2008 Volume 12 Pages 99-118
遼代仏教における主要な学僧の覚苑には,『大日経義釈演密鈔』(『演密鈔』と略称)という著作が唯一現存している.これは,唐代の一行の『大日経義釈』(『義釈』と略称)を注釈したものであり,『義釈』に関する中国唯一の注釈書として,中国密教史において重要な位置を占めている.
遼代密教の特色が華厳と密教の融合化にあることはすでに脇谷撝謙氏により指摘されており,脇谷氏の主張の根拠となるのはこの『演密鈔』と『顕密円通成仏心要集』であった1.松永有見氏は,『演密鈔』は『義釈』の注釈であることから善無畏系に属するものの,華厳とその教系を一にする不空系の密教であることも否定できないとした2.また鎌田茂雄氏は『演密鈔』には華厳の澄観からの引用が多いことを指摘し3,木村清孝氏は覚苑の宗趣論が澄観の宗趣論にもとづいていることなどを明らかにした4.
このように『演密鈔』に関する研究は,脇谷氏の主張を出発点とし善無畏系と不空系の帰属の問題から,引用や宗趣などにおける澄観の影響の解明へと展開したのであるが,覚苑の『大日経』そのものに対する理解の特色については,教判・宗趣以外の観点からはまだ十分に明らかにされていない状況にある.それゆえ本稿は『演密鈔』の文前聊簡の章を中心に検討し,覚苑がいかに『大日経』を理解していたのかを,より総合的に分析することを目的とする.
覚苑は「燕京円福寺崇禄大夫検挍太保行崇禄」の肩書を持つ遼代一流の仏教学者である.彼は幼時より聖賢の教えに親しみ,その学問は諸経にわたり,インドから来て遼に密教を広めた摩尼三蔵の指導を受け,密教を学んで瑜伽の奥義を極めるにいたったことを趙孝嚴の序は伝えている5.遼で一行の『義釈』が板行されたのは清寧五年(1059)であり,大康三年(1077)以降,覚苑は道宗の勅命を受けて『義釈』の科文五巻を作成し,『演密鈔』十巻を著述することになった.
『演密鈔』は文前聊簡の章と依文正釈の章とに二分される.文前聊簡は起教因縁・蔵教収摂・説経会処・弁教浅深・明経宗趣・翻訳傳通の六門よりなり,内容的には概論に相当し,覚苑の『大日経』理解を知るうえで重要な資料を提供する.この部分を中心に,起教因縁・経名解釈・教判・宗趣・成仏論の五つの観点から,覚苑の『大日経』理解の特色を検討する.なお,教判・宗趣についてはすでに先行研究で検討されている問題であるが,覚苑の『大日経』理解を総体的に把握する上では欠かすことができず,また法界字門観行などの新知見にも言及したいため,今回の検討に含めることにする.
覚苑は文前聊簡第一門の起教因縁6において『大日経』の因縁を酬昔願・順當根に二分して説く.さらに酬昔願は明自証と釈弁加持に分かれ,順當根は金剛啓問と世尊垂答に分かれる.酬昔願は起教の因縁を毘盧遮那世尊の立場から捉え,順當根は起教の因縁を金剛手菩薩の立場から捉えたものであるが,以下にその内容を見ていく.
(酬昔願の内容)
酬昔願の第一明自証の内容.毘盧遮那世尊は過去世で自覚地の最初の一念において菩提心を発し,三密方便により,三十七菩提分法・諸波羅密門を修め,三妄執を超越して,本地法界の身を証するに至る.如来がこの身を証すると,常に法界金剛宮殿に処して十佛刹微塵数の執金剛衆を内眷属とし,普賢・文殊等の十佛刹微塵数の諸菩薩衆を大眷属とする.これらの金剛菩薩の無量眷属は常に無尽秘密甚深不可思議広大法楽を受ける.
酬昔願の第二釈弁加持は,明体と弁相に分かれるが,第一の明体の内容はこうである.悲智を体とするから毘盧遮那世尊は広大法楽を自受する.最初の本願で無辺の諸衆生の救済を誓ったから大悲を激しく起こし,次のように思惟する.すなわち,一切衆生は皆このような法界宮殿・二種眷属をそなえていて,種種法楽は自分と異ならない.ただ,衆生は無明に覆われこのことを覚知しないため,輪廻しさまざまな苦しみを受ける.自分がこのまま不可思議微妙境界に安住していては,衆生たちは利益を蒙ることができない.それゆえ自在神力加持三昧に住する必要がある.
釈弁加持の第二弁相の内容.上述のように世尊は思惟すると,三昧中において不思議神変加持の相を現起する.それは『大日経』に「毘盧遮那如来加持故奮迅示現身無尽荘厳蔵,奮迅示現語意平等無尽荘厳蔵」7とあるとおりである.
