Studies of Buddhist Culture
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1997 Volume 1 Pages 56-77

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 ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』には,ふたつの正義がある.永遠の正義と法の正義とである.無に関するショーペンハウアーの見解からはじめて,正義についてのこれら思想にふれる道すじとしてみたい.そして,そこからケルゼンの正義論への糸口をみいだせればと思う.

1 ことばの矛盾と相対無

 あるひとつのことがらがふたつの点から問題となり,それをいいあらわそうとしてことばの矛盾におちいることがある.これをどのように認識するべきだろうか.

 ことばが自己矛盾するとき,矛盾することばは実在する対象をもたない−対象は実在しないもの (Undinge) である−というのが『純粋理性批判』「原則の分析論」にみられるカントの考えである (cf. KRV307).「自己矛盾する概念の対象は無である.かかる概念は二辺の直線からなる図形のように不可能なものであり,無だからである」といわれる(Id.) .これは概念をもたない空虚な対象 (Leerer Gegenstand ohne Begriff) として,欠如的無(nihil negativum)であり,対象となるべき実例をもたず概念が空虚である場合 (Leerer Begriff ohne Gegenstand;ens rationis) や,影や寒さといったように対象たる実在を欠くといわれる概念 (Leerer Gegenstand eines Begriffs;nihil privativum) などとならんで,対象が無 (Nichts)である−したがって認識されない−場合の例とされている (cf. Id.).このように考えるのは,不合理なものを反省的にとりのぞいて人間の理性をもちいた認識を確実にするという関心に由来するものとされる (cf. KRV Vorreden zur 1.u.2.Aufl.).

 ショーペンハウアーは,『意志と表象としての世界』のなかで,これらの無のうち,とりわけ欠如的無に関するカントの見解に反対している.同書71節では,欠如的無をふくめたあらゆる無は本質的に相対的である,あらゆる無は対象をもつ相対無 (relatives Nichts) であるといわれる(cf. WWV523).相対無であるとは,なにかあるものに対する関係において無であるということである.「いかなる無も,なにか他なるものとの関係においてはじめて考えられるにすぎない.いかなる無もこのような関係を,つまり他なるなにかを前提するのである」(WWV523f.).この関係をなしているふたつのもののうち,いずれが無であるかは,プラスとマイナスの記号のように,観点をかえることにともないたがいに交換可能である(cf. Id.).「相対無は,それを否定するものといつでも符牒を交換できる.このとき,否定する相手方を否定とし,自身を肯定と考えることができるだろう」からである(WWV524).ことばの矛盾における無を相対的とみるとは,ことばが対象との関係をもっているということを意味する.ことばの意味が矛盾を理由に消えることはないということである.Aということばの意味とBということばの意味とが矛盾しているとする.AはBに対する関係において無となり,BはAに対する関係において無となる.AはBとの関係において無となっていても,BのAに対する関係ではなにかである.逆もまた然りであることとなる.

 論理矛盾において,対象は空虚であるとするカントと,矛盾しあう双方の実在からそのあいだに関係をみようとするショーペンハウアーの思考とは対照をなしている.論理だけをとりだしてみると,カントのように考えるほうが理にかなうようにもみえる.しかし,現存する矛盾や葛藤に際してどのように対処すればよいかという実践的な問いをまえにしてははたしてどうであろうか.カント的思考によれば,矛盾するものの対象は存在しないというのであるから,その際にどのようにしたらよいかという実践的問題はそもそも生じえない.しかし,矛盾の実相をうけとめてそのなかから考えようとするとき,「論理矛盾は,ことばの組みあわせからなるものにすぎない」(WWV524)という認識は,無視しえない現実性をおびてみえてくる1

2 ショーペンハウアーの永遠の正義

相対無は,ショーペンハウアーの永遠の正義という観念とつながりをもつものである.ショーペンハウアーは,存在するものすべては生への意志(Wille zum Leben)から発していると考える.「意志がなければ,表象はなく,世界はない」(WWV526).現象とは,あらゆる部分や形態において,生への意志が客体化したものであり,これが世界であるという(cf.WWV453).「世界は意志の自己認識である」(WWV525).生への意志が客体化したものとは,また,身体である.「身体は意志が客体性のかたちをとって,あるいは現象として,表象としての世界のなかに存在しているにすぎない」(WWV502).この意志あるいは客体性となった身体は,自己肯定をかさねてゆくうちに別の個体に現象している他の意志を侵犯することがある.意志は,「はたらいている自己の能力を,その身体をこえて増し,ついには,他の身体に現象している意志を否定することを介して,自分固有の意志を自己の身体をこえて肯定するにいたる」(WWV432).そこにおいて意志は,「自己の努力に対峙するものを根絶やしにしようとするのである」(WWV466).これがショーペンハウアーのいうエゴイズムである.エゴイズムは,自然のなかのあらゆるものに本質的な心的態度(Gesinnung)である(cf. WWV429).ショーペンハウアーはこのエゴイズムをさらに不正(Unrecht)といい,他の意志を侵犯するかどうかが倫理的な善悪の分岐するところであるという(cf. WWV431f.,462ff.).

