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ただいまご紹介に預かりました日野慧運と申します。現在は武蔵野大学に奉職しておりますが、約十年前には東大仏青の主事を務めておりました。当時は公開講座を開催する側だったのですが、十余年経って本日、そのご縁で呼ばれて話す側に回った次第です。
講演題目を決めるにあたっては、専門分野の話でもよいし、もうちょっと今日的な話でもよいという選択肢をいただきましたので、それなら今日的かつ自分の専門に近いことをやろうということで、この題目になりました。私はインド仏教を専門にしていまして、とくに『金光明経』という経典をずっと研究しています。ですので、これの説明が専門の話ということになりますが、ただし今回はそれだけでなく、昨今の新型コロナ禍を受けまして、「疫病」を仏教がどう捉えてきたかについても触れてみたいと思います。そして実のところ、仏教の中でもとくにこの『金光明経』は、疫病・病気との関係が深い経典なのです。本日は、疫病と日本仏教の関わりの歴史について、とくに『金光明経』に焦点を当てながら、見ていきたいと思います。
日本仏教と疫病との関係には、非常に長い歴史があるようです。仏教が日本に伝来した時点で、すでに仏教と疫病は、密接に関連付けて語られていました。
ご存知の方も多いと思いますが、仏教が公式に日本に受容されたのは、五三八年というのが通説になっています。『元興寺縁起』などの資料に基づく説ですが、『日本書紀』では五五二年とされるようです。
仏教公伝に際しては、朝廷内で崇仏派と排仏派が対立して論争がなされたと言われています。最終的には崇仏派が優勢となり、日本に仏教が定着していきました。ただ、この論争の中で、疫病がかなり重要な論点になっていることは、そんなに知られていないのではないかと思います。
『日本書紀』の仏教公伝の記事を確認してみましょう。欽明天皇章、巻第一九に出てくる話です。
冬十月に、百済の聖明王、西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献る。
(岩波文庫『日本書紀』三巻、二九八頁)
当時、日本は朝鮮半島のいくつかの王朝と交流がありました。その中の百済の聖明王から、釈迦仏の像と幡蓋―仏像を装飾する仏具ですね―それから経・論を贈られたと書かれています。
乃ち群臣に歴問ひて曰はく、「西蕃の献れる仏の相貌端厳し。全ら未だ曾て有ず。礼ふべきや不や」とのたまふ。蘇我大臣稲目宿禰奏して曰さく、「西蕃の諸国、一に皆礼ふ。豊秋日本、豈独り背かむや」とまうす。物部大連尾興・中臣連鎌子、同じく奏して曰さく、「我が国家の、天下に王とましますは、恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事とす。方に今改めて蕃神を拝みたまはば、恐るらくは国神の怒を致したまはむ」とまうす。天皇曰はく、「情願ふ人稲目宿禰に付けて、試に礼ひ拝ましむべし」とのたまふ。
(同、三〇〇頁)
しかし天皇は、これを信仰すべきか悩んでいる。そこで、崇仏派の筆頭である蘇我稲目は、大陸の先進諸国が皆これを尊重しているのだから、日本だけが受け容れないということがあろうか、と主張します。すると、排仏派の物部尾輿と中臣鎌子が反対します。日本には百八十の神がいて、これを春夏秋冬お祭りして信仰してきたのだと。今ここで天皇が、率先して外国の神様を拝むようなことをすれば、在来の神々の怒りを買うだろう、とこう言うわけです。
そこで天皇は、国家として公式に受け容れるのではなくて、試みに蘇我稲目が、個人的に礼拝してはどうかという案を出しました。蘇我稲目は喜んで、家を用意して仏像を安置し、寺も作ったと書いてあります。
ところが、この直後に疫病が発生しました。
後に、国に疫気行りて、民夭残を致す。久にして愈多し。治め療すこと能はず。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏して曰さく、昔日臣が計を須ゐたまはずして、斯の病死を致す。今遠からずして復らば、必ず当に慶有るべし。早く投げ棄てて、懃に後の福を求めたまへ」とまうす。天皇曰はく、「奏す依に」とのたまふ。有司、乃ち仏像を以て、難波の堀江に流し棄つ。復火を伽藍に縦く。焼き燼きて更余無し。是に、天に風雲無くして、忽に大殿に災あり。
(同、三〇〇―三〇二頁)
「疫気」という言葉は、後で「疫疾」など別の漢字も当てていますが、疫病を指します。疫病が流行して多くの人が若死にした。それが長期間続いて、死者がどんどん増えていく。治すことも、流行を抑えることもできなかった。それで物部尾輿と中臣鎌子が出てきまして、「私たちが、神様が怒りますよと言ったのを聞かないから、この疫病が起こったのだ」と。あの仏像は早く棄てたほうがいいと言う。天皇も事態が事態なので、そこまで言うなら、と決めます。そして、仏像を破棄させて、お寺の伽藍も焼いてしまいました。
