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仏教の開祖というと、どのようなイメージが浮かぶだろうか。教科書的な記述に従うならば、紀元前六、あるいは五世紀に北インドのシャーキヤ族のクシャトリア階層に生まれ、ガウタマ・シーッダールタあるいはゴータマ・シッダッタという。ブッダガヤーの菩提樹の下で悟りを開き、その後人々に教えを説き続け、八十歳で亡くなった、ということになるだろう。
その伝記は神話的な色彩に彩られているが、その神話的外貌を剥いでいけば、歴史的人物としての実像に近づけると考えられ、多くの研究者によってその実像を明らかにしようとする研究が進められた。そのもっとも輝かしい成果は、中村元『ゴータマ・ブッダ釈尊伝(法藏館、初版・一九五八)であったであろう。中村は、本書をもとにしながらその後さらに研究を深めるとともに、さまざまなヴァリエーションをもって「人間ブッダ」の生涯を説くと同時に、その教えが決して難解で高踏的なものでなく、日常生活に根差した平易なものだとして、「原始仏教」を私たちに身近なものにした。今日、専門的には多くの批判を受けながらも、「人間ブッダ」のイメージを決定的に作って、普及させた功績は大きい。
こうして「人間ブッダ」のイメージが定着する中で、手塚治虫『ブッダ』(一九七二―八三)のように、フィクションを織り交ぜながら、ブッダを悩みながらも積極的に生きて、人々を救う人間として、共感を呼ぶような描き方がなされたり、中村光『聖・おにいさん』(二〇〇八―)のように、パロディ化もされて、親しまれるようになっている。
このように、現代におけるブッダの姿は、現代人に理解しやすい姿を取るようになっている。それでは、もっと古い時代にはどうだったのだろうか。必要があって、しばらく前から日本近世の仏伝を少し調べているが、今日常識化している仏伝とはだいぶ異なり、興味深いものがある。近世の比較的早い時期の仏伝については、以前近松門左衛門の作品『釈迦誕生会』を中心に、いささか論じたことがある(拙稿「娯楽か信心か」、『現代思想』臨時増刊号、二〇一八年一〇月)。そこで、ここでは近世後期の十九世紀の仏伝を取り上げてみたい。この頃の仏伝はさまざまに変貌しながら、明治になってもかなり通用していた。それ故、近代的なブッダ観は意外にその定着が遅いのである。ここでは、そのあたりまで取り上げて、近世の仏伝がどのように近代的な仏伝に変わり、ブッダ観が変貌していくかという点まで、大雑把ではあるが考察してみたい。
最初に図1をご覧いただきたい。右のほうに髪を茶筅髷に結った殿様らしい男性が立っていて、その左に奥方らしき女性が膝を崩して坐っている。仲睦まじい様子である。その左に屏風の陰にもう一人の女性が聞き耳を立てて、いささか剣呑な様子である。芝居の一場面のようでもあるが、何の話だろうか。じつはこれは仏伝の一場面である。もっともブッダが生まれる前ではあるが。
[図1] 『釈迦八相倭文庫』(金松堂)巻頭口絵 (https://dl.ndl.go.jp/pid/2208565/1/10)
真ん中の四角い枠の中には、「善覚大臣の娘姉妹憍曇弥摩耶夫人浄飯大王に嫁す」とあって、それぞれの人物には、右の男性は「浄飯大王」、真ん中の女性は「摩耶夫人」、屏風の陰の女性は「憍曇弥」と記されている。憍曇弥(Gautamī)は、摩訶波闍波提(Mahā-prajāpatī)とも呼ばれ、ブッダの母摩耶夫人が出産七日後に亡くなった後、養母としてブッダを育て、後に出家して最初の比丘尼となったことでも知られる。
ところが、この絵では憍曇弥は盗み聞きをしていて、どうも悪役的な感じだ。実際、ここでの話は、妹の摩耶が浄飯王の寵愛を受け、憍曇弥は放っておかれたために、憍曇弥が嫉妬に駆られるという筋書きになっている。憍曇弥は二人の行者に摩耶を呪詛させる。そのために摩耶は出産後七日で亡くなり、さすがに憍曇弥も懺悔して、悉達(Siddhārtha)を育てることになるのである。
じつは、この図は万亭応賀著『釈迦八相倭文庫』(以下、『倭文庫』)という本からとったものである。これは、明治一八年(一八八五)に金松堂という出版社が出版した活字本で、国会図書館デジタルコレクションで容易に見ることができる。その嫉妬の様は、本文ではこう記されている。
アラ恨めしや、一個の君へ姉妹見ゆることは例し少なき事なれば、初めの仰せには、叡慮に適し方を留め、一人は御返し有との事、夫に違て二人共留め給ひ、妾を此様に一人寝耳さすとは、情なの御計らひかな。最早摩耶とは縁を切り、他人と成て詞も交さじと、恨み嘆つ。(同書、六頁。句読点は引用者)