 本来的なエゴイズムの行為は,内的な苦(innere Schmerz)にともなわれている.この苦とは,エゴイスティックな行為をするひとに抽象的には認識されていないとしても,すくなくとも,「みずからの意志を強く肯定しすぎて他の意志現象を否定するほどにまでなったことを漠然と感じている意識」としてあらわれるものである2.エゴイズムと内苦をともなう意志は,認識を欠いて曇った制しがたい衝動でしかない(cf. WWV359).それは,時間あるかぎりやすみなくあらたに意欲する,ダナオスの娘たちの底なしの笊である(cf. WWV466f.) .エゴイズムとその苦は意志あるかぎりついてまわるものである.「生存するものは,あるがままの世界のなかで,まったくあるがままに,あるがままの環境のもとに,その存在の仕方と本来的な個体性とを偶然と誤謬に支配され,時間のなかでうつろいながら,たえず苦悩する」(WWV453).

ショーペンハウアーがエゴイズムを乗りこえる方途とするのは,意志と表象としての世界のなかで自他を区別させている認識の仕方を転換させることである.自他を区別させ,他を実在性を欠く仮面にすぎないとみさせている認識を「個体化の原理」(principium individuationis)にしたがう認識であるという.「ひとは現象でしかなく,他とちがっているとか,他の担う苦をまぬがれているということは,現象の形式,すなわち『個体化の原理』にもとづいている」(WWV455).個体化の原理を見とおしてこれを脱することが,エゴイズムと苦のもととなる自他の区別を脱することである.「正義の起源と本質は,『個体化の原理』を見とおすことである」(WWV485).個体が現象でしかないということが,認識を正義へとみちびいてゆく.この正義において,「禍いと悪,苦と憎,苦を受ける者とあたえる者の区別は,根拠の原理にしたがう認識からすればことなっているとしても,それ自体として同一である」(WWV504f.).

 永遠の正義は物自体にもとづくという(cf. WWV455).個体化の原理をみとおす者は,「苦を負わせる者と耐えねばならない者との違いは現象にすぎないものであって物自体−ふたりのうちに生きる意志のなかにある−ではない」ことを見てとる(WWV456).物自体にもとづくとは,苦の存在についての自他の区別を認識の奥底でこえるべきという要請でもある.「ことがらの真の本質からすれば,世界のあらゆる苦をわが苦とみなさなければらない.ありうるにとどまるすべての苦も,われにとって現実的な苦とみなさなくてはならない」(WWV455).個体化の原理が自他を絶対的に仕切り隔てる壁でなくなったところに,物自体の認識はある(WWV476).この認識がもっともよく表現されるのは,そのひとの行為を通してである.「彼は,行為の仕方を通して,固有の本質,すなわち物自体としての生への意志を,表象としてあたえられている現象にすぎないものである他のなかにみとめる」(Id.).このような物自体の認識は,認識ではあるものの,他に伝えることのできる抽象的な認識ではなく,伝えることのできない直截的かつ直覚的なものである(cf. WWV475) .永遠の正義に近づくには,「自分の経験によるしかなく,それは他に伝えることのできない経験だからである」(WWV525).ショーペンハウアーは,このような永遠の正義を概念やことばがとらえうるかぎりでいいあらわすものとして,ウパニシャッドの「汝それなり」<tat tvam asi>を引く(cf. WWV457f.) .

ショーペンハウアーには,復讐という正義のあり方に対する根深い懐疑があると思われる.復讐とは,「他に苦をひきおこしてそれを眺め,自分のこうむった苦を和らげようとする」ものである(WWV461).エゴイズムを苦と観ずる思想から,これはうけいられないものである.悪をもって悪に報いる「復讐欲はそれだけですでに悪に近い」からである(WWV469).ショーペンハウアーは永遠の正義の非時間性から時間のなかで達成される応報をしりぞける.「応報という概念それ自身のなかにすでに時間がふくまれている.このゆえに,永遠の正義は,報復するものではありえない」(WWV452).永遠の正義は,時間のなかにある応報とはなれたところで,「罪の悪をmalum culpae罰の悪にmalo poenae分かちがたく結びつける秤の竿」である(WWV457).「永遠の正義にあって,罰は不正の行為とむすびつくべきものであり,両者はひとつである」3.苦をあたえるものと受けるものとは同一である(cf.WWV456) .

