Studies of Buddhist Culture
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2007 Volume 11 Pages 40-56

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1. 初めに

Dīghanikāya (=DN)のMahāparinibbānasuttaにCatumahāpadesakathā(四大教法に関する話)1と呼ばれる一節が存在する.それは,某比丘が「世尊」,「サンガ」,「霊力ある諸比丘」,或いは「霊力ある一比丘」より教説を聞き,「これは法であり,これは律であり,これは師の教えである.」と主張した場合に,その教説の「句と字」(padavyañjana)を「経」(sutta)及び「律」(vinaya)に照らし合わせて,それらに合致する場合に限り,その教説を「世尊の言葉」(bhagavato vacanaṃ)として承認すべきことを説いている.

これについて,先行研究を概観してみると,その多くは,この「世尊の言葉」という語を《聖典》という概念と関連付け,この一節を聖典形成という文脈で論じている.代表的な例として,Cousins[1980:1-2]を挙げると,パーリは,口頭伝承され,固定的なテクストとしては存在しなかった.口頭伝承者は,同一の教説を時には長く,時には短く説き,細部の内容にある程度の不整合や不一致が生じていた.しかし,このような口頭伝承が膨大なものとなれば,テクストの真正性という問題が否応なく生じてくる.それへの対処法を示した興味深い事例がこの一節であると.

このように,Catumahāpadesakathāを聖典形成と結び付けて理解する仕方は非常に一般的であり,殆どの研究者に共通する見方と言うことができる.一方,padavyañjanaをsutta及びvinayaに照合する作業については,suttaとvinayaの語意をめぐって研究者間に一致した見方はない. sutta及びvinayaを聖典の核となったテクストとして捉え,それらに字句を照合することを主張するのが比較的有力ではあるが,しかし,Collins[1990:109-110]は,上述のようにsutta及びvinayaを典籍として捉えてしまうと,「世尊の言葉」は,padavyañjanaがsutta及びvinayaに既に収められているもののみとなり,この照合作業の存在意義が失われると考え,sutta及びvinayaを抽象的な概念として位置付けるべきであると主張する.これらに対する第三の意見として,Cousins[1980:3]はvinayaを聖典の核となったテクストと見做す一方で,suttaを蘊、界,処,根,諦,縁起といった教説のパターンとして位置づけている.

今,先行研究を大雑把に振り返っているが,Catumahāpadesakathāに関する研究は,原典解釈という立場から接近するものが殆どである.そして,それらは,伝統の側の説明については,それを黙殺するか,或いは,原典解釈という枠内で取り込むかである.padavyañjana,sutta,vinayaの意味を把握するために註釈書を参照することはあっても,その語義説明に註釈者の如何なる意図があるのか,それについて関心を示すことはない.聖典形成という視点からこの一節を見るのならば,後代に作成された註釈書の見解は当てにならないので,このような姿勢は研究方針として穏当である.しかし,もし別の視点を採用し,「世尊の言葉」という語に対する伝統的な見方に注目したならば,この註釈書の資料的価値は大きく変わってこよう.このような視点を新たに打ち出したのがAn[2002:61-65]であり,padavyañjana,sutta,vinayaに対するDīghaaṭṭhakathā(=DA)の語義説明を参照し,それが註釈者ブッダゴーサの如何なる仏語観を背景としているのか論じている.本稿は,An[2002]を踏まえ,且つ,その所論を検証しつつ,Catumahāpadesakathāに対する註釈書DA及びそれに対する復註Dīghaaṭṭhakathāṭīkā(=DAT)の解説に焦点を合わせ,パーリ仏教の伝統の中で,ここの「世尊の言葉」が如何なる意味に理解されているのか検討したい.

2. DAのCatumahāpadesakathā解釈とその背景にある仏語観

ここでは,Catumahāpadesakathāに対するDAの註釈によって,padavyañjana,sutta,vinayaの意味を解明し,その背景にある仏語観を,つまり,註釈者ブッダゴーサにとって「世尊の言葉」が如何なる意味を有しているのかを検討したい.先ず,padavyañjanaに対するDAの語義説明を以下に引用する.

“padavyañjanānī” ti padasaṅkhātāni vyañjanāni.(DA II, 565.25-26)

〔訳〕「padavyañjana」とは,padaと呼ばれるvyañjanaである.