(順當根の内容)
起教因縁の第二の順當根は,金剛啓問と世尊垂答に分かれ,さらに金剛啓問は示疑相と伸疑問に分かれる.
金剛啓問の第一示疑相の内容.金剛手菩薩は仏の所現の加持の相を観じ,如来実相の智を仰ぐ.このように金剛の観る荘厳の相はすべて外迹である.智者はその條末を見てその根本を悟る.たとえば大龍が雷鳴をとどろかせ大雨を降らせると鳥獣は振吼し百川は奔勇する.その龍の形を見なくても,この龍の威勢の必大なるを知ることはできる.仏が一時に普く法界に応じてなす加持についても同様である.仏身の相の大小や色像や威儀を観ずることはできなくても如来の智力の必大なるを知ることはできる.
金剛啓問の第二伸疑問の内容.金剛手菩薩は如来加持荘厳相を観じて,如来の加持相が衆生のために如来一切智智より現起したものであることを思惟するが,この如来一切智智は何により得られるのかという疑問を解くために世尊に質問する.
順當根の第二世尊垂答の内容.こうして世尊は彼の疑問に次第に答えていく.『大日経』に「毘盧遮那告金剛手言.菩提心為因,大悲為根,方便為究竟」8とあるが,この経の七巻三十一品の始めから終りまで皆この三句の義を顕しており,これがすなわち阿阿暗悪四字の義であると理解すべきである,と覚苑は世尊垂答をまとめている.
以上が『大日経』の因縁であるが,経の説処について覚苑は,『瑜伽指帰』の十八会十四処のうち,「第十六会法界宮処説」に該当するという.なぜなら,『大日経』の「住如来加持広大金剛法界宮」や「演説身語意平等句法門」の句9が,『瑜伽指帰』の「第十六会名無二平等瑜伽.於法界宮説…同真如法界皆成一切仏身」10の一文と意味が同じだからである.
『演密鈔』は文前聊簡の章と依文正釈の章とに二分されるが,依文正釈の冒頭において覚苑は『大日経』の経名解釈を行う11.その解釈は離釈と合釈からなり,さらに離釈は三大釈と三身釈に分かれる.
(離釈)
三大釈では「大毘盧遮那成仏神変加持」を体・相・用の三大の概念をもちいて解釈するが,この三大は『起信論』に由来している.まず,大の一字が体大である.一真法界が十方三際にあまねくゆきわたり,非生非滅・無去無来であるのを体大という.次に,毘盧遮那の四字が相大である.「光明遍照即日」の別名であり,相大の理由については「除闇遍明義故.具常楽我浄恒沙性功徳故」という.
次に,成仏神変加持が用大である.「謂以円満覚体尽諸障故.起三種神変加被住持護念衆生故」とし三種の神変加持を挙げる.すなわち,第一の神境神変加持により増威し,第二の記説神変加持により益智し,第三の教授神変加持により益弁する.また三密の方便は三類変化・十重他報を總摂し,その用は法界にゆきわたり,物に応じて形を現し,萬種の情根を一乗の智果に導くから用大という.
これ以外にも「大毘盧遮那倶属体大.成仏二字即相大.神変加持用大也」とする別の三大釈も存在するが,その意味合いについて覚苑は特に何も言及していない.かくして三大釈に関しては,「大(体大)/毘盧遮那(相大)/成仏神変加持(用大)」と「大毘盧遮那(体大)/成仏(相大)/神変加持(用大)」の二種の三区分が存在する.
次に三身義釈では,「大毘盧遮那成仏神変加持」を法身・報身・応化身の三身の概念をもちいて解釈する.これについては「大毘盧遮那(法身)/成仏(報身)/神変加持(応化身)」と「大(法身)/毘盧遮那成仏(報身)/成仏神変加持(応化身)」の二種の三区分が存在する.また「或可大之一字即通三身.所謂大法身大報身大化身也」とも述べ,大の一字が三身全体に通じる解釈も可能であるとする.
(合釈)
合釈では,まず「大(体大)/毘盧遮那(相大)/成仏神変加持(用大)」の三大釈を示してから,「成仏」の二字を自利果円とし,「神変加持」の四字を利他妙用とする.「神」を智,「変」を境とし,境より名称を立てれば「変之神」,當体より名称を立てれば「神即変」となる.「神変」に加持の用があるから「神変即加持」であり,また「神変」は能発の三種の神変,「加持」は所発の三種の表業であるから「神変之加持」となる.
