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「如来蔵」の原語は「タターガタ・ガルバ」といい、「タターガタ」と「ガルバ」よりなる合成語です。「タターガタ」は「如来」を、「ガルバ」が「子宮、容器、内容物、胎児、本性」等を表す語です。
「如来」は「真如(真理、覚り)と一体となったもの」「真如より来至したもの」等の意味で、覚りを得て衆生を救済するブッダのことを指します。みなさんにも馴染みのある用語でしょう。鍵となるのは合成語の後分をなす「ガルバ」です。この「ガルバ」を後分とする合成語は、「~を内に宿す」「~を本性とする」等の意味を有します。一切衆生が如来蔵である(如来を蔵している)ことを九つの譬喩を通してコンパクトに、そして集中的に教示する『如来蔵経』によれば、
一切衆生は「タターガタ・ガルバ」である。
すなわち、
一切衆生は如来を本性とするものたちである。
と説かれています。この提言は、
一切衆生は如来としての本性を有している。
と同じ内容であるため、「如来としての本性=如来蔵」を独立した術語として扱うと、
一切衆生は如来蔵を有している。
と表現することが可能となります。これはいうまでもなく、この思想の創唱者とされる『涅槃経』における、
一切衆生は仏性(=如来蔵)を有している(一切衆生悉有仏性)
と完全に重なることになります。如来蔵である一切衆生、あるいは、如来蔵・仏性を有する一切衆生は、その内なる如来のおかげで、誰もが例外なく成仏が可能となります。いわば如来蔵・仏性は、一切衆生の成仏の可能性であり、彼らに対する成仏の確約でもあるのです。
では、この「如来蔵、仏性」の観念を中心に据える「如来蔵思想」とは、どのように定義されうるでありましょうか。単純に考えれば、
如来蔵思想 一切衆生は如来を本性とするものたちである、とする教説
ということになると思われるかもしれませんが、ことはそう簡単ではありません。この思想においては、一切衆生が如来蔵であること、そしてそれによって成仏が可能であることは、衆生本人には全く自覚できず、ただひたすら「そなたたちは如来蔵なのだ、仏性があるのだ、だからこそ成仏が可能なのだ」と説く、衆生に対して大慈悲を抱く如来を信じるほかはないからです。そのため、この点に注意して厳密な定義をすれば、
如来蔵思想:一切衆生は如来を本性としており、そのことに基づいて、万人がブッダに成り得る可能性を如来が衆生の内に見いだして、そのことを大慈悲に基づいて衆生に知らしめ、衆生に信を生じさせる教説
ということになるでしょう(下田正弘「如来蔵・仏性のあらたな理解に向けて」『如来蔵と仏性(シリーズ大乗仏教 第八巻)』春秋社、二〇一四、三―九五頁参照)。大乗仏教では、『華厳経』の「信は道の元、功徳の母となす」や、『大智度論』の「仏法の大海は信を能入となす」などの教説や、阿弥陀仏や観音菩薩等の諸仏・諸菩薩に対する信仰もあり、それ以前の仏教に比べると、「信」に大きな重きを置いています。如来蔵思想は何を措いても「信」に根ざす思想であり、この点において、「信」に重きをなす大乗仏教の正系に位置しているといえるのです。また、「万人がブッダに成り得る可能性を如来が衆生の内に見いだして、そのことを大慈悲に基づいて衆生に知らしめ」るという点において、如来の救済(くさい)者としての側面が強く表れていることが分かります。
原語は「ダルマ・カーヤ」であり、如来蔵思想の根幹をなす概念のひとつです。元来は「法よりなる〔常住な〕身体を有する」という、ブッダ如来に対する形容句でありましたが、時代が下るにつれ、独立した術語(法よりなる〔常住な〕身体)としての用法も加わりました。『宝性論』はその中で法身を説明して、
法身は二種と知るべきである。〔その二種とは、〕よく垢を離れた法界と、および、その等流としての甚深な、あるいは種々の、教説とである。
諸仏の法身は二種と知るべきである。
〔第一は垢を離れた〕極清浄な法界で、〔これは〕無分別智のはたらく領域である。また、それは、諸々の如来の〈所証の法。アディガマ・ダルマ〉に関して〔いわれているもの〕と理解しなくてはならない。
〔第二は〕その〔清浄法界の〕獲得の因であり、かつ、極清浄な法界と同質(等流)のもので、教化(きょうけ)を受けるもの〔の能力の差〕に応じて、他の衆生たちに対して知らしめるものであり、これは〈所説の法。デーシャナー・ダルマ〉に関して〔いわれているもの〕と知るべきである。(RGV 70.3–-8、高崎[1989: 123])
と述べています。
ブッダ釈尊の「真実の身体」を「法」と見なす考え方は、初期仏典にまで遡れます。
実に、ヴァッカリよ、法を観る(真理を覚る)者はわたし(釈尊)を観る。わたしを観る者は法を観るのである。(SN iii 120.28–-29)
なぜならば、ヴァーセッタよ、如来は、〝法(真理、覚り)を身体とするもの(法身)〟(中略)〝法と一体となったもの〟(中略)と呼ばれるからである。(DN iii 84.23-–25)
上記二例は、先の『宝性論』の説明にあわせれば、前者の「所証の法(アディガマ・ダルマ)」に関する法身であるということができます。一方、次のような例も存在しています。
アーナンダよ、あるいはそなたたちは、〔わたしの入滅後に〕次のように思うかもしれない。〝教えを説いてくださった師はいらっしゃらなくなった。自分たちの師はもはやいらっしゃらないのだ〟と。しかし、アーナンダよ、そのように見なしてはならない。アーナンダよ、わたしが説示した法(教説)と制定した律、それこそがわたしの入滅後、そなたたちの師となるのであるから。(DN ii 154.3-–7)
〔ミリンダ王〕「尊者ナーガセーナよ、ブッダは実在するのですか?」
〔ナーガセーナ〕「はい、大王よ。〔釈迦牟尼〕世尊は実在します。」
〔ミリンダ王〕「尊者ナーガセーナよ、そうであるならば、〝ここにある〟とか〝そこにある〟とかいって、ブッダを示すことはできるのですか?」(中略)
〔ナーガセーナ〕「大王よ、(中略)すでに入滅された世尊のことを、〝ここにある〟とか〝そこにある〟とかいって示すことはできません。(中略)大王よ、しかしながら、世尊を〈法を身体とするもの(法身)〉として示すことはできます。大王よ、なぜならば、法(教説)は世尊によって説示されたものだからです。」(Mil 73.9-–22)
この二例は、後者の「所説の法(デーシャナー・ダルマ)」に関する法身です。
