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皆さんこんにちは、藤田一照です。早速ですが、まずアイスブレイクとして片手ハイタッチというワークをやっていただきたいと思います。アイスブレイクっていうのは場を和ませるために皆さんに行っていただくワークのことですけど、道具もいらないし危険でもないので片手ハイタッチにしましょう。 右手でも左手でもいいのですけど、一つ条件があります。ちゃんと相手の顔を見てください。できたら微笑みながら。「こんにちは」くらいの声をかけて、今から一分くらいで五人以上にやっていただきたいと思います。僕が「はい、結構です」と言うまでやり続けてください。それから手近な人から始めて選り好みしないように。相手の顔をちゃんと見て。はい、ではお願いします。(一分経過)はい結構です。では元に戻ってください。これで大分皆さんの表情が和んだ感じがします。仏教っていうと眉間にしわを寄せて口をヘの字にして深刻そうでないとダメみたいな風潮が今まであったかもしれませんけど、僕は逆に仏教を楽しく愉快に学ぶという方向でアップデートできないかなという思いで、話の始めにこういうことをやっています。 では、次に体ほぐしのワークをやります。今日はタイトルの中に「身(み)をもって」という表現があります。今日のテーマは「身」というもののあり方、ボディとも身体とも違う、「身」という言葉で日本人が呼び慣わしてきたものをもう一回現代に蘇らせることです。仏教の修行というのは「身」をもってすることであって、単に近代的な意味での「身体」でするのではない。その違いを少しでも皆さんにお伝えできればと思います。それでは、椅子に楽に坐って、関節を上から下にいくつか回していきたいと思います。首はほぐしにくいんですが、首をほぐすのはすごく大事なことです。特に今、目を極めて酷使する時代に僕らは生きていると思います。太陽の反射光ではなくて、スマホやテレビから直接目に光がやってくる。しかもその中に小さな文字を追いかけながら色んな複雑な情報を得なきゃいけない。そのせいで相当目が酷使されています。目が疲れると疲労が首や身体に広がっていきます。この状態が慢性化している状態をほったらかしにしているといろいろ問題が出てくる。過去の人にはなかったような問題も多分その辺に遠因があるのではないかというくらいだと思うわけですね。だから首はなかなか緩められないんですけど、ちょっとやってみましょう。 自分なりのやり方で椅子に安定した坐り方で坐ってください。両足を床の上にちゃんと置きます。自分の足の重さを足の裏で感じて、重さが足の裏を通して床そして地球の中心に向かって繋がっていっているようなイメージです。これが「接地性」と言われるものです。こういう下から支えられている感覚がないと体はほぐれないです。足の裏を通して床に、それから坐骨を通して椅子に自分の体重を預けることで身体が自然とほぐれてくるわけです。この状態でまずゆっくり首の頭の重さを感じながら重力に引っ張られる感じで頭をゆっくり前の方にぶら下げていきます。そうすると頭の重さで首筋の後ろが無理なく引っ張られている感覚が生まれてくると思います。そこからゆっくり頭を左の方へ転がしていきます。じれったいくらいゆっくりやってください。その都度生まれてくる感覚を迎え入れるような気持ちで行います。今、左側の左の耳が左肩の上に来ている頃でしょうか。今度はさっきと違って首の右側が頭の重さで伸ばされていると思います。この時に右肩を少し下の方に下げて反対方向の伸びを作ってください。無理やりではなく気持ちよく。そこからさらにゆっくり後ろに転がしていきます。くれぐれも息を止めないように注意してください。顎をかみしめると首が緩みませんのでポカーンと口を緩めて頭を真後ろまで動かしていきます。髪の毛のある方は髪の毛がダラーンと後ろにぶら下がっている感覚を味わってください。僕には無理ですが(笑)。普通に息を続けてください。ゆっくりと、今度は右の方に頭を動かしていきます。右の耳が右肩の上を通過します。そこからゆっくりまた頭が前に落ちていきます。スローモーションで頭がゆっくり落ちている感覚ですね。頭の重みでゆっくり自分の正面に帰ってくる感じ。では今度は、頭を反対向きに転がしていきましょう。やっている間に余計な緊張に気付いたらそれを手放していきます。肩は持ち上げる必要はありません。腕はリラックスさせて体側にぶらさげておいてください。一周したら前にぶら下がったまま息を大きく吸って大きくため息をつきます。吐く息っていうのは地面に近づいていく動きですので上半身がだらんと緩んでもう少し頭が下にぶら下がります。運動っていうと筋肉の緊張を使った動きを考えがちですけど、これはちょっと違います。なるべく筋肉を使わないで下半身の傾きでゆっくり首を回していく。傾いている胴体の上にぶら下がっている首が、胴体を動かすと結果的に一回くるりんって回るという感じですね。自分が緊張したりして硬くなっているのに気がついたら、自分でちょっとじれったいくらいのスピードで右回りに一回、左回りに一回丁寧に頭を転がします。自分をこうやってリセットして、息を吸ってもう一回蘇ってから仕事に帰るというのを日常生活の中でぜひ試してみてください。はい、ありがとうございます。
『現代坐禅講義』(佼成出版社・角川ソフィア文庫)に生後十一ヶ月の赤ちゃんが坐っている写真を載せたのですが、それがこれです。
[写真 1]
この赤ちゃんは別に坐禅の特訓をした結果こう坐っているわけではなくて、赤ちゃんが自然に坐るとこうなっている。次の写真は、僕の師匠の師匠のそのまた師匠の澤木興道老師の晩年のいかにも力が抜けた見事な坐禅の姿ですけど、この二枚の写真のような何の作意や力みもなくごく自然に坐っているような坐り姿勢ではちゃんと坐骨で体重が支えられてそのまま上に頭が無理なく乗っかっている。これは上に向かう垂直性と下に向かう接地性が調和した姿勢ですね。
[写真 2]
