Journal of Buddhist Culture
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禅の伝灯、馬祖系・石頭系の登場

 今日の話は、禅の歴史の中でもちょっと細かいところに触れるかと思うのですが、お付き合いいただきたいと思います。

 まず禅宗が興ってきた過程をざっと振り返りますと次のようになります。禅の伝統では、釈迦牟尼仏に源を発して、一代一代と法が伝えられてきたとされます。その法は菩提達磨によって南インドから中国にもたらされ、中国で二祖慧可(えか)、三祖僧璨(そうさん)、四祖道信(どうしん)、五祖弘忍(ぐにん)、と伝えられたということになります。ただ、実際の歴史上のことになりますと、菩提達磨がどのような人物であったのか、ほとんどよくわかりません。それから、二祖慧可、三祖僧璨についても、歴史上実在したと考えることは問題ないのですが、具体的にどのような活動をしていたのかというと、これもやはりよくわからないところが多いです。現在に伝わる禅宗教団の母体が、歴史資料のなかにはっきり現れるのは、七世紀の中頃になってのことです。四祖道信それから五祖弘忍という人たちが、蘄州(きしゅう)黄梅(おうばい)県(現湖北省黄梅県)近郊の山中で東山法門と呼ばれる教団を形成したのがそれです。そして、この東山法門のなかの一部の人が、唐王朝中央へと進出しました。その中でも、五祖弘忍の弟子である神秀(じんしゅう)は、七〇〇年に則天武后によって宮中に招かれ、「両京の法主、三帝の国師」と称されることになります。この法系はその後、大きな勢力となりました。しかしそのいっぽうで、同じく五祖弘忍に嗣いだ六祖慧能(えのう)の弟子である荷沢(かたく)神会(じんね)という人物が出てきます。この荷沢神会は、自らの師である慧能こそが五祖弘忍の正統な後継者であると主張して、慧能の系統を「南宗」、神秀の系統を「北宗」と呼び、「北宗」に対して激しい批判を展開しました。これにより「南宗禅」の権威がしだいに認められるようになります。しかし、神会自身の系統は、何代かして断絶してしまい、現在までは伝わっておりません。現在伝わっているのは、慧能のもとから出た、南岳(なんがく)懐讓(えじょう)、そしてその下の馬祖(ばそ)道一(どういつ)へと伝わる系統、それと青原(せいげん)行思(ぎょうし)から石頭(せきとう)希遷(きせん)へと伝わる系統、つまり南岳系(=馬祖系)と青原系(=石頭系)と呼ばれる二つの法系です。この二つの法系の実質的な開祖は馬祖と石頭ですので、以下では馬祖系、石頭系と呼ぶことにしましょう。その後、馬祖系からは臨済宗が、石頭系からは曹洞宗が成立して、今日の日本にまで伝えられています。このあたりのことは、あるいは皆さんよくご存じかもしれません。

 このように今日では、この馬祖系と石頭系が南宗禅の二大法系と認識されているわけですが、近年の研究は、このうちの石頭系が、馬祖系から派生する形で形成されたことを明らかにしました。つまり石頭系は、本来、馬祖系の中にいた人々が、馬祖系の思想を批判しつつ、後から作りあげたものだったのです。そしてこのような経緯が明らかになったことで、それまで読解の難しかった、いわゆる「禅問答」の意味が、だんだんに分かるようになってきました。これは二十一世紀の禅学研究における大きな成果となりました。

今日お話しすることもこの馬祖系・石頭系の分裂と関係しています。ただ、この分裂劇そのものではなく、この二つの法系の姿がだんだんはっきりしてくる時期からその少しあとくらいまで、幾人かの人々がどう行動し、どのような関係を持ったのかという物語を皆さんと見てみたいと思います。それは馬祖系と石頭系の分裂をもう一つ別の視点から眺めることにもなるでしょう。そのようなわけで、今日の主人公である雪峰(せっぽう)義存(ぎそん)(八二二―九〇八)に登場してもらおうと思います。

 この雪峰義存という人物は、福建の出身で、最終的には石頭系の法を嗣ぎます。石頭を第一世代とすると、第五世代に当ります。その後、福建に帰り、福州(現福建省福州市)の雪峰山に大きな教団を組織することになるのですが、若かりし頃の彼が諸山を行脚していたのは、ちょうど石頭系と言われる人たちが、歴史の表舞台に出てきたばかりの時期でした。雪峰はまさに石頭系の登場を目撃し、そこから大きな影響を受けた人物であったということになります。また後の時代のことを言えば、この雪峰の教団から禅宗の五家のうちの二つ、雲門(うんもん)宗と法眼(ほうげん)宗が成立し、宋代へと禅の伝統を伝えていきます。唐末から宋初にかけて、我々にとって馴染みの深い臨済宗や曹洞宗は細々と法系を伝えているという状態でした。ですから、唐代禅の伝統を宋代へ伝えたのは、実質的にはこの雲門宗と法眼宗だったのです。こうして見てみると、雪峰は唐代禅と宋代禅を結ぶまさにかなめの位置に存在していたことがわかるかと思います。そこで本日は、この雪峰義存の行脚時代の行跡を辿りながら、このとき禅がどのような展開をしていたのか、皆さんと見てみたいと思っております。

