Journal of Buddhist Culture
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はじめに

私はこの本郷から車で一〇分くらいのところにございます東京国立博物館で研究員をしております、瀬谷愛と申します。今日(二〇二〇年一月二〇日)は、三月十三日から開幕の「法隆寺金堂壁画と百済観音」(その後、新型コロナウイルス感染拡大により開催中止)という展覧会のためにさまざまな作品が上野に集まってまいりますので、そのご紹介と、この展覧会にどういった目的があるかについてお話をさせていただきます。

最初に宣伝するのも心苦しいのですが。奈良法隆寺の中心的な建物である金堂に、かつて飛鳥時代に描かれた壁画がございます。それが戦後の昭和二十四年(一九四九)に火災に遭いまして、黒く炭化した柱とともに保存処置を施したものが、法隆寺の収蔵庫に保管されております。今、法隆寺、文化庁、朝日新聞社が中心となって保存活用委員会を立ち上げておりまして、この焼損した壁画を一般に公開できるようにならないだろうか、ということを調べている最中でございます。この壁画は残念ながら、今は一般にはなかなか忘れられている状況にありますので、これをいつか公開できるようにしたい。今回の展覧会にはこの焼損した壁画は来られないのですが、江戸時代から昭和時代にかけて模写された絵がございますので、そちらで紹介しまして、いつか公開される日を皆様に心待ちにしていただきたいということで、展示の一部を構成しています。

[写真]瀬谷愛先生

それから、金堂の中にかつて安置されていたと考えられています百済観音をご紹介したいと考えています。百済観音は非常に有名な法隆寺の仏像ですが、こちらは明治時代には金堂の中にあったことが当時の写真でわかっています。今は法隆寺の境内に新しく建てられた展示施設である大宝蔵院の百済観音堂で拝観することができます。かつては金堂の中にあったというご縁がありますし、今回は展覧会図録の中で、当館の古代美術の研究員であります三田覚之が新しく、金堂にこそ百済観音があったのだという論文を書きまして、それをいま編集中でございます(三田覚之「百済観音像誕生の謎」東京国立博物館他編『法隆寺金堂壁画と百済観音』展覧会図録、朝日新聞社、二〇二〇年 )。展覧会ではこの百済観音と、今、金堂に安置されている毘沙門天立像、吉祥天立像をご紹介する予定です。

さらには、焼けてしまった金堂壁画を象徴といたしまして、文化財保護とはどのようにしていったらよいのか、どのように記録していったらよいのかを考える機会となるような構成にしています。今年は、文化財保護法という、国宝、重要文化財だけでなく名勝や史跡も含めて、日本の文化的遺産をどのように護っていくかについて定めた法律が制定されて七十年という節目の年です。この法律が制定されたきっかけが、この金堂の火災でありましたので、この文化財保護法についても少し考えたいと思っております。

近年、文化財が火災に遭って燃えるという事故が多発しております。ブラジル・リオデジャネイロの国立博物館では、一昨年(二〇一八)九月に火災がございまして、全館が炎上し、中にあった収蔵品の九割が焼失しました。実は、以前から施設の老朽化があって、職員が管理のために建て替えや電気系統の整備を求めていたようなのですが、リオオリンピックがあり、予算削減があって、国内の情勢が悪化し、そういった訴えが聞き入れられぬまま放置されていたようです。そうして火災が起きても止められなかった、という大変痛ましい事故でありました。

それから去年(二〇一九)四月には、フランス・パリのノートルダム大聖堂で火災がございまして、この時にも世界中がこのニュースにたいへんな衝撃を受けました。石造の建造物であったために、先ほどのブラジルの博物館もそうですが、石の部分は焼けてもなお建っていることができますし、大聖堂もひどくは延焼しなかったのですが、大切な文化財が焼けるということ自体が非常に痛ましいことであると世界中に知らされました。

さらにその半年後、これらが半年おきに起きているのですが、沖縄県那覇市の国指定史跡首里城跡で火災がございました。この首里城も世界遺産に登録されていますけれども、実際に国指定史跡に指定されているのは遺構の部分です。上の建造物は復元されたもので指定対象ではないということもあったのか、管理が万全ではなかったのかもしれません。木造部分が焼け落ちて、中心的な建物の中に展示されていた琉球王朝時代の美術工芸品とともに焼けてしまいました。収蔵庫にあったものは大丈夫だったということです。

このように、たいへん悲しい出来事が半年おきに続いています。これをうけて日本の文化庁もすぐに防火対策のガイドラインを作ったりしまして、いま全国的にどのようにしたら火災を防げるかということに取り組んでいるところです。

一 法隆寺

以上のように、かつて文化財保護法が制定されたきっかけとなったのが、法隆寺金堂の昭和二十四年(一九四九)の火災でありました。この法隆寺について、皆様よくご存知と思いますけれども、少しお話をさせていただきます。