余談になりますが、この赤ちゃんの写真の子が4歳になったとき、お母さんと一緒に僕の坐禅会を訪ねてくれたことがありました。「今どんなふうに坐ってるか見せてくれる?」って言うと「いいよ」って言って坐ってくれたんですけど、「こう?」って僕の方を見て言ったんですね。「こう?」っていう言い方はこれでいいのかっていう言い方ですよね。いい姿勢の基準が外にあるかのような考え方がもう四歳ぐらいで植え付けられてしまっていて、少しショックを受けました。腰をたててまっすぐに坐ろうという構えが外に現れていました。人に「いい姿勢」を見せようという意識があるんです。すでに、自発的でナチュラルな坐りというのはどこかに行ってしまったわけですね。僕らはもう一回この赤ちゃんが無心で坐っているようなあり方を思い出さないといけないのではないか。意識で体を操作するのとは違うルートを見つけなければならない。それも今日のテーマです。
[写真 3]
骨だけで坐ると言うと、骨だけでは坐れませんって逆らう人がいるので、じゃあ骨だけで坐っている見本を見せてやろうということで全身の骨格模型を買って、バランスを取りながら立てたこともあります。それがこの写真で、トリックは使ってません。紐とかで吊ってるわけではない。バランスで坐っているんです。もう一つ写真をお見せします。これは生卵が立っているところです。これもトリックなしで、バランスだけ、一点の支持だけで立つべくして立っているんですね。これを立てて、一晩置いてても翌朝もやっぱり立っていたのを見て感激しましたね。疲れないで立っている。ちゃんと物理法則に正確に則って立っているんですね。皆さんもぜひ立ててみてください。
[写真 4]
ここで自己紹介に入りますが、僕は大学時代には人間を全体として扱っているような臨床的な心理学をやろうということで教育学部に入り、大学院まで行ったんですけど、けっきょく博士課程の時にそこをドロップアウトしてお坊さんになった変わり種のお坊さんです。その後、師匠に言われてアメリカに行って、十七年半をそこで過ごしました。三十三歳の時にマサチューセッツ州の林の中に建てられた小さな禅堂へ指導者として行ったわけです。手作り感満載な小さな禅堂で、特別な宣伝もしないので、口コミで縁のある人だけが集まってきて黙々坐っているというような場所でした。この禅堂に坐りにやってくるような人たちは、日本の主流の葬式・法事にウエイトを置いた仏教ではなくて、仏教の修行というものに関心がある人たちで、その修行を学ぶためにやって来ているわけですね。僕も実はお寺の出身ではないんですけど、禅の修行というものに非常に惹かれてお坊さんになった人間ですから、彼らとは必然的に話が合うわけですね。それで非常にやりがいのある愉しい生活を送っていました。だから気が付いたらあっという間に十七年を越していた感じです。日本の企業の駐在員の人たちが赤ちゃんが生まれたのでブレッシング(祝福)してくださいと言われたり、頭にターバンを巻いたヨーガ系の人がクリスマスだっていうのに議論を吹っ掛けに来たり、思い返すと実にいろんなことがありました。マサチューセッツ州っていうところは、カリフォルニア州とかニューヨーク州と並んで、仏教に対する関心が非常に高いところです。大学にも仏教学の授業がありまして、三つの大学で毎週坐禅会をやっていました。
[写真 5]
これはMount Holyoke Collegeというアメリカで一番古い女子大のお茶室を借りて坐禅会をやっているところですね。バーモント州にある寄宿制の学校で世界宗教というコースがありまして各地からやってくるような生徒たちを相手に、全く仏教を知らない人達に仏教の話をするというようなこともやっていました。
[写真 6]
二〇〇五年に家族と一緒に日本に帰ってきてからは、もう海外との縁は終わったかなと思ったんですけど、二〇一〇年に曹洞宗からサンフランシスコにある国際センターの所長をやってくれということでつい最近までセンターの所長をやっていました。世界各地にある禅センターや禅のグループに巡回をして講義やワークショップをするというのが僕の主な仕事でした。規模も大小様々で、また指導の仕方も様々なバラエティにとんだ禅の活動が海外では行われています。僕は自分の英語に自信がないので必ず教材というか物を見せながら話すというやり方をしていて、この写真は骨盤を見せながら坐骨に上手に体重を乗せて坐ることについて説明をやってるところですね。
[写真 7]
次の写真はサンフランシスコ禅センターという、『禅マインド ビギナーズ・マインド』の鈴木俊隆さんが開創した禅センターで毎週土曜日に法話会というのが午前中に二時間あるんですが、そこで話をしているところです。ご覧のようにかなり広い本堂が聴衆でいっぱいになるくらい人が集まります。 僕はsomaticなアプローチの禅ということに重点を置いていて、今日の演題にある「道は身をもって得るなり」ということをいろいろ実験的にやっています。それは、禅というと洋の東西を問わず、どうも精神とか心の問題の方に偏って理解されている傾向があると思うからです。ですから、本堂で寝転がったりしてもらうこともあります。今は日本を拠点にして活動をしておりまして、その一つとして若い人のための年齢制限を設けた仏教塾を開講しています。僕のセミナーに参加していた若い女性に、僕の仏教の説き方なら若い人にも通用するはずなのに、一照さんの話を聞く人は年配の人が多くてもったいないということを言われまして、彼女の後押しで四十代以下という制限付きで仏教塾を始めました。午前中に英語の仏教書をテキストに使って講読をするというようなことをやって頭を使い、午後は身体を使うソマティックなワークをしてから瞑想とか坐禅をするというような一日五時間のコースです。毎月一回やってもう四年目になります。
[写真 8]
この写真は筑波大学で体育実技の集中講義をやっているところです。自分の娘よりも若い世代を相手に大学で体育を教えている禅僧というのも珍しいのではないかと思います。別に著述家で飯を食おうと思っていたわけじゃないんですけど、いろんな縁がありましてやたらに対談本があります。『アップデートする仏教』とか『青虫は一度溶けて蝶になる』とか『退歩のススメ』とか、『感じて、ゆるす仏教』とか、なんか変なタイトルが多いですね。でも、言いたいことを言うとどうしてもこういう言い方になってしまうということなんです。僕が自分で読んで面白かったのでみんなにも知ってもらいたいって思う仏教の本の翻訳なんかもしたりしています。