「神変加持」は能起,「成仏」は所起の関係にあり,能起にもとづいて名称を立てれば「成仏之神変加持」となるが,これすなわち用大である.「大」(体大)と「毘盧遮那」(相大)を依主釈でまとめると,「大之毘盧遮那」となり,「大毘盧遮那」と「成仏神変加持」を依主釈でまとめると,「大毘盧遮那之成仏神変加持」となり,持業釈でまとめると,「大毘盧遮那即成仏神変加持」となる.さらに「経」の一字と,「大毘盧遮那成仏神変加持」の十一字を依主釈によりひとまとめにすれば,「大毘盧遮那成仏神変加持経」の経題が立てられる.
覚苑は『大日経』を八蔵の第八総持蔵(陀羅尼蔵)と華厳の五教の第五円教に配し,さらに温古の序文に『大日経』の趣旨を「秘蔵円宗」と称するのを受けて,これを華厳の十宗判の第十円融具徳宗にあてている.覚苑は『大日経』と『華厳経』には顕密の相違が存在するが,経典の趣旨については両者をほとんど同一のものとみなしている.以下にその内容を検討する.
覚苑は文前聊簡第二門の蔵教収摂12において如来所説一大時教を修多羅蔵・毘奈耶蔵・阿毘達磨蔵の三蔵に分け,さらに「又於修多羅中分出陀羅尼門別為一蔵.又此通大小乗開為八蔵」として八蔵に分け,『大日経』は第八総持蔵の所摂とする.
この総持すなわち陀羅尼について覚苑が蔵教収摂以外で言及している箇所がある.それは序の「持明蔵」13の「持」の一字を解釈する箇所で,「梵語陀羅尼此云総持.総持通四」と述べ,法総持・義総持・呪総持・忍総持の四種を提示し,この場合の「持」は第三呪総持に属するという.また第三に属するがその他の総持を摂することができるが,逆に法・義・忍の三総持が呪総持を摂することはできないともいう.
次に覚苑は「問曰.諸教説総持皆以念慧為体.何言呪総持謂是真言」という問いを立て,その答えとして総持の体には通・別の二種があるとする.通では,法・義・呪・忍は倶に念慧を体とする.別体を論ずる場合,呪総持を真言という.この真言はただ能詮というばかりでなく,教理行果の四法を体としている.教を具えているから,法総持を摂し,理を具えているから,義総持を摂し,行を具えているから,忍総持を摂する.一方,他の三種総持はこの呪総持を摂することができない.それぞれ法・義・忍を取って体とするからである.
以上のように覚苑は『大日経』を八蔵の第八総持蔵に位置付けているが,他方では華厳の五教判の第五円教に『大日経』を配してもいる.以下に華厳の教判との対応を述べる箇所を検討する.
覚苑は「古来分教總有多岐.且依清涼教類有五」とし,澄観の五教判による『大日経』の位置付けを試みる.五教判は小乗教・始教・終教・頓教・円教から成り,『大日経』は最高位の円教に配される.円教について,「五円教.明一位即一切位一切位即一位.十信満心即摂五位成正覚等.依普賢法界帝網重重主伴具足故名円教」と述べたあと,覚苑は次のように論じる.
今神変経典與此大同.但顕密為異耳.是故此経五教之中円教所摂.(卍37,3右上)
今の『大日経』はこれと大体同じである.ただ顕密の差異があるにすぎない.それゆえこの経は五教の円教の所摂となる.
覚苑は『大日経』を円教とし,『華厳経』とは顕と密の相違があるだけだとし,この根拠として『義釈』の序文にある「此経迺秘蔵円宗深入實相為衆教之源」14の一文などを引く.
いま引かれた序文中の「秘蔵」の語に対する注釈のなかでは,
問.華厳法華涅槃経等仏亦親宣名為秘蔵.華厳疏云.大華厳経者諸仏之秘蔵.彼又釈云.謂此華厳円教即是一乗秘密之蔵.三世諸仏悉並宣説等.豈非秘蔵耶.(卍37,8左上~下)
質問する.『華厳経』『法華経』『涅槃経』などの仏の親宣もまた秘蔵という.『華厳経疏』は「大華厳経は諸仏の秘蔵である」といい,また「この華厳円教は一乗秘密の蔵であり,三世諸仏は悉く宣説する」などと解釈するのに,[『華厳経』などが]どうして秘蔵でないのか.
という問いを立て,その答えの部分で,『華厳経』などの秘蔵と,『大日経』の秘蔵との相違点を覚苑は明らかにする.すなわち,『華厳経』などが明らかにする秘密教は顕に属するのに対して,『大日経』の称する秘蔵は顕に属していない.『華厳経』などは大乗四蔵の中の第一修多羅であるのに対して,『大日経』は八蔵の中の第八陀羅尼蔵である.また『大日経』の称する秘密が余教と異なる理由に,『大日経』では三密を宗としている点があげられる.
