Studies of Buddhist Culture
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2013 Volume 15.16 Pages 26-57

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1. はじめに

 『縁起経釈』の研究史に関しては, Muroji[1993]の冒頭で述べられた楠本[2007: 20-24]において近年の研究の進捗が示されている. 従来,「触」に関する研究1は『俱舎論』や『順正理論』を中心とし,『縁起経釈』の「触支」との繋がりは明らかにされてこなかった. このため, 世親の思想理解の一環として『俱舎論』以降の著作, とくに『縁起経釈』の「触支」解釈を考察することには重要な意義がある. この『縁起経釈』の「触支」の箇所は, 前半がほぼ『俱舎論』「世間品」の「触支」, 後半が同「受支」の論議に従うものである. 以下, 諸先学の研究を踏まえ, 世親作『縁起経釈』における「触支」の解釈を分析・考察したい.

2.『縁起経釈』の触支について

2.1. 触支の関連について

 まず, 世親は『俱舎論』「根品」において「触」を含む「十大地法」という心所法を「伝説」(kila)として表現し2, 十大地法に関する有部説を批判する. 『称友釈』3はこの「伝説」が有部等の「他宗」(para-mata)の学説を顕わす言葉であると解釈する. 「欲」などは一切の心に生じるのではないから, のちに世親は十大地法を「遍行」と「別境」に分ける. 世親の自宗(sva-mata)はのちに『五蘊論』に示されたように, 欲, 勝解などを「別境」に定義するという. 要するに, 称友釈によればこの十大地法はすべて実有して遍行するのではなく, 『五蘊論』に示されたように五つのみが遍行(pañca sarvatragāḥ)し, ほかの五つは別境(pañca niyataviṣayāḥ)になるという4. この点からすると, 世親の『三十頌』における五つの遍行がアーラヤ識に随伴するという説は『五蘊論』の五遍行の考えに繋がっていると考えられる. 『瑜伽論』「摂決択分」においても「五遍行」と「五不遍行」5が見られることから, 「別境」は「不遍行」に等しく, 瑜伽行派にほぼ共通する考え方と言える6.

 そして『俱舎論』「根品」は, 十大地法の一つとして触の定義を以下のように述べる7.

AKBh 54.21-22

: sparśa indriyaviṣayavijñānasannipātajā spṛṣṭiḥ /

〔訳〕触とは根・境・識が和合することから生ずる接触である8

 触(sparśa, reg pa)とは根と境と識という三者が和合して生じた「異法」(真諦訳)であって, その性質は「接触」(spṛṣṭi9, reg pa, 能有触対)をもって示される. 『称友釈』ではこの複合語について根・境・識の和合することから生じたこと(jātā)が接触(spṛṣṭi,(能)触)であって, 根・境・識が互いに接触する(anyonyaṃ spṛśanti)ことと解釈している10.

 さらに, 『俱舎論』「世間品」における十二縁起の「触支」解釈における触(sparśa, reg pa)の分類は以下のごとくである.

一, 六触:眼触, 耳触, 鼻触, 舌触, 身触, 意触(AKBh 142.23-143.23; T 29, 52b5-c2)

二, 二触:有対触(pratighasaṃsparśa, 眼触ないし身触), 増語触(adhivacana-, 意触)(AKBh 143.23-144.7; T 29, 52c2-13)

三, 八触:明触, 無明触, 非明非無明触(無漏触, 染汚触, 餘触), 愛触, 恚触, 順楽受触, 順苦受触, 順不苦不楽受触(AKBh 144.7-22; T 29, 52c13-26)

 『瑜伽論』巻五十三においても十六触の短い解説が見られる11. 両者の成立以前すでにこの分類は定型表現として存在していた. 例えば『品類足論』においては三触(順楽受触, 順苦受触, 順不苦不楽受触)以外にも六触(身), 五触(有対触, 増語触, 明触, 無明触, 非明非無明触)12という表現が見られることから六足論の時代, 触の分類の整理はかなり進んでいたと考えられる.

2.2. 『縁起経釈』の触支の内容と要点

 さて, 『縁起経釈』の「触支」13については非常に短い内容のため訳注しながら世親の論議を考察する. まず, この「触支」解釈は『縁起経』「分別」における「触支」箇所の引用から始まるのである.

(1) 『縁起経』の触支の引用

(D31a5) rten cing 'brel (P35a) par 'byung ba dang po dang rnam par 'byed pa bshad pa / bam po gsum pa / skye mched drug gi rkyen gyis reg pa zhes bya ba'i reg pa gang zhe na / reg pa'i tshogs drug ste zhes rgyas par 'byung ba (a6) de la bcom ldan 'das kyis gdul bya'i bye brag la ltos nas reg pa'i rten tha dad pa'i sgo nas rab tu dbye ba bstan gyi ngo bo nyid ni ma yin no //

〔訳1〕『縁起初分分別釈』巻第三14. 「六処を縁として触, という [ときの]触とは何かというと, 六触身である. すなわち, 」15と詳細に出ている(*iti vistaraḥ). その中で, 世尊によって(*atrāpi bhagavatā)所化の差異に依存して(* vineyaviśeṣāpekṣayā), 触の異なる(*bhedena)所依によって区別が説示されたのであって(*prabheda ukto), 本質[によって]ではない(*na tu svabhāvaḥ)16.

 この触支の定義は『縁起経』の内容による「六触身」であるので, 『俱舎論』の「六触」定義と同じである. これは触の本質(svabhāva, 自性)から定義するのではなく, 教化の衆生に対して所依(六根)の視点から「六触身」を定義するものである.

 つぎは別の経典(『撫掌喩経』など)の引用である. これも三和合と触の関係について,触の因が説示されるたのであり, 触の本質ではないという.

(2) 『撫掌喩経』の引用

'o na reg pa zhes bya ba ni*1) gang yin zhe na / gsum 'dus pas reg pa yin no zhes (P35b) mdo sde gzhan las gsungs pa yin no // der*2) yang rgyu bstan pa yin (a7) gyi ngo bo nyid ma yin no //

*1) DC ni; PNG 'di. *2) DC de; PNG der.

〔訳2〕ならば, 「触というのは何かというと,三つが和合することによって触である」と他の経典で説かれたのである17. そこでも,因が説示された18のであって, 本質[が説示されたの]ではない.

(3) 『十問経』の引用

 さらにまた,心所法と触の問題について『十問経』を引用する.

sems las byung ba'i chos gzhan la reg pa zhes bya ste / gang la brten nas sems las byung ba'i chos thams cad skye ba'o // ji skad du dris pa rnam pa bcu'i mdo las tshor ba'i phung po dang 'du shes kyi phung po dang 'du byed kyi (N35b) phung po gang yin pa de thams cad reg (D31b1) pa la brten nas so zhes gsungs so //

〔訳3〕他の心所法に触という[ものがある]. すなわち, それに依って全ての心所法が生じるのである19.『十問経』において, 「受蘊と想蘊と行蘊, そのすべてが触に依っているのである. 」20と説かれたように.