ただ、「所証の法(アディガマ・ダルマ)」に関する法身であれ、「所説の法(デーシャナー・ダルマ)」に関する法身であれ、そこで開示される仏身は、滅びゆく有為の身体(色身 )を超えた、常住・無為の仏身を述べている点で、変わるところがありません。
法身思想の構造的特徴は、有為で無常である衆生(凡夫)の世界と、無為で常住なブッダ如来の世界とを対峙させるところに存します。衆生の世界は無常・苦・有為のものとして否定されるべきものであるのに対して、常住・楽・無為の法身は、衆生の世界とは隔絶した存在です。この両者に隔絶があるがゆえに、衆生の側にはこの隔絶を埋めるための「宗教行為の実践」が不可欠となります。
このような法身思想を、宗教行為の実践を通しての「有為なる衆生と無為なる法身との関わり」ととらえるならば、常住・無為である法身に無常・有為である衆生が何らかのかたちで関連しているという表現を取ることが可能となります。そしてこれが進むことによって、「有為なる衆生が無為なる法身をその内に抱え込んでいる」との主張が誕生することになります。これこそが、如来蔵思想に他なりません。
ただし、無為の法身を衆生の内に抱え込ませた如来蔵思想においては、「如来法身をすでに獲得している衆生が、なぜ改めて法身獲得のために修行をしなくてはならないのか」という〈修道論的課題〉と、「如来法身をすでに獲得している衆生が、なぜ煩悩にまみれているのか」という〈構造的課題〉を生み出すこととなりました。その後、如来蔵系諸経典が解決を目指したもののなかなか成功せず、最終的な解決は、〈衆生の内なる如来法身を放棄した『大法鼓経』〉の登場まで待つ必要があったのです。
如来蔵思想を創唱したと見なされている『大乗涅槃経』(以下、『涅槃経』)は、その成立に関して、前半(第一類)と後半(第二類)に分けられます(下田正弘『涅槃経の研究 ―大乗経典の研究方法試論』春秋社、一九九七)。
『涅槃経』第一類の主題は「如来常住」です。『涅槃経』第一類は、主題である如来の常住性・自在性を表現するために、それまで仏教ではタブーとされてきたアートマン(我)の「常住・自在」という属性を借用し、如来はアートマンであると宣言しました。
アートマン(我)というのはブッダという意味である。常住(常)というのは法(ほっ)身(しん)の意味である。安楽(楽)というのは涅槃の意味である。清浄(しょうじょう)(浄)というのは法の別名である。(『涅槃経』(mDo, Tu 32b4–5))
従来、常・楽・我・浄は「四顚倒」と呼ばれ、仏教における代表的な誤謬・邪見であるとされてきました。ところが『涅槃経』はこの〈世間的四顚倒〉に対して〈出世間的四不顚倒〉を「四徳」として説き、法身・涅槃・如来・法という出世間的価値に対して、常・楽・我・浄を肯定的に適用するようになりました。アートマンである如来は法よりなる常住な身体を有し(法身)、無為・清浄であるのに対し、衆生は無常・有為・不浄であって、両者の間は隔絶しています。そしてその隔絶を埋めるべく、衆生の側には完成者・救済者である如来へと向かう強い宗教的情熱が喚起されることになります。『涅槃経』第一類のトレーガー(編纂者・支持者)は自らを法師と称し、組織化された教団を持たず、ヒンドゥー社会のタブー に対しても配慮しません。布施を重んじ三昧には無関心です。この第一類という段階でいったん『涅槃経』の編纂は終了しています。
さて、主に『大雲経』と大衆部の影響のもと、『涅槃経』は再び第二類へと向けて動き出しました。第二類の最初に位置する「四法品第八」のトレーガーには、『大雲経』のトレーガーとの共通点が多く看取できます。しかし一方では、後者が三昧を修習する菩薩たちの個人的紐帯の元にあったのに対し、前者はヒンドゥー社会のタブーを考慮し組織化された教団へと向かう指向性を有している点で、両者には相容れない面も見られます。
「四法品第八」に見られる断肉、世間随順を通じての如来と菩薩の重ね合わせ、三昧の重視、如来・解脱の実在(不空)の主張、トレーガーが法師ではなく菩薩であること、これらは全て『大雲経』の段階で用意されていたものでした。ただし、断肉では、『大雲経』が三昧を修する菩薩に関する限定的断肉であったのに対し、「四法品第八」ではヒンドゥー社会のタブーを考慮した全面的断肉となりました。如来・解脱に関しては、常住・自在・実在に加えて新たに「有色(うしき)(姿かたちがある)」という概念が追加されました。これもアートマンの属性が仏教側のコンテクストを揺り動かし働きかけたものといえます。
「四法品第八」における最も重要な展開は、如来蔵思想を創唱したことです。『涅槃経』における如来蔵(タターガタ・ガルバ)・仏性(ブッダ・ダートゥ)は個々人に内化された仏塔・ブッダの遺骨(ブッダ・ダートゥ)であり、隔絶した如来と衆生の距離を埋めていくものでありました。同時に、アートマンの属性が、ここでは「内在性」として働きかけていたのです。
アートマン(我)というのは如来蔵という意味である。(『涅槃経』(mDo, Tu 105b5))
唯一のものに帰依しなさい。(中略)ブッダこそがダルマでもありサンガでもあり、如来だけで三宝なのである。(中略)自らがブッダに帰依して一身となるべきである。それからブッダそのものに成って如来の業(わざ)をなすがよい。如来と等しくなって後は、諸仏に礼拝(らいはい)する必要はない。自らが一切衆生の大きな帰依所のようになるべき〔だから〕である。自らは法身を捨てることなく、〔自らの内なる〕仏性(ブッダの本質、ブッダの遺骨)と、〔仏性(=ブッダの遺骨)を内に抱え込む、自らの身体という色身のブッダたる〕仏塔に敬礼(きょうらい)しなさい。敬礼することを望まない一切衆生にとって、自分自身が仏塔のようになるべきである。自らの身体が一切衆生の敬礼の拠り所となるべきである 。(『涅槃経』(mDo, Tu 111a1-6))
仏塔信仰の脈絡では、ブッダの遺骨(ブッダ・ダートゥ)はブッダの本質(ブッダ・ダートゥ、仏性)であって、ブッダそのものです。『涅槃経』は、アートマン(我)たるブッダ・ダートゥを、『大雲経』における「如来と菩薩の重ね合わせ」、および、アートマンが元来有する「内在性」という属性によって一切衆生に「仏性」として内在させ、一切衆生を仏塔化(ブッダ化)したのです。
一切衆生には仏性(ブッダ・ダートゥ)がある(一切衆生悉有仏性)。(涅槃経』(mDo, Tu 99a6))