上述の序文中の「円宗」の語に対する注釈のなかでは,『大日経』と『華厳経』の同質性が強調される.『大日経』は一切大小性相諸法を含み,無量乗を具し,直ちに一乗に帰するので華厳と同じである.また『大日経』の旋陀羅尼については,一字が一切字を摂し,一切字はすべて一字である.初後が相互に包摂し,一に全てが収まり,一切法門は一字を離れない.華厳の四十二字の最初の阿字に後の荼等の字を具しているのと全く同じである.四十二位の一に全てが収まるというのは,正にこの『大日経』の所尚の理に該当する.それゆえ『義釈』では「秘密円頓不思議成仏神通乗」と判定するのである.このように覚苑は述べたあと,さらに「如下疏云」として『義釈』の一文を引いて,華厳十宗の円融具徳宗に該当するとし,ただ顕密の相違があるだけだと述べる.
以上のように覚苑によれば,『大日経』と『華厳経』は顕と密の相違があるだけであって,本質的には両経を同一のものと見なしている.蔵判においては,『大日経』を陀羅尼蔵,『華厳経』を修多羅蔵に位置付け,教判においては,両経を五教十宗判の最高位,すなわち第五円教・第十円融具徳宗に位置付けている.すなわち,顕密の相違の根拠は蔵判にあり,両経の同一性の根拠は教判にあるのである.
覚苑は文前聊簡第五門の明経宗趣15において「此経即以秘密不思議法界縁起観行為宗」と述べ,『大日経』の宗趣を「秘密不思議法界縁起観行」の語に大きくまとめるが,この語句にさらに二重の意味を読み込もうとする.
若以秘密不思議法界縁起為宗,即以観行為趣.或以観行為宗,即以秘密不思議法界縁起為趣.(卍37,4左下)
秘密不思議法界縁起を宗とすれば,観行が趣となる.観行を宗とすれば,秘密不思議法界縁起が趣となる.
このように「秘密不思議法界縁起観行」の語は,「秘密不思議法界縁起」と「観行」の二つの要素に分かれ,どちらかが宗の場合,もう片方は趣となる関係が成り立つ.
この宗趣論が「法界縁起不思議」を華厳経の宗とみなす澄観の宗趣論を土台とし,二つの点で手が加えられたものであることは先行研究で指摘されている16.第一は,「法界縁起不思議」の「法界縁起」と「不思議」の順番を逆にしてさらに語頭に「秘密」を付加した点である.第二は,「観行」の要素を組み込むことにより実践的立場を宣揚した点である.
さて宗趣の第一要素の「秘密不思議法界縁起」であるが,明経宗趣以外の箇所でこれと全く同じ言葉が出てくることはないが,もっとも類似した表現として「法界不思議秘密縁起」の用例を巻四のなかに確認できる17.また巻八には,「法界不思議縁起之仏」の語が使用されている18.さらに覚苑自身が「法界縁起」に言及する箇所も巻一に見出せる19.これらの用例については,すでに先行研究で検討されているため20,その内容等は省略する.
次に宗趣の第二要素の「観行」であるが,明経宗趣以外でも弁教浅深において「此経乃被上下根,通顕密説.顕謂五性一乗該諸経論.密謂字輪観行陀羅尼門」21と述べているのが注目される.『大日経』は顕密に通じ,その密とは字輪観行陀羅尼門であるとし,観行が『大日経』の密の本質をなすと捉えられている.また別の箇所では華厳思想の影響を受けた法界字門観行を覚苑は提示しており22,興味深い内容を有するため,以下に詳しく検討する.
『演密鈔』巻一において,『義釈』の序文にある「其瑜伽行法」23の語を注釈し,瑜伽とは相応の意味であり,この相応は顕・秘に通じるとする.まず顕教には四種あるとし,境瑜伽・行瑜伽・果瑜伽・教瑜伽をあげる.次に,「若密宗所明瑜伽行者正是法界字門観行也」と述べ,密宗の瑜伽行として法界字門観行を提示する.この観行の特色は,『義釈』を教証として華厳の四法界観と密教の字門観を結合させている点にある.
第一の理法界観では,阿字本不生義を理法界観に対応させ,次のように述べている.
若以阿字本不生義観即属理法界観.遍一切処與理相応故.(卍37,7左下)
阿字本不生義観はすなわち理法界観に属する.一切処にあまねくゆきわたり,理と相応するからである.
さらに覚苑は『義釈』より「但此中一切衆縁皆成法界標幟.所為事業尽帯瑜伽義」24と引き,阿字は一切字にあまねくゆきわたり,開口動舌はみな阿音を帯びるとし,阿字の遍在性を強調する.