触は受・想・行などの心所法とは異なるが, それはこの三蘊が触によって生じるからである. 『十問経』は『成唯識論』で『起尽経』とされたが, その中で触の本質に関わる教義が示される. 触によって受・想・行蘊が生じるのだから, 触が受・想・行蘊以外のものでなければならないとするのは経量部上座の考えである. 触を心所法とした場合, 触心所が受・想以外の行蘊に属することとなり,行蘊に属する触心所が行蘊の因になるという論理的な矛盾が生じるからである. しかしこのような矛盾があっても北伝や南伝の論書はほぼすべて触を心所法としている. 世親も『俱舎論』の七十五法やこの『縁起経釈』の「触支」ないし『三十頌』の五遍行において悉く触を心所法として論議をするところを見ると, 経量部上座の考えを受け入れなかったと考えられる. これは恐らく有部の西方師の伝承ないし『雑心論』などの論議に従う考え方であろう. すなわち正統の有部でも経量部の上座でもなく, 有部系の非正統である西方師や『雑心論』などの論書から発達してきた論議を踏まえたことになる. 心所法を極限までに減少させ心王の機能を拡大して見る上座の考えに対し世親はあくまで従来の伝承を重視し, その論理的な矛盾を無視したと言いうる. つまりここで触を他の心所法として受・想・行蘊を生起させる機能を持たせるが, その内的な問題を避けたのである. だがこの『十問経』は触の本質と関わる経典なので, 触の本質は何かという問題がさらに追究されなければならない.

(4) 三種類の信頼すべき言葉による触の理解

de ni tshor ba la sogs pa bzhin du de yid kyis 'gas kyang yongs su mi chod do // 'di ji ltar yid ches par bya zhe na / yid brtan*1) du rung ba'i lung las so // yid brtan*2) du rung ba'i lung yang rnam pa gsum ste / mngon sum gyi (G50b) don dang /*3) (b2) rjes su dpag par bya ba'i don dang dad par bya ba'i don no // de la gnyis ni mngon sum dang rjes su dpag pa nyid kyis yid ches (C32a) par bya ste / gang de dang 'gal ba med pa'o // dad par bya ba'i don de la yang yid ches par bya'o // bde ba yang ma yin sdug bsngal ba yang ma yin pa'i tshor (b3) ba yang rnam par shes pa las gzhan du yongs su mi chod de / de ni rang gi sde pa rnams kyis rtogs par bya mi nus pa yin yang tshor ba gsum zhes gsungs pa'i phyir ro // bsam gtan bzhi pa dang gzugs med pa na tshor ba med par thal bar 'gyur ba'i phyir ro // mig la sogs (b4) pa'i dang ba'i bye brag dang / ma rig pa yang rang gi ngo bo yongs su mi chod pa yin la / yongs su mi chod pa'i mtshan nyid yin du zin kyang gsum 'dus pa las reg pa'o zhes bya ba sems las byung ba'i chos gzhan yod par yid brtan du rung ba'i lung las khong du chud par bya'o //

*1) DC brten; PNG brtan. *2) DC brten; PNG brtan. *3) CPNG dang /; D dang. *4) DC po'i; PNG ba'i. *5) DC brten; PNG brtan.

〔訳4〕それ(*asau=触)は, 受などと同様(*vedanādivan), いかなる意によって(*manasā)も識別されないのである(*na paricchidyate)21. これはどのように信服させるのかというと, 信頼すべき言葉(*āptavacana)によってである22. 信頼すべき言葉も三種類である. すなわち, 直接知覚(*pratyakṣa)の義と, 推理される(*anumeya)義と, 浄信される義である. その中で二つは直接知覚と推理のみによって意を信服させるべきであり,それと矛盾しない浄信すべき義についても, 意を信服させるべきである.非苦非楽受も識とは別なものとして識別されない. なぜなら, それは自部のものたちが理解されないものであるけれど, [信頼すべき言葉,すなわち教典の中で]三受と説示されたからである. 第四禅と無色の場合は, 受がないことになってしまうからである. 眼などの浄[色]の特殊性や, 無明もまた自性が識別されない(*na paricchidyate)のであり, [そのような]識別されない特徴であっても, 三つが和合して「触」という他の心所法があると, 信頼すべき言葉によって理解されるべきである.

触には識別されないという問題がある. しかしながら,それは受などと同様に三種類(直接知覚, 推理, 浄信)の特徴をもつ信頼すべき言葉によるべきであることが示される. すなわち, 非苦非楽受が識別されなくても聖教において三受が示されたようにという意味であり, 眼などの浄色性や, 無明もその例であるという. 三和合の触が他の心所法であることもまた同様であると結論づけている.

(5) 『雑阿含経』214経と『伽他』の引用:因に対して果を仮説

(b5) 'o na mdo sde gzhan las 'di skad du chos gsum po gang yin pa de dag phrad pa dang / tshogs pa dang 'dus pa de reg pa yin no zhes gsungs pa ji ltar bu zhe na / de dag ni rgyu la 'bras bu gdags pa yin (P36a) te / dper na /*1) 'phags pa rnams ni mthong ba bde //*2) zhes bya ba dang / tshangs (b6) spyod dri ma bud med yin //*3) zhes bya ba lta bu'o // 'jig rten na yang me ni bde ba'o // me ni sdug bsngal ba'o zhes bya ba lta bu'o //

*1) DC na /; PNG na. *2) DC bde //; PNG bde. *3) DC yin //; PNG yin.

〔訳5〕ならば, 他の経典において,「三つの法が合すること, 集合すること, 和合することが触である」とこのように説示されたの23はどうしてかというと, それらは因に対して果を仮説するのである. 例えば, 「諸々の聖者の見は楽である」24ということや,「女は梵行の垢である」25ということのようである. 世間においても, 「火は楽である」「火は苦である」というようにである26.

さらにここでは,『雑阿含経』214経の引用により, 「三つの法が合すること,集合すること,和合することが触である」という三者の和合, 合一, 合集が触であることが反論として示され,これは因に対して果を仮説するのみであるとの回答が与えられる.『伽他』の二つの例の二つと, 世間での一つの例を挙げている.

(6) 和合そのものが触なのではない

rgyu la 'bras bu de ltar gdags kyi /*1) gsum (G51a) 'dus pa nyid reg pa ma yin no zhes bya ba ji ltar yid ches par bya / 'jig rten na phrad pa la reg go zhes brjod (b7) do zhe na / 'di ni re zhig skye mched drug gi rkyen gyis reg pa zhes 'byung ba'i mdo sde dang 'gal ba yin te / skye mched drug ni gsum gyi nang du 'dus pa'i phyir dang / sems las byung ba'i (N36a) reg pa yang ma yin par thal bar 'gyur la / gsum 'dus pa ni sems las byung ba'i chos (D32a1) reg pa yang ma yin no //

*1) DC gyi /; PNG gyi.

〔訳6〕因に果をそのように仮説したが, 三つの和合そのものが触なのではないというのはどのように信服させるべきなのか. 世間においては, 合することを触と述べるのであるなら, これはまず, 「六処の縁によって触」と出る経典と矛盾する27. なぜなら, 六処は[根・境・識の]三つの中の内的なものとして和合するからである. または, 心所の触にもならないと帰結してしまい,三つが和合したものは, 心所法の触にもならないのである28.

