2007 Volume 11 Pages 100-128
無我を説く一方で輪廻を認める仏教にとり,作業や受報の主体の問題が非常に重要であることは贅言を要しない.本稿では,部派仏教の諸文献に述べられる自我に関する議論中,とくに作業や受報の主体の存在を争点にし論じている箇所に焦点を当てる.
部派仏教の論書において,自我の問題を真っ向から論じ,その非存在を明かす箇所はけっして多くなく,むしろ諸論書全体の浩瀚さに比すればきわめて少ないと言えることが,桜部氏によりすでに明らかにされている(桜部 [1963], p. 458).ともあれ,比較的まとまって自我の観念を破している部派仏教の論書を,部派の区別なく,おおよその成立年代順に示せば,次のようである.
・『カターヴァットゥ』(Kathāvatthu (Kv.), 前3世紀~前1世紀ころ)「大品」(Mahāvagga)中の「プドガラ論」(Puggalakathā)
・『阿毘達磨識身足論』(以下『識身足論』)(Abhidharmavijñānakāyapādaśāstra, 前3世紀~後1世紀ころ)「補特伽羅蘊」
・『阿毘達磨発智論』(以下『発智論』)(Abhidharmajñānaprashtānaśāstra, 前2世紀~後1世紀ころ)「見蘊」
(異訳:『阿毘曇八犍度論』(以下『八犍度論』)(Abhidharmāṣṭagranthaśāstra)「見犍度」)
・『ミリンダパンハー』(Milindapañhā(or °ho, °ha) (Mil.), 前1世紀~後1世紀ころ)「第2品」(dutiya vagga)から「第7品」(sattama vagga)
・『阿毘達磨大毘婆沙論』(以下『大毘婆沙論』)(Abhidharmamahāvibhāśāśāstra, 2世紀ころ)「見蘊」
・『成実論』(Satya(or Tattva)siddhiśāstra, 250年~350年ころ)「無我品」「有我無我品」「身見品」「辺見品」
・『阿毘達磨倶舎論』(以下『倶舎論』)(Abhidharmakośabhāṣya (AKBh.), 4世紀~5世紀ころ)「破我品」(pudgalakośa)
・『三弥底部論』(Sammitīyanikāyaśāstra, 成立年未詳)巻上―中
ただし,自我の観念を破するのに独立した1章を設けているような書となると,『発智論』と『大毘婆沙論』(とりわけ前者)は除かれるべきかもしれない.『発智論』「見蘊」と『大毘婆沙論』「見蘊」は,『識身足論』「補特伽羅蘊」に始まる執我を破する(破邪の)論を受け継ぎ,それがのちに『倶舎論』「破我品」へと継承されたことが指摘されている(福原 [1965], p. 194;福原 [1975], pp. 361–1201).しかしながら,『発智論』「見蘊」における自我に関する議論は少なく,『大毘婆沙論』「見蘊」においても,被注釈書である『発智論』にはない六十二見論を除けば,自我に関する議論は多くないのも事実である.
人格主体を表わす語として代表的なものはアートマン(我,Skt.: ātman,Pāli: attan)であり,それと同列に置かれる語として,プドガラ(補特伽羅,数取趣,Skt.: pudgala,Pāli: puggala),有情(衆生,Skt.: sattva,Pāli: satta),那羅(不悦,nara),摩㝹闍(意生,manuja;Skt.: manuṣya,Pāli: manussa),儒童(摩那婆,māṇava or mānava),命者(jīva),〔能〕養〔育〕者(Skt.: poṣa,Pāli: posa),生者(jantu),士夫(Skt.: puruṣa,Pāli: purisa)なども挙げられる.『ミリンダパンハー』では,vedagūという語が,「内にあるjīva(命者)」(abbhantare jīva)と同義とされ(Mil., p. 54),同書の他の箇所(Mil., p. 71)でもおそらく同様の意味で用いられている.なお,プドガラは業思想と関連が深いと従来考えられているようであり,プドガラを業の代替存在とする説も見られる(増山 [1920], p. 51).
こうした語でもって作業や受報の主体を立てることに対し,無我を説く仏教部派からはいかなる批判がなされているかをできるだけ網羅的に紹介する.本稿ではとくに,「作業や受報の主体を認めた場合,いかなる不都合が生ずるか」あるいは「作業や受報の主体を認めえない理由」を論じている箇所に注目して,その議論の有効性も考察したい.
ここでは,作業や受報の主体の問題に関していかなる議論がなされているか,おおよその成立年代順(前掲の順)に,各論書の諸説を紹介したい.
前もって議論の内容を分類すれば,次のように言うことができる.
・「人格主体を認めない立場から作業や受報を述べる」(【自説主張】)
・「つくり感受する主体や能力のない例を挙げつつ,業や果報,あるいはそれをつくり感受する主体についても同様であるとする」(【例示】)
・「作業や受報の主体を認めるのは謬見である,あるいはそのような主体は存在しないとだけ主張する」(経の引用を含む)(【否定】)
・「作業や受報の主体を認めた場合の不都合,認めえない理由を論ずる」(【論駁】)
(【 】内の語は,筆者が仮に定めたもの)
このうち,「作業や受報の主体を認めた場合,いかなる不都合が生ずるか」あるいは「作業や受報の主体を認めえない理由」を論じている箇所と言える,「例示」「論駁」についてとくに詳述する.「自説主張」や「否定」に当たる議論についても,作業や受報の主体に関する議論をできるだけ網羅的に紹介するという趣旨から,省略せずに,少なくとも要約あるいは原文を記すこととするが,紙幅の都合で,無我説者が自業(自作)〔自受〕を説いている箇所(経の引用を含む)の紹介は,一部を除き割愛する.
1.『カターヴァットゥ』「大品」(Mahāvagga)中の「プドガラ論」(Puggalakathā)における「善品第一」(Kalyāṇavaggo paṭhamo (Kv., pp. 45–55))に,作業や受報の主体の問題を扱った議論が見られる.なお,対論中の(自:)とは,立論者である自論師(sakavādin)の略であり,(他:)とは,対論者である他論師(paravādin)の略である1.まず,次のような対論が見られる.
201.(自:)善悪業は知られ,善悪業をつくるもの・つくらせるものは知られるか?/(他:)しかり./(自:)彼(善悪業をつくるものまたはつくらせるもの)をつくるもの・つくらせるものは知られるか?/(他:)けっしてそのように言うべきではない――中略――/(自:)彼(善悪業をつくるものまたはつくらせるもの)をつくるもの・つくらせるものは知られるか?/(他:)しかり./(自:)彼を〔つくるものまたはつくらせるものである〕彼に苦の終局はなく,輪廻の断絶はなく,無執着の般涅槃はないのか?/(他)けっしてそのように言うべきではない――中略―― (Kv., p. 45)2
同様の議論が,Kv., pp. 47–52, 54–55で展開されている.形式はまったく同じであり,ただ一部語が入れ替わるのみである.語の入れ替わりは次のようである.kalyāṇapāpakāni kammāni (善悪業) に代わり,それぞれkalyāṇapāpakānaṃ kammānaṃ vipāka (善悪業の異熟),dibbaṃ sukhaṃ (天の楽),mānusakaṃ sukhaṃ (人の楽),āpāyikaṃ dukkham (悪趣の苦),nerayikaṃ dukkhaṃ (地獄の苦),kamma (業),vipāka (異熟) が述べられ,kalyāṇapāpakānaṃ kammānaṃ kattā kāretā (善悪業をつくるもの・つくらせるもの) に代わり,それぞれkalyāṇapāpakānaṃ kammānaṃ vipākapaṭisaṃvedin (善悪業の異熟を感受するもの),dibbassa sukhassa paṭisaṃvedin (天の楽を感受するもの),mānusakassa sukhassa paṭisaṃvedin (人の楽を感受するもの),āpāyikassa dukkhassa paṭisaṃvedin (悪趣の苦を感受するもの),nerayikassa dukkhassa paṭisaṃvedin (地獄の苦を感受するもの),kammakāraka (業をつくるもの),vipākapaṭisaṃvedin (異熟を感受するもの) が述べられている.