 個体化の原理にとらわれない物自体の認識にとって,他にあたえる悪はみずからの苦とかわらない.あらゆるのものは平等でちかしい.このような認識は,苦を生じさせる意志をやすませ落ちつかせるもの(Quietiv) となる(cf.WWV486f.).これが意志の否定(Verneinung des Willens)といわれるものである.意志は生あるかぎりやすみないものであるから,意志の否定も不断の実践を要する(cf.WWV502) .意志の否定が,抽象をもちいて他に手渡すことのできない直覚的なものであるとはこの意味である(cf. WWV492).「意志を断念した状態とは,それにともなう不動の安楽であり,死における最上のよろこびである」(WWV510).意志の否定は生あるかぎり生における死を不断に実践するものとなる(cf.WWV502) .意志の否定とは,厳密には認識とよぶことのできない境地である.ショーペンハウアーは,これを実践によって知られる生の秘密であるという4

 相対無は,意志の否定ということばの表現からこぼれおちる内実を説明しようとするものである.意志の否定ということばにかかわらず,それは生をまったく放棄することではない.「意志をまったく廃棄してしまったあとに残るものは,いまだ意志に満たされているすべてのひとにとってたしかに無である.ところが反対に,意志が転回され,否定されているひとびとにおいては,太陽や銀河などといったまったく現実的なわれわれの世界こそ−無である」(WWV527).世界を現象の形式とみとおす認識にとって,意志を否定するとは,生をなしうるかぎり肯定することである(cf. WWV455) .否定とは哲学的表現の限界である(cf.WWV525) .ショーペンハウアーはここにはじめて自由があるという(cf. WWV374ff., 495).永遠の正義において,生は否定され,同時に最大限に肯定されている.

3 ショーペンハウアーの法・正義

 法の世界の正義は,永遠の正義とは切り離されたものであるという(cf. WWV452) .たしかに意志と表象から世界を考えるショーペンハウアーの基本思想はそのまま法の世界に移されているわけではない.だが,法についての考察もまたエゴイズムの問題からはじまる.エゴイズムが他にもたらす苦の認識からはじまる.

 おなじエゴイズムの認識に発しながら,その内的なあらわれと外的なあらわれにしたがって,正義思想はふたつに分かれる.そのあいだには,行為の自己に対する関係を問題とするか,他に対する関係を問題とするかの相違がある(cf. WWV464).永遠の正義が,自他の区別をのがれたところで行為の自己に対する関係において正不正をとらえるのに対して,法の正義は,他に対する関係において行為の正不正をとらえる.「不正のもたらす苦は,出来事という外的経験のうちに現象する」5.不正をおこなうことで行為者に愉悦があるとしても,不正が他にもたらす苦の大きさはその悦楽を凌ぐ(cf. WWV442).ここから,ショーペンハウアーは,苦を制するために法や国家が存在するという.

 法や国家の正義は,ひとが,おぼろげな感情として,また直覚的認識としてもつ永遠の正義とは性質もことなる.それは,ものごとの全体を概観する理性のはたらきとしてエゴイズムを共同的に制約するものである(cf. Id.).不正のもたらす楽に比してこれをこうむる他の苦はより大きいと見てとるものもまた,理性である.法律とは,理性をもちいることでひとのかたよった立場をすてさせようとして編みだされ,しだいに完成していった,エゴイズムを方法的に処理する手段である(cf. WWV443).法・国家はエゴイズムを否定するものではない.かえって,法・国家は自他の区別をもとにしたエゴイズムをそのまま肯定することから会得されるものである(cf. WWV445).国家は,エゴイズムのもたらす諸結果に対してのみ反対する.この結果は,幾多のエゴイスティックな個人から生じ,彼らのあいだでたがいに生じあい,その幸福をさまたげるものとなる.国家はこの幸福をめざすべきものである(cf. WWV445f.).法・国家は,共同的になっているひとびとのエゴイズムに奉仕するためにのみ存在する(cf. WWV445).

 法とは,報復し,処罰して,国家を支配する正義であるといわれる(cf. WWV452).しかし,ショーペンハウアーは,そこに法の正義の特質があるとはしない.かえって,報復し,処罰する正義としての刑罰の特質を,未来への顧慮という目的にもとめることで,その復讐的性格をとりさろうとするのである(cf. WWV id., 469).刑法は,犯罪防止という未来へ向けた目的をそなえている点で,他にあらたな苦をひきおこすことを目的とするにほかならない復讐とは区別される(cf. WWV449f.).法が報復する法として考察されるさいにも,復讐それ自体は悪にほかならないというもっとも基本的な認識はたもたれている.

 法の特質が,未来への顧慮を通じてはじめて正義たりうるという点に端的にあらわれていることからも知られるように(cf. WWV452),国家を支配する正義は,また,時間的な正義である(cf. WWV id.).それゆえにこの正義は,非時間的な永遠の正義とはことなり,エゴイズムを生じさせる意志それ自体に関係することはできない(cf. WWV383, 446, 473f.).そうとはいえ時間という性質は,法・国家に目的をあたえる.ショーペンハウアーによれば,法・国家が外からひとに影響をおよぼすことができるのは,その動機に対してだけである.「刑法典とは,ありうると想定された犯罪行為の集まりに対する,反対動機のできうるかぎり完全な目録である」(WWV444).「動機は意志を方向づけるだけであり,意志を変えることはできない」(WWV473).ショーペンハウアーにおいても,意志は教えみちびかれえないものだからである.意志の自由をそこなうことのないこの時間的正義はまた,人間の正義であるともいわれる(cf.WWV428).