福建と馬祖禅

 さて、雪峰の話に入る前に、時間を少し巻き戻しまして、雪峰よりも前の時代の福建がどのような状況であったか見てみましょう。

 文献上に確認できるものとして、福建にはじめて南宗禅を伝えたのは、馬祖道一(七〇九―七八八)でした。馬祖は天宝元年(七四二)に建陽(現福建省建陽市)の仏迹巌というところで開法します。ここでは紫玉山道通や甘泉志賢、天目山明覚といった人々が馬祖に参じています。そもそも馬祖の門下には福建出身の人物が少なくありません。ほかには大珠(だいじゅ)慧海(えかい)や鄧(とう)隠峰(いんぽう)という人が福建の出身です。それから長安に進出した懐暉(えき)という人物もそうです。この人は現代にはあまり影響が残っていませんが、朝廷の中央に進出した人ですから、当時はやはりかなり有名な禅師だったということになります。それから臨済の先生の先生にあたる百丈(ひゃくじょう)懐海(えかい)という人はたいへんに重要で、禅の伝承では清規を作ったとされる人物ですが、この人も福建出身です。馬祖の禅が福建の人々を引き付けたことがわかるでしょう。このあたりのことは先行研究がありますので、詳細はそちらに譲りたいと思います (1)。ただ、この馬祖が仏迹巌で開法した時間というのは、それほど長くなかったようで、これですぐに馬祖禅が福建に浸透したというわけではなかったようです。このあと馬祖門下の人々の活躍によって馬祖の禅はだんだんと福建に定着していきます。その過程でもっとも注目されるのは、先ほども挙げた百丈懐海です。百丈の法嗣(師の禅の法を伝えた人、法系を継いだ人)に古霊(これい)神讃(しんさん)という人がいるのですが、この人をめぐる物語は、当時の福建の様子をよくあらわしているように思います。

『祖堂集』巻十六・古霊章

古霊和尚は百丈に嗣ぐ。福州に在り。師、少(わか)き自(よ)り福州の大中寺に於いて出家す。僧と為るに及至(およ)び、遊びて百丈に参じ、盤泊すること数年、密に玄旨に契(かな)う。

 後に帰省して本師に侍(はべ)る。発悟せしめ、以って其の恩に報いんと思欲(ほっ)し、方便を俟(ま)つ。偶(たまたま)因(ちな)みに一日、師の為に澡浴し垢を去る次(つい)で、師の背を撫でて曰く、「好个の仏殿なるに、而して仏は聖ならず。」其の師、乍(たちま)ち異語を聞き、頭を廻(めぐ)らして之を看る。弟子曰く、「仏は聖ならずと雖も、且(しばら)く能(よ)く光を放つ。」師深く疑うも問うこと能わず。

 後、一日、新たに窓を糊(は)るを得。其の日、窓を照らして明を陪(ま)す。師、窓下に於いて経を看る次(つい)で、蠅子(はえ)競いて頭もて其の窓を打ち、出路を求覓(もと)む。弟子侍立(じりゅう)して云く、「多少(なん)と、世界は如許多(これほど)闊(ひろ)かるに、出頭するを肯(がえ)んぜず。故紙裏に撞(つ)きて、驢年に解(よ)く出ずるを得んや。」師、此の語を聞きて、経巻を放下し問う、「汝、行脚し来りて何人にか見(まみ)ゆ。何の事意をか得る。前後、汝の発言を見るに、蓋(けだ)し常と同じからず。汝、子細に吾に向かいて説き看よ。」弟子問わるるに、恰(あたか)も本意に称(かな)い、為に百丈大師の指授せる禅門の心要を説く。「霊光洞(あき)らかに耀き、迥(はる)かに根塵を脱す。体は真常を露わし、文字に拘(かか)わらず。心性は染(けがれ)無く、本自(もと)より円明たり。妄縁を離却せば、則ち如如仏たり。」師、言下に於いて万機頓(とみ)に息(やす)み、嘆じて曰く、「不可思議なり。吾、本(も)と仏を聞くに、独一なりと将謂(おも)えり。今、始めて心源を返照せば、有情は皆な爾(しか)り。」

(中華書局標点本、二〇〇七年、七三七―七三九頁)

この神讃という人は、どこの生まれか記録に残っていませんが、若い時に福州で出家をしておりますので、おそらく福州近辺の人だろうと思います。福州は現在、福建省政府が置かれる都市で、当時もやはり福建の中心地でした。この神讃は、江西省へ行脚に行って、百丈のもとで悟り、そのあと、再び福州の出家の師のもとへ戻り、師を悟らせることで、その恩に報いようと機会を待っていたわけです。

 ある日、この神讃が師の背中を流していたおりに、このように言います。「素晴らしい仏殿ではありますが、仏は目覚めておりません。」師はその常ならぬ言葉を聞き、はっと振り返ってこれを見ました。そこで神讃は続けます。「仏は目覚めておりませぬが、光を放つことはできる。」師はこれを聞き、たいそう怪しみますが、それ以上問いただすことはできませんでした。その後、この神讃はなかなか不可思議な言葉をしゃべりますので、いよいよ怪しいと思った師は、「いったいお前は行脚に行って何を学んできたのか」と神讃に問いただします。神讃はこれを受け、ここぞとばかりに百丈に授けられた禅門の心要を説きます。「心の光は澄み輝き、はるかに感覚を超えている。本体は真実を表し、言葉にとらわれない。こころの本性は穢れなく、もとより円明。妄心を離れれば、すなわち真実の仏である。」師はこの言葉を聞き、たちまち心が静まりました。「すばらしい。仏はこの世にただ一人とばかり思うておったが、いまこうして自らの心を振り返ってみれば、生きとし生けるもの、みな仏と違わぬ。」このあと神讃は人々の為に百丈の教えを述べ、人々ははるかに百丈に礼して師とした、ということです。

 ここで注意すべきことの一点目は、神讃が述べたのが、馬祖系の特徴である「即心是仏」、あるいは「作用即性」と呼ばれる考え方だったということです。この思想は、「あなたの心が仏である」「あなたの心以外に何か別に真理があるわけではない」ということを非常に強調します。

 そして二点目は、ここに、福建の人々がはじめて馬祖系の思想に触れたときの新鮮な驚きがよく現れているということです。馬祖の思想はおそらく、仏教の歴史の中にあっては革新的、あるいはかなり異端的といってもいい教えだったと思います。そしてこれは想像の範囲を出ませんが、当時の人たちにとっては、大きな解放、救済を感じさせるものだったのではないかと思います。この物語にはあるいは多少の潤色が混じっているかもしれませんが、馬祖禅が福建に影響を及ぼしていった際の時代の雰囲気をよく伝えているでしょう。

