1999 Volume 3 Pages 86-113
1876年8月20日,日本の真宗大谷派(東本願寺)によって派遣された小栗栖香頂をはじめとする僧侶らは,中国の上海に「真宗東派本山東本願寺別院」を設置した.その際に,小栗栖香頂は中国語で撰述した『真宗教旨』を祝賀の席に集まった中国の19人の僧侶および一般人に配布した1.この時,初めて日本仏教は中国で伝道する端緒を切り開くことになった.これは従来の中日仏教関係の在り方,つまり,仏教伝来以来,中国仏教からの影響を一方的に受容する立場をとってきた日本仏教の姿勢を転換させたシンボリックな出来事と位置づけられよう.それから,日本仏教の各宗派は中日両国の政治関係の変動に従って次々と中国へ伝道のためにやってきた.1899年だけでも,東本願寺は上海を拠点として活動し,蘇州,杭州,南京に別院や東文学堂を設立した.これらの別院には,その設立当初から中国仏教徒ないし一般の中国人を伝道の対象とし,彼らを真宗の教義に帰依させるという性格が明確に付与されていた2.そのために,中国の仏教者とも積極的に接触し,さまざまな交渉や摩擦が生じた.こうした浸透の結果,近代化に向けて先行していた真宗教団は,経典の刊行,仏教教育などを通じて,当時の中国仏教に多大な影響を与えたのである.つまり,真宗の中国での伝道は近代中国仏教史と無関係な存在ではなく,むしろ近代中国仏教史の一部分と見なければならないであろう.近代中国仏教はその内在的要因だけではなく,外来的な刺激を受けることによっても展開していったからである.したがって,日本仏教各宗派の中国での伝道活動を視野に入れつつ,あらためて近代中国仏教の形成と発展を研究する必要があると考える.
日本仏教の中国伝道史において重要な役割を果たした人間に小栗栖香頂がいる.彼の『真宗教旨』が中国仏教者自身によって二度刊行され,中国の人々の注目を集めた.さらに,この『真宗教旨』をめぐっては,小栗栖香頂と中国の仏教者との間に大きな論争が起こっている.この論争の中で示された中国仏教者の反応には,日中仏教の相違だけではなく,近代中国仏教が抱えていた問題点も映し出されている.したがって,『真宗教旨』の中国における反響を究明することは,近代中国仏教の展開に関わる内的及び外的な諸要素の解明にも資するに違いない.
本稿の目的は,中国人への布教テキストとして使われた小栗栖香頂の『真宗教旨』が中国仏教者によってどのように受け止められたのかを検討し,その中から近代中国仏教思想の課題を見出し,またそれに関連する資料を紹介することにある.結論からいえば,『真宗教旨』に対する中国側の反応は,それを全面的に否定すべきであるという主張と,中国仏教に有益な啓示を与えるところがあるという主張とに二分された.このように異なった受け止め方が現れたことは近代以来の中国仏教が抱えた課題を反映するものと考えられる.
小栗栖香頂(1831-1905)は大分県にある真宗大谷派の妙正寺住職である.1873年7月,彼は上海を経由し,9月には北京に入り,龍泉寺の本然という中国の僧侶のもとで,ほぼ一年間にわたる生活を送った.彼は中国語を学び,各地の仏教寺院を視察し,中国仏教の現状を把握するに至った.また,本然に来華の目的を示すため,小栗栖香頂は北京で『北京護法論』を著した.その中で彼は日本仏教各宗派と真宗の教義を紹介すると共に,日本・中国・印度三国による仏教同盟の結成を提唱し,それによってキリスト教や回教に対抗しようと訴えた3.
ただし,小栗栖香頂の中国渡航は個人的な行動ではなく,教団の派遣によるものとも見られる4.北京に入った直後,彼は本山東本願寺から「支那国弘教係」に任命されているからである.真宗大谷派は,開国以来のキリスト教流入と明治維新期に発生した排仏毀釈の打撃によって日本仏教が衰退していく状況に活路を見出すために,中国布教の政策を取り入れたのである.中国を含む海外布教は,真宗大谷派のみならず,明治初期の日本仏教界全体の動向であった.その意図は海外の宗教情勢の考察を通して,海外へ進出し,勢力の発展をはかり,明治国家の海外拡張の政策に協力して,国内での頽勢を挽回しようとすることにあった.一方,明治政府は東アジア諸国へ政治・経済・軍事的に展開する過程で,宗教をも利用し,仏教各宗派の朝鮮・中国への伝道を支持したのである5.このような背景の下,小栗栖香頂は個人の壮気を原動力とし,それに真宗大谷派の意図が拍車をかける形で,中国に渡航したのである.
当初,彼には中国仏教者と協力し,キリスト教の流入を排撃する護法策を探ろうという願望があったが,衰微した中国仏教の現状下では,彼に応じようとする仏教者は一人もいなかった.この現実は小栗栖香頂にとってあまりにも大きなショックであった.そこで,彼は中国で真宗を伝道しようと決意することになる.このことは『支那開宗見込』という文書のなかに明確に記されている.
『支那開宗見込』は小栗栖香頂の未刊の著作であり,現在,その写本が大谷大学図書館に所蔵されている.その表紙には「香頂書柬中抜粋,小栗憲一書写,明治六年十月」とあり,本文の前に「支那ニ浄土真宗ヲ開キ度見込ノ件々」というタイトルがある.小栗憲一は小栗栖香頂の弟であり,小栗栖香頂によって送られてきた中国布教に関する多くの意見書を抜粋して,『支那開宗見込』を編纂したのである.この資料の末に,小栗憲一によって書かれた附記がある.以下,その附記の全文を移録する.
此レ長公支那ヨリ弟旨ト余トニ贈ル柬ナリ.丁寧及復唯意ノ通スルヲ主トス.固ヨリ文章ノ錯雑ニ論ナシ,看者唯ソノ一片護法ノ赤心ヲ領セハ足レリ.文中「教師タル者ハ千辛万苦セネハナラヌ者ナリト決心スヘシ」ノ一語コレ篇中菩提心ノ滴膏血ナリ,一様新聞家ノ夢想ニ非ス尓云.
