1999 Volume 3 Pages 114-130
4~5世紀に「観」という語が冠され,「観仏」を内容とする経典が中国において訳出される1.仏陀跋陀羅訳と伝えられる『観仏三昧海経』もその内の一つである.この経典は,後代への影響という点からいえば,浄土の典籍,華厳の典籍等に引用が見られる.特に浄土思想への影響は大きく,道綽『安楽集』に引用されて以来,中国浄土思想史上に色濃く影を落としている.同じ観仏経典である『観無量寿経』は,阿弥陀仏とその西方浄土を観の対象とする浄土教の経典である.この『観無量寿経』を所依の一つとする中国浄土思想は,「観仏」及び「念仏」を主要な浄土往生行として取り入れており,同じく「観仏」を主題とする『観仏三昧海経』が中国浄土思想に影響を及ぼしたことは,当然の帰結であったと言える.
この『観仏三昧海経』に対する興味は,そもそも『安楽集』から始まっている.『安楽集』中に「『観無量寿経』は観仏三昧を宗としている」2と表明されているにも関わらず,この箇所以外の「観仏三昧」「観仏」の語は『観仏三昧海経』の引用中にしか見ることはできない.また,類似の概念である「念仏」「念仏三昧」も,『安楽集』『観仏三昧海経』が共通して頻繁に用いている概念である.『安楽集』を読み解く上で,これら「観仏」「念仏」「観仏三昧」「念仏三昧」といった言葉の考察は避けることのできない課題であるが,上述したような理由から『安楽集』それだけでこの問題を取り扱うことはきわめて難しい.これらの概念を明確に規定していくためには,その源流にある『観仏三昧海経』に遡及せざるを得ないのであるが,これまでそうした『安楽集』理解のための基礎作業が充分に行われてきたとは言えない.一般に,これまでの『安楽集』研究においては「念仏三昧」と「観仏三昧」は同じような意味である,といった程度の説明がなされるのみである.
そこで,本論では『観仏三昧海経』に用いられる「観仏」「念仏」「観仏三昧」「念仏三昧」といった言葉とその周辺の問題を丹念に考察し,これらの概念が何を共有し,どういった相違点を持っているのか,ということを明らかにしたい.なお,『安楽集』における概念規定との同異については,改めて考察を行うこととする.
『観仏三昧海経』は基本的に,仏の様々な姿・行ないなどを見ることによる利益を仏滅後の衆生が仏在世時と同様に得ることを目的としている.結論からいえば,このことが,「観仏」と「念仏」との関係を不分明なものとしている.「序観地品第二」に次のように説かれる.
如我住世,不須繋念.譬如日出,冥者皆明.惟無目者而無所覩.未来世中諸弟子等応修三法.何等為三.一者誦修多羅甚深経典,二者浄持禁戒威儀無犯,三者繋念思惟心不散乱.云何名繋念.或有欲繋心観於仏頂者~(大正15,647c29-648a5)
これは,「観仏」の対象となる具体的な相が説示され始める箇所より前に位置している3.ここに,仏住世と未来世とが対比されている.これによれば,未来の弟子にとっては三法が必要であり,その一つが「繋念思惟心不散乱」である.この第三の「繋念思惟心不散乱」が以下に説かれる「観仏」に必須の前提となっている.仏がこの世界に住する間は,「観仏」に繋念は必要ではないが,涅槃後は繋念することによりはじめて「観仏」が成立することから,「観仏」と「繋念」とは不離の関係となり,両者が混用される原因となっているのである.両者の密接な関係は,個別の具体的な「観仏」の例からも類推される.
例えば,『観仏三昧海経』の中で「観仏」をなす主体は以下のように表される.
仏滅度後仏諸弟子,繋念思惟作是観者,除滅百劫生死之罪,面見諸仏了了無礙.如是観者名為正観.若異観者名為邪観.(大正15,656c6-9)
これは「観如来方頬車相」の末尾に説かれている「観仏」に伴う得益の例である.下線部のように,得益の主体は,基本的に「仏滅度後諸弟子」,あるいはこれに類する表現となっていることから,「仏滅度後」の「観仏」の得益が一貫して本経の主題となっていることが分かる.
