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(一)菩薩とは誰か
菩提心についてご説明する前に、まず菩提薩埵、すなわち菩薩について、簡単に説明しておきたいと思います。菩提薩埵とは、Bodhisattva で、これは菩提と薩埵が組み合わさった言葉ですが、その意味は菩提の実現を求める衆生ということであり、さらには菩提と衆生を心に懸ける者という意味とも説明されます。上求菩提・下化衆生という言葉がありますが、まさにこのことを追求する者が菩提薩埵すなわち菩薩です。
菩薩というと、弥勒菩薩や観音菩薩、文殊菩薩や普賢菩薩など、仏に近い高位の方のみかと思われるかもしれませんが、決してそのようなことではありません。実は発菩提心した者は、誰もがみんな菩薩であると言われています。これを凡夫の菩薩といいます。つまり、発菩提心した者は、もはやすべて菩薩なのです。
この発菩提心とは、略せば発心ですが、詳しく言いますと、発阿耨多羅三藐三菩提心ということになります。この阿耨多羅三藐三菩提とは、この上無い正しい完全なる覚りということで、無上正等覚とも訳されるものです。『法華経』には、声聞は四諦の法門を修行し、、縁覚は十二縁起を修行し、菩薩は六波羅蜜を修行して、阿耨多羅三藐三菩提を実現するのだと示されています。したがって、発菩提心とは、『法華経』の立場等によるなら、大乗仏教の世界を歩もうと決意することでもあるわけです。
(二)菩提とは何か
今、阿耨多羅三藐三菩提ということを申しましたが、ではこの菩提とは、いったいどういうものでしょうか。
仏教では、人間に無明・煩悩がうずまいていると見て、これらを浄化していく道を歩むことになります。その無明・煩悩には、自我に執着する我執と、諸法いわばものに執着する法執とがあります。同じ貪りの煩悩でも、自我を貪れば我執、ものを貪れば法執ということになるわけです。
我執に関する煩悩を煩悩障といい、法執に関する煩悩を所知障といいます。そこで我執=煩悩障を断じると涅槃を実現します。法執=所知障を断じると菩提を実現するのです。この、涅槃と菩提の双方を完全に実現した人が、仏と言うことになります。
大乗仏教では、涅槃に四種の涅槃があると言います。自性清浄涅槃、有余依涅槃、無余依涅槃、無住処涅槃です。今日は、時間がありませんので、これらについての説明は省きますが、無住処涅槃とは、生死にもとどまらず、涅槃にもとどまらない、どこにもとどまらないあり方に涅槃を見るものです。けっして、寂静で何のはたらきも無い世界に入り込むわけではありません。
一方、菩提は、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四つの智慧によって語られます。唯識の教義によれば、人間は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と、さらにその奥の末那識および阿頼耶識の、八識から成り立っているとされますが、修行が完成して仏に成った時には、八識が四智に転じます。すなわち、阿頼耶識は大円鏡智に、末那識は平等性智に、意識は妙観察智に、前五識は成所作智になります。成所作智は、所作すなわち作すべき所を成就する智慧のことで、大乗仏教の道に入った時に立てた誓願、本願に誓ったこと、要は一切衆生を救済することを成就していく智慧です。平等性智は他者と根本的に平等一体であることを自覚していますし、妙観察智は、他の菩薩らに説法したりします。
こうして仏とは、四智の活動の中で、自利利他円満の存在、自覚覚他円満の存在であると言うことが出来るでしょう。
(三) 仏道の階梯
では、発菩提心から、仏になるまでに、どのような修行のプロセスを経るのでしょうか。このことについては、しばしば「発心・修行・菩提・涅槃」と表現されています。その修行の階梯として、まず、「十信 ― 十住 ― 十行 ― 十廻向 ― 十地 ― 等覚 ― 妙覚」という五十二位の階位が有名です。この説は、中国・日本において、もっとも一般的であったと言えるでしょう。この中、十住の最初の段階が、初発心住と言われています。十信の修行が成満して、信が決定し確立されたとき、菩提心を起こすことができるわけです。
一方、例えば『成唯識論』などでは、「資糧位―加行位―通達位(見道)―修習位(修道)―究竟位(無学道)」という五位の段階が説かれています。資糧位は、十住・十行・十回向が相当し、加行位は十回向の最終段階で、集中的に唯識観の観法を修行する段階です。そうしますと、無分別智が開けます。そこが通達位(見道)です。無分別智が実現しますと、ただちに分析的な智である後得智もおのずから展開されます。
その後、無始の過去から起こしてきた煩悩等の影響を浄化していくための修行をさらに続けていかなければなりません。その段階は修習位(修道)で、いわゆる十地の修行ということになります。その修行を果たすと、仏に成っていくわけです。