さて、なんでわざわざ大学院でもうすぐ博士過程が終わるっていう時にドロップアウトしてお坊さんになったのかってことなんですけど、遡ると十歳の時にあった、「星空体験」って僕が呼んでいる出来事にたどり着きます。夜、自転車に乗ってどこかに出かける時にふと空を見上げるなんてことはそれまでにも何回もあったんですけど、その時には空を見上げた時に自分も含めたこの世界の存在の訳の分からなさって言うんですかね、自分がこうやって星空を見上げて宇宙の神秘に胸打たれてるってことはそもそも一体どういうことが起きているのだろうという、十歳ですからうまく言語化はできないですけど、根本的なわけのわからなさみたいなものが自分に降ってきたという感覚がありました。最近では「ライフタイム公案」が降ってきたという言い方をしています。それ以降、答えを探して自分でいろんな本を読むようになったんですね。図書館に行ったり、手に入る限りの本を読んだりして自分が抱いてしまった問題に対して答えを探してみたんですけど、どこにもそういうことについて教えてくれるところがなかった。だから自分で見つけるしかないということで、はじめは宇宙の始まりやからくりが分かったら何かわかるだろうと考えて、宇宙物理学をやろうと思っていたんですけど、高校二年の頃、思春期の一つの目覚めみたいなのがあって、今度はそれを知ろうとしている自分のことを知りたくなって、そういうところで落ち着いたので哲学をやろうと思って、理科系から文化系にコースを変えて大学に入りました。結局哲学もちょっとどうもなあということで、専攻は心理学にしたんですね。 自分が専門としてやるんだったら心理学かなということで大学院まで進んでやっていったわけですけれども、心理学の勉強をはじめてみると心理学が問題にしていることは自分の星空体験に届いていないということがすぐに分かってしまいました。心理学の前提そのものにどうも腑に落ちないものがあるわけですね。今から思うと西洋の心理学は心というのを日常的な心ひとつしかないと思っている。皆さんが今僕の話を聞いて何かを感じているそういう心。そういう日常的な心しか想定していない。それがどういうふうに働いてるのかというのを色々な実験的な手法を駆使して研究しているわけです。ところが仏教を勉強してみると、仏教では心が二つある、というよりも二つの現れ方をしているというふうに説かれています。「心の二相論」ですね。色々な言い方がありますけど、たとえば「妄心」と「真心」という言い方があります。そうだとすると、僕のやっていた心理学では真心というのは全く射程に入っていなかったわけです。つまり、あとからわかったことですが、僕が思っていた心理学に対する不満足感っていうのは、真心と仏教で呼ばれている本来の心のあり方みたいなものが全く想定されていないこととつながっていたのです。 もう一つ不満だったのは、これはないものねだりかもしれないですけど、心理学には身体っていう問題が全く入っていないということでした。心理学だから心だけでいいじゃないかという風には思えなかったのです。僕には星空体験以降、ずっと抱えている問題がありましたが、それは心理学でいう心の問題というよりは、この身を抱えて存在している丸ごと全体の自分という問題だったのです。ですから、心理学だけやっていたのではちょっと駄目だなと思って、体育学科の授業にもよく顔を出しましたが、今度は体だけで心が扱われていないんですよ。僕は身体と心が一つのものとして生きているのに、大学ではそういうふうに二つに分けられて扱われているというのが二つ目の物足りなさだったんです。 当時はちょうど一つの文化動向として「身体の復権」ということが叫ばれていた時期でした。僕が大学院生だった頃は、そういう風潮を背景にして、野口晴哉さんが創始した野口整体、野口三千三先生が創始した野口体操、竹内敏晴先生という演劇家が進めていた“「からだ」と「ことば」のレッスン”というのが一部の人たちにアピールしていました。それから哲学者の市川浩先生が出した『精神としての身体』が賞をもらったりして僕の目を引いたんですね。僕が物足りないと思っているのは、心理学に身体性が考慮されていないからで、逆に言うと、心の研究は身体を復権する方向に進めていかないといけないということが僕の心にやる気を起こしてくれたんです。僕は野口晴哉先生には直接会うことができなかったのですが、ずっと関心を持ってきました。実は今日うちで毎月やっている野口整体の勉強会を抜け出してここに来ているんですよ。これが終わったらすぐ帰って、その会に合流します。野口三千三先生は僕が大学院生の時にはご存命で、東京芸大の体育の先生をされていました。ご縁があって、僕は下落合にある野口体操教室に五年ほど熱心に通い、野口先生から直接に手ほどきを受けました。僕は学部と大学院含めて東大に九年いましたけど、一番熱心に取り組んだのはこの野口体操と合気道だったと言えるんじゃないかと思います。「野口体操は自分の体の実感を頼りに自然とは何か、人間とは何か、自分とは何かを探る営みである」という野口先生の言葉にピンと来たんですね。特に、「自分の体の実感を手がかりに」というところです。こういうアプローチで心理学もやってみたいなという気持ちが僕の中に育ってきたんです。竹内敏晴先生は、ちょうど僕が大学院の時にキャンパスにある武道場の七徳堂で一学期間にわたる「表現体育の授業」をやりました。そこで、「からだ」と「ことば」のレッスを受けたんですね。竹内先生のレッスンからも僕は大きな影響を受けています。市川先生の『精神としての身体』はメルロ・ポンティを中心とした身体論を扱う難しい本ですけど当時の僕の欲求不満を満たしてくれる形で書かれていました。野口体操の下落合教室に五年通い、竹内敏晴先生の特別授業を受け、もう一つは東洋医学の手ほどきというのを伊藤真愚先生という伊那で漢方思之塾という私塾を主宰しておられた方に受けました。この伊藤先生に勧められて円覚寺の居士林の冬の摂心に何の準備もなく飛び込みました。ここで初めて坐禅というものに出会ったんです。一週間、足や腰の痛みや眠気に苛まれる惨めな坐禅を我慢して坐っていたんですが、これがきっかけで坐禅にはまってしまって、翌年には大学院を中退して修行道場に入る転機になりました。