「世間においては, 合することを触」というのは「六処の縁によって触」という経典と矛盾する.なぜなら,後者の経典は六処が根・境・識の三つの中の内的なもの,すわなち六内処としての和合を意味すからである. また三つの和合そのものは心所法としての触にもならないことを指摘する.

(7) 大徳赤衣部とその経典および『六六法経』

reg pa ni btags*1) pa yin te dris*2) 'dra ba bzhin no zhe na yang de ltar na mi ldan pa yin par gyur*3) la de lta bu ni sde pa gang gi grub pa'i mtha' yang ma yin no // btsun pa gos smra*4) ba dang mdo sde 'di nyid las gsungs pa ming gang zhe na / (a2) tshor ba dang 'du shes dang / sems pa dang / reg pa dang / yid la byed (C32b) pa'o zhes bya ba dang / sde tshan drug pa drug las kyang sde tshan drug rnams ni rigs tha dad pa la*5) rnam par gzhag gi / gsum 'dus pa nyid reg pa ni ma yin no //

*1) DC brtags; PNG btags. *2) DC dris; PNG ris. *3) DC gyur; PNG 'gyur. *4) DC smra; PNG dmar. *5) DC la; PNG las.

〔訳7〕触は仮説されたもの(*upacāra)であって, 論難の如くであるというなら, そうであるなら不相応[法]であることになり, そのようなことはいかなる部派の定説でもないのである. 大徳赤衣部(*tāmra-śāṭīyaḥ)と, この同じ教典の中で説示された「名とは何かというなら,受と想と思と触と作意である」29ということと, 六六節(sde tshan, *kāṇḍa, すなわち六六法門)によっても諸々の六節は異なる種類について設定されるのであって,三つの和合そのものが触なのではないのである.

ここでは大徳赤衣部(*tāmra-śāṭīyaḥ)の説に言及する.これはおそらく次に挙げる経典の引用部分の内容と同様に, 触を受・想・思・作意と共に「名」に属させているから触という独立した法があるという説であろう. これも『六六法経』に言及された六種の六法に「六触身」が独自に存在するよう別体としての触を想定する説であって, 三和合の触は仮法であるという説ではない.

(8) 決定による考察

'di ji ltar nges par bya / gal (a3) te skye mched drug gi rkyen kho nas reg*1) pa yin na ni gsum 'dus pas reg pa yin no zhes 'byung ba'i mdo sde gzhan dang / de bzhin du gnyis po 'di la brten nas reg pa'o zhes 'byung ba spangs par 'gyur ro // 'on te reg pa kho nar skye mched drug gi rkyen gyis yin na ni / gnyis (G51b) la (a4) brten nas rnam par shes pa skye'o zhes 'byung ba'i mdo sde gzhan spangs par 'gyur ro // 'on te gnyis ka nges pa yin na ni gnyis ka'i skyon de dag kho nar 'gyur ro // 'on te ma nges pa yin na ni bshad pa don (P36b) med par 'gyur ro zhe na / don med par mi 'gyur te / gtso bo'i rkyen gyis chad*2) pa (a5) yin pa'i phyir ro // gtso bo'i rkyen ni skye mched drug yin te / thun mong dang thun mong ma yin pa'i phyir snga ma bzhin te / de yod na nges par yul dang rnam par shes pa de gnyis kyang yod pa'i phyir ro // de nyid kyi phyir 'di las mig la sogs pa'i sgo nas reg*3) pa bstan pa yin gyi*4) gzugs (a6) la sogs pa'i sgo nas bstan pa ma yin te*5) rnga sgra bzhin no //

*1) DPNG reg; C rig. *2) DC chad; PNG 'chad.*3) DC rig; PNG reg. *4) DC gyi; PNG gyi /. *5) DC ste; PNG ma yin te.

〔訳8〕これはどのように決定すべきなのか. もし六処の縁のみによって触ならば, 「三つの和合によって触がある」と出ている他の経典と, または次のように「この二つに依存して触がある」と出るのが排斥されるであろう. あるいはまた,もしただ触のみが六処の縁によってあるのならば, 「二つに依存して識が生ずる」と出ている他の経典は排斥されてしまうであろう. あるいはまた,もし〔これら〕二つを決定したならば, これら二つの過失がまさにあるであろう.あるいはまた,もし決定していなかったならば,所釈の意味がなくなってしまうというなら, 意味はなくならない.なぜなら, 最勝の縁によって確定されたものであるからである. 最勝の縁とは六処であって, 共(*sādhāraṇa)と不共(*asādhāraṇa)であるから,前と同じである. なぜなら, それがあるなら, 必ず境と識の二つがまた存在するからである. まさにそれゆえに, こ[の教典]において眼など[の感官]によって触が説かれたのであって,色など [の対象]によって説かれたのではない. 耳・声の如くである.

六処と触の関係について, 六処の縁のみによって触が生ずる, あるいは触のみが六の縁によって生ずるという決定をすると, 経典における三和合の触や, 根境二つによって識が生ずるという教説が成り立たなくなる. また両方を同時に決定する, あるいは決定しない というのも矛盾が生じる. という四つの質問をしていたので, 決定せずに, 最勝の縁が六処であると示すことによって, 矛盾を解消するのである. すなわち, 六処(六根)は必ず六境, 六識を伴って認識を生じさせるからである. そして, 六処という感官(根)によって触が説かれたのもその最勝の意味を示しているという.

(9) 『覆障経』の内外の「二によって触」の解釈

sgrib pa'i mdo sde las gnyis po 'di la brten nas reg pa shes gsungs te / rten dang dmigs pa tha dad pa'i sgo nas reg pa tha dad par rab tu bstan pa'i phyir ro // rnam par shes pa dang bcas pa'i lus kyis ni der nang gi skye mched (a7) bstan te / lus smos pas ni lnga char smos pa yin no // 'di ltar de la (N36b) brten pa'i tshor ba ni*1) lus kyi zhes ston pa bzhin no // phyi rol gyi ming dang gzugs ni phyi yin te / gnyis po de dag nyid kyis rab tu dbye ba bstan pa'i phyir ro //

*1) DPNG ni; C ni mi.

〔訳9〕『覆障経』(*nivṛta-sūtra)30において, 「この二つに依存して触」31と説示された. なぜなら,異なる所依と所縁によって, 触は異なると説示されたからである. 識をともなう身によって, ここでは, 内的な六処が説かれた. 身と語ることにより五つの部分が語られたのである. すなわちこれに(=内的な六処)依る受が「身的な[受]」と説示されたようにである. 外部の名色は外的なものである. ほかならぬこれら両者によって区別が説かれるからである32.

『覆障経』(*nivṛta-sūtra)は, 梵本の原文が存在するので理解に役立つ. この「二」は内・外の六処, すなわち「外名色」(bahirdhā nāmarūpam, 外六処, 所縁)と「内識身」(savijñānakaḥ kāyo, 内六処, 所依)を示す. 触はそれらを「所依と所縁」とし, この両者と異なるものであるから, 「この二つに依存して触」が成り立つという.

