、縁起を抽象的な道理と見なすことなく、例えば苦や苦をもたらす諸法を有為法、苦の消滅としての涅槃を無為法と言いますが、それらの諸法を生じる原因となっている法を見極めることを重視しました。その方が弟子には分かりやすいという事情もあったように思います。煩悩を煩悩でない善法に変えようとか、あるいは落ち込んでいるメンタリティーよりは心の軽快さが重要であるとか、具体的なのです。

 大乗仏教は、このような部派仏教の解釈に対して「やはりブッダの説の解釈としては極端に偏っているのではないか」と疑問を呈しました。要素主義的な解釈に走りすぎている、と。このような文脈から大乗仏教は先ほどの「縁」経を再評価します。

 もっとも、縁起については、如来が生まれようとも生まれまいとも存在する道理、いかなる場合もある無為法だと解釈する部派もあったと言われています。具体的には後に上座部から分派したとされる、化地部や分別論者などです。大乗仏教の縁起解釈と少しつながるところもありますが、大乗仏教では、有為法の本質がそのまま無為法のあり方であると理解しますから、縁起を有為法とは異なる無為法だという説明にはなりません。ただし、発想としては、いついかなるときも縁起という道理はあるから、これは形成されたものではなく、不生不滅のものである、という点は涅槃に共通しています。

 そういうことで、大乗仏教というのは初期仏教の新たな解釈を、論の形ではなく経典の形で説き始めたというところに大きな特色があります。新しい論を展開したというだけなら、第十九番目の伝統部派に収まったとも言えます。そうではなく、経典を生み、ストーリー性を持たせて自らの主張をしたということです。そしてその大乗経典に根ざして新しい論の展開が生まれてきますから、大乗仏教は初期仏教の新たな経論解釈運動として、紀元前後ぐらいから、じわじわと影響力を持ち始めます。

ここで、大乗仏教における縁起解釈の発展について少し触れておきたいと思います。後に法界とか法爾道理と呼ばれることにもなりますが、縁起を迷いと悟りの基礎と見る、その重要な一つの典拠は初期の仏典にもあります。それが先に引用した通称「縁」経と呼ばれる箇所です。

さらにまた、瑜伽行派が重視した経典の一つに『大乗阿毘達磨経』という経典があります。これは特定の偈頌しか分かっていない謎の経典で、次のような偈文がよく知られています。

「無始時来の基礎(界)は、一切法の拠り所である。それがあるとき一切の[輪廻の]赴くところがあり、またニルヴァーナ(涅槃)の証得もある。」(『大乗阿毘達磨経』)

この一文は、実は「縁」経に由来しています。「無始時来」というのは、要するに始まりのない時からということです。もともとあった基礎、拠り所というのは、まさに先ほど「縁」経で「この基礎(界)が定まり」と言われたとおり、縁起のことなのです。縁起は一切法の拠り所です。流転門が基礎になって一切の輪廻の赴くところがあり、還滅門によってニルヴァーナの証得がある、「縁」経はこのような大乗経典の一説につながっていったということです。

これが後に「無始時来の基礎」という言葉に対して、それはアーラヤ識だ、あるいは如来蔵だ、と位置づけることによって、如来蔵縁起説やアーラヤ識縁起説が生まれました。アーラヤ識というのは、日常的な六つの識などがそこから生まれてくるとされる、潜在意識とも言えるものです。アーラヤ識という基礎的な潜在意識を転換すると智慧に変わる。これを「転依」と言いますが、識から智慧への転換によって悟りに至る、という説明をします。「無始時来の基礎とは何か」という問題に対して、本来は縁起を指していたところに、アーラヤ識を置くことで成立した考え方ですね。