今から思うと心理学は、あくまでも三人称的な他者の研究をしていたわけで、それが僕のライフタイム公案に届かないというのは仕方がないですね。そういうものに答えるようにできている学問ではなかったわけです。そこに不満を持っていた僕が禅というものに出会って思ったのは、三人称的な研究ではだめだ、一人称の「参究」というアプローチを取らなければ僕が星空体験以降抱えている問題というのは解けないのではないかということでした。両親も落胆させたし周りの人もわかってくれなかったけど、僕としては、星空体験の時に自分の中の胸に宿った大きな疑問に禅の修行を通して正面から取り組んでそれに決着をつけないと、これからしっかりとした足取りで人生を歩んでいくことはできないというところまで煮詰まってしまってそれで学者から行者に転向したんですね。
「禅の特徴は何ですか」とアメリカではよく聞かれるんですけど、一つの特徴はこの「身をもって得る」という所だと僕はよく言います。頭での知識とか理屈ではなく、体で会得することが強調されます。「道を得ることはまさしく身をもって得るなり」というのは、道元禅師の夜話を弟子の懐奘という人が書き記した本で『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)というのがありますが、その中にある言葉ですね。僕らは頭で分かったらわかったつもりになっているわけですが、禅ではそんな分かり方では全く人生の役に立たないということが強調されているんです。この身体でわからないといけない。身体に一旦刻みつけられると一々頭を通さなくてもとっさにそれが出てくる。考えてあれこれ計画したり予定を立てたりしてやるのではなく、とっさに考えなくても出てくるというところに重きが置かれるわけですね。ですので「道を体現する」というように、体で現す、あるいは身で現すという体現とか身現という言葉が禅の中、特に道元さんの書かれている本の中では大切なんですね。ここを強調するのが禅のあり方だということを分かってもらうことがまず大事ではないかと思って、アメリカに行って英語で禅を語り始めたときからそういうことをいうようになったわけです。なぜかと言うとアメリカの人たちには「身(み)」というコンセプトがないんです。西洋にはないと言ってもいいと思います。僕が何らかの形で坐禅は体を使って坐ることだということを強調すると、彼らはこれを身体的なトレーニング法だと思ってしまうわけですね。重たいダンベルを上げて体を鍛えるみたいなああいうトレーニングと同じで、ただ体を動かさないで脚を組んで坐っているけど、それと同じ心身二元論の枠組みの中で体のことを考えているのです。基本的な考え方は同じままで、その延長線上で坐禅や瞑想も捉えられてしまう。彼らと話しているうちにそういうことがわかったんです。その頭の中の枠組みの入れ替えなしにこちらが言ったことをやられてしまうと、坐禅の格好をしているんですけど質的にそれとは全然違うものになってしまうわけですね。トレーニングと行の違いというのは、多分今の日本人も見失ってしまっているのではないかと思います。行っていうのは体を実際に動かすことなんですけど、行の効果とトレーニングによって何かパフォーマンスが上がるということの区別を皆さんはどういうふうに説明しますか。区別があるのかないのか、区別があるとしたらそれをどういうふうに説明されますか。この行というのは東洋独特の伝統だと思います。行といえば仏教に限らず、インドのヨーガにも、中国ですと気功とか道教にも行があります。現代に行というものをどういうふうに誤りなく伝えるかというのは重要な課題ではないかと思いますね。そうでないと全て「エクササイズ」や「トレーニング」という言葉で誤って翻訳されてしまう。それでは、行ではなく何か別なものに変質したことになります。
それで、一つの言い方として今問題としているのは「身」というものです。これは内側から生きられる一人称の身体です。これを「ソーマ」というギリシャ語で表現します。普通僕らがトレーニングとかエクササイズあるいはワークで問題としている身体は「ボディ」ですね。これは外側から捉えられる三人称の身体です。三人称という言い方が意味するのは「体は私が所有している私の持ち物」みたいなものです。I have a body.という言い方で表現されるとらえ方ですね。これは本当の身体ではなくて、いわば観念の身体、観念で対象的にとらえられた身体です。思考の中で捉えられた身体を私の身体だと思っている。これは仏教的には大きな錯覚なのですが僕らにはそれが当たり前の常識です。身体について、行はソーマという捉え方をしているのに対してトレーニングやエクササイズはボディという捉え方をしている。身(ソーマ)と身体(ボディ)ですね。身体という日本語は明治以降新しく作られた熟語ですね。身という文字はあったし、体と言う漢字はあったんですけど、その二つを組み合わせて身体という術語ができたのは明治以降です。自然という言葉をnatureの訳語にしたように明治以降に西洋からやってきたコンセプトに日本の漢字の中から色々翻訳して当てられたわけです。そこで我々の身体観に、身から身体へという形で大きな変化が起きているんですね。僕らはそれからだいぶ時を経て、もうボディと言ったら身体しか知らなくて身という考え方や捉え方は忘れてしまっているのではないか。ところが坐禅にしても仏教の行法にしてもヨーガにしても気功にしても、それらは古代的な身の身体観に基づいた古代の行法です。それらを近代の身体(ボディ)でやろうとするところには大きなギャップがあります。これを「身体のジェネレーションギャップ」と呼んでいる人がいますけど、ここに大きな問題があるんですね。現在、仏教の中心的な瞑想のエレメントだったものが西洋で再編集されてマインドフルネスと呼ばれて日本やアジアの方に里帰りしてきていますよね。それもやはりもともと身(ソーマ)というパラダイムの中で培われてきたものが、そういうコンセプトがない身体(ボディ)の文化の中に取り入れられて身体というパラダイムの中で再編成されたものがやってきているのです。その身体観の相違の中に、元々の仏教の中のマインドフルネスに相当するものと今西洋からやってきたマインドフルネスとの違いというのが大きく横たわっているんじゃないかなと思うんですね。