第二の随事法界別観は,字門により三重四重の漫荼羅を成したり,阿縛羅訶佉の五字を五輪に配することであるとし,『義釈』の「凡行者欲修観時…以阿縛羅訶佉五字加持自体…虚幻身土力所不堪」25の文を引いて,この阿縛羅訶佉の字字三密を個別に観ずるとき,上下非一にして五部の色相がそれぞれ異なることを事観に属するという.
第三の事理無碍観では,「随一一事下即帰理故」とし,夢幻などの比喩により一切法を観ずることを空理に順ずるとする.また,『義釈』に「復次行者依有相瑜伽…観如是悉地但従衆縁生故無有生滅…皆如夢幻泡影鏡像水月乾闥婆城」26とあるのを,縁生無性・挙体即空・事即理の意味に捉える.さらに,千里の行程も初歩から始まるようにおよそ一切の字はみな阿字の所成であり,開口の音がなければ随宜の説も存在しないのであるが,これこそまさに「即理成事」であるとする.
第四の事事無碍法界観については,『義釈』の「復次所以従小至大摂大帰小者…以一微塵包含無量世界,此無量世界内一微塵中」27や「復次行者…能観自身即是本尊身,観本尊身即是自身.如是不二而二二而不二…皆無障碍互不相妨…本所尊自身像皆現也」28などの文を因果交徹・生仏互収とする.
このように宗趣の第二要素の「観行」についても華厳思想の影響が見られるのは注目に値するといってもよかろう.
覚苑の成仏論は,成仏一般の問題と三劫成仏の問題の二点に集約できる.前者の特徴は顕教と密教の二種の成仏を示し,さらに密教の成仏を顕・密に分けて論じる点にある.また後者の『大日経』住心品に由来する三劫成仏については,顕・密の成仏論の中ではどこにも位置付けられてはいないが,覚苑は『大日経』のすぐれた教えの一つとして重視しており,独自の解釈を展開している.以上のような二つの側面から,覚苑の成仏論の内容を検討していくことにする.
6.1. 顕・密の成仏
覚苑は『義釈』の「成佛者」29の語に対して「成佛者者.成謂成就,佛謂覚者,即是成就正覚之者也」と注釈し,さらに次のように成仏の意味を規定する.
以一切如来従凡夫地始発覚心,或漸或頓修種種徳,断種種障.功徳満時即於一念不起而証菩提名為成仏.(卍37,13左下)
一切如来は凡夫地で始めて覚心を発し,漸次にあるいは一時に種種の徳を修め,種種の障りを断ずる.功徳の満つる時,一念も起きないうちに菩提を証することを成仏という.
以上のような成仏一般の定義を示したうえで覚苑は「依顕教總有六種.一蔵教説一生成佛…二三祗成佛…三相尽成佛終教義也…四初住成佛亦終教義…五一念成佛頓教義也…六本来成佛円教義也」とし,顕教の成仏として一生成佛・三祗成佛・相尽成佛・初住成佛・一念成佛・本来成佛の六種を提示する.なおこの六種成仏の典拠については,「如起信鈔」としている.
次に密教の成仏についてであるが,大きな特色は顕と密に分けて論じている点である.覚苑は「且顕説者…或約百心成等正覚」というように密教の成仏の顕説に百心成仏を配し,『義釈』の「秘密漫荼羅品」30の記述を引用する.
百心成仏の内容はこうである.まず歓喜地の十心として,『華厳経』の利益心・柔軟心・随順心・寂静心・調伏心・寂滅心・謙下心・潤澤心・不動心・不濁心の十心を提示する.この十心のうち,初心から第四心までは五通境界を得度し,第五心から第八心までは二乗境界を得度する.第九心より一向に菩薩道を行じ第十心にいたって成仏と名づける.仏とは覚であり,自心性浄本来常寂滅相を覚するという意味である.
また,この十心の第一から第八までを見道とし,第九から第十までを観道とする.見道については諦理を見ることとし,観道については一向に如来不思議境界秘密功徳を観ずることとする.覚とは覚知の義であり,すでに二乗の境界を度し,二乗の心と菩薩の心の差異を了知することであるという.
二地に入る時も,前の初地のようにまた第四心に至り五通を度し,第八心で二乗を度し,第十心で成仏する.これと同様に,第十地もまた十心ある.即ち凡そ一百心ある.この初地十心満において即ち百仏土に分身する.この百心成仏は寶炬陀羅尼経の所説であるが,この経は東土にはまだ至っていないとする.
次に覚苑が密教の成仏の密釈としてとりあげているのが,『義釈』の「悉地出現品」31の記述である.これは『法華経』の開示悟入の四句32を阿阿暗悪の四字門に配した部分と,第五長聲悪字門を加えた五字が一切仏法を統収すると述べた部分からなる.