聖徳太子の発願によって七世紀初頭に建立された法隆寺ですが、現在の伽藍は天智九年(六七〇)頃から整備されたことがわかってきております。法隆寺の伽藍は大きく二つに分かれておりまして、西側に位置する、四角い廻廊に囲まれた中心部分が西院伽藍で、金堂、講堂、五重塔があります。また、東側に、より小さな塀で四角く囲まれた伽藍がありますけれども、こちらは東院伽藍といいまして、かつて聖徳太子の宮があったところが、のちにゆかりの寺院として法隆寺に組み込まれた部分になります。

法隆寺は六七〇年頃に伽藍が整備されたと申し上げました。この年に火災がおきまして、落雷によって伽藍が一棟残らず焼失したという記録が『日本書紀』にございまして、その後まもなく今の位置に建ったと考えられています。元の法隆寺はどこにあったかと申しますと、今の伽藍の南東に「若草伽藍」と呼ばれる寺院跡が残っています。ここにかつてお寺があったのが落雷で全焼したので、現在の西院伽藍の位置に移動したと考えられています。それ以来の木造建築が残っているということで、世界最古の木造建築群として世界遺産に登録されているのです。そのなかでも中心になるのが金堂という建物になります。

年表で繰り返しますと、六〇一年に斑鳩宮、いまの東院伽藍が建造されます。六〇七年に聖徳太子が父用明天皇の病気が治癒するよう願って薬師如来像を造立したのが法隆寺の始まりとみなされています。六二二年には聖徳太子が亡くなり、翌年、その姿を写したという釈迦三尊像という金堂本尊が完成します。その後、六六三年、白村江の戦で日本は国際的な戦争で敗北するのですけれども、その七年後に法隆寺が火災で全焼してしまいます。大変激動の一世紀でした。そして、七世紀末に持統天皇が仁王会という国を護るための法要を法隆寺で行なうために、様々な仏具を施入されました。それまで法隆寺は「私」の寺であったのが、国のための法要を行なう場、ほぼ国の寺になった、ということが法隆寺の転換点としてわかってきています。

二 法隆寺金堂壁画

主題

法隆寺金堂の壁画がいつ描かれたかという問題は、おそらくこの仁王会の頃には、金堂の中に本尊や様々な法要の設えが完了したと思われますので、そのころまでには描かれたのではないかという事ですが、まだ定説をみていません。

本尊の釈迦三尊像には光背の裏に銘文がありまして、そこに聖徳太子等身の像を作りましたという事が書かれています。台座の部分には山が描かれていまして、これが須弥山であることを表しています。その四隅に四天王が描かれています。これも須弥山、すなわち釈迦の浄土であることを表しています。金堂の内部は本尊が中央にありまして、中央部分が一段高くなっています。その上に、本尊はじめ仏様の彫刻、仏像が安置されています(図版①)。

【図版①】法隆寺金堂内部(写真:凸版印刷株式会社)

向かって右に太子が父のために造立したという薬師如来像が安置されていまして、向かって左には母のために造立したという阿弥陀如来像が安置されています。また、須弥壇の四隅に四天王像が安置されています。釈迦三尊像の台座と本尊でも一つの浄土が表されていたのですが、この須弥壇上でも一つの浄土が作られていまして、入れ子状のようになっています。頭上には天蓋という傘があるわけですが、この中には格子のところに花の絵が描かれています。花が空から降り注いでいるようです。さらに上の段、ちょっとみえにくいのですけれども、白い壁が見えますね。ここには飛天がぐるりと描かれています。皆同じ方向、向かって右向きに飛ぶ姿が描かれていまして、あたかも飛天がぐるぐると、須弥山の上を飛び回っているようにみえます。

この下の段には大きな白壁がぐるりとまわっているのですが、ここに如来の浄土図、説法図、菩薩像が描かれています。内陣となる須弥壇の上に仏像が安置され、そのまわりとなる外陣はぐるぐると歩けるようになっています。扉が四方にありますが、それ以外の壁面十二面すべてに仏画が描かれています(図版②)。

【図版②】金堂壁画配置

図版は特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」(東京国立博物館、朝日新聞社、NHK,NHKプロモーション、2020年)リーフレットより転載

なかでも東側の大きな壁を第一号壁と呼びまして、ここから、一,二,三,四,五,六,七,八,九,十,十一,十二と号をふり、「第何号壁」と通常呼んでいます。

第一号壁 釈迦浄土図

第二号壁 半跏菩薩像

第三号壁 観音菩薩像

第四号壁 勢至菩薩像

第五号壁 菩薩像

第六号壁 阿弥陀浄土図

第七号壁 観音菩薩像

第八号壁 文殊菩薩像

第九号壁 弥勒浄土図

第十号壁 薬師浄土図

第十一号壁 普賢菩薩像

第十二号壁 十一面観音像

と、それぞれ画題が違うものが描かれています。

大きい壁は四つありまして、図は下が南で、上が北になっています。ここでは東側に釈迦浄土図がありますが、実際には東は東方薬師と言いますように、方は薬師如来でないといけないわけですが、実際は北の大きな壁に薬師如来が描かれています。それで東に南方の釈迦、西には阿弥陀浄土、もう一つの北に北方弥勒が描かれており、東、南、西、北という構造になっています。実はこの構造は本尊である釈迦三尊像の台座の四天王と同じになっていまして、向かって右奥が東方の持国天、右手前が南方の増長天、というふうに、この台座の東西南北と壁画の東西南北が一致しているようです。ここから、当初から金堂の中に設定された四方とそれぞれの浄土におられる仏、四天王がきちんと立体感のある世界として構成されていることがわかります。ただし、彫刻の四天王像は多くの寺院における四天王像の配置にみられるように右上が多聞天となっていまして、台座や壁画などの動かしがたい構成とはずれています。もしかすると、動かせる仏像というのは、もともとあったところからずれたりすることがありますので、こちらもそういったことがあるのではないかという説もあります。

