Studies of Buddhist Culture
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1998 Volume 2 Pages 123-147

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宗密思想における中国固有思想

中国に仏教が伝来して依頼,老荘道家の思想概念と論理が仏教教理の理解や思想展開に広く用いられたこと,儒教の経典解釈学が仏教に援用されたこと,そして逆に,仏教が中国固有思想・宗教に影響を与えたことは多くの研究が指摘する通りである.文化的基盤と体系を異にする二つの思想が出会う場には,大まかに言えば,それら相互が批判・排撃の立場をとる場合と,相互が折衷・融合への方向をとる場合,という二つの様態の存在が予想されよう.これは,中国において,その固有思想と仏教とが出会う場合でも同様であり,実際に我々は,時と人によって多様な様態が存在したことを知っている.

本稿においては,一人の仏教者として,そして同時に一人の中国人として「中国」という場を生きた宗密に焦点をあて,彼における「中国」認識,彼における仏教理解のあり方を考えてみることにする.周知のように,宗密には中国固有思想への直接的対応を示すものとして 『原人論』が存在する.しかし,本稿では,あえて『原人論』の立場に距離を置き,宗密の『円覚経』諸注釈書に示される幾つかの見解を検討の資料とする.というのも,彼の『円覚経』諸注釈書には,宗教的対抗意識からする仏教の優越性の宣言という教判的•建前的な意図からは離れたものとして,中国思想に対する宗密の立場が素直な形で示されているように思われるからである.

1 中国固有思想に対する批判的立場

(1) 空思想による中国固有思想批判

宗密は,『円覚経』「普眼菩薩章」の

彼之衆生,幻身滅故,幻心亦滅.幻心滅故,幻麈亦滅.幻麈滅故,幻滅亦滅.幻滅滅故,非幻不滅 (大正17、914c)

の経文を解釈するのに,いわゆる法空観を用いる1.彼は,この法空観を始教,大乗初門の段階におけるものであるとし,まず凡夫の執着する諸法の空なることを説く.そして,次に外道・小乗などの人の執着する諸法については,これらは印度においては様々な形で説かれているが,ここ中国にはそれらがなく,また小乗を信じる人もいないので煩わしくそれらを挙げて論ずる必要がないという.そこで宗密は,「依病処方」の立場から儒・道の二教を取りあげ論ずるのてある.

宗密はまず,『老子』の

有物混成,先天地生(第二十五章).

道生一,一生二,二生三,三生万物(第四十二章).

人法地,地法天,天法道,道法自然(第二十五章).

と,『周易』の

易有太極,是生両儀,両儀生四象,四象生八卦,八卦定吉凶,吉凶生大業(「繋辞上伝」).

とを挙げ,儒道二教はともに

以虚無自然,為三才万物之本.

と述べる2.すなわち,儒道二教における存在論・宇宙生成論の根本原理ないし本体を「虚無自然」と解釈するのである.そして,「虚無自然」に基づく儒教・道教の存在論・生成論が誤ったものであることを指摘し,彼らがとらわれている諸法(万物)の空性を主張する.これは空思想による儒道二教の存在論・生成論批判ともいえるが,では,宗密は具体的にどのようにそれらを批判するのであろうか.

1) まず,宗密はもしも「自然常遍之道(自然という恒常的で普遍的な道)」を因として,万物が生ずることが可能となるとしたら,これは「邪因」説に陥るとする.なぜなら,法が(自然常遍之道によって) 生じたものであるとしたら,その法は恒常性や普遍性を持つものではなく,真実ではないからである3.したがって「自然常遍之道」の場合も同様のことがいえる.また,たとえ彼らのいう「自然常遍之道」とは本来的に「一」であるはずであるが,その「一」から異った「多」 が生ずるということはあり得ない.さらに,法が生じたものであるとしたら,それは超時間的・無時間的に(頓)そして普遍的に(遍)生ずることになる,とする.というのも,そうでなければ,時間や他の条件がそこに入り込んでくることになり,「一因」による生成ではなくなってしまうからである.これは宗密が,万物の「無常性」「特殊性」に着目し,それによって「道」の空性を追求したものと言えよう.

2) 次に,宗密はもしも万物が自然に生ずるとしたら,これは「無因」説に陥るとする.なぜなら,この考え方にしたがえば,あらゆる時間と空間とにおいて万物が常に生ずるはずだからである.

3) 最後に,宗密はもしも「一陰一陽を「道」と謂い,これが変易して能く万物を生ず」としたら,これもやはり「邪因」や「無因」説の見解にすぎない,理由は前の二つの場合と同様である,とする.

このように宗密はこれらの考えはすべて誤ったもので,「自心の外に法として得べきもの無し」と批判する.これは,生成論的視点から儒道二教における根源的原理・本体(因)と万物の展開(果),またはその両者をつなぐ契機に着目したもので,前者のみを強調する立場を邪因であるとし,後者のみに重点を置く立場を無因であるとして,否定するのである.万物の根源として恒常・不変な実体的根源者を想定することも,無因・自然生を説くことも,空・縁起の思想を基本とする仏教の立場とは対立するものであり,仏教者としての宗密からすれば,それらは当然批判されるべきものであったのである.

宗密の議論において中国の固有思想そのものがどれ程的確に,そして真っ正面から捉えられているかについては疑問の余地があり,彼の議論は仏教の優位を前提にしたあくまでも仏教側からのものであって,思想性の高いものとは決して言えないかも知れない.しかしながら,上記の議論の他,たとえば中国固有思想の「道」に対する批判として仏教の「真如」と対比して論じた箇所4などは,議論の方向性としては適切であり,評価すべきものであろう.