酉十月二十八日 弟不学記
長公とは小栗栖香頂の尊称である.これらの意見書は,もともと真宗大谷派の法主に献呈したものである.「酉十月二十八日」とは明治六年,西暦1873年10月28日である.よって,小栗栖香頂は遅くとも同年の九月に北京に入った直後には,中国で真宗の寺院を開く可能性を考えていたことがわかる.確かに『支那開宗見込』は「錯雑」のものであるが,大きく四つの部分から構成されている.第一の部分では中国仏教の現状,民風,布教の可能性と方策などが論じられる.第二は喇嘛教,第三は回教(中国イスラム教)の紹介である.最後は中国布教のための学寮や衣服制度,婚礼,葬式などに関する提案である.
さて,『支那開宗見込』のなかで,中国で伝道する必要性と可能性について,どのように論じられているのだろうか.冒頭の一段では文明開化論を持ち出して,開教の必要性を述べている.
朝廷ノ開化ニ労シ玉フヲ管見スルニ.支那ノ開化ヲ御世話ナサレル思召ニ相違ナキ也.法主ハ此処ニ屹度注意ナサレタキナリ.既ニ開ケタル国ハ開クニ及ハヌ,開ケサル処ハ互ニ世話シテ開テヤルカ万国ノ心切ナリ.
日本は文明開化の国として,まだ文明開化をしていない中国を「世話する」必要がある.この主張は『支那開宗見込』のなかで繰り返されている.そして,中国仏教の衰微に対しては日本からの助けも必要である.
漢以来ノ仏法故ニ,儒仏両道ハ自然人心ニワミ附テ居ルナリ.然ルニ古ハ天台,浄影,玄奘,慈恩,賢首,清涼等ノ豪傑時機ヲ見テ,仏法ヲ一新スル故に,教化モ行レタレトモ,明末ヨリ元ニ移リ6,方今ニ来テハ唯一不立文字ノ弊斗リ残リテ,更ニ仏法ヲ更張スルノ活眼ナキナリ.北京ニ大小百ヶ寺余アリ,学問ヲスルハ唯龍泉寺一ヶ寺ナリ.其余ハ尽ク不立文字ノ愚僧ナリ.可悲ノ至ナリ.五台山ニハ六百寺アリ,峨眉山三百寺アリ普賢・浄土,普渡山ニ二百寺アリ観音・浄土,九華山三百寺アリ,其余に寺ノ集リタル処ハナキナリ.北京ヨリ想像シ,又郷試ノ人ニ問ニ何レモ高僧ハナキナリ,唯旧習ニテ葬式ノ棺ヲ一年ノ間寺ニアツケルト現世ノ僥倖ヲ祈ルトノミ.僧ハ何ヲ目的トシテ念仏スルカ,俗ハ腹中ニ仏法ト云ハナキナリ.
中国仏教は漢唐までは盛んであったが,明末以来,ただ不立文字の禅宗だけ残り,高僧もいなければ,学問をする寺も少ない.不立文字の愚僧たちは現世利益ばかり追求し,念仏といってもその目的を全く知ず,一般の民衆も仏法を知らない.このように小栗栖香頂の目に映じた中国仏教は暗黒の状態である.その内容や表現には,やや誇張されたところはあるが,楊文会らの中国仏教の現状批判と共通する点も多くある.続けて,彼は真宗が中国での布教の可能性と方策を探っている.
真宗ヲ興サント欲セハ,長城以東ノ地ニ一本寺ヲ作ルヘシ.長城以西ハ喇嘛教大ニ繁昌シテアリ,回教モ及ハヌ.長城以西ノ旧漢地ハ南京ヲ以テ中央トスヘシ.南京ニ寺ヲ作ルコト大ニ可ナルヘシ.爰ニ東西ノ御連枝一人ヲ廟主トスヘシ,舟ノ便利モヨシ,内には本願他力ノ利アリ,外ニハ肉食妻帯ノ便アリ,大ニ学校ヲ立テ,天台以来ノ教化ヲ講シ,日別ニ説法会ヲ開ハ,支那僧モ始ハ妬ムヘシ,次ニ陰ニ罵ルヘシ,後ニ一同帰依スヘシ.小子飽迄支那僧ノ真宗ニ帰スル兆アルコトヲ目撃セリ.
先南京ヲ本寺トシテ,十八省ニ両人宛道心堅固ノ僧ヲ遣リ説教セシムへシ.寺ヲ作ルニハ及ハヌ,フルキ寺イクツモアリ,買ニモ可ナリ.亦仏蘭斯僧ノ如ク商府ヲ開クヘシ.仏蘭斯僧ノ親切ナルニハ,支那モ陰ニ感心セリ.初メ来ル者,三年ノ間言語ヲ学フ間ニ,行状ト云ヒ親切ト云ヒ,皆々感心シテ仕舞ナリ.其後ハ出入共ニ説教ス.多人一人ヲ選ハス,依テ当時彼徒ノ入ラヌ処ハ十八省内湖南ノミト云ナリ.支那人ハ悋気深キ癖アレトモ,僧ノ此ニ妬気ヲ挟ナサルハイカニモウルサキコト也.依テ我輩急ニ力ヲ尽シ,布教ノ仕方ハ仏蘭西ヲ手本トスヘシ.是ニ付テモ本廟ニ古来ヨリ異安心ト云モノアリ,彼徒ハイカニモ先輩ノ説ニハ戻レ共,念仏ハ申スナリ,亦正義ノ人ヨリモ根気ヨキナリ.是ヲ責アケテ,終身ヲ禁錮スルハツマラヌ也.彼等ヲハ支那ニ遣シ,根気ヨク,言語ヲ学ハシメハ必ス念仏ヲ引起サン.不正義ノ念仏テモ,切支丹ヨリハ可ナルヘシ.又学寮ノ講者モ,日本斗リノ講者テハ残念ナリ.外国ニ遊フト自分ノ無学ニモ気カ附クナリ.中外ニ度テ恥ル処ナクハ,又学頭トスヘキナリ.依テ三十斗リ迄学問出来ハ,三十以上ヨリ支那見物ニ出ルヘシ.長崎ヨリ航海スレハ僅ニ二日ノ舟中ナリ.上海ヨリ四日ニ天津ニ至ルヘシ.教師ハ千辛万苦セネハナラヌ者也ト決心スヘシ.況ヤ新法主ノ御洋行ヨリ折テ,祖師蓮師ノ事ヲ追思スヘシ.サテ南京ニ本寺ヲ作ラント欲セハ,本堂ニ弥陀ヲ安シ左右ニ太神宮ト孔夫子ヲ安スヘシ,神仏判然シテ.太神ハ仏ニ非ストスルハ,本朝ノミノコトナリ.外国ニ行フトキハ,屹度本跡ヲ立ネハナラヌ.関羽ヲ以テ観音トスルコト,支那一般ノ事ナリ.又孔子所立ハ我浄土真宗ノ俗諦規則ニ符合スル故ニ,コレヲ祭ル大ニ支那ノ人心ヲ得ルナリ.祖師堂ニハ善導,法然,我祖ノ三祖ニテ然ルヘキナリ.真実ノ我ニ菩提心アリテ至誠神人ニ徹セハ必ス興隆スルニ相違ナキナリ.唯ソメキ心テ開宗スルハ無用ノ事ナリ.