金堂壁画の構成でもうひとつ興味深いのは、お像の組み合わせです。例えば、第二号壁と第五号壁。この二面はお堂の中で向かい合っている半跏の菩薩像なのですが、実は反転した図像、下絵を使っていることがわかっています。寸法も同じで、細かいところを書き換えたりして作られています。この向かい合う組み合わせは主題にもありまして、例えば第三号壁と第四号壁はどのようなペアかと言いますと、観音と勢至。阿弥陀の脇侍です。また、第八号壁と第十一号壁は何のペアかというと、文殊と普賢で釈迦の脇侍。第七号壁と第十二号壁はどうかというと、観音と十一面観音で観音同士、というようなことになっています。四方の浄土図のほかはペアで左右対称になるように、構成されている、大変面白い空間になっています。

表現技法

では、これらの表現技法がどのようなものであったか。今は焼けてしまって詳細にはわからないのですが、焼損前の昭和十年(一九三五)に写真撮影が行なわれまして、その時の写真が大量に残っています。この写真で顔や手の線をみますと、太い細いといった抑揚がなく、一定の太さ、細さで、ずっと描かれています。こうした線を描くというのは、画家にとって自分の手を厳密にコントロールしなければならない、非常に難しいことなのです。如来や菩薩と同じように画家が自分を律しなければ描けない線であり、また、この線自体が如来や菩薩の性格を表しています。こうした太い細いがない線で描く技法を「鉄線描」といいまして、鉄の線、針金のように同じ太さの線を用います。一方で、天部や明王といったお像を描くときは、太い細いの抑揚がある、勢いのある線で描くことがあります。勢いがある線で描くから、明王や天部の性格が力強く表せるという事があります。たしかに、如来の姿が感情の高ぶるようなラインで描かれているよりは、こうした抑制のきいたラインで描かれた方が、観る者にとっても心を寄せやすいと思われます。

また衣の表現ですが、かつて阿弥陀如来の衣は赤で描かれていたようでして、衣の襞にグラデーション、影がかかっていました。こういった衣の片側を濃くぬって、もう片側を薄く残すことによって、衣の立体感、凹凸を表すという古来の技法があります。これを「凹凸画法」と呼んでいます。

現在、焼損した壁画が法隆寺の収蔵庫に残っていまして、彩色部分はモノクロになってしまっています。一方で、線はきちんと読み取ることができ、もともとは黒かった線が、焼けて白い線として残っています。間近で拝見しましたが、鉄線描というのは本当に太い細いがないのにもかかわらず、わずかな筆の運びによってものすごいボリュームを出せるのです。この感じはなんともお伝えしがたいところではありますが、たいへん美しいものです。

東洋絵画の世界においては、線がとても重要です。西洋絵画においては色を重ねることによって立体感を出したり、表現を重ねていきますが、東洋絵画においては線が重要な要素となっています。中国・南斉時代、五—六世紀というまさに聖徳太子と同じ時代に謝赫という人がまとめた『古画品録』という画論書があります。そこに「画の六法」という、絵を描いたり観たりする上での六つの大切な規範がまとめられています。

「気韻生動」。生き生きとした生命感や躍動感、内面が伝わってくるか。「骨法用筆」。モチーフの骨格となる線が確かに描かれているか。「没骨」といって、線を使わない描き方もあるのですが、まずは確かな線で描くことが大切なんですね。「応物象形」。そのものに応じた正確な形を写し取れているか。「随類賦彩」。そのものに適した色彩が選ばれ用いられているか。「経営位置」。きちんとした美しい構図が取られているか。ということで、ここまでは線や形、色、構図についての基準ですけれども、六つ目に「伝移模写」ということを挙げています。これは絵を描くうえで古い絵を模写、記録し、これに学ぶことがとても大切だと伝えています。

金堂壁画の制作年代については、七世紀末頃、一説には八世紀の初頭になるという説もありますが、同じ頃、七〇〇年前後に書かれた数々の絵にも当然、元になる絵があったはずです。よく比較に出されますのはアジャンター石窟や敦煌莫高窟の浄土図ですが、おそらくは今は残っていない、中国の長安という大都会に大きな寺院があって、そこに留学した日本人、遣唐使あるいはお坊さんが得てきた資料を基にして、この金堂壁画が描かれたのだろうと考えられています。ただし、いつ行った人が持ってきたか、持ってきた後、絵が描かれるまでの間にどのくらいのタイムラグがあるかどうかで、専門家の間でも定説に至っていないという状況です。