上記引用はこの複合語をkarmadhāraya-cpd.として説明している.pada及びvyañjanaの正確な意味は把握しかねるが,ここでのvyañjanaは「文字」や「子音」のことではなく,より語源的意味に近い「記号」として理解すべきであろう.ブッダゴーサは,「padaと呼ばれるvyañjana」によって,sutta及びvinayaに照合すべきものとして,pada(活用・曲用を経た語句か?)を単位とする「記号」,つまり,言葉の表意的な側面を想定しているものと考えられる.

次に,このpadavyañjanaの照合対象であるsutta及びvinayaの意味をブッダゴーサがどの様に理解しているのか検討したい.彼はsutta及びvinayaを典籍として位置付けようと試み,先ず,古説に則り以下の四案を提示する.

  1.   

    sutta=経分別(suttavibhaṅga);vinaya=犍度部(khandhaka)

  2.   

    sutta=大分別・比丘尼分別(ubhato vibhaṅga);vinaya=犍度部・附随(khandhakaparivāra)

  3.   

    sutta=経蔵(suttapiṭaka);vinaya=律蔵(vinayapiṭaka)

  4.   

    sutta=経蔵・論蔵(suttantābhidhammapiṭaka);vinaya=律蔵(vinayapiṭaka)

このうち,①は「律蔵さえも言い尽くされていない」故に,②は律蔵しか包摂されてない故に,③は「二蔵(経蔵・律蔵)しか言い尽くされていない」故に,採用されない.これらを受けて,「三蔵」全てを包摂するために提示されたのが④案であるが,しかし,経蔵及び論蔵の中に「suttaと呼ばれない仏語がある」として,この④案も採用されない.この「suttaと呼ばれない仏語」であるが,DNなどに属する一々の経がBrahmajālasutta(長部第一経)といった名称を持つのに対して,「~sutta」という名称を持たないJātakaなどを言い,また,一々の経が「~sutta」という名称を持っているにもかかわらず,結集において合誦されたものではないという伝承が一部にあるとされるSuttanipātaなどのことを言っている2

以上の四案ではsutta及びvinayaによって「三蔵」が包摂されないとして,如何なる案も採用しなかったブッダゴーサであるが,「suttaと呼ばれない仏語は存在しない」と主張するスディンナ長老の案3に賛同し,それに従って以下のような最終案を提示する.

tasmā “sutte” ti tepiṭake buddhavacane otāretabbāni. “vinaye” ti etasmiṃ rāgādivinayakāraṇe saṃsandetabbānī ti ayam ettha attho. (DA II, 566.28-30)

〔訳〕従って,「suttaに」つまり三蔵たる仏語に,引き合わせるべきで,「vinayaに」つまりその貪欲などを除去する手段に突き合わせるべきである,というこのことがここでの意味である.

ここでは,suttaは「三蔵たる仏語」と,vinayaは「貪欲などを除去する手段」と定義されている.vinayaが典籍として捉えられていない点は奇異に映るであろうが,これは然程注目するに値しない.suttaを「三蔵」として位置付けてしまったために,vinayaに配分する典籍がなくなってしまい,窮余の策としてvinayaを本義である《煩悩の調伏法》として定義したと考えるべきであろう.

以上,padavyañjana,sutta,vinayaに対するDAの語義説明を見てきたが,今度は,これらがブッダゴーサの如何なる仏語観を反映しているのか考えてみたい.上述のように,padavyañjanaは「padaと呼ばれるvyañjana」と説明され,その照合対象は「三蔵」とされている.照合すべきものが言葉の記号的側面であり,その照合対象が典籍であるということは,その典籍に語句が見出せるもののみが「世尊の言葉」ということになる.つまり,「世尊の言葉」は「三蔵」に掲載されている経文のみということになるが,このことに関連して,DAは以下のように述べている.

“na ceva sutte otarantī” ti suttapaṭipāṭiyā katthaci anāgantvā challiṃ uṭṭhāpetvā gūḷhavessantaragūḷhaummaggagūḷhavinayavedallapiṭakānaṃ aññatarato āgatāni paññāyantī ti attho. evaṃ āgatāni hi rāgādivinaye ca na paññāyamānāni chaḍḍetabbāni honti.(DA II, 566.31-35)

〔訳〕「suttaに合致せず」とは一連のsuttaの何れにも伝承されず,[suttaに]蔓草を立たせて,Gūḷhavessantara,Gūḷhaummagga,Gūḷhavinaya,Vedallapiṭakaの何れかに伝承されていることが明らかである,という意味である.実に,このように伝承され,貪欲などの除去法として認められないものは排除すべきである.

