Studies of Buddhist Culture
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2008 Volume 12 Pages 50-80

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はじめに

一九九四年,山西省晋城市の名刹青蓮寺大雄宝殿の改修工事中,北斉の乾明元年(五六〇)の紀年銘文とともに,両側面と背面に見慣れない仏教画像を有する石刻が発見された(図一)1.この石刻は,二〇〇〇年六号の『文物世界』に写真が初めて紹介され2, 筆者もかねてから注目していたところ,二〇〇七年十号の『文物』に改めて劉建軍氏によりとりあげられ3,その画像が『大方等陀羅尼経』(以下『陀羅尼経』と略)の十二夢王に基づくものであることが明らかにされた.十二夢王とは,華聚菩薩が陀羅尼によって十二人の魔王を降伏し,十二人の護法の神王となしたもので,行者が夢中にこの神王にかかわる図像を見れば,この経に基づく七日の懺悔行法を授けるというものである.この画像はこれまで類例が発見されておらず,非常に貴重な資料であるといえよう.

『陀羅尼経』は天台智顗も重視した方等懺の所依の経典として有名であり,方等懺に関する専論も既に存在する4.特に山部能宜氏の『梵網経』の好相行に関する論考5は,懺悔と授菩薩戒にかかわる神秘的要素が中央アジア・中国において広く見られることを明らかにした非常に示唆に富むものである.劉建軍氏の報告では,この石刻について初期密教の図像としての価値に重点が置かれているが,筆者は,山部氏の論をふまえた上で,この石刻造像の有する意義について別の側面から検討し,方等懺と「好相行」と呼ばれる神秘的体験を求める行との関わりについて論じたい.

また,筆者のもう一つの関心は「邑義6」と呼ばれる,造像などを契機として結成される仏教結社の信仰と実践の内実,そしてその地域的差異を明らかにすることにある.この石刻を造った団体も,後述するように邑義とみなしてよく,邑義の内実をうかがわせてくれる好事例として検討するに値するだろう.

一,『陀羅尼経』と方等懺の盛行

最初に,『陀羅尼経』と方等懺について概要を述べておきたい.『陀羅尼経』は,別名『方等檀持陀羅尼経』ともいう.この経典は『出三蔵記集』では,晋の安帝の時代(三九六~四一八),高昌郡出身の法衆によって訳出されたとする.また,『歴代三宝紀』では,高昌郡の法衆が張掖にて河西王沮渠氏のために訳出したとし,竺道祖『晋世雑録』にもとづくとする.法経の『衆経目録』では法衆が高昌で訳出したとする.

山部能宜氏は,①「十二夢王」のリストは『薬師経』の現存最古の漢訳である『潅頂抜除過罪生死得度経』(『潅頂経』巻十二)の「十二神王」のリストを改変したもの7,②Vasu(婆萸)という本来サンスクリットでは一語であるものに対し,va(婆)とsu(萸)についてそれぞれ語源的説明をする,③「華聚」という漢語として意味のある語が,梵語の音写であるはずの陀羅尼の中に現れる,④巻二の五百人の声聞に授記する場面は『法華経』「五百弟子受記品」の改変,という四つの根拠を挙げ,この経典は疑経である可能性が非常に高く,そうであるとすると成立地域であるトルファンその他の中央アジアで実践されていた仏教の形態を反映している,と示唆に富む発言をされている8 .この経典は懺悔の儀礼について確かに非常に具体的実践的に説かれており,北涼の王である沮渠氏の要請によって仏教の実践のために撰述されたものと考えれば具体性に富むことも首肯できるところである.

この経典にもとづいて行われたのが方等懺という大乗の懺悔行法である.北朝時代以降,道俗ともに方等懺を盛んに行ったことは,大野栄人氏が既に論じておられるので9 ,ここでは簡潔に述べ,さらに,造像銘に見える事例を補足しておきたい.

方等懺を行じたという最初期の事例は,『梁高僧伝』にみえる。北魏が北涼を占領し,多くの僧が代都にうつされたが,北涼出身の名僧玄高の弟子法達は,方等懺により懺悔することを亡き師が再び現れて勧められたという10

文献史料だけでなく石刻史料である北魏の竜門石窟蓮華洞の造像銘においてもこの経典に基づき行道したという事例がみえる.以下その銘文を掲げよう.

中明寺比丘尼道暢,道積,道保,依方等行道,願造玄劫千仏.但越司空公皇甫度及陳夫,元夫,夫人,柳夫人,諸貴人等,北海王妃樊,仰為皇帝陛下,皇太后,曠劫諸師,七世父母,所生父母,見在眷属,十方法界六道衆生,〃世〃侍玄劫千仏,発菩提心,弥勒三会,願登初首,一時成仏.大魏孝昌元年八月十三日訖11

中明寺比丘尼道暢,道積,道保,方等に依りて行道し,玄劫(賢劫)千仏を造らんことを願う.但越(檀越)司空公皇甫度,及び陳夫,元夫,夫人,柳夫人,諸貴人等,北海王妃樊,仰ぎては皇帝陛下,皇太后,曠劫諸師,七世父母,所生父母,見在眷属,十方法界六道衆生の,〃世〃玄劫(賢劫)千仏に侍し,菩提心を発し,弥勒三会,願わくは初首に登り,一時に成仏せんことの為にす.大魏孝昌元年八月十三日訖る.

この造像記は孝昌元年(五二五)の紀年を持ち,銘文から比丘尼と高貴な女性達の集団による造像であることがわかるが,司空の皇甫度がスポンサーとなり,北海王妃樊氏も参加している.この時期の北海王は古陽洞の竜門廿品の一つ「北海王元詳造像記」でも有名な北海王元詳の子,元顥であると考えられる12 .北海王元詳はその母高氏とともに造像記にしばしば見える名であり,古陽洞の開鑿にあたって資金的にかなり貢献したと思われる人物である.この造像記によって子の世代にも仏教信仰が続いていたことをうかがうことができる.銘文中の「方等に依りて行道す」というのは,『陀羅尼経』にもとづいて行道したことを指すだろう.この経の巻一[T21:645b]には,行法について説明して,

若欲行時,七日長斎,日三時洗浴,著浄潔衣.座仏形像,作五色蓋.誦此章句百二十遍,遶百二十匝.如是作已,却坐思惟.思惟訖已,復更誦此章句.如是七日.

若し行ぜんと欲するの時,七日長斎し,日びに三時洗浴し浄潔衣を著し,仏の形像を座し,五色の蓋を作る.此の章句を誦すこと百二十遍,百二十匝遶る.是くの如く作し已り,却いて坐して思惟す.思惟り,復更に此の章句を誦す.是くの如く七日せよ.

とある.方等懺は,このように坐すことと行道を交互に行うのであり,北魏の王族や地位の高い者たちの間で方等懺法が実際に行われていたことをこの造像記は示している.

また下って陳の文帝にも「方等陀羅尼斎懺文」があり13さらに南岳慧思,その弟子である天台智顗が方等懺を重視したことは有名である.

