Studies of Buddhist Culture
Online ISSN : 2435-9890
Print ISSN : 1342-8918
articles
[title in Japanese]
[in Japanese]
Author information
JOURNAL FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

1997 Volume 1 Pages 39-55

Details

1. 本稿の目的

筆者はかつて『大法鼓経』 (Mahābherisutra, MBhS) の全体の構成と問題点について論じ,内容の外観を提示しておいた1.従来MBhSは如来蔵思想を主題とする経典であると考えられてきたが2,本稿ではMBhSの主題・中心思想が「如来常住」であることを示し,MBhSと他の如来藏思想系経典,特に『涅槃経』 (Mahāparinirvanasutra, MPNS) との関 係を考察することを目的とする.

2. MBhSにおける「涅槃の楽」の解明に至る道筋

MBhSはその冒頭に「涅槃の楽」を説く偈を提示し,それを解明する一連の道筋をもって教説を展開していく3.その道筋の主要部分を,MBhSTに基づく抄訳とともに辿っていくこととする4

まずMBhSの特徴として,

〔世尊〕「この経は極めて得難い (sin turñed par dka', *atidurlabha)」 (MBhST 90b3, MBhSC 290c20-21)

〔世尊〕「この経は過去,未来,現在の一切諸仏の法性 (chos ñid, *dharmatā) である」(MBhST 90b4-5, MBhSC 290c22-23)

〔世尊〕「〔この娑婆世界とは違い,〕他の諸世界では諸仏は苦 (sdug bsṅal, *duḥkha) の説も,無常(mi rtag pa, *anitya) の説も,無我 (bdag med pa, *anātman),不浄 (mi gtsaṅ ba, *aśubha) の説も説かれない.それはなぜかと言えば,この経が一切諸仏の法性だからである」(MBhST 91a3-4, MBhSC 291a1-3)

ここにはMBhSが無常・苦・無我・不浄の四不顛倒に対立するものという態度が表明されている5.さらに続けて,

〔世尊〕「この経は甚深,難解,難信であり,諸仏の秘密 (saṅs rgyas kyi gsaṅ ba, *buddharahasya) である」(MBhST 91b3-4, MBhSC 291a13-14)

諸仏の秘密の法であればぜひ諦聴したい,会衆はみな持戒の者ばかりだと迦葉が告げると,

〔世尊〕「この会衆の者たちすべてが持戒者で具戒者だとしても,密意説 (dgoṅs pa'i tshig, *saṃdhāvacana, saṃdhyā-, 隠覆説) に巧みであろうか.…密意説とは,これまでは如来は般涅槃したと言われてきたが,こ〔の経〕では,如来は常住・恒常・清涼・不変で6,般涅槃しても不壊であると言うことなのである」 (MBhST 92a6-8, MBhSC 291a26-b1)

ここでMBhSの主題が提示されていることに注意しなければならない.結論を先取りすることになるが,それは決して「如来蔵・仏性」ではなく,「如来常住 (tathāgatanityatā, -nityatva)」ということなのであり,「如来蔵・仏性」は「如来常住」に包含される関係にあるのである.

 さて,この密意説を聞いた多くの会衆は,

〔会衆〕「我々は諸仏世尊が般涅槃しつつも,『私 (=如来) は常住・恒常・清涼・不変である』という説をとても理解できない」(MBhST 92b6, MBhSC 291b11-12)

と言って,退座してしまう.そこで世尊は,

〔世尊〕「生まれて20年の人に100歳の息子がいるように7,この『大法鼓経』もそれと同様〔に希有〕である.それはなぜかと言えば,如来は般涅槃したにも関わらず依然として住すると言い,アートマン (bdag, *ātman) も我所 (bdag gi, *mama)もない〔と今まで説いてきた〕にも関わらず,アートマンはあると説くからである」(MBhST 95a4-6, MBhSC 291c9-12)

ここで再度MBhS の主題が提示されている.さきほどとは異なりアートマンについても述べているが,如来蔵・仏性の語がないことについては同様である.さらに,

〔世尊〕「偉大なものに志を向け,如来蔵の〔本質・完成である〕常住・恒常・清涼・不変の〔常住〕如来〔と成ること〕8を望む者たちには,如来は一切種の中で最勝の一切智者の智,大乗の灌頂を授けるのだ.…今こそ如来は『大法鼓経』を説き始めよう」(MBhST 96a8-b4, MBhSC 292a8-16)

ここに「如来蔵」の語が記されているが,如来蔵と大我 (=如来) が全同ではないという関係には注意する必要がある.