 そして三点目として、馬祖系の禅が福建に伝播する過程で、百丈が大きな役割をはたしていたことが読み取れます。この百丈のもとには黄檗(おうばく)希運(きうん)、潙山(いさん)霊祐(れいゆう)という二人の有名な弟子が出ますが、実はこの二人も福建人です。この黄檗希運のもとからは日本でもなじみの深い臨濟(りんざい)義玄(ぎげん)が出て、ここから臨済宗が成立します。それから潙山霊祐のもとには仰山(きょうさん)慧寂(えじゃく)という人が出まして、ここで潙仰宗が成立します。百丈のもとから禅の代表的な五つの宗派、すなわち五家のうちの二つが出ているわけですが、その根っこにある百丈、潙山、黄檗という人は、いずれも福建出身ということになります。ここからも、馬祖道一が伝えた禅が、百丈の力によって福建に根付いていったことが見て取れるかと思います。

 さて、百丈は八一四年に示寂しておりますので、この神讃の物語が実際に起きていたとすれば、およそ九世紀はじめぐらいの出来事だったと思われます。いずれにせよ、このころから馬祖の禅が福建に浸透していきます。これが雪峰義存が出てくる前の福建の状況となります。

雪峰義存の行脚

 雪峰義存が生まれたのは八二二年です。のちに雪峰教団の創始者となる彼は、泉州南安県(現福建省南安市)の人、俗姓は曾氏。十二歳で童子となり、十七歳でひとたび出家をします。しかし折悪しく、この頃、会昌の破仏が起こります。会昌の破仏は徹底した寺院の破却と僧侶の還俗によって、当時の仏教界にきわめて大きな打撃を与えていました。若き雪峰もこれに巡り合い、出家したばかりのところで還俗を余儀なくされ、しかたなく俗人の姿をして、福州城の北にある芙蓉山の霊訓(れいくん)禅師のもとに身を寄せました。雪峰が師としたこの霊訓は、福州候官の人、俗姓は危氏。法を、馬祖道一―帰宗(きす)智常(ちじょう)―霊訓と承ける馬祖系の禅者でした。やはり、福建では馬祖系の禅が定着していたようです。

 さて、この破仏を実行した武宗は、会昌六年(八四六)の三月、三十三歳の若さで世を去ります。その次の宣宗が即位すると、破仏政策は中止され、雪峰は霊訓のもとで二度目の出家を果たします。そして大中四年(八五〇)に幽州(現北京市)で具足戒を受けて正式な僧となり、大中七年(八五三)には三十二歳にしてようやく遊学の旅に出ることになります。

 おそらく旅に出てまだ間もないころと思われますが、雪峰は杭州の大慈(だいじ)寰中(かんちゅう)の会下(えか)で、巌頭(がんとう)全豁(ぜんかつ)、欽山(きんざん)文邃(ぶんすい)という二人の修行僧と知り合います。このうちの巌頭全豁は泉州の人、文邃は福州の人で、いずれも若い福建の僧でありました。三人が同郷の気安さで結びついたことは想像に難くありません。このうち巌頭という人は、常に優れた禅者として描かれます。巌頭の年齢は雪峰より六歳も若いのですが、雪峰は巌頭のことを師兄(すひん)(先輩、兄弟子のこと)と呼びます。もう一方の道連れである欽山は、巌頭とは対照的に軽率な禅者として描かれます。さて、彼らが出会うことになった大慈山の住持、寰中は河東蒲板(現山西省永済市付近)の人で、この人は北方の人ですが、しかし百丈懐海の法嗣です。ひとたび杭州の大慈山に出世しましたが、会昌の破仏に際してやはり一度還俗し、破仏政策が停止されると、ふたたび宗旨を挙揚した、と言われています。ここにもまた百丈の影響が見て取れます。あるいは福建で百丈とその後継者について知るところがあり、復興して間もない大慈山に若い福建僧が集まったのではないかと考えられます。ここで巌頭と欽山、それから雪峰が知り合いになって一緒に行脚をしていくわけです。この三人が行脚していく間に起こった様々な物語は、禅の機縁として現在も非常に多く伝えられております。この三人はそれぞれに個性があって、面白い話が多いです。つぎの話は、雪峰はあまり出てきませんが、ちょっと紹介しておきましょう。

『宗門統要集』巻八・欽山章

師、巌頭・雪峰と同(とも)に徳山に到る。師乃ち問う、「天皇も也(ま)た与麼(かくのごとく)く道(い)い、龍潭も也た与麼く道う。未審(いぶか)し徳山は作麼生(いかに)か道う。」山云く、「汝、試みに天皇、龍潭の底(もの)を挙し看よ。」師、擬疑す。山便ち打つ。師、打たれて延寿堂に帰して云く、「是なることは即ち是なるも、我を打つこと太煞(はなはだ)し。」巌頭云く「汝、与麼(かくのごと)くんば、他後(こののち)、徳山に見(まみ)えりと道(い)うを得ず。」

(柳田聖山・椎名宏雄編『禅学典籍叢刊』第一巻、一七二頁)

ここで「師」は欽山を指しています。ここに見えるいくつかの名前は同じ法系の師弟関係にある禅師です。まとめると石頭希遷―天皇(てんのう)道悟(どうご)―龍潭(りゅうたん)崇信(そうしん)―徳山(とくさん)宣鑑(せんかん)、さらにその徳山の法を嗣いだのが巌頭と雪峰です。つまり欽山はここで「徳山の先生である龍潭はあのように説法をされました。そのまた先生の天皇もあのように説法をされました。さて徳山先生はどのように仏法を説かれるのですか」という質問をしているわけです。これにはちょっと前提がありまして、この頃からすでに仏法の真理は言葉にできないという考えが非常に強いわけです。ですので、出来るだけ言葉による余計な説法を避けようとします。徳山は特にその傾向が強いです。ところが弟子の方としては何とか先生の言葉を聞いてみたい、そこで欽山は策を弄してこのような質問をしたわけです。これに対して徳山は、「それではお前、試しに天皇禅師や龍潭禅師が言っていたことを、ちょっと言ってみろ」と切り返します。すると、欽山の先ほどの質問はなかなか巧妙だったわけですが、自分が発言するように仕向けられると、準備がなかったようで、「擬疑す」、つまり考え込んでもたついてしまいます。そのような迷いを見てとった徳山はすかさず欽山を棒で一打ち。打たれた欽山は延寿堂(現在の僧堂にもある、保健室のような場所)に行く羽目になりました。病院送りになるほどしたたか打たれてしまったわけです。それで欽山は情けない調子で、「徳山が私を打ったのは道理のあることだけれども、それにしても打ち方が激しすぎる、こんな病院送りにするほど打たなくてもいいじゃないか」と言います。それを見た巌頭はというと、「お前このざまでは、このあと徳山に会ってきたなんて言えないな」と冷ややかなコメントを残します。