ソーマというのはほっといても自分で動くからだです。それ自身のロジックにしたがって自然に動いてしまう。それ自身がインテリジェンスを持っている賢いからだなんです。自分が命令をする必要はなくて勝手に思わず動いてしまう。一方で、ボディの方は物ですから脳が上から下のボディへ向かって命令しないと動かない。身体という言葉は西洋の霊肉二元論、例えば『創世記』に神様が土をこねて泥人形を作った、そこに息を吹き込んで人間を作ったという話がありますように、身体というのはそれだけでは生きていないんですね。身体そのものは生きていなくてそこに霊という息が入らないと動かない。語源的に言うと軍隊を意味するcorpsと死体を意味するcorpseっていうのは同じ語源で、この動かされる身体は死体扱いなんです。軍隊だったら攻めよとか撃ち方止めとか言われてその命令通りにやらないと軍隊としては困ります。それと同じように僕らの身体も脳の指令に従って忠実に動くようなものとして考えられているわけです。命令とか操作の対象になっている。ですので、私が身体を動かすというトップダウンですね。外から身体を拘束していくという形になります。一方、身は、生き物ですし、自分で自律的に動くことができます。そして、身が動きたいように動くのを、私がそれを感知してそのままにまかせるというようにボトムアップです。同じからだに対してこれだけ違うアプローチが生まれてくる。現在、僕らが採用している身体観はボディ、つまり身体の方ではないでしょうか。ですから、「体を動かさないと運動不足になるから、体を動かす」という言い方自体がこの考え方に基づいた表現ですよね。そういう表現を何気なく使っていますけど、その背景にはそういう身体観があって、それが僕らの常識になっているわけです。仏教の行法もそういう身体観で捉えられてしまうと、腕立て伏せと同じで、とにかく回数を増やせば上達するという発想での取り組みになりますよね。 もう一つの例としてはアメリカの禅センターに行くと実にいろんな坐禅用のクッションがあるんですよ。すこしでも楽に坐るためです。日本では普通はそういうことは許されないんですね。坐布団と坐蒲が一つずつ使えるだけです。どっちがいいか悪いかはちょっとわからないですが、そこでも違いがあります。アメリカの禅センターの発想としては楽に坐るための道具をどんどん発明して増やしていくわけです。西洋の料理では、小さなスプーンから大型、中型まで形の違ったスプーン、それからフォークもナイフも料理が出るたびに違うものを使うようになっていますね。日本のように、外側に道具を増やしていくのではなくて、箸だけですべての料理に対して間に合うように自分の側のスキルを磨いていくというのとは違う発想なんです。これはどっちが、良いか悪いかでもなく、優劣でもないし善悪でもないし上下でもないんですけど、東西の大きな違いがあるような気がします。で、今はどちらかというと西洋的な発想の方が日本でも優勢なので、道具を変えていくのではなくて道具を使える自分を磨いていくという、日本的な発想法をもう少し見直すべきだと思っているんですね。
ここまでは身(ソーマ)と身体(ボディ)の話をしました。少し仏陀のエピソードを見てみましょう。僕が注目しているのは、仏陀は城を出た後すぐにいきなり森に入って坐禅したわけではなくて、大都市に行って先生について瞑想を習ったということです。つまり、今風に言えば、高名な先生が瞑想教室を開いていて、そこである特定の瞑想法をみんなに教えていたわけですね。仏陀はそれを習ったわけです。そういうタイプの瞑想法に関して仏陀は、得意というか才能があったらしく、すぐにそれをマスターして先生と同じレベルになったようです。仏陀は先生に瞑想教室を手伝うように勧められましたが、自分の問題はこれではまだ解決してないので失礼しますと言ってそこを去りました。その後別のタイプの瞑想をやったのですけど、そこでも同じことが起きているんですね。既存の瞑想法では駄目だということで、もう一つの当時の主流の宗教的行法であった苦行をしたわけです。死ぬ寸前まで徹底的に苦行をしたけれども、これも究極の解決にはならないと見極めて、それからはじめて菩提樹の下で坐禅しているんですね。「坐禅」というともう禅宗の言葉のようになっているので、僕は打坐(たざ)とよんでいます。掛け値なしにただ坐るという意味です。何の教義的なカラーもつかない純粋なsitting、この樹下の打坐が仏教のはじまりです。ここに至るまでに瞑想と苦行という二つのことにトライしたけど、それではダメだということで新しい一歩として踏み出したのが樹下の打坐だったのです。ある意味、仏陀としては一度挫折しているわけです。当時手に入る二つの行法を徹底的に試したけど、それでは自分の抱えている問題は解決しなかったのですから行き詰まりです。そこで「ごめんなさい。若気の至りでした。やっぱり父親の跡を継ぎます」と言って城に帰る手もあったんですが、それはやらなかった。今ある既存のメソッドではダメだったのだから自分で独自の道を歩むしかないと新しい一歩を踏み出した。そういうところに仏陀の偉さがあったと思います。その一歩が樹下の打坐というかたちで結晶化しているわけです。 修定型の瞑想という、ある特定の瞑想の方法に従って、それを練習してマスターするというやり方の瞑想を仏陀は放棄しているんです。ということは、そういう瞑想と樹の下での打坐を同一視してはいけないのではないかというのが僕の大きなテーマなんです。その証拠に修定型の瞑想や苦行をやっている間は仏陀の前に悪魔は現れていません。この樹下の打坐をした時に初めて悪魔が現れています。悪魔がこれはやばい、あいつの邪魔しなければと思ったのは仏陀が樹下の打坐をしたときなんですね。以前の修定型の瞑想や苦行っていうのは、どんなに一生懸命やっても所詮は人間界の営みなんですね。人間界の営みである限りは悪魔は怖がらなくてもいいんですね。私というものが自分にとって都合のいい状態にいつかなるようにと頑張っている世界が人間界です。すべてが私のためというところから出発しているわけです。私が思い描く理想に向かって頑張っているのは、それがどんなに理想が高尚でもそれはどこまでいっても人間界の話なんです。私から出発している限り、悪魔はそれだったらいくらやられても怖くないんですね。悪魔の手の中のことだから。ところが樹下に打坐した仏陀はそうでないことをやりだしたので、悪魔は仏陀が自分の手の届かないところに行ってしまうということで、何が何でも邪魔をしなくてはと出てきたわけですね。なぜこの時に悪魔が出てきたのかということをよく考えるべきだと思います。そして、修定型の瞑想や苦行と樹下の打坐の違いを理解しないといけないんじゃないかなと思います。