二,僧伝にみる方等懺の実践とその好相行

 本節では,方等懺の実修者の神秘的体験について,僧伝にはどのように記述されているか考察してみたい.

『続高僧伝』巻二九[T50:700a]において道宣は,「方等・仏名・般舟誦呪有り.多く夢王を以て浄を表す.此に准じて用て澆淳を顕す.」と述べており,智顗の『次第禅門』[T46:485c]には懺悔を作法懺悔,観相懺悔,観無生懺悔の三種に分け,第二の観相懺悔について以下のように述べる.

二明観相懺悔者,行人依諸経中懺悔方法,専心用意,於静心中,見種種諸相.如菩薩戒中所説.若懺十重,要須見好相.乃滅相者,仏来摩頂,見光華種種瑞相已,罪即得滅.若不見相,雖懺無益.諸大乗方等陀羅尼行法中,多有此観相懺法.

二に観相懺悔を明さば,行人は諸経中の懺悔の方法に依りて,専心に意を用い,静心中に於て,種種の諸相を見る.菩薩戒中に説く所のごとし.若し十重を懺するには,要らず須らく好相を見るべし.乃ち滅相とは,仏来りて頂を摩し,光華・種種の瑞相を見已れば,罪即ち滅するを得.若し相を見ざれば,懺すと雖も益無し.諸の大乗方等陀羅尼行法中に,多く此の観相懺法有り.

つまり方等懺の行法において,種種の瑞相(好相)を見ることがその滅罪の証明であるのである.

以下,僧伝の中に見られる方等懺実修者の神秘的体験をみてみよう.天台智顗は慧曠律師に師事し,後に大賢山に行き,方等懺を修したところ「勝相現前」した.その「勝相」とは,「道場広博にして,妙飾荘厳す.而るに諸の経像は縦横紛雑たり.身は高座に在り,足は縄床を躡む.口は法華を誦し,手は経像を正すを見る.是の後,心神融浄にして爽利たること常日たり.」というものである14

法純は,大興善寺に住し,隋の文帝に請われ禁中に入り菩薩戒を授けたが,その厚遇を辞し,身の無常を嘆じ,四十五年もの間,方等懺を行じた.

遂行方等懺法四十五年,常処浄場,宗経検失.除食便利,余無闕廃.嘗於道場然灯,遂感灯明続焰,経于七夜,不添油炷而光耀倍常.私密異之,為滅累之嘉相也.又油瓮所止在仏堂内.忽然不見.乃経再宿還来本処而油満如故.毎於夜静聞有説法教授之声.異香尋隙,気衝於外.就而視之,一無所見.識者以為幽祇所集故也15

遂に方等懺法を行ずること四十五年,常に浄場に処し,経を宗とし失を検す.食・便利を除きて,余は闕廃する無し.嘗て道場に於いて灯を然やすに,遂に灯明の続け焰ゆるを感じ,七夜を経るとも油炷を添えずして,光耀常に倍す.かに之を異とし,滅累の嘉相と為すなり.又た油瓮の止まる所,仏堂内に在り.忽然として見えず.乃ち再宿を経て本処に還り来たり,而して油の満つること故の如し.毎に夜静において説法教授の声有るを聞く.異香隙を尋ね,気,外に衝く.就いて之を視れば,一も見る所無し.識者以為らく幽祇の集まる所の故なりと.

「七夜を経るとも」とあるので法純が行じたのは七日行法であると考えられるが,灯明が燃えつづけ輝きが増したことを,滅罪の証としている.

 次に,曇栄伝にみえる方等懺の霊験譚をみてみよう.

又貞観七年,清信士常凝保等,請栄於州治法住寺,行方等悔法.至七月十四日,有本寺沙門僧定者,戒行精固,於道場内,見大光明.五色間起,従上而下.中有七仏,相好非常.語僧定云,我是毘婆尸如来無所著至真等正覚.以汝罪銷故来為証.然非本師不与授記.如是六仏皆同此詞.最後一仏云,我是汝本師釈迦牟尼也.為汝罪銷故来授記.曇栄是汝滅罪良緣,於賢劫中名普寧仏.汝身器清浄,後当作仏,名為普明16

又た貞観七年,清信士常凝保等,(曇)栄を州治法住寺に請い,方等悔法を行ず.七月十四日に至りて,本寺沙門僧定なる者有りて,戒行精固にして道場内にて大光明を見る.五色間起り上よりして下る.中に七仏有り,相好常に非ず.僧定に語りて云わく,我れ是れ毘婆尸如来無所著至真等正覚なり.汝の罪の銷ゆるを以ての故に来りて証を為す.然るに本師に非ざれば授記を与えず.是くの如く六仏皆な此の詞を同じくす.最後の一仏云わく,我れ是れ汝の本師釈迦牟尼なり.汝の罪の銷ゆるが為の故に来りて授記す.曇栄は是れ汝の滅罪の良緣にして,賢劫中において普寧仏と名づく.汝は身器清浄にして,後に当に仏と作るべし,名づけて普明と為さん.

これは,曇定が方等懺の行法中に,七仏に見え,釈迦から授記されたという説話である.曇栄については曇栄伝末に『続高僧伝』の著者道宣が直接曇栄の生前住していた潞城(現山西省東南部)の地を訪ね,その事情を知ったということが述べられており,関係者から直接伝承を聞いたのだろう.この伝承には七仏が登場するが,経によれば,八日か十五日に行法を始めるので,七月十四日は七日行法の最終日にあたる.経の巻三において,七日行法の第六日目に,「爾の時,行人了らかに拘那含牟尼仏を見,及び七仏の虚空に在りて一一の諸仏各おの七宝の蓮華座に乗ずるを見る.」[T21:653b]とあり,第七日目には十方一切諸仏が現れ,さらに釈迦が文殊や無量大衆とともに道場に至り説法し,浄国を見させ,阿耨多羅三藐三菩提心を発させるとある.方等懺を行ずる中での神秘的体験が経典の内容に基づいた伝承になっているのは興味深い.また,この説話も滅罪の証として見仏という神秘的体験を得たという話となっている.

 次に方等懺法が授戒の前に行われたという事例を紹介しよう.智満は太原の人である.七歳で出家し,成人し具足戒を受け涅槃経などを学んだ後,上党(山西省東南部)の石墨山に行き,徒衆をあつめ行道した.隋初のことである.

咸加敬仰為菩薩戒師.而満不重身名,不軽正法.雖苦邀請,未即伝授.乃親為竭誠方等行道,要取明証.夢仏摩頂,并為説法,宛如経相,方為授法.故道俗思戒者相趍不絶17

咸な敬仰を加えて菩薩戒師と為す.而るに(智)満,身名を重んぜず,正法を軽んぜず.苦ろに邀請すと雖も,未だ即ち伝授せず.乃ち親ら為に誠を竭くして方等行道し,明証を取らんことを要む.夢に仏,頂を摩し,并びに為に説法すること,宛ら経相の如くして,方めて為に法を授く.故に道俗の戒を思う者,相趍いて絶えず.