 その後MBhSは第2段に入り,「涅槃の楽」についての偈が再説される.

〔世尊〕「諸々の衆生は諸行の糸で縛られている.輪廻生存のない涅槃は最勝の楽である」

〔迦葉〕「涅槃を得た者は〔世間に〕住しません.もしそうならば楽は名のみであり,人は〔涅槃の楽を〕享受することはないでありましょう」

〔世尊〕「恒常な〔如来の〕涅槃は名のみではない」(MBhST 98a7-8, MBhSC 292c7-10)

さらに世尊と迦葉の問答が続き,

〔世尊〕「解脱に至った諸仏世尊は…有色であり,その解脱もまた有色である9.…解脱を得た,智はなはだ清い諸仏もまた有色と言われる」 (MBhST 101a8-b2, MBhSC 293c12-17)

MBhS の主題である「常住な如来」の特性として,有色である (姿・形を具えている) ことが示されている.

 次に衆生と如来との関係が述べられ,

〔世尊〕「もし衆生が福をなせば仏陀であり,なさなければ衆生である」 (MBhST 102b7, MBhSC 294a4)

如来は衆生が成ったものという如来と衆生の等質性と同時に,衆生は衆生のままでは如来ではないということが再確認される10.次に,

〔迦葉〕「この世間において,滅尽がございますか,それともございませんか」

〔世尊〕「世間において,いかようにであれ,いつであれ,滅尽は決してない」(MBhST 103b2-3, MBhSC 294a24-26)

と,世間における有尽・無尽の問題が説かれる.大海から髪の毛の先で水を汲み出す譬喩11が述べられた後,

〔迦葉〕「大海ですら一滴ずつ汲み出せば尽きてしまいますが,…諸仏世尊が衆生聚 (sems can gyi phuṅ po, *sattvarāsi) が尽きるのをお知りになることがないであろうことは申し上げるまでもありません.…」

〔世尊〕「善きかな,善きかな.その通りである.衆生聚に滅尽はないのだ」

〔迦葉〕「般涅槃した衆生 (=如来) にも滅尽がないのでしょうか,それともあるのでしょうか」

〔世尊〕「衆生聚に滅尽はない.…もし滅尽があれば〔衆生聚に〕増減があることになろう.〔しかしそのようなことはありえない〕…般涅槃した諸仏世尊一切は常住・恒常・清涼・不変なのである」(MBhST 105b1-106a1, MBhSC 294c6-20)

と,衆生聚 (sattvarāsi) に滅尽がないことが強調されている12.この「衆生の不増不減」という考えは,MBhSにおいて如来蔵・仏性を如来常住のもとで理解するために,重要な役割を果たしていくことになる.

 さて,このように説く世尊に対し,空性説の立場から迦葉が質問する.

〔迦葉〕「大乗の中にも空の教えを説く経がたくさんございます」

〔世尊〕「空性を説く経は,たとえそれが何であれ,まだ言外の意趣を持っているのである13.…空性と無我は仏陀の所説であるが,〔その真意は〕幾億もの煩悩のない涅槃〔の楽という意味〕なのであり,諸仏世尊は清涼・不変な涅槃を得ているのだ」

〔迦葉〕「〔世尊の説が〕断〔見〕と常〔見〕と〔は違うということを〕いかにして知るのですか」

〔世尊〕「衆生が輪廻をさまよっている間はアートマンが遷移して〔自在ではなくなって〕いるので14,アートマンはないという見解 (=無我説) が不変・常住の真理〕である.…〔しかし〕解脱は清涼・常住・有色である15.…解脱は実在する (thar pa yod, 解脱是有)」(MBhST 112b2-113b3, MBhSC 296b8-c7)

 有色解脱についてはMPNSや『央掘魔羅経』(AMS)においても説かれており,いずれも煩悩 = 空,解脱 = 不空・有色という点で一致している16AMSMBhSともにMPNSの記述を受けるものと考えて差し支えないだろう.