ここでは,padavyañjanaがsuttaつまり「三蔵」のどこにも掲載されず,他木に蔓草を絡ませるように,「三蔵」に寄生するGūḷhavessantara以下に伝承される教説を排除すべきことが説かれている.An[2002:63-65]によれば,Gūḷhavessantara以下はテーラヴァーディン以外の部派に所属するテキストであり,ブッダゴーサはそれら異端説に対してテーラヴァーディンの「三蔵」を権威付けようとしているとされる.しかし,この結論は少し拙速に過ぎないか.他木と一体化する蔓草の比喩が,テーラヴァーディン以外の部派に属する異端的テキストを表しているとは考えにくく,むしろ,テーラヴァーディン内部に存在し,「三蔵」に寄生する経文のはずである.Saṃyuttanikāyaaṭṭhakathā (=SN-A)でも,Gūḷhavessantara,Gūḷhavinaya,Vedallapiṭakaの三書は,正法の隠没をもたらす「文献としての正法の類似物」(pariyattisaddhammapaṭirūpaka)として例示されており4,ブッダゴーサは,上記引用で,「三蔵」のみを「世尊の言葉」として承認し,「三蔵」に類似する擬似的な経文を非仏説として排除しようと試みていたと理解すべきではなかろうか.

3. DATのCatumahāpadesakathā解釈とその背景にある仏語観

3.1. DATのCatumahāpadesakathā解釈

ここでは,DAに対するDATの註釈を参照し,註釈者ダンマパーラがpadavyañjana,sutta,vinayaを如何なる意味に理解しているのか確認したい.最初に,padavyañjanaに対する解説を以下に引用する.

“padabyañjanānī” ti padāni ca byañjanāni ca, atthapadāni byañjanapa- dāni cā ti attho. pajjati atttho etehī ti padāni, akkharādīni byañjanapadā- ni. pajjitabbato padāni, saṅkāsanādīni atthapadāni. aṭṭhakathāyaṃ pana “padasaṅkhātāni byañjanānī” ti byañjanapadāneva vuttānī ti keci. taṃ na, atthaṃ byañjentī ti byañjanāni, byañjanapadāni, tehi byañjitabbato byañjanāni;atthapadānī ti ubhayasaṅgahato.(DAT II, 212.13-20)

〔訳〕「padabyañjana」とは,padaとbyañjanaとであり,atthapadaとbyañjanapadaとを意味する.意味がそれによって伝わるからpadaであり,[そのようなpadaは]akkharaなどのvyañjanapadaである.伝わるべきものとしてpadaがあり,[そのようなpadaは]saṅkāsanāなどのatthapadaである.ところで,「アッタカターには『padaと呼ばれるbyañjana』とあり,byañjanapadaのみが述べられている」とある者達は言うが,それはそうではない.意味を顕し出す故に,byañjanaはbyañjanapadaであり,それによって顕し出されるものである故にbyañjanaはatthapadaであり,[「padaと呼ばれるbyañjana」は]両者(=byañjanapada,atthapada)を含意しているからである.

上記引用は,「padaとvyañjana」というdvandva-cpd.に分解し,その上で,padaをatthapadaという術語に,vyañjanaをvyañjanapadaという術語に言い換えている.ここでは,atthapada及びvyañjanapadaの内容は詳述されていないが,下線部において,前者は「伝わるべきもの」とされているので,言葉の意味的側面を指示する語であり,後者は「意味がそれによって伝わる」とされているので,言葉の記号的側面を指示する語であることが凡そ分かる.

このatthapada及びvyañjanapadaについて詳述しているのが,12世紀のビルマにおいてAggavaṃsaにより著述された文法書Saddanīti (=Sadd)である.それによると,vyañjanapadaはakkhara,pada,vyañjana,ākāra,nirutti,niddesaの六種とされ,atthapadaはsaṅkāsanā,pakāsanā,vivaraNa,vibhajana,uttānIkaraNa,paññattiの六種とされる.この一々の詳細については片山[1976]が検討しているので,それに譲るが,Saddは六種のvyañjanapadaと六種のatthapadaとを以下のように総括している.

atthato panettha katamaṃ vyañjanachakkaṃ katamaṃ atthachakkan ti: buddhassa bhagavato dhammaṃ desayato yo atthāvagamahetubhūto saviññattikasaddo, taṃ vyañjanachakkaṃ, yo tena abhisametabbo lakkhaṇarasādisahito dhammo, taṃ atthachakkan ti veditabbaṃ.(Sadd 910.4-8)

〔訳〕ここで,意味として,六種のvyañjanaは何であり,六種のatthaは何であるのかと言えば,仏・世尊の法を説示する者にとって,意味を知るための原因たるものであり,指示作用を持つ言葉が六種のvyañjanaであり,それ(=六種のvyañjana)によって理解されるべき,特性・性質などを備えたものが六種のatthaであると知るべきである.

