Studies of Buddhist Culture
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2013 Volume 15.16 Pages 3-25

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1.はじめに

 十世紀から十二世紀の初頭にかけて,モンゴル系の遊牧民である契丹人の王朝遼が中国の北方に君臨した.モンゴル高原東南部を根拠地とする契丹人はシャーマニズムを固有の宗教としていたが,契丹人皇帝は仏教を導入し,十一世紀には契丹大蔵経の刊行,房山石経の続刻,巨大な仏塔の建築が行われるなど,遼の仏教文化は頂点に達する.

 十一世紀後半の遼を治めた道宗(1032-1101)は遼朝諸帝のうち最も深く仏教に関わった皇帝として知られ,仏教著作を残した数少ない契丹人としてもその存在は貴重である.道宗と仏教の関わりについては,すでに常盤大定氏の「契丹の仏教」や野上俊静氏の『遼金の仏教』の研究がある.これらの研究は『遼史』などに記される道宗の仏教事績を紹介しているが,遼代の仏教文献に引用される道宗の言説については分析しておらず,「諸宗止観引文」に記される道宗の事績についても言及していない.また二十世紀後半に公開された房山の石刻資料や「鮮演大師墓碑」などの碑文資料により補足すべき点もある.本論文では,先行研究で扱われなかった資料も分析対象とし,あらためて道宗の仏教信仰の輪郭を明らかにしたい.

2.仏教の保護

遼の七代目の皇帝興宗(1016-1055)の長子として生まれた耶律洪基のちの道宗は,六歳で梁王に封ぜられ,重熙十二年(1043)に燕趙国王に封ぜられ,重熙二十一年(1052)には天下兵馬大元帥となり,朝政を預かった.重熙二十四年(1055)に興宗が崩御すると,即位して第八代皇帝となり,清寧二年(1056)には家臣より「天佑皇帝」の尊号を献上される1.さらに咸雍元年(1065)には十四字追加され,尊号は「聖文神武全功大略廣智總仁睿孝天佑皇帝」となる2

即位前の道宗と仏教の関わりについては不明であるが,即位後の仏教事績については,『遼史』,碑文,遼代の仏教文献の中に記されている.これらの資料を手がかりに,道宗の仏教事績をいくつかの項目に分けて検討する.なお,道宗の仏教に対する姿勢は基本的に崇仏であるが,例外的に廃仏的な事績が一件残されている.「飛山別傳義」には,「近者大遼皇帝詔有司…世所謂六祖壇経寶林傳等皆被焚除其偽妄」とあり,道宗により『六祖壇経』『寶林傳』が焚かれたことを記している3.道宗がなぜ禅関係の焚書を行ったかは非常に興味深いが,資料不足のためこの問題は今後の課題とする.

2.1.仏典における道宗像

 道宗は約五十年の在位期間において仏教を手厚く保護した.その結果,同時代の僧侶たちは著作の中で道宗に対する賛辞を寄せている.たとえば覚苑の『大日経義釈演密鈔』(『演密鈔』と略称)では,道宗への賛辞が趙孝嚴の序文4と巻一5で確認され,法悟の『釈摩訶衍論賛玄疏』(『賛玄疏』と略称)では,耶律孝傑の序文6と巻一7で確認される.

これらの賛辞を読むと,仏教について深い学識を有した道宗像が浮かび上がってくる.すなわち,『華厳経』や『釈摩訶衍論』(『釈論』と略称)に対する造詣が深かったこと,観行を修め梵文を学んでいたこと,禅や戒の両行を究めていたことなど,道宗が幅広く仏教に通じていたことが明らかとなる.法悟にいたっては,道宗を梁の武帝以上とまで絶賛している.

当時の遼で盛んに信仰されていた密教とも,道宗は関わりがあった.同時代の『顕密円通成仏心要集』(『心要集』と略称)には「今居末法之中得値天佑皇帝菩薩国王率士之内流通二教」8とあり,道宗を「菩薩国王」と称し,末法の世にあって顕教と密教を広めたことを評価している.

2.2.寺院との関わり

遼の歴代皇帝たちは寺院の建築や石経の刻造を支援したり,仏寺への行幸や飯僧を頻繁に行った9.このような寺院との関わり方については,道宗も同じ傾向を示している.

 すなわち,清寧五年(1059)に大昊天寺建立のために銭五萬貫を寄付し,さらに御筆の額を同寺に賜った10.太康十年(1084)には南京奉福寺を復建した11.中国最古の木造仏塔として知られる応県仏宮寺の釈迦塔も道宗による清寧二年(1056)の創建と伝えられている12.寺院の建立ばかりでなく,歴代の皇帝たちと同じく道宗も仏寺へ行幸した.清寧十年(1064)九月には三学寺に13,咸雍九年(1073)七月には金河寺に行幸した14

 また道宗は,寺院において僧侶に食事をふるまう飯僧を度々行った.咸雍八年(1072)正月,戦死者供養のために南京や中京の仏寺で飯僧を行った15.大安九年(1093)四月には,興中府に甘露が降ったという瑞祥の知らせを受けて,使いを派遣して仏を祀り僧を供養した16

 房山雲居寺における石経の続刻作業にも,道宗は経済支援を行った.この続刻は十一世紀前半に開始され,聖宗・興宗・道宗の三代の皇帝からの資金援助により推進された文化事業である.なお,聖宗・興宗・道宗の出資による四大部経の完成後,道宗はさらに出資して四十七帙の石経を刻造したという17

2.3.僧侶の優遇

遼では興宗の時代から僧侶を政府の高位高官に任命して優遇するようになり18,道宗の時代になるとそうした傾向がさらに加速する.以下に,道宗が僧侶を優遇した事例をいくつか示すことにする.なお,遼で活躍した高僧のほとんどは契丹人ではなく,漢人の僧侶である.