 迦葉は続けて,

〔迦葉〕「解脱を得た者 (=如来) が常住・自在であるなら17,衆生もまた実在し,常住でなければなりません.…それでは常見に陥ってしまうのではないでしょうか.…そもそも諸如来が〔常住で〕般涅槃されないのなら,なぜそのように般涅槃を示されるのですか.生起することがないのなら,なぜ誕生を示されるのですか」

〔世尊〕「衆生は『仏陀でさえ死ぬのであれば,私たち〔が死ぬの〕は言うまでもない.仏陀でさえアートマンが自在でないのなら18,アートマンと我所に執着する私たち〔が自在でないの〕は言うまでもない』と知るであろうからだ.…衆生が輪廻をさまよううちは〔自分が自在ではないにも関わらず〕『私はアートマンである』と我見を起こすので (ṅa ni bdag go źes bdag tu Ita ste),アートマンはないと思うように〔諸仏は涅槃を示すの〕である.…

 もし如来がそのように般涅槃して無くなってしまったとしたら,世間は損減することになるだろう.〔しかし〕損減しないのであれば恒常・清涼である.もしそのように恒常ならアートマンは存在すると知られるべきである (bdag yod par rig par bya ste).…それゆえ〔衆生は〕不生不滅で不増不減 ('grib pa med cin 'phel ba med pa ñid, anūnatvāpūrṇatva) なのである」(MBhST 113b3-114b1, MBhSC 296c8-297a3)

この箇所の文脈を辿ると,

(1) 如来は自在である

(2) 自在であるからアートマンがある

(3) 如来にアートマンがあるから衆生にもアートマンがある

という三段論法になっていることが分かる.そして,この論理を成り立たせるものは,

(a) 如来が常住であること

(b) 自在者にはアートマンがあること

(c) 如来を含めた衆生が不増不減であること

の3点である.第1点 (a) は多くの経典に説かれているものであるし,第3点 (c) もAMN, AAN 等において提示されている.それに引き替え第2点 (b) はMPNSの主張とも異なっており,今までの仏教内部の脈絡では理解しがたい面を含んでいると思われるかも知れない.しかしMBhSの脈絡に従えば,このアートマンがバラモン哲学にいうアートマンではないことが明らかとなる.以下,MBhSが仏性 (buddhadhātu) について説く箇所を見た後に,この点を考察することとしよう.

〔世尊〕「次の4種は衆生の〔内にある〕界 (sems can gyi khams, *sattvadhātu, 衆生界) を覆う理由と根拠についての譬喩である.4種とは何かと言えば,

1) 黄や青の膜で翳ってしまった目

2) 雲に覆われた月

3) 井戸掘り

4) 瓶の中の灯明

である.迦葉よ,これら4種は〔如来〕蔵 (sñiṅ po, *garbha, 仏藏) ありと言われる理由と根拠であり,これらの理由と根拠によって一切衆生と一切の生きものに仏性があって (sems can thams cad daṅ/ srog chags thams cad la saṅs rgyas kyi khams yod de, 一切衆生悉有 仏性),…この界によって諸々の衆生は涅槃を得るであろう19

1) …幾億もの煩悩という被膜に覆われたこの界 (khams, 如来性) は,声聞・独覚に歓喜しているうちはアートマンはアートマンでないものとなり (bdagni bdag ma yin par 'gyur źiṅ),我所が〔世俗の〕アートマンになるのであり,諸仏世尊に歓喜したなら〔真の〕アートマンとなるのである (bdag tu 'gyur).…如来蔵 (de bźiṅ gśegs pa'i sñiṅ po, 如来性) は眼のように確かに存在するのだ.

2) …煩悩という被膜に覆われた界 (khams, 如来性) は輝き見えないが,煩悩の集まりが雲のように離れたら,その後,満月のように界 (khams, 如来之性) が輝き見えるであろう.

3) …声聞・独覚たちは如来に値偶し,善行の実践を示すことによって煩悩を掘り起こし,掘り終わってから水のように如来蔵を得るのである20

4) たとえば,瓶の中にある灯明の光は道灯りとならず,明るく輝かず,衆生の役に立たないが,それと同様に,『如来蔵は無量の相好をそなえている』と説いても,衆生の役には立たない21.瓶が割れたら,その後灯明は自ら光ることによって生きものたちに利益をもたらす.それと同様に,幾億もの煩悩という被膜を持って輪廻するもの (=衆生) という瓶の中に住する如来蔵は灯明のように燃えていて,輪廻の煩悩が滅したときには,瓶の割れた灯明のように〔如来蔵持つものは如来となり,その〕如来は衆生に利益をもたらすであろう」 (MBhST 115a6-116a4, MBhSC 297a27-b17)