(一)如来蔵思想の抱えた課題
(1)修道論的課題
最初に見たように、如来蔵思想は「万人がブッダに成り得る可能性を如来が衆生の内に見いだして、そのことを大慈悲に基づいて衆生に知らしめ、衆生に信を生じさせる教説」です。衆生が如来蔵であることは衆生には決して感得することはできず、ただひたすらに「一切衆生は如来蔵である(如来を本性として有する、仏性を有する)」という如来の教説を信じるほかはありません。しかし、『涅槃経』が提唱した如来蔵・仏性は衆生の仏塔化でありました。仏塔は、仏塔信仰の脈絡ではブッダそのものであるため、『涅槃経』は一切衆生をブッダの位置にまで上昇させていることが知られます。これによって一切衆生は、成仏(ブッダと成ること)というゴールを目指しながら、すでにそのゴールを自らの内に抱え込んでいるという、非常に特殊な状況下に置かれることとなったのです。したがって、いかに「衆生が如来蔵・仏性を有することは、如来にしか分からない」と説いたとしても、衆生の仏塔化・ブッダ化という『涅槃経』による提言の力は大きく、ここに「自分はすでにブッダなのだから、修行などする必要はもはやないのではないか」という「修行無用論」を招く危険性を十分に持っていました。これを、如来蔵思想が抱えるに至った〈修道(しゅどう)論的課題〉と呼ぶこととしましょう。
方広(大乗)を堅持している智慧ある者は、愚者たちの中で命を賭けて、一切衆生には如来蔵があるのでブッダに成るとの授記を与えるのである。(『涅槃経』(mDo, Tu 133b8-134a4))
このように『涅槃経』では、如来蔵・仏性があることが、成仏の授記とされています。仏教の伝統からいえば、授記を受けた者は成仏確定者ですから、「修行無用論」に陥る危険性はいっそう増すことになります。この〈修道論的課題〉に対処するため『涅槃経』は、それまで経典内で「欲望を貪る者」等の意味を担っていた「一闡提(いっせんだい)(イッチャンティカ)」を、「自分に如来蔵・仏性があるのだから(すでに自分はブッダ・成仏確定者なのだから)、修行など無用だ」と考える極悪人として再定義し、如来蔵・仏性という「ひとつの極」とともに機能する「もう一方の極」として強調せざるを得なくなったのです。いわば、「一闡提を内に含んだ宗教倫理構造」の構築です。
一切衆生には仏性があって(一切衆生悉有仏性)、その〔仏〕性は各自の身体に内在しており、諸々の衆生は数多の煩悩を滅ぼして後にブッダと成るのである。ただし一闡提はその限りではない。(『涅槃経』(mDo, Tu 99a6-7))
この〈修道論的課題〉は、『涅槃経』(特に第二類)の強い影響下に編纂された『央掘魔羅経(おうくつまらきょう) 』においても、引き続き対処の対象となっています。殺人鬼アングリマーラは実は南方世界の如来であり、彼の悪行は衆生を教化(きょうけ)するための手段(方便)であったとする同経は、『涅槃経』の教説を引き継いで、同じく「一闡提を内に含んだ宗教倫理構造」を採用しています。
〔アングリマーラ〕「大徳マハーマウドガルヤーヤナ(大目犍連、目連)よ、二種の希有なものがある。二種とはなにかといえば、如来と一闡提である。如来は最勝の位で希有なのであって、如来より高貴な位はないので希有である。下劣な位もまた、一闡提より他にはない。(中略)最勝の上位は諸仏世尊である。下劣な位には一闡提たちがある。大徳マハーマウドガルヤーヤナよ、そのように希有は二種であって、邪定(じゃじょう)の人は一闡提であると理解しなさい。正定(しょうじょう)の人は如来と仏弟子であると理解しなさい。」(『央掘魔羅経』(mDo, Tsu 171a8-172a8))
同じく『央掘魔羅経』は、「如来蔵=成仏の授記」という『涅槃経』の理解を踏襲しています。
過去世に昼間は全く見ることができず、暗闇のみを見る梟(ふくろう)となっていて如来蔵を信じない衆生たちは、現世においても、世間で師を見ても求めようとはしない。未来世においても、安慰説者(あんにせっしゃ)のもとで如来蔵〔の教え〕を聞いても、〔如来蔵、すなわち〕ブッダに成れるという授記を信じない衆生たちは、プールナ(富楼那)よ、梟に等しく、不信の者たちであって、占い師の予言のよう〔にとるに足らないものなの〕である。(『央掘魔羅経』(mDo, Tsu 160a8-b2))
この所説を前提として、次の引用を見ていくこととしましょう。「一切衆生悉有仏性」、すなわち「一切衆生は成仏の授記をすでに得ている(成仏確定者である)」と同時に、「一切衆生は仏塔である、すでにブッダである」ならば、修行など不要であろうとアングリマーラに問うマンジュシュリー(文殊)菩薩に対し、釈尊が代わって答える場面です。
〔マンジュシュリー〕「〝如来蔵、如来蔵〟と言われているが、その意味は何か。もし一切衆生に如来蔵があるならば、一切衆生は〔一人残らず〕ブッダと成るであろうし、一切衆生が(中略)一切の悪業道をなすこともありえないではないか。もし一切衆生に仏性があるならば,いつ度脱し修行する〔必要がある〕のか。仏性があるならば、〔もはや度脱も修行も必要ないと思い、〕誰でも〔五〕無間(むけん)業や一闡提の業をなすであろう。」(中略)
〔世尊〕「マンジュシュリーよ、調伏行をなす子供があったとしよう。世尊であるカーシャパ如来・応供・正遍知は〝〔汝は〕今から七年後に法をそなえた法の王である転輪聖王(てんりんじょうおう)となるであろう。(中略)〟と授記した。その調伏行をなす子供はたいそう喜び、〝私は一切智によって転輪聖王になると授記された。もはや疑う余地はない〟と思って大喜びした。そして自分の母に、〝お母さん、僕に魚、肉(中略)穀類などをください。力をつけたいのです〟と言って、全てを混ぜて食べたところ、死ぬはずではなかった時に死んでしまい、自ら死んで、自ら傷つけたとしたら、はたして〔カーシャパ〕世尊如来は妄語したことになるのか。(中略)」
〔マンジュシュリー〕「彼は過去世に悪業をなしていたので死んだのです。」
〔世尊〕「マンジュシュリーよ、そのように言ってはならない。彼は死ぬはずではなかった時に死んだのであって、過去世になした悪業のせいではない。世尊如来が授記するからには、過去世になした業を知らずに授記するということはありえないからである。その子は過去世になした悪業のせいで死んだのではなく、〔暴飲暴食して〕自ら過ちをなし、自ら殺してしまったのである。