では、発菩提心から成仏まで、どのくらいの時間が必要なのでしょうか。唯識説の教理によれば、誰であれ、初発心住から仏になるまで、三大阿僧祇劫の時間がかかるといいます。要は、実に計り知れないほど長い長い時間がかかると言うのです。しかし一方、『華厳経』には、「初発心の時に、便ち正覚を成ず」とあります。また、華厳宗では、二回の生まれ変わり、すなわち三生の修行で成仏できると言います。この辺は、宗派によって見方がいろいろですが、ともあれ、発心・修行を経て、菩提と涅槃とを実現する道に変わりはありません。
では、その大乗仏教の仏道の根本にあるべき、発菩提心とはどのような事なのでしょうか。この菩提心について非常に詳しく説いているのが、『華厳経』です。
(一)『華厳経』の菩提心
『華厳経』に「入法界品」という品があり、それは善財童子が五十三人の善知識を次々と尋ねてそれぞれの法門を修得し、ついには成仏を果たすという、求道遍歴物語が説かれています。そこにおいて、善財童子は最後から三番目、五三番目(善財童子は五十五か所を訪問しましが、中に重複する師がいたりします)に弥勒菩薩を訪ねます。すると弥勒菩薩は善財童子に、菩提心について詳細に説き明かすのです。その教説は、かの鈴木大拙に大きな感銘を与えたのでした。これには一一七箇条あるのですが、ここにそのほんの一部を紹介してみましょう。
菩提心とは、則ち一切諸仏の種子と為す。能く一切諸仏法を生ずるが故に。
菩提心とは、則ち良田と為す。衆生の白浄法を長養するが故に。
菩提心とは、則ち大地と為す。能く一切諸世間を持するが故に。
菩提心とは、則ち浄水と為す。一切の煩悩垢を洗濯するが故に。
菩提心とは、則ち大風と為す。一切世間において障礙無きが故に。
菩提心とは、則ち盛火と為す、能く一切の邪見愛を焼くが故に。(大正九巻、七七五頁中)
さらに、利剣(一切の煩悩悪を斬るが故に)、金椎(一切の憍慢山を壊散するが故に)、利刀(七使煩悩の鎧を斬截するが故に)、勇健幢(一切の諸魔幢を傾倒するが故に)、釿斧(無知の諸苦樹を斫伐するが故に)、器仗(一切の諸艱を防護するが故に)等々のよう(同前、七七六頁上)ともあります。これらはあたかも、千手観音の持物のようであります。
その他、多彩な説明があって、その締めくくりには「仏子よ。菩提心とは、是の如き無量の功徳を成就す。悉く一切諸仏菩薩の諸の功徳等を与う。何を以ての故に。菩提心に因って一切諸菩薩行を出生し、三世諸仏、正覚を成ずるが故に」(同前、七七六頁下)と示すのです。
このあと、菩提心がその菩薩(修行者)を護り、育てる功徳があるかがさらに詳細に説明され、そのうえで弥勒の大楼観に入ることを許されます。そこで善財童子が見たものは、実にめくるめくような仏世界の光景でありました。
(二)道元の発菩提心
次に、日本の曹洞宗の高祖・道元は、比較的よく菩提心について語っていますので、その説くところを見てみましょう。道元はたとえば、次のように言っています。
他心通は、西天竺国の土俗として、これを修得するともがら、ままにあり。発菩提心によらず、大乗の正見によらず。他心通をえたるともがら、他心通のちからにて仏法を証究せる勝躅、いまだかつてきかざるところなり。他心通を修得してのちにも、さらに凡夫のごとく発心し修行せば、おのづから仏道に証入すべし。(「他心通」)
何か神秘的な能力を身に着けたとしても、それだけでは大乗仏教の仏道にかなうことはできないと言います。肝心なのは、むしろ正しく発菩提心して修行していくことなのだと諭しています。
また、次のようにあります。
発菩提心者、あるいは生死にしてこれをうることあり、あるいは涅槃にしてこれをうることあり、あるいは生死・涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらざれども、発心のところにさへられざるあり。境発にあらず、智発にあらず、菩提心発なり、発菩提心なり。発菩提心は、有にあらず無にあらず、善にあらず悪にあらず、無記にあらず。報地によりて縁起するにあらず、天有情はさだめてうべからざるにあらず。ただまさに時節とともに発菩提心するなり。依にかかはれざるがゆえに。発菩提心の正当恁麼時には、法界ことごとく発菩提心なり。
(「身心学道」)
発菩提心はどこで行われるか、どこかに限られているわけではありません。それは、自分が菩提心を起こすからではなくて、菩提心そのものが自らを発起するからです。その主体そのもののはたらきは、対象的にとらえることのできないものです。ただ、これまでの縁にしたがい、時節が熟して発菩提心が実現することになります。何かに依ることはなく、まさに菩提心が自らを発揮します。そのときは、世界中が発菩提心そのものと化します。
さらに道元は、次のようにも言います。