また,如来の広長舌相を「観」ずる説の中に,「仏滅度後,念仏心利観仏舌者,心眼境界,如向所説」4という文章が出てくるが,「念仏」の心が利であることにより「観仏舌」となるとされており,これなども「念仏」と「観仏」の不離の関係を表していると言えるだろう.
以上に見てきたように,「仏滅度後」が経典中では問題とされており,「仏滅度後」の「観仏」は「念仏」を前提として成立することから,必然的に両者は極めて親しい関係にあり,多くの箇所で両者は置換可能な用いられ方をしているのである.このことが,両者の関係を不分明にしているのである.
『観仏三昧海経』は全体を通して,「観仏」による利益を説く.『観仏三昧海経』は成立の問題もあり5,経典全体を一括して見通すことに問題があるが,一応の基本形を以下に考察する.
2.1. 観仏の基本形『観仏三昧海経』では,「観仏」による効果が,一定の形式により説かれる.この形式は,「観」の対象となる,仏の容貌・仏の持つ光明・仏の心・仏の威儀等が具体的に説示された上で,その末尾に付加されるという順序で説かれるのが一般的であり,この形式の内に「観仏」「念仏」「見仏」といった本論文に関連する概念の多くが含まれている.この項では,この形式に着目し,考察を行うこととする.
2.1.1. 正観と邪観
最もシンプルな形式は次のようなものである.
是名菩薩納妃時白毫相.仏告王,仏涅槃後四部之衆,其欲観菩薩為童子時,及納妃時白毫相者,当作是観.如是観者,是名正観.若異観者,是名邪観.(大正15,650a5-8)
これに先行する部分において,「菩薩納妃時白毫毛相」の具体的で詳細な記述が行われている.その前述の内容を受けて,「仏涅槃後」の者はこのように「観」なさい,そのように「観」ることが「正観」であり,異っていれば「邪観」であると説く.この「正観」・「邪観」に関する表現形態は『観無量寿経』を始めとする前述の観仏経典中にも同様のものが見られ,経典間の関係を類推させる.これが最も簡略な形式である.
2.1.2. 罪の除却
仏の臍から放たれる光については,「観仏」による利益が以下のように説かれる.
如是観者,名為正観.若異観者,名為邪観.仏告阿難,仏滅度後仏諸弟子,如是観者,除半億劫生死之罪.(大正15,666b27-666c1)
これは臍から出た十方の光明の内,東方を照らす光明を観ることの利益を説いた箇所である.末尾に「除半億劫生死之罪」とある.このように「観仏」の利益の中に罪の除却を説くのは一般的な形式であり,至る所にこのような滅罪を説く形式を確認することができる.
2.1.3. 未来世における利益
「観仏」による罪の除却の例を見てきたが,この罪の除却の結果としてもたらされる未来世中の利益も数多く説かれる.その中でも多いのが,仏菩薩との値遇とそれに伴う利益である.こうした例は,後に考察する「仏本行品」における形式と類似している.以下に具体的な例を挙げ取り上げ検討する.
作是観者,除却一億劫生死之罪.後身生處,面見諸仏,生仏家.(大正15,663b1-5)
ここでは,仏面を見ることにより,「後身生處」で「面見諸仏,生仏家」となることが説かれている.このように一般的に仏に値遇する例が説かれる一方で,以下のように特定の仏に値遇する例も見られる.
若能暫見,除六十劫生死之罪,未来生處,必見弥勒.(大正15,656a27-28)
「観仏眼」では,このように弥勒を見ることが説かれる.また,「観広長舌」では「観広長舌」の代わりに「勧進念仏」したものが「当来生處,値遇弥勒乃至楼至仏」6と賢劫の仏に値うことが説かれる.このほか,普賢・文殊に値遇する説7,菩薩に値遇する説8がある.
こうした仏との値遇が,授記を得る,もしくは未来世における成仏の決定をもたらすとする説も見られる.以下がその例である.