4 ケルゼンにおける矛盾の問題−規範衝突

 純粋法学(reine Rechtslehre) という名称は,ケルゼンがみずからの法学になづけたものであるが,ショーペンハウアーは,すでにその法論におなじ語をもってしていた6.名称の由来がショーペンハウアーひとりにあるかはさだかでないものの,法と正義の問題についてかさねられたケルゼンの考察は,その底にショーペンハウアーのふたつの正義思想がもつ意味や問題についての意識を敷いているのではないかと思われる7.ここでも矛盾に関するケルゼンの思索のあとを素描しながら,正義論へのアプローチとしたい.この問題は,規範の矛盾もしくは規範衝突に関するものとなる.思索は,初期の著作から遺稿にいたるまでのあいだに変遷し,それに呼応するかのように正義のあつかいも移ってゆく8

 最初の法哲学的著作である『国法学の主要問題』(1911/1923)(HS)は,国家意志である法によってはじめて存在するさまざまな権利や義務はひとつの国家人格においてコーディネイトされるとして,法の世界のなかで規範が最終的に矛盾することはないという(cf. HS226, 245).国家意志としての規範は仮言命題のかたちで記述されるが,命題相互のあいだの論理関係は問題とされることはない.法秩序はたんに法命題の総体(die Summe der Rechtssatze)といわれるだけであり,そのなかでの体系的統一性や無矛盾性がとりわけ主題となることはなかった9

 この著作におけるショーペンハウアー哲学の痕跡は,法的世界のとらえかたにあると思われる.規範を設定する意志なしには法規範はなく,法の世界はありえない.法命題は国家が自己の行為についての意志を表明するものである.他の意志を方向づけるものは,命令であり,法を命令としてとらえる立場はケルゼンにおいて批判されるべきものである(HS190) .意志は自由でなければならない.因果的に決定されてはならないのである(cf. HS192).したがって規範は,自己の行為をみずから義務づけるものである.規範が他の意志を動機づけて支配することはない.ケルゼンは,法規範をつくりだす意志の主体を国家にかぎる.権限を与えられた機関の行為についても,「国家は,みずからの固有の行為として以外に意志することはできない」(HS189) として,あらゆる法的な行為を国家に帰属させる.意志から存在する世界が作られていると世界のありようを考えるショーペンハウアーの思考方法が,法・国家というフィクショナルな抽象世界を学問的にとらえるときの認識方法とされているとみることができるように思われる(cf. HS162f.).法規範について命令するものという発想をとらない点には,さきにみたショーペンハウアーのエゴイズム論の痕跡をみてとることができるといえるのではないだろうか10

 その後,法規範を認識するさいの体系的統一という主題に力がそそがれる.次の大きな著作である『一般国家学』(1925)(AS)では,法以外の規範をひとくくりに道徳と呼び,そのあいだの衝突についていう.「法律家としては,道徳を度外視しなければならず,道徳家として,法を考えにいれてはならないということ,いずれかひとつの立場から出発するべきで,けっして両者をたがいに混同してはならない」(AS104).法体系内部での規範衝突については,「もしいやしくも国家と法との認識,これら二つの対象あるいはこの一つの対象についての科学が存在するならば,国家または法と称される規範体系の統一はそのゆるがしがたい基礎でなければならない」として矛盾の認識はのぞかれる(AS195).存在する法秩序の全体を仮説的に基礎づけ,なりたたせる基となる根本規範という概念は,この統一の要請とも関係をもつものである11.根本規範には矛盾律を内在させる法則の観念がふくまれるとすることにおいて,法規範のあいだに矛盾なき統一が保障されることとなるからである(cf. PG299f.).

 規範の衝突の仕方のちがいにそくして,その後の思索は精緻になる.ことなる体系に属する規範同士のあいだで問題となる,体系間の規範衝突については,一方の体系は他方の部分秩序になるとして矛盾衝突は認識されない(cf. PG281ff.) .これに対しておなじ体系に属する規範同士の衝突については,根本規範の機能が,経験的な法素材のあいだを矛盾ないよう整序することにあるとして,論理矛盾のないことこそ正義にかなうといわれる.正義の理想は法学的に論理化される(cf. PG341-345).体系内では論理法則を適用し,体系間では,いずれかが優位にたつというようにして矛盾を回避する,この考え方は,その後1960年代にいたるまでながくケルゼンを支配する.