(10) 六処と二つと触の処の同義

de las*1) gsungs pa reg pa'i skye mched drug po 'di dag gang gis reg pa'i (D32b1) byis pa*2) thos pa dang mi ldan pa'i so so'i skye bo dag bde ba dang / sdug bsngal so sor myong bar 'gyur ro shes 'byung na / skye mched drug (G52a) dang gnyis dang reg pa'i skye mched gsum la bye phrag ci yod ce na / bye brag ci yang med de dgongs pa gang gis bshad pa de dag bdag gis smras zin to //

*1) DC la; PNG las. *2) DPNG byis pa; C byi ba.

〔訳10〕その[教典の]中で説示された, 「これらの六触の処のいずれによって,触に関して愚夫無間の凡夫たちは楽や苦をそれぞれに感受する」と出るとき, 六処と二つと触の処という三者には, 何の差異があるのかというと, 何の差異もない.それらの説かれた意図(*abhiprāya)を私は述べたのである.

この経典によれば, 六つの触の処から触の苦楽を感じるのでそれぞれの受が成立するということになる. この場合六処と内外の六処と触の処という三つの処にいかなる差異があるかというと, いかなる差異もなく,文脈上の意図が異なるにすぎないという.

(11) 名色支の身・意の処と触と受のみ

(b2) (C33a) ming dang gzugs kyi gnas skabs na reg pa'am tshor ba yod pa ma yin nam / ci gang gi phyir skye mched drug gi 'og tu rnam par gzhag*1) ce na / med pa ni ma yin no // ji ltar lus dang yid kyi skye mched gnyis de'i tshe yongs su rdzogs*2) pa'i phyir yan lag gzhan du rnam par ma gzhag pa ltar reg pa dang / (b3) tshor ba yang de bzhin no //

*1) DC gzhag; PNG bzhag. *2) DC rdzogs; PNG ma rdzogs.

〔訳11〕名色の分位に, 触や受があるかないか.一体何のために六処の後に[触や受が]設定されたのかというと, 無いのではないのである. あたかも身と意の処の二つは, このとき円満しているので, 他の支として設定されないように, 触と受も同様である.

十二縁起支における名色支の分位に触と受があるのかという問題について, 名色(=五蘊)の分位においてすでに身処と意処があるように, 名色の分位において六触や六受はあるという.

(12) 『大因縁法門』の二触:有対和合触と増語和合触

gal te skye mched drug gi rkyen gyis reg pa yin na / (P37a) rgyu chen po'i chos kyi rnam grangs las ci'i phyir ming dang gzugs rkyen du gsungs she na / der ni thogs pa dang tshig bla dgas 'dus te reg pa gnyis brjod par bzhed pa'i phyir ro // de las skye mched rkyen (b4) nyid yin pa yang bstan zin te / mig gi 'dus te reg pa la sogs pa gsungs pa'i phyir ro //

〔訳12〕もし六処の縁によって触があるのなら, 『大因縁法門』33において何のために名色が縁として説示されたのかというと, ここでは有対(*pratigha-)と増語(*adhivacana-)の和合した二つの触(有対和合触と増語和合触)を述べようとしているからである34. そこにおいて処がほかならぬ縁であることも説かれた. なぜなら, 眼が和合して触がある等が説かれたからである.

有部系の『大因縁法門』(『大因縁経』)において, 六処の縁によって触が生ずるのではなく, 名色の縁によって触が生ずるという教説が現れている. それは二触を解説するためである. 二触は前述の『俱舎論』の触支においてその説明が示されたが, これによってその二触は『大因縁経』の教説と深く関わっていることが分かる. 名色と二触との関連性は, 色(有対pratigha-)と名(増語adhivacana-)という縁から和合した二つの触(有対触と増語触)ということである.

(13) 同じ刹那に根・境・識の問題

'on te yang gsum 'dus pa las reg pa zhes gsungs na 'dus pa zhes bya ba de ci yin / tshogs yin no zhe na yang ji ltar de dag tshogs pa yin / gal te lhan cig 'byung ba'i phyir ro zhe na (b5) ni*1) dbang po dang don rnam par shes pa'i rgyu ma yin par 'gyur te / rnam par shes pa skyes zin na ni de*2) gnyis nus pa dang mi ldan pa'i phyir ro // ma skyes pa yin na yang med pa'i phyir ro // gcig la gcig rgyu nyid yin na yang / gnyis la brten nas rnam par shes pa skye'o zhes 'byung (b6) ba'i mdo sde dang gnyis ka yang (G52b) 'gal bar 'gyur ro //

*1) DC ni; PNG ni /. *2) DC ni de; PNG ni.

〔訳13〕もし三つの和合によって触と説示されたのなら, 和合というのは何か. 集合であるというなら, どうしてそれらが集合なのか. もし同時に生じたからであるというならば, 根と境は識の因ではないことになる.なぜなら, 識が生じ終えているならば, その二つ(根と境)は能力を有していないからである. [識が]生じていないなら[根と境も存在してい]ないからである. [根・意・識が]交互に因であるとしても, 「二つに依存して識が生ずる」と出る経典に両方とも矛盾することになる.

以上は『俱舎論』の受支における触と受の関係に関わる論議である35. まず三者が和合すること, すなわちsaṃnipātaという言葉の意味を問う.根・境・識の三者が同時に生じたことが和合の意味ならば, 根と境は識の因とならなくなる.さらに,三者の和合によって触があるという説や,三者の中のいずれか一つが他の一つの原因になるという説は,いずれも根と境の二つによって識が生ずるという経典の教説と矛盾するという.

(14) 第六の根・境・識の異時の集まりに関する問題

drug*1) pa'i gsum yang dus tha dad pa yin pa'i phyir ji ltar tshogs pa yin / tshogs pa zhes bya ba ni lhan cig tu 'jug pa yin no // 'on te sngar skyes pa'i dbang po dang don gnyis rnam par shes pa'i (N37a) tshe gnas pa'i phyir gsum tshogs (b7) pa yin no zhe na / de lta yin na dbang po dang don gnyis skad cig ma ma yin pa nyid du thal bar 'gyur ro // drug pa gsum la yang rnam par shes pa gnyis lhan cig tshogs pa yin par 'gyur ro // rgyu dang 'bras bu'i dngos por gsum tshogs pa yin no zhe na yang / lnga'i gsum dag lhan (D33a1) cig tu 'byung ba'i phyir dbang po dang don dang / rnam par shes pa rnams rgyu dang 'bras bu'i dngos por mi rigs te snga ma bzhin no //

*1) CPNG drug; D drag.

〔訳14〕第六[意識]の[根・境・識の]三つも時が異なるのであるから, どうして集合なのか.集合というのは同時に働くのである.あるいはまたもし前に生じた根と境の二つが識の時に住するから,三つは集合であるというなら,そうであるなら,根と境との二つは刹那のもの(*kṣaṇika)ではないことになってしまう.第六[意識の根・境・識]の三つにおいても, 識が[根・境]二つと同時に集合であることになるであろう. 因と果の関係(*bhāva)で三つが集合するとしても,[前の]五つの[根・境・識の]三つは同時に生じるために, 諸々の根と境と識が因果の関係にあることは妥当ではない. 前と同じである.

第六意識は無間滅意を拠りどころとして生じるので, その根・境・識は必ず異時的である. したがって, 三者の和合が同時の集合ならば矛盾が生じる. 根と境の両者が識の時にも住するとすれば, まず根と境は二刹那にまたがり,刹那のものではないことになってしまう. そして第六意識の場合にも根と境が識と同じ刹那に集まることになる. さらに前五の三者の和合は同時(同じ刹那)なので, 前後関係を有するというのは妥当でなくなり因果関係を否定することになる.