ところが、今度はそれで不審火が起こったとも書いています。『日本書紀』のこのあたりは排仏に批判的ですね。後でご紹介する『金光明経』を参照して書いた部分などもあって、どうも仏教びいきの編集者が後代手を加えたような所があります。仏教公伝の年号が採用されにくいのも、そのせいですね。
もうひとつ『日本書紀』の記事を紹介しましょう。巻第二十に出る、先ほどの蘇我稲目の息子、蘇我馬子の話です。
是歳、蘇我馬子宿禰、其の仏像二軀を請せて、(中略)司馬達等の女嶋を度せしむ。善信尼と曰ふ。又、善信尼の弟子二人を度せしむ。其の一は、漢人夜菩が女豊女、名を禅蔵尼と曰ふ。其の二は、錦織壺が女石女、名を恵善尼と曰ふ。馬子独り仏法に依りて、三の尼を崇ち敬ぶ。(中略)仏法の初、茲より作れり。
(岩波文庫『日本書紀』四巻、四二―四四頁)
この時、また「仏像二躯」が伝来したので、馬子は取り寄せて安置し、礼拝した。この馬子の庇護下で、日本で初めての出家者が誕生します。「名を善信尼と曰ふ」と。仏教教団というのは、最初は男性出家者だけでスタートして、その後に比丘・比丘尼の教団が併存するようになるわけです。ですが日本では、比丘尼、女性の出家者が最初でした。これは日本仏教の特徴としてよく取り上げられる、有名なところですね。
馬子は仏像と僧侶を尊崇して、そこに仏法というのが形作られるのをお膳立てしたわけですが、その馬子がまた病気になります。
蘇我大臣、患疾す。卜者に問ふ。卜者対へて言はく、「父の時に祭りし仏神の心に崇れり」といふ。大臣、即ち子弟を遣して、其の占状を奏す。詔して曰はく、「卜者の言に依りて、父の神を祭ひ祠れ」とのたまふ。大臣、詔を奉りて、石像を礼び拝みて、寿命を延べたまへと乞ふ。是の時に、国に疫疾行りて、民死ぬる者衆し。
(同、四四頁)
占い師に見せまして、なぜ病気になったのかと聞くと、「仏神の心に祟れり」という。天皇にもその「卜者の言に依りて、父の神(お父さんが敬った仏)を祭い祠れ」と言われます。この時、国にまた疫病が流行って、「民死ぬる者衆し」と書かれています。
後でも触れますが、医学史の研究成果によると、この仏教伝来だけでなく、この後の遣隋使、遣唐使の帰国のような、外国との人の交流をきっかけに、国内で疫病が流行るという事例は割と多いようです。ですので、外国から仏像をもたらした人が、病原菌やウイルスも持ち込んでしまった、ということがあったのかもしれません。まあ理由はともかく、馬子が仏教を受け入れたタイミングで、またしても伝染病が発生したわけです。
さて、そこで登場するのが「物部弓削守屋大連」、物部守屋ですね。先ほどの尾輿の息子です。それに、「中臣勝海大夫」、この人は中臣鎌子の息子ではないようですけれども、同じ一族ということでしょう、やはり排仏派です。彼らはこう言います。
「何故にか臣が言を用ゐ肯へたまはざる。考天皇より、陛下に至るまでに、疫疾流く行りて、国の民絶ゆべし。豈専蘇我臣が仏法を興し行ふに由れるに非ずや」とまうす。詔して曰はく、「灼然なれば、仏法を断めよ」とのたまふ。丙戌に、物部弓削守屋大連、自ら寺に詣りて、胡坐に踞げ坐り。其の塔を斫り倒して、火を縦けて燔く。并て仏像と仏殿とを焼く。既にして焼く所の余の仏像を取りて、難波の堀江に棄てしむ。是の日に、雲無くして風ふき雨ふる。大連、被雨衣り。馬子宿禰と、従ひて行へる法の侶とを訶責めて、毀り辱むる心を生さしむ。乃ち佐伯造御室を遣して、馬子宿禰の供る善信等の尼を喚ぶ。是に由りて、馬子宿禰、敢へて命に違はずして、惻愴き啼泣ちつつ、尼等を喚び出して、御室に付く。有司、便に尼等の三衣を奪ひて、禁錮へて、海石榴市の亭に楚撻ちき。
(同、四六頁)
やっぱり先帝の時と同じようになったじゃないか、「疫疾流く行りて、国の民絶ゆ」つまり疫病が流行して国民が多く死ぬのは、蘇我が仏教なんぞ信仰するからだ、と。それで、天皇も「灼然なれば」明らかにそうらしいと認めまして「仏法を断めよ」という命令を出した。そこで物部氏たちは、またも寺を焼き、仏像を破棄した。今回は尼僧たちもいますので、彼女らを連行して懲罰した。徹底的に破仏したわけです。しかしこの時は、それでも疫病はおさまらなかったというんですね。
此の時に属りて、天皇と大連と、卒に瘡患みたまふ。(中略)又瘡発でて死る者、国に充てり。其の瘡を患む者言はく、「身、焼かれ、打たれ、摧かるるが如し」といひて、啼泣ちつつ死る。老も少も窃に相語りて曰はく、「是、仏像焼きまつる罪か」といふ。
(同、四六頁)
「天皇と大連」まで「卒に瘡患みたまふ」、できものができる病に罹った。それで、「是、仏像焼きまつる罪か」というような話が出てきた。
馬子宿禰、奏して曰さく、「臣の疾病りて、今に至るまでに癒えず。三宝の力を蒙らずは、救ひ治むべきこと難し」とまうす。是に、馬子宿禰に詔して曰はく、「汝独り仏法を行ふべし。余人を断めよ」とのたまふ。乃ち三の尼を以て、馬子宿禰に還し付く。馬子宿禰、受けて歓悦ぶ。未曾有と嘆きて、三の尼を頂礼む。新たに精舎を営りて、迎へ入りて供養ふ。