 ここではじめて「仏性」の語が使われ如来蔵と同一視されている.MBhSにおいて「仏性」の語が使われている例はここのみで,通常は如来蔵という表現をとることの方が圧倒的に多い.同様の譬喩がAMSにおいて見られるため22,この仏性に関する記述はMBhS独自の説と言うより,MPNSAMSにおける使用例を踏襲したと考える方が自然である.ただし,インド仏教における如来蔵思想の形成過程を考えるとき,MBhSが如来蔵・仏性を「煩悩とともにあるもの」として理解している点は重要である23.さらに特徴的な点は,如来蔵・仏性をアートマンと同一視していないことである.MPNS, AMSとは異なり,MBhSにおいて如来蔵・仏性は,衆生の内にあって煩悩に覆われたアートマンならざる (=自在ではない) アートマンなのである.このことから,如来蔵・仏性が常住・恒常・清涼・不変の形容句を持たず,法身と呼ばれない理由も容易に理解される.如来蔵・仏性はまだその全き働きをなしえない状態にあるためである.

 ここまでに至るMBhSの文脈を見れば,MBhSに説くアートマンとは「自在性」と同義であると言える.しかもMBhSにおける自在性とは涅槃を得た如来の常住性,言い換えれば成仏して常住な如来となることであった.すなわち「一切衆生にアートマンが存在する」と説いても,それは「一切衆生は成仏可能である」と説くことと何ら変わりがないのである24

 そして衆生に利益をもたらすものは,如来蔵・仏性そのものではなく如来であり,如来の慈悲業である点にも注意しておく必要がある.MBhSの中心思想が「如来」であることが,ここにも表明されているからである.

 以上のように説き進めてきたMBhSは,いよいよ冒頭の「涅槃の楽」の偈に対して解答を出す.

〔世尊〕「迦葉よ,『輪廻生存があれば楽・苦がある.もしなければどこに楽・苦があろうか』という〔偈の〕真義を今や聞きなさい.迦葉よ,如来は非実体 (dṅos pa med pa, *abhāva, avastu, 非有)・非存在 (sems can med pa, *asattva, niḥsattva, 非衆生) にして滅びることのないもの ('jig par 'gyur ba ma yin pa, *abhedya, 不壊) なのである」

〔迦葉〕「それはどのようなことなのですか」

〔世尊〕「迦葉よ,たとえば山の王雪山の麓に “無限の光り輝く” という名の摩尼宝の鉱脈 (khams, *dhātu, 性) があるとしよう.さて,その摩尼宝の鉱脈を,摩尼宝の原石 (khams, *dhātu, 相) を精錬する者が見て,〔摩尼宝があると〕知ってそれを取り,金〔を精錬するの〕と同じやり方で垢を落とし,〔垢の中から摩尼宝を〕取り出すとしよう.その後,垢が〔落とされ〕清浄になってからは,その者が土や泥や砂や,ありとあらゆる容器の中に置いたとしても,その摩尼宝をそのつど払い浄めれば,初めの垢という汚 れがそのまま混じってしまうことはないであろう.

迦葉よ,それと同様に,如来・応供・正等覚は世間に出現して,菩提を覚ったために生老病死という垢を除去し,幾億もの 煩悩から解脱し,習気のあらゆる汚れから離れるので,清浄な宝のように光り輝き,蓮華のようにあらゆるものに不染着である.

迦葉よ,さらに如来はあらゆる姿・形をとってあらゆる世間に出現する.〔世間に〕出現して俗人のように〔自らを〕示すこともある.俗人として出現しても悪趣の過失が付着することはなく,天人の楽苦を感受することもない.天・人の楽苦というものは五欲の対象であり,苦であり防ぐべきものである.完成に至った〔如来の〕解脱のみが究極の楽なのである」 (MBhST 122a8-123a2, MBhSC 298a13-29)

この譬喩では,摩尼宝の鉱脈 (dhātu) にある摩尼宝の原石 (dhātu) が垢穢と混在しつつも (samala),精錬され浄化されれば (vimala) もとの垢穢に染せられることはないという,如来蔵説として極めて重要な構造を示しつつ,その結論部においては,菩提を覚ったからこそ一切の煩悩に二度と染まることがない常住如来の楽について述べている.MBhSがどこまでも「如来常住」を中心に置いていることが分かるだろう25.そしてMBhSは「如来常住を説く経典」として,以下のように記して完結する.