(15) 次第の生起の問題

rim gyis byung ba yin na ni / thog mar dbang po dang don gnyis de nas rnam par shes pa de nas reg pa yin pas rnam par shes pa kho na (a2) reg pa'i rgyu'i (P37b) dngos (C33b) por 'thad pa yin gyi / dbang po dang don gnyis ma yin te / rnam par shes pa'i dus na de dag med pa'i phyir ro // gsum 'dus pa las reg pa 'grub par mi 'gyur te / gcig kho na de la nus pa yin pa'i phyir ro //

〔訳15〕次第によって生じるならば, 最初に根と境, その二つより識, それより触なので, 識のみが触の因の事物として妥当であるが, 根と境の二つは[妥当]ではない. なぜなら, 識の時に, それら[二つ]は存在しないからである. 「三つの和合によって触(三和合触)」というのは成立しないことになる. なぜなら, その一つのみに能力があるからである.

「次第」によって生じることについてここで挙げられているのは, 経量部の上座(Śrīlāta)36などの説と似ており, 『俱舎論』の受支(有説, apare)においてすでに言及されている. この中では根と境, その二つより識が, それより触が生ずるという次第は同じ刹那でなく, 次第に生じるとされている. 称友釈では根・境が第一刹那, 識の生起が第二刹那, 受の生起が第三刹那というふうに分けている37が, それもまたこの世親説との相異が見られる. ここでは第三刹那が触になるからである. しかしこの説では, 触が生ずる際に,根と境は前の刹那に識が生じた時には,滅するため識のみが因になってしまい, 三者の和合が不可能になるという問題がある.

(16) 同時生起の問題

rnam par shes pa dang reg pa lhan cig byung ba yin no zhe (a3) na yang rnam par shes pa ni*1) reg pa'i rgyu yin par mi 'gyur te / ji skad du sngar bstan pa yin no // de ltar na yang gsum 'dus pa las reg pa 'grub pa mi 'gyur te / gnyis kho na de la nus pa yin pa'i phyir ro // gang dag yang gsum 'dus pa kho (G53a) na reg pa yin te / lhan cig 'byung (a4) ba rgyur mi 'dod pa de'i yang dbang po dang don gnyis rnam par shes pa'i tshe 'gag*2) pa'i phyir tshor ba skye ba'i rgyu'i dngos por rigs pa ma yin pas reg pa'i rkyen gyis tshor ba 'grub par mi 'gyur te / de dag gi gsum po rgyu dang 'bras bur gyur pa ni reg*3) pa yin gyi rnam par shes (a5) pa 'ba' zhig*4) ni ma yin pas so // de bas na tshogs pa ni 'dus pa yin par rigs pa ma yin no // rgyu dang 'bras bu'i dngos po yang ma yin par brjod par bya'o //

*1) DC ni; PNG na. *2) N ’gag; DCPG ’phags. *3) DPNG reg; C rig. *4) D zhag; CPNG zhig.

〔訳16〕識が触と同時に生じるのであるというとしても, 識は触の因であることにならない.前に説明したとおりである. そうであるならまた, 「三つの和合による触」が成立しないであろう. なぜなら, その場合[根と境の]二つのみに能力があるからである.また,ほかならぬ三つの和合が触である.同時に生じたものを因とは認めない人々にとっては,根と境の二つは識の時に滅するから, 受が生じる因の事物として妥当ではないので, 触の縁によって受が成立することにならない. なぜなら, 彼らにとって因と果になる三つのものが触であって, 識のみではないからである. それゆえ, [三つの]集合が和合であるのは妥当ではないのである. 因と果の関係でもないと述べねばならない.

また, 識が触と同じ刹那に生ずるとすれば識が触の因にならないことになり, 根と境の両者だけが因の能力を有することになる. これも三者の和合と矛盾する. 一方また,根・境・識の三者の和合そのものが触で,根・境が因,識が果と考えるのも問題がある.根・境が識が生ずる時に滅すれば,三者の和合にならず, 受の生起に関しても妥当ではない.

(17) 因果関係の問題

'dus pa'i don ni rgyu dang 'bras bu'i dngos po kho na yin la / gsum 'dus pa yang lhan cig pa'am / rim gyis drug po'i (a6) gsum rnams ji ltar rigs*1) pa 'byung ba yin na lhan cig 'byung ba ji ltar rgyu dang 'bras bu'i dngos po yin te / (N37b) gcig la gcig*2) rgyu nyid kyang ma yin te / ji ltar grib ma dang myu gu bzhin no //

*1) CPNG rigs; D regs. *2) DC gcig; PNG cig.

〔訳17〕和合の意味は, 因と果の関係にほかならない.[その]場合,三者の和合も同時かあるいは次第によって諸々の六つの[根・境・識]三者はどのように妥当性を生じるものであるのか.同時に生じることが,どうして因と果の関係であるか.交互に因であるわけでもない.あたかも影と芽の[同時に生じる]ように.

和合の意味が因果関係にほかならない.この場合,三者の和合が同時であることはあり得ず,同時では因果関係も成立しないという.なお,影と芽は同時成立の喩えである.『倶舎論』では受支の説明の中で毘婆沙師(=カシミール有部)がこの喩えにより,触と受,さらにまた眼識等と眼・色等,大種と大種所造色の同時成立を説く38.

(18) 因果同時の秤の低昂の喩え

rim gyis byung ba yang ji ltar rgyu dang 'bras bu'i dngos po yin / 'bras bu'i dus na rgyu yod pa ma (a7) yin no zhe na / ji ltar sa bon dang myu gu bzhin no // de 'gag pa dang skye ba gnyis dus mtshungs pa yin pa'i phyir te / srang mda'i mthon dman bzhin no //

〔訳18〕次第によって生じるというのもどのように因と果関係になるのか. 果の時には因は存在しないというならば, あたかも種子と芽の如くである. それは滅することと生じることの二つが同時なのであるから.秤の低昂(*tulādaṇḍonnāmāvanāma)の如くである.

次第によって生じる場合, 因果関係の成立は種子と芽のようであり, その生滅が同時的であることは秤の低昂のようなものである. この秤の低昂の同時関係を種子と芽で喩えることは, 世親が瑜伽行派の学説を依用して『縁起経釈』に導入したものと考えられる.

(19) 意の滅と意識生起の問題

dngos po med pa sngon du song ba'i 'bras bu yin par ji ltar mi 'gyur zhe na / (P38a) ji ltar rgyu med pa de dang 'bras bu dus mnyam pa'i phyir (b1) re zhig yid ni yid gyi rnam par shes pa'i rgyu'i dngos po yin par rigs te / sa bon dang myu gu bzhin yin no //*1) gang 'das nas yun ring du lon pa'am / ma 'ongs pa'i (G53b) chos rnams la yid gzhan dag ji ltar rgyu'i dang por 'gyur zhe na / de'i dbang gis de skye ba'i phyir ro // de lta*2) ma yin na (b2) (C34a) chos rnams de'i dmigs pa tsam yin par 'gyur te / gal te skyes la 'gags pa dang phyis 'byung bar 'gyur ba dag 'byung bar 'gyur ba'i rkyen rnyed pa yod pa ma yin na / de dag la rnam par shes pa 'di skye bar mi 'gyur ro //

*1) DCNG no //; P na /. *2) DC lta; PNG ltar.