発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり、これを初発菩提心、といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、雪上加霜なり。(新草「発菩提心」)
おほよそ菩提心とは、いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり。いたづらに世間の欲楽をあたふるを、利益衆生とするにはあらず。この発心・この修証、はるかに迷悟の辺表を超越せり。三界に勝出し、一切に抜群せる、なほ声聞・辟支仏のおよぶところにあらず。(同前)
発菩提心とは、自分がまだ救われない前に、他者の救いを実現しようという心を起こすことだと言います。それも、他者に世間的な欲望を満たすことを助けることではありません。「いかがして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せまし」と、常に考え行動することです。この発心・修証は、もはや迷い・覚りの地平をはるかに超えたものだと言います。そのくらい、菩提心を起こすということは、偉大な内容を有していることなのです。
(三)密教の菩提心
日本の祖師方の一人に、弘法大師・空海がいますが、空海の仏教は密教と言われます。その空海の密教の根底は、『大日経』に出る有名な三句「菩提心を因と為し、悲を根本と為し、方便を究竟と為す」(大正一八巻、一頁中~下)にあるでしょう。すなわち、菩提心・大悲心・方便が最重要ということです。
そういう密教では、その仏道の道筋を、たとえば阿字の五つの展開(五転)によって語ります。その様子を、『秘蔵宝鑰』は、次のように示しています。
毗盧舎那経の疏に准ぜば、阿字を釈すに具に五義有り、
一には阿字短声(a)、是れ菩提心なり。
二には阿字引声(aa)、是れ菩提行なり。
三には暗字短声(am)、是れ証菩提の義なり。
四には悪字短声(ah)、是れ般涅槃の義なり。
五には悪字引声(aah)、是れ具足方便智の義なり。
(『定本』第三巻、一七一頁)
ここに、単なる発心・修行・菩提・涅槃にとどまらない、発心・修行・菩提・涅槃・方便という道筋が示されています。菩提・涅槃を実現した後、あらゆる衆生の救済に、方便を駆使して働いてやまない、ということが含まれています。逆に発心の中には、その実現を目指す思いがまぎれもなく含まれていることでしょう。
なお、『秘蔵宝鑰』には、今の箇所に続けて、『法華経』の釈尊出世の一大事因縁である、仏知見の「開・示・悟・入」に阿字を配当して、菩提心・菩提行・証菩提・般涅槃・具足成就に展開するともいっています。ここでも第五に、方便善巧智円満が加えられていることは、前に述べたように大悲の活動を深く重視しているからでしょう。つまり密教では、仏道修行の全過程を、発心・修行・菩提・涅槃・方便の五つにあることを明確にし、故に発心の時にもそのことを明確に自覚するような仏教であることは、再認識されてよいでしょう。
発菩提心について深い理解を語っていた道元は、修行と証悟、修と証とは、一つだと説いていることは、よく知られたことかと思います。道元の仏道は、発菩提心して以降のことかと思いますが、修証一等の仏道なのです。そのことについて、『弁道話』は、次のように説いています。少し長いですが、全部、読んでみましょう。
とふていはく、この坐禅の行は、いまだ仏法を証会せざらんものは、坐禅弁道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらむ。
しめしていはく、癡人のまへにゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。
それ、修・証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆえに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれ、とをしふ。直指の本証なるがゆえなるべし。
すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。すでに証を離れぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の弁道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。
しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖、しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば、本証、手の中にみてり、本証を出身すれば、妙修、通身におこなはる。
(『弁道話』)