この議論では,〔善悪〕業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,種々の異熟を感受するもの)が存在するならば,彼(〔善悪〕業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,種々の異熟を感受するもの))をつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,感受するもの)もまた存在することになり,その結果,業(同様に,業の異熟)が存続することとなって,苦の終局はなく,輪廻の断絶はなく,無執着の般涅槃はなくなってしまう,ということを言わんとしている(【論駁】).
続いて,次のような対論がなされている.
(自)善悪業は知られ,善悪業をつくるもの・つくらせるものは知られるか?/(他)しかり./(自)プドガラは知られ,プドガラをつくるもの・つくらせるものは知られるか?/(他)けっしてそのように言うべきではない――中略―― (Kv., p. 45)3
さらにまったく同じ形式で,puggala (プドガラ) に代わり,nibbāna (涅槃),mahāpathavī (大地),mahāsamudda (大海),Sineru pabbatarājan (須弥山),āpo (水),tejo (火),vāyo (風),tiṇakaṭṭhavanappati (草・枝・樹木) が述べられる(Kv., pp. 45–46).そして同様の議論が,Kv., pp. 47–52, 54–55で展開されている.形式はまったく同じであり,ただ一部語が入れ替わるのみである(入れ替わる語は前と同じ).
この議論では,存在するけれどもそれをつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,感受するもの)が存在しない例を挙げ,業(同様に,業の異熟)もまたそうであることを示している(【例示】).
そして,次のように一連の議論を結んでいる.
(自)善悪業は――中略――つくらせるものは知られるか?/(他)しかり./(自)善悪業と善悪業をつくるもの・つくらせるものとは異なるか?/(他)けっしてそのように言うべきではない――中略―― (Kv., p. 46)4
同様の議論が,Kv., pp. 47–52, 54–55で展開されている.形式はまったく同じであり,ただ一部語が入れ替わるのみである(入れ替わる語は前と同じ).
この議論では,〔善悪〕業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,種々の異熟を感受するもの)が存在するならば,〔善悪〕業(同様に,種々の異熟)と〔善悪〕業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,種々の異熟を感受するもの)とは異なることになり,不都合であることを言わんとしている(【論駁】).ちなみに注釈書によれば,「善悪業と善悪業をつくるもの・つくらせるものとが異なる」とすることは,「アートマンは行を有する」云々の見解(saṅkhāravantaṃ vā attānan ti ādidiṭṭhi (KvA., p. 31))に陥ることを意味し,「善悪業の異熟と善悪業の異熟を感受するものとが異なる」とすることは,「アートマンは受を有する」云々の見解(vedanāvantaṃ vā attānan ti ādidiṭṭhi (KvA., p. 31))に陥ることを意味する.
さらに,Kv., pp. 52–53, no. 212では次のような議論もなされている.繁雑になることを避け,要約して紹介する.すなわち,善悪業をつくるもの・つくらせるもの,異熟を感受するものが存在するならば,次の4つ,さらにはそれらの結合のいずれかに帰着し,不都合であることを指摘している(【論駁】).
(1) つくるものと感受するものとは同じである(so karoti so paṭisaṃvedeti)→楽苦は自らつくったものである(sayaṃ kataṃ sukhadukkhan ti)
(2) つくるものと感受するものとは異なる(añño karoti añño paṭisaṃvedeti)→楽苦は他のつくったものである(paraṃ kataṃ sukhadukkhan ti)
(3) つくるものと感受するものとは同じでありかつ異なる(so ca añño ca karonti, so ca añño ca paṭisaṃvedenti)→楽苦は自らつくりかつ他のつくったものである(sayaṃ katañ ca paraṃ katañ ca sukhadukkhan ti)
(4) つくるものと感受するものとは同じでもなく異なるのでもない(n’ eva so karoti na so paṭisaṃvedeti, na añño karoti na añño paṭisaṃvedeti)→楽苦は自らつくったのでもなく他のつくったのでもなく,無因にして生じたものである(asayaṃ kāraṃ aparaṃ kāraṃ adhiccasamuppannaṃ sukhadukkhan ti)
(5) 上記4つの結合
いずれの場合も経に反することになるという論駁と言える.ニカーヤには,「楽苦は自らつくったものである」「楽苦は他のつくったものである」「楽苦は自らつくりかつ他のつくったものである」「楽苦は自らつくったのでもなく他のつくったのでもなく,無因にして生じたものである」という主張を認めない記述が見いだされる5.ただし,「つくるものと感受するものとは同じである」等と「楽苦は自らつくったものである」等とが関連づけられ論じられているところからすれば,SN. II, pp. 18–22, no. 17が直接の関連箇所と言えるかもしれない.
2.『識身足論』『識身足論』巻3(大正蔵26, 542b6–543b6)において,作業と受報の主体に関する議論が展開されている.繁雑になることを避け,要約して紹介する.プドガラの実在を主張する論者(補特伽羅論者)は,アートマン,プドガラ等(我・有情・命者・生者・養育・士夫・補特伽羅)が存在するからこそ業とその感受が成立することを述べている(大正蔵26, 542b6–11, 542c24–29).それに対して,空性を説く論者(性空論者)は,もしそうならば,(1)「自ら苦楽をつくる」(自作苦楽)あるいは (2)「他が苦楽をつくる」(他作苦楽),(3)「つくるものと感受するものとは同じである」(此作此受),(4)「つくるものと感受するものとは異なる」(異作異受)ということになり,不都合であるとする((1) 大正蔵26, 542b11–c11;(2) 大正蔵26, 542c11–23;(3) 大正蔵26, 542c29–543a27;(4) 大正蔵26, 543a27–b6).さらに,典拠となる経を引用し,(1) から (4) のいずれも世尊により否定されていることを指摘している(【論駁】).
引用される経はそれぞれ次のようなものである.まず,第1の主張(自作苦楽)に対しては,
ティンバルカ(Timbaruka,鉆部盧)よ,感受と感受するものとは同じであり,あらゆるものが自らをして苦楽をつくらせようとすると,このようなことは,ティンバルカよ,わたし(世尊)はこれまで一度も説かなかった.(大正蔵26, 542c9–10)6
第2の主張(他作苦楽)に対しては,
ティンバルカよ,感受と感受するものとは異なり,あらゆるものが他をして苦楽をつくらせようとすると,このようなことは,ティンバルカよ,わたし(世尊)はこれまで一度も説かなかった.(大正蔵26, 542c20–22)7
第3の主張(此作此受)に対しては,
〔世尊はあるバラモンのために次のように説かれた〕.バラモンよ,つくるものと感受するものとは同じであると言うのは,常見に堕することになる.(大正蔵26, 543a20)8
第4の主張(異作異受)に対しては,
〔世尊はあるバラモンのために次のように説かれた〕.バラモンよ,つくるものと感受するものとは異なると言うのは,断見に堕することになる.(大正蔵26, 543b2–3)9
この議論は,前出のKv., pp. 52–53, no. 212の議論と対照しうる.Kv.では,『識身足論』で言う第1と第3,第2と第4の場合がそれぞれ関連づけられていたが,ここでは個別に論じられており,かつKv.の議論における第3と第4,さらには第1から第4の結合に当たるものが説かれていない.また,『識身足論』で言う「自作〔楽苦〕」「他作〔楽苦〕」は,感受そのものと感受者との同一性・相違性に関連しており,その相当パーリ経典としては,SN. II, pp. 22–23, no. 18を挙げることができる.