〔訳19〕非存在に先行された果であることにどうしてならないのかというと,因の非存在と果[の生起]が同時であるからである. まず意が意識の因の事物であることは妥当である.種子と芽の如くである. およそ過ぎ去ってから久しく経過したもの,あるいは未来の諸法に対して, それ以外の諸々の意がどうして因の最初となるのかというと, その[因である意の]力によってそれ(=意識)が生じるからである.そうでないなら, 諸法は[所依としての意を持たず]その[意識の]所縁のみになるであろう. もし生じて滅したものと, 後に生じるであろうものが, 生じることになる縁を得ることがないであるならば, これら[の過去と未来の諸法]に対して, この識は生じることにならないであろう.

因の非存在(=消滅)と果の生起は同時であり,それはあたかも種子と芽のように,意と意識の関係として妥当である.過ぎ去って久しいものや, 未来の諸法に対して諸々の意が最初の因になるのはなぜかというと, その意の力によって意識が生じるからであるという.

(20) 瑜伽師の憶念と思量の問題

rnal 'byor pa rnams ting nge 'dzin gyi mthu'i bye brag gis sa gzhan dag (b3) gi de las skyes pa'i rnam par shes pa bsgos pa'i rgyud yongs su 'gyur ba'i bye brag can gyis 'das pa rnams dran pa'am / ma 'ongs pa la rjes su dpog pa dang / mngon par 'dod pa sngon myong ba'i rjes su de dang rigs gcig pa'i rjes su dpog par byed pa dang / mngon par 'dod pas kyang (b4) sngon du ma byas na / 'das pa dang / ma 'ongs pa la shes pa skye bar mi 'gyur ro //

〔訳20〕諸々の瑜伽師は禅定の特殊な神通力によって, 他の諸々の地より生じた識が熏習した相続の特殊な変化(相続転変差別,*saṃtatipariṇāmaviśeṣa)を伴うことにより,諸々の過去の記憶,あるいは未来に対して思量することや,先に願望を経験した後に, それと同類の思量をいだくことや,願望にも先行されていないなら,過去と未来に対して知が生じないであろう.

例えば諸々の瑜伽師は神通力によって過去のことを思い出し未来のことに対して思量することができる.

(21) 長者の父の死による子の乞食の喩え

'jig rten na yang de'i dbang gis skye ba med par yang rgyu yin par yang sgrogs so // rgyu ci yin zhe na / gal te nga phyug po'i bu yin na ci'i phyir sprang po byed / smras pa pha*1) shi ba rgyu yin no zhe'o // de sprang*2) ba la ni de (b5) shi bas nus pa ci yang yod pa ma yin no // 'di la bsam pa ci yod ce na / gal te de'i pha shi ba ma yin na de dag de 'dra ba'i gnas skabs*3) su mi 'gyur ro zhes bya ba yin no // 'dus pa'i rnam par nges pa ni phyis kyang bya'o // skye mched (N38a) drug gi rkyen gyis reg pa zhes bya ba grub pa yin no // rten cing (b6) 'brel par 'byung ba bshad pa (G54a) las reg pa rab tu dbye ba rdzogs so // //

*1) DC pa; PNG pha. *2) DC spang; PNG sprang. *3) DC gnas skabs; PNG skabs.

〔訳21〕世間においてもその[因の]力によって生じることがなくても, 因であるとも言われる.因とは何かというと, もし私が長者の子なら, 何のために乞食をするのか. 答える. 父の死が因である,という. それ(=乞食)を捨てることに関して,彼が死んでしまったので, いかなる力も存在しないのである. これにはいかなる意趣があるのかというと, もしその父が死んだのではないなら, 彼らはそのような分位(生活)にならないということである. 和合の決択は後にもなされるであろう. 「六処の縁によって触」ということが成立したのである. 『縁起釈』の中の触の分別が完了した.

世間では, 例えば長者の父が死んだという原因により,子がそのために乞食になるという乞食の因が示される. 以上は『縁起経釈』の「六処によって触が生ずる」という「触支」の解釈である.

 このように, 『縁起経釈』の「触支」は一見して短くて解りやすいが, 実際には心の構造と認識の問題と関わっていて, かなり難解な面もある. まず, 触に関する諸経典における伝承との関連について, 世親は多様な経典を引用してその関連性を論じている.

a 『縁起経』:「分別」の「触支」箇所の引用, 六触身

b 『撫掌喩経』など:三和合の触

c 『十問経』:受・想・行蘊の全てが触に依る, 心所法と触の問題

d 『雑阿含経』214経 :三者の和合, 合一, 合集は触, 経典例二つ(『伽

他』)

e 大徳赤衣部(*Tāmra-śāṭīya)の説とその経典:名は受と想と思と

触と作意

f 『六六法経』:六触身

g 『覆障経』(*nivṛta-sūtra):外名色と内識身の二つによって触

h 未比定経典:六触の処と触の楽受・苦受など, 六処と二つの処と

触の処

i 『大因縁法門』(『大因縁経』):名色の縁によって触, 二触(有対触と増語触)

これらの経典の引用部分は『雑阿含経』の「五蘊」や「六処」, 「因縁」といった経典群(「五陰誦」, 「六入処誦」, 「雑因誦」)の教義に関わる重要な箇所ばかりである. 以上のように諸経典において実に多様な教義が述べられているため, それらの議論の相互関係を矛盾なく整理する必要があった. 有部や譬喩師, 経量部(ないし上座まで)が長い間重ねてきた議論の決着がこの『縁起経釈』において図られたと言えよう. 触の仮実問題, 触の刹那・次第生起の問題, 触の心所法問題(大地法と五遍行, 五別境), 三和合と触, 六処と触, 触と受, 名色と触等の問題は心の構造と認識という困難な問題に深く関わっているため, 世親の考えは非常にコンパクトでありながら把握し難い面もある. 以上に見てきた通り, 世親は関連諸経典の教義をまとめたあと, 『俱舎論』の「受支」の解釈における触と受の生起関係に関わる論議をこの『縁起経釈』触支の後半においてまとめ, 最後に瑜伽師の経験をもとに触の意味を示したのである.

 ここでの世親の論議を後の『五蘊論』と『三十頌』における法の整理のやり方と比べると, 一方的に上座や経量部の説を留保なしに取り入れるのでなく, 有部の法の体系を重視しつつ瑜伽行派の思想を基盤としてそれらの統合を図ったと考えられる. 瑜伽行派の論議は経量部のそれより穏健であって有部との繋がりもあるため,有部の法体系は唯識論の識の原理と法の体系を整備するさい一つの有力な参考になっていたに違いない.

 他には, 称友釈の「受支」解釈は非常に長いので, その論議を踏まえても必ずしも『縁起経釈』と結び付けうるか否かは断言しがたい.これまでの研究, 例えば加藤[1989], 楠本[2007], 木村[2009]等の諸研究はすべて『俱舎論』の触支や受支を扱っており, 『縁起経釈』における触支と受支との関連を考察する論考は見られず,課題はなお多いと言わざるを得ない.