ここに、「初心の弁道、すなわち本証の全体である」とありました。修行の世界はまた、「直指の本証」なのです。「証上の修に受用される」ともありましたが、この「証上の修」は、「本証の妙修」とも言われることがしばしばです。ここから、仏道の全段階、全過程が仏道そのものであることを、道元は次のように言っています。
仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初・中・後ともに仏道なり。たとへば、万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり。初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。しかあるを、至愚のともがらはおもうらく、学仏道の時は仏道いたらず、果上のときのみ仏道なり、と。挙道説道をしらず、挙道行道をしらず、挙道証道をしらざるによりて、かくのごとし。迷人のみ仏道修行して大悟すと学して、不迷の人も仏道修行して大悟すとしらず、きかざるともがら、かくのごとくいふなり。(「説心説性」)
また、前に「すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし」とありましたが、「証にきわがない」ということは、何か悟り体験を得た後でもますます修行が続いていくということを意味しています。まさに「道は無窮なり」です。ここも、道元の仏道の一つの大きな特徴です。こうして、修行は因位のみにあるのではない。果位にも修証があるということになります。道元は、
仏祖一大事の本懐なるがゆえに、得道のあしたより、涅槃のゆふべにいたるまで、開演するところ、ただ安居の宗旨のみなり。……ただ因地に修習するのみにあらず、果位の修証なり。大覚世尊、すでに一代のあひだ、一夏も欠如なく修証しましませり。しるべし、果上の仏証なりといふことを。(「安居」)
と説くのです。したがって、道元の修証は決して「発心は一発にしてさらに発心せず、修行は無量なり、証果は一証なりとのみきく」(「発無上心」)というようなものではありえません。発心の中にすでに菩提・涅槃が含まれ、菩提・涅槃の中に発心が含まれている、ということになってきます。発心・修行・菩提・涅槃は、実はたがいに浸透しあうものとなるでしょう。ここが、「行持道環」と言われます。
仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆえに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不曽染汚の行持なり。
(「行持」上)
なお、以上の修証一等・行持道環の別のしかたの説明として、道元独特の波羅蜜多説があります。波羅蜜多、pāramitāは、古来、一義的に訳すのが困難な言葉として、漢語に翻訳されずにきた言葉です。それには、「到彼岸」と「最勝」という、二つの意味があるからです。道元は『正法眼蔵』「仏教」の巻において、この波羅蜜多(波羅蜜)の語の意味を取り上げ、
波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古来の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の、彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。これ彼岸に修行あるゆえに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず徧界現成の力量を具足するがゆえに。(「仏教」)
と言っています。「彼岸に修行あるゆえに」の句には、「本証の妙修」を見ることも出来るでしょう。この「仏教」の巻ではさらに、「六波羅蜜というは、檀波羅蜜・尸羅波羅蜜・孱提波羅蜜・毗梨耶波羅蜜・禅那波羅蜜・般若波羅蜜なり。これはともに無上菩提なり」(同前)とまでも言っています。波羅蜜(彼岸到)であるがゆえに、六波羅蜜のすべてはそのまま無上菩提であるというのです。ここからも、道元の仏道は、証上の修ないし本証の妙修の修行であることが知られるでしょう。
こうして、修行の全体が証上にあり、修証一等であるとなると、修行のその初めの発菩提心の時にも、覚りそのものにあずかっていると言うことになります。このことを、より端的に、より直截に説くのが、『華厳經』です。『華厳経』には、有名な、「初発心の時に、便ち正覚を成ず」「梵行品」、大正九巻、四四九頁下)という句が説かれています。その外にも、同様のことがしばしば説かれています。一、二、挙げてみましょう。
菩薩、生死に於て、最初に発心せし時、一向に菩提を求めて堅固にして動ずべからず。彼の一念の功徳、深広にして辺際無し。如来分別して説かんに劫を窮むとも尽くすことあたわず。何に況や無辺無数無量劫に於て具足して諸度諸地功徳の行を修せんをや。