3.『発智論』「見蘊」(大正蔵26, 1022c13–1031c29)において自我に関する議論が多少見いだされる.作業や受報の主体の問題に関する箇所としては,次のような諸説が挙げられる.
まず,アートマンといったような作業や受報の主体を認めた場合の不都合を指摘したもの,認めえない理由を述べたものとして,『発智論』巻20では次のように説かれている.
あらゆる者のこの見解,すなわち「自ら苦楽をつくる」「他が苦楽をつくる」「自らと他とが苦楽をつくる」というこの〔見解は〕,因ではないものを因と見なす戒禁取であり,苦諦を観ずることで断ぜられるものである.あらゆる者のこの見解,すなわち「感受するところの苦楽は,自らつくったものではなく,他がつくったものでもなく,因なくして生じたものである」というこの〔見解は〕,因を撥無する邪見であり,集諦を観ずることで断ぜられるものである.(大正蔵26, 1028a27–b2)10
『カターヴァットゥ』で示されていた4句が,ここでも説かれ否定されている.前掲引用文中にはないが,この直後に自我に関する文言が出ており,『カターヴァットゥ』におけると同様,何らかの作業や受報の主体を認めた場合に陥る謬見が示されていると見なせる(【論駁】).
不都合や理由を述べたもの以外の説として,『発智論』巻20では,「アートマン等が存在し,善悪の業をつくりその果報を受ける」云々という説を誤った見解であると断じている(大正蔵26, 1028b10–15.異訳『八犍度論』大正蔵26, 914a11–13)(【否定】)
4.『ミリンダパンハー』とりわけ前半部(Mil., pp. 25–87)に,人格主体や霊魂の有無の問題をめぐって比較的長い対論が散見される.作業や受報の主体の問題に関する箇所を挙げるとすれば,次のようである.
Mil., pp. 46–48では,名色(nāmarūpa)が転生する(paṭisandahati)と明言され,かつ,この(imaṃ)(=現在の)名色が転生しなくとも,人は悪業(pāpaka kamma (pl.))から免れないことが述べられている(【自説主張】).種々の例え(opamma)が挙げられ,死滅する(māraṇantika)名色と再生する(paṭisandhismiṃ)名色とに業による関連があるため,人は悪業から免れないと結論されているが,それらの例えはいずれも,作業や受報の主体が存在しないことを明かすためのものというよりはむしろ,転生の前後に関連があることを説明するためのものである(つまり,本稿で言う「例示」には当たらない).
Mil., p. 72では,この身体から他の身体に移るもの(imamhā kāyā aññaṃ kāyaṃ sankamanto)が存在しなくとも,人は悪業から免れないとされている(【自説主張】).例えが示され,この(imaṃ)(=現在の)名色と他の(añña)再生する名色とは業による関連があるため,人は悪業から免れないと結論されている.前記Mil., pp. 46–48とほぼ同じである.ただし,挙げられる例は,植えられたマンゴーの実と盗まれたそれのみである.この例えが,転生の前後に関連があることを説明するためのものである(つまり,本稿で言う「例示」には当たらない)と言えることは,先ほどと同様である.
Mil., pp. 413–414では,複数の見解を論争の道(vivādapatha)であるとしているが,その中に,つくるものと感受するものとは同じである〔とする見解〕(yo karoti so paṭisaṃvedeti),つくるものと感受するものとは異なる〔とする見解〕(añño karoti añño paṭisaṃvedeti),業果に関する〔誤った〕見解(kammaphaladassanā)という3つが含まれている.ただし,見解の名を挙げるのみで,具体的な内容は説かれていない(【否定】).
5.『大毘婆沙論』「見蘊」(大正蔵27, 936c5–1004a8)において自我に関する議論が見いだされる.ただし,本稿で注目すべき記述が他蘊に見いだされる場合も少なからずあるため,「見蘊」に限定せずに考察したい.作業や受報の主体の問題に関する箇所としては,次のような諸説が挙げられる.
まず,アートマンといったような作業や受報の主体を認めた場合の不都合を指摘したもの,認めえない理由を述べたものとして,『大毘婆沙論』巻15では次のように説かれている11.
また,ある外道が仏の所に来詣し仏にこう語った.「ゴータマよ,自らつくり自ら感受するのであるか?」.世尊は告げられた.「これについて明確に答えるべきではない」.〔外道が〕問う.「なぜ世尊はこの問いに答えられないのであるか?」.〔世尊が〕答える.「かのもろもろの外道たちは,実体としてのアートマンが存在し,自らつくり自ら感受するのであると執している.仏は無我を説くので答えるべきではない.〔その〕意味は前に述べたとおりである」.彼(外道)がまた問う.「他がつくり他が感受するのであるか?」.世尊は告げられた.「これについて明確に答えるべきではない」.〔外道が〕問う.「なぜ世尊はこの問いに答えられないのであるか?」.〔世尊が〕答える.「かのもろもろの外道たちは,実体としてのアートマンが存在し自在天等と呼ばれ,それがつくりわたし(自分たち)が〔その〕果を受けるのであると執している.仏は無我を説くので答えるべきではない.〔その〕意味は前に述べたとおりである」.彼(外道)がまた問う.「自らと他がつくり自ら感受するのであるか?」.世尊は告げられた.「これについて明確に答えるべきではない」.〔外道が〕問う.「なぜ世尊はこの問いに答えられないのであるか?」.〔世尊が〕答える.「かのもろもろの外道たちは,実体としてのアートマンが存在し〔,それが〕自他と呼ばれると執している.仏は無我を説くので答えるべきではない.〔その〕意味は前に述べたとおりである」.彼(外道)がまた問う.「自らつくるのでもなく他がつくるのでもなく,因なくして〔業果は〕生じ,つくることもなく感受することもないのであるか?」.世尊は告げられた.「これについて明確に答えるべきではない」.〔外道が〕問う.「なぜ世尊はこの問いに答えられないのであるか?」.〔世尊が〕答える.「世尊(わたし)は,果は因より生じ,自らつくり自ら感受すると常に説くゆえに,答えるべきではないのである」(大正蔵27, 76b24–c9)12
『カターヴァットゥ』や『発智論』で示されていた4句が,ここでも説かれ立論者により認められていない(【論駁】).違いは,無記(捨置)の立場が明示されていることである.前3つの問いを捨置するのはいずれも,実体としてのアートマンの存在を前提に問うているためである.最後の問いを捨置する理由としては,「自らつくり自ら感受する」と説かれていることを挙げるが,その一方で,「自らつくり自ら感受するのであるか?」という第1の問いが捨置され,肯定されていないのであるから,文字の上からはまったくの矛盾と言える.しかるに,同じ『大毘婆沙論』の次の記述は,この問題を明快に解き明かすものとなっている.