迦葉,阿難,賢護 (bsaṅ skyoṅ, *bhadrapāla) らの大会衆一切,および十方から来集した一切の菩薩たちは喜悦し,彼らは菩提を得ようと如来常住の教え (de bźin gśegs pa rtag pa ñid kyi chos, *tathāgatanityatā-dharma) を求めたのであった.(MBhST 133b6-8, MBhSC 300b4-5)

3. 「涅槃の楽」の解明に至る道筋のまとめ

以上,MBhSの教説の中で「涅槃の楽」の解明に至る道筋を辿ってきた.その過程で明らかになったことを整理するため,上記の引用例に従い箇条書きにまとめる.

MBhSは諸仏の法性,秘密,密意説であり理解しがたい.その密意説とは「如来常住」ということであり,如来のみが常住・恒常・清涼・不変と形容される.MBhSが理解しがたいのは「如来常住」と「アートマン」を説くからである.

・如来は衆生が成ったものであるから,如来と衆生との間には連続性がある.如来は般涅槃しても常住であるから,如来を含めた衆生は不増不減である.しかし衆生が衆生のままでいるうちは,如来と衆生との間には隔絶がある.

・如来は常住,自在であるからアートマンがある.如来を含めた衆生は不増不減であり,如来と衆生との間には連続性があるから,衆生にもアートマンはある.ただし輪廻している衆生は自在ではないので,アートマンはあってもそれは自在ではない「アートマンならざるアートマン」となっている.この「アートマンならざるアートマン」が如来蔵・仏性であり,成仏の因である.すなわち一切衆生の成仏の可能性は如来が常住であることによって保証されている.

MBhSにおけるアートマンとは成仏の可能性である.

・修行をして煩悩を除去すれば,如来蔵・仏性は完全なアートマンとなり,衆生は常住自在な如来となる.

MBhSは「如来常住」を説く経典である.

4. MBhSにおける如来蔵・仏性説と如来常住説との関係

MBhSにおける如来蔵・仏性説と如来常住説との関係を考察する.

 下田 [1991][1997] において明らかにされたように,MPNS 第一類は「仏身常住」を,第二類は「如来蔵・仏性」を教説の中心としている.MPNS第一類における如来はアートマンとされ,常住・無為な法身であり,あらゆる善の特性を備えた完全な存在である.それに対して衆生は有為・無常・不浄で全く不完全な存在であり,如来と衆生との間には越えがたい断絶が存在している.

 この両者の断絶を埋めるべく,MPNS第二類はTGSを受け,一切衆生に如来蔵・仏性があると主張する.この如来蔵・仏性は衆生の内にあるアートマン,寿者 (jiva) であり,

buddhadhātu (仏性) = tathāgataśarīradhātu (如来舎利) = tathāgata (如来)

というMPNSの脈絡によって,衆生は如来を内に宿すものとして,三帰依が自らの性への帰依へと代替可能になるほどに衆生の価値が高められる.このように外的な仏舎利を内化することによって,如来と衆生との断絶が解消されることとなった.そしてMPNSは最後には自らが「如来蔵のみを説く経」であると表明するに至る26

  MBhSはこのMPNSの動きを受けた上で27,如来蔵・仏性説へ過度に傾斜した教説を再度仏教の一大潮流の一つである仏身常住説・如来常住説のもとに引き戻し,如来常住説によって如来蔵仏性説を包括しようとした経典であると考えられる.

 下田 [1997] の指摘するとおり28,如来蔵・仏性説は哲学理論としては優れていたとしても,衆生と如来との本質的無差別を説くことは,覚りへ向けた修行の実践を妨げるおそれを孕んでいる.そこでMPNSは宗教聖典たりうるため,一闡堤 (icchantika) を再解釈するとともに,戒律・三昧をはじめとする厳しい修行態度を強調せざるを得なくなった.しかし一闡堤や修行をどんなに強調しても,衆生の価値が高まることによって生じた如来の価値の相対的低下は,MPNSにおいてはやはり避けられないものであったろう.

 そこでMBhSは如来常住を基調に,再び完全な存在である如来に対する信仰,如来の慈悲業を教説の中心とする.そのためMBhSには一闡堤が登場する必要がなくなり,破戒者に対しても慈悲の心をもって柔和な態度をとる29.しかもそこで展開される如来常住説は,MPNS第一類のように衆生と隔絶した如来を説くものではなく,MPNS第二類の如来蔵・仏性説を消化した上で,如来常住によって衆生の成仏が保証されるという構造をもったものとなっているのである.

