2022 Volume 21.22 Pages 40-62
「三十七菩提分法」類1に関する研究はこれまで累々にわたって行われてきた2.その中で,パーリ文献を中心に網羅的に三十七菩提分法を精査したGethin[2001]の研究は傑出している.漢訳文献の情報は主にLamotte[2001]などに依拠するに留まったことは,何らその業績を損なうものではない.その後の「初期仏教」における三十七菩提分法に関する研究が,結局はGethinの成果をリフレイズするにすぎないことがその傑出さを示していると言えよう.とはいえ,残念ながらGethinの方法論に全面的に賛同することは難しい.そこには,本稿で論ずるような根本的な欠陥がある.
現存する仏教文献の大半は,大乗に属するものを除けば,何らかの形で大寺派あるいは説一切有部の影響が指摘されうるものである3.したがって,初期仏教,及び部派仏教の分析を,前–部派的な観点あるいは超–部派的な観点4から取り組む際に,それら特定部派の影響下にある文献から始めることは研究過程において避けては通れないことだ.しかし,だからと言ってそれらの文献に現れる事態がインド仏教に一般的であったわけでは決してない.ごく当たり前な事実であるが故に,動もすれば意識下に沈殿してしまう.本稿のテーマに即していえば,主に大寺派と説一切有部に伝承されたと思われる5,七グループ三十七法6からなる三十七菩提分法は唯一絶対なものである,と理解されることが多い.あるいは,それすら意識されないことが多いかもしれない.然るに,事実は全くの逆で,七グループ三十七法からなる三十七菩提分法は数多くあった「三十七菩提分法」類に属する伝承の中の一つにすぎないのである.ところが,大乗に属するものを含めて,現存する文献の大半で三十七菩提分法が説かれるため,あたかもそれのみが正統的な伝承であったかのごとく捉えてしまう.そうすると,本来は考察の幅を広げるべきところを,三十七菩提分法のみを視野に入れ大寺派・説一切有部所伝の文献を分析し,それのみから結論を導いてしまう.加えて,ここにはさらにもう一つの欠陥がある.まず,馬場[2018: 79]が指摘するように,現形の阿含・ニカーヤの下限年代は四世紀から五世紀に設定され,現段階で結集仏典の原形の成立がどの年代まで遡るのかを絶対年代で指摘することはできない.さらに,辛嶋[2015]が『十上経』の分析から導いたように,「現存するニカーヤ/スートラ/阿含経が,必ずしもアビダルマ・テキストより古いとは限らない」のであり7,すなわち阿含・ニカーヤと雖も部派の影響を逃れ得ていない.この観点からすれば,Gethin[2001]が取った方法は,三十七菩提分法という「特殊な」概念が成立した部派における,その形成を通じて改変された恐れのある文献群を調査して三十七菩提分法を分析する,といったある種トートロジカルなものとなってしまう.この誤謬を超克するためには,「三十七菩提分法」類の伝承が多元的であることを認識し,三十七菩提分法以外の伝承及びその背景をも考察の対象に加えて比較していかなければならない.よって,本稿ではとりわけ前者,すなわち「三十七菩提分法」類の伝承が多元的に存在し,インド仏教の歴史的展開においては決して三十七菩提分法の単一な伝承のみではなかったことを論じる.さらに,後者に向けた橋渡しとして,Gethin[2001]では曖昧にしか示されなかった,七グループ三十七法が列挙されるに留まっていた時期から,一つの術語として捉えられ始めたその下限年代を提示する.以上の論点を明らかにすることで,本稿が「三十七菩提分法」類研究の新たな前提となることを期待する.
本節では,従来の研究で単一的に捉えられてきた「三十七菩提分法」類に対して,伝承は多元的に併存していたことを指摘し,従来的な理解の刷新を図る.まず,周知の事実として,先行研究が示すように8,大寺派所伝の経・律文献においては一貫して「四念処(cattāro satipaṭṭhānā),四正勤(cattāro sammappadhānā),四神足(cattāro iddhipādā),五根(pañcindriyāni),五力(pañca balāni),七覚支(satta bojjhaṅgā),八聖道(ariyo aṭṭhaṅgiko maggo)9」が定型句として伝承されている.さらに漢訳で伝わる『中阿含10』,『雜阿含11』,『增壹阿含12』,『十誦律13』,「根本説一切有部律14」においても一貫して「四念処,四正断15,四神足,五根,五力,七覚支,八聖道16」という大寺派所伝と同一の定型句が現れる17.これらの文献は伝持部派が不明な『增壹阿含』を除いて18,すべて(広義の)説一切有部に帰属する19.以上から,七グループ三十七法が説一切有部と大寺派で定型句として伝承されていたのは明らかだ.