(「賢首菩薩品」、同前、四三三頁上)
此の初発心菩薩、即ち是れ仏なるが故に、悉く三世の諸の如来と等しく、亦た三世の仏の境界と等しく、悉く三世の仏の正法と等し。如来の一身無量身、三世の諸仏平等の智慧を得、所化の衆生も皆悉く同等なり。(「初発心菩薩功徳品」、同前、四五二頁下)
なお、『華厳五教章』「十玄門」に、「三、諸法相即自在門」があり、この門では一切諸法が、一即一切・一切即一であって、円融無礙自在であることを明かすのですが、そこでは、特に初発心の菩薩が仏と変らないことの説明に焦点があてられています。
このように、発菩提心ということは、非常に深い内容をそこに含んでいるのです。
この「初発心時、便成成仏」の句は「信満成仏」の思想を説くものとも見なされてきました。信が決定して、菩提心を発することができます。とすれば、信が成就すれば、便ち正覚を成ずることになります、そこで、「信満成仏」と言われるわけです。「入法界品」末尾(故に『華厳経』の末尾)に置かれた頌、「此の法を聞いて歓喜し、信じて心に疑うこと無き者は、速やかに無上道を成じて、諸の如来と等しからん」(同前、七八八頁上~中)も、このことを物語っていましょう。この頌は、親鸞の「如来等同」説(信心が成就すれば如来と等しい)に大きな影響を与えたのでした。
なお、初発心以降の修行の各段階も他の一切の段階を含んでいる、ゆえに仏の世界もそこに具している、ということが、『華厳五教章』に次のように示されています。
一に、寄位に約して顕す。謂く、始の十信従り乃至仏地に至るまで、六位不同なり。一位を得るに随って
一切の位を得。何を以っての故に。六相を以って収むるに由るが故に。主伴の故に。相入の故に。相即の故に。円融の故に。
経に云く、一地に在りて普く一切の諸地の功徳を摂す。(大正9巻、395頁中)是の故に、経の中に十信の満心勝進分の上に、一切の位及び仏地を得とは、是れ其の事なり。
又、諸位及び仏地等相即する等を以っての故に。即ち因果無二にして始終無礙なり。一一の位の上に即ち是れ菩薩、即ち是れ仏なりとは、是れ此の義なり。
(鎌田茂雄『華厳五教章』、仏典講座二八、大蔵出版、三七九頁)
このように、実は仏道においては、「一一の位の上に即ち是れ菩薩、即ち是れ仏なり」なのであり、道元が修証一等あるいは行持道環と説いたことが経典の上で証明されていることを見ることが出来ます。このような見方からすれば、われわれは、発菩提心して以降は、そのつどそのつど、覚りの世界、仏の世界に包まれながら、この人生を歩んでいくことができるのです。
しかし、凡夫のわれわれは、日々修行していくことは、なかなかできないことだろうと思われます。坐禅は安楽の法門と言いますが、足は痛いし、心は千々に乱れて、とても集中することは出来ません。そればかりか、純粋に菩提心を起こすことすら、とてもできないという人もいるでしょう。そういう人の救いの道として設けられているのが、他力浄土教でしょう。では、阿弥陀仏の救いとは、どのようなものなのでしょうか。
日本の法然、親鸞、一遍らの浄土教は、もっぱら『無量寿経』が説く阿弥陀仏の本願の第十八願によって救われると言います。その第十八願とは、次のようなものです。
たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん。もし、生れずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆と正法を誹謗するものとを除く。
この第十八願では、いわば、少なくとも一〇回念仏すれば、浄土に引き取って下さるということになります。
一方、これと呼応した説が、『無量寿経』巻下のほぼ冒頭にありまして、それは次のようです。
十方恒沙のもろもろの仏・如来は、みなともに無量寿仏の、威神功徳の不可思議なることを讃歎したもう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し、ないし一念せん。至心に廻向して、かの国に生れんと願わば、すなわち往生することをえて、不退転に住すればなり。ただ、五逆と正法を誹謗するものとを除く。
こちらでは、ただ一回でも念仏すれば、往生間違いなしと言われています。ですから、阿弥陀仏の本願に基づく救いは、これほど簡単なことになっているわけです。
ところが、『観無量寿経』に、次の一文があります。
上品上生とは、もし衆生ありて、かの国に生れんと願う者、三種の心を発さば、すなわち往生す。なにをか三心とす。一には、至誠心、二には、深心、三には、回向発願心なり。三心を具うれば、必ずかの国に生まる。 (以上、岩波文庫『浄土三部経』)
このように、至誠心、深心、回向発願心の三つの心を発して念仏するのでなければ、浄土に生まれることはできないとあるのです。至誠心は、真実の心、深心は深く信じる心、回向発願心は、本当に極楽浄土に生まれたいと願う心です。いずれも、真実で純粋で清浄な心です。では、人間はこのような心を本当に起こすことは出来るのでしょうか。無明・煩悩にまみれた心において、そのような純粋な心を起こすことが出来るのでしょうか。ここに、浄土教の一つの大きな問題があることになります。