(2) 業報思想による中国固有思想批判

宗密は『円覚経』の「弥勒菩薩章」を「輪廻の根元を深究」する章として捉え,解釈を行っている.仏教においては,衆生の輪廻転生は業によって展開され,また業によって引き起される結果の様態はさまざまであるといわれるが,当然,仏教を信じない人々,すなわち外道の場合も,現実世界において業報を決定するもの,またはその根本原因についてそれぞれの見解をもっているはずである.そこで宗密はこれら外道の説を批判して仏教の立場を明らかにしようと論を立てる. なお,仏教を信じない人は印度にも,中国にもいるわけであるが,宗密は議論の対象を「中国」という場に限定する.すなわち,儒教と道教を直接の対象とし論を進めるのである.

宗密はまず,業報思想との関連で,現象世界における人間や動物などの生成や差別的現実を決定づける根本原因について,儒道二教の立場を次のようにまとめて提示する.

謂儒道二教,説人畜等類,皆是虚無大道,生成養育.謂道法自然,生於元気.元気生天地.天地生人畜万物.故愚智貴賤,貧富苦楽,皆稟於天,由於時命.及其死也,郤帰天地,復其虚無(『大疏』続蔵1-14-2、163a)

すなわち,宗密によれば,儒道二教では人や動物などの出生,養育は虚無なる大道によっていて,死ぬとまたそれに帰るというのであり,衆生の愚智,貴賤,貧富,苦楽は天から稟けたもので,運命的に決まっている,というのである.そして宗密は,このような理解に基づいて,儒道二教における業報の根本原因として,道・天命・自然・元気の四つを措定し,それぞれの説次のように批判している5

1) まず,人間を含めたすべての自然界の世界における差別的現象・存在様態などを「道」によるものとする見解については,もしその説によれば「道」は恒常的なものであるはずで,そのような「道」に基づく禍乱・凶愚なども排除することができなくなる.

2) 次に,「天命」を立てる見解については,もしもそうだとすれば,裕福な人よりは貧しい人が多く,貴ぶべき人よりは賎しい身分の人が多い現実や,徳のある人が貧しく,逆に徳のない人が裕福であったり,「道」にしたがう人がほろび,逆に「道」にしたがわない人が興隆する現実などの不条理はどのように解釈すべきか.

3) 次に,「自然」を立てる見解については,もしも原因もなく自然に生じ,変化するならば,その生成・変化は原因のないあらゆる空間において,時間的前後もなく起こり,たとえば石から草が生じたり, 草から人が生じたりもするはずである,またこの説か正しいとすれば, 神仙になるために丹薬にたよることや,『老子』・『荘子』・『周易』・孔子などが教を立てることなども必要ないはずである.

4) 最後に,「元気」を立てる見解については,もしも「気」によって人間その他が生ずるとすれば,気自体には「知」がないわけだから, その「無知」の気によって生じた人間などにも「知」がないはずである.しかし,実際には生まれたばかりの赤ん坊にも愛・悪・憍・恣などの感情がある.また,人か気を稟けて生じ,死後には気が散佚し,たちまちに無に帰すというならば,現にその人が鬼神となったり,その鬼神の霊知の働きがその後も続くことがあるが,このような現象も説明できなくなる6.そして,前世や過去のことの記憶や鬼神の霊的活動が存続するという事実によって,人が気によって忽然と生じ,滅するのではなく,人の出現が前世からの相続によるものであり,死後にも相続するものであることが分かる,と述べている7

すなわち,1)は「道」を恒常的根源として捉えた上で,この「道」にもとづくはずの諸悪の排除可能性を,2)は「天命」に対して現実の不条理を,3)は中国の「自然」説を無因有果的思想として捉えた上で,断悪積善・断惑証理の可能性ないしそのための方法論を,4)は「元気」における精神的・知的要素の欠如に対して「神」の不滅・相続を,それぞれ対置し批判したもので,いわば仏教の業報思想による中国固有思想批判といえるものである.

なお,もともと出発点を異にすると思われるこれら中国の考え方に対して,上記のように単純化した捉え方が出来るかという問題は残るが,ともあれ中国思想の主要諸観念に対する仏教側の捉え方の一つとして,宗密の理解は注目に値するものと言えよう.

2 中国固有思想に対する融和的立場

(1)霊魂観の理解

中国仏教思想の一つの特質をあらわすものに,中国仏教者の業・輪廻の理解に関する問題があり,これと関連するものとして神域・神不滅の論争があることは周知のとおりである.この問題と関連して,前節でも若干触れた鬼神についての宗密の議論は大変興味深い側面をもっている.宗密は人・畜・万物の根源として気を想定する中国の考え方について,仏教の業報・輪廻思想の立場から批判を加える.すなわち,中国の考え方は心的・精神的なものの相続・不滅に対して説明できない,というのである.ところで,ここで注目されるのは心的,精神的要素の相続・不滅を証明するために,彼が中国の通俗的霊魂観を援用していることである.

たとえば,『大疏』には,

若稟気而欻有,死後気散而欻無,則誰為鬼神,而霊知不断乎.今有鑑達前生,追憶往事,則知生前相続,非稟気欻有〈鮑静李家.雲諦弘覚.羊祐指環〉.又験鬼神霊知不断,則知死後相続,非気散而欻無〈蒋済之子,託母求官.嬖妾之父,為兒結草.蘇韶卒後, 来与姪節問答.孔子語子貢云,死後将自知之未晩〉.故祭祀求祷,人皆為之.況死而甦者,説幽塗事.或死後感動妻孥,求索飲食.或酬恩寃,及邪病呪禁而愈等耶(続蔵1-14-2、163c-d).