作是観者,除去百億八万四千劫生死之罪,捨身他世,値遇八十億仏.於諸仏所,皆見諸仏広長舌相,放大光明,亦復如是.然後得受菩提道記.(大正15,659a23-26)
若不能見,当入塔観一切坐像.見坐像已,懺悔障罪,此人観像因縁功徳,弥勒出世,見弥勒仏,初始坐於龍華樹下結加趺坐.見已歓喜,三種菩提随願覚了.(大正15,681c3-7)
最初の例は,「観広長舌」の例であり,八十億の仏に値遇し,その後受記を得ることが説かれている.後の例では時間に関する記述はないが,弥勒の出世に伴い菩提を得ることが説かれている.
最後に,全体を通してあまり見られないが,臨命終時における見仏を説く箇所も見ておく.
作此観者,除一億劫生死之罪,臨命終時見十方仏,必生他方浄仏国土.(大正15,678a26-28)
これは「観四威儀品」中の説である.臨命終時における見仏は西方浄土の説と類似しているが,こうした記述はあまり見られない9.
2.1.4. 夢中見仏
見仏に就いては,「観仏」の結果として未来世において仏に値遇する例を見てきた.『観仏三昧海経』にはこれ以外の見仏として夢中における見仏と,仏そのものを見るかわりに仏像を見る「見像仏」が説かれる.まず,「夢中見仏」の例を考察する.
「夢中見仏」は,二例を除く全てが「観如来臍相」において説かれているという特徴がある.如来の臍からは十方に光明が放たれ,その一つ一つを対象とした観が説かれる.この光明の観について以下の記述がある.
仏滅度後,仏諸弟子,有憶想者,有思惟者,如此観者,常於夢中夢見諸仏為説慈法,除却七億劫生死之罪.(大正15,666c26-28)
「夢中見仏」による罪の除却が説かれており,先に行った考察と比較すれば,「観仏」の効用に比較することができる.「夢中見仏」が,何故説かれるのか,通常の「観仏」とは何が異るのかは,両者の比較が行われないので,明らかではない.
ただ「観如来肉髻光」中に次の文章がある.
衆生欲観釈迦文仏肉髻光明,当作是観.作是観者,若心不利,夢中得見.雖是心想,能除無量百千重罪.(大正15,663a9-11)
ここでは,心が「不利」である場合に夢中に見ると説いている.これをもって全ての例に敷延することは難しいが,こうした条件が付されている場合もある.
2.1.5. 見像仏
像としての仏を見ることによる利益も,『観仏三昧海経』の複数箇所において説かれている.「見像」あるいは「観像」と表現されるこの行為は,一貫して繋念による「観仏」が不可能な場合の代替行として説かれている.「観白毫光」においては,「若比丘犯不如罪,観白毫光,闇黒不現.応当入塔観仏眉間」10とされ,「観仏耳」では「若不見者,如前入塔,諦観像耳」(大正15,656b25)とされる.又,「観像」そのものが主題となっている「観像品第九」では「如来が世にましまして,衆生が目の当たりに見ている.仏の相好を観ること,仏の光明を観ることが,それでもまだ明瞭ではない.仏滅度後の,仏がいらっしゃらない場合はいうまでもない.どのように観ればよいでしょう」11という問いに対して,「仏滅度後,現前無仏,当観仏像」12と仏は答え,仏像を用いた「観」がその代替としての役割を担いうることが説かれている.同様に「観四威儀品」では,仏在世時と,仏去世後とが比較され,次のように説かれる.
若有衆生,仏在世時見仏行者,歩歩之中見千輻輪相,除却千劫極重悪罪.仏去世後,三昧正受想仏行者,亦除千劫極重悪業.雖不想行,見仏跡者見像行者,歩歩亦除千劫極重悪業.(大正15,675c4-8)
仏去世後には,仏行を想い見るのだが,それがかなわないなら,仏跡,像行を見ることにより,悪業を除くことができると説かれており,先に挙げた例と内容が一致している.
又,『観仏三昧海経』中には仏像に対し,世尊が仏事を付嘱するという興味深い話も物語られる.