これによれば,菩薩戒を授けるにあたっては自ら方等懺法を行じ,夢に仏が現れ摩頂し説法することあたかも経に説く如くにしてはじめて授けたという.摩頂については,経の巻三[T21:653a]の行法の第四日目に,

爾時道場行人不諂偽者,今18世及過去世,未曾犯毀根本罪者,了見式仏在虚空中乗宝蓮華.爾時行人見式仏已,頂礼足下.爾時式仏即以右手摩其人頂,作如是言,善男子善女人,汝等不久趣菩提樹,破諸魔怨,伏諸外道,当獲総持,与我無異.

爾の時,道場の行人の諂偽せざる者,今世及び過去世にて,未だ曾て根本罪を犯毀せざる者,了らかに式仏の虚空中に在りて宝蓮華に乗るを見る.爾の時,行人式仏を見已りて,足下に頂礼す.爾の時,式仏即ち右手を以て其の人の頂を摩し,是くの如き言を作す,善男子善女人よ,汝等,久しからずして菩提樹に趣き,諸の魔怨を破し,諸の外道を伏し,当に総持を獲ること,我と異なる無かるべし.

とみえる.智満の行じた方等懺に関しては,『続高僧伝』巻二四曇選伝[T50:641bc]にも言及がある.

沙門智満,当塗衆主,一川郷望,王臣傾重.創開諸宇,厳位道場.三百余僧受其制約.夏中方等清衆粛然.風声洋溢流潤遐邇.選聞之,乃詣其寺庭.満徒聞来,崩騰下赴.告曰,卿等結聚,作何物在,依何経誥.不有冒罔後生乎.満曰,依方等経行方等懺.選曰,経在何処,将来対読.遂将一巻来.選曰,経有四巻.何不一時読之.沙門道綽曰,経文次第,識不倶聞.選曰,吾識可共爾識同耶.但四巻斉読,文言未了,便曰,依呪滅罪耳.可罷之.

沙門智満,当塗の衆主,一川の郷望にして,王臣傾重す.諸宇を創開し,位を道場に厳にす.三百余僧,其の制約を受く.夏中の方等,清衆粛然たり.風声洋溢にして,遐邇に流潤す.(曇)選之を聞き,乃ち其の寺庭に詣る.(智)満の徒,来たるを聞き,崩騰して下り赴く.(曇選)告げて曰く,「卿等結聚して,何の物に在るを作し,何の経誥にか依る.後生を冒罔すること有らざるか.」(智)満曰く,「方等経に依りて方等懺を行ず.」(曇)選曰く,「経何の処にか在る,将ち来りて対読せよ.」遂に一巻を将ち来る.(曇)選曰く,「経は四巻有り.何ぞ一時に之を読まざる.」沙門道綽曰く,「経文の次第,識,俱には聞かず.」選曰く,「吾が識,爾じの識と共に同じかるべけんや.」但だ四巻斉読するも,文言未だ了らずして,便ち曰く,「呪に依りて罪を滅するのみ.之を罷むべし.」

「経文次第,識不倶聞」というのは意味がとりにくいが,経文には順序があり,一度にすべて聞くことはできないということであろうか.この資料により,智満の下,三百余人もの僧が修行していたこと,さらにその方等懺が『陀羅尼経』の巻一を用いるものだったことがわかる.

 本節では,僧伝において方等懺の行法中の神秘体験が滅罪の証明となされ,菩薩戒法を授ける前に行じられた事例もあること,行法中の神秘体験が経の内容に基づくものもあることなどを確認した.さらに,曇栄と智満の事例が潞城と上党という,ともに現山西省東南部に属する地域であることは注意しておいてよい.次節で詳しく検討する十二夢王の石刻がこの地域に発見されたのも偶然ではなく,当該地域に方等懺の神秘的体験を重んずる気風があった可能性が考えられる.

三,造像の形態と銘文

さて,方等懺と好相行との密接な関係について明らかになったところで,冒頭で紹介した十二夢王の図像を有する石刻の検討にうつらせていただきたい.この石刻は幅四六~四六.五,奥行き四〇~四三,高さ二九~三二センチメートルで方形の台座のような形状をしている(図一参照).上部は完存しているが,下部の損傷が激しい.劉氏はもともと石塔の中核部分の一層であっただろうと推測する.正面には亀趺を有する円首碑像が浮彫してあり,碑首の形状は螭首であるが,その中央には龕を刻み,禅定印の坐仏が配される.碑身には願文が刻まれる.この浮彫碑の両側には台座に立つ二比丘が浮彫される.このように,方形の台座の形状の石像に碑を浮彫するものは珍しい.両側面には後述する十二夢王の浅浮彫と供養者の線刻,背面には十二夢王の浅浮彫がある.その両側面と背面の図が篇末に掲げた図二・三・四である.浮彫碑に刻まれた願文には,以下のようにある19

大斉乾明元年,歳在庚辰,二月癸未朔八日庚寅,蔵陰山寺比丘曇始共道俗五十人等,敬造竜華象一傴,今得成就.上為皇帝陛,師僧,父母,法界衆生,同入薩婆若海.

大斉乾明元年,歳は庚辰に在り,二月癸未朔八日庚寅,蔵陰山寺比丘曇始,道俗五十人等と共に,敬んで竜華象一傴を造り,今成就するを得.上は皇帝陛(下)・師僧・父母・法界衆生の,同に薩婆若海に入らんことの為にす.

「皇帝陛下」の「下」が脱落しているが,この銘文により比丘曇始が道俗五十人と共に「竜華像」を造ったことがわかる.

曇始について,唐の大和七年(八三三)の「竜興寺造上方閣画法華感応記」(別名青蓮寺碑)には,北斉時代,彼が蔵陰寺を建立し,涅槃経を講ずると様々な霊験があったという記述があり,さらに慧遠が涅槃疏を著した時の神異についても言及する20.ただ,この記事をどこまで信用してよいかはやや疑問である.

また,「竜華」というのは弥勒が未来にこの世に下生し,竜華樹の下で三度説法するという,その竜華樹のことであろうと劉氏は指摘する.ただし,願文には弥勒信仰があらわされておらず,この竜華樹をただちに弥勒に結びつけて考えるのは躊躇される.筆者が収集した約二二〇〇点の北朝有紀年造像銘において,「竜華」像に関しては,北魏水泉石窟の窟外摩崖碑記にみえる「造一千五百竜華像一区」という事例,北斉武平元年(五七〇)の紀年を有する「竜華浮図」をつくったという事例(傅斯念図書館所蔵拓本「劉氏造像記」),山東省博物館所蔵の北斉天統元年(五六五)の紀年を有する「竜華四面龕像」を造ったという事例(『北図』第七冊一五五頁)があるのみであり,残念なことに共に像の形状は不明である.ただし,「四面龕像」というからには,石の四面に龕をつくり弥勒以外の仏像も刻んでいたことは間違いない.このほかに,「竜樹思惟像」が五点,「竜樹像」とするものが一点あるが,その供養者の肩書が「思惟竜樹像主」とあるのでこれも思惟像である.他に交脚菩薩像の形状で銘文には「竜樹坐像」と記すものが一点あるが,これは弥勒像と考えてもよいだろう.つまり,「竜樹」像に関しては一体が交脚菩薩像で弥勒菩薩と考えられるのを除いてみな思惟像である.思惟像に関しては,北朝時代においては「太子思惟」像とする銘文もあるように成道前の悉達太子と結びつけて考えられており,弥勒と結びつけることはあまりないようである21