(同、四六―四八頁)
馬子は、「三宝の力を蒙らずは、救い治むべきこと難し」、やはり仏教の力を借りないと、この未曽有の伝染病はおさまらないんではないか、と訴え出た。そこで天皇は、わかった、ではお前一人だけで仏事を行え、と命じたということです。このあとも、しばらくはこうしたいざこざが続くことになります。
以上のように、疫病の発生、またそれを治められるかどうかというところは、仏教を受容するかどうかという問題に密接に関わっていたわけですね。
反対派に言わせると、外国の仏教を導入すると、日本の神様が怒って疫病を流行らせる、ということになる。神々は普段は善神でも怒ると疫病を発生させる存在と考えられていたことが分かります。
一方崇仏派も、とくに最後の馬子においては、三宝すなわち仏教を敬うことに、自分の病気を治すとか、伝染病を治めるという、現世的な利益を期待していたことがよく分かると思います。
さて、八世紀、聖武天皇の時代には、国分寺が全国に建てられ、また総国分寺として東大寺が建立されました。廬舎那仏、いわゆる奈良の大仏様が造立されたことも、よく知られています。聖武天皇とその妃・光明皇后が仏教を保護した背景にも、やはり疫病の流行がありました。『続日本紀』天平七(七三五)年八月の記事を見てみます。
聞くところによると、このごろ大宰府〔の管内〕で疫病により死亡するものが多いという。〔朕は〕疫病を治療し、民の生命を救おうと思う。そこで、幣帛を〔大宰府〕管内の神祇に奉げて、人民のために祈祷をさせる。また、大宰府にある大寺(観世音寺)と〔筑前以外の〕別の国の寺々においては、金剛般若経を読誦させよ。〔さらに〕使者を派遣し、疫病に苦しむ人民に〔籾米などを〕恵み与えるとともに、煎じ薬も給付せよ。また、長門国よりこちらの〔山陽道〕諸国の守もしくは介は、ひたすら斎戒して道饗の祭祀(八衢比古・八衢比売・久那斗の三神を祭って、悪霊や悪疫が都に入るのを防ぐ祭り)を行え。
(東洋文庫『続日本紀』二巻、三四頁)
聖武天皇は疫病対策として、被災者に食料を配布して、薬品も給付します。同時に、神仏にも頼って、神社に祈祷をさせ、寺院には『金剛般若経』を読誦させています。
おもしろいのは、「道饗の祭祀」という儀式です。疫病は大陸との窓口になる大宰府で発生して、それが首都の奈良に近づいてくるわけです。道饗というのは、悪霊や悪疫を道中でおもてなしして、お引き取り願うという祭のようですね。仏教伝来の段階では、神様というのは普段善神であっても怒ると病気を流行らす、というように捉えられていましたが、ここでは、悪疫を司る悪霊とか疫神のようなものがいて、それを追い返せば病気にはならないという考え方になっています。それが九州から道を通って都まで来るという、具体的なイメージで捉えられているというのは、ちょっとおもしろいと思いますね。
この病は、直後に「瘡のできる疫病」と記されていて、この年末の記事には「夏から冬に至るまで、全国的に豌豆瘡を患って若死にする者が多かった」とあります。「豌豆瘡」は「えんどうそう」「わんずがさ」とも読むようですが、天然痘です。これ以前には天然痘の記述は無いそうですので、この年初めて大陸から伝わってきたのでしょう。日本の人たちには免疫が無かったため、どんどん拡がって止めようがなかったらしい。これを背景にして、国分寺建立の詔が出されることになります。
『続日本紀』天平十三(七四一)年の記事にはおおよそ次のようにあります。
近年は不作が多く疫病もしきりに発生したが、全国に仏像を造らせ写経させたところ、効果があった。ついては、『金光明最勝王経』という経典がある。
〔金光明最勝王〕経には、「もし国内に、この経を講義して聞かせたり読経・暗誦したり、恭しくつつしんで供養して、流布させる王があったなら、我ら四天王は、常にやって来て擁護しよう。一切の災いや障害は、みな消滅させるし、憂愁や疫病もまた除去し癒やすであろう。願いも心のままであるし、いつも歓びが生じるであろう」(滅業障品)と述べてある。
(同、九二頁)
このように利益大なる経典だから、全国に七重の塔を建てて、一揃いずつ納めさせよう、あわせて寺院も建てて僧侶に読経させよう、と。
このように、飢饉と伝染病への対処法として、全国各地に『金光明経』を営む比丘の寺院と、『法華経』を営む比丘尼の寺院が建立され、「僧寺の名は金光明四天王護国之寺」「尼寺の名は法華滅罪之寺」となったわけです。
さて、天平十五(七四三)年には、同様の文脈で大仏造営の詔が発出されます。
朕は、徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受けついで、その志は広くもろもろの人を救うことにあり、〔そのため〕つとめて人物をいつくしんできた。この国土の果てまで、すでに〔その〕あわれみ深さと思いやりの恩恵を受けているけれど、いまだ天下の果てまで仏の法恩はゆきわたってはいない。〔そこで〕ほんとうに三宝(仏法僧)の威力・霊力に頼って、天と地は安泰になり、万代までのめでたい事業を行なって、生きとし生けるもの皆栄えんことを望むものである。