マンジュシュリーよ、そのように、男であれ女であれ、もし〝私には如来蔵があるので勝手に〔煩悩より〕度脱できるのだから、悪事をなそう〟と思って悪事をなしたとしたら、どうして自分の〔仏〕性が度脱することがありえようか。先に説いた調伏行をなす子供のように、〔仏〕性はあっても度脱しないのだ。それはなぜかといえば、彼は大変に放逸であって、放逸であるがゆえに、法のきまりに従って度脱しないのである。
衆生たちに仏性はないのであろうか。仏性は〔王子が成長すれば王となるという〕王権の異熟のように、一切衆生にある。ブッダは妄語するのであろうか。ブッダが妄語することはない。妄語する衆生たちが放逸に狂い、教えを聞いたとしても彼らは自らの過ちによってブッダと成ることができないのである。」(『央掘魔羅経』(mDo, Tsu 200a3-b5))
いかがでしょうか。この理屈によって、〈修道論的課題〉は解決されたことになるでありましょうか。私は難しいと考えます。そもそも将来の状況が未確定の場合、ブッダは無記(答えない)に徹するのが常道です。『央掘魔羅経』の編纂者もそのことを十分承知していたのでしょう。この教説においても、「成仏の授記が叶わなくても、ブッダは妄語していない」と主張していますが、いかにも苦しい弁明に聞こえます。
そもそも、それがいかに実践道を回復・維持するための便法であったとはいえ、一闡提という成仏不可能者を例外的に認めることは、〝如来の慈悲に基づいて、衆生内の如来法身として〈如来出現〉が実現しているため、衆生は「誰もが例外なく成仏可能」という意味において先天的に利益されている〟という、如来蔵思想の根本理念・構造と相反してしまうものでもありました。そのため、一部の例外を除き、後続する諸経論や、はては『涅槃経』の内部においてさえ、便法としての一闡提に関する「密意(みっち)」を解いて、いわゆる「闡提成仏」の主張へと路線を転換していったのです。『宝性論』より引用します。
しかるにまた、このことが〔しばしば〕いわれる。「一闡提(イッチャンティカ)は畢竟(ひっきょう)無涅槃性のものである」と。それは、大乗法に対する嫌悪が、一闡提たることの因であるといって、大乗法に対する嫌悪を除去せしめるために説かれたのである。別時を意趣することによってである。何人といえども、本来清浄な種姓(仏性)があるからには、決して、畢竟じて不浄な性質のものであることはありえない。(RGV 37.1-4、高崎[1989: 64])
その結果、いったんは獲得されたかに見えた〈修道論的課題〉解決への糸口は手放されてしまい、再び未解決の状態へと後戻りすることとなったのです。
(2)構造的課題
如来蔵思想における衆生の内なる如来法身は、真如・法身でありながら、煩悩に取り巻かれています。この状態の真如・法身を「有垢(うく)真如」「在纒位(ざいてんい)の法身」といいます。以下に『勝鬘経』の所説を辿ってみましょう。
〔勝鬘夫人〕「世尊よ、存在の消滅が苦の滅なのではありません。世尊よ、苦滅〔諦〕の名において、無始時来の、作られたものでない、不生・不起・不滅で、滅尽を離れ、常住・堅固・寂静・恒常であり、本来清浄にして、一切の煩悩の覆いから離脱し、ガンジス河の砂の数を超える、不可分、智と離れない、不可思議なブッダの諸徳性をそなえた如来法身が示されています。世尊よ、そしてこの同じ如来法身がまだ煩悩の覆いから離脱していないとき、如来蔵と呼ばれるのです。」(RGV 12.10-14、高崎[1989: 22])
〔勝鬘夫人〕「世尊よ、法身こそ如来なのです。」(RGV 56.4、高崎[1989: 97])
〔勝鬘夫人〕「世尊よ、如来蔵は生まれることも、老いることも、死ぬことも、輪廻することも決してありません。(中略)世尊よ、如来蔵は有為の相の境界を超えており、常住・堅固・寂静・恒常だからです。」(RGV 46.2-4、高崎[1989: 80])
これらの引用より、『勝鬘経』における如来蔵は、煩悩の覆いから離脱していないにもかかわらず、「常住・堅固・寂静・恒常」という〈四句〉によって形容されうる、有為の相の境界を超えた如来(如来法身)そのものであることが知られます。
では、その如来蔵(如来法身)と煩悩との関係はどうなっているのでしょうか。引き続き『勝鬘経』の所説を見ていくこととしましょう。
〔勝鬘夫人〕「如来蔵は、分離した、智と離れた一切の煩悩の覆いについては空です。一方、ガンジス河の砂の数を超える、不可分、智と離れない、不可思議なブッダの諸徳性については不空です。」(RGV 76.8-9、高崎[1989: 133])
如来蔵は、煩悩とともにありながらも、それらの煩悩とは本質的に結びついておらず、不可思議な仏徳を失うことはないとされています。しかし、それでもなお、如来蔵は煩悩の覆いを脱しておらず、本来清浄であるにもかかわらず煩悩によって染汚(ぜんま)されているのはなぜでしょうか。この「法身の清浄と染汚に関わる問題」は、「一切衆生への如来法身の内在」という如来蔵思想の根本的構造に起因しているため、ひとえに『勝鬘経』だけにとどまるものではなく、この思想全般に見られる共通の課題でありました。これを如来蔵思想の〈構造的課題〉と呼ぶこととしましょう。そこで、如来蔵思想の理論化に努めた『勝鬘経』は、この〈構造的課題〉の解決に向けた方策・説明原理の模索に苦心しています。
〔勝鬘夫人〕「世尊よ、それゆえ如来蔵は、〔如来法身である如来蔵と本質的に〕結合し、不可分、智と離れない、無為の諸法にとっての所依・支え・基盤です。世尊よ、さらにまた、〔如来蔵と本質的には〕結合しておらず、分離した、智と離れた有為の諸法にとっても、所依・支え・基盤であるものは如来蔵なのです。」(RGV 73.2-5、高崎[1989: 128])
〔勝鬘夫人〕「世尊よ、もし如来蔵がなければ、〔衆生は〕苦を厭うこともなく、涅槃を願い、求め、欣求することもないでしょう。」(RGV 73.7-8、高崎[1989: 128])
〔勝鬘夫人〕「世尊よ、如来蔵があるとき輪廻もある、というのは、この語にとってふさわしいものです。」(RGV 73.6、高崎[1989: 128])
これらの引用から知られるように、『勝鬘経』は、如来蔵を無為法と有為法双方にとっての所依(いわゆる「染浄(せんじょう)依持(えじ)の如来蔵」)とすることによって、如来蔵思想の抱える〈構造的課題〉を解決しようと試みています。しかし、如来蔵が「浄依持」であることは理解しやすいとしても、なぜ「染依持」であるのかは容易には納得されないことがらです。結局、『勝鬘経』は〈構造的課題〉に最終的な解答を出すことができないまま、次のようなかたちで議論を打ち切らざるをえませんでした。