中国宗教の地理的状況から,回教と喇嘛教との衝突を避けるために,長城の東,つまり中国の東部地域に真宗の寺を作り,とくに南京を拠点として布教すべきと提案している.内外の利益をもって,中国の僧侶・一般人を導くことを勧めるが,その内外の利益とは,内は本願他力の利のことで,外は肉食妻帯の便である.いわば精神の救済と肉体の満足という内外両面から布教していく.そして,中国布教に三つの段階を想定している.すなわち最初は表面からの拒否,次に表面の拒否が陰に隠れ,最後に一同に真宗に帰依するという展開である.また,伝道の手法は西洋宣教師(フランスなど)から学び,中国語を身につけ,親切に中国人と付き合えと言う.さらに,南京で立てる寺院には,祖師堂を作り,本堂を建て,そのなかには阿弥陀仏を祀ると同時に,その左右に孔子と太神宮,つまり日本の神道の神も共に祀るという案も提出している.この雄大な野望は三年後,上海での東本願寺別院の設置を通して,現実化しようとしたのである.
また,同様のことが彼の『北京紀遊』の中にも明確に記されている.『北京紀遊』(または『同治末年留燕日記』と称する.『東京女子大学論集』第八巻第一,二号,1957年1,2月)の第十五節と第四十二節「呈書法主」(1873年9月)には,
然余渡航,欲観中土仏教興廃如何耳,不同達摩度梁武帝也.中土已無玄奘・賢首・金智・湛然,余豈有意於問道乎.(第十五節)
更呈護法小言曰,(中略)日本為首部,支那・印度為胸部,欧・弗為両腿,両米為脚,以布教法於全球.(四十二節)
布教自支那始,置本山於南京,置支院於十八省,以連枝為支那教主,選人材,分掌各省教務.(四十二節)
日本本山,設外国語学校,以授布教方法.
選能漢文者,撰真宗教旨・往生伝・布教史伝・孝子伝,伝記以流芳千歳為無上栄,不以堂班門地為栄.(四十二節)
と述べられている.これによれば,当時の中国にはかつての玄奘などのような龍象はすでにいなくなり,もはや中国仏教者から学ぶ必要はなくなった.今日では,むしろ,堕落している中国仏教を振興させるために,中国ないし全世界で真宗を布教しなければならない.そして,漢文のよくできる者を選んで,真宗の教旨を撰述すべきである,と小栗栖香頂は強く大谷派の法主へ提案した.すでにこの時期において,小栗栖香頂は中国を真宗化するために,漢文の『真宗教旨』作成の重要性を認識しはじめている.そして,その漢文のよくできる者とは他ならぬ小栗栖香頂自身である.彼は1874年8月,中国から帰国し,まもなく『ラマ教沿革』,『真言宗大意』,及び漢文の『真宗教旨』を相継いで著し,中国への伝道の準備を積極的に進めていった7.
『東本願寺上海開教六十年史』(上海別院刊行,1937年)によれば,上海別院の正式な発足の当日,『真宗教旨』が一冊ずつ上海の龍華寺の19人の僧侶に,一般人には「真宗説教」が一枚ずつ配布された.しかし,現存する二種の『真宗教旨』を見ると,刊行年代のもっとも早いのは1876(明治9)年12月16日付きの刊記をもつ刊本である.もう一種は1883(明治14)年9月の刊本である.したがって,上海で配布された『真宗教旨』の所在は不明だが,これが最初の刊本であることはわかる.現存の二種の刊本には何れも「本願寺編集局纂輯」,「編集者 小栗栖香頂」,「校閲兼出版人 石川舜台」という刊記が書き込まれている.石川舜台は当時の東本願寺で寺務長を務めた人物である.したがって,『真宗教旨』は小栗栖香頂の個人的な著作ではなく,教団の意志をも反映したものと見られる.
また,約1883年ごろ,『真宗教旨』が中国蘇州の居士である許霊虚によって自費で翻刻されたことを伝える記録があるが8,許霊虚の刊本の所在は今まで報告されていない.
さらに,1941年,上海で中国の僧侶によって出版された小栗栖香頂の『真宗十講』という本の中に,附刊として『真宗教旨』が収められている.だが,他の刊本と比べると,この刊本では『真宗教旨』の最終第11章の「諸式」が省略されている.また,この刊本は1883年の刊本に基づいたものだとも指摘されている9.『真宗十講』とは1895年,東京の浅草本願寺で,日清戦争の時に捕虜となり,日本に連れてこられた中国兵士に,小栗栖香頂が中国語で布教した記録である.元の書名は『清国捕虜説教』であった.その内容は『真宗教旨』の拡大と言えるものである.また,この本については,小島勝・木場明志の『アジアの開教と教育』(法蔵館1992年)の中で詳しく考証されており,参照に値する.上述の考察を整理して示せば,次の如くとなる.
このように,『真宗教旨』が中国の仏教者によって二回刊行されたことからも,その反響の大きさが窺えよう10.
『真宗教旨』は十一号(章)から構成されている.
第一号「七祖」:ここには龍樹から源空までの真宗の七祖とされる人物が並んでいる.また,この七祖の教えに対しては,真宗において継承する部分と捨てる部分が示され,選択が行われている.例えば,第一祖の龍樹について,「祖其易行品,而不祖其講布華厳・中論(その易行品は継承するが,その講布した華厳・中論は継承しない)」,第五祖の善導について,「祖其一向専称弥陀仏名,而不祖其持戒禅定(その「一向専称弥陀仏名」は継承するが,その持戒・禅定は継承しない)」と述べられている.つまり,真宗では七祖の教えの中の自力と見られる内容を排除することが強調されている.