3. 結び

 『縁起経釈』の「識支」に阿頼耶識説を導入して解釈するとすれば, 六識を中心とする認識論が「触支」の六触身と繋がることになる. 一方, 「触」は阿頼耶識の五遍行の一つとして心所の機能を果たすという問題も含むため,安慧の『三十頌釈』や護法等の『成唯識論』における阿頼耶識論にも「触」の論議が現れる. その中で『成唯識論』(巻三, T 31, 11b13-c5)は『六六法経』の六触身などの教義によって触の実有説をとって論を立てたが, 『決定義経註』(AVSN 125, 1-5)は逆に経量部の触の仮説を論じている.

 世親は『俱舎論』「根品」において有部の十大地法の定義をkilaとして不信を示し, 『縁起経釈』などを経て『五蘊論』と『三十頌』の五遍行・五別境という説を立てた. これは『瑜伽論』の摂決択分に近い説である. このことから, 『縁起経釈』の著者としての世親は,『俱舎論』の色蘊説ではなく『縁起経』の色蘊などの定義に随い, 有部と距離を置きつつ『縁起経釈』から『五蘊論』ないし『三十頌』へと向かう思想の流れを伺わせている.

 これは, 因縁経典群の『雑阿含経』「雑因誦」における「因縁相応」に属する『縁起経』, 六処経典群の同「六入処誦」の『六六法経』等, また五蘊経典群の同「五陰誦」の『十問経』等に述べられた因縁・六処・五蘊の教義解釈に関し部派間に発生した諸経典の論議の統合という根本問題に関わっている. 世親は瑜伽師の学説を導入し, 種子と芽, または秤の低昂などの譬喩をもって同時因果の矛盾を解消している. また心と心所法, 認識作用とその順序, 縁起支の認識上の相互関係, 輪廻転生における縁起支の生起, これら一連の複雑な問題を含めて「触」について緻密な議論を行った. 『成唯識論』と『決定義経註』の相違を考えてみても, 世親の真意が後代の関係する諸論師に正当に理解されたのか否かは今後見極めなければならない大きな課題であろう.

Footnotes

1 「触」に関して, 加藤[1989: 198-228]では上座説を中心として詳細な考察が行われている. このほか木村[2009]も『順正理論』を中心として『俱舎論』「触支」の所説と照合し考察している. なお楠本[2007: 178-180, 249-267]では, 『俱舎論』「世間品」の「触支」と「受支」を検討しているが, 「受支」の十八意近行などは省略された. なお滝川[2008]は安慧の「触」の解釈を中心とし, 主に唯識関係の文献を扱うものである.

2 〔梵本〕AKBh 54.19, 〔玄奘訳〕『俱舎論』巻四, T 29, 19a16-17. 大地法の心所法の問題に関しては,加藤[1989: 198ff. ]参照. 箕浦[2003]が, この問題を安慧釈と称友釈によって再考察している.

3 AKVy 127.20-23.

4 PSk 5.1-3; 27.2b1; 69.2-4; 93.3-4 [ad. 4.1] .

5 『瑜伽論』巻五十五, T 30, 601c10-13.

6 十大地法と五遍行・五別境の成立過程については勝又[1961: 423-440]参照.

7 関連資料, 斎藤他[2011: 59-60]参照.

8 〔玄奘訳〕T 29, 19a19, 〔真諦訳〕T 29, 178b13-14, 〔蔵訳〕P 72a7, D 64b4-5.

9 spRṣṭiは蔵訳ではsparśaと同様にreg paと訳される.

10 AKVy 127, 25-27.

11 T 30, 594a21-29. このなかで, 1. 所依と所取境によって六触と有対触, 2. 分別境によって 増語触, 3. 領納境によって順楽受等触, 4. 染浄によって愛・恚, 明・無明・非明非無明触を建立するという意趣が述べられる.

12 巻一, T 26, 693a13-15 :三触. 巻二, 同698c16-18:五触. 同c22-23:六

触身.

13 PSVyt: D 31a5-33b6, C 31b3-34a5, P 35a6-38a8, G 50a2-51a1, N 35a5-38a1.

14 蔵訳の書名と巻数および 『縁起経釈』の書名については,荘[2013]に詳説する予定. 以下に引用する『縁起経釈』のテキストはD版を底本とし,PNGCの四版を校合する.D版は葉番号の表裏(ab)と行数を,他の四版については葉番号のみをテキスト内に記す.

15 一部の経典に見える平行文は以下の如くである. 経典の関連資料は『インド哲学仏教学』20に所収予定の, 荘[2013]の「名色支」の考察の冒頭を参照.

NS16.9: ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa iti sparśaḥ katamaḥ / ṣaṭ sparśakāyāḥ / cakṣuḥ saṃsparśaḥ / śrotraghrāṇajihvākāyamanaḥ [saṃ]sparśaḥ /

PSt9: skye mched drug gi skyen gyis reg pa zhes bya ba'i reg pa gang zhe na / reg pa'i tshogs drug ste / mig gi 'dus te reg pa dang / rna ba dang / sna dang / lce dang / lus dang / yid kyi 'dus te reg pa'o //

SA 298.9: 縁六入処触者,云何為触?為六触身:眼触身,耳触身,鼻触身,舌触身,身触身,意触身.

16 AVSN 124, 2-9.

etad anantaraṃ sparśo vyākhyeya ity āha / ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa iti / ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa ity uktam / sparśaś cāyaṃ pravacane spraṣṭavye ’pi dṛṣṭaḥ / saṃgatilakṣaṇe ’pi caitasike / ato na nirdharyate katamaḥ ṣaḍāyatanapratyayaḥ sparśa katame iti / tannirdhārārtham āha / ṣaḍ sparśakāyā iti / prabhede ’pi paripraśnayati / katame ṣaḍ / āha / cakṣusaṃsparśo yāvan manaḥsaṃsparśa iti /

atra ca bhagavatā cakṣurādyāśrayabhedena sparśasya prabheda ukto na svabhāvaḥ / tatkālavineyaviśeṣāpekṣayety asakṛd vyākhyātam etat / kas tasya svabhāvaḥ ? anyatroktam / yaḥ kaścid vedanāskandhaḥ saṃjñāskandhaḥ saṃskāraskandhaḥ sarvaḥ sparśaṃ pratItyeti /

(波線部は『縁起経釈』との平行文の箇所. 和訳は後の『決定義経註』の節参照. )

17 『雑阿含経』「六入処誦」(例えば, 第273経, 「撫掌喩経」, T 2, 72c9-10)参照.

8 AVSN 125.5:

kāraṇe kāryopacāra eṣaḥ /

19 上座は「触非心所」という主張を立てた(加藤[1989: 203]参照)が, 世親は触を心所法としている. これは触がほかの『五蘊論』や『三十頌』においても五遍行の一つとされることから察しうる.