いかにも、七五調のリズムが調子よく、歌舞伎調で、声を出して読みたくなる。この憍曇弥の嫉妬の話がいつできたのかはっきりは分からないが、近世の仏伝では常套的に見えるもので、すでに近世初期の仮名草子『釈迦八相物語』(寛文六年、一六六六)に見えており、近世仏伝の一つの特徴とも言える。
もう一枚、図2を見てみよう。ここでは、真ん中に遊び人風の優男が脇息に寄り掛かってくつろいで、左には、花魁のような女性が象に乗って長い巻紙の手紙を読んでいる。右側には良家の女房らしき女性といかにも歌舞伎の悪役風の男が鞘に入った刀を手に見得を切っている。ここには、「普賢菩薩仮に遊君と現じて悉達太子の夢中に見たまふ」と説明されている。中央の男が悉達、左が「ばしゆみつた女」(婆須密多)とある。右の方の女性は「やすたら女」(耶輸陀羅)と「提婆達多」とある。
[図2] 『釈迦八相倭文庫』(金松堂)巻頭口絵 (https://dl.ndl.go.jp/pid/2208565/1/11)
『倭文庫』によると、九歳の悉達は、遊郭に行けば生身の仏に会い、亡き母の供養ができると騙されて遊郭に通い、婆須密多に会ったという。一五歳で耶輸陀羅と結婚してから、悉達の夢に婆須密多が現れ、白象に乗って、自分は普賢菩薩の化身だとその正体を明かすことになっている(第九編)。これもいかにも荒唐無稽な話だが、婆須密多というのは、『華厳経』入法界品の二十五人目の善知識として現われ、遊女として人々を教え導くというのであるから、そこから採られていることは確かである。
じつは、この婆須密多の話には、もう一つの典拠が重なっている。それは、能の「江口」である。「江口」は、観阿弥作とされるが、世阿弥が改作したとされ、江口(大阪市東淀川区)の遊女を主人公としている。江口の遊女が西行に宿を貸すことを断ったという話を下敷きに、その遊女が後シテで普賢菩薩の正体を現わし、乗った舟が白象に転じて、仏法を説くという構成になっている。この話がヒントとなって、江戸時代の浮世絵には、象に乗った遊女がしばしば描かれるようになる。『倭文庫』の話もそれを下敷きにして、その絵もまさしく浮世絵で流行したポーズそのものである。
このように、『倭文庫』の仏伝は、もともとの仏伝からは大きく離れ、すっかり日本的な物語に変形している。その挿絵の登場人物が歌舞伎や浮世絵のような姿をしているのも、無理もないところである。それでは、この『倭文庫』という本は、どのようなものであろうか。「コトバンク」から『世界大百科事典』第二版の説明を引いておこう。
幕末の合巻。万亭応賀作。一陽斎豊国,二世歌川国貞、猩々狂斎画。一八四五―七一年(弘化二―明治四)刊。五八編。仮名草子の《釈迦八相物語》,近松門左衛門の《釈迦如来誕生会》などに拠って、釈迦の一代記を合巻化したもの。釈迦の誕生から一九歳のときの出家、一二年の修行を積んで正覚を得るまでが前半で、後半は釈迦が外道の迫害をしりぞけて、衆生を教化する過程を描く。釈迦と提婆達多をめぐる善悪の対立に筋の興味がおかれているが、摩耶夫人、耶輸陀羅女などの女性を活躍させて,彩りをそえている。
「合巻」というのは、江戸時代後期に流行した通俗読み物の形式で、一冊は比較的薄いが、それが何冊も連続して長大な話になっていく。『倭文庫』も、じつに三〇年近くかけて、延々と刊行されている。諸本によって巻数・編数も異なっている。金松堂版は全二冊で活字洋装版なので、もともとのものと少し異なっているが、六五編からなっている。それには、著者自身が巻頭に「新刊附言」を記している。
此同名の双紙倭文庫は、過にし天保の末年に其初編を発行せしより、逐次五十八編に至るまで、三十余年の星霜を経て、広く世上に頒布せしは、……明治五年十二月八日の回禄に元版悉く焼失してけり。……当今府下に有名なる書肆金松堂は、是を深く惜み愁ひて、今回巨額の金円を抛ちて、速かに全部発兌の業を成就し……(金松堂版『倭文庫』巻頭)
このように、もともと明治維新を挟んで完結したものであったが、それが明治一八年になってもまだ需要があり、元の木版の版木が焼失したために、今度は活字本として出版するほどだったのである。それどころか、作者没後の明治三五年にも博文館からも出ており、さらに昭和になってからも三教書院の「いてふ本」と通称される普及本が出されている。じつにロングセラーと言ってよい。私たちは、ともすれば江戸と明治、近世と近代とが断絶し、すっかり文化が変ってしまうかのように考えがちであるが、意外とそうではなく、江戸期のものがそのまま受容され続けていることが知られる。
