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かつて、東京帝国大学仏教青年会館というものが存在した。「存在した」と過去形を用いたのは、昭和二十(一九四五)年三月十日の東京大空襲で焼失してしまったからである。当時の雑誌記事や回想録の類によれば、どうも木造モルタル塗三階建で、外壁は白かったらしい。しかし、今までに外観の写真は一枚も見つかっておらず、現物の会館を見たことがある人も今となってはごくわずかだろう。当然ながら筆者も、その姿を見たことはないし、見たことがあるという人に会ったこともない。
東京帝国大学仏教青年会館は、いまとなっては人々の記憶からも消え去ってしまった、まさに幻の建築物だと言ってよいだろう。しかし、かつてそれが存在していたころには、少なからず耳目を集める存在であったらしい。そもそもその会館は、六〇〇人以上を収容できる大講堂を一階に備えた、かなり大型の建築物であった。その敷地面積が、現在の東大仏青会館が入居している本郷三丁目駅前の三菱UFJニコスビルより若干小さい程度であったと聞けば、その規模を想像できるだろうか。この東京帝国大学仏教青年会館では、帝大仏青の様々な事業や、各種団体のイベントがたびたび開催されていた。その様子は、朝日新聞や読売新聞といった全国紙にもしばしば取り上げられている。
このエッセイでは、かつて存在した帝大仏青会館(当時の新聞記事の表現をかりて、これからはこう呼ぶことにする)に注目して、そこにまつわる興味深い事件やイベントを紹介したい。それは、東京帝国大学仏教青年会という団体の内輪話の枠を大きく超えて、そのイベントから日本の近代の隠れた側面へとつながってゆくだろう。帝大仏青会館は、仏教関係以外のイベントにも使用され、女性運動や様々な政治集会の舞台となった。そしてそれら様々なイベントの背後には、東京帝国大学仏教青年会の人脈が見え隠れする。つまり、帝大仏青会館という地点に立つことで、日本近代の歴史の流れにおける、かくれた因果の結び目をかいま見ることができるのである。
そもそも東京帝国大学仏教青年会は、大正八(一九一九)年三月十六日に開かれた創立総会に始まる(『財団法人東京大学仏教青年会創立九十周年記念誌』)。その中心になったのは、小野清一郎、白井成允、木村泰賢といった東大の若手教員たちであった。たとえば小野清一郎は、当時二十八歳の法学部助教授であった。
彼らは当初から会館設立の願いを持っていたようで、会館も早々に設立された。しかし、そののち五年間ほどは所在地を点々としていったらしい。初代仏青主事だった大塚道光の回想によると(『仏教文化』旧五十四号収録)、大正九(一九二〇)年二月に上野寛永寺福寿院に間借りして寄宿舎を開始するが、諸事情あって「本郷五丁目の某寺」さらに「神田神保町の某家」へと移転した。その後、大正十(一九二一)年春には「本郷駒込林町の一民家」を借り切って入居できたものの、大正十一(一九二二)年には土田誠一(当時・東大文学部倫理学助教授、土田国保元警視総監の父)の尽力によって雑司が谷へと移った.そうするなか大正十二(一九二三)年九月に関東大震災を罹災した。中村元は後年、東大仏青会館は太平洋戦争以前に火災で焼失した、という話を聞いたことがあると語っている(『九十周年記念誌』)。かりに焼失したという話が真実であるなら、それは関東大震災以前の五箇所のどれかを指しているはずである。
このように会館が移転を繰り返していた大正十(一九二一)年三月、自前の会館を建設することが東大仏青理事会で決議されていた。その後の募金活動をへて、関東大震災後の大正十三(一九二四)年十一月に、このエッセイの主役、帝大仏青会館が落成した。当時の番地名は本郷三丁目五番地である。