 常住・恒常・清涼・不変,楽,自在という特性は全て如来の側にあり,衆生は如来を信じ,如来になるべく努力することが求められている.そしてその努力が報われることは,如来の常住性が保証している.このようにMBhSの如来常住説は,如来を中心にしつつ衆生との関係を強く意識した独自の教説なのである.

5. 仏教思想史上におけるMBhSの位置

MPNSにおいて如来常住説から如来蔵・仏性説へと動いた思想の流れは,MBhSにおいてその方向を反転させ,再び如来常住説へと回帰する方向へと進路を変えた.われわれはMBhSMPNSの思想運動の継続的延長線上にあり,MPNS全体を発展統合したものとして,仏教思想史上に位置づけることができる.

6. 今後の課題

本稿においてMBhS の主題が如来常住であることと,MBhSMPNSとの思想的関係が明らかにされた.この結果をもとに,より広範囲に渡って思想の流れを跡付けるため,対象をMBhSMPNSの周囲に存 在する経典群に拡げ,詳細な考察を続けていくことが今後の課題である.

Acknowledgments

本稿執筆にあたり,下田正弘東京大学助教授より近日刊行予定の著書『涅槃経の研究』を拝借し,参考にさせていただいたことを付言しておく.

Footnotes

鈴木 [1996].

高崎 [1974] 234-253.

srid yod bde daṅ sdug bsṅal te// zad daṅ rten yod ma yin no// de ltar bde sdug spaṅs pa'i phyir// mya ṅan 'das pa mchog tu bde// (MBhST 89a3),有有即有苦楽, 無有即無苦楽, 是故離苦楽, 即是涅槃第一楽 (MBhSC 290b21-22).鈴木 [1996] 6 参照.

MBhSTのlocationはPeking版で表示するが,和訳はPeking版,Narthang版,Derge版,Lhasa版,Stog Palace Manuscript, Tokyo Manuscript,MBhSCを用いた校訂テキストに基づいており,Peking版の読みとは必ずしも一致しない.

しかしMBhSにおいては,常 (nitya)・楽 (sukha)・我 (āman)・浄 (śubha) の四句も,pāramitāを付けた四徳波羅蜜も説かれることはない.

de bźin gśegs pa rtag pa(*nitya)/ brtan pa(*dhruva)/ źi ba(*śiva)/ ther zug pa(*śāśvata)/(MBhST 92a7-8), 如来常住不滅 (MBhSC 291a29-b1).MBhSにおいてはこの「常住・恒常・清涼・不変」という四句の順序は固定化している.注12参照.

cf. SP Chap.14 Bodhisattvapṛthivīvivarasamudgamaparivarta (『法華経・従地涌出品』).

de bźin gśegs pa'i sñiṅ po'i che ba'i bdag ñid (*mahātman, māhātmya)/ rtag pa daṅ/brtan pa daṅ/ źi ba daṅ/ ther zug pa(MBhST 96a8), 仏藏大我常住法身 (MBhSC 292a8-9).「常住・恒常・清涼・不変」の四句が「如来蔵」の形容句として使われている例が他にないこと,mahātmanが如来の形容句になること(下田 [1993] 87-88),及びMBhSにおいて如来蔵は法身と呼称されていないことから,MBhSCを参照した上でこのように訳出した.この訳は本論の結論と密接に関係している.MBhSTにおける「法身 (chos kyi sku, *dharmakāya)」の使用例は,般涅槃しても法を説き続ける常住如来に対して使われている1件に限られる (130b8).鈴木 [1996] 19参照.

thar par gśegs pa'i saṅs rgyas bcom ldan 'das rnams ... gzugs can(*rūpin) yin la/ thar pa de yaṅ gzugs can yin no/(MBhST 101a8),諸仏世尊, 至解脱者, 彼悉有色解脱亦有色 (MBhSC 293c12-13).有色解脱については注16参照.

如来蔵を説く経典において,この点は特に重要となる.下田 [1997] 370-373参照.

同様の譬喩が AsP 116.21-26, KP S76-77, RGV 52.11-12, MPNST 7b1-2, AMST 197b3-7 等に散見される.他の例については下田 [1993] 44-45参照.