道元禅師はこういう悪魔というような文脈では言ってないんですけど、「坐禅は習禅にはあらず」と言っているんですね。習禅とは禅定という特別な境地に習熟する営みのことです。何らかの方法によって禅定という特別な境地に向かってだんだん習熟していくという、僕らがよく知っているトレーニングのような枠組みの中で行われていることです。坐っている格好は一見同じかもしれませんけど、その中で行われていることは習禅か坐禅かでまったく違うというのが道元の言い方ですね。習禅ではなくて何なのかというと、「大安楽の法門」なんだと言っています。坐禅は大安楽なんだけど習禅は安楽じゃないということです。安泰寺に入ったばかりのころは、こんなきつい坐禅が安楽のはずないよと、僕は思っていました。その後、道元禅師の本を読んで坐禅は安楽に入っていく法門だと書かれているのを見て驚いたのです。目から鱗が落ちたというか、次第にそういうことが理解できていきました。安楽であるはずのものをわざわざ難しく、きついものにしているのは坐禅のせいじゃなくて、やっている当人のやり方が間違っているからだということがわかってきました。先ほどの仏陀が樹下に打坐する前にやっていた習禅的な瞑想や苦行なら、いくらやったって悪魔にとってはまったくオッケーなんですよ。しかし、きつい修行から安楽な坐禅に切り替えられるとやばいということで悪魔が出てきたんです。僕らが学ばなければならないのは悪魔が焦って邪魔しに出てくる安楽の法門の方なんです。これはcounter-intuitive、つまり僕らの直観に反することですね。きつい修行に耐えて頑張っている方が悪魔が焦りそうなものに思えるからです。僕はよく仏教の教義は反直観的だよって言うんです。例えば無我なんていうのはcounter-intuitiveです。どう見たって俺というものがありそうに思えますからね。それがないなんていうのは経験にそぐわないことこの上ありません。「坐禅は安楽の法門」であるということなんかもまさにカウンター・インテュイティブです。坐禅はきついもので、僕らは安楽なことなんかやっていたら悪魔の誘惑に負けることだと思ってしまいますが、本当は悪魔は頑張る習禅よりも安楽の坐禅のの方が怖いんですね。 そういう目で改めて仏典や道元禅師が書いているものを見ると次第に状況証拠が揃ってきて、修行は辛い苦しいことに耐えてゴールに到達するというようなガンバリズムのトレーニング的なものではないということがわかってきたんですね。今までそういう発想がなかったので、そうは読めてなかったということです。
一つの大きな助けになってくれたのは、一九九五年にフランスから来日されたティク・ナット・ハン師(ベトナム人の禅僧)との出会いでした。幸いにも縁をいただいて、通訳チームの一員として二十日間ほど師の一行に同行することができました。九五年ですから私も四十過ぎで若い時です。ティク・ナット・ハン氏はこう言ってるんです。「ブッタはあなたの中にいます。ブッダは呼吸の仕方も、優雅に歩む方法もご存知です。あなたが忘れていても、ブッダよ、来てください、とお願いすれば、すぐに駆けつけてくださいます。待つ必要はありません。」(島田啓介訳『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』新泉社 二〇一二)何か外側にあるような既成のメソッドを自分に押し付けて、それによって自分の呼吸や歩きを操作して、特別な呼吸法や歩行法を身につける必要はないよって書いてあるんですね。ここでは、「ブッダよ、来てください」とお願いするっていうことが大切なんです。これは詩的な言い方なのでいいとしても、実践の現場では実際にどうするのかということが問題になるわけですね。この師の言葉の後に「瞑想の偈」というのがあります。「ブッダに呼吸してもらい、ブッタに歩んでもらう。私が呼吸することはない。私が歩むこともない。ブッタが呼吸をしている。ブッタが歩んでいる。私は呼吸を楽しむだけ。」ここに安楽の「楽」という言葉が出てくるんですね。さらにいきますと、「ここにあるのは呼吸だけ。ここにあるのは歩みだけ。呼吸している人はいない。歩いている人はいない。私が歩いているのではない。歩みだけがある。」これなんか『中論』とかに出てくるような議論とつながってくると思うんですね。さらに、「呼吸しながら安らいでいく。」という文があって、ここに安楽の「安」が出てきます。さっきは「楽」が出てきましたが、ここには「安」が出てくるんですね。「呼吸しながら安らいでいく、歩きながらやすらいでいく、やすらぎは呼吸、やすらぎは歩み」。ですから、このティク・ナット・ハン師の「瞑想の偈」が安楽の法門の開き方の一つのヒントになっていると思うんです。 坐禅に当てはめていえば、「ブッダが坐っている。私はその坐りを楽しむだけ。坐りながら私は安らいでいる。」というような言い方になります。行というのはあらゆる行いをこのブッダに来てもらっている感じでやる、そういうクオリティでやることを目指す、それが行ですね。これは先ほども言ったようにボディという考え方をしている限り無理です。こちらからの操作の対象として考えられたボディはここには出てこないですね。なぜかと言うと、ボディという考え方にはそれ自身で呼吸するとか、それ自身が歩むとかはないからです。私が命令しないと動かないのがボディですから、こういう偈のような世界はでてきようがありません。こういう詩が生まれてくる余地がないのです。だから、そもそもの身体観から変えていかないとだめだということです。