どのような経緯で帝大仏青会館が建築されたのかは、資料不足でよくわかっていない。しかしこのことを考えるヒントが、東大仏青創立者たちの当時の状況からえられる。というのも会館建築が決定した当時、白井成允は地方の学校に赴任して東京を去っており、小野清一郎と木村泰賢は欧州留学中であった。では、このように東京を離れていた創立者たちが遠方から会館建築を決定したのかというと、そうではないらしい。小野は、当時を次のように回想している。
「木村と私と、ともにヨーロッパに留学中、それはたしか大正九年秋のことであったが、オックスフォードで落ちあったとき、木村は、高楠・村上両先生が東大仏教青年会のために会館の建築を企てられているという記事のある朝日新聞を私に示して、「これは困ったことになった」といって、いかにも心配そうな顔をしたことがある。私はその時むしろ呑気で、「困ることはないではないか」といったのであったが、後に私はこの会館のために同志とともにどんなに苦しんだことか。そのとき、さすがに木村は世の辛酸をなめた苦労人であったとおもい知らされたことである。」(小野清一郎「仏教における業観と意志の自由」『刑法と法哲学』有斐閣、昭和四十六年所収)
このエピソードが物語るのは、東大仏青創立者である小野と木村の二人が意図しないタイミングで、日本で活動していた理事会主導で建築運動が開始したということである。ちなみにここで木村が予感し、のちに小野がその身で経験することになる苦しみとは,資金難であった。このことについては後述する。では、誰がどのような意図で、帝大仏青会館建築に動きだしたのか。その中心人物の一人が、小野の回想に名前が挙がった高楠順次郎であることは疑いないだろう。
高楠順次郎は、東京大学梵文学教授として日本に西洋流のインド学を伝えた碩学、あるいは一大漢訳仏典全書『大正新脩大蔵経』の編纂発起人として、仏教学の世界では知らないもののない人物である。しかし彼は学術上の業績だけにとどまらず、日本の近代仏教の権化とでもいうべき人物だった。筆者は、「ミスター近代仏教」と呼んでいる。慶応二年五月十七日(一八六六年六月二十九日)生まれ、昭和二十(一九四五)年六月二十八日逝去、さらにその四十九日忌が八月十五日であったという一生涯も、彼が近代仏教の権化たるにふさわしい印象を強くするだろう。
大正期後半のころ、高楠は学者としてまさに脂ののった五十代、『大正新脩大蔵経』・『ウパニシャット全書』といった全集出版、ルンビニ合唱団・女子仏教青年会・武蔵野女子学院等の設立といった事業に邁進していた。もちろんこれらの事業はそれぞれのために立ち上げられた独自組織によって担われていたのだが、それらの組織の構成員を見ると、高楠順次郎を中心とした人脈の中で行われていたことがわかる。
この人脈を伺わせるのは、高楠の妻、霜子夫人の三周忌記事だろう。昭和十六(一九四一)年六月十五日に開かれたこの会で、女子仏教青年会は左記の物故した関係者を追悼したという(『アカツキ』十七終刊号、二十三頁)。
「高楠霜子夫人、潮留延子女史、九条武子夫人、桐谷天香女史、木村てる子夫人、伊達静江姉、佐藤こずゑ姉、岡本かの子夫人、木村泰賢先生、島地大等先生、大谷尊由先生、柳沢政太郎先生、渡辺海旭先生、藤岡勝二先生、岡本良平先生、桜井義肇先生、桐容洗鱗先生、石原宗三郎先生、宝閣善教先生、矢吹慶輝先生、小野玄妙先生」
この中で、例えば木村泰賢が東大仏青創立者、藤岡勝二が二代目理事長であるように、女子仏教青年会関係者と言われている彼らの多くは、高楠の他の事業でも活躍した人物である。
そして、このような人々が高楠の事業を行った場所を見てゆくと、関口台町の高楠自邸など、いくつかの場所に集中している。そして、その一つが帝大仏青会館であった。たとえば桜井義肇は、高楠が仏教青年団体の反省会(中央公論社の源流)を組織したとき以来の盟友だった。彼を編集者として大正十四(一九二五)年に雑誌Young Eastが創刊されると、その編集部は帝大仏青会館におかれることになった。