 さて,この「竜華」が具体的に指すものとして,現存しない部分も含めたこの石像全体,または,石像の中核部分である正面の浮彫の碑の碑首の部分との二通り考えられる.前者であれば本来の形状がわからないので失われた部分に弥勒佛像があった可能性もある.後者とするならば,この碑首の禅定仏像は竜華樹下での弥勒佛をあらわしたものと考えるのが通常であろうが.ただし禅定印の弥勒佛像というのは中国では類例がほとんどみあたらないようであり22 ,やはり弥勒とみなすのは躊躇される.また,願文中にも弥勒信仰は表されていない.筆者は経典に典拠のある「竜華」という語が,中国古代文化の「竜」のイメージと結びつき,むしろ造形的な見地から好んで造られたのであり,弥勒信仰とは必ずしも結びついていないと理解したい23.劉建軍氏は,この石刻が弥勒竜華会と十二夢王像とを融合させたもの,つまり,北朝時代における初期雑密と顕教が分化していない特徴をよくあらわしているとされるが,上記の考察をふまえれば竜華と弥勒とを結びつけるのは結論を保留せざるを得ないであろう.

 もうひとつこの願文で注目したいのは,末尾の「法界衆生同入薩婆若海」という語句である.「薩婆若」とはsarva-jJa の音訳であり「一切智」と意訳するが,北朝造像銘ではほとんどみられない語である.「薩婆若海」という語の典拠は『六十華厳』入法界品であり,その他,疑経である『菩薩瓔珞本業経』や『占察善悪業報経』にもみられる.また天台の『摩訶止観』『法華文句』『法華玄義』『維摩経文疏』などにも多用されている.『六十華厳』には,善財童子が観音菩薩に見えて「・・・ 善知識は一切智門を開発示導す.能く一切をして薩婆若海に入り清浄無上菩提を究竟せしむ.」という念をなしたとある.同じく現在の山西省東南地域に属する北斉時代の造像に,『菩薩瓔珞本業経』に基づくと思われる造像銘もあり24 ,この経の地論学派による注釈が敦煌文献中に発見されている25 .北斉時代の当該地域においては地論師が活躍しておりその影響も考慮すべきかも知れない.

これに関して,青蓮寺に現存する唐の宝暦元年(八二五)の「硤石寺大随(隋)遠法師遺跡」碑には,浄影寺慧遠が硤石寺に居して涅槃経疏を著し,さらにその一族の住む宅は霍秀里になお存すと記している26.青蓮寺は硤石山にあり,硤石寺というのは青蓮寺の古名である.『続高僧伝』の伝によると,もともと慧遠は上党郡高都に居し,当時の都である鄴で法上などに師事し名声を得て,学侶を従えて高都の静化寺に戻ったという27.慧遠は開皇十二年(五九二)七〇歳で遷化しているのでその生年は西暦五二三年であり,具足戒を受けて大隠律師のもと五年学び,その後,法上に七年師事し高都に戻ったので,静化寺に住したのは西暦五五五年頃からと考えられる.高都県の県治は,この青蓮寺からかなり近い地に位置するので,彼が青蓮寺に居した可能性もあり,そうならずとも何らかの影響があった蓋然性は高い28

次に,供養者画像とその題記についてみてみたい.供養者の画像は左右両側面の正面側に近い方に上・下層の二層に分かれて描かれており,傘蓋や団扇をさしかける侍者を従えた蓮華を捧げ持つ先頭の供養者の傍に題記がある.左側面上層に「大斎主閻迴」,下層に「大像主趙敬容」,「都維那尹来男」,右側面上層に「大斎主薛定周」,下層に「罷像主王女貴」と合計五人である.願文に五十人とあるのと比較するとこの数は少なすぎる.前述したごとく,この石の下面は損傷が激しいので,この石の下にさらに石があり,そこに「邑子」などの肩書の供養者名が刻まれていたものと推測される.「大像主」「都維那」「大斎主」といった肩書からもこの集団は邑義と考えてよいだろう.

注目すべきはその服装である.「薛定周」は胡服であり,それ以外の四人は皆漢人の服装であるが,「閻迴」と,他の三人「趙敬容」「尹来男」「王女貴」とでは冠や帯の形状が異なる.「閻迴」は男性の服装,後者三人は女性の服装であろう.「敬容」「来男」「女貴」というのは女性である確率が高い名である.「薛」氏については,河東汾陰の名族として有名であるように,漢人であることも可能性として想定しなければならないが,『北朝胡姓考』29を参照すると,鮮卑の叱干氏が後に改めて薛氏となっており,もと三城(現陝西省延安市のあたり)に居したという鮮卑の一部族である可能性も考えてよいだろう.以上の考察から,この造像の供養者の集団は男女,道俗が混淆しており姓も様々であり,さらには胡漢融合である可能性もあり,非常に興味深い集団であるといえるだろう.

 また,「大斎主」が二人,それも「大像主」をさしおいて,上層に配置されていることについても注意しておきたい.造像銘では「像主」は「斎主」よりも顕要な位置に配置されるのが通例であり,「斎主」が「像主」よりも上の位置にくることは少ない.この石刻造像における「斎」の重要性を示唆するものである.『陀羅尼経』の経中にも七日間の懺悔行法について「七日長斎」[T21:645b]という語を用いており,また,陳の文帝にも「方等陀羅尼斎懺文」がある.「大斎主」という題記は,この邑義が方等懺を修していたことを示していると言えよう.

 最後に「十二夢王」の画像とその名であるが,右側面(向かって左)から背面,左側面へと経典の順に沿って時計回りに配置されている.十二夢王の名は『陀羅尼経』巻一,巻三にそれぞれみえ,この図像は巻三の内容と合致することは劉氏の掲げる表を参照していただければ一目瞭然である.劉氏も指摘するようにこの図像には第七番目の神王「檀林羅」が脱落しており,「波林羅」が重複する.「檀林羅」は僧が具足戒を授かるという夢の神王であり,この道俗混淆の集団としては相応しくないので意図的に採用しなかった可能性も考えられる.また,諸本の十二夢王名の異同についても劉氏は検討されているが,より明確にするため,以下の表一にまとめた30.北魏正光二年(五二一)の紀年題記をもつ敦煌本の他本との異同の大きさがわかる.