作者の万亭応賀(一八一九―一八九〇)については、「コトバンク」の『日本大百科全書(ニッポニカ)』の説明(興津要執筆)を引いておこう。
江戸後期の戯作者。本名服部孝三郎(長三郎とも)。江戸の人。父服部長狭勾当は、彼に士分の株を買って常陸下妻藩に出仕させたが、まもなく辞して戯作界に入った。松亭金水、梅亭金鵞などの戯作者グループに加わり、合巻『釈迦八相倭文庫』(初編、一八四五)によって幕末戯作界に地位を得、『聖徳太子大和鏡』『高祖朝日衣』などの実録風合巻も刊行した。明治になり、反時勢的な風刺作品を書いたが注目されず、陋巷に窮死した。開化主義の仮名垣魯文と対照的な戯作者だった。
他にも作品があるが、本書が代表作で、後々まで読まれた唯一の作品である。
ところで、「合巻」は、通俗読み物として挿絵入りの絵本の体裁を取っている。先に挙げたように、本書も多くの図版が挿入されている。最初の頃の絵師は一陽斎豊国や二世歌川国貞であったが、金松堂版では猩々狂斎が筆を執っている。先に挙げた図も狂斎の絵で、巻頭の図版である。他の版と異なり、金松堂版では巻頭図版はカラーである。ただし、本文中にも多くの図版があるが、それらはモノクロである。猩々狂斎は、河鍋暁斎(一八三一―八九)のこと。暁斎は幕末維新期を代表する浮世絵師で、葛飾北斎(一七六〇―一八四九)と並んで高い評価を受けている。絵本の挿絵も多く手掛けている。
その北斎も仏伝の挿絵を描いている。それは、『釈迦御一代記図会』六巻(一八四五)である。この著者は山田意斎(一七八八―一八四六)で、別名好花堂野亭、山田案山子など。大阪の戯作者で、後年出家したが、「僧でなし茶人にあらず医者でなし意斎わからぬ坊主なりけり」と自ら言うように、多面的な才能を開花させた。『一代記図会』は、『倭文庫』に較べるとやや硬質で、漢文調が強い。
浄飯王は四台の宮妃の中にても、特に摩耶夫人の色香深く節操正しきを愛給ひ、青龍城への臨幸重かりければ、憍曇弥夫人深く嫉妬の念を生じ、あはれ隙有らば妹夫人を讒し退けばやと思はれけるぞ薄情かりける。
(『日本歴史図会』八、一九頁)
内容的にも、遊里の話がないなど、『倭文庫』に較べると、日本化の程度は弱い。また、釈迦の成道後の話が詳しいなど、説教臭が強い。それだけに、『倭文庫』が活字本としても繰り返し出版されたのに対して、活字本は『日本歴史図会』八(国民図書、一九二一)があるのみである。しかし、明治以後にも木版和装本が出されており、やはり需要はあったと思われる。本書中の北斎の挿絵は、北斎らしいデフォルメした絵で、強烈な印象を残す。図3は、憍曇弥の嫉妬が白い蛇となったところである。
[図3]『釈迦御一代記図絵』(『日本歴史図会』8、31頁) (https://dl.ndl.go.jp/pid/965873/1/24)
ところで、本書に関して注意されるのは、『釈迦御一代記図絵』というタイトルで(「図会」でなく「図絵」)、二巻本が明治二五年(一八九二)に京都の澤田文栄堂(澤田友五郎)から出版されていることである。著者は不二良洞であるが、良洞はこれ以前に、『親鸞聖人御一代記図絵』(一八八七)、『蓮如上人御一代記図絵』(一八八七)、『善光寺如来伝記図絵』(一八八七)などを出しており、『釈迦御一代記図絵』の翌年には、『聖徳太子御一代記図絵』(一八九三)を出している。それら以前に『説教纂集』(一八八〇―八一)なども出しているから、真宗系の説教関係の著述家であったと思われる。これらはいずれも国会図書館に所蔵され、デジタルコレクションで公開されている。
ところが、良洞の『釈迦御一代記図絵』を意斎の『図会』と較べると、非常に類似したところが多い。意斎の『図会』は、全五五章からなるのに対して、良洞の『図絵』は全四五章であるが、較べてみると、後者の章名はほとんど前者のものに一致していることが分かる。即ち、意斎の『図会』の縮略本と言ってよいようなものである。しかも、良洞本は冒頭の口絵をはじめ、多くの図版を意斎本の北斎の図をそのまま使っている。ただ、ほとんどすべての見開き頁に新たに挿絵を入れて、読みやすくしているところに特徴がある。これは、『親鸞聖人御一代記図絵』や『蓮如上人御一代記図絵』に倣うものである。
このように、いささか意想外であるが、幕末維新期は仏伝が盛んに出版された時期であり、それだけ人々に広く受容されたことが知られる。この時期は神道勢力が伸長し、仏教は押されがちであったとされるが、実際にはそれほど単純でなく、庶民の間では仏伝が読み物として広く流伝していたことが分かる。