〔勝鬘夫人〕「如来蔵に関する智こそが、諸々の如来の空性智なのです。そして如来蔵は、一切の声聞や独覚によっては、いまだかつて見られたことも理解されたこともありません。」(RGV 76.15-16、高崎[1989: 134])
〔勝鬘夫人〕「世尊よ、本来清浄である心が煩悩に汚(けが)されるという意味は難解(なんげ)です。」
(RGV 15.6-7、高崎[1989: 27])
〔世尊〕「夫人よ、この二つの法は洞察しがたい。すなわち、本来清浄である心も洞察しがたく、その同じ心が染汚されていることも洞察しがたい。(中略)この二つの法については、ただ如来を信ずるよりほかはない。」(RGV 22.1-4、高崎[1989: 38])
このように『勝鬘経』は、清浄な法身がなぜ煩悩に染汚されるのかは説明不可能であり、ひたすらに如来を信ずるほかはないとして、〈構造的課題〉についての明確な解答を回避・放棄しています。結局、〈構造的課題〉は未解決のまま、来たるべき経論へとその解決が委ねられることとなったのです。
(二)『大法鼓経』による解決
『央掘魔羅経』の他に、『涅槃経』の強い影響下に成立した経典がもうひとつ存在しています。それが『大法鼓経(だいほっくきょう)』です。『大法鼓経』は、『涅槃経』第一類、『大雲経』、『涅槃経』第二類、『央掘魔羅経』とともに「涅槃経系経典群」と名づけられる経典グループを形成しており、さらに、成立時期・思想的発展のどちらの面からも、この経典群の末尾・終極に位置しています。そして涅槃経系経典群の最後尾を飾るにあたり、『大法鼓経』は、これまで未解決であった〈修道論的課題〉と〈構造的課題〉双方の解決を試みています。すでに見たように、〈修道論的課題〉には『涅槃経』と『央掘魔羅経』が「一闡提を内に含む宗教倫理構造」をもって、そして〈構造的課題〉には『勝鬘経』が「染浄依持の如来蔵」をもって対処を試みるも、いずれの場合も問題を残してしまい、課題の解決には至っていませんでした。そこで『大法鼓経』は、従来とは全く異なる発想をすることによって、両課題を一挙に解決しようと試みたのです。その発想とは、衆生の内なる如来法身を放棄することでありました。
衆生の内なる如来法身の放棄がなぜ解決をもたらすのかは、すでに辿った、如来蔵思想が〈修道論的課題〉と〈構造的課題〉を抱えるに至った経緯を見れば明らかでありましょう。すなわち、如来法身が一切衆生に内在されたからこそ、如来法身がすでに自らの内にあるのになぜ修行する必要があるのかという〈修道論的課題〉と、なぜ衆生の内なる如来法身は本来清浄でありながら煩悩に染汚されているのかという〈構造的課題〉とが発生したのであり、結局、原因はどちらの場合も、如来蔵思想が一切衆生に如来法身を内在させたことに帰着するからです。以下、衆生に内在する如来法身を放棄した『大法鼓経』の所説を、引用に従って見ていくこととします。
(1)『大法鼓経』の説く如来
まず、『大法鼓経』における如来の観念についての記述です。
如来は常住・堅固・寂静・恒常であり、入滅しても不壊である。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 92a7-8))
入滅した諸仏世尊一切は、常住・堅固・寂静・恒常なのである。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 106a1))
『大法鼓経』では「常住・堅固・寂静・恒常」という〈四句〉をもって、入滅しても不壊である常住な如来を表現しています。この、『大法鼓経』における常住如来が法身であることは、それが如来法身の形容句として多用される〈四句〉を適用されているからという傍証ばかりではなく、以下の釈尊のことばから直截(ちょくせつ)に確かめることができます。
カーシャパよ、わたし(釈尊)はそのような善男子や善女人に、法よりなる身体(法身)を示現してあげよう。彼らがどこの聚落、都城、町に住んでいようとも、その場所でわたしは彼らに〔法身を〕示現して、〝善男子たちよ、如来であるわたしは常住である〟と説いてあげよう。今日よりこの経典を受持し、読み、誦し、他の人たちにも宣布し、〝如来は常住・堅固・寂静・恒常である〟と説き、知らしめ、〝〔釈迦牟尼〕世尊は常に〔ここに〕住されている〟と(中略)浄心をそなえた者に、わたしは自らを目の当たりに示してあげよう。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 130b8-131a4))
ここより知られるように、『大法鼓経』における如来法身は、入滅しても不壊である常住な如来を意味しています。この法身としての常住如来は、『大法鼓経』の教説を信じる衆生の前に出現し、説法を通した衆生利益という如来業(慈悲)を顕現できる如来であり、衆生の内にあって、煩悩に覆われ如来業を示現することのできない如来蔵とは峻別されています。『大法鼓経』においては、常住・堅固・寂静・恒常という〈四句〉は、成覚したブッダ如来を表現する場合にのみ用いられており、如来蔵・仏性にはついぞ適用されることがありません。さらに、先の引用文中に見られた、如来業を顕現できる完全態としての如来を表す「法身」が、『大法鼓経』における法身の唯一の使用例であって、如来蔵・仏性を法身と呼称している例はひとつも確認されないのです。
すなわち『大法鼓経』では、衆生の内なる如来蔵は如来法身とは見なされておらず、そのため〈四句〉も冠されていません。法身であり、常住・堅固・寂静・恒常であるものは、『大法鼓経』では成覚し、衆生利益の如来業を示現できるブッダ如来のみということになります。そして如来蔵・仏性が如来法身でない以上、「如来法身をすでに獲得している衆生が、なぜ如来法身の獲得のために改めて修行する必要があるのか」という〈修道論的課題〉からも、「なぜ清浄な如来法身が煩悩に覆われているのか」という〈構造的課題〉からも解放されることとなり、ここに『大法鼓経』は、如来蔵思想が抱え込んできた二つの難問を、どちらも同時に解決することに成功したのです。
(2)如来蔵思想の根本理念