とある.この記述からは,宗密白身,鬼神の存在とその活動について明確に認めていること,そして鬼神にまつわるさまざまな現象や,人々の鬼神への祭祀・求祷の活動を当たり前のこととして紹介していること,などが注目すべき点として浮かび上がる.特に,宗密の「中国」理解の問題と関連するものとして興味深いのは,割注に挙げられたものも含めて例として挙げられた鬼神にまつわる話の一つ一つを『大疏鈔』において取り上げ,それぞれの具体的内容について極めて詳しく紹介しているという事実である8.しかも,たとえば死んで鬼神になった人がものを食べた,ということについては,

此事最多,古今皆有.余四十年中,見聞之者,約二十餘條.於中,詢験詳審的実者,環有三五縁.非稽古所得,不敢形於翰墨.況古今多時耶.況多人見聞耶(『大疏鈔』続蔵1-14-5、419b).

などと,宗密自身の経験までをも用い,鬼神の実在を論証しようとしている.このような宗密の態度は,すでに仏教者であるという自覚から完全に離れて,中国固有の宗教風土の中に生きる一人の中国人としての宗密の姿が露わに示されているのである.

なお,『大疏』・『大疏鈔』の鬼神関連の記述には,鬼神そのものが実在するか否かの問題,鬼神における知の有無に関する議論など,当時の人々の鬼神や来世観をめぐる諸問題が見られ興味深いが,ともあれこれらの問題に関する宗密の立場は,いわば鬼神実在論・鬼神有知論といえるものである.たとえば,鬼神の実在に対して否定的な見解の人については,

問.若人死為鬼,則古来諸鬼,填塞巷路,有其見者,如何不爾.

答.人死六道,不必皆鬼,鬼死復為人等,豈古来積鬼常存耶(『大疏』続蔵1-14-2、163d).

と述べ,仏教の六道輪廻思想を用いてそれを斥ける.そして,『大疏鈔』では死後の鬼神の実在を否定した王充の『無鬼論』などを取りあげて批判を加えている9

また,鬼神の無知を主張する立場については,

然而議者,猶以鬼神為無知,其言之盛,強於有知之論.此故不照其本,不達其源(続蔵1-14-5、418d)

と述べ,それを批判する.宗密にとって鬼神とは,ある種の人の死後のあり方として,さまざまな働きをする有知の存在であったのであり,また同時に,輪廻する存在としても理解されているのである.

これまで見てきたように,宗密においては霊的存在としての鬼神の実在が肯定され,さらにそれの活動・働きまでが積極的に主張されていることが知られ,またこれらの主張のために仏教の輪廻説までが援用されていることが知られる.つまり,宗密は仏教者てある以前に一人の中国人であったのである.

因みに,上記1)2)3)4)の内容は,少々簡略化された形で『原人論』の冒頭にも挙げられる.これについては鎌田茂雄[1975:139-143] によってその内容が紹介されている.ただし,氏はその内容を1)大道説,2)自然説,3)元気説,4)鬼神説の四つの項目に分けているが,『大疏鈔』でこの箇所を「文四,一道,二命,三自然,四元気」(続蔵1-14-5、414b)と注釈していることからも明らかなように,宗密が鬼神を業報の根本原因として考えているわけではない.宗密自身はむしろ鬼神の存在やその働きを認め,鬼神説を擁護しているのであって,それを批判しているのではない.宗密は逆に中国における鬼神説に批判的な一部の立場そのものを批判しているのである.

(2) 「気」思想の理解

宗密の「気」批判が,気を業報・輪廻の根源として想定することに対するものであって,生成論的質量因としての気を否定するものではないということは,

由是而観,人畜万物,雖附気而生〈気変為陰陽.陽為風火,陰為水土.四大合散,以心為主〉.蓋是無始心神,世世伝習,続而為主也(『大疏』続蔵1-14-2、163d).

とあることからもわかる.すなわち,仏教的唯心論ないし心という大原理を立てる立場の中においてではあるが,中国の気・陰陽は人間をはじめとする万物の生成の質量としてそのまま容認されるのである.

一方,宗密は中国固有思想を「一気」の概念によって捉える.これは,宗密が『大疏』「序」の冒頭で

元亨利貞,乾之徳也.始於一気.常楽我浄,仏之徳也.本乎一心.専一気而致柔.修一心而成道(続蔵1-14-2、108d).

と述べ,彼の仏教理解における中心的概念である「一心」に「一気」 を対比していることからも明かである.では,「一心」に対比されるこの「一気」とは宗密においてどのように理解されているのであろうか.そして,その理解と彼の仏教思想とはどのような関係にあるのであろうか.

宗密は一気の観念を「陰陽天地之根本也」,「一気始分為陰陽二気」 などと説明する(『大疏鈔』続蔵1-14-3、206b).すなわち,一気とは陰気と陽気が分かれる以前の状態を指すもので,これは基本的に『周易』の考え方に基づく理解といえる.すなわち,「繋辞上伝」には,

易有太極,是生両儀.両儀生四象,四象生八卦.八卦定吉凶,吉凶生大業.

とある.ここで両儀とは陰陽の二気を意味するといわれ,「太極」から生じる二つの世界原理である.それ故,宗密の「一気」とは『周易』の太極と同位の観念として理解されていることが推測されるのである.ところで,すでに「元亨利貞,乾之徳也.始於一気」とあることから,「元亨利貞」が「乾」の徳用であり,一気が乾の根拠となるものでもあることが分かる.では乾とは如何なるものであろうか.『周易』「説卦伝」には,

乾天也,故称乎父.

とあり,「乾・彖伝」には

大哉乾元,万物資始,乃統天.

とある.これらと上記の「繋辞上伝」の

易有太極,是生両儀.両儀生四象.

の文を合わせて考えると次のようになる.まず太極ないし一気によって陰陽の二気が生ずるが,このうち「陽」は卦としては「乾」である. またこの乾が具体化したものが「天」であり,この「天」から「万物」が生ずる.これは図式的には,「太極・一気→陽(乾卦,天)万物」 のように整理することができよう.なお,「陰」は卦としては「坤」であり,これが具体化したものが「地」であって,「坤」が補佐的性格を持つものであるのに対し,「乾」は主体的・能動的原理であるとされる.以上のことから,乾は万物の生成の直接的原因であり,一気は乾の上位観念として,万物の存在の根本原理であることが知られる.