三 百済観音

さて、金堂の中ですが、須弥壇の上には天蓋があり、その下に本尊中心に三体が並んでいます。そうしますと、須弥壇の後方はかなり空いてしまいます。かつてここはどうなっていたかといいますと、明治五年(一八七二)に古社寺宝物調査が行われまして、そのときに金堂内部で撮られた写真が残されています。金堂の北側から撮られた写真なのですが、ちらっと毘沙門天立像の背中が見えていまして、薬師如来坐像、釈迦三尊像の台座が写っています。実は須弥壇の北側には、橘夫人念持仏厨子という、聖武天皇の后である光明皇后の母が持っておられたという、阿弥陀三尊の厨子が置かれていたことが当時の写真でわかります。また、向かって左に長身のすらりとしたお像が置かれていたこともわかります。さらにこの空間には、玉虫厨子も安置されていたことがわかっていまして、金堂という空間の中はまさに国宝のトップに並ぶ仏様が集結していたのです。特徴的な光背を持つ、すらりと長いお姿は、国宝観音菩薩立像、通称「百済観音」です。今回、この百済観音が二十三年ぶりに奈良から東京へ来られることになっていまして、会期を通じていつでもご覧いただけるので、ぜひお近くにいらっしゃる方はお越しいただければと思っています。

この百済観音については、元々どのお寺にあったのか、どこの国にあったのかについてよく話題になります。冒頭で少しふれましたように、当館の研究員で、とくに学生時代から法隆寺の仏教美術、仏像や工芸について研究している三田という研究員がおりまして、今回色々なことを調べて、考えて、やはりもともと法隆寺に、少なくとも今の金堂が建った頃には金堂に安置されていたと考えるようになったようです。

「百済観音」という愛称がついていますので、百済で作られたのだろうと、聖徳太子も親交があったので考えられているのですが、実際には百済から来たとか、百済の人が作ったというのは伝説に過ぎないようです。江戸時代には、観音菩薩ではなく、虚空蔵菩薩であると言われていて、それが百済から来たけれども、実際に作られたのは天竺、インドであると書かれています。百済観音がインドで作られたと言われると、さすがにそれは違うんじゃないかと皆さん思われるんじゃないかと思いますが、百済で作られたと言われれば、そうなのかなと思われるかと思います。

江戸時代から明治の終わり頃までずっと百済という言葉がついて語られてきましたが、明治四十四年(一九一一)、法隆寺の蔵の中から、もともと百済観音がかぶっていた宝冠がみつかったことによって、これは虚空蔵菩薩ではなく観音菩薩なのだということがわかったのです。なぜ観音菩薩だとわかるかというと、宝冠の前面中央に如来形の仏様、つまり阿弥陀如来像がついていたからです。また、百済観音が明治時代に国宝に指定されたときには、百済の人が作ったらしいと考えられていたのですが、実際にはおそらく日本で作られたということもわかってきました。百済観音の手首には金具がついているのですが、これが、東京国立博物館の法隆寺献納宝物のなかにございます灌頂幡という金銅製の幡(旗)のデザインと共通し、同じものが使われていることがわかったのです。こういった面からも、百済観音はおそらく日本で、七世紀半ば頃に作られたのだろうと考えられています。では誰のために作られたかについて、もともと法隆寺のために作られたであろうということに加え、今度の展覧会図録で最新の成果が掲載されますので、こちらも楽しみにしていただきたいと思います。

四 法隆寺昭和大修理と文化財保護法の成立

ここからは、また悲しいところに話が戻ります。法隆寺金堂は昭和二十四年(一九四九)に火災に遭いました。戦争が終わってわずか四年のことでした。まだ日本が復興する最中にあった頃に、日本で最も素晴らしい仏教芸術の象徴、世界に誇るものと皆が認識していた、まさにその金堂が焼けてしまった事は、たいへんな問題に発展しました。今は国会の議事録などはインターネットで検索して読むことができるのですけれども、二十四年一月末に火災が起きた直後の議事録には当時のことがとても詳しく書いてあります。

当時の法隆寺では昭和九年(一九三四)から始まる、建造物を中心とした大修理事業が行なわれていました。境内の建造物を解体修理して、記録に残しつつ、次の世代につなげようという目的をもって修理が始まりまして、これがたいへんな予算規模の大事業になっていました。文化財修理は基本的には所有者がお金を出すことになっています。持っている人が責任を持つことが基本にあって、それが重要文化財に指定されていて高額になる場合には、国や行政が半分であるとか四分の一であるとかをもち、残りを所有者が負担するという事もあります。法隆寺昭和大修理でも大変な規模になったので、国家予算から伽藍全体の修理をしましょうということになったようです。