 欽山はこのように、ちょっと小賢しくておっちょこちょいで軽率な人物という描かれ方をします。一方で巌頭という人はここに見られるように、常に冷静沈着で達観している、天才肌の禅者として描かれています。また徳山は苛烈な禅風でよく知られています。それぞれのキャラクターがよく表れた問答だと思います。

会昌破仏後の仏教復興と禅宗

 このようにして三人は一緒に行脚をしていくわけですが、この三人が途中連れだって洞山(とうざん)を訪れていることは注目に値します。この雪峰の行脚時代については、しばしば、「三廻投子(とうす)に到り、九度洞山に上る」という言われ方をします。雪峰は行脚時代にたいへんな苦労をしたという意味です。ですから、洞山という場所は雪峰にとって非常に重要な修行の場だったと言えます。それではこの当時、洞山の住持である洞山良价(りょうかい)という人はいったいどのような存在だったのでしょうか。これについて『宋高僧伝』巻一三・曹山伝に次のような記事が見られます。

咸通(かんつう)の初め、禅宗興盛す。風は大潙に起こる。石頭・薬山の如きに至りては、其の名、寝頓す。会(たまた)ま洞山、物を憫れみ、其の石頭を高くす。往来請益(しんえき)して学は洙泗に同ず。(中華書局標点本、三〇八頁)

咸通の初め(八六〇頃)、禅宗は非常に盛んであった、と言われています。これに関しては、先ほども述べた会昌の破仏がこの前にあったことを考慮する必要があります。会昌の破仏は中国史上最も徹底した仏教排斥政策として知られます。特に会昌四年(八四四)から五年にかけては苛烈を極め、当時の仏教に壊滅的な打撃を与えました。会昌五年ころには、黄河以北の一部の地域を除いて、仏教はほとんどなくなってしまったような状態になります。その後、武宗が亡くなり、八四七年から宣宗の大中年間が十三年続きますが、この間に仏教は徐々に復興し、そして次の咸通年間の初めにはかなりの勢力になっていた、ということです。まずはこの点を押さえる必要があります。

 そしてその際、禅宗復興の先駆けとなったのは、馬祖系に属する潙山の勢力でした。潙山霊祐は先ほども見ましたように、百丈懐海の法嗣で福建出身です。潙山に住したのは、『宋高僧伝』によれば元和の末(八二〇頃)だったことになりますが、ひょっとするともう少し早い時期だったかもしれません。いずれにせよ会昌年間には、潙山の法会はそれなりの歴史を有していました。破仏の際には潙山霊祐も還俗することになりますが、宣宗の世になると、湖南観察使であった裴休に請われて再び潙山の住持となり、修行者たちは以前と同じように集まってきたといいます。この潙山同慶寺は裴休のほか、李景譲や崔慎由といった当時の士大夫、有力な外護者の支持のもとに大寺院となり、資料によって一千人余りとか、あるいは一千五百、六百という僧侶を集めたとされます。潙山霊祐自身は大中七年(八五三)に示寂していますが、これはちょうど雪峰が行脚の旅に出た年です。したがって雪峰が行脚していた時には潙山はもう世を去っていますが、その有力な法嗣であった仰山慧寂は、このころすでに仰山に出世して活躍していたと考えられますし、咸通元年にはやはり霊祐の法嗣であった福州大安(だいあん)が潙山に戻り、衆僧を率いていたといわれるので、咸通の初年にかけて潙山の法系は、やはり盛んであったといえます。

そしてこの資料でもう一つ注意すべきは、石頭系の禅が、洞山の出世以前にはあまり知られていなかった、ということです。会昌以前の状況をよく表す資料のひとつに、圭峰(けいほう)宗密(しゅうみつ)の『禅源諸詮集都序』という書物があります。この人は荷沢神会に始まる荷沢宗の継承者を自任し、また華厳宗第五祖ともされ、多くの著作を残しています。この『禅源諸詮集都序』は当時の禅家、教家の諸派を分類したいわゆる教判の書で、執筆されたのは太和七(八三三)年以降のこととされます。太和七年は唐の武宗の会昌元(八四一)年から遡ること八年ですので、この書は会昌破仏以前の禅の様子をよく伝えていると考えられます。

 さて、この『禅源諸詮集都序』中では、禅における主要な十の宗派を挙げていますが、その一つとして石頭の名もあります。また禅宗を次のように三分類します。①息妄(そくもう)修心(しゅうしん)宗(しゅう)、これは妄念を払拭して仏性を悟るおしえで、具体的には、神会が批判した北宗を指しています。それから次に②泯絶(みんぜつ)無寄(むき)宗(しゅう)、これは一切は空であると説くもので、主には中国の江南地方に栄えていた牛頭宗を指しています。また石頭もここに分類されています。さらに③直顕(じきけん)心性(しんしょう)宗(しゅう)、これは一切は真性の現れだとするもので、宗密自身が属する荷沢宗、それから馬祖の洪州宗もここに入ります。

 宗密のこの本の目的の一つは、荷沢宗と洪州宗を弁別することにありました。ここから考えますと、会昌破仏以前、南宗禅のなかで競い合っていた二大法系は、神会の系統の荷沢宗と、馬祖道一の系統の洪州宗であったといえます。また、その前の泯絶無寄宗というのも、主には牛頭宗を指しており、石頭はそのついでに挙げられているという趣きです。このように見てみると、会昌破仏以前に、石頭の系統というのは、たしかに大きな勢力として認知されていなかったといえます。ただ同時に、この石頭がまったく捏造の人物だともいえません。この当時、やはり石頭と呼ばれる人がいて、それを知る人もいたということになります。そこでまず、この泯絶無寄宗とはどのような思想なのか、ちょっと見てみたいと思います。