以上、如来蔵思想が抱える二つの課題、及び『大法鼓経』による、衆生の内なる如来法身の放棄を通した課題解決の過程を見ました。たしかに、両課題の発端が一切衆生への如来法身の内在にあった以上、その内在する如来法身を放棄することによって課題が解決できることは、ある意味自明の理でありました。では、なぜ他の経論が衆生に内在する如来法身を放棄してこなかったかといえば、その答えは明白です。すなわち、一切衆生に如来法身が内在するという提言は、元来両課題を生じさせるためのものではなく、如来の慈悲業の究極形態として如来法身を一切衆生に抱え込ませることによって、如来と衆生との間に本質的な〈等質性〉を認め、その〈等質性〉を根拠として一切衆生の成仏の〈可能性〉を主張するために行われた、如来蔵思想の根本理念そのものであったからです。
したがって、衆生の内なる如来法身を放棄することは、如来蔵思想の根本理念の崩壊に直結してしまうこととなってしまいます。そうであるからこそ、他の経論は衆生の内なる如来法身を放棄しないまま、その内なる如来法身に起因する二つの課題の解決に臨んだのでありました。しかし、原因を放置したままでは、それに起因する課題を完全には解決できなかったことは、これまでに見てきたとおりです。ですが、原因である「一切衆生への如来法身の内在」の放棄は、如来蔵思想の根底を揺るがしかねないものであり、なかなか踏み切ることができません。〈修道論的課題〉と〈構造的課題〉が難問であった理由は、それが如来蔵思想の根本理念に根ざすものであって、解決に当たっては、どうしても自家撞着を避けることが困難であったからなのです。そのような状況であるにもかかわらず、『大法鼓経』が衆生の内なる如来法身を放棄できた理由はどこにあるのでしょうか。『大法鼓経』における如来蔵・仏性(ブッダ・ダートゥ)は、もはや成仏の因(ダートゥ=ヘートゥ)とはなっていないのでしょうか。
一切衆生と一切の生きものには仏性があって、(中略)その〔仏〕性〔という因〕によって、諸々の衆生は涅槃を得るのである。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 115a8-b1))
このように、『大法鼓経』においても衆生の内なる如来蔵・仏性は、もはや如来法身ではないにもかかわらず依然として成仏の因と見なされており、その点で、「如来蔵を因とする一切衆生の〈成仏可能性〉の主張」という如来蔵思想の根本理念が踏襲されていることが分かります。したがってこれらを総合すると、『大法鼓経』が根本理念を踏襲できたのは、如来法身の内在によらないで、一切衆生の〈成仏可能性〉を主張できる新たな説明原理を手に入れたからに他ならないということになるでしょう。以下に『大法鼓経』の教説を辿りながら、その新しい説明原理を探っていくこととします。
(3)如来と衆生の関係
『大法鼓経』では衆生の内なる如来法身を放棄したため、法身を介した如来と衆生との〈本質的等質性〉を主張することはできなくなりました。そこでまず、『大法鼓経』における如来と衆生との関係を見てみることとしましょう。
もし衆生が福をなせばブッダであり、なさなければ衆生のままである。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 102b7))
ここでは、ブッダ如来は衆生が成ったものという〈如来と衆生の連続性〉と、衆生は衆生のままではブッダ如来ではないという〈如来と衆生の異質性〉とが同時に確認されています。如来法身が衆生に内在していない以上、〈如来と衆生の等質性〉は無条件には認められず、仏道修行を通した〈連続性〉とともに、現時点での〈異質性〉が強調され、再確認されているのです。
〔カーシャパ〕「この世間において、滅尽はございますか、それともございませんか。」
〔世尊〕「世間において、いつであれ、いかようにであれ、滅尽は決してない。」(中略)
〔カーシャパ〕「世尊よ、衆生聚(しゅじょうじゅ)は無尽でありますが、一切の声聞・独覚はそのことを知りません。ただ〔諸〕仏世尊のみがご存じなのです。」
〔世尊〕「カーシャパよ、見事だ、その通りである。衆生聚は無尽なのである。」
〔カーシャパ〕「世尊よ、入滅した衆生(ブッダ如来)には滅尽があるのでしょうか。それともないのでしょうか。」
〔世尊〕「衆生に滅尽はない。(中略)もし滅尽があれば〔衆生聚に〕増減があることになろう。〔しかしそのようなことはありえない。〕(中略)入滅した諸仏世尊一切は、常住・堅固・寂静・恒常なのである。」。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 103b2-106a1))
この個所では、入滅した諸仏世尊をも含めて広義の衆生と見なした上で、如来は入滅しても常住であること、すなわち〈如来の常住性〉に基づき、衆生の総体である衆生聚の無尽が主張されています。したがって如来と衆生との間には、どちらも広義の衆生であるという点で〈等質性〉がある一方、解脱を得ているかいないかという点で〈異質性〉が確認され、〈連続性〉はあるものの、両者の間には明確な線引きが行われており、〈修道論的課題〉が未然に回避されています。このことから、『大法鼓経』が「一闡提を内に含む宗教倫理構造」を、『涅槃経』や『央掘魔羅経』から継承する必要がなくなったことが分かるのです。
(4)アートマンの実在性
以上で、『大法鼓経』における如来と衆生との関係が確認されました。ここで本題の、『大法鼓経』が手に入れた「如来法身の内在によらないで、一切衆生の〈成仏可能性〉を主張できる説明原理」の考察へと移ることにします。結論の一部を先取りするならば、それは「アートマンの〈実在性〉」を鍵とする説明原理でありました。
この『大法鼓経』もそれと同様〔に希有〕である。それはなぜかといえば、如来は入滅したにもかかわらず依然として住し続けると言い、アートマンも我がものという観念(我所)もない〔と信じてきた〕者たちに向かって、今再びアートマンはあると説くからである。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 95a5-6))