一方,法蔵部に属するとされる『長阿含20』と『四分律21』では七グループ三十七法に四禅を加えた「四念処,四正断,四神足,四禅,五根,五力,七覚支,八聖道」からなる八グループ四十一法が定型句として伝承されている22.さらに,支謙訳『般泥洹經23』(T6)においても同じ定型句が現れる(以下,傍線筆者).
四念処,四正断,四神足,四禅,五根,五力,七覚支,八聖道.24
また,ガンダーラ写本に目を転じると,Glass[2007]が示すように,ガンダーラ写本のSenior Collection中に見られる雑阿含に対応するテキスト25においても同様に四禅を加えた八グループ四十一法が列挙されている26.
四念処,四正勤,四神足,四禅,五根,五力,七覚支,八聖道.27
このように八グループ四十一法の定型句は二世紀の写本(ガンダーラ写本),三世紀の漢訳(『般泥洹経』),五世紀の漢訳(『長阿含』『四分律』)に認められる.説一切有部や大寺派の文献には見出せないものの,少なくとも法蔵部に伝承されていた.三十七法の定型句に並んで,一定程度広まった定型句だったのである.
以上,北伝に属する文献を見たが,南伝の大寺派により伝持された文献にさえ,七グループ三十七法から外れる法の列挙が見られる.大寺派の伝統で蔵外経典(paracanonical text)に分類される,Milindapañhaに注目すると,漢訳と対応する古層において28変則的な法の列挙が見られる.
根・力・覚支・道支・念処・正勤・神足・禅・解脱・定・等至.29
これらが四念処であり,これらが四正勤であり,これらが四神足であり,これらが五根であり,これらが五力であり,これらが七覚支であり,これらが八聖道であり,これが止であり,これが観であり,これが明であり,これが解脱である.30
この二箇所では,両者間で揺れのある四法が七グループに追加され,加えて,前者ではグループの列挙の順番が非常に乱れていることがわかる.
法の列挙に注目すると,上のような結果が得られるが,さらに菩提分法と称されるものの数に注目すると,別の伝承も浮かび上がる31.まず,先行研究も示すように32,Nettipakaraṇaには「四十三菩提分法(tecattalīsaṃ bodhipakkhiyā dhammā)」が示される33.本文中には,この「四十三菩提分法」が何を指示するのか示されないが,DhammapālaによるNettipakaraṇaに対する注釈では,いわゆる七グループ三十七法に六想が加えられている.
四十三菩提分法とは,無常想,苦想,無我想,断想,離貪想,滅想,四念処 … 八聖道,というこれらが四十三菩提分法である.34
Dhammapāla自身は如何なる伝承に基づくのか明らかにしておらず,詳細はわからないが,本文中に何ら説明がないことから少なくともNettipakaraṇaを作成した集団には膾炙した術語であったことが窺える35.Nettipakaraṇaはブッダゴーサも引用していることから36,上に引用した記述の下限年代は五世紀初頭である37.
次に,『大毘婆沙論』及び『順正理論』には「四十一菩提分法」の伝承が言及されている.
『大毘婆沙論』
分別論者は四十一菩提分法を立てる.すなわち,四聖種を三十七〔菩提分法〕に加えるのである.38
『順正理論』
どうして菩提分法(覚分)は〔四〕聖種を含まないのか.分別論者は菩提分法が〔四聖種を〕含んでいることを認める.したがって,彼らは四十一菩提分法を設定する.39
このように,分別論者40が七グループ三十七法に四聖種(P. ariya-vaṃsa)41を加えて八グループ四十一法としている,とする説明が加えられている42.ここで示した『大毘婆沙論』の記述は『阿毘曇毘婆沙論』においても見えることから,その記述内容は五世紀初頭まで遡る43.