如来が忉利下より閻浮提に下りてきた時に,優填王が慕って金像を鋳造する.この金像が,生きている仏のごとく世尊を来迎したところ,世尊は次のように仏像に向って仏事を託するのである.
爾時世尊而語像言,汝於来世大作仏事.我滅度後,我諸弟子以付嘱汝.空中化仏,異口同音咸作是言,若有衆生,於仏滅後,造立形像,幡花衆香持用供養,是人来世必得念仏清浄三昧.(大正15,678b15-19)
この物語は,仏像そのものが仏事をなすはたらきを持つことの裏付けを目的としていると言えるだろう.
このように「見仏像」は,「念仏」に基づく「観仏」の代替行としての重要な位置を占めている.この「見仏像」は,「本行品第八」に説かれる諸仏の本縁の中にも数多く説かれるのだが,それについては後の章で改めて触れることとする.
2.1.6. 言葉による付嘱
これまで,「観仏」の利益を説く形式に就いて考察してきた.こうした「観仏」の利益は,先行する個別の具体的な仏や,それに関する諸相が仏により説示された後に付加されるのが一般的な構造である.つまり,「観仏」の利益に先行する箇所では個別の諸相が,仏の言葉により物語られている.この描写に関しては,付嘱が重要な意味を持っている.これを以下に見ておくこととする.
仏告阿難,汝持仏語,莫令忘失,告諸弟子,正身正意端座正受観仏広長舌者,如我在世等無有異.(大正15,659a26-28)
このように,仏により語られた言葉が阿難に付嘱され,未来世の衆生は阿難の保持した仏の言葉により,仏の姿を見るのである.また,仏は父王に対しても,「是故今日,為於来世諸悪衆生,説白毫相大恵光,明消悪観法(中略)暫聞是語,除三劫罪,後身生處生諸仏前」13と表明し,自らの言葉の持つ重要性を説いている.更に「今為父王説生頂相.(中略)後世衆生聞是語,思是相者,心無悔恨,如見世尊勝頂相光,閉目得見,以心想力了了分明,如仏在世」14とも述べて,仏の相好を説く言葉により,後世の衆生が「観」をなし得ることが強調されている.
『観仏三昧海経』の相当部分は,仏やそれにまつわる具体的な描写により占められているが,その言葉による描出の必要性は,阿難への付嘱と仏の言説を通して知られるのである.つまり,仏の現在しない時には,仏により説かれた言葉を通して心内に仏やその他の様相を「観」ることができるのであり,そこに仏の姿が語られることの意義があると言える.
2.1.7. 聞名・称名との比較
『観仏三昧海経』中には,主として「念仏」とそれに伴う「観仏」の利益が説かれているが,先に見た「見仏像」のように,他の行による利益も説かれている.元々『安楽集』における引用の検討から本考察をはじめており,ここでは,浄土往生行でもある「聞名」「称名」に就いて見ておくことにする.
仏告阿難,我涅槃後諸天世人,若称我名及称南無諸仏,所獲福徳無量無辺.況復繋念念諸仏者,而不滅除諸障礙耶.(大正15,661a12-14)
若聞名者,礼拝供養,獲大重報.何況繋念思仏正顔.(大正15,662a4-5)
この二つの例は「観相品第三」の一連の文章中に説かれている.前者は称名と繋念の比較であり,後者は「聞名」とそれに伴う礼拝・供養と,「繋念」との比較である.両者共に「念」による「観仏」の利益が大きいことを説いている.
又,「本行品第八」の冒頭に,「若称名者,除百千劫煩悩重障.何況正心修念仏定」15,「但聞仏名,獲如是福.何況係念観仏三昧」16とある.ここでも同様に「称名」「聞名」との比較が行われ,「係念」17「念仏」の優位性が説かれている.
以上のことから,「称名」「聞名」の利益が「念仏」との比較という形で説かれること,「念仏」の効用がこれら二行より優れているとされることの二点が確認された.
2.2. 観仏の利益のまとめここまで,「観仏」の利益に関する諸説を見てきた.実は,ここに考察の対象としたものは,全体のごく一部分にすぎず,除滅の効果を持つ行は考察したもの以外にも経典中に数多く説かれている.それら全体を考察することはできないが,これまでに見てきた幾つかのパターンをチャートにすれば次のようになる.