従来タブー視されてきたアートマンの観念の肯定的使用は、すでに見たように、出世間の四不顚倒を説く『涅槃経』第一類によってすでに先鞭がつけられていました。ただし『涅槃経』第二類においては、衆生の内なるアートマンは常住自在なブッダ如来・如来法身そのものであり、その完全なブッダを抱え込む衆生の価値がブッダと同等にまで上昇してしまったため、『涅槃経』は「一闡提を内に含む宗教倫理構造」を確立して、〈修道論的課題〉に対処せざるをえなくなったのです。しかし『大法鼓経』では衆生への如来法身の内在を説かないため、「アートマン」という用語そのものは同じであっても、常住自在なブッダ如来・如来法身を指すものではありませんでした。この点について、まず二件の引用を通して確かめておきましょう。
衆生が輪廻をさまよっている間はアートマンが遷移して〔自在ではなくなって〕いるので、アートマンはないという見解(無我説)が恒常・常住〔の真実〕である.(中略)〔しかし〕解脱は寂静・常住・有色(うしき)(姿かたちをそなえている)である。(中略)解脱は実在する。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 113a5-b3))
解脱に到った諸仏世尊もわたし(釈尊)の境界であって、彼らもまた有色であり、その解脱も有色なのである。(中略)解脱を得た、極めて清浄な智を有する諸仏もまた、まさしく有色であるといわれるのだと、明らかに正しく理解しなさい。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 101a8-b2))
まだ解脱(覚り、涅槃)を得ておらず輪廻を経巡るうちは、衆生に内在するアートマンは遷移しており、本来の〈自在性〉を発揮できません。そのため無我説が説かれたのですが、解脱を得た諸仏は永遠に消え去ることなく姿かたちを保ち(有色)、常住・寂静であり〈自在性〉を取り戻していると『大法鼓経』は説きます。この引用個所からはまず、衆生の内なるアートマンは、『涅槃経』の場合とは異なり、遷移してしまうもの・堅固でないものとされ、したがって、常住・堅固・寂静・恒常である如来法身とは明確に区別されていることが確認できます。くわえてこの個所からは、『大法鼓経』が『涅槃経』第二類と同様に、アートマンの〈内的実在性〉という特性を利用して教説の基本構造を構築しようとしていることも知られます。さらに三件目の引用を続けましょう。
〔カーシャパ〕「解脱を得た者(如来)が堅固で自在であるなら、衆生もまた実在し、堅固であると知らねばなりません。それはなぜかと申しますと、煙によって〔火が〕ある〔と知られる〕ようなものだからです。もし解脱が恒常であるなら、〔解脱は〕アートマン(実在・自在)ということになりますから、〔結局、〕〝解脱はアートマンである(実在する、自在である)〟と説くことは、〔解脱・如来の〕有色に基づいて説かれるものなのでしょうか。」
〔世尊〕「〔解脱・如来は有色で実在するといっても〕世俗の有身見のようなものではなく、断〔見〕・常〔見〕を語るようなものでもないのである。」
〔カーシャパ〕「世尊よ、諸々の如来が〔常住で〕入滅されないのでしたら、なぜそのように入滅を示されるのですか。生起(しょうき)することがないのなら、なぜ生誕を示されるのですか。」
〔世尊〕「衆生は〝ブッダでさえ死ぬのであれば、私たち〔が死ぬの〕はいうまでもない。ブッダでさえアートマンが自在でないのなら、アートマンと我所に執著する私たち〔が自在でないの〕はいうまでもない〟と知るであろうからだ。(中略)〔衆生が〕輪廻をさまよううちは〔自分が自在ではないにもかかわらず〕〝私はアートマン(自在)である〟と我見を起こすので、アートマンはないと見なすように〔諸仏は入滅を示現するの〕である。(中略)
もし如来がそのように入滅して消え去ってしまったとしたら、世間は損減することになるであろう。もし損減しないのであれば堅固・寂静である。もしそのように堅固であるならばアートマン(自在性・実在性)はあると知られるべきである。あたかも、煙に基づいて火〔が知られる〕ように。(中略)
もし存在しないもの(非有)が衆生となったなら、〔それは〕どこか別のところから来たことになるであろう。〔なぜなら、〕もし意思作用を持つもの(衆生)が滅するなら、〔衆生は〕損減するものとなるであろうし、もし非有が衆生となったなら、〔衆生は〕増大するものとなるであろう〔からである〕。〔しかしそのようなことはありえない。〕したがって、〔如来と衆生の〕二者(衆生聚)は不生不滅で、それゆえ不増不減なのである。」(『大法鼓経』(mDo, Tshu 113b3-114b1))
成覚したブッダ如来は不壊・有色で消え去ることなく、常住・堅固・寂静・恒常であるため、自在でありアートマン(自在性・実在性)があります。一方、その如来の〈自在性・実在性〉と、「衆生が成覚すればブッダ」という如来と衆生の〈連続性〉に基づき、如来を含めた衆生聚は無尽・不増不減とされます。したがって、如来にアートマン(実在性)があるのであれば、輪廻を経巡る衆生にもアートマンがなくてはなりません。もし衆生にアートマンがなければ、アートマンを持たない衆生がアートマンを持つ如来と成ることによって、無から有が生じることになり、その結果、衆生聚の不増不減に反することになってしまうからです。したがって、火そのものが直接確認できなくとも、煙があれば火の存在が知られるように、輪廻を経巡る衆生のアートマンは直接確認できなくとも、如来にアートマンがあることによって、衆生にもアートマンがあると知られるのです。
もちろん、先に見たように、衆生に内在するアートマンは遷移しており〈自在性〉を発揮できない状態にあります。しかし、解脱を得た如来にも、まだ解脱を得ていない衆生にも、等しくアートマン(実在性)があることに基づき、『大法鼓経』は如来と衆生の間に〈等質性〉を認めていることが分かります。たとえ如来法身の内在は放棄しても、如来と衆生の本質的な〈等質性〉を主張している点では、『大法鼓経』も、他の如来蔵系経論も変わるところはなかったのです。ただし、如来と衆生の本質的な〈等質性〉を認めているとはいえ、それが如来法身を媒介としたものではないため、〈修道論的課題〉も〈構造的課題〉も『大法鼓経』には無縁のものとなったことは、すでに見てきたとおりです。
以上、『大法鼓経』の教説を辿ることで、
一、成仏の因である如来蔵・仏性が一切衆生にあることによって、一切衆生の成仏の〈可能性〉が保証されている。
二、如来と衆生との間に本質的な〈等質性〉を認めている。