表一によると,遼代の房山石経本では,巻一と三では三人の王の名が異なる.北朝時代では経の巻一,三ともに「羅」がなかったが,時代が下ると,最初に巻三の方に「羅」が付加され,さらに後に巻一の方

にも「羅」が付加されるようになったという変遷を推測できる.表に

は掲げなかったが大正蔵の校勘によれば元・明本は巻一においても1

番と12番目の王の名を「斤提羅」と「婆林羅」として『止観輔行伝弘決』を踏襲しており,古いテキストにおいて既に不整合がある場合,後代のテキストにおいてそれを修正しようとした形跡が諸本間の文字の異同となってよくあらわれている.

表一  十二夢王名対照表
  夢を見る主体 敦煌本S.1524巻1(521年) 石刻(560年) 房山石経巻1 房山石経巻3 高麗再雕本巻1 高麗再雕本巻3 止観輔行伝弘決
1 善男善女 祖荼 祖荼 袒茶 袒茶羅 袒荼羅 袒荼羅 袒荼羅
2 善男善女 斤持 斤提 斤持 斤提羅 斤持羅 斤提羅 斤提羅
3 善男善女 茂持羅 同左 同左 同左 同左 同左 同左
4 善男善女 乾基羅 同左 同左 同左 同左 同左 同左
5 善男善女 多林羅 同左 同左 同左 同左 同左 同左
6 比丘 波林羅 同左 同左 同左 同左 同左 同左
7 比丘 檀持林羅   檀林羅 持林羅 檀林羅 檀林羅 檀林羅
8 比丘 禅多林羅 同左 同左 同左 同左 同左 禅林羅
9 比丘 窮伽林羅 同左 同左 同左 同左 同左 窮林羅
10 大王 波迦林羅 迦林羅 迦林羅 迦林羅 迦林羅 迦林羅 迦林羅
11 大臣   伽林羅 窮伽林羅 窮伽林羅 窮伽林羅 窮伽林羅 伽林羅
12 夫人   波林羅 同左 同左 同左 同左 婆林羅

四,十二夢王と十法王子

 それではなぜ石刻に十二夢王に関する図像が刻まれたのであろうか.『続高僧伝』巻二九[T50:700a]の論において,道宣は「方等・仏名・般舟誦呪有り.多く夢王を以て浄を表す.此に准じて用て澆淳を顕す.」と述べ,『陀羅尼経』,『仏名経』,『般舟三昧経』の誦呪において,夢王が滅罪の深浅をはかる基準となっているとしている.

『陀羅尼経』の特徴の一つとして,水上文義氏は,見仏が修行者の証しとなるほど繰り返し説かれていることを挙げる31.実際に,巻三には,七日行法の各日について仏・菩薩を見るとされ,巻四では,懺悔において夢中に仏や師の摩頂を見ることが清浄戒に住することの証とされる.十二夢王がこの経典において果たす役割も以上の経典の性格を反映したものである.十二夢王はこの経典に以下の三箇所みえる.

巻一[T21:642a]には,

仏告華聚,我今語汝.莫妄宣伝如是妙法.当以神明為証.何以故名為神明.善男子,如是.当有十二夢王.見此一王者,乃可為説.爾時世尊即説陀羅尼章句.

仏,華聚に告げたまわく,我れ今汝に語らん.妄りに是くの如き妙法を宣伝する莫れ.当に神明を以て証と為すべし.何を以ての故に名づけて神明と為すや.善男子よ,是くの如し.当に十二夢王有るべし.此の一王を見る者には,乃ち為に説くべし.爾の時世尊即ち陀羅尼章句を説きたもう.

とある.すなわち,妙法を妄りに宣伝することをいましめており,十二夢王を見ることが妙法(ここでは陀羅尼章句)を授かる条件である.

巻三[T21:652a]には,

爾時仏告文殊師利法王子,若我在世,若去世後,若有善男子善女人来詣汝所,欲求陀羅尼経者,汝当教求十二夢王.若得見一王者.汝当教授七日行法.

爾の時,仏,文殊師利法王子に告げたまわく,若しは我れ世に在り,若しは世を去るの後,若し善男子善女人,来たりて汝の所に詣り,陀羅尼経を求めんと欲する者有らば,汝,当に十二夢王を求むるを教うべし.若し一王を見るを得れば,汝,当に七日行法を教授すべし.

とあり,十二夢王を見ることが,七日行法,すなわちこの経典の懺悔行法を授かる条件である.巻四[T21:660b]には,

阿難,我今以此大方等陀羅尼経付嘱於汝.若有衆生来詣汝所,欲求此経,如上十二夢王,汝当善為説其事相.

阿難よ,我れ今此の大方等陀羅尼経を以て汝に付嘱す.若し衆生の来たりて汝の所に詣り此の経を求めんと欲する有らば,上の如き十二夢王,汝当に善く為に其の事相を説くべし.

とあり,この経典を求めてきた者に対し,十二夢王の事相を説くべしと述べている.

つまり,この経典を求める修行者に対して,まずこの十二夢王の事相が説かれ,陀羅尼や行法を授かるために,修行者が十二夢王を見ることが求められるのである.

また,方等懺の行法次第においても,十二夢王は経典の教義に従って,正行の前の前方便において行者に十二夢王の形相を夢見ることが要求されている.「諸方等師」(『摩訶止観』[T46:112c]),「諸大乗方等陀羅尼行法」(『次第禅門』[T46:485c])とあるように,北朝時代以降,方等懺に精通した僧もあらわれ,方等懺の実践の様々なマニュアルが造られていた.そのマニュアルの一つであり智顗の前期の著作であるとされる『方等三昧行法』 [T46:944b]には,「三に,前方便を緣ずとは,七日行道し呪を誦するに令利ならしむ.至誠に礼懺し,十二夢王を請い,其の形相を見るを求め乞う.若し一一の相を感ずれば,方に是くの如き懺法を行うを得べし.」とあり,『方等三昧行法』より遅れて成立した32『国清百録』所収「方等懺法」[T46:797a]にも「是の事を念じ已りて,十二夢王に帰依し,瑞夢を求め乞う.若し感ぜずんば徒らに行うも益無し.倍ます懇到を加え,餐啜にも忘るること無く,随いて一王を見れば,即ち是れ聴許す.」とあり,十二夢王の瑞夢を見なければ,この行を修しても無益であるとまで述べている.

以上のように,十二夢王については,方等懺を行う前に,まずその事相が説明されるべきものである.石刻造像の指導者である曇始も,方等懺を行う前に図像を見せながら十二夢王のことを説明したのであろう.

もう一点,十二夢王について指摘しておかなければならないのは,十二夢王がこの経典を受持する者の護法神としての役割を担い,その称名の功徳が説かれていることである.

既供養已復白華聚,我等十二大王,当受持是摩訶袒持陀羅尼章句,復当33供養受持経者.如是人等若遭苦厄.応当称我十二神王.・・・ 我等当受持読誦陀羅尼経,摂救行者,令其堅固三菩提心,令獲善利.[T21:642c]

既に供養し已りて復た華聚に白すらく,我等十二大王,当に是の摩訶袒持陀羅尼章句を受持すべし,復た当に経を受持する者に供養すべし.是くの如き人等,若し苦厄に遭わば,応当に我が十二神王を称すべし.・・・ 我等当に陀羅尼経を受持読誦し,行者を摂救し,其れをして三菩提心を堅固ならしめ,善利を獲せしむべし.