 同様に如来蔵縁起説も、われわれのこの世界の基礎は如来蔵である、という説明を与えました。如来蔵とは、われわれは如来の胎児であるから、如来の本性、すなわち悟りの素質を持っている。しかしながら偶来的な煩悩に覆われ、如来の見えざる子供であるが故に、普段は本性のままで留まっているということです。ただし、煩悩に覆われてはいるが苦を厭い、安楽を求めようとする本性が働き、それによって偶来的な煩悩が払われると、子供ではなく巣立った大人に、つまり如来になると説かれます。これが如来蔵思想です。

 雲が太陽の光線を遮っているうちはいつまで経っても曇りのままであるように、煩悩が覆っている状態では、如来蔵は一切の輪廻の赴くところにつながります。反対にすべての雲が晴れて本来ある太陽の光線が届けば、ニルヴァーナの証得につながります。やはり如来蔵縁起説の根拠も、「無始時来の基礎」というところを如来蔵と読み直すことで成立しているということです。かの「縁」経というものが、いかに大乗仏教の教理の基礎になっているかということがお分かりいただけたかと思います。

空についての誤解あれこれ

 さて、ここからは空の話になります。空というのは色々な誤解にまみれてきた言葉です。例えば、空というのは無を意味する、ある種のニヒリズムである、というような理解ですね。今でもこういう解釈をする人がいます。あるいは、空はことばの習慣や道徳・倫理を無意味なものとするという見解、これについてはナーガールジュナの著作の中でもよく議論されます。空とは何もない、空っぽだということで、なぜそういう否定的な、ニヒリズムにつながるような表現をとったのかという批判も当時からありました。ただし、空というのは初期仏教以来の言葉であって、『般若経』で初めて説かれたというわけではありません。

 さらにまた、空は事物が固有の本質を欠くことを意味する、と考える人もいます。ある程度仏教の知識をお持ちの方、龍樹の『中論』をお読みになっている方の中には、その通りでいいのではないですかと思われる方もいるかもしれません。しかしこの理解は半分そうですが、半分問題があります。これについては後ほど触れたいと思います。

 また、初期仏教の中心的な思想が無我・非我であるのに対して、空の思想は大乗仏教において初めて登場した、というのも誤解といえば誤解です。初期の仏教において、空はしばしば空三昧・無相三昧・無願三昧の三三昧の一つとして登場します。そこでは、われわれの心身のどこかにそれらを束ねる主としての我(アートマン)があるか否か、という問いに対して、そのような我を欠いているという意味で、空という言葉が使われています。これは無我説であって、非我説ではありません。

 無我と非我とは微妙に違っていて、非我というのは例えば私の意識や心は我ではないというような意味です。意識や身体そのものではなく、それらを保有する主体としてアートマンがあるのではないか、というような考えもありえます。このような考えに立つ人は、意識や身体を「私のもの」として理解します。これを「ママカーラ」(所有意識、我所執)と言います。このような、私は「私のもの」として身体や心を所有しているという思い、このような思いこみの誤りに気づかせるための三昧、それが初期仏教の空三昧です。ですからこの初期仏教以来の空の思想というのは、無我という意味で使われていたのですが、大乗仏教になってもう少し異なる、あるいは広い文脈で使うようになったというのは正解です。

 他にも、空の思想は仏性や如来蔵思想、あるいは本覚思想など他の大乗思想と相容れないと考える人がいるかもしれませんが、必ずしもそのようなことはありません。仏性や本覚というのは、全ての衆生の中に仏の本性があるとか、すべての衆生は本来的に目覚めているという説ですから、結局は如来蔵思想に重なります。如来蔵思想は、如来蔵や仏性は空であるという言い方をしませんが、偶来的な煩悩は変わりゆくものであり、それゆえ空であると言います。これに対して衆生が持っている仏の本性は可能性として、いついかなるときもある、これは不空であると言います。ですから、変化するものは空であるという「空」の語意理解は空思想と共通しますが、「空」の意味対象を煩悩に限定しているともいえます。