「衆生の不増不減」という概念が中心になっている経典としては,まず第一に『不増不減経』(AAN)が挙げられよう.MBhSで如来の形容句「常住・恒常・清涼・不変」の順序が固定化していることを考えると (高崎 [1974] 70, 169, 下田 [1993] 139), MBhSAANから影響を受けた可能性は高いと思わ れる.しかし,AANが如来蔵を法身と同義とし,その法身の無差別性から衆生の不増不減を説くのに対し (AANC 467b6-19, RGV 40.16-41.5), MBhSでは如来蔵は法身ではなく,如来は修行を完成させた衆生と捉えて衆生の不増不減を説いている.一方,「衆生の無尽」に関しては『無尽意所説経』(AMN)にも詳しい記述が見られる (AMNT 136a5-b3, AMNC1 598c10-17, AMNC2 199c4-12). しかもAMNではMBhS と同様に大海から髪の毛の先で水を汲み出す譬喩が用いられているため,MBhSの「衆生の無尽」はAMNからの影響である可能性も否定できない.ただし,AMNの例は尽きることのない菩薩の慈悲を譬えたものであるため, MBhSとは主張が異なる.

stoṅ pa ñid ston pa gaṅ ci yaṅ ruṅ ba de thams cad ni dgoṅs pa can(*ābhiprāyika) du rig par bya(MBhST 112b3), 一切空経是有余説 (MBhSC 296b9). cf. Ruegg [1989] 297f.

bdag 'jug pa yin te (MBhST 113a5), 我不自在 (MBhSC 296b22).

thar pa ni źi ba(*śiva) rtag pa(*nitya) gzugs daṅ bcas pa'o(*rūpin)(MBhST 113b1), 常住安楽有色解脱 (MBhSC 296c1-2).

MPNST 70a1-6, 78b3-8; MPNSC1 872c27-873a4, 875a14-20; MPNSC2 391c28-392al1, 395b22-c2. AMST 166b6-167b7, 174b8-175a4; AMSC 527a27-c15, 531b17-c3. MPNSについては下田 [1997] 256-263参照.如来蔵の空不・空については『勝鬘経』(ŚMS; RGV 76.8-9),さらにそれを受けて『宝性論』(RGV 75.17-77.8) に記述があるが,解脱の不空・有色はMBhS, MPNS, AMSに共通し,ŚMS, RGVでは明確には説かれていない.

gal te thar pa thob pa brtan pa daṅ/ dbaṅ phyug(*iśvara, aiśvarya) lags na/(MBhST 113b3-4), 得解脱自在者 (MBhSC 296c8).

re źig saṅs rgyas kyis kyaṅ bdag gi dbaṅ ma thob na (MBhST 113b7), 不得自在 (MBhSC 296c15).

khams des sems can rnams kyis mya ṅan las 'das pa 'thob par 'gyur ro//(MBhST 115b1),以彼性故,一切衆生得般涅槃 (MBhSC 297b1-2).衆生の内にある界 dhātu が菩提の因hetu であることが示されている.

譬喩の形式に関して,SP 233.1-13に同様のものがある.

「如来蔵が煩悩の内にある限り,役に立たない」とは如来蔵思想にとっての基本的な考え方の一つであり,TUSN (RGV 23.9-11, 24.6-8), TGS (TGST 264a5-b5, TGSC1 458a10-23, TGSC2 462b5-23), RGV 61.16-62.8などにも見られる.それに較べ,「如来蔵があると説いただけでは利益にならない」=「如来蔵説を説いても,実践しなければ意味がない」という考え方は一層積極的であり,MBhSの実践的な性格 (高崎 [1974] 245) を反映したものと言える.同様の記述が『楞伽経』にも見られる.

マハーマティよ,それゆえまさに,如来蔵であるアーラヤ識を完全に知るという,一切如来のこの境界に対して,汝と他の菩薩摩訶薩たちは勤め励むべきである.単に聞いただけで満足してはならない.

tasmāt tarhi mahāmate tvayānyaiś ca bodhisattvair mahāsattvair

sarvatathāgataviṣaye 'smims tathāgatagarbhālayavijñānaparijñāne yogaḥ

karaṇīyo na śrutamātrasaṃtuṣṭair bhavitavyam/LAS 223.10-13

AMST 164b2-165b4, AMSC 526a27-c3.AMSMBhSに較べて,はるかにMPNSとの親近性が強い経典である.

高崎 [1974] 248.

自在性,常住性,アートマンの関係は,別稿にてより精密に考察する.