建造物が中心だったのですが、金堂の修理にあたっては、中にはめられている壁画をどうするかという問題がありました。安全に柱や壁を外せるかが喫緊の課題となり、五年後に壁画保存調査会という様々な専門家が集まった委員会が発足し、壁画の状態が安定しているか、弱い場合はどうするか、解体できるかなどの調査が始まりました。そこで当時最新の技術、例えばドイツで開発された合成樹脂を使ってみたり、最新の蛍光灯——今でいうLEDのようなものですね——で堂内を照らしてみたり。それから壁画の状態を記録するために、原寸大の写真を取っておこうという事で、十二面の大きな壁画だけで三六三カットの分割撮影が行なわれたりしました。この時のガラス乾板は今、歴史資料として重要文化財に指定されるほど貴重なものとなっています。

その流れで、写真だけではなく絵でも残そう、模写しようということで、模写事業が始まりました。こちらは昭和十九年(一九四四)に戦争が激しくなって中断しますが、翌年には金堂の解体修理が始まり、中の安置仏はいったん別に保管され、建築の上の層が解体され、移送されました。上の層には、冒頭でお話ししました飛天図という小さな壁に描かれた絵がはめられていました。小さいと言っても横が一五〇㎝くらいの大きなものですが、これが二〇面ありまして、これは安全に外せるという事がわかり、外されたまま、終戦を迎えました。模写事業の方は日本画家たちが戦争に行ったり、戦後なかなか再結集できないという事で、終戦後二年ほどたってから再開されました。昭和十五年(一九四〇)の開始から、戦中戦後の中断を経て、長い時間が経過していたため、昭和二十二年(一九四七)の再開の後には、昭和二十四年(一九四九)の完成を目指す目標が立てられたようです。それまでの模写作業は気候の良い春秋二か月半ずつ行なわれていたのが、冬の間も実施することになり、二十四年一月を迎えた中での火災でした。

火災を知った消防車がたくさん来て、金堂内にどんどん水を投入したようですが、密閉されていた扉を開けてみると、堂内に水がたまるほどだったそうです。上層は外されていたので、下の層の柱と壁が残っていました。とは言え、堂内に水を入れる穴が必要になり、外から壁に穴を開けたところが、ちょうど第六号壁の阿弥陀如来の顔のところであったという悲劇もございました。消防士さんにとってみれば、その位置がどこかなど考える余裕はなかったと思いますが、焼損壁画をみると、本当にお顔に穴が開いている状態で、とても悲しいものです。

その後、再び模写事業は中断されました。多くの時間をかけながら、なお十二面のうち五面しか完成していなかったということで、金堂壁画の模写をすることがいかにたいへんであったか、画家にとっても、その美しさを写すということが困難を極めたことがわかります。金堂自体の修理は、下の層は新しい木材を用い、上の層は外して保管されていた部材を組み直して、昭和二十九年(一九五四)に完成しました。金堂が焼けてもなお国宝であるというのは、上の層が昔のままであるということからです。

金堂が落成し、壁面についてもいつまでも白壁のままでは、ということが議論されましたが、国宝に指定された金堂に直接描くのではなく、パネル装、額装にしてそこにはめるという方法が採られました。昭和四十二年(一九六七)、昭和大修理当時の模写事業に参加した画家たちが中心となって参加して、戦前に撮影された写真に色を重ねる再現壁画が作られました。こちらが今も金堂の中を飾っています。

一方で、火災の後、焼損壁画はどうされたかですが、焼けた柱から安全に外され、割れたところは樹脂で接着されるなど慎重に保存処置がなされました。再現壁画が制作された際に刊行された『法隆寺金堂壁画再現』(アサヒグラフ増刊、朝日新聞社、一九六八年)には、焼損壁画が並べられて処置される写真が掲載されています。「野戦病院のようだ」というコメントからは、東北の被災文化財のレスキューでもそうですが、緊急の現場でできることをとにかくやっていた当時の様子が象徴的に強く伝わってきます。戦前の壁画保存調査会で、保存処置のために最新のドイツの合成樹脂を塗ってみたらどうかという議論がありましたが、焼けた後に、実はその処置が功を奏して、現代の技術で保存状態を調べても安定している事がわかってきました。

また、大きな壁の上にも絵が描かれていまして、「山中羅漢図」とか「禅定比丘図」ともいうのですが、山に囲まれたところにお坊さんが座っておられて、説法しているようであったり、禅定されたりしていたようです。実はこの部分は火災の後、落下して、今は大量の断片になって保管されています。どのような絵が描かれていたかのすべてを知ることはできず、一部分に、これは木の枝か、山の稜線か等がわかるくらいで、元の絵を再現することは現状ではできません。ですから、火災後すぐに大きな壁面十二面が助け出されて、現代でも公開できる状態にありそうだという事は、幸いであったと思います。焼損壁画を保管している収蔵庫内には、焼けた黒い柱が立っています。これは当時解体されずに現場に残されて燃えた部材が、解体され、保存処置され、収蔵庫内に組み直されたものです。また、焼損壁画も保存処置が行なわれて、額に入れられて、鉄骨の支えで立てられています。また、解体別置されて無事だった飛天図も額装されて展示されています。