上記引用の「六種のvyañjana」及び「六種のattha」は,DATのvyañjanapada及びatthapadaに対応している.ここでは,vyañjanapadaは《意味を表示し,伝達する記号》として,atthapadaはそのような《記号を通して理解されるべき内容》として位置付けられている.

このようなSaddの記述から,vyañjanapadaとatthapadaとが言葉の《記号的側面》と《内容的・意味的側面》とを指示する語であることがより明らかとなる.ところで,padavyañjanaをatthapadaとvyañjanapadaという術語に置き換える際に,その前提となる「padaとvyañjana」という複合語の分解が,DAの「padaと呼ばれるvyañjana」とは食い違っていることに気付くであろう.ダンマパーラ自身もこの相違点を認識していたようであり,ブッダゴーサとの整合性を保とうと,上記引用において「padaと呼ばれるvyañjana」とはvyañjanapadaのみならずatthapadaをも含意していると主張している.しかし,この主張は,自分の理解を中心に据え,ブッダゴーサの理解を自分のそれに引き寄せる作業に他ならず,それが,一層,彼の理解がブッダゴーサのそれとは本質的に異なっていることを物語っている.

次に,suttaとvinayaに対する解説を以下に引用する.

catusaccatthasūcanaṃ suttan ti āha “sutte ti tepiṭake buddhavacane” ti. tepiṭakaṃ hi buddhavacanaṃ saccavinimuttaṃ natthi. rāgādivinayanakā- raṇaṃ tathāgatena suttapadena pakāsitan ti āha “vinaye ti etasmiṃ rāgādivinayakāraṇe” ti.(DAT II, 215.5-9)

〔訳〕四諦の意味を指示すものがsuttaであるので,「『suttaに』つまり三蔵たる仏語に」(DA II, 566.28)と言うのである.実に,三蔵たる仏語が四諦を欠くことは無いのである.貪欲などを除去する手段が如来によって経文をもって明かされたので,「『vinayaに』つまりその貪欲などを除去する手段に」(DA II, 566.28-29)と言われるのである.

先ず,suttaに関して,DAの「三蔵」という定義は「四諦」を意図して言われたものであると主張している点が注目される.ブッダゴーサは,前節で述べたように,sutta及びvinayaを典籍として位置付けようと試みていたのであるから,ブッダゴーサの言う「三蔵」に「四諦」という抽象概念を読み込もうとするこのダンマパーラの姿勢は当を得たものとは思えない.上記引用の「何故ならば,三蔵たる仏語が四諦を欠くことは無いからである」からは,むしろ,ダンマパーラの真意が《sutta=四諦》にあることが読み取れよう.vinayaに関しては,DATの解説はDAを補完しているに過ぎないので,ダンマパーラもブッダゴーサの見解を支持し,「貪欲などを除去する手段」として理解していたと考えて間違いなかろう.

以上,padavyañjana,sutta,vinayaに対するDATの解説を順を追って見てきたが,このうち,padavyañjanaとsuttaに対する解説がDAのそれとは本質的に異なっていることに気付く.DATは,padavyañjanaをatthapadaとvyañjanapadaという特殊な術語として言い換え,言葉の《記号的側面》のみならず《内容的側面》をも指示する語として捉え,その照合対象であるsuttaも典籍ではなく「四諦」という概念で捉え直している.このような解釈からは,「世尊の言葉」である証は,某比丘が持って来た教説が「三蔵」に一字一句見出せるということより,むしろ,その教説が内容的に「四諦」及び「貪欲などを除去する手段」を説いていることにあるとでも言いたいように読み取れる.しかし,DATには,三蔵に属するもののみが「世尊の言葉」であるというDAの仏語観から逸脱する記述は見出せず,《padavyañjana=vyañjanapada,atthapada》《sutta=四諦》という定義が如何なる仏語観を反映しているのか明示する箇所はそこにはない.