さらに、潮留延子(先のリストで二番目)と東大仏青の関係は、特に重要だろう。潮留は大正期の東大仏青幹事の一人であるだけでなく(『読売新聞』朝刊大正十四(一九二五)年一月二十六日第七面記事)、大正十三(一九二四)年四月十二日に開かれた女子仏教青年会(仏教女子青年会)の発会式では趣意書朗読を務めるほどの中心人物だった(『アカツキ』一(一)、大正十三(一九二四)年、四十二頁)。彼女を中心とした女子仏教青年会は、帝大仏青会館を活動の場の一つとして、日曜学校、信仰座談会といった活動を行っていた。
じつは、高楠が複数の事業を一つの場所で行ったのは、帝大仏青会館に始まらない。明治三十四(一九〇一)年、東京帝国大学にマックス・ミュラー文庫を購入したとき、高楠が原案を提出して帝国東洋学会が創立された。この学会は大蔵経研究を目的とし、南条文雄、前田慧雲、島田蕃根といった仏教全書編纂に携わった人々を巻き込んで行われている点で、高楠の大正新脩大蔵経編纂につながる事業と目されるものである。そして、帝国東洋学会の所在地は本郷四丁目五番地であった(『帝国東洋学会会報』)。この番地は、当時、桜井義肇を編集主任とする中央公論社の所在地であった(『中央公論新社百二十年史』)。この帝国東洋学会と中央公論社の同居は、帝大仏青会館(本郷三丁目五番地)とは丁目違いながらも、ここに高楠が事業所を設置するときの行動パターンをうかがうことができるだろう。
高楠順次郎の行動パターンや、実際に彼の事業がしばしば帝大仏青会館を舞台としていたということは、彼が帝大仏青会館建設に動き出した意図を伺わせるだろう。つまり、東大近郊に活動拠点の一つを設立しようという考えがあったのではないか。もしそうならば、東大仏青が現在に至るまで本郷三丁目駅前に位置し、その立地ゆえに戦災や戦後の混乱、東大闘争といった様々な事件といった事件に関わってきたことも、高楠順次郎の意思が敷いたレールの上にあった、と言えるかもしれない。
では、こうして建築された帝大仏青会館はどのような建物だったのだろうか。木造三階モルタル塗であったことはすでに紹介したとおりだが、中村元の証言によれば「三階はアティック」(『九十周年記念誌』)、つまり屋根裏部屋だったという。関東大震災後に建築されたいわゆる「看板建築」では、アティックをつけた三階建が流行したというから、東大仏青もそれに習ったのかもしれない。さらに中村は、帝大仏青会館の内部構造について貴重な証言を残している。
「この土地に入りますと、小さなロビーがあったと思うのですが、その裏が講堂になっておりまして、二階へあがりますと、やはり会議室がありました。小さい講堂もありまして、そこでも講演会が開かれました。その他に個室がいくつもありまして、学生が寄宿することができるようになっておりました。」(同)
この中村の証言が正しいことは、東大仏青の機関誌『仏教文化』の記事によって裏づけられる。というのも、帝大仏青会館は貸会議室業を資金源の一つにしていたらしく、『仏教文化』にはその広告が掲載されているからである。昭和十四(一九三九)年当時の広告(旧四十五号掲載)によれば、帝大仏青会館の部屋ごとの賃料は、次のようだった。
大講堂(六百人収容):八~十二時三十円、十二~十七時四十円、十八~二十二時五十円
会議室(百五十人収容):右記の一区分ごとに八円
図書室(三十五人収容):右記の一区分ごとに三円
この貸会議室業が、どのような利用規約のもとで、どのように希望者を募って営まれていたのかは、よくわからない。空襲によって旧会館が焼失したため、戦前の記録はごく一部以外残っていないからである。ただし、『朝日新聞』や『読売新聞』という全国紙や、ほかの仏教系雑誌などで広告が見つかっていないことから察するに、口コミや関係者のツテを中心に希望者を募っていた可能性が高いように思う。もしそうであるなら、帝大仏青会館をハブとして仏教青年のツテが作り出したネットワークは、近代日本の歴史における影の文脈となっていた、ということだろう。というのも、あとに述べるように、帝大仏青会館を使用して行われた会合には、単に仏教の内部にとどまらない、近代日本の歩みの一歩となるような事件につながったものがあるからである。