(同、一一六頁)
「徳の薄い身でありながら」というのは、謙遜かもしれませんが、「天災が起こるのは為政者の不徳の致すところだが」という意味かとも思います。天人相関という儒教的な考え方ですね。だからこそ、仏法を行き渡らせて、より良い国にしたい。そこで、廬舎那仏の金銅像一体をお造りするという大願を起こした、と。それで、「国家財産を使えば、やってできないことはないのだけれども、そうではなく、国民皆に参加してもらうことが大事なんだ」ということを述べています。だから「至誠の志をもって、これが大きな果報をもたらすと思って、参加してほしい」といいます。
一枝の草や一把の土〔のような僅かのもの〕を持って〔この〕像を造ることを助けようという願いを心にいだいている人がいたならば、自由にそれを許そう。
(同)
実際には、大仏造営が国民に多大な負担を強いたことは間違いないと思います。しかし少なくともコンセプトとしては、これは全国の飢饉や疫病をはじめとする災厄への対策でした。しかもそれは、天皇がトップダウンでやるものではなく、国民が参加することによって、その果報も国民が平等に得るという理念の下に、あえて大事業として構想されているわけですね。
以上、疫病と古代日本の仏教の関わりを見てきました。その中でも、国分寺建立の詔の中では『金光明経』が特筆されていました。これについて少し詳しくお話ししたいと思います。
『金光明経』はもともとインドで成立した経典です。原題を『スヴァルナバーソーッタマ・スートラ』といい、おそらく四世紀後半には成立していたと思われます。これは、一世紀前後に成立する初期の般若経典や浄土経典、『法華経』などの初期大乗経典よりは遅いですが、六世紀頃に完成される密教よりは早い。ですので、大乗仏教の教理と体裁を残しながらも、密教のような現世利益が強調されてくる、そういう過渡期の経典です。
最も早い漢訳は五世紀初めに曇無讖の訳した『金光明経』四巻、比較的短い経典です。しかし、インドの原典はその後だんだん書き足されていったらしいんですね。そうした増補版がバラバラと中国に輸入されて翻訳されましたので、六世紀末に寶貴が『合部金光明経』八巻にまとめます。さらに時代が下って唐代七〇三年、義浄がインド語原典のフルバージョンを取り寄せまして、新訳『金光明最勝王経』を訳出します。これは十巻本ですので、曇無讖が訳した時点から倍以上に増加したことになります
この経典は中国でも非常に人気があったようです。おそらくその理由は、本経の説く現世利益にあったと思われます。
現世利益というのは、われわれが俗世で生きている間に享受できるご利益のことです。もともと仏教が目指すのは、輪廻を解脱して涅槃に至るという、出世間の利益ですから、これと区別して言います。一般に神社やお寺で祈願するような、交通安全や受験合格、安産や病気治しといったものは、現世利益ですね。『金光明経』はそういう個人レベルの利益とともに、「護国」という国家レベルの利益を説いています。
中国では、五胡十六国時代から南北朝時代にかけて徐々に仏教が定着していきます。群雄割拠で各国並び立つ中、仏教は公認を得られた国で布教し、受容されたようです。ですから国家にアピールできる『金光明経』は、仏教全体の導入にも大きな役割を果たしました。後に『金光明経』と並んで「護国経典」と呼ばれる『仁王般若経』も、この頃中国で『金光明経』に取材して作られたものです。こうした影響からも、護国思想の重要性が分かります。
先ほどの国分寺建立の詔は、『金光明最勝王経』が訳出されたわずか四〇年後に、日本の王朝で正式採用すると言っていたわけで、当時の情報伝達や物流のスピードを考えれば驚くべき速さだと思います。「滅業障品」を直接引用していましたが、やはり護国の利益が説示される部分が選ばれていて、この経典を重視した意図がよく分かります。
さて、ではなぜ、仏教を信仰すると護国の利益があるのか。このあたりまで踏み込んで説明している本もあまりないと思うので、今回それをご紹介したいと思います。
『金光明経』四巻本は十九章立て、『金光明最勝王経』になると三一章になります。教理的に大事な話は、前半の「寿量品」「懺悔品」「空品」などの章に集中しています。ただ、大乗思想全体でみると、そんなに新しいことは言っていません。「寿量品」はこの経典の核の一つですが、『法華経』の「如来寿量品」と章題も仏陀観も大同です。「空品」では教主の釈尊自身が、空思想は他所で詳しく語ったから、今回はかいつまんで話そうと前置きして説き始める。明らかに般若経典の空思想が前提になっていて、そこは隠さないんですね。もちろん、追加された部分では思想的な発展もありますが、中心的な教理は初期大乗経典の良いところを集めてできている。良くも悪くも、大乗仏教の綱要書的な性格を持っています。