3.2. DATとNettipakaraṇaの関係

ここでは,DATに特有と思われる《padavyañjana=vyañjanapada,atthapada》《sutta=四諦》という定義が如何なる文献的な背景を得て産み出されたのか探りたい.この作業は,迂遠に見えるかもしれないが,DATでは言明されることのないダンマパーラの仏語観を探る上で、重要な手掛かりを提供してくれるであろう.

しばしば指摘されるように,Nettipakaraṇa(=Net)のYuttihāravibhaṅga(Yuttihāraの分析)5に,Catumahāpadesakathāと類似する内容を持つ一節が存在し,padavyañjanaをsuttaなどと照合する作業が説かれている.そこで注目すべきは, suttaは「四聖諦」として,vinayaは「貪欲の除去,瞋恚の除去・愚痴の除去」として位置付けられていることであり6,DATと同じ語義解釈が施されている.DATを含むパーリ経蔵四部の復註が「Netの方針」(nettinaya)と密接な関係にあることを加味すると7,ダンマパーラの定義はこのYuttihāravibhaṅgaに依拠して産み出されたと考えてよさそうである.

しかし,ここで,DATとYuttihāravibhaṅgaの間に存在する差異について言及する必要があろう.先述したように,DATではpadavyañjanaはvyañjanapadaとatthapadaという術語に言い換えられているが, Yuttihāravibhaṅgaにはこの語に対する解説は特にない.六種のvyañjanapadaと六種のatthapadaの一々がNetの術語であることは確かであるが8,Yuttihāravibhaṅgaには,padavyañjanaをvyañjanapada及びatthapadaに関連付ける記述はないのである.また,これとは次元を異にするが,ダンマパーラがYuttihāravibhaṅgaと関連付けてCatumahāpadesakathāを理解する際に,その前提となるはずのCatumahāpadesakathāとYuttihāravibhaṅgaとの内容上の一致について問題がある.それはpadavyañjanaの照合対象として,suttaとvinaya以外にYuttihāravibhaṅgaではdhammatāが加わっている点である9.これらからは,Yuttihāravibhaṅgaの照合作業がCatumahāpadesakathāのそれとは主旨を異にしている可能性も否定できず,ダンマパーラがYuttihāravibhaṅgaの説明を借用する上で大きな障害となったであろう.

ここで,これらの問題点を解明するために,Netの註釈書であるNettiaṭṭhakathā (=Net-A)によるpadavyañjanaとdhammatāに対する語義説明を参照してみたいと思う10.というのは,ダンマパーラはパーリ仏教の伝統的解釈に則ってYuttihāravibhaṅgaを理解し,それを借用した可能性が考えられるからである.先ず,padavyañjanaの意味について,Net-Aの解説を参照したい.

“tāni padabyañjanānī” ti kenaci ābhatasuttassa padāni byañjanāni ca, atthapadāni ceva byañjanapadāni cā ti attho.(Net-A 80.28-29)

〔訳〕「それらpadabyañjanaを」とは,ある人が持って来た経文のpadaとbyañjanaとを,つまり,atthapadaとbyañjanapadaとを,という意味である.

ここでは,padavyañjanaはpadaとvyañjanaのdvandva-cpd.に分解され,更に,それがvyañjanapadaとatthapadaとに言い換えられている.これは明らかにDATの説明と同じであり,ダンマパーラは,このNet-Aに示されるような伝統的説明に沿ってYuttihāravibhaṅgaのpadavyañjanaの意味を理解し,それをDATにおけるpadavyañjanaの解釈に適用したものと考えられる.

次に,dhammatāに対するNet-Aの語義説明を参照し,dhammatāがCatumahāpadesakathāでは照合対象として挙げられず,Yuttihāravibhaṅgaでのみ挙げられている理由について検討してみたい.

“dhammatāyan” ti padassa atthaṃ dassetuṃ “paṭiccasamuppāde” ti vuttaṃ. paṭiccasamuppādo hi “ṭhitā va sā dhātu dhammaṭṭhitatā dhammaniyāmatā” ti vutto. “dhammatāyaṃ upanikkhipitabbānī” ti idaṃ pāḷiyaṃ natthi, atthadassanavasena pana idha vuttan ti daṭṭhabbaṃ.(Net-A 81.30-82.2)

〔訳〕「dhammatāに」という言葉の意味を示そうと,「縁起に」と言われている.実に,縁起は「そのような道理は定まっている.存在物の法則,存在物の秩序[は定まっている]」11と説かれているのである.「dhammatāに引き合わせる」というこの[言葉は]はパーリにはないが,[そのパーリの]内容を見ることによってここ(=Net)に言及されていると理解すべきだ.