以上により,「三十七菩提分法」類に関する伝承が多元的に存在していたことは明白である.引用した各文献の下限年代を考慮に入れると,遅くとも五世紀初頭には「説一切有部及び大寺派に伝承された七グループ三十七法=三十七菩提分法」,「主に法蔵部に伝承された四禅を加えた八グループ四十一法」,「Milindapañhaに現れる変則的な四十一法」,「Nettipakaraṇaに見られる六想を加えた四十三菩提分法」,「分別論者に伝承された(と思われる)四聖種が加わる四十一菩提分法」の五つの伝承が並び立っていた.さらに,この五つの内のいくつかは二世紀頃まで遡ることが可能である.したがって,「三十七菩提分法」類に関する伝承はかなり早い時期から伝承者グループ間で固定されず,多元的であったのだ.そうであれば,法の列挙からそれらを一つの術語として捉える動きはいつ生じたのか.次節で考察する.
Lamotte[2001: 924–938],Gethin[2001: 14]がすでに指摘するように,現存する阿含・ニカーヤの範囲では,『增壹阿含』(T125)を除いて,法の列挙を一つの術語として捉えることはない.それではいつ頃に生じたのだろうか.Gethin[2001: 14, 21, 303]は蔵外経典(post-canonical Pāli literature)において三十七菩提分法として成立したと述べ,パーリ文献における相対年代しか論じない.その結果,パーリ三蔵に述語としての三十七菩提分法が存在しないことは分かっているものの,術語の成立時期については不明なままである.
しかしながら,Gethin[2001]が参照しなかった,蔵外経典に対応する漢訳を分析するならば,興味深い結論が導き出せる.まず,既に言及したMilindapañhaに注目すると,この文献は先行研究が指摘するように44,漢訳と対応する古層と対応のない新層に分けられる.Milindapa-ñhaにおいて七グループ三十七法の列挙がされ,三十七菩提分法と称される箇所は全て漢訳に対応のない新層に属する章において現れる.この新層部分の成立は,新層と目される章の多くが広範囲に渡ってパーリ注釈文献に引用されることから45五世紀は下らないことは明白で,古層に至ってはより古いことは疑い得ない46.一方,漢訳『那先比丘經』(T1670A, B)に注目すると,大正蔵において東晋の成立とされているが,その訳語を閲するに,より一層古いことは明確である47.先に「変則的な四十一法」が列挙されているとして引用した箇所はともにこの古層部分に属する.その対応する漢訳を確認すると48,パーリテキストで示した順に「有四意止,有四意斷,有四神足,有五根,有五力,有七覺意,有八種道行49」と「三十七品經50」とあり,明らかに法の列挙から術語として捉える段階に移っていたことが窺えるが,とはいえ,正確な年代を把握することはこのままでは難しい.そこで,次にPeṭakopadesaに注目すると,Peṭakopadesaの第六章Suttatthasamuccayabhūmiには,それに対応する漢訳として安世高51訳『陰持入經』が存在し52,以下の対応する箇所を見出すことができる.
そのうち,三十七菩提分法とは何か.四念処から八聖道までの,このようなこれらが三十七菩提分法である.53
また「三十七品經法」がある.すなわち,四念処,四正断,四神足,五根,五力,七覚支,八聖道である.これらを「三十七品經法」とする.54
このように,この箇所でも明確に法の列挙を術語として捉えることが行われている.したがって,遅くとも安世高の時代(すなわち,二世紀中葉)には七グループ三十七法を固定して,それを概念化する動きが生じていたことは疑い得ない.