壁は焼きしめられたこともあってか、たいへん頑丈のようで、昨年クリーニングのために修理技術者が細かく見たようですが、安定し、埃もたまっておらず、良い状態であったと聞いています。また、よく壁面を観察してみますと、壁面に小さな穴がぽつぽつ開いていまして、これは何の穴だろうねということが話題になりました。一つの可能性としては樹脂を注入する作業が行なわれた際の穴かと思います。もう一つの可能性は、壁画が健全であった頃、明治時代以来の模写事業で、直接壁画に紙をピンで刺し止めて、写し取る作業が行なわれていた、その穴かもしれません。今ではちょっと考えられないのですが、当時はそのようにして壁に留めた紙を上げたり下げたりして、残像を写し取るという技法が採られていました。

五 焼損前の資料

桜井香雲

壁画に紙をピンでとめていたことが記録からわかるのが、桜井香雲(一八四〇—一九〇二)という画工です。悪人のように捉えられてしまうといけないのですが、この人が明治十七年(一八八四)に全十二面の原寸大模写を行なっていまして、そのおかげで、明治の前半の頃に壁画がどのような状態であったのかがつぶさにわかります(図版③)。

【図版③】阿弥陀浄土図

桜井香雲模「法隆寺金堂壁画 第6号壁」(東京国立博物館所蔵)

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-1470)

ただ、わかると言ってもあくまで人の手で写されたものですので、写真のように鮮明なものではありません。それでも縦三メートル、横二メートルの巨大なものですので、桜井香雲がそれを一人で、手描きで模写したというのは、それだけでも大変な作業であったと思います。この桜井香雲という画工はプライベートで模写を行なったのではなく、国の事業として、今の国立博物館の資料として写すように命を受けて写しに行っているのです。今でもほぼ同じなのですが、国で事業をしようと決まると、奈良県を通じてお寺に依頼の連絡が行き、画家が現地に見に行って、だいたい五〇〇日くらいかかります、というように準備を重ねたことが、法隆寺の資料や、行政側の資料にも残っていてわかっています。ではなぜ金堂壁画の記録を明治時代に突然始めたかというと、その前にイギリス人の外交官であるアーネスト・サトウという人が法隆寺を訪ねていて、金堂壁画が大変すばらしいということを知り、イギリスにもって帰るから一枚くれと第九号壁だけを写したことがわかっています。その時にせっかくだからもう一枚、日本でも取っておこうというので、その写しがまず作られまして、第九号壁だけは明治十七年より少し前にできていたようです。イギリスでも立派だと言われるようなんだから全部写し取ろうかということで、日本は外国に評価されると気持ちが大きくなりがちですけれども、この後、残りの十一面も模写されたことが明確にわかっています。金堂火災の際、ホースを通すために阿弥陀浄土図の如来のお顔に穴が開いてしまったお話をしましたが、それ以前に描かれた絵を見ることによって、どういうお顔であったか、どういう色であったかを、おおよそつかむことができるわけです。

鈴木空如

桜井香雲が明治十七年に模写を手掛けた後、大正時代から鈴木空如(一八七三—一九四六)という秋田・大仙市出身の日本画家が、まったく個人的に、自腹で、三セット三十六枚を模写しました。鈴木空如は香雲をたいへん尊敬していたようで、絵を比較してみますと、香雲の模写から写したものを持っておいて、法隆寺に実際に足を運んで、細かいところを確認して仕上げたという事がだいたいわかってきています。今度の展覧会図録に奈良大学名誉教授の東野治之先生が新しい論文をのせてくださるのですが、鈴木空如のときには剥落していたはずのところが描かれている、それはおそらく香雲の模写から写しているからだろうということを指摘されています(東野治之「法隆寺壁画の模写と写真撮影——先駆者桜井香雲と田中松太郎——」東京国立博物館他編『法隆寺金堂壁画と百済観音』展覧会図録、朝日新聞社、二〇二〇年 )。昭和十年(一九三五)の写真はまさに壁画そのものを撮影したものですが、その前に描かれた桜井香雲や鈴木空如の模写と比較してみると、ここには彩色が残っているけれどもこのあたりにはない、というのが見えてきます。例えば、阿弥陀如来の向かって左上の光背のところ、桜井香雲や鈴木空如の頃には残っていた濃い彩色のところは、昭和の写真ではなくなっていますよね。五〇年の間に剥落が進んでいた可能性があります。

空如という人は自力で三回も模写したという人なのですが、秋田から画家になりたくて出てきて、経済的には苦しかったようですが、秋田のお兄さんに送金してもらい、東京美術学校、現在の東京藝術大学に通って日本画を学んでいました。先生には山名貫義という、当時古社寺保存会という寺院宝物や寺院の保存活動を行なっていた会の委員を務めていた大和絵師がいまして、そういった人に教えを受けていました。また大村西崖という仏教美術で多大な研究成果を残した美術史の先生がいまして、日本絵画の中でも、仏教絵画というものがとくにすばらしいと強く感じたのだろうと思います。鈴木空如はたくさん書き物を残しているのですが、これらを読むと、とくに金堂壁画はすばらしいもので、人生をかけて写していくことに本当に意味があるのだという事を何度も言っておられます。それはおそらく東京美術学校での先生方との出会いというものがあって、文化財を大事にしなければならないということを奈良や京都の見学旅行でも伝えられ、そのために自分は何ができるかといったときに、画家であるから絵を残すことを選んだのだと思います。金堂壁画以外にもさまざまな仏画を描き残しています。