 『法と国家の一般理論』(1945)(GT)では,体系内の衝突について,「あつかう素材についてひとつの整合的な説明をあたえることは法学者の主要な任務のひとつである」とし,素材はことばで表現されている以上,ア・プリオリに矛盾をふくみうるのであるから,「法解釈の特殊な役割は,それらがただ見かけの矛盾であると証明することでこれらの矛盾をとりのぞくことにある」(GT375)とする.国法と国際法ということなるふたつの規範体系のあいだでの衝突については,これらが調整されることがあるとすれば,両者に優位する高次の秩序のもとにおいてであるが,そのような秩序は存在しない.そして,調整されることなく両者がたがいに独立して並存する可能性はまったくありえない.こうして,コーディネイトによるというかつての思考を離れ,両者は,いずれかが優位に立ち,他方が劣位に立つという関係でしかないこととなる(cf. 373f.).

 『純粋法学(第二版)』(1960)(RR2)では,さらに,解釈と論理の関係が考察される.意志と思考との性質のちがいから,規範が妥当するという,規範に特有の存在様式に対して思考法則たる論理は原則として−直接には−関係をもたない.だが,規範の妥当性に論理は間接的に適用される.こうして規範の矛盾は解決され,また,解決されなければならない.論理法則によって矛盾をとりのぞくこの作用は,規範の解釈とよばれる.論理化された正義はより複雑になりながら維持されている(cf. RR2205f.).

 1960年代にはいり,H. L. A. ハートとの対論(cf. Hart [1963])を経たケルゼンは,規範衝突を認識するか否かを問いつめるようになる12.規範論における遺稿となった『規範の一般理論』(1979)(ATN) は,規範に関する一般的記述のなかで改説をあきらかにしようとするものである.ここにおいて,体系の内外をとわず,規範の矛盾は肯定される.思考法則たる論理は意志行為に間接的にも適用されることはない.規範の矛盾が解釈によって解決されることはない(cf. ATN168, 179, 330f. Anm.155).ことなる体系間の規範の矛盾についても,いずれかの規範体系の観点からそれを否認することはできない(cf. ATN169).このようにして規範衝突を認めるとき,規範のみならず,正義もまた論理とはなれひとり主題化されることになる.

5 ケルゼンの正義−「正義とはなにか」にこたえるための三つの条件

 ケルゼンは,規範体系の法学的記述をおこなおうとする著作とはべつに,正義の観念を思想史のなかにさぐる論考をかさねている.そこにおいて,「正義とはなにかという問い」が規定されている.この問いとは,「あらゆる実定法とかならずしも一致することはないが,この世界において実現可能なもの」という人間理性の理想についての問題である(IJ81).これをもってケルゼンは,古代ギリシャの宗教やキリスト教などをひろく見渡し,そこに形而上学的正義を前提とする正義の観念が応報につながる例の少なからぬことをみている(cf. VK; IJ).これを正義をもとめて得られなかったにとどまるケルゼンの姿を示すものとみることもできるだろう.しかし,こうした探究の足跡は,ケルゼンが正義にすくなくとも三つの条件を課していることをおのずからあきらかにしているのではないかと思われる.以下に順次みてゆくことにしたい.

(1)地上の正義であること

 『国法学の主要問題』にさきだちケルゼンは,ダンテの理想と挫折をたどる小品を発表している(DA).ケルゼンは,天上の幸福と対比される地の幸福を社会の目的とした13世紀当時イタリアの幸福論を紹介しながら,ダンテがこれときわめて似た思想をもっていたとする.そして,教会財産の性格をめぐるダンテのかならずしも明確でない所有権思想が,清貧の理想に共感をしめしていると評価する.ケルゼンは,ダンテの思想に,貧民救済を志向する地上的な正義の観念を読みとる.こうしたケルゼンのダンテ論は,自他の別なく一般に生を肯定する傾向をもったものといえるであろう.ケルゼンの評するダンテ思想の地上性は,生を肯定することにあると考えられる13

 ショーペンハウアーの永遠の正義に対するケルゼンの態度においても,地上性への傾向をみることができるであろう.永遠の正義は,自己の幸福を断念することを条件とする.その実践が,死のよろこびをもつ聖者たちのたぐいまれな生のイメージにかさねあわされているように,永遠の正義における生は,生に相対して死んでいるというほどに死のイメージにおおわれている.ショーペンハウアーみずからが,永遠の正義に抗し,これを厭うことにふたたび生への意志の本性をみいだしているのである(cf. WWV526).ケルゼンも,ひとの生に奉仕する法の理想として,人間の自己否定的な理想に賛成することはない.ケルゼンが,犯罪行為者の内苦を直視して犯罪行為それ自体のなかに永遠の正義がある−問題はそれをみとおすことができるかである−というショーペンハウアーの考え方を法哲学に翻訳してみずからの立場とすることはないのはこのゆえと思われる.