ここで一つ問題にしたいのが安世高訳に現れる「三十七品經法」である.これまでこの訳語に,あらゆる研究者がSuttatthasamuccayabhū–miとの比較から,パーリ語のsattatiṃsa bodhipakkhikā dhammā を対応させてきた.つまり,安世高の見ていたテキストにはbodhipakkhikāに相当する原語が存在していたことを疑っていない.しかし,安世高訳55の特徴を具に検討していくと,俄然,そうは言えない可能性が浮上してくる.「三十七品經法」という訳語において,まず「經法」についてはZacchetti[2004]が主張するようにdhammaに当たる原語の訳語で問題ないと思われるが,注意すべきは「品」である.一般に,安世高訳における「品」の意味はVetter[2012]が指摘するように「種類,分類」といった程度の意味しかない.実際に,安世高の訳文中に現れる「品」の用法を挙げると,高々二種ほどである56.すなわち数を表す語の次に用い数の種類を表す用例57,あるいは章名の末語58として,である59.この場合,「三十七品經法」の用例は前者に当てはまり,素朴に訳語を見ると単に「三十七種類の法」程度のニュアンスのみを意味しうるように思われる60.加えて,仮にboddhipakkhiyāに相当する語があるとして適当な語がなかったため訳さなかった,というのは根拠としては弱い.なぜなら,bojjhaṅgaに対応する語の訳語として「七覺意」と訳しており,少なくとも「覺」の語は訳語として使えたはずである61.以上から推し量るに,安世高が見ていたテキストにsattatiṃsa bodhipakkhikā dhammāに対応する原語がなかった可能性が生じうる.したがって,安世高訳をもって,あらゆる面から疑いなく確定されることは,七グループ三十七法が概念化される下限年代が二世紀中葉頃である,という事実である.
以前にも,先行研究の中には三十七菩提分法以外の伝承に言及するものがあった.何より,Gethin[2001]自身も上述のうちの,大半には言及していた.しかし,結局はその他の伝承に焦点を当てることはせず,現存資料上で支配的であるという事実に引き摺られる形で,大寺派及び説一切有部の伝承を中心としてしまい,その他の伝承を考慮に入れ,それらの伝承の(現存資料から知りうる限りの)全体像を示すまでには至らなかった.第二節で示したように,遅くとも五世紀初頭の段階で伝承は五種類存在し,かつ,その多くは下限年代をさらに遡ることが可能で,早い時期から一貫して多元的に展開されていたのである.
さらに,第三節で安世高の訳経を導入することで,パーリにおいては相対年代でしか捉えることができなかった概念化の時期を絶対年代で捉え直したが,その絶対年代は「三十七菩提分法」類が多元的に伝承されていたことが認められる時期と下限年代をほぼ同じくする二世紀頃であった.この下限年代は,漢訳年代あるいは注釈年代から特定される阿含・ニカーヤの下限年代よりも大幅に遡ることが可能で,そこから判断するに,現存の阿含・ニカーヤが既に行われていた概念化の影響を受けていない,とは言い切ることができない62.この問題は,初期漢訳経典やガンダーラ写本といった下限年代を遡って置くことができる資料を活用しつつ,一つの伝承に終始せず,複数の伝承を網羅的に調査せずには解決され得ない.Zacchetti[2002a]の卓越した成果やガンダーラ写本の情報にアクセスできなかったとはいえ,やはりこの点がGethin[2001]には欠けていた視点であったと言えるが,管見するに,これは「初期仏教研究」と銘打つ多くの研究に共通する課題であるように思われる.アクセス可能な情報が増える現在において,単一の伝承にのみ依拠した「初期仏教研究」は客観的正しさを保つのが難しい時代になりつつあると言えるだろう.
1 本稿では,玄奘訳などで三十七菩提分法と訳される概念に言及する際,原則として玄奘訳の三十七菩提分法,あるいはパーリ語(以下P.)のsattatiṃsa bodhipakkhiyā dhammāで提示することでそれを示す.そして,本稿で論じる,七グループ三十七法からなる三十七菩提分法以外の,例えば四十一菩提分法や四禅を加えた四十一法の列挙などを含めた広義の概念として「三十七菩提分法」類という呼称を用いる.また,特定の文献上に見られる形を明示したい場合は,その文献上に見られる形で示す.
2 例えば,田中[1993],池田[1997],齋藤[2007],Lamotte[2001: 924–938],Gethin[1992(2001)](以下,Gethin[2001])など.
3 近年,ガンダーラ写本研究の成果を中心として,特に紀元前後頃の「部派」に関する理解が一新されつつある(Cox[2009], Salomon[2018: 322–324]などを参照).しかし,本稿では伝承の多元性を示すことを目的とするため,便宜的に既存の部派理解に依拠した形で論を展開する.筆者の理解としては,以下に提示するような形が即座に歴史的な展開に還元されるような,すなわち固定的な部派ごとに画一的に伝承の棲み分けがなされていたとは考えていない.