第二号「伝燈」:まず,日本仏教の十四宗の宗名が挙げられ,次に真宗が伝承する法脈,つまり始祖の親鸞から明治時期の門主である厳如,現如の事跡までが簡潔に紹介されている.また,真宗が「食肉蓄妻而念仏(肉を食い,妻を蓄えて念仏する)」を容認する根拠となった故事が叙述されている.
4.2. 『真宗教旨』の特徴第三号「教判」:まず,聖道門と浄土門それぞれの内容や所依の経典が述べられ,次に真宗の二双四重教判の要点が取り出されている.とくに,聖道門が「此土入聖之教(此の世界で聖に入る教え)」であり,浄土門は「往生浄土之教(往生浄土の教え)」であることが強調されている.
第四号「三時」:正法・像法・末法という三時が紹介され,末法の時代に,聖道門を実践することは鶏を水に無理に入れるようなもの,或いは夏に毛皮を着るようなものであり,浄土門こそ唯一の道だと強調されている.
第五号「四法」:真宗の教(『無量寿経』)・行(名号=第十七願)・信(三心=第十八願)・証(必至滅度=第十一願)という四法が取り上げられている.
第六号「三願」:『無量寿経』の中で修行者としての阿弥陀仏が発した四十八願の中の第十八願,十九願,二十願,及びこれらに相応する浄土,機根,経典が説明されている.図示すれば,次の如くである.
願 教 浄土 機根 経典
十八願=真実教=真実報土=正定聚(頓)=『無量寿経』(頓)=機教倶頓
十九願=方便教=方便化土=邪定聚(漸)=『観無量寿経』(漸)=機教倶漸
二十願=方便教=方便化土=不定聚(漸)=『阿弥陀経』(頓)=機漸教頓
第七号「隠顕」:「隠」と「顕」,即ち「裏」と「表」によって,浄土三部経の一に帰するという主張が説明されている.つまり,『無量寿経』は真実教であるため「隠」,「顕」の違いは無いが,『観無量寿経』には「顕」に定善(観想),「隠」に仏の本願を観ずることが説かれ,『阿弥陀経』では「顕」に方便(自力念仏),「隠」に真実(他力念仏)が説かれている.だが,結局のところ,三経は共に本願他力念仏に一致しているというのが「隠顕」の考えであるが,このような考えは「是千古之所未道及,而祖師之所首唱也(これは千古にわたって説かれず,祖師親鸞が首唱したものである)」と強調されている.
第八号「本願名号」:凡夫は,第十八願という本願の名号を聞くことによって,帰命の心すなわち他力の信心を発す.これによって,はじめて往生することができる,という内容が説かれている.
第九号「他力信心」:念仏だけでは真実の浄土へ往生することはできず,他力信心を起こして,はじめて真実の浄土へと往生できるが,この他力信心とは他力から発された信心である,と説明されている.
第十号「俗諦」:真宗では安心門を真諦となし,倫常門を俗諦となす,と説明されると同時に,五倫を中心とした俗諦の内容が詳しく紹介されている.とくに忠孝報国の思想が強調されている.
第十一号「諸式」:真宗の「晨起式」から「和讃式」までの五十八種の作法が紹介されている.その文章の中で,「已上諸式,入社之後口授面稟(以上の諸式は,入門した後に口授をもって直接に受けるものである)」と説明されている.
簡潔に真宗の要義を紹介する他,忠君愛国の思想,中国仏教と社会の批判にも重点が置かれている.
1885年,許霊虚居士によって『真宗教旨』が刊行されたことは,この本が中国の仏教者に注目されたことを示すものであるが,彼がどのようにこの本を受け止めたのかを知ることは,現在では不可能である.しかし,彼に続いて,居士の楊文会と『真宗十講』を校閲した僧侶の芝峰という二人が現れ,異なった角度から『真宗教旨』の問題点を捉え,違った評価を下しているのである.以下,この二人の『真宗教旨』に対する見方を紹介する.
5.1. 楊文会と小栗栖香頂との論争楊文会(1837-1911)は近代中国仏教の「中興の祖」(水野梅暁『支那仏教近世史の研究』1925)と評される著名な仏教者である.1866年,彼は南京に金陵刻経処を創立し,仏教経典の刊行に取り組み,1878年,清朝の外交官としてイギリスに赴任した際に,ロンドンで南条文雄と知り会った.その後,二人は三十年以上の長きにわたって,文通や仏典の交換を続けることになる.とくに,南条文雄の協力で,三百種近くの中国では既に失われてしまった仏教典籍が日本から送られ,楊文会はその中から重要なものを選んで次々と翻刻したのである.彼自身の仏教思想は,彼の「教在賢首,行在弥陀(教は賢首にあり,行は阿弥陀にある)」という言葉から窺える.つまり,理論的基盤は法蔵を代表する華厳思想に置き,実践は浄土思想に帰そう,という立場である.著作は『楊仁山居士遺著』に収められている.
5.1.1. 論争の経緯1898年,南京に大谷派によって本願寺が創設されたが,その運営を担当する北方心泉は楊文会に『七祖聖教』を刊行するように求めた.そこで,楊文会がその中に収められた法然の『選択本願念仏集』を詳しく読んでみたところ,経典に背くところが数多く含まれることに気づき,随所に批判を書き込んだ.また,彼は以前から所持していた小栗栖香頂の『真宗教旨』を取り出して仔細に読んだ結果,その内容を浄土経典に違反するものとして全面的に否定し,詳細な批評を行った.これは後に『評選択本願念仏集』と『評真宗教旨』として編集されることになる.さらに,楊文会は『闡教芻言』を著して,真宗の教義に対する自分の考えと立場を述べ,『評選択本願念仏集』と『評真宗教旨』と併せて,南条文雄へ渡すことを北方に依頼した.また,楊文会は直ちに南条文雄宛に書簡を送って上述の事情を伝えると同時に,自己の見解を議論の場に載せることを求めた.これを受けた南条文雄自身は直接議論に介入しようとはせず,それらを小栗栖香頂に渡したところ,小栗栖香頂は『陽駁陰資弁』と『念仏円通』を著し,楊文会の批判に対する反論を開始した.前者は『評真宗教旨』に対する反論であり,後者は法然批判に対する反論である.楊文会はその反論を受けて,さらに『評陽駁陰資辯』と『評念仏円通』を作り,小栗栖香頂の反論に再批判を加えた.1900年,小栗栖香頂は重病に罹っていて反論できず,かわりに龍舟という人物が『陽駁陰資辯続貂』と『念仏円通続貂』を執筆し,小栗栖香頂を代弁して楊文会の非難に引き続いて反論した.龍舟からの反論を受けた楊文会は,この論争を継続しても平行線をたどるだけで,一方が他方の説を受け容れることはないであろうと見切りをつけ,龍舟宛へに書簡を送り,それ以上の議論を謝絶したのである.楊文会の真宗批判に対しては,そのほかに,真宗の杭州別院に勤めていた後藤保真からの反論もあった.彼は楊文会の法然批判に対して『応於楊公評駁而呈卑見』を作り,楊文会に届けた.楊文会はこれに応じて,後藤宛に書簡を送り,真宗批判の理由を詳しく説明している.