利益の形式は様々に説かれ,それぞれどこかが省略されたり,他の滅罪に至る行が加わったりしているが,大まかな流れはこの図のようになる.こうした形式がそれぞれの描写の後に続くという構造が,この『観仏三昧海経』全体に渡って見られるのである.
ここでは更に,「観仏」「念仏」に「三昧」という語が付せられて用いられている場合,それらの概念がどのように変化するのか,ということを考察する.最初に,両概念がどこに頻出するのかを確認しておこう.まず,「観仏三昧」であるが,これは経典全体で14カ所に認められるが,「本行品第八」以降に10度用いられている.次に「念仏三昧」の語は,全体で29カ所に見られるが,その内「本行品」以降に25例が集中している.
続いて「観仏三昧」の実際の用例を検討する.
如是等人,雖不念仏,以善心故,除却百劫極重悪業,当来生處,値遇弥勒乃至楼至仏,於千仏所,聞法受化,常得如是観仏三昧.(大正15,659b1-4)
一見仏已,即能除却百万億那由他劫生死之罪.従是已後,恒得値遇百万億那由他恒河沙仏,於諸仏所,殖衆徳本.是諸世尊皆説如是観仏三昧,亦讃白毫大人相光,勤多衆生懺悔係念.(大正15,688a10-15)
最後楼至如来,亦於此處説観仏三昧.(大正15,689c3-4)
一つ目の例は,以前にも仏に値遇する例として取り上げたものである.二つ目の例は「本行品」のものであり,童子戒護が宝威徳如来在世時に如来の姿を見たことで,罪を除き数多くの仏に値遇するという物語である.そして,値遇した仏がみな「観仏三昧」を説くのである.三つ目の例は,賢劫の諸菩薩が次第成仏し,最後の樓至仏も同様に「観仏三昧」を説いている,という内容である.
これら三例に共通するのは,「観仏三昧」が眼前にいる仏から直接説かれ,それにより「観仏三昧」が獲得される,ということである.つまり,この「観仏三昧」は,種々の行により罪を滅し,諸仏に値遇した上で説かれるものだと言うことができる.
「本行品」の前には,恐らく後から挿入されたと考えられる「観馬王蔵品」という品がある.その前に位置しているのが「観四威儀品」である.この「観四威儀品」の末尾において,仏は三十二相を説き終わったとして阿難に付嘱を行なう.その箇所に次のように説かれる.
時諸化仏,各申右手摩阿難頂,汝今善持観仏三昧,莫使忘失一心憶念,為未来衆生開光明目.(大正15,683a20-22)
これは,「本行品」より前にある,数少ない「観仏三昧」の例である.これも,説示の情況を見ると阿難の眼前に仏がおり,両者の間で直接法が嘱累されている.「観仏三昧」には,このような特徴が見られる.
次に「念仏三昧」について考察する.
從此已後,恒得値遇無量諸仏.於諸仏所,浄修梵行,得念仏三昧海.即得此已,諸仏現前即与授記.(大正15,688b25-27)
随寿命終,由前入塔称南無仏因縁功徳,恒得値遇九百万億那由他仏,於諸仏所常勤精進,逮得甚深念仏三昧.三昧力故諸仏現前為其授記.(大正15,689b3-6)
時二童子見仏色身及見光明,即時超越那由他恒河沙阿僧祇劫生死之罪,恒得値遇無量無数百千諸仏,於諸仏所,修行甚深念仏三昧,現前得見十方諸仏,為其演説不退法輪.(大正15,689b23-27)
これら三例は,「本行品」からのものである.この三例に就いて指摘しうることは,先の「観仏三昧」と同様に数多くの仏に値遇し,その仏所にあって「念仏三昧」を得,しかもそれが授記・不退をもたらすという点である.
この「観仏三昧」「念仏三昧」の考察から次のことが言える.「観仏三昧」「念仏三昧」の両者は,「念仏」による「観仏」を主要な手段として諸仏所に行き,そこで説示され獲得されるものなのである.更に、「念仏三昧」は「授記」「不退」をもとらすことが説かれている.