『大毘婆沙論』巻124では,業をつくるものと果を感受するものは「同じである」「異なる」「つくることはなく感受することもない」といずれも説きうることを述べている(大正蔵27, 649b26–28).さらに,「同じである」と言える理由を説明し,順次に連続する蘊・処・界は刹那に異なるけれども1つと見なすべきであることを述べ,「異なる」と言える理由を説明し,人趣〔のもの〕が業をつくり他趣〔のもの〕が業果を感受し,またその反対のことがあることを述べ,「つくることはなく感受することもない」と言える理由を説明し,一切諸法にはアートマン等がなく,生滅する諸行の集まりがあるのみであることを述べている(大正蔵27, 649b28–c5)(【自説主張】).以上の所説は,実体としてのアートマンの存在を前提にしなければ,自業(自作)〔自受〕や他業(他作)〔他受〕を主張しうることを明らかにしている.
そのほか,不都合や理由を述べたもの以外の説として,『大毘婆沙論』巻199では,「自ら苦楽をつくる」「他が苦楽をつくる」「自らと他とが苦楽をつくる」「苦楽は自らつくったものではなく,他がつくったものでもなく,因なくして生じたものである」という4句を否定した前記『発智論』の説の由来を説明し,それら4つの説を無衣迦葉波に帰している(大正蔵27, 993c7–29)(4句否定に関連するも,その由来を説明しているのみという点で【自説主張】).また,「つくるもの(〔能〕作者)がなく,感受するもの(〔能〕受者)がない」とする言が諸所に見いだされる(経の引用を含む)(【否定】)13.
6.『成実論』『成実論』の4品,すなわち「無我品」(大正蔵32, 259a8–c7),「有我無我品」(大正蔵32, 259c8–260c26),「身見品」(大正蔵32, 315c23–317a16),「辺見品」(大正蔵32, 317a17–b25)に,自我の問題がまとまって論じられているものの,作業や受報の主体の問題を扱った箇所はさほど多くなく,また,他品にその問題を扱った言説が少なからず見いだされるため,前掲諸品に限定せずに考察したい.
まず,アートマンといったような作業や受報の主体を認めた場合の不都合を指摘したもの,認めえない理由を述べたものとしては,次の説を挙げることができる.
〔五〕蘊とは異ならないものとしてアートマン(我)を説くとしても,過誤がある.なぜかといえば,もろもろの外道は,アートマンは常住である.今世で業をつくり,のちその果報を受けるからであると説いているためである.もしそのように説くならば,五蘊はまさに常住となってしまう.(大正蔵32, 315c29–316a3)14
アートマンは五蘊と異ならないと説く場合に限定された論難であり,「アートマン=五蘊」と解せば,至極当然の論駁である(【論駁】).
また,『成実論』巻10には,次のような説も見られる.
もし後世があり作業者は受報者であると言えば,それは常見である.(大正蔵32, 317b5–6)15
これは,『識身足論』で説かれていたもの(「此作此受」に対する引用経の内容)に一致する(【論駁】).
『成実論』巻11では,次のように述べられている.
つくるもの〔の存在〕によって作業が成立するが,ここで,つくるものは実際には見いだされない.なぜなら,頭などの身体の各部分は〔業を〕つくる働きを有さないので,つくるものは存在しないからである.つくるものが存在しないのであるから,〔業を〕つくる働きも存在しない.(大正蔵32, 331c22–25)16
頭などの身体の各部分に〔業を〕つくる働きがないため,作業者は実在しないと論じられている(【論駁】).
また,『成実論』巻16では,次のように説かれている.
眼等の諸根には生滅がある.もしこれ〔ら〕がアートマン(我)であるならば,アートマン(我)は生滅することになる.ゆえにこれ〔ら〕はアートマン(我)ではないと知られる.この眼等が生ずるとき,よって来たるところがなく,〔かつ〕所作があるために,アートマン(我)と呼ばれるが,〔実際にはアートマン(我)ではないため,〕経中には「行為主体(作者)は存在しない」と説かれている.(大正蔵32, 372b12–15)17
「行為主体(作者)は存在しない」と経中に説かれる理由が示されている.所作があり,アートマン(我)と呼ばれる眼等の諸根は,生滅を有するため,実際にはアートマン(我)ではなく,したがって〔真に〕行為主体と言うべきものは存在しないとされている(【論駁】).
不都合や理由を述べたもの以外の説としては,まず,作業者・受報者は実在しないということが諸所で説かれている(【否定】)18.『成実論』巻3では,「善・不善の業が集積するようなことはすべて有情において起こるのであり,有情でないものには起こらない」(大正蔵32, 259c19–20)という対論者(有我説者)の言があり,これに対する立論者の返答として,五蘊と異なるアートマンには,罪福〔の業をつくること〕がなく,五蘊の合したもので,仮にアートマンと名づけられるものには,罪福〔の業をつくること〕などがあると述べられている(大正蔵32, 260b5–8)(【自説主張】).さらに巻10では,因に似てはいるが因でないものによってアートマンの考え(我心)が生ずるとし,アートマンは作業や受報の主体でないことが述べられている(大正蔵32, 316a24–26)(【否定】).巻11では,これまで紹介した各論書のように,作業と受報に関して,「自らつくる」「他がつくる」「自らつくりかつ他がつくる」「〔自らつくるのではなく他がつくるのでもなく,〕無因にして生ずる」ことを否定している(大正蔵32, 332a4–14).ただし,それによって果の存在そのものを撥無する(【自説主張】)点で,これまで紹介した各論書の内容とは大きく異なる.これを縁起による生起の否定と解せるならば,その基本的立場は中観派の空思想に通ずると思われる19.
7.『倶舎論』『倶舎論』第9章「破我品」では全体にわたり,有我説者の主張の不当性を指摘し,自説を主張する議論が展開されており,作業や受報の主体の問題もまたAKBh., pp. 476–477において詳細に論じられている.
その中,アートマンといったような作業や受報の主体を認めた場合の不都合を指摘したもの,認めえない理由を述べたものとしては,まず次の説を挙げることができる.アートマンが存在しなければ,業をつくるもの,その果を感受するものはだれかと問い,かつ作業者は自在である(svatantra)と理解する対論者への反駁の一節である.
また,この業は3種であり,身口意の業である.その中でまず身業に関して,身の作用は心に依存している.身に対する心の作用もまた,それ自身の因に依存している.その(心の因の)〔作用〕についても同様である.〔口業に関しても同じことが言える.意業は身業の中で述べたとおりである〕.このように,〔身口意の業の〕いかなるものにも自在は存しない.なぜなら,あらゆる存在は縁に依存して起こるからである.〔なんじの説く〕アートマンについてもまた,〔他に〕よらなければ因として認められないため,自在であることは成立しない.(AKBh., p. 476, ll. 20–23)20
ここでは,あらゆる存在が縁に依存し自在性を有さず,アートマンも例外ではない,という形で,自在性を有する作業者なるものは存在しないことが論述されている(【例示】).ただし,アートマンも〔他に〕よらなければ因とは認められないと述べられ,例外ではないとする理由も示されており,論駁的要素も含まれると言える.「〔なんじの説く〕アートマンについてもまた,〔他に〕よらなければ因として認められない」というのは,「アートマンと意との結合から特殊な意識が生ずる」ことを述べたAKBh., p. 475, ll. 1–9 (後述) における対論者の説を指していると見られる.「アートマンは,意によらなければ特殊な意識の発生に対する因として認められない」と言い換えられる21.