先にも名が出てきた仮名垣(鈍亭)魯文(一八二九―一八九四)は、流行に敏く、維新後は『西洋道中膝栗毛』(一八七〇―七六)、『安愚楽鍋』(一八七一―七二)で新時代の風俗を描き、また新聞記者としても活躍したが、その魯文でさえも、幕末期に『釈迦御一代記』(一八五七―五九)を出している(国文学研究資料館などに所蔵)。その序文を見ると、意斎や応賀の著作が評判なので、書肆に頼まれて書いたという旨が記されている。それだけ出版社にとっても売れるテーマだったのであろう。
『倭文庫』はいかにも歌舞伎調で、挿絵も芝居がかっていた。実際、『倭文庫』を素材としながら、それをまた大きく改変した戯曲が歌舞伎で上演されている。それは、三代桜田治助(一八〇二―一八七七)による戯曲で、一名花䚋台大和文庫(一八五四年初演)である(桜田治助『演劇脚本』、一八九五)。この芝居は、明治になってからも、明治七、一〇、一三年に、東京・京都・大阪で上演されており(『日本芸能・演劇 総合上演年表データベース』による)、大正一二年にも明治座で檀特山の場が上演されているので、それなりに人気のあった作品である。
全体は四幕からなる。大序は「迦毘羅城内裏の場」。今宵の宴に紛れて、提婆の息のかかった者たちが暗躍する。提婆は、悉達太子の妻やすだら(耶偸陀羅)姫に横恋慕し、悉達を呪殺してやすだらを奪おうとしている。また、宝剣を盗み取ろうという企みも進められている。呪詛の人形を持ち込もうとした夜叉軍次が、見破られて打擲され、その妻吉祥は自害する。その混乱の裏で、悉達は仕丁車区(車匿?)に馬を引かせて、出家の志を遂げようとする。気付いて引き留めようとするやすだらを振り払って、悉達は山へと向かう。
二幕目は「檀特山車区別の場」。檀特山に入った悉達だが、阿羅々仙人に会いたくても、どこに行ったらよいか分からない。迷っているところに神童が現われ、これから先は凡夫が入ることはできないと告げ、悉達のことを「五逆十悪の罪人」であるから、懺悔するようにと教える。その教えに従って懺悔し、草衣を受け取って身に着け、山に入ることを許されるが、車区はそれがかなわず、別れを惜しみながら山を下る。
三幕目は「烏陀夷館の場」。やすだら姫とその子羅古羅太子は捕らわれの身に。忠臣と思われた烏陀夷も提婆の方に付いた様子。烏陀夷の息子はんどく(般特)は、知的障害があるが、提婆の家臣貫調来の鷹に追われた鳩を匿ったために、自らの肉を抉られる羽目に。こうして絶体絶命の状況に陥ったが、忠臣右梵士太郎の妻りんだう女は、身代わりに首を討たれてやすだら姫を救い、烏陀夷は提婆方に付いたかのような苦しい偽装の末に、盗まれた宝刀を取り返す。はんどくは、下男舎利平が切腹した血潮を呑んで本心に還る。こうして提婆方の悪計は妨げられる。
最後の大詰は、まず「淫肆廓和国楼の場」。いきなり日本風の遊郭が現われる。「浄飯大王様の御代になつてより、天竺風をさらりとやめて日本風に致せよとのお触れ」で、遊郭も純日本風に。悉達は、亡き母摩耶夫人の面影を追って、この遊郭に行く。次の「雲出国天女嫁入の場」では、こうして訪れたはしみつ大夫が普賢菩薩の姿を顕わす。
ところが、これは夢の中のこと。「檀特山半腹の場」で目覚めた悉達は、自らの修行の至らないことを歎く。その頃、やすだら姫は幼い羅古羅太子を車区舎人に背負わせて、一目でも夫に会いたいと、険しい山道を登る。提婆方の須賀多民が、やすだら姫を捉えようと追ってくる。続く「檀特山絶頂法嶺閣の場」では、悉達は阿羅々仙人の厳しい打擲に堪えてすべての穢れを払い、大願成就する。そこへ須賀多民が現われるが、阿羅々の呪文に操られる。
最後の「鯉宇砂川の場」では、やすだら姫を守る右梵士太郎たちと須賀多民一派が入り乱れる。羅古羅太子も名玉の威徳で力を得て、敵方を追い払う。そこに悉達と阿羅々が紫雲の中に仏体で現われる。
悉「善哉両人(やすだら姫と車区)、正無二如来師仏仙、其昔しの諸願満足して、諸ろ〳〵の迷ひの衆生皆仏道に引卒せん」
阿「我は大通智生仏、光照世界の契りを違へず、阿羅々仙人と現じ正覚成就なせし上は」
悉「是より婆羅那国へ師と共に乗雲なし、億万劫を守るべし」
こうして飛び去る二人を、やすだら達は伏し拝んで幕となる。
少し詳しくあらすじを記したが、仏伝を素材としながらも、もはやそれから離れた自由な創作と見るべき作品である。話はすっかり日本化していて、とりわけ遊郭の場が出家前ではなく、出家後に出てきて、どうなることかと思うと、夢だったというところは、歌舞伎の遊興性を巧みに織り込んでいる。全体の構成は、世俗世界のいかにも歌舞伎らしい勧善懲悪のお家騒動的な話を一方で展開しながら、もう一方でそのような世俗性を超越する檀特山の阿羅々と悉達の厳しい世界が対照的、同時並行的に描かれていく。そして、大詰に至ってその両者が一箇所に集約されていく。しかし、二つの世界は交わることはない。