ちなみに、積極的に広告を打っていなかったためかどうかは定かではないが、帝大仏青会館の貸会議室業は順調ではなかったようである。たとえば『仏教文化』旧十四号には、「本会の唯一の収入と目されて来た会館の使用は現在甚だ振るはない。七百余人を収容し得る講堂は十二月中に只二回使用せられたばかりである」というように苦境が語られている。そして貸会議室業の不振は、東大仏青の経営にも影響を及ぼしたようである。たとえば『読売新聞』(朝刊昭和六(一九三一)年十二月二十四日四面)によると、「本郷区三丁目の帝大仏教青年会は電話料が払えず廿二日突然電話機を外づして持っていかれてしまった。ことほど左様に経済的に困っている」という。
いちおう東大仏青を弁護しておくと、たとえば昭和四年度決算報告(『仏教文化』旧九号)によれば、電話代二百十七円十五銭と諸経費の中でもかなり高額である。また当時の日本経済は、第一次大戦後の不景気に世界恐慌が続き、決して芳しいものではなかった。貸会議室業の不振による経済的困難を、東大仏青運営側の営業努力の不足にだけ帰するのは、酷というものだろう。
ここからは、データベース「朝日新聞クロスサーチ」を利用して、帝大仏青会館でどのようなイベントや事件が起ったか、そこに仏教青年がどのように関わっているかを見てゆこう。
まず大正末年には、女性参政権運動、男女共学運動に関する記事が目につく。
「鉄箒/婦人参政と弥次」(『朝日新聞』東京朝刊大正十三(一九二四)年十一月二十八日三面)
「女学生代表 文部省へ膝詰」(『朝日新聞』東京夕刊大正十三(一九二四)年十二月五日一面)
「回顧やら新作戦やら きのふ参政婦人の大会」(『朝日新聞』東京朝刊大正十四(一九二五)年四月二十日二面)
これらの記事は、いずれも女性運動関係の集会が帝大仏青会館で行われたことを報じるものである。もちろん、当時の運動の盛り上がりがここに反映されているとみることもできるのだが、東大仏青側としては、先に述べた潮留延子の活動と、高楠順次郎による武蔵野女子学院設立が背景にあるのだろう。
「ややもすれば世間から婦人参政期成同盟はキリスト教の婦人連が集まった政治運動団体のように見られて居るが,中に之は亦珍しくも仏教徒の一人がある.それは本郷菊坂の潮留延子(三十)さんである.延子さんは本郷三丁目帝大仏教青年会の幹事で熱心に活動している婦人だが,生まれが僧家でヂっと仏教の殻を守り保守的な立場に居れない覇気の持主である.」(『読売新聞』朝刊大正十四(一九二五)年一月二十六日七面)
まず、この記事が示すように潮留延子は、東大仏青と女子仏青だけではなく、女性参政権運動にも関わっていた。彼女の名前が『日本女性運動資料集成』(不二出版、一九九三~九八)にも見えることが、それを裏付けている。しかしながら潮留は、先に示した追悼記事に名前が見えることが暗示するように、夭逝し、ほとんど忘れられてしまった。彼女が道半ばながらに遺した業績は、仏青史研究の課題の一つとして、発掘されるべきだろう。
そして、潮留延子の活動も包摂しつつ、高楠順次郎の武蔵野女学院創立は進んでいたと思われる。高楠は当初から女子大学創立を目標としていたものの、当時の法制度上、それは認められないという解釈が主流であった。そこで高楠は、女子大学設置に向けた運動を繰り返していたものの、結果としてそれが認められるのは戦後となった。この高楠の運動についてはここでは立ち入らないが、『武蔵野女学院五十年史』に詳しいので興味のある方はそちらを参照してほしい。
女性運動に限らず、様々な政治的集会のために帝大仏青会館は貸し出されていたらしい。「朝日新聞クロスサーチ」中には、会館が建築された大正末年から昭和十(一九三五)年ごろまでのあいだに、帝大仏青会館で行われた集会の記事が散見される。ただ、そこに報じられた集会の多くは激化し、逮捕者を出すようなものであった。逆に言えば、集会が逮捕者を出したような場合に、新聞報道されていたということであろうが。
そのように激しい集会が行われていた中でも、帝大仏青会館側の大胆さに驚くような事例がある。