第一に,『遼史』によれば,道宗は咸雍二年(1066)に守志を,咸雍五年(1069)に志福をそれぞれ司徒に任じ,咸雍六年(1070)には円釈・法均の二僧を司空に任じたという19

第二に,「鮮演大師墓碑」は,道宗が鮮演を開竜寺と黄竜府の講主に任命し,大安五年(1089)に「円通悟理」の大師号を賜り,寿昌二年(1096)には崇禄大夫,検校太保に任じたことを記している20.また,この墓碑は道宗が鮮演を政治の補佐役としても重宝したことを述べている.

第三に,「非覚大師塔記」によれば,道宗は律で名高い僧侶の非覚に紫衣を賜い,燕京右街僧録判官を授け,「儀範大師」の号を授けたという21

 第四に,興宗・道宗の二代にわたり優遇された僧侶に,非濁の名前をあげることができる.すなわち,非濁は重熙八年(1039)に興宗より紫衣を賜り,重熙十八年(1049)には上京管内都僧録に任ぜられ,その任期が切れると燕京管内左街僧録に任ぜられた.非濁は道宗からの信任も厚く,崇禄大夫,検校太保,および検校太傳,太尉を加えられた.このことは「非濁禅師實行幢記」に記されている22

以上のように道宗は漢人僧侶を優遇したのであるが,これは政治的には契丹人の支配下にあった漢人たちにも仏教界では多いに活躍する場が与えられていたことを意味する.事実,優秀な漢人たちが仏教界に集まり,遼の仏教文化の発展に大きく貢献したのである.

2.4.学僧との知的交流

道宗の仏教との関わり方の大きな特徴は,経済的支援や寺院訪問にとどまらず,学僧と濃密な知的交流を行ったことであり,ここに他の契丹人皇帝との相異点が存在している.

 道宗は学僧たちと仏教の教義について話し合うことをしばしば好んだ.すなわち「諸宗止観引文」に「毎延召名師,究研奥義」23とあるように,政務の余暇を利用しては名僧を招き仏法の奥義の研究に励んでいた.

このような知的交流を道宗と結んだ学僧の一人に道弼の名をあげることができる.あるとき道宗は道弼を招き,雑念を静めるための観法をまとめるように指示した.道弼は諸宗の仏典から止観の教説を収集し,諸説を取捨選択して『大乗諸宗修行止観要訣』という書物にまとめあげ,道宗に献上した.本書は現存しないが,序文の「諸宗止観引文」は残っている24.なお,書名は道宗が命名したものである.

 道宗が学僧との知的交流の場で示したと思われる言説は,この時代に成立した仏教文献の中に確認できる.

その一例を示せば,覚苑が『演密鈔』において「我天佑皇帝…須示佳句」として道宗の句25を引用しているのが注目される.道宗の句というのは,「欲学禅宗先趣円,亦非著有離空辺.如今毀相廃修行,不久三途在目前」の四句である.道宗は,禅宗を学んで早く悟りの境地にゆきたければ,有に執著せず,空を離れないことを説く.また,いたずらに教相を誹謗し修行を廃するものは,遠くないうちに三途の川が目前にせまっているのだ,という.ここには修行不要論に傾きがちな安易な頓悟主義に対する批判の念が込められているのかもしれない.

上述の句を覚苑がどこで聞いたかについては,覚苑自身は述べていないが,おそらく道宗から直接聞いたものであろう.覚苑も学識豊かで密教に精通した名僧であり,『演密鈔』も勅命による密教研究の成果であることを考慮しても,道宗が仏法について語り合いたいと考えたとしてもおかしくはない器量の人物だからである.

ちなみに,これまで『演密鈔』に道宗の句が引用されている事実の指摘はなかったが,道宗の禅宗観らしきものが示されており,貴重な資料といえる.遼代仏教における禅関係の情報は圧倒的に少ない状況にあるため26,このような短い句であっても,おろそかにすることはできないのである.

 

2.5.年表

 年代の明らかな道宗の仏教事績について,年表にしてまとめる.