このように、聖なる世界と俗なる世界を対比させながら、俗なる世界を日本に引き付ける一方で、聖なる世界は天竺、というよりも地上的な場所を超えたところに描かれる。娯楽性の強い演劇作品であるが、そこに宗教性が失われたわけではない。世俗世界は勧善懲悪の道理が貫き、やすだら姫の悉達への思慕が共感をもって描かれている。しかし、それと対立する聖なる世界は確固としてある。ただ、両者は交わらない。「淫欲菩提」と言いながらも、煩悩はあくまでも否定されなければ、聖なる世界に入ることはできない。この徹底した二元論に時代的な必然性があるのかどうか、何とも言えないが、興味深いところである。
ところで、仏伝を演劇の世界に持ち込んだのは、『倭文庫』が最初ではない。すでに近松門左衛門に『釈迦如来誕生会』(一七一三頃初演)という作品がある(前掲拙稿参照)。『倭文庫』に使われる基本的な構図やさまざまなエピソードは、ここにほとんど出ている。即ち、提婆方が悪役とされて、勧善懲悪の構造をなし、その中に、憍曇弥の嫉妬、耶輸陀羅姫の思慕、烏陀夷の息子はんどくの話なども出揃っている。
『倭文庫』が阿羅々仙人のところで終わっているのに対して、『誕生会』では、出山成道して以後の話も、須達長者の祇園精舎寄進のことを中心に描かれている。須逹は提婆に心を寄せる悪人側に近い人物とされている。そして、最後は拘尸那城(クシナガラ)での涅槃まで描かれている。そこに憍曇弥や耶輸陀羅も尼となって駆け付けて、別れを惜しむ。
このように、『誕生会』では、最終的に世俗の物語は超俗の世界に収め取られることで、大団円を迎え、仏伝が完結する形になっている。タイトルからして、もともと釈迦の誕生会である四月八日を祝賀する意味があったと思われる。そこでは信仰が前提とされ、そこに共感できる世俗的な物語を組み込むことで、娯楽としての役割を果たすものとなっていた。
ところが、『倭文庫』はその『誕生会』の構造と挿話を借りながら、その内容をさらにデフォルメし、日本化を強めている。それとともに、阿羅々仙人のところで話を留め、その後の仏伝へと話題が拡散して平板化することを避けている。タイトルに、「釈迦八相」と言いながら、八相の後半部分をカットしてしまっている。そうなると、娯楽性の面が強くなり、信仰性は薄くなる。仏陀の超絶的世界は世俗と交わることなく、最後の場面で、阿羅々と悉達が衆生救済へと飛び去った後も、羅古羅たちは須賀多民と立ち回りを続けて幕となる。このように、ここでは信仰の次元はほとんど問題にされず、世俗と切り離されている。ただ、漠然とした仏教や仏伝の知識は共有されていて、それをもとに自由な物語が生み出されているのである。
(一)仏伝の諸類型
以上、『倭文庫』の合巻本と歌舞伎版を中心に、近世末期の仏伝の一端を見てみた。そこでは、史実を離れた自由な展開が見られた。とりわけ日本化が顕著なこと、勧善懲悪的な構造で世俗的な物語が大胆に取り込まれていることなど、共通な性格が見られた。時代的には幕末期の社会不安が増す中で、この頃の仏教は平田派の神道に攻撃され、必ずしも思想的に新たなものを生み出しているとは言い難い。また、都会ではかつてのような堅固な信仰集団の力は弱くなっていたものと思われる。その中で、疱瘡神や鯰絵など、妖怪的な流行神がいわば都市伝説的に受け入れられる。そこで、仏伝は信仰対象としての役割よりも、物語の自由な展開を許す素材として使われることになった。しかし、仏伝に素材を取った作品が多く書かれ、受容されたということは、それだけその基礎知識が共有され、定着していたことを意味する。
それが、明治以後も変わらずに版を重ね、上演を重ねたということは、維新期の大きな社会変革や、神仏分離や廃仏毀釈の動向にもかかわらず、庶民の生活の中に根付いた仏教観やブッダ観はそれほど大きく変わっていないことを示している。強い信仰ではないが、生活の中で共有された深層的な宗教感覚は、それほど容易には変わらない堅固さを保持している。そのことは、木版から活字印刷へと、メディアの技術革新をも受け入れながら、なお持続している。その中で、物語の日本化は、単に親しみを増すというだけでなく、開国の状況下に民族としての自己アイデンティティを求める動きとも関連し、仏教を日本の中に溶かし込むという面もあったであろう。