とあり,苦難に遭遇したとき,十二夢王の名を唱える者を救済することが述べられている.

「方等懺法」にも前方便として「呪を受け預め誦し,十仏・十法王子・十二夢王の名を誦せしむ.憶持して忘るること勿れ.」とあり,正行の奉請三宝にも,「一心に梵釈十二夢王を奉請す」とあり,実際の行法においても十二夢王の称名が行われていたと考えられる.

この護法神的性格は十法王子にもみられる.十法王子については,経の巻二[T21:650b]に,

爾時,五百大弟子即従座起頭面礼足而白仏言,世尊,如仏所説行此法時,当有波旬,来壊是人善根因緣.云何而知.爾時仏告五百大弟子衆,此魔来時,凡有四十万億.来至人所,発大悪声.・・・ 此人応答汝来甚善.作是語時,応黙心中,誦摩訶袒持陀羅尼章句,復応称言南無釈迦牟尼仏・南無文殊師利法王子・虚空蔵法王子・観世音法王子・毘沙門法王子・虚空法王子・破闇法王子・普聞法王子・妙形法王子・大空法王子・真如法王子.如是菩薩摩訶薩,応念其名,如是諸王必往其所,擁護是人.令此人等身得安楽,無諸苦悩.是諸比丘若値諸難,応如是念諸王名字.

爾の時,五百大弟子即ち座より起ち頭面もて足を礼して仏に白して言わく,世尊,仏の所説の如く此の法を行ずる時,当に波旬有りて,来りて是の人の善根因緣を壊すべし.云何んが而して知るや.爾の時,仏は五百大弟子衆に告げたまわく,此の魔の来たる時,凡そ四十万億有り,来りて人所に至り,大悪声を発す.・・・ .此の人応に,汝来りて甚だ善し,と答うべし.是の語を作す時,応に黙して心中に,摩訶袒持陀羅尼章句を誦し,復た応に南無釈迦牟尼仏・南無文殊師利法王子・虚空蔵法王子・観世音法王子・毘沙門法王子・虚空法王子・破闇法王子・普聞法王子・妙形法王子・大空法王子・真如法王子と称言すべし.是くの如き菩薩摩訶薩,応に其の名を念ずべし,是くの如き諸王,必ず其の所に往き,是の人を擁護すべし.此の人等をして身に安楽を得,諸の苦悩無からしめん.是の諸の比丘若し諸難に値わば,応に是くの如く諸王の名字を念ずべし.

とあり,やはり,その称名の功徳が説かれている.この十王法子に関しては,山東省の臨朐県博物館に所蔵される明道寺遺址出土仏像の背面と両側面に,十王法子と『法華経』序品の羅漢名が刻まれていることが張総氏によって指摘されており34,筆者も博物館を訪問しその拓本を閲覧させていただいた.張氏の紹介したものとはやや文字に異同があるのでそれを補う意味で篇末の図五に筆者の移録を掲げた.背面には線刻で他にも人物像が描かれており,まさに大説法会を表していると思われるが,両側面に十法王子名が配置されており,その説法会を守護する役割で描かれたのであろう.

 以上のように,十二夢王の図像とその名が石刻に刻まれた背景には,十二夢王を見るという神秘的体験が陀羅尼や行法を授かるために必須であると経典に説かれていることと同時に,十二夢王はその名を称えた者を救済するという守護神の性格を有し,『国清百録』所収「方等懺法」[T46:797a]に「呪を受くれば預め誦し,十仏35・十法王子・十二夢王の名を誦せしむ.憶持して忘るる勿れ.」とみえるように,実際の行法でも十仏・十法王子とともにその名が称えられたと考えられることが挙げられる.

 

五,敦煌本『陀羅尼経』について

本節では,敦煌写経における『陀羅尼経』の流布状況を確認しておきたい.敦煌写経では,スタイン本に六点,ロシア・サンクトペテルブルク本に五点,北京本に七点,西北師範大学所蔵本に一点36存在する.ペリオ本にはない.うち,紀年を有するものは三点ある.他に千五百仏名経の題記で『陀羅尼経』を写経したことがわかるものが一点あり,合計四点,みな北魏の年号である.以下にその識語を掲げよう.

①大方等陀羅尼経巻第一.一交竟.延昌三年(五一四)歳次甲午四月十二日敦煌鎮経生張阿勝所写成竟.用帋廿一張.校経道人.典経師令孤崇哲.(S六七二七.『識語』一〇五頁.)

 

②大方等陀羅尼経巻第二.煕平元年(五一六)清信女庶令親為亡夫敬写流通読誦供養.(Дx〇五九九九.『識語』一〇六頁.)

 

③大方等陀羅尼経巻第一.正光二年(五二一)十月上旬写訖.(S一五二四.『識語』一〇七頁.)

 

④十方千五百仏名一巻.大代大魏永煕二年(五三三)七月十三日清信士使持節散騎常侍開府儀同三司都督嶺西諸軍事闘騎大将軍瓜州刺史東陽王元太栄,敬造涅槃,法華,大雲,賢愚,観仏三昧,祖持,金光明,維摩,薬師各一部,合一百巻.仰為比沙門天王,願弟子所患永除.四体休寧,所願如是.(大谷大学図書館所蔵.『識語』一一九頁.)

④の経名の「祖持」というのは「袒持」=「檀持」であり,『陀羅尼経』のことであろう.北魏以降紀年を有するものがみられなくなる理由としては,同じく懺悔経典である六朝後期成立の疑経『大通方広経』の出現が挙げられる.この経は,六朝後期以降盛んに行われ,遅れて日本でも流行した.敦煌本にみえるこの写経の紀年は真偽が疑われるものを除けば,西魏大統二年(五三六),北周保定五年(五六五),北周天和三年(五六八),隋開皇十年(五九〇),仁寿三年(六〇三),大業四年(六〇八)であり37,ちょうど『陀羅尼経』に取ってかわったかたちになっている.無論このことは方等懺が北魏以降衰頽したことを示すわけでは決してないであろうが,敦煌写経の流行の変化を鮮やかに示していると言えよう.ちなみに写経題記には,紀年はないが,六世紀頃のものとされているもので,この経と『陀羅尼経』,その他の経をともに書写していることを述べた識語もある38

もう一点,敦煌写経に関して問題であるのは,既に指摘されているが,上の①と③の巻一が現行本の巻二にまたがり,さらに文が付加されていることである.①と③のテキストはこの文も含め,少しの脱落部分や誤字脱字などを除けば同じテキストであることが指摘されている.①の方は敦煌鎮の官営の写経事業の一環でなされたものであり,方等懺を行ずる際に実際の読誦に用いられ,北魏の敦煌にて方等懺の実践用に流通したテキストではないかと考えられる.その文であるが,いまだ翻刻されていないのでやや長文になるが,以下に①の方を掲げてみたい.(行数・句読点は筆者が加えた.改行は原本に従う.)