他の箇所では,アートマンが果の感受者となりえないことを述べている.アートマンには認識に関する能力がなく,したがって知覚に関する能力もないとされ,認識に関するアートマンの能力はすでに否定されたとある(AKBh., p. 477, ll. 2–4).「すでに否定された」というのは,AKBh., p. 475, ll. 1–9の説を指している.その説は次のようなものである.
しかし,心の発生はアートマンから起こると考えるこのある外道(ヤショーミトラの注(SA., p. 715, l. 3)によれば,ヴァイシェーシカ学徒(Vaiśeṣika))にこそ,この(次のような)明らかな問難が生ずる.〔すなわち,〕「なぜ常に同じようなもの(心)が生じないのか? また,〔心が〕定まった順序をもって,芽・茎・葉などのように〔生じ〕ないのか?」と.もし〔心の発生がアートマンと〕意との特殊な結合に基づくからであると言うならば,そうではない.〔アートマンと〕他との結合は成立しないからである.しかも,結合する2つのものは限定されているから,また,「未到達を前提とする到達が結合である」という〔,結合の〕特徴に関する説明があるから,アートマンに限定があるという不都合な結果となる.さらに,意が移動するから,アートマンに移動があるという不都合な結果となる.あるいは,アートマンに消滅がある〔という不都合な結果となる〕.もし〔意はアートマンの〕一部と結合すると言うならば,そうではない.それ(アートマン)にその部分のあることはありえないからである.たとえ〔アートマンと意との〕結合があるとしても,常に特殊化されない意に,どうして〔同様に特殊化されないアートマンとの〕特殊な結合があるのか? もし〔アートマンと意との結合は,その結合により生ずる〕意識が特殊であることによって〔,特殊なと言われる〕22と言うならば,彼こそ,どうして特殊な意識があるのかと問難される.もし〔特殊な意識は〕特殊な潜勢力に基づく,アートマンと意との結合から〔生ずる〕と言うならば,特殊な潜勢力に基づく心のみから生ずるべきである.なぜなら,〔特殊な意識の発生に対する〕いかなる能力もアートマンには見いだされないからである.薬の効果が成就するのに対して,詐欺師の医者の唱える呪文(プフスヴァーハー)が〔いかなる能力も有していない〕ように.(AKBh., p. 475, ll. 1–9)23
ある外道(ヴァイシェーシカ学徒)によれば,認識に関するアートマンの能力が認められており,意との結合によってその能力が発揮される.それに対し,立論者ヴァスバンドゥは,アートマンが〈限定されえないこと〉,〈移動しえないこと〉,〈消滅しえないこと〉,〈部分を有さないこと〉を理由に,意との結合がありえないことを主張している(【論駁】).後半では,「アートマンと意はともに特殊化されないものであるけれども,特殊な潜勢力に基づく両者の結合から特殊性(特殊な意識)は生じうる」という反論の提示に対し,「薬の効果の成就に対する能力が詐欺師の呪文にないのと同様,特殊な意識の発生に対する能力がアートマンには見いだされない」(【例示】)という理由で,「特殊な潜勢力に基づくのは心のみである」と主張されている.
また,消滅した業から未来に果の生起があることに関して,アートマンの存在が前提になりえないことが論じられている.
(対論者:)アートマンが存在しない場合,消滅した業からどのようにして将来に果が生ずるのか?(ヴァスバンドゥ:)アートマンが存在するとしても,消滅した業からどのようにして将来に果が生ずるのか?(対論者:)それ(アートマン)をよりどころとする法と非法から〔果は生ずる〕.(ヴァスバンドゥ:)〔アートマンをよりどころとするという〕この言説は,「例えば何が何をよりどころとするようにであるか?」〔云々〕と,〔その言説の正否に関する〕答えがすでに述べられ〔,正しくないことが証明され〕ている.したがって,〔アートマンを〕よりどころとしない法と非法から〔果が〕生ずるべきである.(AKBh., p. 477, ll. 7–9)24
ここで「例えば何が何をよりどころとするようにであるか?」〔云々〕とあるのは,AKBh., p. 475, ll. 10–16の説を指している.ただし若干文言を異にし,yathā kaḥ kasyāśrayaḥ (例えば何が何のよりどころであるようにであるか?) (AKBh., p. 475, l. 10) となっている.
もしそれ(アートマン)は〔潜勢力と意との〕よりどころであると言うならば,例えば何が何のよりどころであるようにであるか? 実に,それら(潜勢力と意)は,〔壁の〕絵や〔器の中の〕ナツメの実などのように入れ支えられるものではなく,また,それ(アートマン)が〔絵を描く〕壁や〔ナツメを入れる〕器などのように入れ支えるものであることは正しくない.〔両者は互いに〕妨げるものでありかつ分離したものであるという過誤があるため,それ(アートマン)はけっしてそのような(絵を描く壁,ナツメを入れる器などのような)よりどころではない.それならば,どのようにしてであるか? もし地が香等の〔よりどころである〕ようにであると言うならば,われわれは大いに満足である.なぜなら,これこそ「アートマンは存在しない」ということをわれわれに確信させるものだからである.地は香等と別ではないように〔,アートマンは潜勢力や意と別ではない〕.いったいだれが地は香等と別であると判断するのか? そうではなく,「地の香等」という表現は,〔水・火・風〔・空〕のではないという〕区別をなすためである.実に,そう呼ばれるそれら香等は〔地と〕別ではないと理解されるとおりである.木像の身体という表現〔が,土像等のではないという区別をなすためであり,そう呼ばれる身体が木像と別ではないと理解される〕ように.(AKBh., p. 475, ll. 10–16)25
ここでは,アートマンが〈他を妨げないこと〉,〈他と分離しえないこと〉を理由に,他のよりどころとなりえないことが論じられている.また,アートマンと他との関係を,地と香等とのように解した場合,アートマンは他から独立した実在たりえないということも併せ論じられている(【論駁】).
不都合や理由を述べたもの以外の説として,「破我品」には次のような諸説がある.p. 468, ll. 20–22では,「業や業の異熟はあるが,諸蘊を捨て再結合する行為主体は,法に対する慣習的表現以外には見いだされない」とする『勝義空性経』(Paramārthaśūnyatā[sūtra])を引用している(【否定】).p. 476, l. 24–p. 477, l. 2では,主要な因(pradhāna kāraṇa)が作〔業〕者([karmaṇāṃ] kartṛ)であり,アートマンが因であること(kāraṇatva)は認められないとし,「記憶(smṛti )→ 欲(chanda)→ 思量(vitarka)→ 意志的努力(prayatna)→ 風(vāyu)→ 業(karman)」という生起の次第を示して,業の発生に対しアートマンの果たす役割がないことを述べている(【自説主張】).p. 477, ll. 5–6では,アートマンが存在しなければ,なぜ有情(sattva)をよりどころとしないでは罪業と福業の集積(pāpapuṇyopacaya)がないのかという問いに対し,〔有情でないものは〕受(vedanā)等のよりどころではないからであり,かつ受等のよりどころは六〔内〕処(ṣaḍāyatana)であってアートマンではないと答えている(【自説主張】).p. 477, l. 9–p. 478, l. 8では,滅した業から直ちに果が生ずるのではなく,連続的個体(相続)の特殊な変化(saṃtatipariṇāmaviśeṣa)から果が生ずることを述べている(【自説主張】)26.