そのような方であったので、いわゆる創作的な作品というのはほとんど残されておらず、仏画を描いて売って生活をされていたようなのですが、そこにサインがされていないんですね。仏画は、画家の創作ではなく、自己主張でもない、仏の姿を写して、それを見るものが礼拝し救われるということなので、そこに自分の名前を入れるのはおこがましいと、空如は考えていました。生活も苦しくて、奥さんが色々なものを売ったりしていたようです。奥さんにも苦労を掛けた、とも仰っているのですが、そのおかげで空如が残した色々な模写、金堂壁画の模写も、その後、再現壁画が作られるにあたって参考にされました。

空如は金堂壁画を人生で三回写しています。同じものを三回です。最初は大正十一年(一九二二)、その後昭和七年(一九三二)、さらにその後に四年しか間がないのですが、二作目を作り終えるかどうかというところで、三回目を始めていまして、とにかく写すという事が修行と言いますか、自分を高めてくれる、生活の一部でもあったようです。この昭和七年の二作目が完成する前に、鈴木空如を支えてくれたお兄さんが亡くなり、自分の五歳の娘も亡くなるという不幸が続きまして、そういうことでますます、仏様の姿を写すことに没頭されていったのではないかと、年表をみてこちらが勝手に想像しているところですけれども、そう思います。

大仙市には鈴木空如の絵を掛けられる大きな公民館(太田文化プラザ)がありまして、今回展覧会に出品いただく作品の撮影のために行ってきましたが、この模写作品は本当に大きいのです。金堂の中で見るときには、金堂の空間内に大きな仏様がたくさんおられるので、全体に圧倒されてそういうものと感じてしまいますが、公民館や展示室といった、本来の空間から切り離されたところで見ますと、また違って伝わってくるものがあります。

便利堂による撮影

昭和十年(一九三五)に金堂内で行なわれた写真撮影では、原寸大で分割撮影がなされ、そのガラス原板がいまも保管されています。絵の周りに足場を組んで、機材を造って撮影したという事です。この撮影を行なったのが、便利堂という京都の美術写真印刷の会社でして、今も図録やミュージアムショップのはがきなど、便利堂さんが作ったものがたくさんありますように、とくに美術写真で高い技術をもっています。この便利堂のカメラマンが、それまで違う会社で壁画の写真を撮った経験があり、便利堂にうつって昭和十年の撮影に携わったようです。撮影後、このガラス原板から印刷複製を作って金堂壁画を普及することになりまして、ひとつだけ作るのではお金がかかりますので、たくさん納品先を募ったようです。国内外に二十三組余りが配られました。そのうちのひとつが東京国立博物館にありますし、大学や美術館、大英博物館など数々のところにあります。

再現壁画

昭和四十二年(一九六七)前田青邨(一八八五—一九七七)らが焼損前の写真をもとに再現壁画、いまの金堂の中に納められている壁画の制作に着手しました。この壁画はよく写されていて、さすが前田青邨だという感じがしますが、便利堂が撮影したモノクロ写真を和紙に刷って、それに色を付けています。数々の模写や便利堂による四色分解写真を参考に、焼ける直前の姿を復活させることが目指されました。この再現壁画は着手からたった一年で完成しています。

当時の写真が残っていまして、真ん中に和装の前田青邨が座り、鎌倉の自宅に鈴木空如の模本を借り出してきて、色合いや筆致をチームで学び始めた様子が写っています。全十二面あるので、昭和の模写と同じようにリーダーを四人決めまして、その下に助手が何人も付いて、四班体制で行なわれたそうです。真ん中が前田青邨で、左にとっても若い平山郁夫先生が写っています。前田青邨と一緒に模写事業に参加されていたのが生き生きと伝わってきます。

この再現壁画の時には、過去の模写にもたくさん学ばなければならないという事で、桜井香雲の模写、鈴木空如の模写、昭和の模写などを並べて見学会が行なわれました。どのように進めていくか、過去にどのような模写が作られたかを学ぶため、大勢の方やプレスが来たようです。当時の写真をみると、場所は東京国立博物館の特別五室という、本館の大階段の裏にある展示室であることがわかります。そこでかつてこうした見学会が行なわれたということがたいへん興味深いです。今回の展覧会も同じ会場で行なわれます。先に今回の会場が決まっていて、後で写真をみましたので、「あ、これ特五じゃないか」と関係者はたいへん驚きました。

さて、ここまで色々な模写が行なわれたことをご紹介してきたのですが、いま確認されている中で一番古いのは、山梨の放光寺という、甲州市塩山の駅から車で一〇分くらい走ったところに真言宗のお寺がございまして、ここに浄土宗管長を務められた鵜飼徹定が寄進した阿弥陀三尊像が伝わっています。鵜飼徹定の記録によりますと、法隆寺金堂を訪ねてその壁画に大変感銘を受けたので、祐参という弟子に模写をさせたそうです。その後、塩山出身の真下晩菘という幕臣が放光寺に羅漢堂を再建したいというのをきいて、その本尊として三幅を納めたとのことです。この絵は模写というよりも、金堂壁画の阿弥陀浄土図をもとに新しく作られた礼拝画といえるのですが、個人的に作られた仏画が、個人の篤い思いに触発されてお寺に納められ、今もそこに伝わっている。一人一人の思いが伝わり、金堂壁画の力が出会いをつないでいく象徴として挙げられると思います。