第二に泯絶無寄宗とは次のように主張するものである―凡夫とか聖人とかいったものは皆な夢幻のようであって、存在するものは全く無い。それは本来から空寂なのであって、今、始めて無となったのではなく、更にこの無に到達する智ですらも、また不可得である。

(石井修道・小川隆「『禅源諸詮集都序』の訳注研究」(三)、『駒澤大学仏教学部研究紀要』第五四号、一九九六、二七頁)

すべては空である、すべての在りようをどんどん否定していく、それが泯絶無寄宗の特徴です。前に古霊神讃のところで、馬祖系の思想をちょっと見てみましたが、馬祖系の特徴は我々の心が仏の心なのだ、我々の心の働きが仏性の働きなのだ、というふうに、心の中に仏性が存在していることを積極的・肯定的に表現していくところにあります。ここから考えると、石頭はそれとは逆で、何もない、すべては空である、という方に力点を置いていたようです。『祖堂集』という十世紀の中頃に原型が出来たとされる禅宗の歴史書の中に、石頭にまつわるつぎのような話が記録されています。

『祖堂集』巻五・大顛和尚章

又た一日、師曰く、「老僧、往年、石頭に見(まみ)ゆるに、石頭問う、『阿那個(いずれ)か是れ汝の心。』対(こた)えて曰く、『即ち和尚に祇対(こた)えて言語する者是(これ)なり。』石頭便ち之を喝す。旬日を経て却って問う、『和尚、前日、既に是れ心ならずとすれば、此を除きての外、何者か是れ心。』石頭云く『揚眉動目、一切の事を除却(のぞ)きての外、直に心を将ち来たれ。』対えて曰く、『心の持ち来るべき無し。』石頭曰く、『先来は心有り、何ぞ心無しと言い得る。有心と無心と、尽(ことごと)く我を謾(あざむ)くに同じ。』此の時に於いて言下に此の境を大悟す。」

(中華書局、二〇〇七年、二四二頁)

この大顛(だいてん)和尚という人は、最終的に石頭の法を継ぎます。この大顛和尚が石頭に見えた時に、石頭が尋ねます。「どれがお前の心か。」これに対して大顛は、「いまこのように答えて言葉をしゃべっているこのはたらきが私の心です」と答えます。これは典型的な馬祖系の思想です。大顛はこの当時流行っていた馬祖系の思想をよく知っていたようです。しかし石頭はこれを認めず、一喝してしまいます。そして、十日ばかり経ってから、また先生に質問します。「先日、和尚様はこれは私の心ではないと仰いましたが、いったいこれのほかに何か心があるのでしょうか。」そこで石頭は、「眉毛を上げたり目を動かしたりする動作や、その他ありとあらゆるものを除いて、その他に直接的に心を持って来てみろ」と言います。このように、眉毛を動かすとか目を動かすという動作を仏性の働きだと主張するのもまた、馬祖系の思想によく見られるおきまりのパターンです。しかし石頭は、それを全部やめてしまえ、その他に心を持ってこい、と言います。そう言われて大顛は、「そうすると、持ってくることが出来るような心はございません。」それで石頭は、「さっきまで自分の心があると言っていたのに、今度はどうして心がないなんて言えるんだ。心が有るというのも心が無いというのも、どちらも私をだましているようなものだ。」大顛はここではっと悟ったのでした。

 ここでは、石頭系が馬祖系に対して批判的な観点を持っていたことがわかります。また、この内容を見てみると、宗密が石頭を泯絶無寄宗に分類したのは、理由のないことではなかったと感じられます。たしかに否定的な説法形式をよく用いています。ただ、その当時、石頭の知名度はさほど高くなく、南宗禅の二大法系は荷沢宗と洪州宗でした。これが会昌破仏以前の禅宗の状況でした。

洞山と徳山と

 洞山良价が洞山に出世したのは、大中六年(八五二)と考えられます。雪峰が遊学の旅に出る前の年です。洞山は会昌破仏以降の仏教復興の最中、石頭系という新たな禅を担って現れた禅僧でした。そしてこの洞山に続いて、石霜(せきそう)慶諸(けいしょ)や徳山宣鑑など、石頭系の諸禅師もまた注目を集めはじめます。ここに至ってやっと、我々になじみ深い南岳―馬祖、青原―石頭という二大法系が現実のものとして現れてきます。雪峰たち若き三人の福建僧はまさにこの時代の大きな転換点に、法を求めて行脚をしていたわけです。彼らは馬祖系の影響の強かった福建では見ることの出来なかった石頭系の禅に触れて、たいへんに啓発されたことでしょう。しかし、巌頭と雪峰は洞山で開悟の機縁に恵まれることはありませんでした。彼らが法を嗣いだのはもうひとりの石頭系の禅師、徳山宣鑑だったのです。洞山の法を嗣いだのは欽山だけでした。

 さて、ふたりは徳山宣鑑のもとで悟る、ということになるのですが、しかし、果たして雪峰は徳山のもとでほんとうに大悟の経験を得たのでしょうか。今度は徳山と雪峰の機縁を見てみましょう。『祖堂集』巻七の雪峰章には、徳山と雪峰の出会いを次のように書いています。

『祖堂集』巻七・雪峰章

方(はじ)めて武陵に造(いた)り、纔(わず)かに徳山に見(まみ)ゆるや、宿契に逢うが如し。便ち問う、「従上の宗乗の事、学人還(は)た分有りや。」徳山起来して之を打ち、云く、「什摩(なに)をか道(い)う。」師、言下に於いて頓(とみ)に旨要を承(う)け、対(こた)えて云く、「学人の罪過なり。」徳山云く、「己(おの)が身を担負して、他に軽重を詢(と)う。」師、礼謝して退く。

(中華書局、三四六頁。禅文化研究所唐代語録研究班訳注『『祖堂集』巻七雪峰和尚章訳注』、一一―一四頁参照)