4 この表現はCox[2009]における,部派中心アプローチ(“school-centered” approach)と争点中心アプローチ(“issue-centered” approach)を念頭においている.
5 第二節で論ずる.
6 四念処,四正勤,四神足,五根,五力,七覚支,八聖道のこと.以下でも,三十七菩提分法に含まれる各グループに言及する際は,特定の文献上に現れるかたちに言及する場合を除き,基本的にこの用語で統一する.
7 合わせて,Karashima[2014],馬場[2008: 196–203]も参照.
8 Gethin[2001: 229]によると,七グループ三十七法の列挙は比較的遅く成立したと考えられるNiddesaとPaṭisambhidhāmaggaを除けば,パーリの経と律では計七十四回が数えられ,パラレルな箇所を加味すると二十七の場合に分けられるという.この数え上げについては疑問の余地が残る.本稿ではNiddesaとPaṭisambhidhāmaggaをも加えるが,本稿で取り上げるのは定型句の形として抽出できる場合に絞るため,七グループが説かれる箇所のうち,各グループ間に別の語が加えられることなく一続きに列挙され,かつ一連の法の列挙の一部を為す場合を除くものである.
9 Vin Ⅱ 240, Ⅲ 93, Ⅳ 26. DN Ⅱ 120, Ⅲ 102, 127–128. MN Ⅱ 238–239, 245. AN Ⅳ 125,126, 127, 203. Ud 56. Nidd Ⅰ 132, 143, 212, 338, 343, 345, 455–456, 481, 509–510. Paṭis Ⅱ 56, 166. Mil 330, 335. Peṭ 114.
10 T26, 1. 476c20–21, 476c23–25, 479a18–19, 479a21–22, 753c6–7.
11 T99, 2. 14a7–8, 19c5–6, 176c14–15, 186c8–9, 188b26–27. Chung[2008]を見ると,例えば,T99, 2. 14a7–8に関して対応するサンスクリット写本が見つかっており,そこでは「catvāri smṛtyupasthānāni catvāri samyakpradhānāni catvāra ṛddhipādāḥ paṃcendriyāṇi paṃca balāni sapta bodhyaṃgāny āryāṣṭāṃgo mārgga」となっている(Chung[2008: 65–66, 329]).
12 T125, 2. 561b21–22.
13 T1435, 23. 239c28–29, 240a1–2, 322a3–4, 322a5–6, 322a20–21, 322a23–24.
14 『根本説一切有部毘奈耶藥事』:T1448, 24. 31c2–3, 31c14–15, 31c18–19. 『根本説一切有部毘奈耶雜事』:T1451, 24. 290a2–3, 387b5–6, 388c18–19.
15 パーリに見られる形と対応する漢訳語は「四正勤」となるが,漢訳文献では「四正断」と訳されることもしばしばある.これはサンスクリット文献においてsamyakprahāṇaと理解されていることに基づいている.本稿では,「四正断」で統一して示す.詳しくはGethin[2001: 69–72]を参照.
16 各文献間で訳語に若干の異同はあるが指示対象は同じである.
17 Lamotte[2001: 924–938]を参照.漢訳文献に関してもパーリ同様に,各グループ間に別の語が加えられることなく一続きに列挙され,かつ一連の法の列挙の一部を為す場合を除くものを挙げる.
18 『增壹阿含』には説一切有部の影響があることが水野[1996: 415–471],平岡[2007][2008]によって指摘されている.尤も,少なくとも筆者の意図としては帰属部派を説一切有部と主張するわけではない.帰属部派に関する近年の論考としてはKuan[2013]を参照.
19 『十誦律』と「根本説一切有部律」と説一切有部との関係は言を俟たないだろう.『雜阿含』の伝持部派に関する議論は榎本[1980][1984],水野[1996: 341–356, 357–414],平岡[2003]を参照.『中阿含』の伝持部派に関しては榎本[1980][1984],水野[1996: 357–414, 415–471]を参照.