 一方,ショーペンハウアーの法の正義は,エゴイズムを基調とし,あくまで個人の幸福を守ることをめざすものである.永遠の正義のように,生の本性にさからうことはない点で,それはたしかに地上性の条件をみたしている.とはいえこの正義は,報復し,処罰する正義である点で,ケルゼンの課すつぎの条件をみたすものではないといわなければならないであろう.

(2)正義は,応報的なものであってはならない

 地上的な正義は応報する正義であってはならないというのが,ケルゼンの課すもうひとつの条件にあげられよう.応報とは,「いつ,どこにおいても,悪と悪,善と善とがやりとりされる交換であると理解される」(VK186).ケルゼンの定義は,悪をもって悪に報いることはそれ自体ひとつの悪をおこなうことにほかならない,としたショーペンハウアーのそれを彷彿とさせる.

 矛盾に対するあり方は,非応報というこの条件とかかわりをもつ.ケルゼンは,応報的であることと矛盾をなんらかの仕方で解消して認識しないこととはつながりをもつという.矛盾があり,そこから矛盾を解消するべき高次の存在や判断にしたがうことが帰結するとき,矛盾の存在は応報的正義の用具となるにほかならないことを見てとるからである.「神の全能からみちびきだされる不正は信じる者にとって−高次の,おそらく彼には理解できないが,しかし,従順に耐えしのぶという意味で−正義である.矛盾のないことは,宗教的イデオロギーの用具ではない」(VK185).ケルゼンは,「あらゆる宗教と宗教的形而上学の核心をなす魂についての信仰こそ,まさに応報のイデオロギーである」として,天上的な応報をしりぞける14.そして,国家的司法による正義について,天上的な応報としての正義が−いわば地上化されて−くりかえされている例をみる15.高次の存在が地上化されているときにも,おなじ問題があることになる.規範衝突において矛盾をあるがままに認めることは,あるがままの矛盾をそのままに応報的でない正義のあり方をもとめることとなるといえるだろう.

 応報を本来の悪であるとしたショーペンハウアーも,法や国家における正義については目的をもつ報復という立場をとる.国家的な応報思想に批判的であるケルゼンは,ここからしてもショーペンハウアーの法思想を法哲学に翻訳することはない16.かえって,超越的な理想秩序とそれによって虚無として否認される現世の実定秩序とのあいだの二元論に関する叙述は,それとあきらかにいわないまでも,ショーペンハウアーの法思想に対するネガティブな評価と解することができる17.地上的正義において時間性と応報性とがたやすく結びつくことに,ケルゼンはひとつの難題をみている.

(3)法と正義は別のものであるが相互に関係する

 ケルゼンは,実定法の体系と正義とをきびしく分ける.それは,ショーペンハウアーが法や国家の正義と永遠の正義とを分け,それらを二元的にとらえたことと通じている.それらの架橋をもとめなかった点にいたり,ショーペンハウアーはケルゼンの批判対象となるのである(cf. PG299f.).ケルゼンのいう正義の問いにふくまれる地上性の条件は,実定法と正義とが地上的に−実現可能なかたちで−関係することを意味している.たしかに,ケルゼンの法理論を端的にいいあらわす純粋法学は,正義との関係を方法的に切断するところに成立する学である.正義についての問いがなんであれ,純粋法学と正義との関係が方法的に問題となることはない.だが,それはあくまで方法をみるかぎりのことである.法と正義とがいかなる意味においても関係をもちえないとまでいうものではないと思われる.ふりかえってみると,規範の矛盾を認識するまえまでのケルゼンは,正義の問題を規範の論理性に変換するなどして,方法的な二元性を維持しながら正義の要請に対応しようと試みていたと思われる.だが,方法的に純粋にとりだされた法が正義といかに関係をもちうるかがそこにおいて正面からとりあつかわれることはなかったと言わなければならないであろう18

 その後,規範衝突を認識することをあきらかにするにいたり,事態はややかわったようにみえる.規範衝突においていかに解決をはかるかという実践的問題において,正義は規範論と直接にむすびつく主題となりえ,法と正義は別のものでありながらいかなる関係をもつかがあらためて問題とされるようになったと思われる.『規範の一般理論』において,ケルゼンは,規範衝突の場合にひとつの実定法が強制されることの−政治道徳的な観点からみた−望ましくなさを指摘する(cf. ATN107) .正義感と実定法とのかかわりが主題化されているということもできよう.が,この規範論からみえてくるものは,ある場合に法に服さないことを許容するという意味での消極的な自由ばかりである.