武陵(徳山がある朗州の別名、現湖南省常徳市)を訪れ徳山に見えた雪峰は、まるで前世から因縁のある人に出会ったかのように思い、すぐさま尋ねます。「これまで祖師がたが伝えてきた禅の真理を学ぶ資格が、私にもあるでしょうか。」徳山は立ち上がってこれを打ちすえ、「たわごとを言うでない。」この一言のもと、雪峰はたちまちに禅の要諦を知り、「このような質問をしたこと自体私の誤りでありました」と非を認めました。そこで徳山は、「我が身の重さをわざわざ他人に尋ねるとは」、つまり禅の真諦は自己のうちに具わっているのだから他人に聞いて理解するものではない、と答えます。ここでも徳山は、直接にこれが心だとかこれが真理だという言い方をしていません。他人に聞くものではない、という否定的な形で雪峰を悟りに導いています。

 ひとまずはそのような物語として読めるのですが、はたしてこれが本当に雪峰の開悟の機縁であったかというと、どうも疑いが拭えないところがあります。その理由のひとつとしては、『景徳伝燈録』巻一六・雪峰章の記述がこれと違っていることがあげられます。『景徳伝灯録』では、この二人の出会いについて、ただ「久しく禅会を歴て、縁は徳山に契う」と言うだけです。長くいろいろなお寺をめぐって、そして開悟の機縁は徳山と契ったという、この一言しかなく、詳しい内容は述べていません。また、雪峰の伝記としては最も古い、黄滔「福州雪峰山故真覚大師碑銘」は、次のように記しています。

爰(ここ)に武陵に及び、徳山に一面するに、珍重(ちんちょう)に止(とど)まりて出ず。其の徒数百、咸(み)な之を測(はか)る莫(な)し。徳山曰く、「斯(こ)れ、偕(とも)にする無し。吾、之を得たり。」

(『全唐文』巻八二六)

雪峰は徳山に見えるや、一言挨拶をすると出ていってしまった。徳山の弟子たち数百人はそれが何事かわからなったが、徳山は「この人は並ぶものがない、私は人を得た」と言ったという。この物語は、超脱した禅師の物語という意味では格調が高いように思うのですが、先ほど見た『祖堂集』とはかなり違っています。ひょっとすると、これといった開悟の機縁が定説として伝えられていなかったのではないかという気がしてきます。さらに、北宋時代に成立したやや後出の資料ですが、『宗門統要集』のなかにはこのように言われています。

『宗門統要集』巻八・雪峰章

師嘗て徳山に問う、「従上の宗乗、学人に還(は)た分有りや。山、打すこと一棒して、云く、「什麼をか道(い)う。」師会(え)せず。明日に至りて請益(しんえき)するに、山云く、「我が宗には語句無く、実に一法の人に与うる無し。」師、此(これ)に因りて省有り。巌頭は聞きて乃ち云く、「徳山の老人、一條の脊梁骨硬きこと鉄に似たり。是(かく)の如しと然雖(いえど)も、唱教門中に於いては猶(な)お些子(しゃし)に較(たが)えり」

(柳田聖山・椎名宏雄編『禅学典籍叢刊』第一巻、一八二頁。)

この話は『祖堂集』で前後二つに分けられています。前半はさきほどみた雪峰開悟の機縁に相当しますが、ここでは雪峰が徳山に質問し、徳山が一棒を打して「たわごとを言うな」と言うと、雪峰は「会(え)せず」、つまり分からなかったと言います。これは『祖堂集』と異なっています。そして次の日になって、徳山にまた教えを請いにいくと、徳山は、「我が教えには一つの言葉もなく、一つの法を人に与えることもない」、これが仏だとかこれが真理だとか、そのようなことを人に教えることは一切しない、と言うのです。先ほど見た泯絶無寄という言葉がよく現れた表現ではないかと思います。徳山にはこのように非常に厳しいところがあります。そしてこれによって雪峰は「省あり」、思うところがあった。この「省有り」というのは大悟ではありません。はっと気づくところがあった、という意味です。そして今度はそれを例の天才肌の先輩である巌頭が聞き及んで、コメントを述べます。「徳山老人の背骨は鉄のように硬い」、つまり自分の主義主張を曲げない、泯絶無寄の一点張りである。しかし、「彼はたしかに立派ではあるけれども、方便説法の部分においては少し足りないな」と、最後に批判を述べます。この巌頭という人は徳山の法を嗣ぐのですが、このように徳山に対しても遠慮なく批判します。

 この後半の部分は、『祖堂集』では独立した話になっており、『宗門統要集』ではそれが一つになっているのですが、そうすると話の印象がだいぶ違ってきます。最初の問答で雪峰はわからなかったが、その後に徳山は、言葉はない、一法も与えない、という非常に無に徹した教えをして、雪峰は少しわかった。しかし巌頭はそれも方便説法の部分ではまだ劣っているのだと言った、という話になっています。さて、雪峰ははたして本当に徳山のもとで悟ったのか、ますます確信が持てなくなります。そこで諸資料を見ると、雪峰の最終的な大悟は、徳山よりもむしろこの天才的な師兄(すひん)巌頭全豁との対話において果たされた、と考えたほうが自然なように思われるのです。

鼇山成道と巌頭

 雪峰が悟ったとされる巌頭との対話は、鼇山(ごうざん)成道(じょうどう)の因縁としてよく知られています。いくつかのバージョンがあるのですが、そのうちでもっとも古いと思われる『祖堂集』の記述を二段に分けて見てみましょう。

『祖堂集』巻七・巌頭章

師、雪峰と共に山下の鵝山院に到る。雪に圧せらるること数日、師は毎日只管(しかん)に睡り、雪峰は只管に打坐す。七日を得て後、雪峰便ち喚(よ)ぶ、「師兄(すひん)、且(しばら)く起きよ。」師云く、「作摩(なんぞ)。」峰云く、「今生(こんじょう)、便(たよ)りを著けず、文遂の个の漢と共に数処に行じ、他(かれ)に帯累せらる。今日、師兄と共に此(ここ)に到るも、又た只管に打睡(たすい)す。」師、便ち喝して云く、「你も也た噇眠(とうみん)し去れ。毎日、長連床上に在りて、恰(あたか)も漆村裏の土地の似くに相い似たり。他時後日、人家の男女を魔魅し去らん在(ぞ)。」峰、手を以て胸を点じて云く、「某甲(それがし)、這裏(ここ)未だ穏やかならざる在(なり)。敢えて自(みずか)らを謾(あざむ)かず。」師云く、「我、汝は他時後日、孤峰頂上に向(お)いて草庵を盤結し、大教を播揚せんと将謂(おも)えるに、猶(な)お這個(こ)の語話を作す。」峰云く、「実に未だ穏やかならざる在。」師云く、「汝若(も)し実に此(かく)の如くんば、汝の見処に拠りて道(い)い将(も)ち来れ。」