『義釈』の四字門の内容はこうである.一切衆生は仏知見性を有しているが,衆生はそれを自覚しない.如来は種種の因縁により彼の衆生の眼翳を浄除し開明させる.これは『法華経』の第一句の「開仏知見使得清浄」にあたり,浄菩提心すなわち阿字の意味である.既に菩提心が清浄であるから,次には法界蔵中の不思議境界を広く示す.善財童子の弥勒閣に入り普く一切善知識とまみえるように,一切諸度門を遍く学ぶ.これは『法華経』の第二句の「示仏知見」にあたり,長阿字すなわち大悲萬行の意味である.既に大悲萬行を具したら,次には娑羅樹王華開敷智により大菩提を成就する.これは『法華経』の第三句の「悟仏知見」にあたり,暗字門である.既に成仏したら,加持方便により衆生を導き如来の常住を了知させる時,如来の衆迹はすべて尽きる.無迹であるから,般涅槃と名づける.これは『法華経』の第四句の「入仏知見」にあたり,悪字門である.
『義釈』には,上述の四字門以外にも「若依字輪対如来方便智更有第五長聲悪字門」とあるが,別体がないから,ここでは説かないという.またこの五字は一切仏法を余すところなく統収するから正等覚心という.さらに修行次第の浅深差別にもとづけば,この五字は各々一切如来智を成就し(即五方佛),一切仏法を統収する.それゆえ観行を修する時,一心を学するごとに一切如来心を見る.これは華厳の如来が正覚を成就する時,一切衆生が皆正覚を成就するのを普く見るというのと同じである.このように一心に一切心を見,旋転無礙であるから正等覚心という.
以上が覚苑が密教の成仏の密釈としてとりあげた『義釈』の記述の内容である.今述べてきたことをまとめると,覚苑は成仏を顕教と密教の二種に分類する.顕教の成仏は一生成佛・三祗成佛・相尽成佛・初住成佛・一念成佛・本来成佛の六種成仏である.一方,密教の成仏についていえば,覚苑はそれをさらに顕と密に分け,前者に百心成仏をあて,後者に阿阿暗悪の四字門ないし長聲悪字門を加えた五字門をあてている.
6.2. 三劫成仏
覚苑は文前聊簡第四門の弁教浅深33において,『大日経』のすぐれた教えの一つとして三劫成仏をあげている.前述した成仏の分類では三劫成仏はどこにも位置付けられていないが,とりあえず『演密鈔』の記述に即して,その内容を見ていくことにしたい.まず劫の解釈について覚苑は次のようにいう.
若対他教者.如梵云劫跛,余教共訳為時分.若度三阿僧祗時分即名成仏.此中義別.梵語劫跛訳為妄執.(卍37,4右下)
他教と対比すると,たとえば梵語の劫跛を他教は共通して時分と訳する.三阿僧祗の時分を度すれば成仏という.この[『大日経』の]教えとは意味が異なる.[『大日経』では]梵語の劫跛を妄執と訳する.
次に劫の意味である妄執については,「妄執有三.謂粗細極細」というように粗・細・極細の三種があり,この三妄執すなわち三劫は五根本煩悩にもとづき,五根本煩悩を細分していくと百六十の随煩悩となる.また,粗・細・極細の三種がそれぞれ第一劫・第二劫・第三劫に配される.第一劫の粗妄執を超えるには五喩により無性空を観ずることが,第二劫の細妄執を超えるには六喩により不可得空を観ずることが,第三劫の極細妄執を超えるには十喩により不思議空を観ずることがそれぞれ必要である.
若依於此経,発菩提心,修密言行,初心聚沫浮泡陽燄芭蕉玄事等五種譬喩,観無性空,離百六十心一重粗妄執即超一阿僧祗劫.復以幻陽燄影響旋火輪乾闥婆城六喩,観不可得空,復越百六十心等一重細妄執即超二阿僧祗劫.復以幻陽燄夢影乾城響水月浮泡虚空華旋火輪等十喩,観不思議空,越百六十心一重極細妄執即超三僧祗劫.(卍37,4右下~左上)
この経により,菩提心を発し,密言行を修め,初心において聚沫・浮泡・陽燄・芭蕉・玄事などの五種の譬喩により無性空を観じて,百六十心の一重の粗妄執を離れる.すなわち第一阿僧祗劫を超越するのである.また幻・陽燄・影・響・旋火輪・乾闥婆城の六喩により,不可得空を観じて,さらに百六十心の一重の細妄執を超える.すなわち第二阿僧祗劫を超越するのである.また幻・陽燄・夢・影・乾城・響・水月・浮泡・虚空華・旋火輪などの十喩により,不思議空を観じて,百六十心の一重の極細妄執を超える.すなわち第三阿僧祗劫を超越するのである.