そういう前半部が終わった後、現世利益の話になります。「四天王品」以降の数章にわたって、インドの神様たちが出てきて、「いい話を聞いた」「われわれも今後はブッダの弟子になりたい」「ついては人間の仏教徒にも加護を与えたい」と申し出るわけです。日本でも神仏習合ということが起こりますね。神々への信仰と仏教との融合ですが、とくに仏教徒側が、神々が仏弟子になるというストーリーを作ってしまう。同じことがインドでも行われています。神々の筆頭になるのが、四天王という、多聞(毘沙門)天・持国天・増長天・広目天の四人組の神様です。彼らの申し出を、インド語原典からの現代語訳で見てみましょう。
「この『黄金の最高の輝き』という経典の王者は、如来が語り、すべての如来が仰視し尊重したものであり、すべての菩薩衆が恭敬し、すべての天衆が礼拝し供養し、すべての天王衆が讃嘆し、すべての護世四天王が供養し、讃嘆し、称揚しただけでなく、すべての天宮を照らし、すべての衆生にこの勝れた安楽を与え、すべての地獄・畜生・ヤマの世界の苦悩をなくし、ありとあらゆる恐怖を断ち、すべての敵の軍勢を撃退し、飢饉や疫病(vyādhi)のあらゆる災難を取り除き、すべての曜星のわざわいを鎮め、この上なく勝れた平静な生活をもたらし、悲しみと煩わしさを攘い、種種さまざまな難儀を和らげ、幾百千の難儀を除いてくれるものであります。(中略)
「この『黄金の最高の輝き』という経典の王者を聴き、崇め尊び、供養を捧げる国の隣国に、だれか敵対する王者がいるとしまして、この隣国の敵王が、尊師世尊よ、『余は四軍を率いて、隣国征伐の軍を進めよう』と考えましたとき、尊師世尊よ、そのとき必ずや符節を合わすように、この『黄金の最高の輝き』という経典の王者の威光と威力により、この隣国の敵王と他の王者たちとの戦争が起こるでありましょう。そして、この隣国の王自身の領域内にも、反乱が起こるでありましょうし、また怖ろしい内紛とか疫病(roga)がその国内に発生するでありましょう。(中略)大軍とともにその国に侵入し征服しようとしましても、尊師世尊よ、われわれ四天王は軍勢および眷属をひきつれて、幾百千のヤクシャ衆とともに、姿を現すことなく、そこへ馳せ参ずるでありましょう。そして、道という道を占拠した敵軍を撃退するばかりでなく、幾百という障碍を惹き起こさせ、また敵軍がその国に侵入することができないよう邪魔をするでありましょう。まして、敵軍が領土を荒廃させるなどは、どうしてありえましょう。
(岩本裕訳「金光明経」『佛教聖典選四 大乗経典二』、括弧内講演者)
長々と引用しましたが、要するに、この『金光明経』はあらゆる経典の王様だと。そしてこれは仏や菩薩だけでなく、あらゆる「天衆」すなわちインドの神々も尊敬しているものだ、と言います。
経典自体にとても功徳があるから、これを聴いたり、信仰して供養する人がいる場所では、飢饉や疫病やあらゆる災いが取り除かれる。さらに、もし国王がこの『金光明経』を直接聴いたり信仰したり、あるいは説法する人や信仰する人たちを保護するなら、その王の国全体の災いが除かれるし、敵国が攻めてこようものなら、四天王の力で敵国に戦争や内乱や疫病を起こす、自らも出陣して敵軍を撃退する、と言っています。
これが四天王のいう「護国」の内実ということになります。
今回注目したいのは、疫病ですね。「疫病」と訳されている vyādhi とか roga という言葉は、普通は単に「病気」と訳すので、疫病・伝染病と決めつけるのは翻訳上問題があるのですが、やはりここでは個人的な病気というより、飢饉や天候不順などとセットで考えられる、天災の一つを指すと思われます。
四天王は疫病を除くだけでなく、流行らせることもできるんですね。
釈尊や仏菩薩たちは、このように疫病を流行らせたり、敵の軍隊を実力行使で追っ払ったりといった荒っぽいことはしません。しかし、インドの神々であれば、それが可能です。だから彼らが仏教の味方に付いたとき、こういった現世利益が実現したんですね。
四天王というのは、仏教の世界観では、須弥山の中腹にいて東西南北を見張っている神様です。須弥山山頂いる帝釈天などより、近くで人間世界を護ってくれるということで、「護世」とも呼ばれます。
『金光明経』のこの記述もあって、四天王は日本でも護法の神様として尊重されてきました。古い例ですと、聖徳太子が戦勝を祈念して自ら四天王像を造り、四天王寺を建立したという伝承もあります。
これ(図1)は平安時代頃の四天王像とされるものです。武装していますよね。仏像は概ね半裸に袈裟の出家者の姿をしてますし、菩薩像は僧形だったりきらびやかな貴人の恰好で描かれたりします。しかしこの四天王はもう、臨戦態勢です。そして足下には「邪鬼」と呼ばれるものを踏みつけている。いつでも助けに行って戦うぞ、疫鬼や悪鬼を退治するぞということなんでしょうね。
[図1]四天王(増長天)