8.『三弥底部論』種々の自我説に論書の大半を割いており,作業や受報の主体の問題に関連する説もいくつか見いだされる.ただし,立論者(正量部)が無我説者ではないという点,これまで紹介した各論書とは異なっている.しかしながら,有我説者であるとも言い切れない.「アートマン(我)が存在しない」「存在する」という主張ともに批判しているからである(大正蔵32, 464a28–b24, 464c29–465a17).もっとも,もし実際にアートマン(我)が存在しないならば,殺生等の罪や業,業の果報などもなくなってしまう,といった内容を説いてはいる(後述).(よって,ここで「自説主張」というのは,アートマンといったような作業や受報の主体を認めない立場から自説を示したものというよりはむしろ,作業や受報,さらにはその主体に関する説という意味のものである)
ともあれ,作業や受報の主体の問題に関する箇所としては,次のような諸説が挙げられる.
まず,他部派の見解として,プドガラ(人)と〔五〕蘊とが異なるとする説が種々挙げられている(大正蔵32, 463b9–c1)が,その1説は,業の果報を受けるという事実から,プドガラ(人)と〔五〕蘊とが異なるとしており,根拠となる偈も示している(大正蔵32, 463b16–22).偈の内容は次のようなものである.
この世で楽しみ歓喜し,別の世でも楽しみ欣喜する.福業をなせばこの世と次の世とで喜びを得,自らその業の清らかであることを見る.
この世で業報が尽きても,次の世でさらに受けなければならない.〔蘊が〕滅しても業に従い行き,さらに別の蘊から成る身体を受ける.(大正蔵32, 463b18–21)27
これに対し立論者は,次のような説をもって批判している.
諸部派が前に説いたところの,「プドガラ(人)は蘊と異なる.業の果報を受けるからである」という〔主張〕について今から述べよう.有漏〔の蘊〕によって生じ死するから,この世や次の世でその〔業の〕果報を受けるのである.それゆえ,プドガラ(人)は蘊と異ならない.(大正蔵32, 465b19–22)28
受報が成立する原因として有漏の蘊が挙げられ,蘊とは独立した受報の主体が認められていない.このように,立論者がそうした主体を認める他部派の説を批判する形を取ってはいるものの,〔作業や〕受報の主体を認めた場合の不都合が指摘されたり,認めえない理由が述べられたりしているわけではなく,有漏の蘊〔のみ〕が受報にかかわるとされ,蘊〔のみ〕の輪廻相続という自説が提示されている(【自説主張】).
そのほかの説としては,次のようなものが挙げられる.まず『三弥底部論』巻上では,もし実際にアートマン(我)が存在しないならば,善悪〔の業〕を生じさせるものもなく,〔業を〕つくるものもなく,業もなく,その果報もないことになると述べられている(大正蔵32, 465a20–22)(【自説主張】).巻上の他の箇所では,もしアートマン(我)と蘊とが異なれば,業をつくることも業の果報もなくなるとされている(大正蔵32, 465c13–16)(【自説主張】).巻中では,もしプドガラ(人)が無常であれば,業をつくることがなくなり,〔本来,業の果報である〕解脱や功徳が自然に成就することになると説かれている(大正蔵32, 466a21–24)(【自説主張】).
これまで紹介・考察した議論中,とくに詳説した部分,すなわち,アートマンといったような作業や受報の主体を認めた場合の不都合を指摘したもの,認めえない理由を述べたもの(「例示」と「論駁」)についてまとめれば,次のようになる.(考察順)
(1) 業(同様に,業の異熟)が存続することとなって,苦の終局はなく,輪廻の断絶はなく,無執着の般涅槃はなくなってしまう,とするもの(【論駁】)〈『カターヴァットゥ』〉
(2) 存在するけれどもそれをつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,感受するもの)が存在しない例を挙げ,業(同様に,業の異熟)もまたそうである,とするもの(【例示】)〈『カターヴァットゥ』〉
(3) 業(同様に,種々の異熟)と業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,種々の異熟を感受するもの)とは異なることになり不都合である,とするもの(【論駁】)〈『カターヴァットゥ』〉
(4)「つくるものと感受するものとは同じである」(自らつくり自ら感受する)等あるいは「楽苦は自らつくったものである」等の1句ないし4句に帰着し不都合である,とするもの(【論駁】)〈『カターヴァットゥ』,『識身足論』,『発智論』,『大毘婆沙論』,『成実論』〉
(5) アートマンは五蘊と異ならず,作業と受報のゆえに常住であるとすれば,五蘊が常住となってしまう,とするもの(【論駁】)〈『成実論』〉
(6) 頭などの身体の各部分に〔業を〕つくる働きがないため,作業者は実在しない,とするもの(【論駁】)〈『成実論』〉
(7) 所作があり,アートマン(我)と呼ばれる眼等の諸根は,生滅を有するため,実際にはアートマン(我)ではなく,それゆえ行為主体は実在しない,とするもの(【論駁】)〈『成実論』〉
(8) あらゆるものは縁に依存しているとし,アートマンも例外ではなく,自在なる作業者たりえない,とするもの(【例示】)〈『倶舎論』〉
(9) アートマンは限定されず,移動せず,消滅せず,部分を有さないため,意との結合がありえないので,認識に関する能力がなく,ひいては知覚に関する能力がなく,果の感受者となりえない,とするもの(【論駁】)〈『倶舎論』〉
(10) 薬の効果の成就に対する能力が詐欺師の呪文にないのと同様,特殊な意識の発生に対する能力がアートマンには見いだされないため,アートマンは認識に関する能力がなく,ひいては知覚に関する能力がなく,果の感受者となりえない,とするもの(【例示】)〈『倶舎論』〉
(11) アートマンは他を妨げず,他と分離しえないため,他のよりどころとなりえないので,また,アートマンと他との関係を地と香等とのように解した場合でも,アートマンが他から独立した実在ではなくなるので,いずれにしても将来に果を生じせしめる法と非法とのよりどころとなりえず,因果応報の主体たりえない,とするもの(【論駁】)〈『倶舎論』〉
このうち,「例示」((2),(8),(10))に関しては,例と同様のことが問題のものにも言えるのかどうか吟味する余地が常にあろう.
各「論駁」中,(1) については,「業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(あるいは,業の異熟を感受するもの)が〔実在するとして,それがすべて〕プドガラであるならば,すべてのプドガラは業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(あるいは,業の異熟を感受するもの)である」という考えが前提にあると言える.このとき,前半の主張(仮定部分)は成り立っているであろうから,問題は後半の主張(結論部分)が成立するかどうかである.すべてのプドガラが永続的にそうであるのかどうか,「業をつくらないもの〔・つくらせないもの〕(あるいは,業の異熟を感受しないもの)」になりえないのかどうかが問われよう.
(3) については,不都合とされる結果(すなわち,「業(同様に,種々の異熟)と業をつくるもの〔・つくらせるもの〕(同様に,種々の異熟を感受するもの)とは異なる」)の正否がさらに問われる可能性がある.既述したように,注釈書によれば,「善悪業と善悪業をつくるもの・つくらせるものとが異なる」とすることは,「アートマンは行を有する」云々の見解に陥ることを意味し,「善悪業の異熟と善悪業の異熟を感受するものとが異なる」とすることは,「アートマンは受を有する」云々の見解に陥ることを意味するようであるが,やはり同様に,それらの見解がなぜ謬見であるのか問われる可能性がある.