  清寧二年(1056)仏宮寺の釈迦塔を創建したとされる

  清寧五年(1059)大昊天寺建立のために銭五萬貫を寄付

  清寧六年(1060)非濁に燕京管内懺悔菩薩戒師を授ける

  清寧七年(1061)奉福寺に戒壇を設けさせる

  清寧八年(1062)新発見の『釈論』を入蔵

  清寧十年(1064)三学寺に行幸

  咸雍二年(1066)守志を司徒に任じる

咸雍四年(1068)『随品讃』を頌行

  咸雍五年(1069)志福を司徒に任じる

  咸雍六年(1070)円釈・法均の二僧を司空に任じる

  咸雍八年(1072)正月,南京や中京の仏寺で飯僧

  咸雍八年(1072)三月,泰・寧・江三州の民の受戒を許可

  咸雍八年(1072)七月,『華厳経五頌』を群臣に示す

  咸雍八年(1072)十二月,高麗に仏経一蔵を賜る

  咸雍九年(1073)金河寺に行幸

  太康五年(1079)九月,戒壇の開設の取り締まりを禁じる

  太康五年(1079)十一月,沙門守道を召して内殿に戒壇を設ける

  太康十年(1084)南京奉福寺を復建

大安五年(1089)鮮演に「円通悟理」の大師号を賜る

大安九年(1093)興中府に甘露が降り,仏を祀り僧を供養

壽昌二年(1096)自ら沙門恒策の戒壇に幸して仏法を質問する

  寿昌二年(1096)鮮演を崇禄大夫,検校太保に任じる

  壽昌六年(1100)僧志達を召して内殿に開壇せしめる

3.仏典信仰

本節では,道宗の仏典信仰を検討する.道宗は経典については『華厳経』を,論書については『釈論』を特に愛好していた.歴代皇帝のうち仏典との関わりを知ることができるのは興宗と道宗の親子のみである.興宗は『報恩経』を聴講して感激はしたが,『報恩経』に関する著作は残していない27.一方,道宗は『華厳経』を信仰するだけでなく,御製の讃を著して『華厳経』の布教を行うほど,特定の仏典と濃厚な関係を保持していた.また,『釈論』の内容にも高い関心を示し,三十三法門の教理について独自の見解を残している点も注目される.以下に道宗が『華厳経』や『釈論』とどのような関係を切り結んだのかを明らかにする.

3.1.『華厳経』の布教

 遼代仏教の思想的基盤は唐代の教学にあり,特に基礎的教学として重視されたのが『華厳経』にもとづく華厳学である.遼における華厳学の研究は十一世紀後半の道宗の時代に最盛期を迎え,華厳宗の第四祖澄観の著作に対する研究が行われた.一方,華厳は国家の統治理念としても利用され,道宗はみずから臣下の前で『華厳経』を講義したり,『華厳経』に関する著述を行ったりした.ここにいう著述とは,『随品讃』がすなわちそれである.

『随品讃』は,高麗の義天が編纂した『円宗文類』巻二十二に掲げられている.『円宗文類』は,華厳思想に造詣の深い高僧の伝記や発願文など多様な文献を収録したもので,全二十二巻のうち一部が現存する.『随品讃』の著作年代は不詳であるが,『遼史』に「咸雍四年二月癸丑.頌行御製華厳経賛」28とあることから,咸雍四年(1068)以前に成立したものであることは確実である.

道宗は冒頭で,「我今讃此経衆生悟円通」と述べ,この讃は一切衆生をして『華厳経』の妙法を悟らせるためのものであることを示したうえで,五字あるいは七字の句をもって『八十華厳』の各品の要点を明らかにする.『八十華厳』の三十九品に対して,五字の句よりなる讃が二十九品,七字の句よりなる讃が十品である.句数についても,四句,八句,十句,十二句,十四句,十六句,十八句,二十二句,二十六句,三十六句,四十二句と様々である.

このように帝位にあるものが進んで経典に讃を作ること自体が遼朝においては稀有の事実であり,道宗の経典の理解力が浅くはなかったことを示している.また,この『随品讃』は契丹人の書いた数少ない仏教著作としても貴重な資料である.

なお『遼史』には,「咸雍八年秋七月丁未.以御書華厳経五頌出示群臣」29とあり,『随品讃』以外の道宗の著作として『華厳経五頌』を記している.『華厳経五頌』は現存していないが,書名から察するに,『華厳経』の教えを五頌に集約したものと思われ,『華厳経』関係の著作を二種も著している点に,道宗の華厳信仰の深さをうかがうことができる.

 この『華厳経五頌』が群臣に示されたのと同じく,『随品讃』も群臣を教化するためにもちいられたものと思われる.「道宗は仏法を好み,みずから仏典を講ずることができる.毎年夏になると,諸京の僧徒や群臣をあつめて,経を手にとりみずから講じている」と述べる宋側の証言も残されているというから30,群臣の面前で『随品讃』を片手に『華厳経』を講義する道宗のすがたを想像してみても,的外れな空想とはいえないだろう.

 華厳がなぜ国家の統治に利用されたのかについては明確なことはいえないが,『華厳経』のご利益により国内に安寧をもたらそうと考えたのかもしれないし,あるいは一摂一切などの華厳思想を利用して遼の内部における多民族の融和を図ろうとしたのかもしれない.ともあれ歴代の皇帝のうちで華厳信仰の記録が残されているのは道宗のみであり,彼の仏典信仰の重要な特徴であることは間違いない.

3.2.『釈論』三十三法門の御解

次に,『華厳経』とならんで道宗が愛読した『釈論』について検討する.

中国において『釈論』研究が飛躍的発展を遂げるのは,遼の時代に入ってからである.『釈論』は道宗の時代に発見された.すなわち,清寧八年(1062)に散逸仏典の捜索が行われた時に『釈論』は発見され,契丹大蔵経に新たに編入されたのである.

道宗は『釈論』に強く興味を示し,学僧に命じて注釈書を作成させた.その注釈書とは,法悟の『賛玄疏』,志福の『釈摩訶衍論通玄鈔』(『通玄鈔』と略称),守臻の『釈摩訶衍論通賛疏』(『通賛疏』と略称)である.『賛玄疏』『通玄鈔』は完本が現存している.近年中国において発見された『通賛疏』については,巻十のみ現存する31

 このうち道宗と『釈論』との関わりを示す資料を提供してくれるのが,『通玄鈔』と『賛玄疏』である.『通玄鈔』の序文で道宗は『釈論』の内容を熱心に探求したことを告白し,そうした探求の痕跡が『賛玄疏』で引用する御解すなわち道宗の教説の中に残されている.また,この道宗の教説は『賛玄疏』と『通玄鈔』の前後関係の考察においても一つの判断材料として利用することができるものである.