 正義についての遺稿となった『正義の幻想』(1985)(IG)のなかでケルゼンは,プラトン解釈を通じて相対化する正義という考え方をしめしている.「この世界に善が真に存在することはありえない」(IG29).「だが,この世界に悪が真に存在することもありえない」(IGid.).現実の存在が絶対善でなく,絶対悪でもないとすると,存在は善をふくむといいうる.「経験的現実の世界は,ひとをあざむく幻であるばかりではなく,何らかの仕方で,そして,何らかの程度で,それ自体のうちに真の存在をもつものでなければならない」(IG29f.).地上において善は相対的にありうる.絶対善との関係において,その一部をふくむものとして地上の善が考えられている.ケルゼンの達した相対性は,矛盾衝突する規範のそれぞれが相対的に正義をふくむというものである.絶対善あるいは天上的な存在との関係で相対的に正義をもつというものである.これによると,衝突するいずれの規範にしたがったとしても,その行為は相対的正義にかなう.この正義は,規範衝突にふさわしい解となりうるか.相対善は同時に相対悪である.ケルゼンは続ける.「この世界の善は,いかにしてか彼方の世界では悪であろう.そして,いかにしてかそれがこの世界にあらわれる」(IG30).この正義は,矛盾を解消する道をとらないものではあるとしても,相対性の性質ゆえに,いまだ応報性をとどめるものといわなければならないだろう.

6 相対無と正義

 ショーペンハウアーのふたつの正義に一得一失をみ,ケルゼン正義論の最終的な到達点と思われる相対的正義にも自身の課した条件にみたないものをみるとき,規範衝突における正義の可能性をどのようにもとめることができるだろうか.

 ショーペンハウアーは永遠の正義について相対無という観念をもちいた.これはケルゼンのいう相対性とは別のかたちをもつと思われる.ショーペンハウアーが相対というときの「なにかに対する関係」の「なにか」とは,意志と表象としての世界内に存在するなにかである.この相対性は,ケルゼンの相対的正義のように,絶対的なもの−それが存在しないといいながら−との関係でいわれているものではない19.ショーペンハウアーのいう相対性のこのような性質から考えると,規範衝突における正義は,存在し,衝突する規範のあいだの関係を問題としてもとめることができるように思われる.そうであるとすると,規範衝突における正義については,存在するさまざまな規範からの共同的な問題解決を意味するというあり方もありうるだろう.

 このような意味での正義にかなう法のありかたは,相対し交錯する諸規範が,たがいを否定しあうのでなく,共同して問題をあつかうことにもとめられる.現実に存在するさまざまな規範をてがかりとして,実践のなかでこれらを最大限工夫活用することが正義の要請であるともいえるだろう.このような正義は,法設定の意思をもって法を存在させた人間が,そのようにして存在する法に対して責任をになうひとつの方法であるともいえる.矛盾を認識することから考えはじめると,ひとつの法規範の内容が道徳的であるかどうかという問いとは離れたところにも,法についての倫理はありうるといえるのではないだろうか20

Footnotes

ショーペンハウアーは,この無を,主観も客観も存在しない地点,般若波羅蜜多であるとするが,これと同じ思考がウパニシャッドのなかに見いだされるのではないともいう(cf. WWV13,527 Anm.).ショーペンハウアーの,ウパニシャッド,ヴェーダーンタ哲学,仏教思想理解について,服部[1993]を参照.時間についてカントとショーペンハウアーを論ずるものとして,中島[1993]を参照.法論における矛盾に関して,カントは法・正義(Recht) の概念が浮動すると述べるが,それでも概念がなんらの対象をももたないとするわけではない(cf. MS233-236.) .

WWV440. 「良心の呵責もしくは良心のやましさ」(Gewissensbiß oder Gewissensangst)ともいわれるこの意識を,ショーペンハウアーはさらに自然法という(cf. WWV469).

WWV452. ショーペンハウアーは,エウリピデスの詩句(Eurip., ap. Stob. Ecl., I,c.4.)を引きつつ,永遠の正義を例証しようとする(後注15を参照).

永遠の正義には,他の意志の自由を奪わないという,不正の否定としての正義と,慈悲(Mitleid) としての高次の正義とがある.「『個体化の原理』をわずかに見とおすときには正義が生じ,より高く見とおすときには,純粋な,他に対する無私な愛である本来的に善い心的態度が生じる」(WWV481).永遠の正義における慈悲(Mitleid) と,ニーチェの高尚(Vornehmheit) のちがいについてKiowsky[1995] 135ff. を参照.

WWV442. これが精神的苦のみを指すのか,現象する物理的被害などをも指すのかはっきりしない (cf.WWV432).

Cf. WWV441.カントにも純粋な法関係(reine Verhältniss)という表現がある.この場合,純粋とは,物理的条件を捨象した,「まったく知性的な」(ganz intelletuell)という意味である(cf. MS296Anm.)

伝記によると,ケルゼンはギムナジウムの生徒であった頃にカント哲学に出会うが,すでにショーペンハウアーの影響を受けていたという(cf. Métall[1969]).長尾[1984]67-70頁参照.