この経緯について,日本で紹介したものもある.小栗憲一の『小栗栖香頂略伝』には,「清国浙江の楊文会は翰林学士にして,信仏の居士なり.『選択集』に菩提心を廃するを憤り,激に破文を加ふ.又長公の『真宗教旨』を見て,他力回向の義を難じ.曰く.天親,曇鸞の罪人なりと書き著して本山に送る.長公即ち『念仏円通』を著して,菩提心に聖淨の別あるを示し,『陽駁陰資弁』を著して,仏智不思議の本願を明にし,居士陽に真宗を駁するに似たれども,陰に之を資するの意あるを指示す.居士之を見てや,悟るところありと云ふ」12と述べられている.
5.1.2. 関連資料この問題に関する従来の研究は,『楊仁山居士遺著』に収められた資料のみに頼って進められてきたが,筆者が現在までに調べたところでは,楊文会と小栗栖香頂をはじめとする真宗僧侶との論争に関わる資料は日本の大谷大学図書館にも残されていること,しかも『楊仁山居士遺著』中の関連資料はほとんど日本側の資料から採録されたものであることがわかった.以下はその調査の結果である.
5.1.2.1. 『楊仁山居士遺著』(出版年不明だが,1918年以後に編纂されたことは確実)所収資料
A.『闡教編』(1917年に編集された)
以上の資料名は『闡教芻言』を除き,すべて『楊仁山居士遺著』の編集者によって名付けられたものである.
B.『等不等観雑録』巻八
尚,後藤葆真が楊文会へ送った『応於楊公評駁而呈卑見』は現在のところ所在不明である.
5.1.2.2. 大谷大学図書館所蔵の資料
6)龍舟「与楊仁山居士書」(1901年10月)
『楊仁山居士遺著』に収録されている資料はその年代が削除されているので,正確な年月を知ることはできないが,日本人から楊文会に宛てた資料の年代が明記されているので,それによって楊文会側の資料の年代を推定することができた.また,日本側の資料と対照して査閲すると,『闡教編』の②~⑤までの資料はすべて日本側の資料から採録されたものであること,更に,『楊仁山居士遺著』の中に収められた小栗栖香頂の資料は全文ではなく,楊文会の批判に関連する部分だけが収録されたことが明らかである.また,龍舟の著作と書簡は『楊仁山居士遺著』には収録されていない.以下はその全文を移録する.
与楊仁山居士書
仁山先生執事
竜舟海東之小衲也.才疏根劣,道識殊貧,固非可与海外名流言者也.況於歯徳並高,執事其人者乎.然執事儒釋道兼通之学,往生為法之切,側聞而私慕者久矣.前年得大著『陰符発隠』而読之,深欣道縁不疏.客歳道友一柳子従江南還,問無恙外談先及執事,柳子曰,仁翁今之浄名也.慧眼高邁,竭力護教,刻経之業,其功過半者,皆仁翁之力也.
仁翁嘗読『真宗教旨』及『選擇集』,懐疑処一一箋記,香頂老師為之弁.仁翁見而喜之,更有所問,而頂師偶四大失和,未至再弁.竜舟乃於柳子許借『陽駁』以下諸篇而読之,殆有入丈室接黙雷之想矣.因憶諸篇,随読随評,在執事則残審餘墨,雖非労健腕者,咳垂亦玉,兼通之識,慧眼之高,躍然現於紙墨之外,変通之妙,尤不可端倪也.柳子以浄名擬之,洵不誣也.『大経』阿難白仏言,我不疑斯法,但為将来衆生問斯義耳.顧我宗入台邦以来,為日猶浅,蜀犬吠日,其毋其人乎.
執事蓋為彼輩欲除其疑惑者,故以陰資名焉,弁之亦可.遂不自量,聊続頂師之弁,名曰続貂.稿成示之柳子,柳子曰,執事坦懐封菲,固所不棄也.郵致以結道縁,不亦可乎.乃従其言,浄写致之.左右抑竜舟不才,不達華音,故文与意多不応者,執事恕之,以情勿咎不乱則幸.張居士常惺前来東遊,一次相見,今則兇矣,沈翰林善登殆失明,護法之翹楚非執事而誰.乞為法自愛不戩.
明治三十四年十月 日
日本京都大谷本願寺大学寮掛錫飛州釋竜舟俗姓内記頓首.
5.1.2.3. 議論の争点
『真宗教旨』をめぐって,楊文会は小栗栖香頂をはじめとする真宗僧侶と三年にわたり,細部にまで立ち入った論争を続けたが,この論争は多岐にわたるものであり,その全貌を解明することは今後の課題としたい.ここでは,楊文会の真宗批判の要点だけを取り上げて,簡単に紹介することにとどめたい.
まず,第一には,基本的立場の相違である.楊文会は仏教に関するあらゆる論説は経典に忠実でなければならず,釈尊の意思に違反してはいけない,という原典主義的な姿勢を打ち出している.この根本的立場から,彼は『真宗教旨』に関して「経意と合わないところが甚だ多い」と感じ,「浄土門は三経一論を拠り処となし,経論の宗旨を体究してはじめて,如来の真の弟子となる」と述べている.『真宗教旨』で説かれる真宗の教義が「仏教経典に背離する」という楊文会の批判的姿勢は論争中一貫している.そして,その批判には具体的に二つの内容が含まれていると考える.
その一つは「円融」を旨とするか,或いは主体的な「選択」かという問題である.具体的に言えば,聖道門と浄土門,自力と他力,菩提心,第十八願と四十八願,念仏と称名,九品往生と念仏往生などを互いに対立し相容れない考え方として,一廃一存のかたちで選択するのか,或いはそれらを融合し,一つの全体的な教えとして受け止めるのか,という問題であるが,前者が真宗の立場であり,後者が楊文会自身の立場であると楊文会は自ら指摘している.