その次に古い例は、先ほどご紹介したイギリス人外交官のアーネスト・サトウが桜井香雲に写させた記録が残る第九号壁の模写で、大英博物館に伝来しています。これは、去年(二〇一九)大英博物館で「奈良」という特別展が行なわれまして、奈良県が主催で、奈良県の名品がロンドンの大英博物館に展示されました。大英博物館に入ってすぐ右手に、朝日新聞ギャラリーという展示室がありまして、その正面に桜井香雲の模写が展示されていました。桜井香雲の模写は長く、「まくり」といいまして、紙ぺら一枚の折り畳まれた状態で保管されてきたようなのですが、この展覧会のために、大英博物館の中に装こう師という、掛軸や紙ものを修理し、仕立てる技術者がいまして、博物館の技術者と、日本からの選定保存技術を持った技術者が共同でこの大きな掛軸を仕立てたものです。その写しは東京国立博物館にも伝わっていまして、残りの壁面の模写も昭和十七年(一九四二)に製作され、国費が使われました。

実はフランス・パリにギメ東洋美術館という美術館が、エッフェル塔の裏手にあるのですが、このギメ美術館にも金堂壁画の模本が伝わっています。ギメ美術館の記録によれば明治十六年(一八八三)ということで、東博の模写よりも早いことになります。ただし、これについては誰がどのように写したのかがわかっていません。画家はモリモトシンザンであるとギメ美術館の列品登録に記されています。しかしこのモリモトシンザンが誰だか全くわかっていませんので、もしお調べになってお分かりになったらぜひ教えていただければと思います。ギメの学芸員もわからず、日本の研究者もわからず、近代美術史も仏画の専門の人にもわからないという謎の人です。モリモトシンザンの模写は他の模写とは雰囲気が違いまして、第六号壁から本尊と観音勢至の姿だけを抜き出して写したものなのですが、これに非常によく似た例が国内でもいくつか見つかっています。「現状模写」と言って、作品の状態をそのまま映したような桜井香雲のような模写は記録的な意味合いが強いのですが、モリモトシンザンの絵は、白い紙に墨で下地を塗って黒っぽくしたものに、白い絵具で下塗りをしてから絵を描き上げているので、表面がよりリアルな壁面の質感に仕上がっています。模写というよりは、鑑賞や礼拝を目的としたもののように見受けられます。

類似のものは国内にもお持ちの方がいらっしゃるようです。これがどういった目的で作られたのか。記録的な模写と同時並行で流通していたようですので、似たものを持っているよとか、持っている人を知っているよという事があればお知らせいただきたいです。今回も、こういった展覧会をしますよということをお聞きになった方から情報提供をいただきました。皆様からの情報で私たちも研究を深めていくことができますので、ぜひお願いできればと思います。

鈴木空如はご紹介しましたように、自分の資金で写していました。きっかけは自己研鑽だったと思いますが、恩師の教育の影響もあってこういった素晴らしい仏教芸術を、自分が写して、それを誰か偉い人、心の篤い人が見てくれて、そこからどんどん広まっていけば、この壁画の未来への保存へもつながるし、さらに壁画に出会う人が増えていく。優れた仏教美術に出会えば、人の心も変わっていく、という願いを壁画模写に託したのです。模写三作のうち、一作目は、箱根湯本に鈴木空如の姪御さんが経営された旅館(吉池旅館)がございまして、晩年空如が体を病まれていた時に、ここで療養され、そのまま亡くなってしまうのですが、模写を含む作品がそのまま伝来していました。今は秋田県大仙市に寄贈されています。二作目はもとリッカーミシン創業者の平木社長の、今は平木浮世絵財団の所蔵になっています。三作目の模写は、大仙市太田町の鈴木家に伝来したものが、大仙市に寄贈されています。

[写真]仏青ホールで講演中の瀬谷先生

戦後、法隆寺が再現壁画を発願されて、朝日新聞社が文化庁の協力を得ながら進めたのが再現壁画です。再現壁画の際には総予算が一億円かかるという事で、朝日新聞社、法隆寺、また天皇陛下までご協力くださったという事があったようです。さらに全国の小学生がお年玉を集めて出したということもあり、そうして皆で出し合って実現した大事業でした。

今回、以上のような内容を含めまして、展覧会を三月十三日から上野の東京国立博物館で開催いたします(注・開催中止)。今ちょうど図録を編集しているところでして、私は原稿がなかなか書けず、連日三時まで取り組んでおります。ぜひ上野でお会いできればと思います。ありがとうございました。

Acknowledgments

(本稿は令和二年一月二〇日に開催された第三〇八回公開講座での講演内容にもとづき執筆されたものです。)

 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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