さらに筆者は,MBhSの主要な登場人物である一切世間楽見 (Sarvalokapriyadarśana) が,『大雲経』(MMS) を通して導入された如来常住説の宣説者であると想定している.Suzuki [1996] 495参照.

Yoṅs su mya ṅan las 'das pa chen po'i mdo chen po ... gcig tu de bźin gśegs pa'i sñiṅ po ston pa'i mdo (MPNST 156b6-7).高崎 [1974] 132,下田 [1997] 157参照.

MPNSには仏性 (buddhadhātu) を説くに至る,仏塔・仏舎利を背景にした必然的脈絡が存在するため,仏性の語を如来蔵と同義に使用した最初の経典がMPNSであると考えることに問題はないと思われる.さらに,MBhSがアートマンを肯定的に捉える下地がMPNSによってすでに用意されていたことも同様である.

下田 [1997] 370-373.

MBhSは修行の形態として,如来への信仰と布施を強調している (鈴木 [1996] 7-8).ただしMBhS第3段においては持戒を意識した記述が増えてくる.この変化に関して,筆者はMMSの影響を想定している.

References
  • AAN Anūnatvāpūrṇatvanirdeśa (『不増不減経』).
  • AANC The Chinese version of AAN. (T. No. 668)
  • AMN Akṣayamatinirdeśa (『無尽蔵所説経』).
  • AMNT  The Tibetan version of AMN. (P No.842)
  • AMNC1  The first Chinese version of AMN. (T. No.403)
  • AMNC2   The second Chinese version of AMN. (T. No.397)
  • AMS Aṅgulimālasūtra (『央掘魔羅経』).
  • AMST  The Tibetan version of AMS. (P No.879)
  • AMSC  The Chinese version of AMS. (T. No.120)
  • AsP Aṣṭasāhasrikā-Prajñāpāramitā (『八千頌般若』).
  • KP Kāśyapa-parivarta (『迦葉品』).
  • LAS Laṅkāvatārasūtra (『楞伽経』).
  • MBhS Mahābherīsūtra (『大法鼓経』).
  • MBhST  The Tibetan version of MBhS. ( (T) in 鈴木 [1996])
  • MbhSC  The Chinese version of MBhS. ( (求) in 鈴木 [1996])
  • MMS Mahāmeghasūtra (『大雲経』).
  • MPNS Mahāparinirvāṇasūtra (『涅槃経』).
  • MPNST  The Tibetan version of MPNS. ( ( T ) in 下田 [1991, 1993, 1997])
  • MPNSC1  The first Chinese version of MPNS. ( (法) in 下田 [1991, 1993, 1997])
  • MPNSC2  The second Chinese version of MPNS. ( (雲) in 下田 [1991, 1993, 1997])
  • RGV Ratnagotravibhāga-mahāyānottaratantraśāstra (『宝性論』).
  • ŚMS Śrīmālādevīsiṃhanādasūtra (『勝鬘経』).
  • SP Saddharmapuṇḍarīka (『法華経』).
  • TGS Tathāgatagarbhasūtra (『如来蔵経』).
  • TGST  The Tibetan version of TGS. (P No. 924)
  • TGSC1  The first Chinese version of TGS. (T. No. 666)
  • TGSC2  The second Chineseversion of TGS. (T. No. 667)
  • TUSN Tathāgatotpattisaṃbhavanirdeśa (『華厳経・如来性起品』).
  • 下田正弘 [1991] 原始『涅槃経』の存在—『大乗涅槃経』の成立史的研究その1—, 『東文研紀要』113, 1-126.
  • 下田正弘[1993] 『蔵文和訳『大乗涅槃経』I』, 東京: 山喜房.
  • 下田正弘[1997] 『涅槃経の研究』, 東京 : 春秋社.
  • 鈴木隆泰 [1996] 『大法鼓経』の研究序説-構成,及び経題に関して-, 『仏教文化』35, 2-22.
  • 高崎直道 [1974] 『如来蔵思想の形成』, 東京 : 春秋社.
  • Ruegg, D, S. [1989] Allusiveness and Obliqueness in Buddhist Texts: Saṃdhā, Saṃdhi, Saṃdhyā and Abhisaṃdhi, Dialectes dans les littératures Indo-Aryennes, PICI, 55, Paris.
  • Suzuki, T. [1996] The Mahāmeghasūtra as an origin of an interpolated part of the present Suvarṇaprabhasa, JIBS, 89, 495-493 (L).
 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
feedback
Top