ところで,ここで重要なことは,宗密がこのような中国の考え方を彼の仏教理解・解釈に導入しているという事実である.というのも,これらの考え方は中国における気に基づく生成論を述べているものであり10,これは根源的「一」「実体」なるものを立てて,それを中心にすえて現実と真理の二世界を説明する考え方であって,実体性の肯定に直結するものといえる.これが仏教の縁起思想,または空の思想から逸脱しているものであることは言うまでもなかろう.もちろん,『大疏』の序には「万法虚偽,縁会而生」(続蔵1-14-2、108d)とあるように,宗密自身,空思想を思想的根底にすえており,一気は最終的には止揚されるものであろうが,しかしそれはあくまでも理念的にそうであって,実際には

心識有人畜等業,則託附陰陽之気,而為身也.謂識是正因,気是助縁.心識能知一切境,能作種種事.陰陽気則能成骨肉躯質(『大疏鈔』続蔵1-14-5、421b).

などとあることからも知られるように,彼の仏教思想の一部分をなしている.

ところで,中国では,生成論の展開において,上記のような一気・気を最高の根源とする説がある一方,「道」を根源的実在とした生成論が古くから広く展開された.たとえば,池田知久 [1996] は,老荘思想の誕生を道の観念の成立において始まると見,この道を「窮極的根源的な実在」と解釈する(100頁-).そして,この道の観念にはそれを中心にすえた形而上学・存在論的側面と宇宙生成論的側面があるという.すなわち,前者は天地・万物全体の背後にあってそれらを存在・運動させながらも,自らは全く変化しない窮極的な根源であり,世界で最も尊い価値としての道であり,一方,後者は宇宙の主宰者として,自らの能力で主体的に宇宙を作った窮極的根源的な実在としての道である(143頁-,203頁-).この研究からも知られるように,中国には古くから道を中心にすえた形而上学や生成論の大きな展開の歴史がある.

道の生成論に対する宗密の理解を見ると,宗密は儒道二教について

皆以虚無自然,為三才万物之本(『大疏』続蔵1-14-2、145a)11 .

と述べ,その教証として,

老云,有物混成,先天地生.又云,道生一,一生二.二生三,三生万物.又云,人法地,地法天.天法道,道法自然.易云,易有太極,是生両儀.両儀生四象,四象生八卦.八卦定吉凶,吉凶生大業(同,145a).

との文を挙げている1212.これらは道から万物が生ずるということを論じたもので,道を中心にすえた「道→万物」の宇宙生成論である.この道の生成論に対し宗密は,もしも「自然常遍之道」を因として万物が生ずるというならそれは「邪因」である,と批判的態度を示している.

一方,宗密は『大疏』「序」で一気を積極的に用いて仏教を説明し,また既に引用したように,『大疏鈔』では,

心識有人畜等業,則託附陰陽之気,而為身也.謂識是正因,気是助縁.心識能知一切境,能作種種事.陰陽気則能成骨肉躯質(続蔵1-14-5、421b).

とも述べており,彼においては「道」よりは「気」の考え方・概念が積極的に用いられていたと推測される.このことはたとえば,宗密が『大疏鈔』で,

儒道至教,皆宗於一.

と述べ,

視之不見,聴之不聞,搏之不得,不可致語,故混而為一(『老子』).

1)殊途一会,帰要於一.2)五行相推大帰一.3)一之為物,叵卒見   (『黄庭内経』).

1)通於一而万事畢.2)一之所起,有一而未形(『荘子』).

1)一陰一陽之謂道,陰陽不測之謂神,乃至百姓日用而不知.2) 天下之動,貞夫一者也(「繋辞伝」).

巍巍之形,内神外霊,中有想慮,真一闇冥(『肇論』).

などの文を挙げたのち,

此等所言一者,皆謂気也.

と述べ13,これらの文における「一」を「気」と捉えることからも知られる.つまり,宗密の立場はいわば「気一元論」ともいえるものである.中国において「道」と「一気」との関係をめぐっては幾つかの異なる解釈が存在することが指摘されるが14,宗密自身は基本的に「道」よりは「一気」によって中国の生成論を理解・解釈する15.

では,このような宗密の理解の背景は何であろうか.ここには单に 「一」という数的観念の象徴性に起因するもの以上の意味が内包されているように思われる.それを推測させるものとしては,宗密が『老子』の,

道生一,一生二.二生三,三生万物.

を解釈して,

一是混沌本無之一気.一気与道,亦非二体.但一気是展転生成之義.道是自然之義.又道是非本非末義.一気是根本義(『大疏鈔』 続蔵1-14-5、414a).

としている点を挙げられる.すなわち一気が力動的であって,あらゆるものの根本となるものであるのに対し,道は本末の観念を離れた静止的なものである,というのである16.これは,万物の生成に直接関わりをもつという一気の力動的性格への着目といえるものである.

一方,宗密の仏教理解との関連でいえば,以上のような立場は彼の「一心」の理解と関連するように思われる.というのも宗密は,たとえば澄観が円教の立場で「一心」を受け止めているのに対して,円教の一心を視野に入れつつも,頓教の一心に思想的中心をすえ,一心を力動的なものとして捉えるからである.

まず澄観の理解を見ると,彼は五教判の立場から一心を論じ,

今依五教,略明一心.初小乗教中,実有外境,仮立一心.由心造業,所感異故.二大乗始教中,以異熟頼耶,為一心,遮無外境. 三終教,以如来蔵性,具諸功徳,故説一心.四頓教,以泯絶無寄, 故説一心.五円教中,総該万有,事事無碍,故説一心.良以如来随機設教,故有千差,殊途同帰,皆一致也(『華厳経疏鈔玄談』続蔵1-8-3、173c).