もう一つは,浄土教を解釈し理解する際に主として依拠すべきものは,浄土三部経であるのか,或いはその注疏であるのか,という問題である.議論の中で,小栗栖香頂等は道綽,善導の注疏を根拠としてよく引用している.これに対して,楊文会は道綽,善導の浄土教理解にも誤ったところがあると主張し,経典と注疏のどちらをより尊奉すべきものなのか,と厳しく問い詰めている.
第二は,聖道門と浄土門の関係である.小栗栖香頂は末法時代には,聖道門は難行の道であり,それを捨てて,易行の道である浄土門のみを取り選ぶべきである,と主張している.これに対して,楊文会は経論には難行易行の区別が説かれているが,廃立という教説はないと反駁し,浄土門は聖道門の一つに過ぎず,聖道門も浄土の実践を行わなければならないと述べている.
第三は,自力と他力の関係である.自力を放棄し,他力信心によって往生するという小栗栖香頂の主張に対して,楊文会は「我が輩は他力を深く信じる一方で,自力を廃さない.これが諸経の公義である」と断言し,小栗栖香頂の主張を「黒谷(法然)の私見であり」,「純他力教」であると批判している13.
第四は,浄土往生のためには,菩提心を発することが必要かどうか,という問題である.小栗栖香頂らは菩提心を発して往生するのは自力雑行の行為であるため,末法時代の人にとっては至難なことであり,往生の因から排除しなければならない,と主張している.楊文会は菩提心が往生の前提であると主張する.彼は「菩提心を因として仏になるのである.これは飯が米によってなるのと同じことである.今,飯を食べたいが米は使ってはならないならば,果たして飯を得ることができるであろうか.今,念仏しようとしても,菩提心は発してはいけないと言われたならば,果たして仏を見ることができるであろうか.仏は究極の菩提である.菩提心を捨てれば,仏へ到達する道がなくなる.これは米を捨てれば,飯が得られないのと同じことである」と強く反駁している.
第五は,第十八願と四十八願との関係である.『真宗教旨』では『無量寿経』所説の四十八願の中に第十八願が真実の願であり,その機は正定聚であって,真実報土へ往生するとされる一方,第十九願などは真実の願ではなく,それに相応する経典・機根・浄土などは第十八願のそれらと同類ではない,と論じている.楊文会は一つの願を取って人に専修せしめることは結構なことだが,一つの願を選んで他の願を廃棄するのはまったく経典に違反するものである,と批判している.
第六は,念仏と称名である.念仏とは口で仏名を称えることに限定されるのか,或いは観想と称名の両者を共に含むものであるのか,という論点において,楊文会と小栗栖香頂等とは完全に対立している.小栗栖香頂等はあくまでも念仏とはすなわち称名であると主張している.その目的は絶対他力の理論を維持するためである.これに対して,楊文会は念仏には観想と称名とが共に含まれる,と論じ,「称名はもともと念仏の内にあるものであって,念仏とは称名以外のものではない,と限定的に捉えることに執着するのは,これは経典の意に背くものである」と批判している.
第七は,九品往生と念仏往生である.『真宗教旨』では,『観無量寿経』に説かれた九種類の往生の形態はすべて自力によるもので,いずれも真実の報土に生まれることはできず,胎生の形で方便化土に生まれるのであって,また真実報土に生まれる者は九品を超えた信心念仏者だけであり,往生すればすなわち成仏する,と規定している.これに対して,楊文会は,九品の中でも上品上生という機根のものは往生すればただちに仏や菩薩の説法を聞いて無生法忍を得,諸仏から授記を得るのであって,彼らが胎生であるということは経典には全く説かれていない,と指摘し,また「他力信心の者は九品を超え,往生すればすなわち成仏するという説は大経(『無量寿経』)にはなく,これはまるで空拳で子供を騙すようなものである」と批判している.
第八は,出家者は戒律を守るべきかどうかという問題である.『真宗教旨』では,戒律を破っているかどうかを問わず,つまり妻をもつかどうか,酒を飲み,肉を食うかどうかを問わず,ただ他力信心を起こし,阿弥陀仏に帰命すれば,命が終わる時,必ず浄土へ往生し大涅槃を証する,と説かれている.楊文会はこの方法は在家の人にとってはみとめられるが,出家の人は言うまでもなく清規(戒律)を守るべきであり,戒律を守らなければ,世に留まる僧宝は絶滅してしまうと強く主張し,「末法万年であるが,(僧伽の)威儀を廃棄してはならない」と訴えている.
楊文会の真宗批判は偶然の所産ではない.彼の浄土思想は明時代の雲棲袾宏から強く影響を受けている.上述した様な楊文会の見解はほとんど雲棲や徳清など明代の仏教者の説に沿うものである.このような中国浄土思想の流れを汲む者の目に,真宗独自の浄土教理解の多くが奇異なものと映るのは当然であったろう.もう一つ考えるべきものは,楊文会はこの時期,中国で失われた多くの仏教典籍を刊行し,それらの研究に取り組んでいた.そして,その頃の彼は,不立文字を標榜する禅宗の弊害を痛烈に批判し,経典を研鑽することの重要性を宣揚し,復古と総合円融によって中国仏教を振興することを目指していた14.ところが,真宗の選択的立場,その排他的傾向が強い宗旨は,基本的に楊文会の融合的な立場と異なるものである.これが彼が真宗批判を行う根本的な理由なのである.
一方では,『真宗教旨』の中で,末法時期において「我等凡夫」は聖道を修することが難しいと説かれているが,この考え方に対して,楊文会の批判はその議論を十分になしていなかったようである.つまり,自力で煩悩を断ち切ることができず,さとりへの理想到達を遮断されている愚痴の凡夫は,どうして聖道難行の道を歩むことができるのかという法然や真宗の根本的な問題意識に対しては,楊文会の対応には不十分なところがあると言わざるを得ない.
しかし,楊文会の真宗批判は日本の真宗を中国から追い払うことを目的とするものではなかった.彼は「貴宗が中国に来て教えを広めることはまさに末法時代の津梁である」といい,真宗の世界各国での伝道活動にも期待している.楊文会にとっての真宗の教旨は,「素晴らしいことは素晴らしいが,まだ善を尽くしていない」ものであったようである.もし宗祖の教えに執着せず,ただ聖道門を捨てるという教義を放棄するなら,「わずかな変更だけで,理に叶い,機に叶う教えになる」であろうと彼は南条文雄らに提案した.真宗批判の目的と動機については,「陽には真宗を反駁しているように見えるが,陰には実は助けとなり資するものである」と,楊文会は自ら釈明している.したがって,楊文会はこの論争を振り返って,「議論すればするほど双方の立場が明らかになる.互いにとって,みな利益あるものであった」と評価している.