「重文 増長天立像」(奈良国立博物館所蔵)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1114-0)
『金光明経』にはここまでの描写はありません。奈良時代の最初期の四天王像は、ポーズや持ち物も穏やかで、足下も邪鬼を踏むというより、眷属の夜叉(ヤクシャ)に乗っているようにも見える作例もあるのですが、八世紀以降はこうした、躍動感のある四天王と醜怪な邪鬼というのが定型になるようです。
さて、『金光明経』は病気をまた別の角度からも扱っていますので、それもご紹介します。
先ほどの「四天王品」以下の数章では、四天王に引き続いて弁才天、吉祥天、大地の女神などの神々が、それぞれ提供できるご利益や儀礼のやり方なんかを説明します。
その後に、いくつか過去世物語があります。今この会場にいる誰それは前世でこれこれをした因果で今こうだ、とか、釈尊は前生にこういう功徳を積んだ、といった話です。そうした中に、前生の釈尊が医者になる話があります。
「除病品」によると、昔ある国で病気が流行った。名医の長者がいたが、老いて自分では治療に行けない。前生の釈尊はその息子だったというんですね。彼は非常に慈悲深かったので、人々を助けるために、お父さんに医学を習いたいと頼みます。それでお父さんは、具体的な医術を語っていきます。
(…)医者は三か月からなる四季と六時季をよく知り、六大の治療の技術をわきまえて、それに飲食物と薬物を与える。
風の過剰による病気は雨季におこり、胆汁の障害は秋におこる。冬には合併症がおこり、粘液過剰による病気は夏に生ずる。
雨季にふさわしい味は、油っこく、温く、塩味がきき、酸味である。(…)
(岩本訳「金光明経」、前掲)
古代インドの医学知識ですから、今のアーユル・ヴェーダの基になったようなものですね。まずインドの季節を把握して、それに応じた体調の変化を知るべきだと。六大というのは地・水・火・風など体を構成する六要素のことで、風・胆汁・粘液というも体内の別の三要素です。それらがどうバランスを崩したかを正確に理解して、食べ物や薬でバランスを取り戻せばいいんだ、と。プリミティブではありますが、かなり詳細な医学の記述が出てくるんですね。
前生の釈尊はそれを聞いて「医学の八分科をすべて理解するに至った」と言います。「八分科」というのは、アーユル・ヴェーダでも用いられる、医学の全分科を指す言葉です。要するに、あらましだけで、一を聞いて十を知ったわけですね。それで、国中の病人を治したそうです。
インド原典の「除病品」はこれで終わりですが、『金光明最勝王経』の「除病品」には、お父さんの医学講義に続きがあります。抜粋して現代語訳して見てみましょう。
(…)医術を総摂する八術を熟知して衆生の病を治療すべきである。八術とは「針刺」「傷破」「身疾」「鬼神」「悪毒」「孩童」「延年」「増気力」である。先ず患者の容姿、言語、性行を観、そして患者の夢を問うて、風・熱・痰の区別を知る。(…)訶梨勒の一種は六味を具え、一切の病をよく除き無害なので、薬中の王である。三果、三辛、砂糖・蜜・蘇・乳は諸薬の中でも得やすく様々な病を能く療す。(…)
(大正蔵一六巻四四七下―四四八中)
『最勝王経』では「八術」(八分科)の説明を付け足してるんですね。名称だけの簡潔なものですが、八術というのは、「針刺」(眼科か神経外科?)、外科、内科、「鬼神」(精神科?)、解毒術、小児科、不老長生術、「増気力」(強精術)という仏教らしくないものもあります。それで、診察はこういうポイントを見るんだとか、夢診断はこうするんだ、とか。具体的な薬用食品の説明もあります。胡椒や生姜などの香辛料、果物とか、乳製品などが使われていたようですね。『金光明経』には、こうした実践的な医学の情報を伝えようとする面もあるんですね。
奈良期の王朝が『金光明経』を尊重した最たる理由は、前述の通り経や護法神の呪術的な力で、疫病をはじめ災厄を鎮めることを期待したからでしょう。伝染病というのは今現在ですら苦戦しているわけで、原因が分からない当時はもうどうしようもない、ほんとに神仏に祈るしかないわけです。
しかし同時に、根治はできなくても、患者の症状に対する治療は行われましたし、そこにも仏教は貢献しています。
伝説によると、聖徳太子は先ほどの四天王寺に、薬を人々に施すための施薬院と、療病院という病院のような施設を、併設したと言われています。確認できる最古の施薬院は、聖武天皇の妃・光明皇后が興福寺に設置したものです。そこでは様々な医薬品を備えて、公共の福祉のために無料で施したということです。
光明皇后は、聖武天皇が崩御した際、東大寺盧舎那仏に薬物六十種を献納したという話もあります。今も正倉院に保管されていて、「除病品」で見たような外国の貴重な薬物も含まれています。有事の際には拠出され、病人救護に役立てられたそうです。