鼇山は、『祖堂集』のなかでは鵝山(がざん)と呼ばれていますが、字が違っているだけでやはり鼇山を指します。鼇山に到った巌頭と雪峰は、雪のために数日間ここに足止めされます。その間、巌頭はただ眠っているばかり、かたや雪峰はひたすらに坐禅をしていました。七日後、ついに雪峰は巌頭に呼びかけます。「今生はまこと不運なことに、あちらこちらであの軽率な文邃めに巻き添えにされ、やっとのことで師兄とここに至ったというのに、今度は寝てばかりおられる。」これに巌頭はこう言います。「お前も寝ていろ。毎日毎日、まるで田舎の土地神みたいにしおって。そんなことではのちのち良家の子女をたぶらかすことになる。」土地神というのはその土地を守る低級な神様で、道端によく像が立っているそうです。巌頭は雪峰が坐禅する姿を、その像に見立てているわけです。すると雪峰は自らの胸を指さしながら、「私はまだここが穏やかでないのです」と訴えます。それを聞いて巌頭は、「お前はいずれいっぱしの禅者になるものと思っていたが、まだそんなことを言うのか。ならばお前の考えを言ってみろ」、と促します。そこで雪峰は自分がこれまでに学んだことを話し始めます。

(『祖堂集』巻七・巌頭章 続き)

峰云く、「某甲(それがし)、初め塩官に到り、観色空義を説くに因りて个(こ)の入処を得たり。又た洞山の『切に忌む他(かれ)に随いて覓(もと)むることを。迢迢に我と疎なり。我、今独自(ひと)り往き、処処に渠(かれ)に逢うことを得。渠は今(いま)正(まさ)に是れ我、我は今、是れ渠にあらず。応(まさ)に須(すべか)らく与麼(かくのごと)く会して、方(はじ)めて如如に契(かな)うを得』と曰うに因る。」師便ち喝して云く、「若(も)し与麼(かくのごと)くんば、則ち自ら救うことすら也(ま)た未だ徹せざる在(なり)。」峰云く、「他時後日、作麼生(いかん)。」師云く、「他時後日、若(も)し大教を播揚し去らんと欲得(ほっ)さば、一一个个、自己の胸襟の間より流れ将出(いで)来(きた)りて、他(かれ)が与(ため)に蓋天蓋地し去らしめ摩(よ)。」峰、此の言下に於いて大悟し、便ち礼拝し、起き来りて声を連ねて云く、「便ち是れ鵝山成道なり。」

(中華書局標点本、三三八―三三九頁)

ここではすこし細かいことまで書いていますが、大意を見ていきましょう。雪峰はまず塩官というところで「観空色義」というものを習った。この内容について、残念ながら詳しいことはよくわかりません。またさらに続けて、洞山良价の「過水の偈」を挙げます。これは洞山が大悟した際に詠んだとされるもので、洞山の悟境を表わしています。雪峰は、これらによって自分は深く得るところがありました、と言います。しかし巌頭はそれを一喝して、「そんなことでは他人はおろか、自分を救うことすらできぬ」とします。そしてきっぱりとこう言います。「もし今後、大いなる教えを弘めようとするのであれば、一つ一つすべてが自らの胸の内より流れ出で、天地を覆うようでなければならない。」これを聞いて雪峰はすぐさま大悟し、ついに「これぞ鼇山の成道だ」と高らかに宣言をします。どうもこちらの方が、雪峰が大悟徹底した瞬間だったと考えられます。

 この際に巌頭が言った、「一つ一つすべてが自らの胸の内より流れ出で、天地を覆うようでなければならない」という一句ですが、まずは、他人の見解で悟ってはいけない、自分の中に体験がなければいけない、いう意味に取ることができます。ただ、どうもそれだけには留まらない意味があるようです。特にここで天地を覆うと言っている点には注意が必要です。この心の中の真理が外に現れ出てこなければいけないと言っているのではないかと思います。この点は少し複雑ですから、もう少し先を読んでからもう一度お話したいと思います。

 それでこの天才肌の巌頭ですが、どうも洞山のことも徳山のことも真に優れた禅師とは認めていなかったようです。同じ『祖堂集』に次のようなお話が収められています。

『祖堂集』巻七・巌頭章

羅山問う、「和尚、豈に三十年洞山に在りて、又(ま)た洞山を肯(がえ)んぜざるに不是(あら)ずや。」師云く、「是なり。」羅山云く、「和尚、豈に法を徳山に嗣ぎて、又た徳山を肯んぜざるに不是(あら)ずや。」師云く、「是なり。」羅山問う、「徳山を肯んぜざるは則ち問わず、洞山の只如(ごと)きは何の虧闕(かけ)たることか有る。」師、良久して云く、「洞山は好個の仏なるも、只だ是れ無光の奴なり。」 (中華書局標点本、三三七頁)

羅山(巌頭の弟子)が問う、「先生は長いあいだ洞山で修行されましたが、しかし洞山を認めておられませんね。」巌頭、「そうだ。」羅山、「そして徳山に法を嗣がれましたが、徳山のことも認めておられないのですね。」巌頭、「そうだ。」羅山、「徳山のことはひとまず置くとして、洞山にはいったいどのような欠点があったのでしょうか。」巌頭は少し押し黙り、こう言います。「洞山はすばらしい仏であったが、しかし光がなかった。」このあたりは思想的な内容に関係しますが、私の言葉でごく簡単にまとめますと、そもそも馬祖系の思想は、自らの心のはたらきが仏性の現れだとします。次に石頭系の人々はそれを批判します。その教えには泯絶無寄的な特徴があり、否定的な傾向が強く、また、おもてに表れるはたらきとは別に、内在的な真理を大切にするところがあります。それを光がない、表に出てこないと言っているのではないかと思います。小川隆先生は巌頭のこの言葉を「洞山の禅が現実界にはたらき出る躍動的な活機を欠いていることを非難する語に外なるまい」(『語録の思想史』、岩波書店、二〇一一、一四〇頁)と評価しています。