とりわけ『純粋法学(第二版)』以降にみられる規範衝突にかんする見解の変遷を,理論と現実の二元的対立を軸にたどるものとして.Weyland[1986]を参照.

Cf.HS311. 近年,法の解釈原理性を強調するR. ドゥオーキンにおいては,衝突する二つの原理に場を与え,その優位関係を決める大きな物語(the overall story)のなかで解決をはかることが,法におけるインテグリティの要請であるといわれている(cf. Dworkin [1986] 266-271).

もっともケルゼンは,第二版序文において,みずからの議論がときに命令説に陥っていることを自省している(cf.HS v).

根本規範を導入した経緯について.HSxvを参照.法理論的意味について,長尾 [1985]を参照.根本規範導入は,法の生成,動態が法的問題であることの自覚であり,それがやがてデモクラシーについての考察を促すことにつながっていったと思われる.

この時期1959年から1965年の6年間にわたり,論理法則の法規範に対する適用をめぐって,ケルゼンとクルークのあいだに書簡が交わされている. Kelsen and Klug [1981]を参照.

ケルゼンの示す貧民救済思想への賛意には,ロールズの格差原理につながりうるひとつの平等への傾向があると思われる(cf. Rawls[1971].75-83,531f.).ロールズによれば,ショーペンハウアーのカント批判は,正義論におけるカント的構成主義への批判とはならない.自由で平等な個々人の善をして人々に共有される正義の条件とすることは批判されるべきたんなるエゴイズムでないとの趣旨であろう(cf. Rawls[1993]105ff.).

VK177.物自体たる無条件的なものを認めることと矛盾を解消して認識しないこととの関係についてのカントの見地は,ケルゼンと相通じるものである(cf. KRV27).

Cf.VK200-204. ケルゼンは,時間と結びついた地上の応報的正義をエウリピデスの詩句の数箇所(それらは,ショーペンハウアーによる引用とは別の箇所である)に読む(cf.VK204-208).両者の解釈は比較検討されるべきものと思われる(注3 を参照).

ショーペンハウアーの法思想における応報は,報復や復讐といった過去への志向と,犯罪予防という未来への志向とをふくむ.刑法学における両者の区別については,団藤重光『刑法綱要総論(第三版)』,創文社1990年16頁以下参照.

Cf.PG324f.ショーペンハウアーにあって永遠の正義がケルゼンのいうように現世否定的で超越的非現実的な理想にすぎないものであるかは,別に検討を要する.

もっとも,ケルゼンは,正義の観念について揺れをみせている.プラトンやアリストテレスの正義について,絶対的な正義の存在を前提した正義論であると批判するケルゼンは,自身も,正義を実定法を絶対的に正しいものとする客観的基準と観念しているようにさえみえる(cf.PG;AJ).その後,社会にある正義への信念が重要であるとされたり(cf.GT174),正しい正しくないという言明は,感情や願望にもとづくものといわれたこともある(cf.LS295).これら正義の観念は,いずれも純粋法学の認識する法とかかわりうるものとして叙述されているのではない(cf.GT174;LS302).

ただし,ケルゼンがデモクラシー論において相対主義や,正義の多様などに言及する際,相対性を実在するもののあいだでの相互的な脈絡において用いることがあると思われる(cf. WW2;NR) .ケルゼンにおいて,相対性の観念は,それと明示されないものの多義的である.

カントにおいても,本文冒頭に引いた矛盾を排除する概念の先験的反省は,対象の考察として他にありようのないものではなく,精神態度(Gemüt; eigenes Gemüt) の状態と自認されていることは参考にあたいしよう(cf. KRV285,298) .

References
  • Hart, H. L. A. [1963] Kelsen Visited, UCLA Law Review, vol.10. 〔邦訳:小林和之「ケルゼン訪問」,矢崎光圀監訳『法学・哲学論集』みすず書房,1980年,325頁以下〕
  • Métall, Rudolf, A. [1969] Hans Kelsen,Leben und Werk, Verlag Franz Deuticke.〔邦訳:井口大介・原秀男『ハンス・ケルゼン』成文堂,1971年〕
  • Weyland, Inés [1986] Idealism and Realism in Kelsen's Treatment of Norm Conflicts,in 'Essays on Kelsen'(ed. R. Tur, W. Twining), Clarendon P., Oxford, pp.249ff.
  • Kiowsky, Hellmuth [1995] Der metaphysische Aspekt des Mitleids, Peterlang.
  • 長尾龍一 [1984]『アメリカ知的冒険旅行』日本評論社,1984年
  • 長尾龍一 [1985]「根本規範について」上原・長尾編『自由と規範』東京大学出版会,377頁以下
  • 服部正明 [1993]「ショーペンハウアーとインド古典学」『ショーペンハウアー研究』創刊号,日本ショーペンハウアー協会,67頁以下.
  • 中島義道 [1993] 「時間の構築から時間の消滅へ」同上107頁以下
 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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