余談ですが、光明皇后には湯施行の伝説というのが残っています。皇后は湯室という、今で言う無料の公衆浴場みたいなものを設置していました。そこに自ら出向いて、垢すりのボランティアを行っていたというんですね。するとそこに、ハンセン病の患者さんがやってきた。垢ではなくて、肌の発疹や隆起が症状として出ているわけですが、皇后はそれを洗い清めたというんです。すると、肌の下から阿閦仏が出てきて、皇后の菩薩行をほめたたえたという話です。もちろんフィクションで、鎌倉時代の『元亨釈書』あたりが出典らしいですが、戦前には教科書に載っていた有名な話だそうですね。そういう伝説ができるくらい、光明皇后の福祉事業は有名だったということでしょう。
こうした事業は、聖武天皇、光明皇后のパーソナリティもあったでしょうが、やはり仏教も関係はあったと思いますね。国家が医療や福祉を国民に提供しないといけない、という発想が出てくるのは、やはり、仏教の慈悲の精神を政治に採り入れなきゃいけない、という理由からだと思います。
さて、先ほど四天王像が邪鬼、疫鬼のようなものを踏むようになるとご紹介しました。『続日本紀』の記述からしても、病気をもたらす悪鬼・疫鬼は、早い段階から具体的にイメージされていたようです。
[図2](右上)天刑星.「国宝 辟邪絵(部分)」(奈良国立博物館所蔵)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1106-1)
[図3](右下) 鍾馗.「国宝 辟邪絵(部分)」(奈良国立博物館所蔵)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1106-4)
[図4](左上)栴檀乾闥婆.「国宝 辟邪絵(部分)」(奈良国立博物館所蔵)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1106-2)
[図5](左下)毘沙門天.「国宝 辟邪絵(部分)」(奈良国立博物館所蔵)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/narahaku/1106-5)
これ(図2〜5)は「辟邪絵」というもので、平安末期頃の作だそうですが、病気をもたらす悪鬼と、それを駆逐する善い神様を描いた絵図です。これは仏教というわけではないようですね。この「辟邪絵」は五枚綴りになっていますが、一枚目の天刑星(図2)、二枚目の鍾馗(図3)というのは、道教の神様です。鍾馗さんは、今でも谷中などの古い町並みを歩くと、屋根瓦の上とか張り出しの下なんかに見かける、魔除けの神様ですね。三枚目の栴檀乾闥婆(図4)というのは、名前はとても仏教的なのですが、詞書を見ると、おなかにいる胎児や生まれたばかりの子に病気もたらす悪鬼をやっつける、と書いてあって、武装した産婆さんみたいな姿が描かれてます。たぶん「婆」の字に引っ張られた中国以東のイメージなのかと思います。五枚目は毘沙門天(図5)で、先ほどの四天王の筆頭、多聞天の別名です。下にはお坊さんが何か読んでいて、詞書には、法華経の行者を鬼が悩まそうとするのを毘沙門天が射落とす、と書いてあります。このように、仏教と道教の神様が混じりあった形で、どちらも病魔を退治するものとして、区別せずに受容されていたらしいですね。
次のこれ(図6)は「融通念仏縁起」といって、融通念仏を創始した平安時代の僧侶・良忍の伝記と、念仏の霊験などを描いたものです。原本は十四世紀に遡るといいます。
[図6]融通念仏縁起
成島司直等模「融通念仏縁起(模本)下巻_本文16(部分)」
(東京国立博物館所蔵)
Image: TNM Image Archives
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0031323
この絵では、家の中に人が集まって念仏を唱えているんですね。そこに、疫神たちがやってきます。それを門口に立った家主が応対して、中にいる人の名簿を見せています。疫神たちは、帳簿の名前の下に判形を加えて帰っていった、その人たちは疫病をまぬがれた、という話だそうです。念仏の功徳ということでしょう。門の上には小さな毘沙門天が見えます。
ここでは仏教信仰が、国家レベルの疫病対策から、個人レベルの感染予防というか、信者個人に病魔退散という現世利益をもたらすものへと、転換しています。歴史的に見ても、日本の仏教は国家の祭祀から徐々に個々人の信仰に移行していくと言われますが、疫病に対する仏教の役割にも、それと同じような変化が起きていたようですね。
また、この疫神が、恐ろしげながらどこかユーモラスで、対話が可能な相手として描かれているのも、おもしろい変化だと思います。