3.2.1.三十三法門の教理に対する探求

道宗は「朕聞」で始まる『通玄鈔』の序32を著しているが,その内容については,大きく三つに区分できる.

序の第一で道宗は,馬鳴と『起信論』を称賛する.馬鳴については,十身の果を証し,八地の因を示し,邪宗に逆らい正法を興したと称え,馬鳴の著したという百部の論の一つである『起信論』に対しては,「寔一代之霊編也」と称賛する.

序の第二で道宗は,龍樹が師恩に報いるために『釈論』十巻を作成して,『起信論』の意を広めようとしたと述べる.次に『釈論』については,その義は燦然と光り輝き,その言は広々として果てしないという.最後に『釈論』が訳出されたあとに,法蔵や元曉の『起信論』の注釈が成立したと説く33

序の第三で道宗は「朕聴政之余留心釈典.故於茲論尤切探蹟」と述べ,『釈論』を熱心に研究したことを告白するとともに,東山崇仙寺沙門の志福に命じて『釈論』の内容を検討させ「釈摩訶衍論鈔四巻」を作成させたことを示す.続いて「欲鏤板以傳通」と本書の流布を願い,さらに道宗みずからが「通玄」の二字を題名にしたことを記している.

以上の御撰の序文の中で注目されるのは,道宗が政務の空き時間を仏典の研究にあて,『釈論』をもっとも熱心に探求したという部分である.なぜそれほど『釈論』に魅力を感じたのかについては残念ながら述べられていないが,新発見の驚きに加えて,『釈論』の著者名が龍樹となっているのを見て,非常に大きな知的興奮を覚えたからかもしれない.

この探求の痕跡は,『賛玄疏』の文中に保存されている.すなわち,巻一と巻二34において道宗の言葉の引用が確認される.このうち思想的に重要なのが,巻一で引かれる「皇上解立義分云.法門名数總三十三」以下の一節35であり,三十三法門という『釈論』独自の真理観を解釈した部分である.この三十三種の法門により構成される真理観は,『起信論』の立義分に対する注釈において打ち出される.なお,個々の法門についての説明は紙幅の関係上省略する.

道宗は『釈論』の三十三法門を果分と因分に振り分ける.三十三種の頂点に位置する不二大乗の一法門を「言葉を離れた果海」と称し,果分に属させる.これに対して,不二大乗以外の三十二法門については因分に属するという.すなわち道宗は三十三法門を,言葉で説明できない一法門と,言葉で説明できる三十二法門とに二分するのである.

ちなみに,三十二法門は十六能入門と十六所入法に分かれ,さらに十六能入門は前重の八能入門と後重の八能入門とに分かれる.十六所入法についても同じく前重の八所入法と後重の八所入法とに分かれる.能入門は衆生を真理へとみちびく教えであり,所入法は能入門により衆生が足を踏み入れる真理をさす.前重の八能入門は利根の衆生のための八種の教えで,この教えにより衆生は八種の真理すなわち前重の八所入法へとみちびかれる.同様に,鈍根の衆生は後重の八能入門により後重の八所入法へとみちびかれる.

これらの能入門と所入法を道宗は三諦により基礎づけ,所入法を第一義諦,能入門を真俗二諦に位置づける.すなわち,十六所入法は両重の能入門に対しては根本にあたり第一義諦に属する.この所入法を「総体」と称する.一方,十六能入門は両重の所入法に対しては枝末にあたり真俗二諦から出ない.この能入門を「別義」と称する.

不二大乗 所入十六法 能入十六門
果分(離言果海) 因分 因分
第一義諦・総体 真俗二諦・別義

さらに道宗は「前重の能入門を開いて後重の所入法とするのではない」という.なぜこのようなことを強調するかといえば,『釈論』に出てくる前重の能入門の説明文と後重の所入法の説明文とが類似しているからである36.もし前門を開いて後法とすれば,本末・總別や三諦による区別が曖昧になってしまう.道宗によれば前重能入門はあくまで真俗二諦であって,第一義諦たる後重所入法と混ざり合うことは決してないのである.

3.2.2.『賛玄疏』と『通玄鈔』の前後問題

上述の道宗の学説は,法悟の三十三法門解釈を基礎付けており37,『賛玄疏』読解のひとつの鍵ともなっている.法悟は道宗の説にもとづいて三十三法門の本性を規定し38,三諦と華厳の五重中道義を結合させた独自の教説をも提示している39

一方,興味深いことに,志福の『通玄鈔』では道宗の見解はまったく引用されていない.従来の研究では,『賛玄疏』と『通玄鈔』の相異点については解明されていなかったが,筆者は道宗の学説の受容の有無こそ,『賛玄疏』と『通玄鈔』の大きな相異点であると考える.

この相異がもっともよく反映されているのが,三十三法門の能入門と所入法の関係の捉え方においてである.法悟は道宗の示した「前重能入門と後重所入法を混同してはならない」という見解を支持するのに対して,志福は「前重能入門と後重所入法は同一である」という立場を取り,両者は真っ向から対立している.