という.これに対して宗密は,これをさらに内容的に分析し,それぞれに対応する経論を当てる.それを表にすると,次のようになる.

1)愚法声聞教  仮設の一心

2)大乗権教   相見倶存の一心(『成唯識論』)

         摂相帰見の一心(『唯識二十頌』『解深密経』)

          摂所帰王の一心(『大乗荘厳論』)

3)大乗実教   摂前七識帰於蔵識の一心(『楞伽経』)

総摂染浄帰如来蔵の一心(『密厳経』)

4)大乗頓教   泯絶染浄の一心(『円覚経』)

5)一乗円教   総該万有の一心(『華厳経』)

宗密は,さらにこの八つの一心を「本末」の観点から分析し,三つの立場から説明する.すなわち一には頓教の一心から小乗の仮説の一心へと展転し末を起すもので,これは所詮の観点から見た場合である.二には小乗の仮設の一心から頓教の一心へと展転して本を窮めるもので,これは能詮の観点から見た場合である.三には円教の一心で,これは能詮所詮逆順本末皆無障碍の立場である17.

ところで,ここで注目されるのは,宗密においては円覚心か円教の一心ではなく頓教の一心で受け止められているということであり,またこの一心を「本」とし,世界・教法の展開のあり方を捉えようとしていることである.これは,宗密の関心が触事相入・融事相即・重々無尽などの概念で説明される円教の「総該万有の一心」にではなく頓教の一心に傾いていたことを意味し,同時に彼が世界ないし心の展開のあり方について单に観念的に理解するにとどまらず,より具体性のあるものとして捉えようとしたことを意味する.すなわち,円教の一心は理念的真実であって,それはあくまでも窮極の立場における世界の真実のあり方に関するものであり,現実の世界のあり方やわれわれの現実の実存的心の動きのあり方を示すものではない.それはいわば理念としての一心とでもいえるものであって,われわれの心が本来的あり方からどのようにして迷妄の現実心に堕ちていくのか,そして逆にこの迷妄の現実心が真実に向ってどのように変化し,動いていくのかを直接に示すものとはいえない.宗密において円教の一心とはこのようなものであったのであり,そこで,彼は円教の一心をにらみつつも頓教の一心に思想的中心をすえるのであろう.つまり,宗密は頓教の一心に定位することによって,円教の理念的真実の世界をのぞみつつ同時に現実の世界に対する認識の足場をも確保しようとするのである.

仏教ではさとりの実現者である仏,または仏が得た涅槃(の世界)が窮極の目標であることは言うまでもない.しかし,宗密においては,仏,さとりの世界の観念的把捉よりは,その真実世界と現実世界という二世界の存在・認識を可能にし,あるいはその根拠ともなるべき一心に関心が向けられる. 彼はこの「一心」において衆生の現実を自覚すると同時に,一心の中に仏・真実の世界を,またはその可能性・根拠を見るのである.いわば宗密において一心・円覚心は,衆生の迷妄の現実に対する自覚とその自覚にもとづく真実追求への努力・実践という思想的意味を同時に担うものであり,その両者を媒介するものであったのである.

要するに宗密の立場は,一心を力動的なものとして捉えるものといえようが,中国の固有思想に関しても同様の立場から,超越的・観念的性格の強い「道」を論ずるよりは,窮極・真理の本体と万物との間において,その媒体としての性格・意味の強いものとして現実世界に直接的繋がりを持つ「一気」を中心に理解するのである.

なお,宗密の中国固有思想理解の是非やその意義については,筆者にそれを論ずる能力はないが,それを彼の仏教理解との関連からいえば,彼の仏教思想が中国的考え方に非常に近いものになっているという側面と,現実的・実践的性格の強いものとなっているという,二つの側面が指摘できよう.

(3)儒道二教の捉え方

鬼神や気などの中国諸思想に対する宗密の許容的立場は,儒教や道教そのものの捉え方において明瞭な形で示される.宗密が儒道二教を仏教との関係においてどのように捉えていたかについては,鎌田茂雄[1975]や木村清孝[1989]によってその全貌がほぼ明らかにされているが,ここでは『円覚経』注釈書における儒教・道教についての直接的言及を中心に,特に彼の師であった澄観の立場と比較させて,その特徴を考えてみることにする.

まず,澄観の三教観を見ると,澄観は『華厳経随疏演義鈔』で

儒則宗於五常,道宗自然,仏宗因縁(大正36、513a18).

とし,儒・道二教と仏教との関係については「天地懸隔」(同、41a11) というのが彼の立場である.たとえば,澄観は『華厳経疏』「玄談」で,

言有濫同釈教者,皆是仏法之餘.同於涅槃盗牛之喩.乳色雖同, 不能善取醍醐.況抨驢乳,安成酥酪(大正35、521b15-18).

とし,中国固有思想と仏教とを同一視する立場を警戒し『華厳経随疏演義鈔』ではこれを

後儒皆以言詞小同,不観前後,本所建立,致欲混和三教(大正36、 105b12-13).

と敷衍する.これは三教一致・三教融和的立場を明確に批判するものであるが,さらに

外道之教,無解脱味.故抨驢乳,但成屎尿.依外道教行,但招苦果,無所成益(同、106a12-12).

と述べ,中国固有思想は全く無益なものであるとして,その価値を否定する.

では,澄観は中国固有思想と仏教との思想的相違について,具体的にどのように考えていたのであろうか.彼はまず,世界・生死などについての儒教・道教の考え方と仏教のそれとを混同することを批判し,

況此方儒道,善止一身.縦有終身之喪,而無他世之慮.雖斉生死,強一枯栄,但以生死自天,枯栄任分.天乃自然之理,分乃禀之虚無.聚散気為生死,帰無物為至道.方之釈氏,不合同年(『華厳経随疏演義鈔』大正36、106a22-27).