1今十一月七日我某甲比丘為如是某甲作

2教授師.如是優婆塞優婆夷請我某甲為教授

3師.我某甲常為如是某甲作教授師.十方諸仏

4当証知.尊経波若当証知.応真僧当証知.此

5某甲忍我某甲為教授師.随今八日至十五

6日我何某自恣往来.第二・第三白如是.十方

7諸仏当証知.尊経乃至応真僧証知.汝某甲

8忍我某甲為教授師.汝行者今諦聴,至心憶

9念,受持読誦.随今八日[至]十五日,汝今諦聴.次

10当説羯磨法.尓時文殊師利即従坐起偏袒

11右肩而白仏言,世尊,若仏在世,若去世後,其

12有善男子善女人欲受持読誦修行大方等陀羅

13尼経者,応唱如是言.

14文殊師利説妙法 為欲流布閻浮提

15在此道場懃脩習 繋心一境莫放逸

16面覩菩薩見諸仏 已了達者而為説

17以此妙法入其心 三世諸仏口所宣

18行者了観於道場 面覩弥勒聴正受

19化諸衆生出三界 令其堅固三界因

20陀羅尼経甚希有 故常久住閻浮提

21観諸衆生応受化 故往其所説妙法

22汝当何用在世間 阿鼻地獄極大苦

23若欲休息无能救 若欲速出无是処

24諸仏世界極妙好 汝曹何用忍苦事

25陀羅尼経而能除 引諸衆生到彼岸

26諸仏世界極妙好 汝曹何用忍苦事

27陀羅尼経而能除 引諸衆生到彼岸

これによれば,方等懺を行う期間を八日から十五日とし,前日である十一月七日に,「十方諸仏」・「尊経波若」・「応真僧」つまり,三宝に対して,方等懺の教授師となることの承認を要請している.

さらに大方等陀羅尼経を受持・読誦・修行すべき者が唱える最後の偈文中に,この道場にて放逸にせず一心に修行すれば菩薩や諸仏に見え諸仏の説法を聴くことができるとし,地獄の苦から抜けるには陀羅尼経によってこそ可能だとしている.方等懺法によって見仏・聞法といった神秘的体験を得ることができると,ここでもまた説かれていることは,『陀羅尼経』そして方等懺法においてこのような神秘的体験が不可欠の構成要素であったことを物語っていると言えよう.

おわりに

以上,新発見の石刻を手掛かりとして,方等懺と,神秘的体験を求める好相行との密接な関係について述べてきた.『陀羅尼経』において,十二夢王を見るという神秘的体験が重要な位置を占めていたこと,『陀羅尼経』に基づく方等懺の実践者においても神秘的体験が滅罪の証として重視されていたことが明らかとなったことと思う.

そして,石刻に十二夢王と十法王子の名が刻まれていた点も看過できない.両者ともに護法神・救済者としての性格が強く,その名を称えることで様々な災難から救済されるという称名信仰とも関係している.『陀羅尼経』と同じく懺悔経典である『大通方広経』や『仏名経』においても仏名を称えることは懺悔行法の中心であり,『大通方広経』にみえる仏名を多く刻んだ造像碑までもある39.称名信仰と懺悔経典との深い関係が『陀羅尼経』においても確認できるのである.

また,邑義について,八関斎とのかかわりについて言及されることはあっても,方等懺などの懺法と関連する邑義の事例についてはこれまで見いだされてこなかった.その点においてこの石刻は非常に貴重な資料であると言えよう.

邑義が斎と密接なかかわりを持ち,道仏二教の融合の様相を示す関中の邑義の実態について,甚だ不十分ではあるが筆者は以前分析したことがある40 .北斉王朝の現山西省東南部に属するこの石刻の邑義の事例は,主に『提謂波利経』にもとづく斎を行っていた関中の仏教の邑義とはかなり性格が異なる.この方等陀羅尼経の図像石刻は,当地域において,比丘の指導の下,邑義においてより専門的な懺悔行法が行われており,それが十二夢王といった神秘的要素をともなっていたことを示す好例であり,既に見たように『続高僧伝』の方等懺実践者である曇栄や智満がこの地域と深いかかわりを有していたことを考慮に入れると,この邑義が山西東南部の地域的特色を示すものであるとも考えられる.

北朝時代,仏教が民間に流布するにあたってきわめて重要な役割を果たしたと思われる邑義において,『陀羅尼経』以外で,『大通方広経』,『菩薩本業瓔珞経』といった実践的性格の濃い疑経が用いられた形跡があることは留意しておいてよい.千仏などの多仏の造像において小仏龕ごとにその仏名が刻まれることは多くないが,それが刻み込まれていることは懺悔の行法との関連も予想させる.この問題については稿を改めて論じたい.

<図版典拠>

図一:郭新明[2000]

図二~図四:劉建軍[2007].

図五:筆者作成

Footnotes

1 道端良秀氏は,昭和十六年七月から十八年十二月まで中国に史跡調査のため滞在し,青蓮寺を訪問した際,北斉「乾明元年」の紀年を有する石像が大きな弥陀像の前に置かれていたのを発見している.十二夢王画像のことには何ら言及されていないが,氏が見たのはこの石刻のことである可能性が高い.道端良秀[1972]103頁参照.

2 郭新明[2000].

3 劉建軍[2007].

4 佐藤哲英[1961]第六章,大野栄人[1978]など.より詳しくは,水上文義[1994]の48頁以下を参照.

5 山部能宜[2000].

6 邑義については,拙稿[2007]の注4の参考文献を参照.

7 ただし,『潅頂経』が慧簡によって編纂されたのは五世紀半ばと考えられており,『大方等陀羅尼経』の成立よりも遅いので,少なくとも直接これを参照したことはあり得ない.この経典に先行する真訳『薬師経』があり,『陀羅尼経』の編纂者がそれを参照したと考えることは可能である.薬師経の成立に関しては,新井慧誉[1970]参照.十二神王以外にも「二十四戒」という語など,『潅頂抜除過罪生死得度経』と『陀羅尼経』との親近性は見られる.

8 山部能宜[2000].

9 大野栄人[1978].

10 『高僧伝』巻一一 玄高伝[T50:398ab]「有沙門法達,為偽国僧正.欽高日久,未獲受業,忽聞怛化.因而哭曰,聖人去世,当復何依.累日不食.常呼,高上聖人自在,何能不一現.応声見高飛空而至.達頂礼求哀,願見救護.高曰,君業重難救,当可如何.自今以後,依方等苦悔,当得軽受.」

11 『北図』第五冊三頁.

12 元顥は『魏書』巻二一上に立伝される.

13 『広弘明集』巻二八[T52:334a].

14 『智者大師別伝』巻一[T50:191c]「仍摂以北度,詣慧曠律師.兼通方等故北面事焉.後詣大賢山.誦法華経・無量義経・普賢観経.歴渉二旬,三部究竟.進修方等懺,心浄行勤勝相現前.道場広博,妙飾荘厳.而諸経像縦横紛雑.身在高座,足躡縄床,口誦法華,手正経像.是後心神融浄,爽利常日.」

15 『続高僧伝』巻一八 法純伝[T50:575bc].