また,「観仏三昧」「念仏三昧」ともに,例えば「自然得入念仏三昧,見十方仏身量無辺」18とあるように,仏の身体の一部を観るといったような限定的なはたらきを示すことはない.「観仏三昧」は、仏の三十二相を説き終わった時点で,阿難に付囑されたことから考えると,この『観仏三昧海経』中において仏から阿難に多様に説示された「観仏」の法全体であると思われるが,このことからも限定的なはたらきでないことが確認しうる.
以上のことから,「観仏」「念仏」の完成されたものが「観仏三昧」「念仏三昧」であると言えるだろう.
ところで,「本行品」以降にこれらの概念が頻出するのは何故か.「本行品」は既に成仏した仏の悟りに至る過程を物語った品である.その中では,「観四威儀品」までに説かれた観仏・見仏像・礼仏等による利益と同様のプロセスを経て菩提を成就した諸仏の姿が描かれている.加えて,「本行品」以前で重視されることのなかった,諸仏との値遇以後の授記に至る過程と,成仏した後に諸仏の全てが「観仏三昧」「念仏三昧」を説示している点の二点が物語の主題となっている.賢劫の菩薩の全てがこれを手段として成仏したことが説かれていることにより19,「観仏三昧」「念仏三昧」の両行は悟りに至るための方法であることが確認され,成仏後の仏が両行を仏弟子へ付託する説20は,仏から阿難への『観仏三昧海経』の嘱累を仏相互の連関の中に組み入れたと言える.「本行品」はこれを一つの目的として,三十二相の「観」を説き終えた「観四威儀品」の後に付加された,と考えられるのである.
最後に「観仏三昧」と「念仏三昧」との関係に就いての考察を行う.これまで見てきたように,両者は非常に似通った状況の中で,すなわち諸仏のみもとにあって付与されている.また,以下のように列挙されてもいる.
爾時釈迦牟尼仏即伸右手摩行者頂,得此観者,名仏現前三昧,亦名念仏三昧,亦観仏色身三昧.(大正15,692c17-19)
仏告父王,如是等名未来世観仏三昧,亦名分別仏身,亦名知仏色相,亦名念仏三昧,亦名諸仏光明覆護衆生.(大正15,682c4-6)
このように,同じものを指して両概念の名称が用いられていることからも,両概念の緊密な関係を確認することができる.
ただ,「観像品」において釈迦文仏は行者に以下のように告げる.
法子,汝修観仏三昧力故,我以涅槃相力,示汝色身,令汝諦観.汝今坐禅,不得多観.(中略)応時即得念仏三昧.念仏三昧者,見仏色身了了分明.亦見仏心一切境界,亦如上来観仏心説.亦見仏身一切光明,亦如上観仏身光説.亦見仏身一切毛孔,一一毛孔悉生八万四千化仏,仏仏相次満十方界.(大正15,692c6-16)
観仏三昧力を修している行者に色身を示現するのだが,多観できない.その行者は「念仏三昧」を得ることにより,仏の色身を分明に見,仏心一切境界・仏身一切光明をこれまで説かれてきたように見,仏の一切の毛孔からは蓮華を生じ,そこに数多くの化仏があってその仏が十方世界に満ちているのを見る,と説かれている.この「念仏三昧」によって見られるものは,まさしく「観仏」の総体であり,仏から阿難に付嘱された「観仏三昧」である.このことから,「念仏」と「観仏」の関係がそうであったように,「念仏三昧」がなければ「観仏三昧」ではなく,その意味で両概念は表裏の関係にあり,近似した概念となっている.また,「念仏三昧」があることにより「観仏三昧」があるという「念」から「観」へという関係は,「念仏」と「観仏」の関係と同様であると言えるのである.
『安楽集』から端を発し,『観仏三昧海経』中の「観仏」「念仏」「観仏三昧」「念仏三昧」の考察を行ってきた.『観仏三昧海経』に説かれるこれらの概念については,以下のようにまとめられる.