と述べ,さらに,具体的に儒教・道教と仏教とにおける「十條の異」として,1始無始異,2気非気異,3三世無三世異,4習非習異,5稟縁稟気異,6内非内異,7縁非縁異,8天非天異,9染非染異,10帰非帰異を挙げている(同、106a27-107a8).そして,最後に

此上十異,即冀審思,慎之深衷.多以小乗因縁,以破外宗玄妙. 況乎真空妙有,事理円融,染浄該罹,一多無礙,重重交映,念念円融哉.無得求一時之小名,渾三教之一致,習邪見之毒種,為地獄之深因,開無明之源流,遏種智之玄路.誡之誡之,伝授之人,善須揀沢(同、107a8-14).

と結んでいる.すなわち,仏教教理の真理性・優越性に対して外道(儒・ 道)の浅薄さを指摘し,三教一致的立場に対する警戒と排除を強く主張するのである.

次に,儒道二教,または三教の関係に対する宗密の理解を見てみたい.結論から言えば,澄観が儒道二教や三教一致的立場を厳しく批判しているのに対し,宗密はそれらをむしろ極めて友好的・融和的に捉えていると言える. このことは,前の節でも述べた宗密における気,鬼神説の援用・許容からも推測することができるが,上述のような澄観の批判的立場に対する宗密の受け止め方にもはっきりと現れている.すなわち,『大疏』や『大疏鈔』などは全体にわたって澄観の『華厳経疏』と『華厳経随疏演義鈔』に大きく依存しており,それは中国固有思想に関わる部分に関しても同様であるが18,しかし,上に挙げたような儒道二教,または三教一致的立場に向けられた澄観の厳しい批判の文句も,「十條の異」も,宗密においては全く採用されておらず, 無視されているのである.そして,澄観の場合は,中国固有思想の概念や考え方を援用することはあっても,その価値を積極的に認めることについては否定的であったのに対して,宗密の場合は常にそれらの会通・融合が説かれる.たとえば,「普眼菩薩章」を解釈する部分には,

但破謬執万物生因,不責勤行五常道徳(『大疏』続蔵1-14-2、145a) とあり,彼らの万物の生因に対する間違った執着は破するが,その五常などの修行論は破さないとし,これを『大疏鈔』では

破執不破教,破解不破行.以教行是冶国養親忠孝之至道,修身慎禍仁讓之宗源.但破其病,不除其法(続蔵1-14-4、353c-d).

とまで述べている.そして,続いて儒教は戒律に資し,道教は禅那を助けるとして,儒教の五常と仏教の五戒を対応させたりする19.これは,現実世界における中国思想の道徳論・修養論を認めるもので,中国固有思想の「法」が肯定されており,仏教と中国思想との融和・妥協の姿勢が明確に示されたものといえよう.

仏教と中国思想との「和会」は,「弥勒菩薩章」を解釈する部分においても見られる.たとえば,『大疏鈔』では『大疏』の一段を注釈して,

第三和会内外二教不相違也〈由各執一,故見相違〉(続蔵1-14-5、421b).

とし,現実の人間存在を説明するのに中国の気の思想を導入して,既に引用したように,

心識有人畜等業,則託附陰陽之気,而為身也.謂識是正因,気是助縁.心識能知一切境,能作種種事.陰陽気則能成骨肉躯質(同上).

と述べる.これは仏教の心識説と中国の陰陽論に基づく気の思想の折衷ともいえるもので,単なる言葉・論理の上での形式的融合の段階を越え,具体的に思想の上にまでも融合が進んでいることを示すものと思われる.

このような宗密の立場は,最終的には三教の一致を唱えるものとなる.すなわち,『大疏鈔』は

則知三教皆是聖人施設,文異理符.但後人執文迷理,令競起毀誉耳(続蔵1-14-5、421c).

とし,三教はみな聖人によって施設されたものであって,それぞれの文言は異っていても説かれる真理は一致している,ただ後世の人々が,それぞれの文言にとらわれ真理に迷い,争って相手を毀謗したり自分の立場を誉めそやしたりしているだけである,というのである.むろん,このような立場の背後には,既に中国仏教において進んでいた中国固有思想への妥協や仏教の独自性の喪失の傾向の存在などか認められ,また当時の時代背景の影響も考えられるが,上述の態度は,三教一致・三教調和に対する宗密の立場を明確に示すものと解釈できる.また,これは他の宗教に対し仏教の正統性を放棄することのできない仏教者の立場から下し得る最大の評価ともいえる. 我々はここにおいて,特定のドグマによって他の宗教・他の宗派を異端として一言で片づけることなく,必ずしも自分の宗教的ドグマの聖域の中に留まることのみに頑なに執着せず,真実を求め,人間の精神性の高揚に向けて, 自分自身の精神を開放しようとする修行者としての宗密の姿を見るのである.さらに,我々は,宗密における仏教理解の一つのあり方をここに見るのであり,また仏教そのものにも単なる一宗教から普遍的な思想,世界観として開放される機縁かここに与えられたといえよう.

このように,少なくとも中国固有思想に対する澄観と宗密の態度は対対照的とも言えるもので,中国固有思想や三教一致的立場を強く警戒し否定した澄観に比べて,宗密の場合は中国固有思想と仏教との調和が強調され,固有の思想は单に批判・否定の対象ではなく,評価され,むしろそれらを自分の思想体系のもとに整合的に位置づけることが宗密にとっての重要課題であったともいえる20.では,両者の中国固有思想に対する認識の相違は何に由来するのであろうか.まずは,幼くして出家した澄観21と,二十代前半までに儒学を学んだ宗密22との中国思想学習経歴の相違を指摘できよう.宗教的立場としては仏教に身を置きながらも,宗密は自分の経歴からも,彼自身の内部において中国固有思想はそのすべてが直ちに否定・排除され得るものではなかったのである.これに対して,あくまでも純枠な仏教それ自体において真理を見出そうとした澄観にとっては,中国固有思想は最後まで否定されるべきものであったのである.その結果,宗密においては中国という場・現実と仏教との調和が試みられ,それに基づいて仏教の真のあり 方が追求されたのであろう.