(4) については,各論書の記述に徴すれば,詰まるところ,作業や受報の主体の存在を前提にした場合,第1句から第4句が順に,①常見,②断見あるいは自在天作業の見解,③常見かつ断見,④無因見という誤った見解に帰結することから,不都合とされていると言える.この場合,あらゆる部派・学派が謬見としての常見等を共通に有し定めているわけではないであろうから,これらの見解の正否,さらには上の帰結の必然性が問われる可能性がある.これについては稿を改め詳論したい.
(5) は,アートマンは五蘊と異ならないと説く場合に限定された論難であり,アートマンの実在を主張する側からは,アートマンは五蘊と異ならないけれども,同じであるのでもな〔いので,作業と受報のゆえに常住であるとしても,五蘊は常住とはならな〕い,といった反論(ひとつの常套句29)が予想される.当然それに対する再反論があろうが,少なくとも,(5) の論駁のみをもって議論が落着しない可能性を指摘しうる.
(6) には,「〔業を〕つくると見なされうるものは身体の各部分である」という前提が,(7) には,「アートマン(我)と見なされるものは眼等の諸根である」という前提がすでに存していると言える.この場合,これら前提の正否が問題となろう.
各「論駁」中,最も有効と言えるのは残る (9),(11) と見なせる.不都合とされる理由は,論駁者自身が有する経文・見解に基づくものではなく,対論者の主張するアートマンの諸性質に基づくものとなっている.ただし,それら諸性質が対論者の主張に真に合致するかどうかは検討を要する.また,それらの論駁内容からすれば,結局アートマンはいかなるもの(諸部派,諸学派により存在すると見なされる諸事象,諸事物)とも共在しえないのではないか,という疑問は残る.もちろんこのことは,アートマンの実在を否定する部派・学派にとっては不都合ではないのであるが.さらに (9),(11) について,いかなる論駁にも言えることではあるが,対論者(今の場合,ヴァイシェーシカ学派)側から当論駁(少なくとも,似たような論駁)の無効性を主張した議論がなされていないかどうか〔,考察範囲外の文献をさらに〕調査した上で,この議論の有効性を確定する必要があろう.
自我の問題が比較的まとまって論じられている各部派仏教文献を考察する限り,無我を主張する仏教部派が作業や受報の主体を批判するにおいて,多分に説得力を有する議論はある程度限られてくると言える.なお,他論書と比べ質・量ともに充実し,より詳細な議論を有する『倶舎論』「破我品」において,諸文献(『カターヴァットゥ』,『識身足論』,『発智論』,『大毘婆沙論』,『成実論』.見解名のみであれば,『ミリンダパンハー』も)に見られた,「つくるものと感受するものとは同じである」(自らつくり自ら感受する)等あるいは「楽苦は自らつくったものである」等の1句ないし4句が,論駁材料として用いられていないということは,少しく注目される.
各論駁には,その前提自体の正否が問われるべきものもあった.前提となる当の経文や見解の正当性を論証するような議論,あるいは,考察した諸論を補足しかつその説得力を高めるような議論が,他の主題のもとに(すなわち,作業や受報の主体の存在を争点にしている箇所以外で)論じられている場合も当然考えられる.稿を改め考察したい.
「自論師」「他論師」という呼び名や,問答の主客がいずれであるかは注釈書に記されている(KvA., pp. 1−9, et passim).
201. Kalyāṇapāpakāni kammāni upalabbhantīti Kalyāṇapāpakānaṃ kammānaṃ kattā kāretā upalabbhatīti? Āmantā. Tassa kattā kāretā upalabbhatīti? Na h’ evaṃ vattabbe—pe— Tassa kattā kāretā upalabbhatīti? Āmantā. Tassa tass’ eva n’ atthi dukkhassa antakiriyā n’ atthi vaṭṭupacchedo n’ atthi anupādāparinibbānan ti? Na h’ evaṃ vattabbe—pe— (Kv., p. 45)
Kalyāṇapāpakāni kammāni upalabbhanti kalyāṇapāpakānaṃ kammānaṃ kattā kāretā upalabbhatīti? Āmantā. Puggalo upalabbhatīti, puggalassa kattā kāretā upalabbhatīti? Na h’ evaṃ vattabbe—pe— (Kv., p. 45)
Kalyāṇapāpakāni kammāni—pe—kāretā upalabbhatīti? Āmantā. Aññāni[text Aññā] kalyāṇapāpakāni kammāni añño kalyāṇapāpakānaṃ kammānaṃ kattā kāretā ti? Na h’ evaṃ vattabbe—pe— (Kv., p. 46)
DN. III, pp. 138–139;SN. II, pp. 19–20, 22–23, 33–34, 35–36, 38–39(2 pls.), 41–42;AN. III, p. 440;Ud., p. 70. Cf. SN. II, pp. 75–76, 112–113.
「鉆部盧即受即領諸有欲令自作苦楽.此鉆部盧.我終不説」(大正蔵26, 542c9–10)
「鉆部盧異受異領.諸有欲令他作苦楽.此鉆部盧我終不説」(大正蔵26, 542c20–22)
「梵志.此作此受是堕常辺」(大正蔵26, 543a20)
「梵志異作異受是堕断辺」(大正蔵26, 543b2–3)
「諸有此見.自作苦楽.他作苦楽.自他作苦楽.此非因計因.戒禁取.見苦所断.諸有此見.所受苦楽.非自作.非他作.無因而生.此謗因邪見.見集所断」(大正蔵26, 1028a27–b2)
旧訳『阿毘曇毘婆沙論』大正蔵28, 63a3–12に相当箇所がある.若干内容を異にしている.
「復有二外道一来-二詣仏所一白レ仏言.喬答摩.自作自受耶.世尊告曰此不レ応レ記.問何故世尊不レ答二此問一答彼諸外道執レ有二実我自作自受一.仏説二無我一故不レ応レ答義如二前説一.彼復問言他作他受耶.世尊告曰此不レ応レ記.問何故世尊不レ答二此問一.答彼諸外道執有二実我一名二自在天等一.彼能作我受果.仏説二無我一故不レ応レ答義如二前説一.彼復問言自他作自受耶.世尊告曰此不レ応レ記.問何故世尊不レ答二此問一.答彼諸外道執下有二実我一名為中自他上.仏説二無我一故不レ応レ答義如二前説一.彼復問言非二自他作一無因而生.無作無受耶.世尊告曰此不レ応レ記.問何故世尊不レ答二此問一.答世尊常説二果従レ因生一.自作自受故不レ応レ答」(大正蔵27, 76b24–c9)
『大毘婆沙論』大正蔵27, 38c17–18, 44a25–26, 70c3–4, 316c11–14, 407a9–10, 409a27–28, 463b22, 537b13–15, 649c3–5, 934a3–5.