ところで,この相異点は『賛玄疏』と『通玄鈔』の前後関係を特定するうえでの材料となるのではないか,と思う.『賛玄疏』も『通玄鈔』も正確な成立年代は不明であるが,どちらが先に成立したかについてはすでに妻木直良氏の考察がある40.まず道宗の清寧二年(1056)の古い尊号は『賛玄疏』と『通玄鈔』の両方に見られ,咸雍元年(1065)の新しい尊号は『賛玄疏』のみに見られることから,『通玄鈔』の方が先に成立したように思われるが,妻木氏は「その尊号の如きは,後世に伝流せる中,いかようにも具略の異を存すべきものなるゆえ其の尊号の文字のみにては,両書制作の前後を定め難し」という.ちなみに『通玄鈔』の作者の肩書には「守司徒」とあり,これは咸雍五年(1069)に与えられた官位であることからも,たしかに道宗の尊号だけでは両書の前後を確定できない.

一方,妻木氏は「内容に於て前の『賛玄疏』が詳かに『釈論』の来歴を説き,且つ清寧八載の紀あるに徴すれば,正に『賛玄疏』前に成りて『通玄鈔』後に成れりと称すべし」とし,『賛玄疏』を先の成立とする.『賛玄疏』の方が『通玄鈔』よりも注釈書としては整っており,『通玄鈔』は序文と随文解釈から成るのに対して,『賛玄疏』は序文・玄談・随文解釈という構成である.概説部分の玄談において『賛玄疏』が『釈論』の来歴を詳しく説いているのも事実である.

しかし,それだけで『賛玄疏』の成立を『通玄鈔』の前におくことに対しては,筆者は違和感を覚える.仮に妻木説が正しいとすれば,志福が『通玄鈔』を作成するにあたって先に成立した『賛玄疏』を参照しなかったと考えるのは不自然であり,志福が『賛玄疏』を参照したとするならば,ではどうして本文中に引用される道宗の見解を無視する姿勢を取ったのかがよくわからないからである.遼における最高の権力者にして仏教の最大庇護者である道宗の見解に言及しないばかりか,それとは正反対の説を打ち出すことは,当時の処世術としてはいかがなものかとも思ってしまう.

逆に,筆者は『通玄鈔』が先に成立したと推測する.あくまで仮説ではあるが,次のように考える.道宗はまず志福に命じて,『通玄鈔』を作成させたが,「前重能入門と後重所入法は同一である」という志福の解釈には不満を覚えた.そこで「前重能入門と後重所入法を混同してはならない」ことを強調するために三諦説を示し,法悟に命じて,道宗の解釈にもとづいた注釈書を新たに作成させたのである.筆者はこのように考えるが,妻木氏の説よりは多少は説得力があるのではなかろうか.

4.戒律信仰

 本節では,道宗の戒律信仰を検討する.遼の他の皇帝たちと比べて,道宗の場合,戒律に関する資料が多く残されているのが大きな特徴である.

道宗は菩薩戒を重視し,戒壇の開設と授戒を熱心に奨励した.『遼史』には,そうした事例がいくつか記されている.すなわち,太康五年(1079)九月,僧の戒壇の開設に対する官憲の取り締まりを禁じ,同年十一月に沙門守道を召して内殿に戒壇を設けた41.壽昌二年(1096)十一月には,自ら沙門恒策の戒壇に幸して仏法を質問した42.壽昌六年(1100)十一月には,僧志達を召して内殿に開壇せしめた43

 『遼史』以外にも道宗と戒壇との関わりを記す資料が複数存在する.

 まず「非濁禅師實行幢記」によれば,清寧六年(1060),道宗は燕京に幸して非濁に燕京管内懺悔菩薩戒師を授け,翌年(1061)二月には,奉福寺に戒壇を設けさせたという44

 次に,咸雍六年(1070)四月八日,馬鞍山慧聚寺に法均が大乗菩薩戒壇を開くと,授戒を求める人々が馬鞍山に殺到した45.「法均大師遺行碑銘并序」によれば,法均の名声は道宗のもとに届き,咸雍六年(1070)十二月に道宗は法均に崇禄大夫守司空を授け,伝菩薩戒壇主に任じたという46

また近年出土した「鮮演大師墓碑」によれば,鮮演は道宗の命を受けて七十二回も戒壇を開き,多くの人々に菩薩戒を授けたという47

一方,高僧に命じて戒壇を開かせただけでなく,御製の戒本を作成するなど道宗が菩薩戒の流布に主体的に関与した点も注目される.

『義天録』によれば,道宗には『随品讃』のほかにもうひとつの著作があったことが知られている.すなわち,『発菩提心戒本』がそれであるが,現存していない.また,遼僧の思孝にも同名の著作があったが,これも現存していない.ちなみに,思孝は道宗の父親の興宗の時代に活躍した高僧である.

ところで,近年公開された房山石経の中には『発菩提心戒一本』という遼代の戒本が含まれていた.これは房山雲居寺の沙門志仙が乾統八年(1108)に刻造したものであるが,戒本の作者名はなぜか記されていない.

この作者問題については,『発菩提心戒本』と名称が似ていることから,道宗の戒本を刻造した可能性があると同時に,思孝本を刻造した可能性も捨てきれないことが野上俊静氏により指摘されている48.とりあえず,道宗の戒本とも何らかのつながりを有するものとして注目される石経の戒本の内容を示すことにする.

石経の『発菩提心戒一本』の序では,菩提心戒についての簡単な説明を行う.すなわち菩提心戒とは,あらゆる修行の源であり,三身・仏果・菩提の根本である.菩提心戒の功徳は絶大であり,その理は思議しがたく,三世の諸仏が同じく説き,三世の菩薩が同じく学んできたものである.