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さて、僕の趣味の一つにスラックラインというのがあるんです。五センチほどの幅の弾力のあるベルトに乗ってその上を歩いて渡るんですけど、足を置いて踏まないと上に上がれませんが踏むと横に激しく揺れるんですね。でも踏まないと上がれないです。さあ、そこでどうするか。こう言っても多分聞いただけではその困った感じはみなさんには分からないと思います。ほとんどの人は、ラインを実際に踏んだらこんなに揺れるのかってびっくりします。僕もそうでした。踏んだら揺れる。しかし、踏まなければ上がれない。さあ、どうする?これはいわば、「身体的な公案」ですよね。ロジックでは解けないのです。でも、ラインと遊んでいるうちにいずれ乗れるようになります。これは言葉でいくら理論を理解しても乗れるようには絶対ならないですね。でも身をもって、上がっては落ち、上がっては落ちを繰り返す中で、体はそこで何かを学んでいるんです。上がる時にも落ちるときにも何かを学んでいる。いつの間にか乗れるようになった時には、どうやって乗れるようになったかは言葉では言えないです。説明できないけどできるようになっている。これが身をもって得るということの例です。仏教の修行もこれと同じような、会得、体得ということが大切なのです。 皆さんは自転車にどのように乗れるようになったか説明できますか。それから乗れなかった自分にはもうもどれませんよね。乗れなかった時の自分はもういないですね。もう身心がまるっきり変わってしまっているからです。どうやって自分が乗れるようになったかを言葉では説明できないけど、乗れるからだになっている自分が今ここで息をしているのです。こういうのが行で得る身ということなんですね。 箸の使い方でもそうですし、鉛筆で字を書けますよね。これもみんな身の問題なんですね。僕は今リハビリ関係の本をあれこれ読んでるんですけど、とても参考になります。筋肉の使い方や動き方の訓練ではなくて、脳の認知から変えていく認知運動療法というものに興味を持っています。行というのは言葉では言えぬこと、思いでは思えぬことを身でやるっていうところが特徴なんですね。だから、ともかく身心を挙げて実際に、実地にやるしかない。 道元禅師の「身心学道」という表現ですが、たいていは「身や心を使って道を学ぶ」と読みがちですけど、僕はそうは読まなくて「身心から学ぶことが道である」と読むべきだと思います。身心を操作の対象にして、今までできなかったことをできるようにするというイメージではなく、身心を先生としてそこから敬虔に学ぶことを道とするということです。だからこの四字熟語のそもそもの読み方から変えていかないといけないのです。
観念を通して対象化された身体ではなく、自律的に働いている内側から体験される身(ソーマ)から学ぶことが必要です。冒頭でも頭を前にぶら下げた時に生まれる感覚を味わい続けていくと、どんどん感覚が変化してきた人が多いと思います。こういう体験される感覚を手がかりにするわけです。それを絶対視するわけではないんだけど、手がかりにしてより良いあり方を探求していく。そこから生まれてくるものが行なんですね。だから最初から決まった形っていうのがあるわけではないです。その都度新鮮にそれまでなかった形が自然に生成してくる。わたしはそれを「象(かたど)り」と呼んでいます。 例えばラジオ体操のようになると、もう真似るべき理想の形やフォームが決まっていて、先生が見せた手本の通りにやる。角度何度、距離は何センチとかっていうふうに外側に基準を設けて、それに合わせていくということになりますね。そういうアプローチには、身が本来持っている身体知とでもいうべきものが想定されていない。ティク・ナット・ハン氏はそういう身体知のことをブッダと呼んで敬意を払っているわけです。われわれとしては、身体知にどうやってアクセスするかっていうことが重要な問題です。 道元禅師はそういうことについて簡明に表現していて、僕はよくこれを引用します。「ただ我が身をも心をも放ち忘れて仏の家に投げ入れて」、仏の家というのは先ほどの内なるブッダのことですね。「仏の方より行われて、これに随いもてゆくとき、力をも入れず、心をも費やさず」、これが安楽のあり方です。仏のなり方っていうのは力も入れないし心をも費やさないっていうことです。だからこれが安楽の別の言い方です。道元禅師のこの文章は僕にとってはマントラ(真言)に近いものです。 さっきも言いましたが、僕の坐禅の本の中では、形というものと、象りというものを区別しているんです。形っていうのは外から拘束したハンコで押したようなものです。だからいのちが通っていない。象りっていうのはその時その時内側からフレッシュに生成してくる。武術の型っていうのは本来は象りですね。外側にある何かの鋳型に体を当てはめているのではない。ヨガのポーズもそうじゃないかなと思います。 近々こういうことをめぐって魚川祐司さんとやった対談が本になって出版されます。『感じて、ゆるす仏教』(KADOKAWA)という本です。「感じて、ゆるす」というのは、先ほどの道元禅師の「仏の方より行われて、これに随いもてゆく」という言葉を現代語に言い換えたものですね。これは元々は英語で言い出したものです。始めはorder and control(外から命令してトップダウン式に身体を操作する)的な修行のやり方をしていたのですが、やがて、sense and allow(今、起きていることを繊細に感じ取って、そのことから起きてくる変化にそのまま任せる)へと修行の刷新が僕の中で起きたのです。その後者のアプローチを日本語にしたものが「感じて、ゆるす」です。この本の中には僕が今まで公開してないような内輪話も書いたりしているので、自分の禅僧としての評価がかなり落ちるんではないかと心配してるんですけど(笑)。
僕の探究の道において、一つの大きなリソース担っているのは東洋の武術なんです。スポーツ化する前の、侍たちが生き死にをかけて磨いてきたような身体技法に関心があるのです。武術には型とか式っていうものがあるんですね。ある動きをある手順に従ってある回数、ある方向にやるというのが型とか式です。不思議なことにこの型や式に従ってからだを動かすとからだが自ずと調ってしまうんです。時間があれば皆さんに試していただきたいんですけど、そうもいかないので、習った型を僕が少し実演してみます。こうやって馬に乗ったような体勢になって、腰に拳を置いて、右手それから左手、もう一回右手と、都合三回、円を描くように動かして、最終的にこういう形になります。これをパートナーの人に上から手を下にぐっと押してもらう。そうすると結構強いんです。しかし、手順を飛ばして型を経ないで、最後の構えだけを作ったものでは、上から押されると、簡単に崩れてしまうんです。