 『般若経』の空の思想というのは、当時から誤解を招きやすいという面がありました。『中論』の作者である龍樹(ナーガールジュナ)の果たした一つの役割は、その誤解を正そうと努めたことにあります。もう一つは、この空の考え方こそが、ブッダが縁起という言葉で表したものに直結すると主張したことです。それではどうして縁起を空と言い換えなければならなかったのかということですが、これには思想史的な文脈があります。

 先ほど言いましたが、上座部では南伝であれ北伝であれ、要素としての法だけは本質的に実在すると考えていました。例えば、今ここにいる私たちは真面目に勉強しているから怠け心があるというのはふさわしくありませんが、そういう怠け心のメンタリティーというのは、今はなかったとしても何かのきっかけを得ればまた現れてきます。こうした諸法は、それを獲得するか手放すかという仕方で説明されるということで、法が働いているかどうかということと、本質があるかないかは別だと考えました。こういう考え方に対しては、有部系の伝統部派の中にも批判的な立場に立つ人たちがいて、経量部という部派では、今現在働いているものだけが存在する、という解釈が出され、大きな影響を与えることになります。

 ナーガールジュナに言わせれば、物事の本質はむしろ働きや作用にあります。壺を例にとると、「その中に水やミルクを盛るという働きをもつもの」を「壺」と言います。「人」と言おうと「アートマン」と言おうと、それは仮の表現としては何の問題もない。ただしあくまで仮の表現であって、実際にわれわれにとってあるのは意識だったり苦楽の感覚や意思だったり、対象のイメージや身体だったり、お互いの因果関係を通して変わりうるようなものである。いかなるレベルであれ、実体的な固有の本質を認めることは変化を妨げることになる。変化を妨げるような考えは現実に照らして当たっていない、これがナーガールジュナの理解するところでした。

『中論』第二十四章からみた空の思想

 この論点をよく表すのが、『中論』第二十四章の議論です。これは昔私が修士論文で扱った章でもありました。二諦説に興味があったものですから。一つには真理をいかにして言葉は表現しうるのかという問題がありました。また、修行者とはいえ四六時中仏道を行っているわけではありません。世俗的な営みと仏道にかかわる行為はどのようにリンクするのか、このような、いずれも二諦説に関わるテーマに関心がありました。それならば『中論』の中で唯一、二諦説を説いているこの第二十四章を学んでみようということで―どこまで理解したのか心許ないところはありますが―この箇所を扱いました。

 この『中論』第二十四章には、まさに先ほど言ったような空を無と誤解した人による批判として、次のように反論がまず置かれています。

「1 もしもこのすべてが空であるなら、生じることもなく、滅することもない。[空を説く]君にとっては、四種の聖なる真理(四聖諦)が無であることになってしまう。」(『中論』第二十四章第一偈)(中略)

「6 法と僧がないのなら、どうして仏があるであろうか。このように、空を語る君は三宝を破壊する。さらにまた、果報の存在性、善行と悪行、およびすべての世間的な言語慣習をも破壊する。」(『中論』同章第六偈)

「生じることもなく、滅することもない」というのは煩悩から苦が生じるとか、八正道によって苦悩が消滅するということもないということで、四諦の説を破壊することにつながります。そうすると、それによって苦の消滅に相当する涅槃を得て仏になることもありえず、それを目指して修行するサンガ(僧)もありえないので、三宝を破壊する。さらには一般的な因果関係も成立せず、善い行為・悪い行為の区別もなくなってしまう。また、あの犬を連れてこい、このリンゴを食べたい、というような世間的な言語習慣をも破壊してしまうということです。

 このような批判に対して、ナーガールジュナは第七偈以降で反論していきます。

「7 これに対してわれわれは答える。君は、空であるときの有用性と、空と、空の意味とを知らない。それゆえこのように損なわれるのである。

8 諸仏による法の説示は、二種の真理(二諦)にもとづいてある。世間世俗の真理と、勝義(最高の意味/目的)からの真理とである。

9 これら二種の真理の区別を知らない人々は、深遠な仏説における真実を知らない。

10 言語慣習にもとづかなければ、勝義は示されない。勝義に到らずに涅槃は得られない。」(『中論』同章第七〜十偈)