先ず,ここで注目したいのは,「パーリ」という言葉である.Net-Aにとり,原典たる「パーリ」はNetを指すはずであるが,そのNetには「dhammatāに引き合わせる」という言葉が確かに存在している.ということは,この「パーリ」は別のパーリを指すことになるが,ここで想定しうるのは今問題にしているDNのCatumahāpadesakathāである.Net-Aは,suttaを解説する際に,Yuttihāravibhaṅgaの《sutta=四聖諦》とDAの《sutta=三蔵》との整合性を保とうとしており12,このようにNet-AがCatumahāpadesakathāと対比しながらYuttihāravibhaṅgaに註釈を施している態度を勘案すると,この「パーリ」はCatumahāpadesakathāがであると考えて良さそうである.

では,このように,「パーリ」がCatumahāpadesakathāを指すとなると,dhammatāがYuttihāravibhaṅgaでのみ言及されている理由は,どのように説明できるだろうか.上記引用には「[そのパーリの]内容を見ることによってここ(=Net)に言及されていると理解すべきだ.」とあり,要するに,YuttihāravibhaṅgaがCatumahāpadesakathāの主旨を読み取ってsutta,vinaya以外にdhammatāを照合対象として付け加えたとNet-Aは説明しているのである.

以上のことは,Net-Aというレンズを通して見たYuttihāravibhaṅgaの内容はDATと相通じていることを示しており,ダンマパーラはYuttihāravibhaṅgaに即してCatumahāpadesakathāを解釈していたと考えて間違いなさそうである.Net-AはGandhavaṃsaにおいてDATと共にダンマパーラに帰せられており,また,Gandhavaṃsaでダンマパーラ作とされる諸著作間にはしばしば借用・剽窃関係が存在することが確認されていることから13,ダンマパーラは自作のNet-Aそのものに沿ってYuttihāravibhaṅgaを解釈し,それをDATにおいて応用した可能性が高いのである.

3.3. ダンマパーラにとっての「世尊の言葉」の意味

以上の検討によって,DATによる《padavyañjana=vyañjanapada,atthapada》《sutta=四諦》という定義が,Net-Aという橋渡しの下,Yuttihāravibhaṅgaに由来することが明らかとなった.ここで,再度,ダンマパーラが如何なる仏語観を抱いているのか検討してみたい.先述したように,DATには,この辺について言及する記述はない.しかし,今,我々はYuttihāravibhaṅgaを考慮に入れつつ,それを探ることが許されるのである.

ここで,padavyañjanaをsuttaなどに照合する作業がYuttihāravibhaṅgaにおいて如何なる意味を持っているのか,Net-Aの見解を参照したいと思う.下記引用では,この照合作業はyuttihāra(正当性を運ぶもの)という言葉で呼ばれている.

tattha “kiṃ yojayatī” ti yuttihārassa visayaṃ pucchati. ko panetassa visayo. atathākārena gayhamānā suttatthā visayo, te hi tena sātisayaṃ yāthāvato yuttiniddhāraṇena yojetabbā. itaresu pi ayaṃ hāro icchito eva. taṃ pana bhūtakathanamattaṃ hoti.(Net-A 80.8-12)

〔訳〕そのうち,「何を正当化するのか?」とは,yuttihāraの対象について尋ねているのである.ところで,それ(=yuttihāra)の対象とは何か?その通りにではなく把握される聖典(sutta)の意味が対象である.何故ならば,それら(=「その通りにではなく把握される聖典の意味」)は,その非常に厳密なyutti(正当性)の確認によって正当化されるべきであるからだ.一方(=その通りに把握される聖典の意味)においても,このhāraが望まれる.しかし,それ(=その通りに把握される聖典の意味)は真正の教説にほかならないのである.

ここでは,「その通りにではなく把握される聖典(sutta)の意味」が正当なものであるか否かを確認する作業としてyuttihāraが説明されている.そして,もう一方の《その通りに把握されている聖典の意味》は「真正の教説にほかならない」とされるので,正当性の確認は本来的には不要ということであろう.要するに,上記引用では,padavyañjanaをsuttaなどに照合する作業は,未了義である聖典の意味を解釈する方法,より噛み砕けば,《聖典解釈法》とされているのである.