宗密において「中国」という場が強く認識されていたことは,次の例によって指摘することもできよう.一つは,『円覚経』注釈書の「玄談」における「修証階差」において,宗密は中国の禅宗のことを全面的にとりあげ,もっぱら「中国」を問題としている.これは澄観の「玄談」と比較しても対照的といえる.二つは,いわゆる外道を論ずる場合において,中国固有思想が議論の中心となっていることである.たとえば,仏教内外の諸立場を論ずる中で,

然西域小乗外道,宗計甚多.此方既無,不煩叙破(『大疏』続蔵 1-14-2、144d).

とし,『大疏鈔』では,『成唯識論』やその『疏』などは,広く西域の十三外道や二十部小乗の見解を一つ一つ取りあげて論破し,それが百枚を越えているが,そのようなことはすへて無益であるという.というのも,病人に対しては,まず彼の病気を正しく判断し,その病気に合った処方をすべきであり,病気もないのに薬を飲んでも,かえってその薬が病気を引き起こすことになるからである23.そして,宗密は次のように述べる.

今大唐国,説計典教,与彼不同.彼所計者,此無其事,何必虚設.若廻此功夫,学大乗深経,自合解得一本要妙之法.今覚此弊,故不叙之(『大疏鈔』続蔵1-14-4、351d-352a).

すなわち,外道や小乗については,中国と西域とは事情が違っており,西域のそれらについて縷々虚しく述べるよりは,むしろそのような努力を大乗の経典について学ぶことに差し向けるべきである,いま自分はそのような弊害を自覚し,したがって西域の外道や小乗について述べることはしない,というのである.また,このような宗密の態度は,業報の根源に関する諸説を論ずる中でも,

此方無西域宗教故,不辨之也(『大疏』続蔵1-14-2、163a).

とし,中国の儒教と道教の教説を取りあげて論じているところにも現れている.

このような彼の態度は,中国または中国人という主体的観点から,印度伝来の仏教を客観的対象として相対的に捉えようとするものとも解釈できるが,いずれにせよ宗密においては,印度の外道や小乗などよりは「中国」のそれらをどのように理解し,自分の思想体系の中に取り込むかの問題が最も重要な課題の一つであったように思える.これは彼の教学の全般にわたってもいえよう.つまり,『円覚経』という偽経を軸にして自分の思想を構築していることは言うまでもなく,教禅一致的思想にしても,三教融合的思想にしても,基本的に問題の中心にあるのは「中国」である .「円覚思想」の思想史的意義も,ひいては中国仏教史・中国思想史における宗密・宗密思想の意義もこのような観点から再確認すべきではなかろうか.

3 おわりに

宗教としての仏教の立場からすれば,儒教や道教などの中国起源の思想はいうまでもなくいわば邪説・外道の説として批判・排撃されるべきものである.他方,仏教が思想的・文化的基盤を全く異にする「中国」という地において,「中国」の人によって理解され,展開されるに当たって,もとのインドの形がそのまま保たれるということは考えられず,何らかの形で相互の調和が図られるはずである.

これまでわれわれは,中国固有思想に対する宗密の批判と受容のあり方を見てきた.その捉え方に問題はあるにせよ,「道」「自然」「天命」「元気」などを基本に置く中国の宇宙生成論や世界観に対して, 空や業報・輪廻思想などを用いて批判したのは,仏教側からのものとしては概ね妥当といえよう.また,中国固有思想に対する融和的態度の具体例としての,鬼神や気に対する立場は,孝倫理の受容24をも含めて,われわれに一人の中国人としての宗密の人間像を想像させるものであると同時に,宗密にとって,ひいては中国人にとって仏教とは如何なるものであったかの問題をわれわれに考えさせるものである.

宗密における中国固有思想の捉え方の意義と問題点については,木村清孝[1989]の指摘に尽きよう.まず,意義に関しては,これまで見てきたように,宗密は中国固有思想に対して,場合によってはその思想を積極的に認め,澄観などとは違って,友好的・調和的態度を示しており,これは宗密思想の大きな特徴の一つとなっている.木村清孝 [1989:117]はこれを「当時の宗教界・思想界の人びとにそれぞれの偏狭な立場を目覚めさせ,優れた宗教ないし思想が開示しようとする大きな真実の世界へ改めて目を向けさせた」と評価している.次に,宗密における儒道二教の捉え方の問題点に関していえば,池田知久[1993:31]の指摘のように,「道家の存在論が最終的に目指すところは, 一種の人間疎外からの解放,あるいは主体性の獲得にあった」のであり,このことから考えても儒道教の存在論や宇宙生成論に対する宗密の理解は必ずしも適切なものとは言えず,これを,木村清孝[1989:118] は「儒道二教は,極めて概括的で単純化されており,たとえば儒教がもつ「仁」や「愛」の倫理的な奥行きの深さ,道教が重んずる人間の生き方の自由さなどはほとんど切り捨てられている」,これは「仏教の本質を見失わせるばかりではなく,儒道二教の本来の意義をも覆い隠してしまう怖れがある」と指摘している.