「世間世俗」というのは、ナーガールジュナの文脈で言えば第十偈にある「言語慣習」にあたります。つまり言葉の習慣や言語表現というのが、「世俗」の基本的な意味になります。これは非常に大事なポイントです。同じ時代に作られたと言われる有部アビダルマの論書『大毘婆沙論』にも同様の解釈が見られます。

 これに対して、言葉によって表そうとされている、最高の意図や目的にあたるもの、これを勝義と言います。二諦説は初期仏教にまとまった形で出ることはありません。勝義や世俗という言葉は出ますが、この場合の勝義は涅槃のことを指します。世俗という言葉は―訳語はともかく―昔からよく使われていましたから、ナーガールジュナのいう「言語習慣」や「言語表現」という説明も伝統的なものといえます。

 「涅槃」と伝統的に言われてきた勝義、これはまさに空にあたるというのがナーガールジュナの説明です。ただしその勝義は「空」という言葉をも含む言語習慣によって表現するしかない。これがないと勝義にあたる空そのものに到達することができないということです。ですがその微妙な違いと言いますか、指で月を指し示すという喩えでいえば、指を見て月を見ないということであってはなりません。そのことを示すのが第十一偈と第十二偈です。

「11 誤って見られた空は智慧の乏しい者を破滅させる。あたかも誤って捕らえられた蛇や、あるいはまた誤って行われた呪術のように。

12 それゆえ、この法は[智慧の]乏しい者たちによっては理解されがたいことを考えて、[シャーキャ]ムニの心は、法を説くことから退いたのである。」(『中論』同章第十一〜十二偈)

 呪術が人を惑わし、下手をすると命を殺めることになるのと同様に、反論者のように「空は何もかもをぶち壊しにする、仏説も世間の言語習慣や道徳倫理さえも無意味なものにする」と誤解することを戒めているわけです。

 第十二偈はたいへん大事なポイントを伝えています。ブッダは悟りを得たのち、数週間その喜びに浸ってから、さて、はたしてこれを世の人に伝えようか伝えまいかという迷いが生じました。そのときに梵天が―当時のバラモン教の最高神ですが―登場して法を説くことを勧めるという、かの梵天勧請の説話はご承知かと思います。空が理解されがたいというのは、ブッダが縁起という道理は理解されがたいので四諦というコンパクトな説にして説いたという伝承を踏まえた表現です。つまりブッダが縁起という言葉で表現した道理に空は重なると言いたいのです。

「13 君はまた、空について非難をなすが、われわれには誤りが付随することはないし、それ(非難)は空についてはありえない。

14 空が妥当するものには、すべてが妥当する。空が妥当しないものには、すべてが妥当しない。」(『中論』同章第十三〜十四偈)

 第十四偈もまた重要です。「空が妥当するもの」というのはナーガールジュナの意味づけからすれば、縁起するものというのと同じです。ただし、ナーガールジュナ在世当時に主流だった説一切有部流の縁起説は、この世界を構成している五位七十五法のうち、無為法を除いた七十二の有為法が基礎となって、それらが自分以外のすべての有為法を縁とする関係にあるというような、このような考えを前提にした縁起説でした。

 ナーガールジュナによれば、あるものがあるものによって生じるとき、依られるものと依るものは別とも同じとも言えないとされます。これは現代人にも分かりやすいですね。例えば氷が溶けて水になった場合、氷と水は様態が違っていますが、本質的には同じとも別とも言えません。ナーガールジュナはこのような広い意味での縁起解釈に立ちます。この考え方に立つことで初めて全てのものが変化しうるし、変化することが可能だからこそ、われわれは堕落することもできれば仏にもなると、こういう両方の可能性が開かれています。この意味で、空が妥当するものには全てが妥当すると述べています。