『観仏三昧海経』では,基本的には仏滅度後の衆生の救済が問題となっている.仏在世時には,衆生は仏を目の当たりにすることができたが,それのかなわない滅度後の衆生は,代わりに「念仏」に基づく「観仏」を行なうことにより同様の利益を得ることができる.その結果,『観仏三昧海経』に説かれる「観仏」と「念仏」はしばしば置換可能な関係にあり,両者の関係が不分明になっている.
「観仏」の利益の考察からは,「観仏」により滅罪が可能であり,滅罪の結果として諸仏に値遇すること,「観仏」以外の「見仏像」「夢中見仏」「称名」「聞名」なども,行の間に優劣はあるものの同様の利益をもたらすことが明らかとなった.また,仏により説示される描写の数々は,それを聞く者にとって「観仏」するための基礎となっていることも確認した.
最後に「観仏三昧」「念仏三昧」についての考察を行った.「観仏三昧」「念仏三昧」ともに「本行品」以降に頻出するが,「本行品」では「観仏三昧」「念仏三昧」により仏が菩提を成就してきたこと,それらの仏もまた「観仏三昧」「念仏三昧」を付嘱していることが説かれ,「本行品」が「観仏」「念仏」両行を価値付ける役割を果たしていることを確認した.
また,「観仏三昧」「念仏三昧」と「観仏」「念仏」の関係については,前者が後者の完成形であることが明らかとなった.
更に「観仏三昧」と「念仏三昧」の関係については,「観仏」と「念仏」の関係と同様に,「念仏三昧」が「観仏三昧」の基盤となっており,両者が近接した概念であることを明確にした.
以上が,『観仏三昧海経』における「観仏」「念仏」「観仏三昧」「念仏三昧」という四つの概念と,その周辺の問題についての考察の結果である.この結果を元に当初の問題意識に立ち返れば,四つの概念の類似性が何に起因するのか,またそれらの間にいかなる差違があるのか,という点については明らかにし得た.とはいえ,この『観仏三昧海経』中における概念規定と,他の「観仏」「念仏」を扱うテキスト中のそれとの間にある隔たりは充分に予想されるのであり,そうした点は今後の課題であると考える.
1 『観仏三昧海経』,『観無量寿経』,『観普賢菩薩行法経』,『観虚空蔵菩薩経』,『観弥勒菩薩上生兜率天経』,『観薬王薬上二菩薩経』がそれである.
2 「今此観経以観仏三昧為宗」(大正47,5a26).
3 個別の「観仏」の利益は「観相品第三」(大正15,648c24-)以降に説かれる.この「序観地品」はその前に位置している.
4 大正15,659a22-23
5 色井[1965]に『観仏三昧海経』の構成が考察されている.「観仏」の利益からも同様な構成が見て取れる.
6 大正15,659b3
7 大正15,666a2-3
8 念仏心によるものについて以下の記述がある.「念仏心者,除十二億劫生死之罪.作是観者,生生之處,終不邪見心不僻謬,恒得値遇無生菩薩」(大正15,675a23-25).
9 「念七仏品」に「見此仏者,常生浄国,不處胞胎.臨命終時,諸仏世尊必来迎接」(大正15,b29-a2)とあり,来迎思想が見られるが,おそらくこれら二ヶ所のみである.
10 大正15,655b20-21
11 「如来在世,衆生現見,観仏相好,観仏光明,尚不了了.況仏滅後,仏不現在.当云何観」(大正15,690b27-29).
12 大正15,690c1
13 大正15,655b27-c2
14 大正15,649a6-11
15 大正15,687b23-24
16 大正15,687c10-11
17 繋念と同義.
18 大正15,680b25-26
19 「我与賢劫諸大菩薩,因是念仏三昧力故(中略)皆由此法成三菩提」(大正15,689c10-13).
20 「仏告阿難,汝今善持,慎勿忘失.過去未来三世諸仏,是諸世尊皆説如是念仏三昧.我与賢劫諸大菩薩因是念仏三昧力故,得一切智威神自在.如是十方無量諸仏,皆由此法,成三菩提」(大正15,689c9-13)