「雖二不レ離レ陰説一我.是亦有レ過.所以者何.諸外道輩説.我是常.以二今世起一レ業後受レ報故.若如レ是説.五陰応二即是常一」(yady api na skandhavyatirikta ātmety ucyate | tathā ’pīdaṃ duṣṭam | kasmāt | tīrthikā hi vadanti—ātmā nityaḥ | asminn adhvani kṛtakarmaṇām ante vipākavedanāt iti | evaṃ bruvataḥ pañcaskandhā eva nityaḥ syuḥ (Sastri [1975], p. 313, ll. 7–9))(大正蔵32, 315c29–316a3)
「若言下有二後世一作者即是受者上.是名二常見一」(asti paralokaḥ yaḥ kārakaḥ sa eva vedaka iti yad vacanam | iyaṃ śāśvatadṛṣṭir ity ucyate (Sastri [1975], p. 318, ll. 7–11))(大正蔵32, 317b5–6)
「因二作者一故有二作業一成.是中作者実不可得.所以者何.頭等身分於レ作無レ事故無二作者一.無二作者一故作事亦無」(kārakam upādāya kriyāvataḥ karma sidhyati | tatra kāraka eva vastuto nopalabhyate | tathā hi | śīrṣādyavayaveṣu kriyāvṛttyabhāvān nāsti kārakaḥ | kārakābhāvāt kriyāvṛttir api nāsti (Sastri [1975], p. 372, ll. 12–14))(大正蔵32, 331c22–25)
「眼等諸根有レ生有レ滅.若是我者我即生滅.故知非レ我.是眼等生時無レ所二従来一.以レ有二所作一故名為レ我.而経中説レ無レ有二作者一」(cakṣurādīnām indriyāṇām utpādo ’sti vyayo ’sti | yady ayam ātmā, ātmana utpādo vyayaḥ syād ity ato jñāyate anātmeti | idañ ca cakṣurādy utpadyamānaṃ na kutaścid āgacchati | kṛtakam astīty ata ātmety[text ato ’nātmety instead of ata ātmety] ucyate | sūtre coktaṃ—nāsti kāraka iti (Sastri [1975], p. 534, ll. 13–15))(大正蔵32, 372b12–15)
『成実論』大正蔵32, 248a22–23;248b6–7;259a23;328c5–6;333a18;336a19 (cf. SN. II, pp. 33–36, 38–39).
すでに,宇井氏,荒井・池田氏が指摘しているように,ここにおける『成実論』の記述は,『中論』(Mūlamadhyamakakārikā)第1章第1偈に通ずるものがある(宇井 [1978], p. 385, n. 105;平井・荒井・池田 [2000], p. 514, n. 1).
trividhaṃ cedaṃ karma kāyavāṅmanaskarma[text kāyavāṅam°] | tatra kāyakarmaṇi tāvat kāyasya cittaparatantrā vṛttiḥ | cittasyāpi kāye svakāraṇaparatantrā vṛttis tasyāpy evam iti nāsti kasyacit svātantryam | pratyayaparatantrā hi sarve bhāvāḥ pravartante | ātmano ’pi ca nirapekṣasyākāraṇatvābhyupagamān na svātantryaṃ sidhyati | (AKBh., p. 476, ll. 20–23)
Cf. ātmano ’pi ca nirapekṣasya[text not italic: ātmano . . . nirapekṣasya] buddhi–viśeṣa’ādy–utpattāv akāraṇatvābhyupagamān[text not italic] na svātaṃtryaṃ sidhyati (《アートマンについてもまた,〔他(意(manas))に〕よらなければ》,特殊な意識等の発生に対する《因として認められないため,自在であることは成立しない》) (SA., p. 718, ll. 29–30)
「アートマンと意との結合→特殊な意識」という順であると考えられる(cf. 前注).
ye eva tv ayam ekīyastīrthika ātmaprabhavāṃ cittotpattiṃ manyate tasyaivedaṃ sphuṭaṃ codyam āpadyate kasmān na nityaṃ tādṛśam evotpadyate na ca kramaniyamenāṅkurakāṇḍapatrādivad iti | manaḥsaṃyogaviśeṣāpekṣatvād iti cet | na | anyasaṃyogāsiddheḥ | saṃyoginos tu paricchinnatvād aprāptipūrvikā prāptiḥ saṃyoga iti lakṣaṇavyākhyānāc cātmanaḥ[2ed. °ātmānaḥ] paricchedaprasaṅgaḥ | tato manaḥsaṃcārādātmanaḥ saṃcāraprasaṅgo vināśasya[text virāgasya] vā | pradeśasaṃyoga iti cet | na | tasyaiva tatpradeśatvāyogāt | astu vā saṃyogas tathāpi nityam aviśiṣṭe manasi kathaṃ saṃyogaviśeṣaḥ | buddhiviśeṣāpekṣa iti cet | sa eva paricodyate kathaṃ buddhiviśeṣa iti | saṃskāraviśeṣāpekṣād ātmamanaḥsaṃyogād iti cet | cittād evāstu saṃskāraviśeṣāpekṣāt[text °āpekṣatvāt] | nahi kiṃcid ātmana[text °ātmanaḥ] upalabhyate sāmarthyam auṣadhakāryasiddāv iva kuhakavaidyaphuḥsvāhānām | (AKBh., p. 475, ll. 1–9)
katham asaty ātmani vinaṣṭātkarmaṇa āyatyāṃ phalotpattiḥ | ātmany api sati kathaṃ vinaṣṭāt karmaṇa āyatyāṃ phalotpattiḥ | tadāśritād dharmādharmāt | yathā kaḥ kimāśrita ity uktottaraiṣā vācoyuktiḥ[text vāco yuktiḥ] | tasmād anāśritād eva dharmādharmāt bhavatu | (AKBh., p. 477, ll. 7–9)
āśrayaḥ sa iti cet | yathā kaḥ kasyāśrayaḥ | na hi te citravadarādivad ādhārye nāpi sa kuḍyakuṇḍādivad ādhāro yuktaḥ | pratighātiyutatvadoṣāt[text °yutadoṣāt] naiva sa evamāśrayaḥ | kathaṃ tarhi[2ed. tarhiṃ] | yathā gandhādīnāṃ pṛthivīti cet | atiparitoṣitāḥ sma[2ed. smaḥ] | idam eva hi naḥ pratyāyakaṃ nāsty ātmeti | yathā na gandhādibhyo ’nyā pṛthivīti | ko hi sa gandhādibhyo ’nyāṃ pṛthivīṃ nirdhārayati | vyapadeśas tu pṛthivyā gandhādaya iti viśeṣaṇārtham | te hy eva tadākhyā gandhādayo yathā pratīyeran nānya iti | kāṣṭhapratimāyāḥ śarīravyapadeśavat | (AKBh., p. 475, ll. 10–16)
Cf. AKBh., p. 64, ll. 4–6;p. 90, ll. 1–3;p. 197, l. 14–p. 198, l. 14.
「生世楽歓喜異世楽欣然 作福二処歓自見其業浄 此世業報竟来世復応受 壊随業往更受異陰身」(大正蔵32, 463b18–21)
「如諸部前所説.人与陰各.受業果故.如是.我等今説 依有漏生死.此生来生受其果報.是故人与陰不各」(大正蔵32, 465b19–22)
Cf. e.g., Kv., pp. 11–13, nos. 17–73; pp. 14–17, nos. 130–135; pp. 20–22, nos. 138–141;『成実論』大蔵経32, 260b19–20;AKBh., p. 462, ll. 3–4;SBh.P., U175a1–2;SBh.D., Su145b3;その漢訳『異部宗輪論』大正蔵49, 16c14–15,異訳『十八部論』大正蔵49, 19b3,異訳『部執異論』大正蔵49, 21c20–21.