行者が一生においてこの三妄執を度すれば一生成仏となる.以上が覚苑が弁教浅深において述べる三劫成仏の内容であるが,この記述は『大日経』『義釈』にもとづいたものである.住心品のいわゆる三劫段における劫(kalpa)の解釈において,『義釈』は劫を時間ではなく妄執と解するが,これは三劫成仏を三妄執を断じての成仏と捉えることであり,さらに拡大解釈すれば,この生においても成仏が可能となり,日本の空海の即身成仏思想の理論的根拠ともなる.
この三劫成仏は弁教浅深以外の箇所でも言及されている.『演密鈔』巻三で覚苑は,第一劫を蔵・通二教,第二劫を別教,第三劫を円頓教に配したり,三劫の浅深を論じたり,『中論』の偈を三劫に配当したりする独自の解釈を展開するが34,以下にその内容を検討していきたい.
まず第一劫についてはさらに三種の三妄執が存在する.修行者が十信位で初めて出世心を得るとき,我倒を除き三毒の妄執(第一の三妄執)を下す.三賢位において尋思名義染を対治し上定を得ても,根境界の三つの所生の過患(第二の三妄執)が行者の智の障害となる.そこで堅固な菩提心の勢力により不住道を修め,五種喩により五陰空を観じる.さらに諸法即空の理に通達して,業煩悩根本無明種子の三障(第三の三妄執)を抜き尽くした時,寂然界を証して,三種の三妄執を離れることを第一阿僧祗劫という.
この初劫の文意は蔵通二教の意を兼ね備える.その理由については「有析法成空之義故.有三獣度河之理故」とする.また覚苑は煩悩の観点から初劫と後二劫の相違点を強調する.諸煩悩は粗・細・極細の三重からなるが,粗は我法二執に通じ細・極細は法執のみに関わる.すなわち,初劫では我法二執が所断の対象となるが,後二劫においては法執のみが所断の対象となるのである.
第二阿僧祗劫は別教分斉に該当する.前劫では即空の理を悟るけれども,不可得空中道仏性の境地にはまだ入らない.それゆえ六喩により前劫の空相を払い有無を双弁する.これを中道といい,初地から八地までに相当する.『勝鬘経』『寶性論』『仏性論』などがこの劫の意味を広く明らかにしている.
第三劫は十喩により不思議空を観ずる.覚苑は『義釈』の「前劫雖宗極炳著転妙転深,猶是対治心外之垢尚未開此心中秘密不思議事」35の一文を引き,円頓分斉に該当するという.ここで円という言葉が出てきたが,この直後に覚苑は『大日経』『義釈』と『華厳経』を対比して,「顕密是異,円義無殊」と述べている点が注目される.
覚苑は『大日経』の「秘密主.真言門修行菩薩行諸菩薩…無量智慧方便悉皆成就」36の一文と,これに対する『義釈』の注,すなわち「如余菩薩…経無量阿僧祗劫,或有得至菩提,或不至者.今此教諸菩薩則不如是.直以真言為乗超入浄菩提心門.若見此心明道時,諸菩薩無数劫中所修福慧自然具足」37を引き,これらは極無自性心の生ずるという意味だとする.一方,『華厳経』からは「余諸菩薩経無量阿僧祗劫乃能満足行願乃能化諸衆生.今長者子於一生内便能浄仏刹便能化衆生」38の文を引き,「善財一生円嚝劫之果」とする.
このように『大日経』『義釈』と『華厳経』をそれぞれ引用して,両者の関係について覚苑は「顕密是異,円義無殊」とする.『大日経』『義釈』の密と,『華厳経』の顕は異なるものであるが,円義の観点からは両者は同一であると,覚苑は説くのである.
また三劫の浅深については,次のように論じている.
又前三劫初約蔵通次約別教後約円頓.疏意欲顕浅深異故.若依三乗通教修時唯當初劫.若依別教趣証則當二劫.若依円頓方得三劫.前前者浅,後後者深.(卍37,34右上~下)
また前の三劫のうち初は蔵・通に,次は別教に,後は円頓にもとづく.疏意によれば浅深の差異を明らかにしようとするからである.三乗通教により修する時はただ初劫のみに該当する.別教による趣証はすなわち二劫に該当する.円頓によればまさに三劫を得る.前のほうになれば浅く,後のほうになれば深くなる.
このように三劫の浅深について,初劫から第三劫にいくほど深みがますとして,さらに「前前不具後後,後後可具前前.不爾,豈此円頓只有第三劫行耶」と述べる.前は後を具さないが,後は前を具すことができる.初劫が第三劫を具すのは不可能であるが,第三劫は初劫を具えることが可能である.なお,『演密鈔』巻四においても,即空の幻を説く第一劫や即心の幻を説く第二劫の段階よりも,不思議幻を説く第三劫のほうがより深いと,覚苑は述べている39.