5.2. 芝峰の受け止め方小島勝・木場明志の『アジアの開教と教育』の中で,『真宗十講』の存在と芝峰について報告されている.ここで,芝峰の真宗教義と小栗栖香頂に対する理解と評価を紹介したい.
芝峰(1901―1949)は浙江省の出身で,太虚法師の弟子である.1928年,彼は『現代僧伽』という雑誌を創刊したが,これは大きな反響を呼び,後には仏教教育に務めたという.日中戦争が始まっても,彼は師の太虚に随行して内地へは行かず,上海の静安寺に留まった.日本語から翻訳した『禅学講話』があり,上海では『普慧大蔵経』の編纂にも参加した15.
1941年に出版された『真宗十講』の本文の前に,芝峰が1936年に書いた序文がある.この序文の最後に,「附刊の『真宗教旨』一章も,小栗栖香頂上人が書かれた著作である.これは極めて簡略であるが,真宗の要義がよく現れている.(『真宗十講』と)相互に参照して読む必要がある.故にここに附刊する」と述べている.これによれば,芝峰は『真宗十講』と『真宗教旨』それぞれの論旨は一致していると考えており,したがって,彼の『真宗十講』に対する評価は『真宗教旨』にも適応し得ると見なされよう.
芝峰の序文は,日本仏教及び日本文化についての一般論に始まり,次に『小栗栖香頂略伝』に基づいて小栗栖香頂の来華の背景と中国での経歴を述べ,さらに『真宗十講』の内容とその刊行の由来を記し,最後に『真宗教旨』を附刊する理由を説明するものである.ここでは,その中に現れる彼の小栗栖香頂に対する評価,及び真宗教義に対する理解という二点に注目したい.
まず,芝峰は小栗栖香頂が中国で行なったさまざまな考察を高く評価している.芝峰は『小栗栖香頂略伝』に基づき,小栗栖香頂が中国で護法策を求めた様子を詳しく紹介し,「総じて言えば,教の為,人の為という情熱は彼(小栗栖香頂)の胸にあふれている」といい,また,小栗栖香頂の中国仏教批判に対しても,「その観察力によって,中国僧徒の堕落がどうにも救いようがない状態にまで至っていることを洞察した.しかし,現在も尚,中国の出家者の振る舞いは依然として昔のままである」と述べ,共感を寄せている.そして,彼は小栗栖香頂という人物に対する最終的評価を次のように下している.「総じて言えば,彼(小栗栖香頂)の一生は,勉学に励んだ時期を除いては,日本においても,中国においても,熱心に教を宣布するなど,もっとも活躍した人物である」,「だから,小栗栖香頂上人は日本の明治仏教界における法門の龍象であることは確かである.中国仏教界においては今日至るまで,このように国のため,仏教のため,老いてますます盛んなりというような人物を探すことは困難であり,おそらく一人,二人もいないであろう」と言っている.これは小栗栖香頂を高く評価するばかりではなく,中国仏教の現状に対する批判をも意図するものである.
次に,彼は『真宗十講』を通して,真宗の教義を捉えているが,彼は真宗を絶対他力論と認識しながら,中国浄土思想との根本的な違いは信心に対する理解の相違に発すると指摘している.つまり,他力往生という思想は確かに中国浄土教と共通するものであるが,真宗では信心を発せば即ち往生し,念仏は修行でも往生の因でもなく,報恩であり,自力を排除し,絶対他力のみによって往生するとする.この点で中国とは異なっていると彼は考える.そして,中国仏教の堕落と中国社会の悪い習慣に対する小栗栖香頂の批判は,現在中国の僧侶や一般人が読んでも必ず益するところが多くある,と彼は述べている.
最後に,芝峰は,「彼(小栗栖香頂)が言われたことは五十年前のことであるが,しかし,中国の仏教僧侶と一般社会の習慣はいまだに昔のままに留まっていて,大きく進歩してはいない.このことをわれわれは恥ずかしいと思うべきであり,そして,それを知り,自ら発奮しなければならないであろう」と述べている.これは彼がこの本を出版しようとした重要な目的の一つと考えられる.
このように,芝峰が『真宗十講』と『真宗教旨』を出版する目的は真宗の教義を宣伝するためでは決してなく,むしろ真宗を理解することを通じて中国の仏教を復興することにあった.一方,小栗栖香頂という人物の仏教のため,国のため,人のためという精神を学ぶべきものとして受け止め,それを中国仏教一新のための他山の石としようとしたことがわかる.また,真宗の教義と中国浄土思想との根本的な相違を知りながら,芝峰はそれを拒否・批判してはいない.両者の相違を認めた上で,さらに共通するところ,或いは相手から学ぶべきところを発見することは,彼にとってはより重要なことであったのだと思われる.
小栗栖香頂の『真宗教旨』に対して,時代の推移に伴い,中国では異なった反応が生じた.楊文会は清末の最大の仏教思想者として,伝統中国仏教の復活を目指していた.彼の真宗批判はあくまで中国仏教思想の流れに沿って行われたものである.彼の批判からは日中の浄土思想の相違がはっきりと浮き彫りにされる.このことは中国の著名な思想家である梁啓超によって高く評価されている.梁啓超は「楊仁山『懐教編』」を著し,その中で,次のように述べている.
原始仏教では純粋な自力を提唱したが,浄土の一門は像法の末期に起こり,凡夫の機根を引接したが,これは龍樹が易行品を著した理由である.我が国の浄土宗にも他力の傾向がすでに強く感じられ,さまざまな弊害が生じている.日本真宗は聖道門を排除するが,これはその過失をさらに大きくするものである.楊文会居士のこの著作は,この問題点を深く洞察したものである.今,国の中では浄土門にかこつける者が日々多くなっているが,自力の精神はますます衰退している.この『懐教編』が長く放置されて良いものであろうか16.
原始仏教本純倡自力,浄土一門,像季後起,接引凡機,龍樹所以有易行品之作也.我国浄宗,已嫌他力気味太重,滋生流弊,日本真宗之抜無聖道,失之益遠矣.居士茲作,可謂洞中症結.今国中自託浄門者日多,而自力日替,此編寧宜久悶耶.