この序文に続いて,第一奉請諸賢聖・第二想陳妙供・第三懺悔罪僣・第四受三帰依戒・第五翻邪帰正・第六正受菩提心戒・第七遣相・第八普皆回向の八門が示される.各門の偈の大半は不空訳の『受菩提心戒儀』と『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』から採られているのが特徴的である.

 第一門の偈49は,十句からなる.諸如来,諸菩薩,菩提心に対する礼賛を誓う.偈の直後の脚注には,「念無尽三宝願降臨」とある.『受菩提心戒儀』のなかにほぼ一致する箇所50を見いだせる.対比すると次のようになる.

  『発菩提心戒一本』        『受菩提心戒儀』

 弟子某甲等 稽首皈命礼      弟子某甲等 稽首帰命礼

  遍虚空法界 十方諸如来      遍虚空法界 十方諸如来

  瑜伽揔持教 諸大菩薩衆      瑜伽揔持教 諸大菩薩衆

  及礼菩提心 能満福智聚      及礼菩提心 能満福智聚

  令得無上覚 是故志心礼      令得無上覚 是故稽首礼

 第二門の偈51も,十句からなる.諸如来,諸菩薩,諸賢聖に対して供物を献上することを誓う.偈の直後の脚注には,「念供養無尽諸三宝」とある.『受菩提心戒儀』のなかにほぼ一致する箇所52を見いだせる.対比すると次のようになる.

  『発菩提心戒一本』        『受菩提心戒儀』

 弟子某甲等 十方一切刹      弟子某甲等 十方一切刹

 所□諸供養 花鬘塗香等      所有諸供養 花鬘燈塗香

 飲食幡幢蓋 誠心普奉献      飲食幡幢蓋 誠心我奉献

 諸仏諸法蔵 諸大菩薩衆      諸仏大菩薩 及諸賢聖等

 及諸賢聖等 我今志心礼      我今至心礼

第三門の偈53は,十五句からなる.過去の罪悪を懺悔し,仏の慈悲による罪障の速やかな消滅を誓う.偈の直後の脚注には,「念普賢菩薩懺悔師」とある.『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』のなかにほぼ一致する箇所54を見いだせる.対比すると次のようになる.

 『発菩提心戒一本』    『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』

 弟子某甲等 従無始来       我某甲自 従無始巳来

 輪廻生死  乃至今日       輪廻生死 乃至今日

 所造衆罪  無量無辺       所造衆罪 無量無辺

 不自覚知  自作教他       不自覚知 自作教他

 見作随喜  我今懺悔       見作随喜 我今懺悔

 不復更造  唯願諸仏       不復更造 唯願諸仏

 慈悲摂受  令我罪障       慈悲摂受 令我罪障

 速得消滅             速得消滅

 第四門の偈55は,九句からなる.如来の三身,大乗の法蔵,諸菩薩衆に帰依することを誓う.偈の直後の脚注には,「念誓受如来三帰依戒」とある.『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』のなかにほぼ一致する箇所56を見いだせる.対比すると次のようになる.

 『発菩提心戒一本』    『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』

 弟子某甲等          我某甲

 稽首投誠  菩提道場     始従今日 乃至當坐 菩提道場

 帰依如来  無上三身     帰依如来 無上三身

 帰依方広  大乗法蔵     帰依方広 大乗法蔵

 帰依僧伽  諸菩薩衆     帰依僧伽 諸菩薩衆

 第五門の偈57は,十句からなる.前段の三帰依をうけて,成仏にいたるまで,二乗外道に帰依しないことをさらに誓う.偈の直後の脚注には,「念帰命無尽仏法僧」とある.『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』のなかにほぼ一致する箇所58を見いだせる.対比すると次のようになる.

 『発菩提心戒一本』    『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』

 弟子某甲等 帰依仏竟       我某甲  帰依仏竟

  帰依法竟  帰依僧竟       帰依法竟 帰依僧竟

 従今巳往  乃至成仏       従今巳往 乃至成仏

  更不帰依  二乗外道       更不帰余 二乗外道

  唯願諸仏  慈悲摂受       唯願諸仏 慈悲摂受

第六門の偈59は,十二句からなる.今日よりさとりにいたるまで,菩提心を発して,有情を度し,福智を集め,仏法を学び,如来に侍し,無上菩提を成就することを誓う.偈の直後の脚注には,「念戒清涼菩薩摩訶薩」とある.『受菩提心戒儀』のなかにほぼ一致する箇所60を見いだせる.対比すると次のようになる.

 『発菩提心戒一本』        『受菩提心戒儀』

 弟子某甲等 仰啓尽十方      弟子某甲等

 無量無辺界 一切仏菩薩      一切仏菩薩

 従今日巳往 乃至成正覚      従今日以往 乃至成正覚

 誓発菩提心            誓発菩提心

 有情無辺誓願度          有情無辺誓願度

 福智無辺誓願集          福智無辺誓願集

 仏法無辺誓願学          仏法無辺誓願学

 如来無辺誓願侍          如来無辺誓願事

 無上菩提誓願成          無上菩提誓願成

第七門の偈61は,十三句からなる.諸仏や諸菩薩が大菩提心を発するように,自分も発心することを誓う.偈の直後の脚注には,「念遠離一切諸性相」とある.『受菩提心戒儀』のなかにほぼ一致する箇所62を見いだせる.対比すると次のようになる.