こうした問題を宗密の仏教理解の内容との関連で見ていくならば,宗密においては「中国」という場が極めて強く意識されているといえる.そして,その結果,たとえば「実在論」的考え方を認めるような,いわゆる仏教の「中国化」が一層進められたといえよう.現実に対して否定的なインド世界に対して,中国ではもともと現実に対して肯定的に考える傾向が強く,その中における個人の精神性の向上や社会的倫理の問題などに対する考察か深められていた.したがって,そのような精神風土の中での中国仏教は,当然このような問題を常に意識し,またそれと関連して展開され,結果的には中国人の思考を深化することに貢献し,諸中国伝統思想の宗教化を進めることにも影響したことは一般に言われるとおりである.中国仏教は中国固有思想の土壌あってのものであり,中国の民族・風土・歴史の上に発展し,その機能を発揮してきたものであって,その具体的条件を離れてはそれを理解す ることも批判することも困難である.中国における仏教受容の初期段階に,仏教教理を思想類型の全く異る中国古典との類比において理解しようとした「格義」という教理解釈法が行われたが,これに対しては釈道安などの批判が行われ,格義的仏教理解は一応その歴史的使命を終えたといえる.しかし,中国仏教は一方では,その本質において終始,広い意味でのいわば格義的な仏教であり続けたともいえるのであって25,我々は宗密の仏教理解のあり方を前にしてそのことを改めて思い起させられるのである.宗密以後,中国においては仏教の中国化の最終的帰着点ともいうべき禅仏教の時代に入っていく.

Footnotes

1 『大疏』続蔵1-14-2、144b-145b参照.

2 以上,『大疏』続蔵1-14-2、145aによる.

3 『大疏』続蔵1-14-2、145a,及び『大疏鈔』続蔵1-14-4、352d参照.

4 宗密は「若法能生必非常者,如地水火風四大種能生一切,而四大亦無常.応立量云,自然大道決応非是常,是能生故.如地水等」(『大疏鈔』続蔵1-14- 4、352d)とし,他を生ずる法は,それ自身必ず他に従って生ずるのであり,したがって,もしも「道」がよく万物を生むならば,その「道」もまた恒常的なものではない,という.そしてさらに「問.若爾,仏教中真如,能生一切,応亦非常.答.無明為因,生一切染,悟修為因,生一切浄.故無明如夢中人醒不可得,修証無別始覚之異,皆是無常.真如非能生,能生但随縁.応現所現染浄始終皆空故,真如元来不変,是常住也.道教都無此義」(同、352d-353a)とし, 仏教教理との対比によって自分の解釈の正当性と,仏教の優越性,すなわち儒道二教における「道」などの根源的実在の空・無常性に対して「真如」の常住性を主張する.

5 以下,『大疏』続蔵1-14-2、163a-dによる.

6 若稟気而欻有,死後気散而欻無,則誰為鬼神,而霊知不断乎(『大疏』続蔵1-14-2、163c)

7 今有鑑達前生,追憶往事,則知生前相続,非稟気欻有.又験鬼神霊知不断, 則知死後相続,非気散而欻無(『大疏』続蔵1-14-2、163c-d)

8 続蔵1-14-5、418b-421aを参照.なお,割り注の内容は,『大疏鈔』によると順に,鮑静は李家の子供の生まれ変わりで,雲諦は弘覚の生まれ変わりであったということ,そして晋の羊祐という人が前世の持ち物であった指環の落とし場所を乳母に指示し,それを探し出させたということ.

9 続蔵1-14-5、420d-421a.

10 中国における三気説,四始説,五運説などの気に基づく生成論の中でも,宗密は五運説を挙げ「既於一気中,転有五故,云始於一気」という(『大疏鈔』続蔵l-14-5、206b-c)

11 また『大疏』では「儒道二教,説人畜等類,皆是虚無大道生成養育.謂道法自然,生於元気.元気生天地,天地生人畜万物」としている(続蔵1-14-2、163a).

12 なお,池田知久 [1996:207] は中国の生成論を説明する中で,『老子』になる と,本格的な宇宙生成論を見出すことができるとし,これらの『老子』の文や 『周易』の文を中心に論じている.

13 以上,続蔵1-14-3、206bによる.

14 福永光司 [1978:236-239] を参照.

15 なお,中国固有思想における道と気の関係をめぐって,麦谷邦夫 [1978:268- 269] は魏晉南北朝期の道家における気の概念を考察し,王弼・郭象・張湛などと違って「『河上公注』では気が頻出し,『老子』の哲学を気で一貫して解釈しようとする態度が顕著である」とし,『河上公注』では「繰り返し万物と道とが気を媒介として密接に結びつけられており」,またこの気は「元気と同一である」とした上で,「道が始元的な元気を吐出し,そこに万物が自生自化するというのが『河上公注』の生成論なのであろう.この道-元気-万物という生成論は,すでに後漢までに一応の完成をみた宇宙生成論を援用したものであり,これは同時に道教の生成論でもあった」という.

16 宗密は基本的に道を「無」・「虚無」と捉える.

17 『大疏』続蔵1-14-2、138c-139bを参照.

18 『華厳経疏』(大正35、521b)と『華厳経随疏演義鈔』(大正36、103b-107a) を参照.

19 『大疏鈔』続蔵1-14-4、353d参照.

20 中国固有思想に対する澄観の捉え方については嫌田茂雄[1965]を参照.ただし「澄観の儒道批判を継承し,さらに強力に展開したのは,華厳宗の第五祖宗密であった」(283頁)とする見解には疑問が残る.

21 拓本『妙覚塔記』(鎌田茂雄[1965] 図版第三)によると,九歳のときに仏門に入ったことが知られる.

22 『大疏鈔』における自伝には「即七歳乃至十六七為儒学.十八九二十ー二之間,素服荘居,聴習経論.二十三又却全功,専於儒学.乃至二十五歳,過禅門,方出家矣」(続蔵1-14-3,222b)とある.

23 『大疏鈔』続蔵1-14-4、351d参照.

24 岡部和雄[1967]および木村清孝[1970]を参照.

25 格義仏教をめぐる諸問題については丘山新 [1996:24-28] を参照.

References
 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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