 さて、いずれにしろこのようにして雪峰は巌頭との対話によって大悟の経験を得ました。そしてそれは洞山や徳山の悟境をも乗り越えようとする、新たな思想だったようです。

福建への帰還・福州大安

 このようにして雪峰は約十四年間の行脚を終えて、唐の懿宗の咸通七年(八六六)、生まれ故郷の福州へと帰ってきます。そしてここからいよいよ雪峰山の創建にかかるわけですが、雪峰の伝記史料である「福州雪峰山故真覚大師碑銘」を見ると、その前にひとつ、解釈のやや難しいエピソードが挿入されています。

其の年、円寂大師、亦(ま)た潙山より徒を擁して至り、怡山(いさん)の王真君上昇の地に坐す。其の徒熟(熟師は已(すで)に徳山に嗣げり)纍纍(るいるい)として関を欵(たた)く。師拒みて久しうす。

(『全唐文』巻八二六)

雪峰が出家の地である芙蓉山に帰還した年、円寂大師もまた潙山から福州へと至り、「怡山の王真君上昇の地」、すなわち福州城にほど近い怡山西禅寺に住しました。その門下に熟という名の僧がいて、しきりに雪峰を訪ねてきました。この熟なる人物は雪峰と同じく徳山の法を嗣いだといいます。しかし、雪峰は門を閉ざして応じようとしませんでした。ここに言う円寂大師は、円智大師の誤りで、福州大安(だいあん)という禅師の諡号です。この福州大安という人物、実は前に一度登場しているのですが、馬祖系の法脈においても、また福建禅僧の系譜においても、きわめて重要な人物であったと思われます。大安(七九三―八八三)の伝記を簡単に確認すると次のようになります。まず幼くして福州黄檗山で出家、元和十二年(八一七)、建州浦城県乾元寺で受戒します。のち遊方して潙山霊祐の法を嗣ぎ、その後は草創期の潙山にあって霊祐をよく助けたといわれます。潙山のもう一人の弟子である仰山の碑文では、仰山、香厳(きょうごん)とならんで、潙山の三大弟子のひとりとされています。会昌の破仏期間にはやはり影響を受け、一時的に隠棲しますが、武宗が世を去るとまずは道州開元寺に住み、続いて潙山の寂後、咸通元年に潙山へ戻り、諸来学を接したといいます。このため、福建に帰った後もしばしば「潙山」や「大潙」と称されています。のちに雪峰とおなじ咸通七年に福州に帰り、福州城西郊の怡山西禅寺に住しました。このとき大安七十四歳、雪峰よりも二十九歳の年長でありました。さらにこの後、乾符三年(八七六)には朝廷より紫衣と延聖大師の号を賜っていますので、影響力のあったことがわかります。

大安は福建で広く知られた百丈の法系の正統な継承者でした。百丈は福建に馬祖禅を定着させた人物ですし、その弟子である潙山霊祐は会昌破仏後の仏教復興でもっとも活躍した禅師のひとりで、そして二人ともに福建人です。その後継者である大安が故郷に帰ってきたわけですから、その威光いかばかりか、想像に難くありません。

 雪峰がなぜ熟禅師の訪問を拒んだのか、「碑銘」にははっきり書いてありません。ただ前後の文脈からは、これがひとつのきっかけとなって雪峰山に行く決意をしたように読み取れます。これも想像の域を出ませんが、福建では認知度の低い石頭系の法を嗣いだ雪峰は、オールドスクールの代表のような大安と交わることを避け、独自の根拠地を求めて雪峰山に移ったのではないでしょうか。

 かくして雪峰義存は雪峰山に特色ある教団を形成しました。雪峰の名を高からしめた要因の一つに、当時の地方長官との交流が挙げられます。碑銘によれば、乾符年間には当時の福建観察使であった韋(い)岫(しゅう)、それから中和年間には同じく福建観察使であった陳岩の求めに応じて、府に入って説法しております。ただし、それら以上に決定的な要因となったのは王審知の帰依でありました。王審知は後に福建観察使になり、さらに閩王になります。王審知の治世、福建は政治的な安定を得ます。雪峰山は王室の全面的な庇護のもと、常に一五〇〇衆を下らぬとされる大僧団を維持することが可能となりました。この僧団からは多くのすぐれた禅師が出て、福建内外諸寺の住持となっていきます。かたや馬祖禅の伝統を背負った大安は、中和三年(八八三)に九十一歳で既に世を去っております。かつて馬祖系の禅が栄えた福建は、義存以降、雪峰系一色に塗り替えられていきます。雪峰は大きな成功を収めたと言ってよいでしょう。

おわりに

 雪峰は馬祖系から石頭系へという禅宗史の移り変わりを身をもって経験しました。雪峰やその門下の思想は、そのような歴史的文脈を踏まえて形作られます。そしてこの系統からは雲門、法眼の二宗があらわれ、禅を宋代へと伝えていきます。雪峰の教団はまさに唐宋両代の禅の結節点となったと言えるでしょう。またそのような思想史的視点から眺めるだけでなく、禅の大きな転換期に奮闘した人々の物語として見ても、やはりたいへんに魅力的なものがあると思います。

 今日の私の話はここまでとさせて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。

(本稿は第三〇三回公開講座をもとに加筆訂正したものです。) 

[図表 禅宗法系略図]

References
  • 1.王栄国『福建仏教史』、厦門大学出版社、一九九七年、八三―八五頁。賈晋華著、齋藤智寛監訳、村田みお訳『古典禅研究―中唐より五代に至る禅宗の発展ついての新研究―』汲古書院、二〇一七年、五一―五二頁、一〇三―一一五頁。
 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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