「演説中途で解散」(『朝日新聞』東京朝刊大正十五(一九二六)年三月三十日七面)
この記事によると、帝大仏青会館で同月二十九日午後六時四十分から黒色連盟主催「朝鮮問題講演会」が開催された。集まった聴衆は四〇〇名、これに対して本富士署からは署長以下百二十名が総出で警戒にあたった.弁士は近藤憲二・岩佐作太郎のほか日本人九名と日大生陸洪均ほか十二名だった。六人目の弁士近藤憲二が登壇中の午後八時五分、警察によって講演会は解散を命じられ、弁士一同は署に連行されたという。
聴衆四〇〇人に対して警官百二十人というのは、過剰反応であるように思われるかもしれない。実はこの講演会には、前日譚がある。講演会の主催者である黒色連盟は無政府主義団体であり、同年一月三十一日に結成、それから翌朝にかけて銀座で暴動を起こし、二十軒以上の商店のガラスを割るなどしていた(「無政府主義者の一団銀座街で大暴行」同紙東京朝刊大正十五年二月一日七面)。その二ヶ月後の講演会ということで、警戒も厳重だったのである。
東大仏青がなぜ、暴動を起こして警察に目をつけられている組織に部屋貸ししたのか、その理由はまだわかっていない。上で述べたように仏青の資金繰りは芳しくなかったので、ひとえに収入目当てで申込みを受け入れたのかもしれないが、それにしても大胆であるように思う。
あるいは東大仏青会員で黒色連盟に関わっている人物がおり、その紹介で部屋が貸し出された可能性もあるだろう。暴動を起こした無政府主義者と仏教青年と聞くと、縁遠いように感じられるかもしれない。それはたしかにそうなのだが、東大仏青会員は、仏教と青年という二点でつながっているほかは、かなり思想的に多様な集団だったらしい。小野清一郎は、最初期の仏青会員について次のように回想している。
「少なくとも、初期の東大仏青の集りでは、よく思想批判的な議論が闘わされたものである。会員の中には、例えば、三井甲之氏などの流れを汲む国家主義的傾向の強い人もあり、それとは全く反対に社会主義的傾向の人も少なくなかったが(服部之総,三枝博音氏なども初期の会員であった)、大勢はやはり自由主義的であり、近代科学、近代思想と協調しつつ、しかも単なる近代化、単なる市民的自由主義化に満足せず、仏教思想の伝統のなかに、より根本的な思想の根拠を求めようとして苦悶していた、というのが事実である。」(小野清一郎「東大仏青の回顧と展望」『仏教文化』復刊第一号)
小野の言によれば、基本的に東大仏青会員はリベラルでありつつも、右から左まで一通りの主張が揃っていたということのようである。そして帝大仏青会館での集会のうち、ここで特に名前があがった「三井甲之氏などの流れを汲む国家主義的傾向の強い人」や「服部之総,三枝博音」と関係していることが明らかなものも、少なくはない。その代表例は、唯物論研究会事件である。
「唯物論研究会解散さる 昨夜本郷で」(『朝日新聞』東京朝刊昭和八(一九三三)年四月十一日十一面)
この記事によると十日夜六時二十分から法大教授「萬崎潤」の司会のもと、唯物論研究会が開催された。聴衆は三〇〇人、本富士署から五十名が参加していた。開会にあたって長谷川如是閑が挨拶をした直後、解散を命じられた、この会では文学士「島田佳男」のほか四人が逮捕されたという。
唯物論研究会とは、京都大学出身の哲学者である戸坂潤が中心となって結成した会である。上の記事にいう「萬崎潤」は、戸坂のことを指しているのだろう。唯物論研究会は、あくまで唯物論を研究する学術団体という体裁をとり、雑誌『唯物論研究』を発行していた。
そして、先に小野誠一郎の回想で名前が出た三枝博音・服部之総は、戸坂とともに唯物論研究会の中心人物であった。帝大仏青会館が講演会場として選ばれた経緯には、この二人の紹介があったと見るのが自然だろう。