16 『続高僧伝』巻二十 曇榮傳[T50:589bc].

17 『続高僧伝』巻一九 智満伝[T50:583a].

18 「今」:大正蔵「今於現」であるが,房山石経,宋・元・明本に従う.

19 以下,題記も含めた銘文の文字の判読に関して,筆者は劉氏と異なる部分がままあるが,煩を避けて逐一注記しない.

20 「初有曇始禅師,大斉起義之首,奏蔵陰寺,講涅槃経,感野雉来聴,蔵神遺□,猕猴奉菓,山神献飡.時之異人乎,其難識矣.周朝有恵遠法師,即晋城霍秀人也.制涅槃疏,擲筆昇空,精義入神,以験其旨.」(『山右』巻九,八葉).

21 水野清一[1940],石松日奈子[1993]など.

22 佐藤智水[1977]34頁の表を参照.表によれば,単立石像では合手坐仏(禅定印)像は釈迦と銘記されるものが多数で,無量寿が少数であるが,弥勒の事例は一例もない.

23 中国古代の竜については,林巳奈夫[1993]を参照.林氏は仏教伝来以前の竜と蓮花とがともにあらわれる図像の諸事例についても言及されている.

24 『山右』巻二,一一葉「陽阿故県造像記」.この造像記にみえる十地・十住・十行・十廻向の条目について,顔娟英氏は『六十華厳』との比較をされ,盧舎那仏の名が見えないのでただ『十地経』等の思想に基づいていたと推測できるのみであるとされているが(顔娟英[2002]),筆者の考察によれば,より直接的には『菩薩瓔珞本業経』に基づくものである.この問題を含め,多仏・菩薩名を刻む北朝時代の造像銘について稿を改めて論ずる予定である.

25 T85. n. 2798(S. 2748).

26 「遠公之居,以成其道.既修涅槃蔵疏,絶筆石巓,擲上太虚,得以明真,契示其同.法師称号恵遠,生燉煌李氏之族家,数世居霍秀里,本宅猶存.」(『鳳台』巻13).

27 『続高僧伝』巻八 慧遠伝[T50:489c-490a]参照.

28 青蓮寺の歴史に関しては李会智・高天[2003a],[2003b]に詳しいが,二篇ともに唐代後半期以降の碑の記事をほぼそのままうけているので,にわかには従いがたい部分がある.

29 姚薇元[1962].

30 表の各テキストについては,竺沙雅章[1991]参照.氏は『大方等陀羅尼経』巻一の一部を校勘し,高麗蔵よりも契丹蔵を受け継ぐ房山石経本が唐代の標準的な写本の系譜により近いとされている.十二夢王名の比較対照の結果も氏の説を支持するものであるといえよう.『止観輔行伝弘決』は湛然による『摩訶止観』の注釈書.八世紀成立.

31 水上文義[1994]47頁.

32 『方等三昧行法』,『方等懺法』(『国清百録』)の成立順序に関しては,佐藤哲英[1961]を参照.

33 「当」の字,大正蔵は「富」であるが,高麗再雕本では「当」である.

34 張総[2004].

35 十仏とは『陀羅尼経』巻二にみえる無量寿仏・釈迦牟尼仏・維衛仏・式仏・隨葉仏・拘樓秦仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏・過去雷音王仏・祕法蔵仏を指す.近年,賀世哲氏は,敦煌莫高窟第二八五窟北壁の四つの小禅室の入口上部に横一列に描かれた八仏はこの十仏のうち,無量寿仏から迦葉仏までの八仏であり,懺悔が目的であったとする新説を発表された.賀世哲[2006]三四二頁以下参照.

36 『甘粛蔵敦煌文献』第三巻,三〇〇頁.

37 新川登亀男[2000]参照.

38 『識語』164頁「十方千五百佛名尼道明勝題記」.大谷大学図書館蔵.「夫真軌凝湛,絶於言像之表,理絶名相,非言弁所関.是以大聖垂訓,羣惑生於王宮,現丈六之身.但衆生道根華薄,娑羅隠滅,流経像訓誨.是以仏弟子尼道明勝自云,宿殖根尠,沈溺有不都真聖.偶聞,造善慶勝天堂,造悪退洛三塗.是以謹割衣資之分,建写无量寿一部,十善一部,薬王薬上一部,千仏名壱巻,涅槃一部,大方等陀羅尼一部,大通方広一部.因微福,願七世父母師長父母所生因縁往生西方浄仏国土.若悟洛三塗,使濩湯止流,刀山以為宮殿.現在之身,塵羅之蔽,雲飛雨散,勝善之果,日暈重集,有有一切衆生,一時成仏.」

39 山西博物院所藏「陳海龍造像碑」(北周保定二年).この碑については『中国哲学研究』23,2008年において考察する.

40 拙稿[2007].

References
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  • 石松日奈子 [1993] 「弥勒像坐勢研究――施無畏印・倚坐の菩薩 像を中心に」『東京国立博物館研究誌』502, 4-26頁.)
  • 大野栄人 [1978] 「方等陀羅尼経に基づく方等懺法の考察」『宗 教研究』237,51-77頁.
  • 大野法道 [1954] 『大乗戒経の研究』理想社.
  • 倉本尚徳 [2007] 「北朝造像銘にみる道仏二教の関係――関中 における邑義の分析を中心に」『東方宗教』109,18-51頁.
  • 佐藤智水 [1977] 「雲岡仏教の性格」『東洋学報』59-1・2,27-66 頁.
  • 佐藤哲英 [1961] 『天台大師の研究』百華苑.
  • 塩入良道 [2007] 『中国仏教における懺法の成立』大正大学天 台学研究室.
  • 新川登亀男 [2000] 『平井俊栄博士古稀記念論集――三論教学と 仏教諸思想』春秋社,530-546頁.
  • 竺沙雅章 [1991] 「『開宝蔵』と『契丹蔵』」(古典研究会編『古 典研究会創立二十五周年記念国書漢籍論 集』汲古書院,611-634頁.)
  • 土橋秀高 [1980] 『戒律の研究』永田文昌堂.
  • 土橋秀高[1982] 『戒律の研究』第二 永田文昌堂.
  • 林巳奈夫 [1993] 『龍の話』中央公論社.
  • 船山徹 [1995] 「六朝時代における菩薩戒の受容過程」『東方 学報 京都』67,1-135頁.
  • 水上文義 [1994] 「解題 大方等陀羅尼経」『新国訳大蔵経 密 教部6』大蔵出版,26-53頁.
  • 水野清一 [1940] 「半跏思惟像について」『東洋史研究』5-4, 48-53頁.
  • 道端良秀 [1972] 『中国の石仏・石経』法蔵館.
  • 山部能宜 [2000] 「『梵網経』における好相行の研究」(荒牧典 俊編著『北朝隋唐中国仏教思想史』法蔵館, 205-269頁.)
 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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