また,著名な僧侶であり,楊文会の学生でもあった太虚も「(楊文会が)日本の僧侶と真宗の義を議論するなかで指摘したことは透徹しており正しい」17と評している.
一方では,芝峰は『真宗教旨』などから知り得る中日浄土思想の食い違いを認識してはいるものの,中国仏教の立場から相手を批判することはしなかった.むしろ,小栗栖香頂の性格,情熱,信念といった個人的な資質に目を向けて,日本仏教がなぜ現在の中国仏教より活力を持ち,社会への影響力を持ちえたのかという問題の解答を考え,中国仏教者のあるべき姿を追究しようとしたのである.
以上の如く,楊文会と芝峰の真宗教義に対する反応は異なっている.しかし,楊文会が批判した日本の真宗教義の問題点は,梁啓超が指摘する如く,当時の中国仏教に内在する問題でもあった.また,芝峰は小栗栖香頂の中国仏教と中国社会に対する批判を受け止めるだけではなく,小栗栖香頂という人のもつ資質に注目し,それを同時代の中国僧侶には欠けている要素であると自覚することを通して,新たな中国仏教を担う僧侶の理想像を形成しようとしたのである.
本研究はトヨタ財団研究助成金による研究成果である.
1 東本願寺上海別院[1937],247-248.
2 小島勝・木場明志[1992],32.
3 小島勝・木場明志[1992],25.
4 同上,24.
5 小島勝・木場明志[1992],27-34.
6 時代の順からいえば,「元より明に移り」となすべきが,記録の誤りか.
7 小栗憲一[1907],60には,
「明治八年(1875)六月五日,上京本山編集局を開き,監督を命ず.十一月『真言宗大意』成也.明治九年五月,『ラマ教沿革』十四冊を編す.『真宗教旨』一冊を制す.以て支那開教の準備とするなり.二十六日,順明と同じく東京に赴き,外務卿寺嶋宗則を訪ひ,支那開教の事を謀る.寺嶋曰支那を墳墓の地とする決心を要す.長公諾して去る.六月十四日西京に帰る.二十八日,支那開教の事決す」と述べられている.
8 東本願寺上海別院[1937],35には,
「十六年度(1883年)別院日記によれば,(中略)又六月十八日には,許相室氏来訪あり,該氏は信仏家にて二擺渡の時分訪来りし様子にて松本白華を承知の趣き(にて),主務(白尾義天)と色々筆談す.該氏の尤も感ずべきは,我が浄土真宗を喜び,嚢に『真宗教旨』(小栗栖香頂著)を刊にして知己に贈れりと云,今日来訪にあたるを以て『七祖聖教』一部を贈る.昏時勤行を聴聞し去る」とある.(同書p.55)また,「蘇州の許霊虚居士は,輪番松本白華師と交って,真宗の教義を受け,小栗栖香頂師の著した『真宗教旨』を,自費で翻刻したことが,明治十八(1885)年九月の録事梅原譲氏の上海出張報告に記されている.」とある.
9 小島勝・木場明志[1992],83の注53参照.
10 沈曾植(1851-1922)[1962]の「報恩論跋」には,「光緒庚子四月,見覚塵於潘師孺巷中,縦談両夕,出此以贈常惺居士.又詒日東人所為『真宗教旨』,舟中三日,粗尽其指,故記時日」とある.つまり,1900年,沈曾植氏は沈覚塵と会った時に,沈覚塵から『真宗教旨』を贈ってもらい,それを三日間で舟の中で読んだという記事である.沈曾植は著名な文人で,楊文会の親友でもある.沈覚塵(名は善登)は『報恩論』の作者で,楊文会の友人でもある.常惺居士とは張常惺であり,1900年に真宗に帰依した.許霊虚,沈善登,張常惺らは大谷派の中国進出の有力な協力者であるため,『東本願寺上海別院六十史』には彼らの事跡が多く記述されている.
11 小栗栖香頂[1876]には,「至吸鴉片,則与自殺一般」(第十号「俗諦」),「毀傷身体以不孝.盛京婦人,不裏其脚,而南人以小脚以美.勿悖孔子哉」(同上)とある.
12 小栗憲一[1907],106.
この文の中に,誤った二箇所がある.まず,楊文会は安徽省の出身,江蘇省の南京で活動していたが,浙江省ではない.次に楊文会は科挙制度を嫌い,もともとその試験を受けたことがなかったので,当然翰林学士ではなかった.
13 荒木見悟[1985]のなかで雲棲の後世の影響を論じる「彭際清と楊仁山」という一節には,楊文会の真宗批判の論点をつぎように説明している.すなわち,「もしも絶対他力が容認されるなら,すべての衆生は,いつでもどこでも成仏が可能なはずであって,それが事実に反するなら,絶対他力の普遍性にも限界があるわけだから,それ自身,絶対他力説の論理的破綻だというのである.これは絶対他力説を絶対無責任説にすりかえているわけだが,その批判はともかく,仁山にとって他力説といえども,何らかの形,何らかの意味で自力を加味しなければ,宗教的救済の構造は成立し得ないと考えられるのである」と,そして,「日本の浄土教は,絶望的な末世観の上に成立した.しかし中国の浄土教は,ゆるやかな末世観の上に成立した.今はその優劣を論議すべき場合ではない.ただ,中国における華厳的本来主義の根強さを,ここにも確認し得ることだけを指摘しておこう」と述べている.また,[1995]の論文のなかで,いわゆる中国の浄土思想にある「華厳的本来主義」という性格を広く論じ,楊文会の真宗批判は「結局,彼は長く中国胸中に伝承されてきた本来的自力主義から脱却することができなかったのである」(323)と指摘している.
中村薫[1997]論文では,「楊仁山の日本浄土教批判」という題目を取り上げ,自力と他力についての楊文会の真宗批判に対して,「実に親鸞の他力は自力を否定しているのではなく,自力無効の自覚により他力が仰がれてくるのである.従って,自力他力と分別するのではなく,私自身の自力の働きそのものも実は如来から賜った他力回向の働きであると受け止めていたのである」と反論している.(『華厳学論集』,901)
14 陳継東[1998],885-81.
15 于凌波[1995],249-54による.
16 梁啓超[1925] 『飲氷室文集』第十六冊,44下「書籍跋」10,台湾中華書局1970版第八冊.
17 太虚[1948],206.