この第十四偈と、それから第十五偈、そして第二十一偈以降は、そのような空の目的ないし有用性を説いているとされます。

「15 それゆえ君は、自分自身の誤りをわれわれに投げつけているのであり、馬に乗っていながら、まさにその馬を忘れてしまっているのである。

16 もしも君が、諸事物を固有の本質(自性)にもとづいて存在すると見るのなら、そうであるなら君は、因と縁のない諸事物を見ているのである。

17 君は、結果と原因、行為主体と行為手段と行為、生と滅、および果報を破壊する。

18 縁起をわれわれは空と呼ぶ。それはまた[何かに]依っての表示(仮名)であり、それこそが中道である。

19 縁起していないいかなる法もないのであるから、それゆえ空でないいかなる法もない。

20 もしもこのすべてが不空であるなら、生じることもなく、滅することもない。[空を批判する]君にとっては、四種の聖なる真理が無であることになってしまう。」(『中論』同章第十五〜二十偈)

さらに第二十偈を見ると、そのような空を認めないとそこで世界が静止してしまい、生起も消滅もなくなる、と語り、空でなく、不空の立場に立つ反論者にこそ過失が付随すると言います。なぜなら、すべてのものが空でないなら、今あるものがずっとあり続けることになり、滅することがないからです。苦悩を抱いている人はいつまで経っても苦悩から解放されない、これが空を認めない人に付随する。そういう過失の指摘が延々と第四十偈まで続きます。

 空の意味を説明している第十八偈と第十九偈がその理由にあたります。縁起であれ空であれ、それらはいずれも言葉を用いています。「縁起」も言葉、「空」も言葉、それから「人」もまた言葉です。身体(色)や感受作用(受)などの五つの構成要素(五蘊)を質料因にして「人」という名前を与えている、という意味では「人」もまた言葉を使った仮の名称になります。このように、すべてのものは厳密にはあるともないとも言えないという縁起の道理は、まさに非有非無の中道というもののあり方を示してもいます。

 第十八偈の中でナーガールジュナにとって一番大事なのは、「縁起をわれわれは空と呼ぶ」というところです。どうしてかというと、空は何もないことを意味するという誤解を解消するのが目的だからです。言葉が違えば、それが持つ概念としての意味も違います。「空」と「縁起」は言葉が違うので概念としては相違します。しかし言わんとしている対象は基本的に変わらない。これが第十八偈の内容です。

 さらに第十九偈もこれに付随して、縁起を正しく理解する人は空をも正しく理解すると述べています。これはたいへん重要なポイントで、ナーガールジュナにとって空というのは、当該のもの以外がすべて縁になるという、アビダルマ的な広い意味での縁起解釈を敷衍したことになります。

縁起と空

 ということで、『中論』第二十四章の内容を三つのポイントにまとめると、まずナーガールジュナにとっての縁起、つまり空というのは、仏説の真実、勝義、涅槃にあたるということです。「仏説の真実」というのは、先ほどの第九偈に出てきましたね。第八偈から第十偈はナーガールジュナが二諦説を説く箇所です。ちなみにこのテキストは『中論』という名前ですが、中道という言葉が出るのは第二十四章の第十八偈だけです。後に天台教学で三諦偈と呼ばれますが、空・仮・中の三諦という考えが派生するのもこの第十八偈です。いずれにせよこのナーガールジュナにとって、空というのは仏説の真実にあたるものであって、勝義でもあり、伝統的に涅槃と言われてきたものにあたる、と。それは本来的に言語表現を超えているけれども、言語表現なしには示されない。これがいちばん言いたいところです。それを第八偈以下で述べています。