これら二点において、『大法鼓経』と他の如来蔵系経論の間に違いはないこと、および、〈等質性〉は如来法身ではなくアートマンによって確保されているため、『大法鼓経』では〈修道論的課題〉と〈構造的課題〉の双方が回避されていることを見ました。今や残された問題は、如来法身の内在を通さずに、いかにして『大法鼓経』が〈可能性(如来蔵・仏性)〉と〈等質性(アートマン)〉を結びつけているかの解明に絞られたことになります。
幾コーティ(千万)もの煩悩の被覆で覆われたこの〔仏〕性は、声聞や独覚に歓喜しているうちは、アートマンでありながらアートマンでないものとなり、(中略)諸仏世尊に歓喜したなら〔真の〕アートマンとなるのである。(『大法鼓経』(mDo, Tshu 115b2-3))
ここに私たちは、『大法鼓経』における「如来蔵・仏性とアートマンの連結」を見ることができます。たしかに、衆生の内なる如来蔵・仏性をアートマンと見なすことは、先に見たように、すでに『涅槃経』第二類においてなされていた試みでした。しかし『涅槃経』における如来蔵・仏性は、未完成態の〈可能性〉にとどまるものではなく、すでに完全態として〈自在性〉をそなえたアートマンでありました。それは『涅槃経』が、如来蔵・仏性を「衆生の内なる如来法身」と捉える文脈の上に立っており、そのうえでアートマンの〈自在性・実在性〉を利用して、如来蔵・仏性をアートマンと表現したからでした。
しかし『大法鼓経』においては、如来蔵・仏性を「衆生の内なる如来法身」と捉える伝統は放棄されているため、『涅槃経』からは主として、「如来蔵・仏性をアートマンと表現する」という用法を継承したに過ぎないことになります。『大法鼓経』における衆生の内なるアートマンは、本来の〈自在性〉を発揮できない「遷移した、アートマンならざるアートマン」であり、一切衆生の内に〈実在〉する、成仏の〈可能性〉である如来蔵・仏性なのです。ここでようやく私たちは、当初の目的であった「如来法身の内在によらないで、一切衆生の成仏の〈可能性〉を主張できる説明原理」に辿り着いたことになります。『大法鼓経』は、「如来の常住性」と「アートマンの実在性」に基づいて一切衆生の成仏を保証しようとしたのです。
(5)空性説の超克
『大法鼓経』が如来蔵・仏性系諸経論の中でユニークなのは、如来蔵・仏性を如来法身と見なさないことだけではありません。それは、『大法鼓経』に見られる空性説との対決姿勢です。たとえば、『涅槃経』『央掘魔羅経』をはじめとする他の如来蔵系経典には、空性説を説く経典を未了義と見なして批判する意識は確認されないのに対し、『大法鼓経』は空性説を説く経典を未了義であるとして超克しようと試みています(『大法鼓経』(mDo, Tshu 108a3-6))。
次は、空性説を説く経典には、まだ解き明かされていない言外の意趣(密意(みっち))が残っているとするくだりです(『大法鼓経』(mDo, Tshu 112b1-113a4))。
最後にもう一個所だけ見ておきましょう。無我説は世俗の邪見を対治するために説かれたものであり(第一段階)、仏教に摂受(しょうじゅ)したのち大乗に進んで空性説を学ばせ(第二段階)、最後に解脱の常住・実在(不空)を説示する(第三段階)、という三時教判を行っている個所です(『大法鼓経』(mDo, Tshu 113a6-b3))。
空性説に対する明確な批判をなした経典として有名なものは、瑜伽行派の基本典籍のひとつとなっている『解深密経(げじんみっきょう)』でしょう。『解深密経』はその中で、第二転法輪である空性説を未了義のもの(不完全なもの)と見なし、第三転法輪である自らを「無上、無容で、真の了義経」であるとしています。一方、瑜伽行派の唯識思想と並んで中期大乗仏教を代表する思想は、いうまでもなく今回の主題となっている如来蔵・仏性思想です。如来蔵・仏性思想の代表的論書である『宝性論』は、その中で空性説を第二転法輪、自らの如来蔵・仏性思想を第三転法輪と位置づけており(RGV 6.1-7、高崎[1989: 10, 219-220])、第三転法輪を唯識説と見るか、如来蔵・仏性説と見るかの差異こそあれ、『解深密経』の場合と同様の主張をなしています。しかし両者の違いは、『解深密経』が空性説を未了義となしているのに対し、『宝性論』は第二転法輪である空性説を未了義とはいわずに、第三転法輪である如来蔵・仏性説を凡夫の五過失を断ずるためのものと捉えている点です(RGV 77.9-78.20)。そのため、如来蔵・仏性思想は唯識思想とは異なり、空性説を批判的に超克しようとしたものではないとする見方が従来一般的でありました。
しかし本項で見たように、如来蔵・仏性系の経典である『大法鼓経』は、空性説が未了義であるとの立場を明確に打ち出していました。「如来の常住性」と「アートマンの実在性」に基づいて一切衆生の成仏を保証しようとした『大法鼓経』にとって、解脱・如来を空と説くものはそれが何であれ、未了義・第二転法輪として超克されなくてはならなかったのです。このように、『大法鼓経』の空性説に対する対決姿勢は、〝どうしたら修行無用論を回避しつつ、一切衆生の成仏可能性を保証できるのか。そして、それによって一切衆生を仏道修行に向けて鼓舞できるのか〟という『大法鼓経』の主題と直結するものであり、『大法鼓経』にとってはどうしても主張しなければならないものだったといえます。
近年、インド仏教思想史には一貫して「無」と「有」の二つの潮流があったことが明らかにされました(桂紹隆「インド仏教思想史における大乗仏教 ―無と有との対論」『大乗仏教とは何か(シリーズ大乗仏教 第一巻)』春秋社、二〇一一、二五三―二八八頁)。如来蔵・仏性思想は両者のうち、「有」の潮流に属する代表例のひとつです。〝無我説のみが仏説だ、「無」の潮流のみが仏教だ〟という考えに基づき、如来蔵・仏性思想を仏教と見なすことに批判的な意見も表明されています。しかし私は、如来蔵・仏性系諸経論が取り組んだ、〝如来蔵・仏性・アートマンがあるからこそ一切衆生は成仏が可能なのだ。だからみんな、挫けることなく成仏へ向かって仏道修行に邁進しよう〟という「仏教徒の決意・誓い・願い」が仏教思想史上にあったこと、就中、「自分が仏教徒であるとの自覚を持ったうえで、そのような決意・誓い・願いをした方たちがあった」という事実を、今後も大切にしていきたいと考えています。
(本稿は令和三年八月二一日に開催された第三一三回公開講座での講演内容にもとづき執筆されたものです。)