 『発菩提心戒一本』        『受菩提心戒儀』

  弟子某甲等 今所発覚心      今所発覚心

 遠離諸性相 蘊処及界等      遠離諸性相 蘊界及処等

 能取所取執 諸法悉無我      能取所取執 諸法悉無我

 平等如虚空 自心本不生      平等如虚空 自心本不生

 空性円寂故 如諸仏菩薩      空性円寂故 如諸仏菩薩

 発大菩提心 我亦如是発      発大菩提心 我今如是発

 是故志心礼            是故至心礼

第八門の偈63は,「願以此功徳,普及於一切,我等與衆生,皆共成仏道」の四句である.発心の功徳があまねくゆきわたり,自分も含めて一切衆生が成仏することを誓う.偈の直後の脚注には,「念皆共速成無上覚」とある.

 以上が石経の戒本の内容であるが,野上氏が指摘したように,現時点では道宗の戒本であるとも,思孝の戒本であるとも断定できない状態にある.あるいは,思孝と道宗以外の著者による同名の戒本があったとしてもおかしくはない64.この問題の解決には,やはり新資料の発見を待たなければならないであろう.

 また,元代の「善選伝戒碑」によれば,道宗の作成した金泥親書の『菩薩三聚戒本』が燕京・大都の諸僧により遼から金元へと代々伝えられたという65.同じく元代の「定志塔銘」によれば,元の定志が顕浄に金字戒経本を授与するとき,「汝善護持,為国流通」と述べたという66.このように道宗の戒本が金を経て元へと伝承され,一定の権威を保持していたことは,遼代仏教が後代に及ぼした影響の一事例としても重要である.なお,『菩薩三聚戒本』と『発菩提心戒本』が同一のものである可能性は高いが,現時点では資料不足のため断定することはできない.

5.結び

 遼の道宗は歴代皇帝の崇仏政策を継承し,寺院の建築や石経の刻造に資金提供したり,仏寺への行幸や飯僧を頻繁に行った.さらにこうした経済的支援や寺院訪問にとどまらず,高僧を頻繁に招いて仏法の探求を精力的に行ったことは,他の契丹人皇帝には見られなかった現象であり,道宗の内面に仏教が深く浸透していたことを示している.

 道宗の仏教信仰の中心は,仏典信仰と戒律信仰の二本の柱により構成される.仏典では『華厳経』と『釈論』を重視したのが大きな特徴であり,『華厳経』を積極的に布教するとともに,『釈論』の内容を熱心に研究した.また戒律では,大乗菩薩戒を重視したのが特徴であり,高僧に命じて授戒を頻繁に行い,国内に菩薩戒を広く流布させた.

遼は道宗の時代に一大仏教王国の観を呈したのであるが,一方でその終幕も近付いていた.道宗の晩年近くになると遼の国力にもかげりが見え,道宗没後二十五年あまりにして遼は金の侵攻により滅亡してしまうからである.しかし,国は滅んでも仏教信仰は生き続け,中国北方の仏教文化は遼から金へと受け継がれていくことになるのであった.

Footnotes

1 『遼史』巻二十一,道宗本紀一.

2 『遼史』巻二十二,道宗本紀二.

3 妻木[1912]339.

4 『演密鈔』序(卍37,1右上~下)「天佑皇帝叡智如神聡謀出俗,以至公治国,賞罰無私,以大信臨人,恩威有済,閲儒籍則暢礼楽詩書之旨,研釈典則該性相権実之宗,至教之三十二乗早頤妙義,雑華之一百千頌親製雄詞,修観行以精融,入頓乗而邃悟,肇居儲邸,巳学梵文,有若生知,殊非性習,通声字之根底,洞趣証之源流,欲使玄風兼扶盛世」.

5 『演密鈔』巻一(卍37,1左下)「今我天佑皇帝,叡文冠古,英武超今,十善治民,五常訓物,博綜儒経,有詩賦碑記之製,錦爛華明,允彰乎教化,尤精釈典,有讃序疏章之作」.

6 『賛玄疏』序(卍72,415右上~下)「我天佑皇帝,位聯八葉,徳冠百主,叡智日新,鴻慈天賦,儒書備覧,優通治要之精,釈典咸窮,雅尚性宗之妙」.

7 『賛玄疏』巻一(卍72,416右下)「我天佑皇帝,傳刹利之華宗,嗣輪王之寶系,毎余庶政,止味玄風,陞御座,以談微光,流異端,窮円宗而製讃,神告休徴然備,究於群経而尤精於此論」.同巻(卍72,424左下)「我聖文神武全功大略聦仁睿孝天佑皇帝,位簒四輪道逾三古,蘊生知之妙慧,賦天縦之全才,性海深游,梁武帝空修福善,仁澤普洽,唐文皇自減英声,三乗八蔵以咸該,六籍百家而備究,潮音演旨掩義解之高流,麗藻摛詞得文章之大体,至於禅戒両行性相二宗」.

8 『心要集』巻下(大正46,1004b).

9 野上[1953]5-20.

10 『全遼金文』540.

11 『遼史』巻二十四,道宗本紀四.

12 野上[1953]23.

13 『遼史』巻六十八,遊幸表.

14 『遼史』巻六十八,遊幸表.

15 『遼史』巻二十三,道宗本紀三.

16 『遼史』巻二十五,道宗本紀五.

17 野上[1953]31.

18 野上[1953]19-20.

19 『遼史』巻二十二,道宗本紀二.

20 『全遼金文』666.