このことについて、親鸞は非常に悩み、考え抜いて、それらの三心はわれわれが起こすべきものなのではなく、仏の心でしかあり得ない、それがわれわれに差し向けられているのだ、という結論に至ります。その辺を物語るものとして、『教行信証』「証巻」の、次の言葉があります。
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもって信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦林に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもって無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一
切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもって無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもってのゆゑに。まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(二八)
また、三心共通の特質を、次のようにまとめています。
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもってのゆゑに。三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の
一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主、建めに「我一心」とのたまへり。(五〇)
こうして、如来のこの私を救おうとする純粋な一心が、この私に差し向けられていて、その心を頂くとき、それが信心ということになります。まさに如来より賜る信心であるわけです。ですから、この立場から、かの『無量寿経』巻下冒頭の、文に対しても、次のように説明しています。
しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを
一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光摂護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには、常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。(六五)
ここに、本願力回向の信心とあります。また、経の「信心歓喜し、ないし一念せん」についても、念仏のこととは言わず、本願力回向の信心に二心のないことを言っていると解しています。私の個人的な理解に過ぎませんが、ここに、真宗における発菩提心があると見ることができるかと思います。それはまさに、如来より賜りたる発菩提心ということです。
なお、親鸞は信成就した人は、弥勒便同とも、如来等同とも言っています。如来等同の説の一つの根拠は、『華厳経』「入法界品」最後の次の句です。親鸞の読み方で紹介しましょう。
『華厳経』にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑いなきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。(三四)
(以上、『浄土真宗聖典――註釈版』、浄土真宗本願寺派、昭和六三年から)
実は聖道門でも、法界等流の十二分教、つまり種種の聖教を聞いて(正聞熏習)、そこでこの道を行こうという心が生れるわけです。そういう意味では、他力浄土門以外の仏道においても、やはり他力であると見ることが出来ます。宗教に、自力はありえないのです。このことについて、西田幾多郎は、次のように言っています。
矛盾的自己同一的に、かく自己が自己の根源に徹す
ことが、宗教的入信である、廻心である。しかしてそれは対象論理的に考えられた対象的自己の立場からは不可能であって、絶対者そのものの自己限定として神の力と言わざるをえない。信仰は恩寵である。我々の自己の根源に、かかる神の呼声があるのである。
(『西田幾多郎全集』第一一巻、四二一~四二二頁)
われわれは、いずれにしても、自己を超えるものの促しによって発菩提心しうることでしょう。そうして発菩提心した者は、上述の親鸞のいう、現世に十種の益等を得ることであろうと思うのです。
(本稿は令和三年一一月六日に開催された第三一四回公開講座での講演内容にもとづき執筆されたものです。)