ここで、こうした幕末維新期の仏伝の展開を、もう少し大きな視点から、日本における仏伝の流れの中に位置付けてみよう。日本の仏伝の展開を、広く資料を渉猟して、類型化したのは、マイカ・アワーバックの著書『語られた聖者』(Micah Auerback, A Storied Sage: Canon and Creation in the Making of a Japanese Buddha. The University of Chicago Press, 2016)である。本書については、前掲拙稿で紹介したので、ここでは簡単にだけ触れておく。アワーバックは、日本の仏伝を以下の五種類に分類している。
[一]教師としてのブッダ(The Buddha as Preceptor)
[二]地域の英雄としてのブッダ(The Buddha as Local Hero)
[三]模範としてのブッダ(The Buddha as Exemplar)
[四]詐欺師としてのブッダ(The Buddha as Fraud)
[五]人格としてのブッダ(The Buddha as Character)
一は、古代・中世の仏伝で、漢文資料に基づいて、教育的な意図で書かれている。二は、日本化した仏伝で、近世のものがここに入る。本稿でここまでに取り上げたものも、この範疇に入る。三は、近世であるが、正しい実践の模範としてブッダの生涯を観ようというものである。後に触れる皓月尼の『三世乃光』などが代表的である。四は、平田篤胤の『出定笑語』や『印度蔵志』などで、批判的な目で仏伝を見ようとするものであり、近代の批判研究に先立つものである。五は、「人間」ブッダという視点から見る近代の研究である。
このように、アワーバックの立てる類型は、分類と同時に、時代的な変遷も加味されている。広範囲の資料を取り上げているので、それを基礎として数多い仏伝を位置づけることができる。ここでは、氏の分類を前提としながら、いくらか補足する意味で、具体的な文献を少し見ておきたい。
(二)「釈迦八相」の源流——栄西『釈迦八相』——
まず、幕末に流布した『倭文庫』の具名が『釈迦八相倭文庫』と、「釈迦八相」ということを謳っていることに注意したい。辞書的に言えば、「八相」は言うまでもなく「八相成道」であり、釈迦仏がその一生の間に示す八つの段階である。
[一]降兜率―釈迦仏が兜率天からこの娑婆世界に降りてくる。
[二]託胎―摩耶夫人の胎内に入る。
[三]出胎―胎内を出て、この世界に誕生する。
[四]出家―世俗の王家を捨てて、修行者となる。
[五]降魔―成道を妨げようとする魔を降伏させる。
[六]成道―仏陀伽耶(ブッダガヤ)の尼連禅河のほとりの菩提樹下で悟りを開く。
[七]転法輪―最初に鹿野苑で五比丘に説法してから、入滅まで説法を続ける。
[八]入涅槃―拘尸那掲羅(クシナガラ)の沙羅双樹の下で涅槃に入る。
八相にはこれ以外を挙げるものもあり、例えば『大乗起信論』では、下天、入胎、住胎、出胎、出家、成道、転法輪、入涅槃と、降魔が入らず、代わりに住胎が入っている。一般に用いられるのは、上記のもので天台智顗に由来する(『四教義』など)。この八相成道に基づく仏伝の形は、近世初期には仮名草子の『釈迦八相物語』など、その後の仏伝の基礎をなすような物語が作られている。幕末の仏伝の多くの素材はすでにそこに出てきている。
八相に基づく仏伝の形態はすでに中世に見られるが、ここでは栄西作とされる『釈迦八相』に触れておきたい。本書の最古の写本は西本願寺所蔵本で、建武四年(一三三七)の奥書があるもので、『中世禅籍叢刊』一・栄西集(臨川書店、二〇一三)にその影印・翻刻・解題(末木担当)を収めた。本書は「栄西語」とあり、「建久二年〈辛卯〉十二月日」とその成立時期が明示されている。一一九一年に当たる。ただし、従来その栄西撰は疑われている。そこで、その解題に基づいて、本書の位置づけを考えてみたい。
偽撰とされる理由はさまざまある。例えば、本書は片仮名文で書かれているが、栄西の著作はほとんどが漢文で書かれていること、古い目録類に記載がないことなどが挙げられる。また、栄西はこの年七月に二度目の入宋から帰国したばかりの最初の著作としては、一見入宋の成果が見られないようである。
このように問題点は多いが、逆に栄西の著作と認められる可能性がないわけではない。序の最後のところには、「壬申ノ年二月十五日ニ涅槃シ給ヒテノチ、建久二年〈辛亥〉ノトシマテ二千一百四十年ニナリヌ」とあるが、永承七年(一〇五二)に末法に入ったという当時の常識からすれば、計算があっている。偽撰とするならば、何故この年を選んだのか、また、なぜ仏滅後の年数まで正確に計算するという手の込んだことまでする必然性があったのか、分かりにくい。栄西の著作かどうかはともかく、この年の著述ということは十分に考えられる。