同じような形のはずなのになんでそんなに違うのかっていうことです。人間の体の中にはある手順であるパーツをある仕方で動かすと、「勁道が通る」という現象が生じるようになっているんです。「勁」は訓読みすると「ちから」とか「つよさ」なんですけど、力や強さは身体の話であるのに対し、勁や勁道というのは身(ソーマ)の話です。同じ読み方でも、力っていうのは身体(ボディ)のはなしで、意志で出す筋力なんですが、勁は身の自然が発揮されたもので、自分はあまり努力している感じがしないんです。僕らは力しか知らないので、こういう違いを説明できないんですね。しかし、昔の武人たちはこの勁というのを感じることができて、型を生み出すことができたんですね。 禅の中にも武術の中で言われているようなそういう型や式が結構ありまして、最近僕がよく話題にしているのは「五体投地」です。仏教で一番丁寧な礼拝の仕方とされている動作です。合掌して一礼してしゃがんで、そして正坐して頭を地につけて、両肘と両膝をつけておでこもつけてゆっくりこうやって手を耳の上まで上げていく。チベット仏教でも南方仏教も少しやり方は違うんですけど、基本形は同じです。例えば五体投地をする前の合掌は、誰かが手で引き離そうとする動きにどのくらい耐えられるかっていうのを試してみると、五体投地を一回してもらった後同じように強さのテストをすると、両手がなかなか離れないぴったりした合掌になっています。別に意志の力で力を入れてグッーと頑張るんじゃなくて、何故か離れないんです。筋肉とは違うパワーである勁が発動して、つまり、内なる自然の働きが登場してくれてそれで構造的に強くなるというしかないんです。 坐禅も実はこういう型の極まったものではないかと僕は思います。だからあの最終形だけをやるんじゃなくて、坐禅に落ち着くまでに、それに勁が通るような型や式っていうものがかつてはあったのではないかという気がするんです。それを探す必要がある。そうやって考えてみると、僕らは坐禅堂の内に入るときにいろんな作法があるんですよ。ある特定の側から入るとか必ず右に曲がるとか。自分の座に行くまでに両手を組み合わせて歩くとか、その他いろいろな作法や仕草を経て坐禅をするように訓練されます。専門僧堂だと床の上ではなくて、単という少し高いところに坐るんですね。そこに上がる上がり方にも作法があるんですけど、そういった進退作法はみんなもしかしたら坐禅に勁道が通るための型とか式として昔の人が考案してくれたものだったのでははないか。そういう目で僕は今、禅宗に伝わってきた進退作法を洗い直しているところなんです。 こういう型の不思議さについては『退歩のススメ−失われた身体観を取り戻す−』(晶文社)という本で光岡英稔さんという武術家の方と対談していますので、関心のある方は読んでみてください。
もう予定の時間になったので端折りますけど、「修行はオーガニック・ラーニングだ」と僕は言ってるんですね。一定の時間、机に坐って教科書読んだとか先生から習ったっていう感じで学ぶような学校的な学びと、修行は学道とも呼ばれますが、この二つは同じ学びではないんです。赤ちゃんが生後一年くらい経つと自然に立って歩けるようになったり、母国語の基礎を習得していくような、いつ学んだかわからない、逆に言うと、生活のすべてが学びになっているような学びがオーガニック・ラーニングです。そこでは上手くいかなかったことも、すべてが学びの材料になるんですね。仏教の修行というのは、大人になってからもう一回この赤ちゃんの時のようなオーガニック・ラーニングを改めて自覚的にやることだと言えるのではないか。それには失敗に対する恐れとか他人からの評価とか競争心とか、そういう僕らの学びを狭めてしまうようなものをなくさないといけないですね。大人になってオーガニック・ラーニングができるようになれば、悪魔も怖がるんじゃないかと思います。 「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る」、霧の中を歩いていくと知らない間に衣が湿っちゃうっていう表現があります。オーガニック・ラーニングというのはそういうものなんです。坐禅の効能について道元は「坐禅すれば自然に好(よ)くなるなり」(『正法眼蔵随聞記』)という言い方をしています。自然に好くなるというのは、オーガニック・ラーニングの特徴です。坐禅もオーガニック・ラーニングの典型で、やっているうちに自然に何かが育っていって、本人も知らないうちにいつしか好くなってくるものなんです。 結論ですけど、自分が身というあり方で存在していることを自覚することの重要性をいろんな形で仏教が指し示しているんじゃないかと思います。道元禅師は「尽十方界真実人体」と表現してますけど、これはこの宇宙全体の真実が私の身として現れているという意味です。この意味での身は皮膚の内側で終わらず、宇宙大のサイズにまでその射程が広がっています。坐禅しているときの実感からすれば、そういう表現がまんざら誇大妄想の産物ではないということが分かってきます。分離した自我という虚構が解体するような瞬間には尽十方界が自分の身であることを知るのです。ヨーガのポーズでも自分のちっぽけな体だけでヨーガをやるんじゃないですね。地球の一部として自分の身があって、それがアーサナの形になってきますし、呼吸もローカルなものではなく、ユニヴァーサルなものとして感じられます。そういう身のあり方を坐禅やヨーガを通して稽古していく、そういう身のあり様を学んでいくのが仏道の行であり、学道なんですね。 それから老・病・死というとどうしてもそんなもの見たくないと避けがちなんですけど、それらは身(ソーマ)として生きている以上、折り込み済みのものなんですね。生老病死をひっくるめてのいのちであり、身なのです。僕らの主流の身体観は観念で対象的にとらえたボディですので、何とか生老病死を自分の力でコントロールできるんじゃないかと期待してあがくわけです。でもそれはしょせんうまくはいきません。いのちは観念より根源的なものだからです。ソーマには不可避的に生老病死が織り込まれている。プログラム化されているものなんです。それを「宿業の身」として受け止めて、文句を言わず、そういう所与の条件を完全に受け入れて、そこから出発していくことで、初めて主観性ではなく「主体性」というものがそこに出てくるわけです。 最後に、椅子坐禅をしようと思いましたが、もう時間がないので、質疑応答に移りましょう。
(本稿は平成三〇年度五月祭講演会をもとに加筆訂正したものです。)