いささか余談にながれると、二人のうちでも特に三枝博音は、高楠順次郎と強く結ばれており、東大仏青とマルクス主義、さらには仏教と日本の学術行政との関係を考える上で重要人物だと思われる。三枝は、広島の浄土真宗寺院に生まれ、旧制中学時代に高楠順次郎に見出されて上京、東大哲学科を卒業した。唯物論、日本思想史、技術史などの分野で業績を残した一方(飯田賢一『回想の三枝博音』こぶし書房、平成八(一九九六)年)、近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」のメンバーでもあった(酒井三郎『昭和研究会』TBSブリタニカ、昭和五十四(一九七九)年)。高楠が最晩年にひらいた「東西文化交流研究会」(「仏教思想研究会」とも呼ばれていたか?)には高楠門下の仏教学者とともに出席し、カント哲学と唯識思想の比較研究というテーマを与えられた。高楠没後は、三枝が研究会の発表原稿を引き継いだようだが、出版されずに終わったらしい(鷹谷俊之『高楠順次郎先生伝』武蔵野女学院、昭和三十二(一九五七)年)。戦後は服部之総らとともに「鎌倉アカデミア」(映画監督鈴木清順らを輩出)を開き、その後は横浜市立大学学長などを歴任するが、内閣調査室が進歩派知識人牽制のために出版した『学者先生戦前戦後言質集』の標的にされたりもした(志垣民郎『内閣調査室秘録』文藝春秋、令和元(二〇一九)年)。昭和三十八(一九六三)年十一月九日、鶴見線事故で死亡した。いわば三枝は、比較思想研究者、そして仏教の立場から国家と切り結ぶ政治家としての側面を、高楠から受け継いだ人物だと言えるだろう。彼については、日本仏教史の観点からさらに研究が深められることを期待したい。
唯物論研究会に話を戻すと、昭和八(一九三三)年四月十日の集会解散事件は、もう一人の著名人を通して世に知られている。政治学者丸山眞男が旧制一高の学生だったとき、この研究会に出席し、逮捕されているのである。のちのインタビューで、丸山はこのときの経緯を詳しく語っている(松沢弘陽・植手通有『丸山真男回顧談(上)』)。それによれば、たまたま通りかかったときに帝大仏青会館で唯物論研究会が開催されており、弁士に長谷川如是閑の名前があったことから参加した。集会中止されたのち、これまた偶然警察に目をつけられて連行されたところ、カバンに持っていた手帳に、ドストエフスキーを引用して日本の国体を批判していると読めないことがないような一文があり、そのせいで警察に絞られた、ということらしい。丸山の精神には大変な危機をもたらした事件だったらしく、インタビューで留置所経験を「いのちの初夜」と言い表している(同五十頁)。
一介の高校生だった丸山が、三〇〇人中の五人として逮捕されたことは、当時の言論統制の過酷さを思わせるとともに、彼にとってまさに不運だったとしか言いようがない。しかし、それが「いのちの初夜」として彼の思想形成の一因になったのであるならば、因縁の不可思議に思いを致さずにいられない。ちなみに筆者の知る限り、丸山眞男が帝大仏青会館で逮捕されたことがある、という話は東大仏青の記録において見つかっていない。丸山には気の毒な話だが、何十人も逮捕されるような集会が帝大仏青会館で頻繁に起こっていた当時、五人が捕まったという程度の話は、記憶に残すにはあまりに小さかったのかもしれない。
マルクス主義に関連して、帝大仏青会館に関係した事件をもう一つ紹介しておきたい。
「労働者農民が全国的葬儀 故山本代議士の葬儀に実行委員会を設く」(『朝日新聞』東京朝刊昭和四(一九二九)年三月八日十一面)
「山本氏の脳髄に日本一の折紙つく 桂公や漱石氏よりも大きい きょうの解剖で判明」(『朝日新聞』東京夕刊昭和四(一九二九)年三月八日二面)
「同志の涙新たに 故山本氏の告別式 組合旗を先頭に押し立てて、ひつぎは街頭を進む」(『朝日新聞』東京夕刊昭和四(一九二九)年三月八日一面)