20 T1, 1. 16c10–11, 74a14–15, 76c29–77a1. ただし,T1, 1. 74a14–15においては四正断,四神足の順番が逆になっている.
21 T1428, 22. 1013c1–2.
22 Glass[2007: 35]は,『中阿含』(T26, 1. 805c12–807a1)においても四禅が加えられた形で法が列挙されているとする.しかし,当該箇所は定型句となっていない上に,八聖道の後にさらに十遍処と十無学法とが加えられており,この点から見ても『長阿含』や『四分律』における定型句と同列視することは困難である.
23 Park[2008]によると,『佛般泥洹經』(T5)と『般泥洹經』(T6)は支謙あるいは支謙の訳経グループにより訳されたが,『般泥洹經』は後世の潤色が見られるとする.Nattier[2008: 126–128]は『般泥洹經』に関する議論のみ支持する.この内,後者においてのみ,本稿が対象とする法の列挙が見られる.パーリ対応経やサンスクリット対応経及び他の漢訳対応経にも法の列挙が説かれるが,それらは七グループ三十七法の列挙であることから(Bareau[1963: 202],Gethin[2001: 231–232]を参照),この箇所は支謙の見た原文にあったことが予想される.
24 T6, 1. 181b8–9: 四志惟,四意端,四神足,四禪行,五根,五力,七覺,八道諦.
25 Glass[2007: 4–5]によると,ここで引用するガンダーラ写本の年代は130~ 140年と推測されている.
26 Glass[2007: 34–35]を参照.また,Glassはガンダーラ写本が見つかった壺に法蔵部の名称が見られること,及び三十七法に四禅が加えられたかたちで列挙されていることから,漢訳『長阿含』や『四分律』を伝持したと思われる法蔵部との関係を示唆している.
27 cadoṇa spadoṭhaṇaṇa cadoṇa samepasaṇaṇa cadoṇa hirdhaupadaṇa cadoṇa jaṇaṇa pacaṇa idriaṇa pacaṇa balaṇa sataṇa begagaṇa ariasa aṭhagiasa magasa. (Glass[2007: 137–138]).
このうち,cadoṇa spadoṭhaṇaṇaはcattāro satipaṭṭhānā (P.)に,cadoṇa samepasaṇaṇaはcattāro sammappadhānā (P.)に,cadoṇa hirdhaupadaṇaはcattāro iddhipādā (P.)に,cadoṇa jaṇaṇaはcattāro jhānā (P.)に,pacaṇa idriaṇaはpañcindriyāni (P.)に,pacaṇa balaṇaはpañca balāni (P.)に,sataṇa begagaṇaはsatta bojjhaṅgā (P.)に,ariasa aṭhagiasa magasaはariyo aṭṭhaṅgiko maggo (P.)にそれぞれ対応している.
28 詳しくは第三節で述べる.
29 Mil 33: indriyabalabojjhaṅgamaggaṅgasatipaṭṭhānasammappadhānaiddhipāda-jhānavimokkhasamādhisamāpattīnaṃ.
30 Mil 37: ime cattāro satipaṭṭhānā, ime cattāro sammappadhānā, ime cattāro iddhipādā, imāni pañcindriyāni, imāni pañca balāni, ime satta bojjhaṅgā, ayaṃ ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, ayaṃ samatho, ayaṃ vipassanā, ayaṃ vijjā, ayaṃ vimutti.
31 北伝・南伝を問わず,「七菩提分法」という伝承,すなわち「菩提分法=七覚支」とする伝承がいくつかの文献に見られ,Gethin[2001]を始め,先行研究でも屡々指摘されている.
32 cf. Bronkhorst[1985], Gethin[2001: 273–274], Glass[2007: 35].
33 Nett 112: Tattha uccheda-sassataṃ samāsato vīsativatthukā sakkāyadiṭṭhi, vitthārato dvāsaṭṭhi diṭṭhigatāni. tesaṃ paṭipakkho : tecattālīsa bodhipakkhiyā dhammā aṭṭha vimokkhā, dasa kasiṇāyatanāni.