ここで,DATがYuttihāravibhaṅgaを援用していることに基づいて,このことをDATのCatumahāpadesakathā解釈に敷衍してみたい.この場合,padavyañjanaをsutta及びvinayaに照合し,「世尊の言葉」であるか否かを判断する作業は《聖典解釈法》ということになる14.ということは,この照合作業は《聖典形成》という文脈を離れ,「世尊の言葉」も《聖典》という概念とは結びつかなくなり,そして,「世尊の言葉」は《聖典の意味を解釈し,sutta及びvinayaとの照合によって正当性が確認された解釈の言葉》を意味することになろう.このことをより明確に言うならば,「世尊の言葉」は聖典解釈の対象ではなく,聖典解釈の結果ということになる15

ここでは,ブッダゴーサとダンマパーラとがCatumahāpadesakathāの「世尊の言葉」を如何なる意味に理解しているのか簡潔に述べたいと思う.研究者の多くが「世尊の言葉」という語を《聖典》という概念と結びつけて理解していることについては最初のところで述べたが,そのような思考は,ある程度,ブッダゴーサについても当て嵌まる.彼は,擬似的な経文を非仏説として排除し,「三蔵」のみを「世尊の言葉」として位置付けようと試みているのである.ところが,「世尊の言葉」を典籍として捉え,聖典形成という文脈の中でCatumahāpadesakathāを理解することに慣れている我々にとって,ダンマパーラの理解は予想外のものである.彼は,padavyañjanaをsuttaなどに照合する作業を《聖典解釈法》として位置付け,「世尊の言葉」を,《聖典の意味を解釈し,sutta(=四諦)及びvinaya(=煩悩の除去法)との照合作業を経て,妥当性が認められた解釈の言葉》として理解しているのである.彼にとって,「世尊の言葉」という語の外延は,我々が抱く《聖典》やブッダゴーサの言う《三蔵》よりも広くなっているようである.

Footnotes

Cf. DN II, 123.20-126.13. このCatumahāpadesakathāという名称はビルマ第六結集版DNによる.

Cf. DA II, 565.32-566.6; DAT II, 213.18-25.

Cf. DA II, 566.7-10.

以下は「カッサパよ,正法に類似するものがこの世に生じる故に,正法の消失がある」(yato ca kho kassapa saddhammapaṭirūpakaṃ loke uppajjati atha saddhammassa antaradhānaṃ hoti)に対する註釈である.

(tisso pana sangītiyo anāruḷhaṃ:dhātukathā, ārammaṇa-kathā, asubhakathā, ñāṇavatthukathā, vijjākadambako ti, imehi pañcahi kathāvatthūhi:bāhiraṃ guḷhavi- nayaṃ) guḷhavessantaraṃ, vaṇṇapiṭakaṃ, angulimālapiṭakaṃ, raṭṭhapālagajjitaṃ, ālavakagajjitaṃ, vetullapiṭakan ti, idaṃ abuddhavacanaṃ pariyattisaddhammapaṭi- rūpakaṃ nāma.(SN-A II 201,22-202,2)

ビルマ第六結集版,タイ王室版では,“vetullapiṭakan”は“vedallapiṭakan”と表記されている.また,括弧の内部の典籍も括弧なしで掲載されている.

Cf. Net 21.26-27.4. このYuttihāravibhaṅgaという名称はビルマ第六結集版Netによる.

katamasmiṃ sutte otārayitabbāni? catūsu ariyasaccesu. katamasmiṃ vinaye sandassayitabbāni? rāgavinaye dosavinaye mohavinaye.(Net 22.1-4)

古山[2005]

Desanāhāravibhaṅga(=Net 8.29-32)にakkharaなどの六種のvyañjanapadaとsaṃkāsanāなどの六種のatthapadaが見出せる.

tāni padabyañjanāni sutte otārayitabbāni, vinaye sandassayitabbāni, dhammatā- yaṃ upanikkhipitabbāni.(Net 21.32-33)

Net及びNet-Aを解読する上で,浪花宣明[1996]を参照した.