内容を見ると、序に次のように言われている。
ソモソモ仏ニハムマレ死相ハオハシマサネド、ワレラガツタナキヲリヤクセムトテ、八相ヲシメス。サレバマコトニハ仏ツネニオハシマストシレ。モロ人、タヾシ、クチアソヒニ八相ノアリサマヲカタラム。コレヲハシメノエムトシテ、ツイニハ常住ヲサトレ。
(1ウ)(濁点を付けるなど、読みやすくした)
本来の仏身は常住であり、生死ということはないが、愚昧な人々を救済するために八相の姿を顕わしたというのである。このことは本文の最後の方でさらに詳しく述べられ、結局、八相成道というのは小乗の立場で説かれる方便的なものだとしている。このような見方は、天台の立場からすれば、正統的ということができる。その前提の上で八相の物語を展開している。
栄西と言うと、二回目の入宋で禅を伝え、『興禅護国論』によって禅宗を打ち立てた、というのがこれまでの一般的な評価であった。しかし、じつは帰国後も禅だけを説いたわけではなく、むしろ総合仏教の立場に立ち、その中に禅を位置づけようとしている(拙著『禅の中世』、臨川書店、二〇二二参照)。そのように見れば、帰国後に八相成道を説いたとしてもおかしくない。当時の宋でも釈迦信仰や舎利信仰は盛んであった。日本でもこの後、鎌倉期には釈迦信仰や舎利信仰が盛んになる。そのような背景が考えられる。ただし、本書が本当に栄西の著と認定し得るか否かは、さらに他の中世の仏伝と比較して、その位置づけを検討しなければ断定はできない。今後の課題である。
いずれにしても、本書のような形で「八相」という枠を作って、その中で仏伝を語るというのが、仏伝の展開の大きなパターンとなっていったと考えられる。
再び近世後期に戻ることにしよう。先には、日本化や娯楽化が進んで、もともとの仏伝から外れていく動向を中心に見てきた。それに対して、そのような動向を批判して、仏教の立場に立ち返り本来の釈迦仏の姿を明らかにしようという動向も仏教界で生まれた。アワーバックの分類では、第四の「模範としてのブッダ」に当たる。それは近世の仏教改革運動と深く関わっている。その典型として、アワーバックも大きく取り上げている皓月尼(一七五五―一八三二)の『三世乃光』(一八三〇序)を見ておきたい。皓月は慈雲飲光(一七一八―一八〇四)の弟子であり、『三世乃光』も慈雲の正法復興運動の中で構想され、執筆されたものである。
そこで、慈雲の位置づけを含めて、近世の仏教改革運動の流れを簡単に見ておきたい。かつて「近世仏教堕落論」が常識となっていたが、今日ではそれは否定され、近世仏教の豊かな内容が知られるようになってきた(拙著『近世の仏教』、吉川弘文館、二〇一〇参照)。本稿で取り上げている仏伝の展開もまた、そのような近世仏教の興味深いジャンルと見ることができる。ただし、先に見たように幕末の仏伝は、その宗教性から逸脱していく方向に展開していった。
確かにそのような脱宗教化による通俗化を一つの方向として認めることができるが、それではそれがすべてかと言うと、そうは言えない。それとは逆に、近世仏教は常に仏教のおおもとに立ち返ろうという仏教者たちの活動に満ちていた。それは主に二つの方向をとった。一つは戒律復興であり、もう一つは文献学による仏典解釈学である。戒律復興は、天台宗における安楽律に代表されるように、大乗戒から具足戒に戻ろうとする方向が中心であった。それは生活規律の厳格化ということに留まらない。大乗戒が日本独自であったのに対して、原始仏教以来の普遍的基準に立ち戻るということをも意味していた。このことは、文献解釈学と連動する。大乗仏教への疑義は富永仲基だけではなかった。仏教界においても、普寂(一七〇七―八一)のように、戒律復興と同時に、文献批判を通して、従来小乗として捨てられてきた初期仏教の再評価に着手した僧もいた。このように仏教の原点復帰の動きが強くなっていたが、それはある意味では、近代の仏教研究につながるものである。
慈雲もまた、このような流れを受けて、インドのもともとの仏教に立ち戻ろうとした。慈雲も戒律復興と文献学の二つの道を通して、釈迦の正しい仏法を探求したが、その文献学は、インドの原典を知るために、梵語(サンスクリット語)の研究という新しい方向へ進ませることになった。その成果は『梵学津梁』全百巻として遺された。慈雲はまた、女性の弟子を積極的に育成しており、その中から皓月のように、本格的な著作を執筆する女性仏教者が現れたことは、きわめて注目される。