このように、病気の正体は様々な形で図像化されてきました。姿が見えてしまえばある程度安心感が生まれるわけです。現代のわれわれにしても、例えば新型コロナウイルスのように目に見えないものは恐ろしいですが、テレビのニュースなどではだいたいウイルスの拡大写真を映しますね。あれを見ても本物かどうかなんてほぼ誰も確認できないわけですが、それでも「あ、これが正体か」とイメージできればいい。古代中世の場合も同じで、相手のイメージがあれば、これと戦えばいいのかとか、対話することは可能なんだ、などと対処法も見えてくるところがある。病気、疫病を図像化すること自体に、安心感を与える効果があったと思われます。
さて、先ほどの「辟邪絵」のように、疫神やそれを退治する善神を描いた絵は、それ自体に病気除けの効果があると信じられます。こうした信仰は、仏教や道教、神道の垣根を超えて、民間信仰として広まったようです。もちろん仏教の中にもあって、例えば天台宗の元三大師の魔除け札、通称「角大師」のお札は有名ですね。でも例えば、江戸時代に出回った「疱瘡絵」は、天然痘除けに効くとされた鍾馗や、源為朝、桃太郎や金太郎など様々な題材が赤色で描かれます。これはどの宗教ということもありません。
今回のコロナ禍でも、「アマビエ」という妖怪の絵を模写すれば疫病退散の効ありという噂がどこからかインターネット上で広まりまして、皆が自分の描いたアマビエの絵を投稿し合うのが、一時ちょっとしたブームになりました。これも、一種の辟邪絵と呼んでいいでしょうね。実際それで感染防止の効果があったかは定かでないですが、皆が同じものに向かって対処しているという、連帯感みたいなものが醸成された効果はあったと思います。そういう意味では、こうした文化は現代でも続いているんでしょうね。
中世、近世と時代が進みますと、病気に対する仏教の出番は徐々に減っていきます。国家祭祀で疫病を鎮めるのは無理だと分かってきますし、先ほど触れたように、信仰が個人的なものになっていく。小規模な祈祷やおまじないは行われ続けますが、一方で医療技術や疫学的な対処法はどんどん進歩して、現実的にはそちらが頼られるようになります。
ただ、仏教の呪術的な側面が力を失っても、また別の側面については、今日にも通用するところがあるように思いますので、最後にそれをご紹介します。
十五世紀の浄土真宗の僧侶・蓮如が、信者に宛てた手紙の中に、当時流行していた伝染病に関する記述があります。
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。(後略)
(『御文章』四帖第九通)
最近、疫病・癘気つまり伝染病で人がたくさん亡くなっている。しかし考えてみれば、死ぬということは、伝染病ではじめて起こることではない。生まれたときからいつか死ぬということは決まっているわけだ。たまたまそのきっかけが伝染病だというに過ぎないのであって、それほど驚く必要はないのだ、とこういう言い方をします。これは、今聞くとちょっと冷たすぎるようにも聞こえますが。
蓮如はこの後続けて、どのような理由であれ人は不意に死ぬのである、そんなわれわれを阿弥陀仏が救済してくださるのだから、疑いなく信じなさい、というようなことを書いています。真宗の教えとしては後半の方が重要ですが、今回は措くことにします。
前半の言葉には、普遍的な意義があるように思います。というのも、伝染病というのは不可解、不条理に思えるものですから、人はその理由を求めたくなります。実際それで原因が明らかになって、予防や治療が可能になってくる部分もあります。しかし、そもそも誰しもが老いて病み、死んでいく、そうした不条理こそ生の本質だというのが、仏教の根本だからです。
もしかしたら、蓮如の手紙の相手は、疫病に罹って死ぬ人は生前の悪業が云々、という説明を期待したのかもしれません。しかし、蓮如はあくまで、生そのものが不条理だと言い切る。それを受け入れた上で、涅槃なり往生成仏なりといった出世間を願っていくところに、仏教の本義があるのではないか、とそういうことを言っているのだと思います。
もちろん、前半でご紹介したように、そうした不条理を、例えば経の功徳とか加持祈祷で払い除ける、という仏教のあり方も、実際にあります。
現今のコロナ禍においても、たくさんの寺院で疫病平癒のための儀式や祈祷が行われていて、それはそれでよい文化だと思うんですよ。そこに集った人が価値観を共有して、一つのポジティブな方向に皆の心を向けること、それを一つの形式として外に表現することには、大きな意味があることだと思います。
ただ、気になるのは、コロナ禍において感染者への差別やいじめみたいなものが起きていますよね。感染対策が不十分だとか、夜遊びするからだとか、あらを探そうとする。そりゃもちろん、感染しないのもさせないのも大事です。ですが、根本的なところでは「伝染病は不条理なものだ、そもそも生きているというのは不条理を引き受けることなのだ」と考えた方がいいのではないか。皆が不条理にさらされているという共通認識を持つことで、差別心を超克していけるのではないかと思いますし、そういう提言ができるところに、今も仏教の意義はあるように思います。
(本稿は令和三年一月二三日に開催された第三一〇回公開講座での講演内容にもとづき再構成されたものです。)