「そのうち,断滅・常住〔論〕は要約すると二十の有身見であり,詳細に言えば六十二の悪見である.これらの対治が四十三菩提分法であり,八解脱であり,十遍処である.」
34 Nett-a 237: Tecattālīsaṃ bodhipakkhiyā dhammāti aniccasaññā dukkhasaññā anattasaññā pahānasaññā virāgasaññā nirodhasaññā cattāro satipaṭṭhānā…pe… ariyo aṭṭhaṅgiko maggoti ete tecattālīsaṃ bodhipakkhiyā dhamma.
35 NettipakaraṇaとPeṭakopadesaの先後関係がこれまで論争されることがあった(水野[1997: 141]を参照).後に述べるが,Peṭakopadesaでは三十七菩提分法であり,Nettipakaraṇaの四十三菩提分法とは異なっている.したがって,そもそも背景となった部派の違い,あるいは章ごとに背景とする部派が異なった可能性などを考慮に入れることで,新たな知見が得られるのではないかと思われる.
36 森[1984: 86–91]を参照.
37 興味深いことにNett中には,菩提分法を七グループ三十七法としていると思われる箇所が存在する.Nett 31: Catūsu satipaṭṭhānesu bhāviyamānesu cattāro sammappadhānā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti. Catūsu sammappadhānesu bhāviyamānesu cattāro iddhipādā bhāvanāmāpāripūriṃ gacchanti. Catūsu iddhipādesu bhāviyamānesu pañcindriyāni bhāvanāpāripūriṃ gacchanti. Pañcasu indriyesu bhāviyamānesu pañca balāni bhāvanāpāripūriṃ gacchanti. Pañcasu balesu bhāviyamānesu satta bojjhaṅgā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti. Sattasu bojjhaṅgesu bhāviyamānesu ariyo aṭṭhaṅgiko maggo bhāvanāpāripūriṃ gacchati. sabbe ca bodhaṅgamā dhammā bodhipakkhiyā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti . Kena kāraṇena? Sabbe hi bodhaṅgamā dhammā bodhipakkhiyā neyyānikalakkhaṇena ekalakkhaṇā. Te ekalakkhaṇattā bhāvanāpāripūriṃ gacchanti. (四念処が修習されると,四正勤は修習が円満する.四正勤が習修されると,四神足は修習が円満する.四神足が習修されると,五根は修習が円満する.五根が修習されると,五力は修習が円満する.五力が修習されると,七覚支は修習が円満する.七覚支が修習されると,八聖道は修習が円満する.そして,一切の菩提の支分である諸法,菩提分は習修が円満する.どうしてか.なぜなら,一切の菩提の支分である諸法,菩提分は出離を特徴とするものとして同一の特徴を持つものであるからである.それらは同一の特徴を持つことから,習修が円満するのである.)このように,ここでは七グループ三十七法からなる菩提分法を想定しているように思われるが,少なくとも三十七菩提分法という術語は採用されていない.佐藤[1996] ,Zacchetti[2002b: 71–72] を参照.
38 T1545, 27.499a14–15: 分別論者立四十一菩提分法.謂四聖種足三十七.
39 T1562, 29. 730a19–21: 何緣覺分不攝聖種?分別論者許覺分攝.故彼宗建立四十一覺分.
40 『大毘婆沙論』に見られる「分別論者」が何を意味するのかは,過去の先行研究においても決着を見ていない(木村[1937: 347–388],Bareau[1955: 167–180],印順[1968: 408–468],静谷[1978: 139–140]など).しかし,木村[1937: 347–388]で多角的に考察され導かれた,分別論者説として言及される内容は特定の部派に帰されるものではないという主張は,Cox[2009]が示した結論と一致し,八十年以上前の研究でありながら,今なお最先端の知見を提出している.この木村の主張の根拠として挙げられたものの中に,分別論者の四十一菩提分法説は入っていないため,ここに加えて木村説を支持したい.また,「分別論者」と関係があると思われる,『大毘婆沙論』に見られる「大衆部」に関してDessein[2009]の研究がある.
41 四聖種(P. ariyavaṃsa)についてはAN Ⅰ 27–28及び『中阿含経』(T26, 1. p. 563b27–c11)に説かれる.馬場[2018: 3(L)]を参照.