20 『雑阿含経』第58経. この経典において十問があったため, 経末に十問の内容を纏める「摂頌」があった. この十問の摂頌は印順[1983a: 179, fn. 4] が指摘したように, あくまでこの経典自身の内容の摂頌であって, 十経を纏める摂頌ではなかった. しかしChung[2008: 248-9]では誤ってこの摂頌を57-58経の二つの経典の摂頌に当てた. またChung[2008: 249] では第103-110経に当てた摂頌は十経なのに, その冒頭の二経の摂頌(「彼多羅・十問」(同fn. 12)は対応する経典がなかった. すなわち, この二経の摂頌はそれぞれ第57(彼多羅), 58(十問)経を指していると理解すべきである. これも第103経の主脚が「差摩」であって, 摂頌の第三経の「差摩」と一致していることから推定可能である. このためChung[2008: 65-66, sUtra 57, 58]のUd.(摂頌)に与えられた経名は「彼多羅(=険坑経)」と「十問(=満月経)」に訂正すべきである. なお, この二経はともに『法蘊足論』に引用されているが, 伝承によって経名も異なっていることが察せられる.

この経典の引用につきMuroji[1993: 79, fn. 67]参照. 経典名につき玄奘訳『成業論』T 31, 784a27:『十問經』毘目智仙訳『業成就論』T 31, 779b24:『十難修多羅』.

引用の箇所, T 2, 14c13-15:「觸因觸縁. 生受想行. 是故名受想行陰. 所以者何. 若所有受想行. 彼一切觸縁故. 」

また『縁起経釈』の「愛支」においてもこの箇所を引用しているのでその原文が得られる.

PSVy 618.14-15:

tathā yaḥ kaścid vedanāskandhaḥ saṃjñāskandhaḥ saṃskāraskandhaḥ sarvaḥ saḥ sparśaṃ pratItyeti /(Muroji[1991: 77]の校訂参照)

〔訳〕あたかも, 受の蘊と想の蘊と行の蘊のいずれも,全て触に縁って,と出ているようである.

このほかAVSN [124.8-9] では以下のように引用する.

kas tasya svabhāvaḥ ? anyatroktam / yaḥ kaścid vedanāskandhaḥ saṃjñāskandhaḥ saṃskāraskandhaḥ sarvaḥ sparśaṃ pratItyeti /

21 Cf. AVSN 124.10:

nanv asau vedanādivan manasā na paricchadyate /

22 AVSN 124.10:

cakṣurādivat, āptavacanāt /

23 AVSN 125.1-3:

nanu tasya svabhāvaḥ kathita eva bhagavatā / cakṣuḥ pratItya rūpaṇi cotpadhyate cakṣurvijñānam iti / ya eṣāṃ trayāṇāṃ saṃgatiḥ samavāyaḥ sannipātaḥ sa sparśa iti vacanāt /

24 UV XXX, 25a. sukhaṃ darśanam āryāṇām / Muroji[1993: 101]参照.

25 『婆沙論』巻一(T 27, 3b28-29):「如伽他説. 女是梵行垢」. 『順正理論』巻二(T 29, 340c5-6):「又如経説. 女為梵行垢」.

26 AVSN 125.4:

kāraṇe kāryopacāra eṣaḥ / sukho ’gnir iti yathā /

27 AVSN 125.1-3:

nanu tasya svabhāvaḥ kathita eva bhagavatā / cakṣuḥ pratItya rūpaṇi cotpadhyate cakṣurvijñānam iti / ya eṣāṃ trayāṇāṃ saṃgatiḥ samavāyaḥ sannipādaḥ sa sparśa iti vacanāt /

28 AVSN 125.4-5:

yasya tu sannipātād arthāntarabhātaḥ sparśas tasyaiṣa parihāraḥ / yasya tu sannipāta eva sparśas tasya svabhāvo nirdiṣṭa iti boddhavyam /

29 この箇所の名色の定義に関し西村[2002: 219], 馬場[2003: 201]等参照. 徳慧はこの経典を『縁起経』と同定しているが, 恐らく有部や経量部の『縁起経』ではなく, 大徳赤衣部(赤牒部)の経典を指しているのであろう. すなわち世親は有部や経量部の『縁起経』における名色支の名の定義と異なっていることを述べたと思われる. 南伝の経典は大徳赤衣部と一致しているが, 何を意味するのかより詳細な検討を要するであろう. 大徳赤衣部は「赤衣家犢子部」や根本有部の七部の一つなどと言われるが, どんな経路で現在の南伝と一致している箇所が現れたのかは不明である.

30 NS 12, 『雑阿含経』第294経. Chung[2008: 104, sūtra 294]参照.

31 この箇所の論議につき木村[2009: 149ff. ], 舟橋[2003: 325]等参照. 舟橋氏はこのNS 12中の句読点の誤りのため「二」について正確な読みを得なかった. この問題もNS 12の校訂のさい発生したものである. 玄奘訳『順正理論』の漢訳に随い, 「二二為縁」という「二二」の間には句読点を入れないと考えるべきだろう. 所依と所縁を重複として示すため「二二」(dvayam dvayaṃ)と言われたからである.

32 舟橋[2003: 325]ではこの「外名色」を誤って「名色支」と読んだためその論述に矛盾が発生したのである. この「外名色」の色は色・声・香・味・触の五処に相当するが, 名は「法処」を指している. この「外名色」(bahirdhā nāmarūpam, すなわち外六処)は「内識身」(savijñānakaḥ kāyo)と合わせて六組のペアになっており, 認識作用がこの「二二」によって発生するのである. そのためNS 12の冒頭において次の文,

ity anyañ cāsya savijñānakaḥ kāyo bahirdhā ca nāmarūpam / evaṃ dvayam /

dvayaṃ khalu pratItya spa(r)śaḥ /

の中のダンダは,

ity anyañ cāsya savijñānakaḥ kāyo bahirdhā ca nāmarūpam / evaṃ dvayam dvayaṃ khalu pratItya spa(r)śaḥ /

と訂正し, 「二二為縁」という意味に取れるようすべきである.

33 『中阿含経』巻二十四, 第97経「大因経」, T 1, 579c5-14. この経は新出の有部『長阿含経』の梵本にはなかったので, 漢訳の『長阿含』や南伝の『長部』のようにあったのではなく, 有部系の『中阿含経』のように収められるのではないかと考えられる.

34 AVSN 125.6-126.2:

atra ca cakṣuḥsaṃsparśo yāvan manaḥsaṃsparśa iti / sapratighacakṣurindriyāśritatvād ete pañca pratighasaṃsparśa ucyante / manaḥsaṃspraśo ’dhivacanasaṃsparśa iti / yasmād vacanam adhikṛtyārtheṣu manovijñānasya pravṛttiḥ, na pañcānāṃ vijñānakāyānām atas tad e(126)vādhivacanam / tena saṃprayuktaḥ sparśo manaḥsparśa iti / prathama āśrayapramāvito dvitIyaḥ saṃprayogaprabhāvita iti / uktaḥ sparśaḥ //

35 『俱舎論』の受支における触:AKBh 144.22-146.20.

36 AKVy 307.17: bhadanta-ŚrIīātaḥ.

37 AKVy 307.19: indriyārtha-kṣaṇaḥ prathamaḥ vijñānotpatti-kṣaṇo

dvitIyovedanotpatti-kṣaṇas tṛtIya iti.

38 楠本[2007: 263-4, fn. 753]参照.

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