皓月は、諱は宗顗。御所御取次・荘林壱岐守維樹の女。俗名は信子。桃園帝第二皇子貞行親王に事えたが、安永元年(一七七二)親王が一三歳で薨去したことに無常を感じて、同四年(一七七五)、西京の阿弥陀寺で慈雲に従って出家した。後に、長福寺(京都市右京区、真言宗泉涌寺派)を尼僧房として再興した(木南卓一校訂『三世の光』、私家版、一九八〇、解説)。
『三世乃光』全八巻は、「文化十とせあまり」(一八一三頃)の自序があるが、乙雲律師の序は文政一三年(一八三〇)、実際の出版は皓月没後と考えられている。本書もまた、明治になって洋装活字版が刊行されていて(一九〇三)、近代になっても需要があったことが知られる。今日では、上記の木南卓一校訂本が普及している。
自序は、本書執筆の動機を明瞭に示している。
葉山義文沙弥尼、今世にもてあつかふ釈迦八相記といふふみを見て、かゝるふみを見る人の、まことゝおもはんことをかなしみ、三蔵の説によりて八相の縁をかき残さんの志をおこされしに、いのちみじかくてその願を果たされざりしも、今は五十年ばかりの昔になん。(『三世乃光』、木南校訂本、巻頭)
若い頃からその願をつごうという志はありながら、果たすことができなかったので、六十余歳になって、「かたじけなくも釈氏のはじめ、世尊八相成道のみあとをかきあつめんとす」と、その動機が記されている。葉山尼は安永二年(一七七三)に三五歳で没している(木南、解題、三六四頁)。まだ幕末の『倭文庫』などは出ていない頃なので、ここに記された『釈迦八相記』とあるのは、仮名草子の『釈迦八相物語』などであろう。それでも日本化して、原典から逸脱していく仏伝への疑問から、「三蔵の説」に基づいた仏伝を書いて、釈迦の生涯を明らかにしようというのが、葉山から皓月へと受け継がれた大きな志であった。このような仏伝への関心もまた、インド仏教の本来のあり方へと立ち返ろうという慈雲の大きな企図の中から生まれている。
確かに『三世乃光』には憍曇弥の嫉妬の話などは入れられていないが、全体としては必ずしも伝説的要素を排除しているわけではない。しかし、その根底に強い求道の志をもって記しているところに、信仰から娯楽へと向かう当時の仏伝の流れと逆に、求道的な方向性が強く表れている。そして、仏伝の中に今日に通ずる教訓を読み取ろうとしている。
例えば、釈迦族の滅亡が前世からの因縁によるものだとしても、その直接の原因は、釈迦族の人たちが波斯匿王の太子流離を「卑生の児」と卑しめたところにあるとして、「悪口」(粗雑な言葉)を誡めている。そして、「煩悩即菩提などきけば、何とやらん煩悩もさのみ恐るべきこともなきやうに、あさはかなる人はおもひやすらん」(木南校訂本、二七三頁)として、「つとめて精進して善根功徳をつみ、正智慧をもとむべきなり」(同)と勧めている。
そして、「法然上人・日蓮上人など」の教えは「乱世」のものであるから、今の平穏な「めでたき御代のためし」となるものではないとする。
今世間の十善の御代となり、和合僧儀もおこなはれ、三宝世にあらはれ玉ふときにあひたるかひには、信あるは在家も出家もともに、世尊在世のふりに立かへり、僧戒によりて身口意をまもり、さて仏名経名をもとなへ、坐禅修法をもつとめんことこそあらまほしけれ。(同、二七四頁)
仏伝は、こうした実践的な志向と結びついて捉えられている。このように、『三世乃光』は、「世尊在世のふりにたちかへり」、仏道の実践に励むモデルとしての仏伝を目指している。このように、近世後期の仏伝は、一方で日本化、娯楽化を進めるとともに、他方では真剣な仏道修行のあり方を仏教の原点に立ち戻ろうという意図から、ブッダの伝記を見直そうという動向も生み出した。どちらも幕末で終結するわけではなく、明治以後も版を重ねた。明治初期の人々の精神構造は必ずしも幕末と大きく変わったわけではなく、その継承の中にあったことが知られる。『三世乃光』の明治の木版新版には、戒律復興者として知られる福田行誡の序文が加えられていて(木南校訂本、三五一―三五二頁)、近世から近代へと仏教をつなぐ役割を果たしたとも言える。本書は、次に述べる近代的な仏伝の最初とも言える井上哲次郎の『釈迦牟尼伝』にも名が挙げられており、近代になっても高い評価を受けていたことが知られる。
図1~3は、国立国会図書館所蔵本により、デジタルライブラリーの公開画像を用いた。
(本稿は令和四年二月一二日に開催された第三一五回公開講座での講演内容にもとづき書き下ろされたものです。)