42 Bareau[1955: 174],Lamotte[2001: 925],Gethin[2001: 276]を参照.
43 T1546, 28. 366b7–8: 問曰:聖種何故不立助道法耶?答曰:亦有立者.如毘婆闍婆提説:有四十一助道法.
「問う「〔四〕聖種はどうして菩提分法(助道法)として挙がらないのか.」答える「〔四聖種を菩提分法として〕挙げる者たちもいる.毘婆闍婆提(Vibhajyavādin)が,四十一菩提分法がある,と説くように.」
44 中村・早島[1963],水野[1996: 185–243]など.
45 cf. Mori[1997].
46 水野[1996: 240]はシンハラ語による古注釈との関係から紀元前一世紀頃には成立したとみる.
47 詳細は水野[1996: 188–207]を参照.水野は後漢の成立であると見る.
48 ここでは便宜上,漢訳をB本に沿って挙げる.
49 T1670B, 32. 707c21–23.この前後にこれらの七グループ三十七法が「三十七品經」であるとされる.
50 T1670B, 32. 708b6–7.
51 デレアヌ[1993],Deleanu[1997]は安世高を瑜伽師系の説一切有部に属していたと推定する.
52 cf. Zacchetti[2002a].
53 Peṭ. 114, 17–19: Tattha sattatiṃsa bodhipakkhikā dhammā katame? Cattāro satipaṭṭhānā yāva ariyo aṭṭhangiko maggo, evam ete sattatiṃsa bodhipakkhikā dhammā.
Cattāro satipaṭṭhānā yāva ariyo aṭṭhangiko maggoに含まれるものは,その直後に四念処,四正勤,四神足,五根,五力,七覚支,八聖道の各グループの説明が加えられるため,これらを指すのは間違いない.
54 T603, 15.173c24–26: 亦有三十七品經法:四意止,四意斷,四神足,五根,五力,七覺意,賢者八種道𧗪.是為三十七品經法.
55 安世高訳の訳者問題はNattier[2008],Zacchetti[2010]による.
56 大正蔵に収載される『佛説大安般守意經』は安世高訳であると判断できないため除外する.また,金剛寺で見つかった『安般守意經』及び『十二門經』では,「品」の用例は見られない.落合ほか[2004: 183–203],Zacchetti[2003][2004a][2004b][2008],Deleanu[2003]を参照.
57 この用例は「三十七品經法」に使われる例を除けば『普法義經』(T98, 1. 922b20–29)の一回,『七處三觀經』(T150A, 2. 878b2–5)の一回,『陰持入經』(T603, 15. 175c24–176a7, 177b9–10)の二回の合計四回である.
58 この用例は『道地經』(T607, 15. 231b21, 231c10)の二回のみである.
59 『佛説八正道經』(T2, 112, 505b5–6)に「道品」の用例が見られる.この文献はShi[2018]が指摘するように,経と注釈の部分に分けることができると考えるのが穏当であると思われる.Shiは注釈も含めて安世高を訳者に挙げ,安世高訳には見られない訳語が用いられていることから,一部後世に手を加えられたと解釈する.ここで問題となる「道品」に関しては,これが安世高訳である場合は,想定される対応語として可能性の筆頭に上がるのはbodhipakkha(bodhipakkhiya)となるが,その場合,「三十七品經法」と訳された原語にbodhipakkhiyaに対応する語がなかった可能性が高まる.一方,後世の挿入である場合は安世高の訳語としてここで考察するべきではない.したがって,ここで考察の対象に含めない.
60 この点で,Vetter[2012]が示す「三十七品經法」の訳である”the thirty-seven-fold right practice”(right practiceは「經法」の訳)は適切である.
61 安世高訳における「道」は,対応するパーリテキストを見る限り基本的にmaggaである(Zacchetti[2010]を参照).対応テキストがない部分において,そのいくつかにbodhiの意味が見られる(Vetter[2012]を参照).もし,このVetterの推定が正しければ,sattatiṃsa bodhipakkhikā dhammāに対応する原語を「三十七品經法」と訳したとすることに対する疑いが増す.
62 馬場[2008: 196–203]が指摘するように,北伝の四阿含は明らかに教理の発展にしたがって改編されたことが推察される.