Cf. SN II, 25.19-20.

tattha yasmā bhagavato vacanaṃ ekagāthāmattam pi saccavinimuttaṃ natthi, tasmā “sutte” ti padassa atthaṃ dassetuṃ “catūsu ariyasaccesū” ti vuttaṃ. aṭṭhakathāyaṃ pana tīṇi piṭakāni suttan ti vuttaṃ, taṃ iminā nettivacanena aññadatthu saṃsandati ceva sameti cā ti daṭṭhabbaṃ.(Net-A 81.4-8)

〔訳〕そのうち,世尊の言葉は一偈たりとも四諦を欠くことはないので,「suttaに」という語の意味を示そうと「四聖諦に」と言われたのである.ところで,アッタカターには「suttaとは三蔵であり」(DA II, 556.8-9)と言われるが,それは他ならぬこのNetの言葉と合致し,一致すると理解すべきである.

Cf. 森[1984:530-539].

ダンマパーラは,Catumahāpadesakathāが「世尊」,「サンガ」,「霊力ある諸比丘」,或いは「霊力ある一比丘」より聞き受けた教説を「世尊の言葉」であるか否かを判断する一節であることを閑却し,この一節のpadavyañjanaをsutta及びvinayaに照合する作業にのみ注目していた可能性も勿論ある.

このようにダンマパーラが「世尊の言葉」を《正当性が確認された解釈の言葉》として理解する背景として,聖典解釈を担うアッタカターを「世尊の言葉」として認めようとしていた可能性がある.DATには,以下のように,アッタカターはブッダの教説を用いて結集者たちが編集したものであるという考えが示されており,ダンマパーラはアッタカターを仏語視していたとも考えられるのである.

yadi pi tattha tattha bhagavatā pavattitā pakiṇṇakadesanā va aṭṭhakathā, sā pana dhammasaṅgāhakehi paṭhamaṃ tīṇi piṭakāni saṅgāyitvā tassa atthavaṇṇanānurūpeneva vācanāmaggaṃ āropitattā “ācariyavādo” ti vuccati. ācariyā vadanti saṃvaṇṇenti pāḷiṃ etenā ti. tenāha “ācariyavādo nāma aṭṭhakathā” ti.(DAT II 217.8-14)

〔訳〕たとえ,アッタカターとはそこここで世尊が転輪した雑多な教説に他ならないにしても,それは,法結集者達によって,先ず三蔵を結集した後に,それ(=三蔵)に相応しい語義説明として誦み上げられたが故に,「阿闍梨の説」と言われる.阿闍梨がこれによって聖典を説明し,註釈したので,それ故に「阿闍梨の説はアッタカターである」と言われるのである.

4. 最後に
  • AN = Aṅguttaranikāya, 6 vols, Pali Text Society, 1885-1910.
  • DN = Dīghanikāya, 3 vols, Pali Text Society, 1890-1911.
  • DA = Sumaṅgalavilāsinī, 3 vols, Pali Text Society, 1886-1932.
  • DAT = Dīghanikāyaaṭṭhakathāṭīkā, 3 vols, Pali Text Society, 1970.
  • Net = Nettipakaraṇa, Pali Text Society, 1902.
  • Net-A = Nettipakaraṇaaṭṭhakathā, Buddhist Sāsana Council Series, 1961.
  • Sadd = Saddanīti(transcript by Helmer Smith).
  • SN = Saṃyuttanikāya, 5 vols, Pali Text Society, 1884-1898.
  • SN-A = Sāratthappakāsinī, 3 vols, Pali Text Society, 1929-1937.
  • 片山一良[1976]「原始仏典の表現方法 ― vyañjanapada·atthapada ―」『駒沢大学仏教学部研究紀要』34, 47-64
  • 浪花宣明[1996]「Nettipakaraṇaの研究:ハーラの分析(I)」『佛教研究』25, 131-155
  • 古山健一[2005]「ṭikā文献におけるpakaraṇa-naya及びnetti-nayaについて」『印度學佛教學研究』106, 103-106
  • 森 祖道[1984]『パーリ仏教註釈文献の研究』山喜房佛書林
  • An, Yang-Gyu[2002] Canonization of the Word of the Buddha with reference to Mahapadesa, Buddhist and Indian Studies in Honour of Professor Dr. Sodo Mori, International Buddhist Association, 55-66
  • Collins, S. [1990] On the Very Idea of the Pali Canon, Journal of the Pali Text Society 15, 89-125
  • Cousins, L.S.[1980] Pali Oral Literature, Buddhist Studies : Ancient and Modern, Curzon Press, 1-11
  • v. Hinüber, O.[1996] A Handbook of Pāli Literature, Walter de Gruyter & Co
 
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