山本宣治は東大理学部出身の生物学者であったが、左派との関係を深め、昭和三年の第一回普通選挙で当選、衆議院議員となっていた。しかし昭和四(一九二九)年三月五日、治安維持法改正が可決された日の夜、右翼団体構成員によって暗殺されてしまう。上の記事によれば、山本議員の遺体は当初、縁のあった東大キリスト教青年会に運ばれた。しかしその建物が手狭であったため、より広い講堂を備えていた帝大仏青会館が葬儀会場に選ばれたという。三番目の記事で「ひつぎは街頭を進む」というのは、八日午後に葬儀を行うため、本郷追分にあったキリスト教青年会館から本郷三丁目の帝大仏青会館へ、おそらくは本郷通りを通って山本議員の遺体の葬送行列をおこなった、ということを意味している。
余談だが、筆者はこれまで、「東大仏青は宗教法人ではない、その証拠に東大仏青会館では葬式をしない」という、なかば笑い話のような説明をしてきた。しかしこの山本議員の葬儀の記事を読んで、その言を改めた次第である。
この山本議員の葬儀には、さらに続報がある。
「労働法案の反対示威 きょう無産党や十五団体が」
(『朝日新聞』東京朝刊昭和六(一九三一)年三月五日三面)
「潜行的の山宣追悼/組合法反対労働者農民大会 山宣の追悼を兼ねて、昨夜無産党主催で両所に」
(『朝日新聞』東京朝刊昭和六(一九三一)年三月六日二面)
この記事によると、当時国会で審議されていた労働組合法案と労働争議調停法改正に対して、労農・大衆・社民の三党が合同で同月五日に「労働者農民大会」を帝大仏教青年会館で、下谷区西町小学校で議会解散要求演説会を開催した。さらに関東労働組合会議も伝通院会館で「反動的労働法反対演説会」を開催したという。これらの会議が同日に行われると言うだけではなく、この時期は暗殺された山本議員の三周忌にあたるため、警察当局は警戒していた。これらの三つの集会は、逮捕者を出しつつもなんとか終了したのだが、当局の予想は的中してしまう。三集会の出席者中から合計二、三〇〇人が,散会後に帝大仏教青年会館に集まりデモを開始した。デモは赤門付近で警官隊と小競り合した結果、浅沼稲次郎や田部井健治ほか三十二名が本富士署に検束されて、デモは解散となったという。
戦後、山口二矢によって暗殺される浅沼稲次郎は当時三十代前半。東大仏青会員ならしばしば通る東大仏青会館前から赤門前までの道も、若かりし浅沼稲次郎が気勢を上げてデモし、逮捕された道だと思うと違ったすがたで見えるだろうか。
今回は日本の近代史にかかわった政治的な活動に焦点を合わせて、帝大仏青会館で起こった出来事の一部を紹介した。このほかにも柳宗悦の円空仏展など、帝大仏青会館で行われた興味深い出来事は少なくない。これについては、いずれかの機会に紹介したい。
今回紹介したような、帝大仏青会館で起こった出来事のごく一部を見ただけでも、東京大学仏教青年会とはなにか、という思いを深くする。われわれは通常、ある団体がどのようなものかを問うときに、その団体の代表者であるとか、その団体の理念、あるいは代表者の思想であるとかを、その団体の中核として捉えるだろう。そして、それ以外のもの、たとえば会員や事業は、中核となった人物の理想が具現化したもの、つまり派生物だと考える。もちろん、このエッセイで紹介したように、帝大仏青会館の建築についても、高楠順次郎の人格が多大な影響を与え、それによってその後の路線が敷かれてはいた。しかし帝大仏青会館でおこった人と人の出会いと、それによる事件は、たんに高楠の意思に依ってだけ説明できるものではない。言い換えれば、帝大仏青会館での出来事は、派生物だと考えるには余りあるほど、それ自体としての意味を持っているのである。であるならば東京大学仏教青年会とは、単に創始者の人格やその思想であるだけではなく、会館という場所であり、そこに集まった個々人の関係が生み出した様々な結果でもあるのではないか。こう思わせるほどに、帝大仏青会館という場は、近代と仏教の因縁が結束される場なのである。
このエッセイを執筆するに当たり、「朝日新聞クロスサーチ」「ヨミダス歴史館(読売新聞記事データベース)」を活用した。またとくに『アカツキ』の閲覧に際しては、武蔵野大学仏教文化研究所および高楠資料室のご協力を得た。ここに衷心より感謝を申し上げる。本エッセイは、東京大学仏教青年会史プロジェクトの成果の一部である。