次に『中論』の偈40を三劫に配当する箇所をとりあげる.覚苑は三劫の浅深を論じた直後に,「問.第三劫満得成仏不」という問いに対して,三妄執を超えれば成仏できると答え,『義釈』の「後越一重極細妄執得至仏慧也」の一文を引く.そして「然依清涼即以中論一偈配属諸教.或一一教中各成三観.或一偈四句即配四教.或離合逐義配於四教.今則亦爾」とし,澄観に倣って『中論』の偈を三劫に配当するのである.この配当には二種類存在する.
第一の配当では,「因縁所生法,我説即是空」を初劫に,「亦為是仮名,亦是中道義」を後二劫に配するが,その根拠については述べられていない.第二の配当では,「因縁所生法」を初劫に,「我説即是空,亦為是仮名」を第二劫に,「亦是中道義」を第三劫に配するが,その根拠を覚苑は簡潔に示している.すなわち,初劫は「帯析法故非即空」であり,第二劫は「不著空相」であり,第三劫は「不思議空」であるからとする.
以上で『演密鈔』巻三における三劫成仏解釈の内容を明らかにしたが,最後に六無畏との関わりに言及して,この項を締めくくることにしたい.『演密鈔』巻四において覚苑は,善無畏を十信已前,身無畏を十信位,無我無畏を十住・十行位,法無畏を十迴向・四加行位,法無我無畏を初地より八地已前,一切法自性平等無畏を八地已去としている41.一方,巻三では第一劫を十信・三賢位,第二劫を「従初地至八地」としている.これにより,第一劫は身無畏・無我無畏・法無畏の位に,第二劫は法無我無畏の位に該当すると覚苑は考えていたものと思われるのである.
以上のように,起教因縁・経名解釈・教判・宗趣・成仏論の五つの観点から,覚苑の『大日経』理解の特色を探った.先行研究では,教判・宗趣に偏った研究が多かったが,本稿では起教因縁・経名解釈・成仏論を加えたより広い視点から,それぞれの内容を検討し,各項目の特色を明らかにした.なかでも教判・宗趣に劣らず思想的に興味深い内容を有する成仏論の特徴を,すなわち成仏の顕・密の分類や『大日経』の行位論として重要な三劫成仏に対する解釈の特徴などを明らかにした点が今回の研究の主要な成果である.
1 脇谷[1912]pp.21-25.
2 松永[1930]p.6.
3 鎌田[1960]p.243.
4 木村[1985]pp.266-268.
5 卍37,1右.
6 卍37,5右上~左上.
7 『大日経』巻一・入真言門住心品(大正18,1a-b).
8 『大日経』巻一・入真言門住心品(大正18,1b-c).
9 『大日経』巻一・入真言門住心品(大正18,1a).
10 『瑜伽指帰』(大正18,287b).
11 卍37,5右下~左下.
12 卍37,2左上~3右下.
13 『義釈』序(続天全・密教1,1上).
14 『義釈』序(続天全・密教1,1上).
15 卍37,4左下.
16 木村[1985]p.266.
17 卍37,44左上.
18 卍37,99左上.
19 卍37,11左下.
20 木村[1985]p.267.
21 卍37,4右上.
22 卍37,7左下~8右下.
23 『義釈』序(続天全・密教1,1上).
24 『義釈』巻八(続天全・密教1,352上).
25 『義釈』巻八(続天全・密教1,353上~354上).
26 『義釈』巻八(続天全・密教1,351上~352上).
27 『義釈』巻八(続天全・密教1,406上).
28 『義釈』巻八(続天全・密教1,406上~407上).
29 『義釈』巻一(続天全・密教1,3上).
30 『義釈』巻十二(続天全・密教1,527上~下).
31 『義釈』巻八(続天全・密教1,401上~402上).
32 『法華経』巻一・方便品(大正9,7a).
33 卍37,4右上~左下.
34 卍37,33右下~34右下.
35 『義釈』巻二(続天全・密教1,65上).
36 『大日経』巻一・入真言門住心品(大正18,3b).
37 『義釈』巻二(続天全・密教1,65上~下).
38 『八十華厳』巻七十八・入法界品(大正10,429b).
39 卍37,43左下.
40 『中論』巻四・観四諦品「衆因縁生法 我説即是無 亦為是仮名 亦是中道義」(大正30,33b)をさすが,覚苑は「因縁所生法 我説即是空 亦為是仮名 亦是中道義」と引用する.
41 卍37,42左下~43右上.