21 『全遼金文』760-761.野上[1953]110.

22 『全遼金文』374.

23 大屋[1988]174.

24 大屋[1988]173-176にテキストが収録されている.

25 『演密鈔』巻十(卍37,136右上).

26 遼代の禅に関する最新情報としては,道宗代に曹洞禅の布教が行なわれていた事実が古松氏により指摘されている.古松[2006]によれば,「大安山碑」には,寂照大師,法賾,恒策の三人が房山地方で曹洞禅を広めたことが記されているという.恒策は道宗と接点のあった人物であるが,曹洞禅と道宗との関わりについては不明である.金代における曹洞禅の盛行はよく知られているが,その兆しがすでに十一世紀後半の遼にあらわれていたことは注目すべき事実である.

27 野上[1953]19.

28 『遼史』巻二十二,道宗本紀二.

29 『遼史』巻二十三,道宗本紀三.

30 古松[2006]426.

31 竺沙[2000]95-96.

32 『通玄鈔』序(卍73,81右上~下).

33 現在では,『釈論』は龍樹に仮託して東アジアで成立したものとする説が定説となっている.また,『釈論』には法蔵の『起信論義記』からの影響が見られ,法蔵の注釈より先に訳出されたという説は疑わしい.

34 『賛玄疏』巻二(卍72,445左上)「皇上解云.一心即是所入本法.一念則属能入行門.是心及念従法爾来.本不生長衆生障縛.如是之念即是真門寂静妙行.美哉」.同巻(卍72,449右上)「天佑皇帝聖智解曰.此寂滅寂静念非是一一識心.彼是所入第一義諦.今寂静念唯在門中無往向念.當真諦念.寂滅二字即是門中体真如摂.約所観境.其寂静念約能観心.是知自門有寂静念.不有此修.無以順真.即境之念証相応故.即顕此念唯在當門非于所入一一心故.行者唯用此寂静念方能契合一一心故.美哉」.

35 『賛玄疏』巻一(卍72,416左上~下)「皇上解立義分云.法門名数總三十三.其不二大乗深妙独尊離言果海絶根宜故…余三十二若門若法倶属因分…其十六所入両重根本倶属第一義諦.皆是総体.其十六能入両重枝末不出真俗二諦.皆是別義故.釈論云.此一總言於両処中是總体故.所謂望上及下臨故.又云.終其本末不相雑乱.其總別門初後不無.準此所説.非於前門開為後法.論文顕矣.若於前門開為後法,本末總別及三諦義有雑乱失.誠謂」.

36 『釈論』巻一(大正32,600a).

37 法悟の三十三法門解釈については,吉川[2007]が詳しく論じている.

38 『賛玄疏』巻二(卍72,441右下).

39 『賛玄疏』巻二(卍72,438右下~左下).

40 妻木[1912]325-327.

41 『遼史』巻二十四,道宗本紀四.

42 『遼史』巻六十八,遊幸表.

43 『遼史』巻二十六,道宗本紀六.

44 『全遼金文』374.

45 法均は初め燕京紫金寺の非辱律師に学んだ後,燕京三学寺の論法師の経歴を持つ学僧であり,清寧七年(1061)には,朝廷における仏典の校定事業にも参加している.三学寺は国内の主要都市に建立された寺院で,経・律・論を講じる学問寺として機能していた.ここで法師に任じられることは学問僧として名誉なことであったと思われるが,法均はこの三学寺を辞して燕京西郊の馬鞍山に入ったのである.法均が馬鞍山に開いた戒壇には大勢の人々が殺到し,そのなかには宋や西夏といった国外からの参詣者も含まれていた.道宗も馬鞍山戒壇に格別の保護をあたえ,法均には「行高峰頂松千尺,戒浄天心月一輪」という詩を賜り,二代目壇主の裕窺には御製の戒本を賜った.なお,法均については古松[2006]に詳しい.

46 『全遼金文』508.

47 『全遼金文』666.

48 野上[1980]300.

49 『房山石経遼金刻経』22,604上.

50 『受菩提心戒儀』(大正18,940b).

51 『房山石経遼金刻経』22,604上.

52 『受菩提心戒儀』(大正18,940b).

53 『房山石経遼金刻経』22,604上.

54 『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』(大正20,5a).

55 『房山石経遼金刻経』22,604下.

56 『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』(大正20,5a).

57 『房山石経遼金刻経』22,604下.

58 『聖観自在菩薩心真言瑜伽観行儀軌』(大正20,5a).

59 『房山石経遼金刻経』22,604下.

60 『受菩提心戒儀』(大正18,941a).

61 『房山石経遼金刻経』22,604下.

62 『受菩提心戒儀』(大正18,941a).

63 『房山石経遼金刻経』22,604下.

64 『義天録』は澄観の『受菩提心戒』を「発菩提心戒本」として登録するが,この戒本と石経本とは異なる.澄観の戒本は散逸文献のひとつでその内容についてはまったく不明であったが,筆者は遼代の『通玄鈔』に引かれているのを偶然発見した.すなわち,『通玄鈔』巻四に「又依清涼菩提心戒儀八門中第六示其体相云.仏子.此菩提心雖復具含衆徳包摂難思,然其所発要唯三心.謂大願大悲及與大智」(卍73,129右上)などとあるのがそれである.これと石経本とを比較すれば,両者の内容が異なるのは明らかである.

65 竺沙[2000]245.

66 竺沙[2000]250.

References
 
© Young Buddhist Association of the University ofTokyo
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