 次に「空」が意味するところですが、ナーガールジュナにとって「空」というのは、縁起にほかなりません。言葉が違えば言葉の持っている概念も違って当然ですが、縁起、すなわち縁って生ずるということは、つまりは固有の本質を欠いているということです。固有の本質を欠くことを自性空と言いますが、「空」というのはもともと何かが何かを欠いているという意味です。英語で言うとempty ofという表現がありますが、This room is empty of elephants. この部屋には象がいない、象を欠いているというときの「欠いている」という意味です。ですから空が縁起だというのは、実は固有の本質(自性)に対するナーガールジュナの定義に関係します。固有の本質とは何かというと、『中論』第十五章の第二偈に「他のものに依ることなく作られないもの」という定義があります。これは西洋哲学でいう実体の概念に近い意味づけです。そういう固有の本質(自性)を欠くものは縁起すると言っています。

 われわれは食事をしたり飲み物を飲んだりして生きていますが、そうすると人は常に新陳代謝しながら生きているという点では一瞬たりとも同じ状態であることはありません。一方でまた、微妙に変化しながらも法律的にも、また自分の意識の上でもアイデンティティを保っています。そういうことを批判しているのではなくて、不変の変わらざる本質が自分の中にあるというふうに考えた途端に人はそこで止まってしまう、と言うのです。ですからむしろ空であるときに、すべての人や事物は縁起し、他の人や事物と因果関係をもちながら変化し、全てが妥当する。これが「空」の意味であり、空であるときのすべてのものの有用性であります。ナーガールジュナの空の考え方を理解する上では、苦に関する以上の三つのポイントが大変大事になってきます。つまり、先の第十四偈に出る、空そのものと、空の意味と、空であるときの〔すべてのものの〕有用性です。これらはときに空性、空義、空用とも呼ばれる三つのポイントです。

 先ほど空というのは、固有の本質を欠いていることというだけでは半分の理解だと言いました。固有の本質を欠くがゆえに他の働きと関係しあいながら働く、というのがもう半分です。例えば、水を飲みたいときに氷を持ってこられても困ります。温度を上げて溶かしてもらわなくてはいけません。暖めるというきっかけを与えて溶かすことで水になります。水ではアイスコーヒーしか飲めませんから、ホットコーヒーにするときにはホットウォーター(温水)にしなくてはいけません。日本語だとお湯という言葉がありますが、人間にとっての働きが異なるものに、人は別の名前を与えます。言葉を仮りの表現として採用し、表現されるものの働きや様態が変われば、私たちはまた表現も替えます。ただし、水と氷、水とお湯の間にも連続性はあります。いずれにせよ、空であることによってこれらすべての変化は可能になり、空であればこそ作用がはたらくということです。

 作用こそが物事の本質であるというのは、考えてみれば、有情の本質を行為に見るというブッダの、また初期仏教由来の考え方でした。人は行為がすべてであり、行為の結果として苦楽がもたらされる。ですから、ゴータマ・ブッダの、人の本質を行為に見るという考えは、縁起とともに仏教を貫く思想として後世に到るまで継承されていきました。

おわりに

 今日の私の話の結びは、仏教は縁起を究めることに尽きる、と言えるということです。そしてまた、縁起を究めた人が仏ということになります。後世言われるような意味での法身仏というのは、縁起という道理を身体としている人のことを指しますから、まさにそういうことです。この縁起の思想を理解することが、仏教思想の核心を理解するうえできわめて重要です。

 ただし、同時にまた縁起の思想が様々な解釈をもたらしたということも併せて理解する必要があります。縁起説の核心は、生存の苦悩をもたらす原因を探究してそこに煩悩を見いだし、苦悩の原因となるその煩悩を静めることによりニルヴァーナ、すなわち煩悩の炎が吹き消された静謐な境地の獲得を目指す、というところにあります。この点は初期仏教以来変わりません。ただし大乗仏教徒たちは、輪廻を離れてそのような境地に入ろうということではなくて、今この世で生きている世界でそれがありうると理解しました。時代背景の変化も影響してか、輪廻観も大きく変わりましたが、基本線は変わらないと言えるのではないかと思います。

 今日の私のお話はこれで終わりにさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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