Studies of Buddhist Culture
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1999 Volume 3 Pages 131-146

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 筆者は,1997年3月16日より1998年1月15日まで,客員教授としてドイツのボッフム=ルール大学(Ruhr-Universität Bochum)に滞在した.これはルール大学と東京大学の相互協定によるもので,渡航・滞在費用は文部省在外研究費(長期)によっている.以下,同大学を中心に,その他,見聞の及んだ範囲で,ドイツの日本研究の現状を報告したい. なお,本稿の情報は1997年現在のものであり,その後の変化は反映していない.

1, ボッフム=ルール大学

(1)ボッフム=ルール大学東アジア学部

 ボッフムはノルトライン=ウェストファーレン州(Nordrhein-Westfalen)のいわゆるルール地域に所在する.近くにはエッセン,ドルトムントなどがあり,ドイツ第一の鉱工業地帯として重きをなし,人口の集中度ももっとも大きい.もともとボッフムは石炭採掘によって発展した街であるが,現在,鉱山はすべて閉鎖され,その名残は,ドイツ随一の鉱山博物館に名残をとどめるのみである.鉱山時代にはそのための大気汚染もひどかったということであるが,今日では主産業は自動車工業であり,公害の問題はなく,むしろ広々と緑の続く田園地帯という印象が強い.

 ルール大学は,こうした産業従事者の子弟の教育の場として1965年に創設された大学で,歴史の古さを誇る大学が多いドイツの中では新興の大学である.しかし,ルール地域ではもっとも古く,本大学の後を追って,エッセン,ドルトムント,デュッセルドルフ,デュイスブルク,ヴッパタルなど,近くの各都市にそれぞれ大学が創建されている.ドイツの古い大学が,町中にあって,建物が散在しているのに対して,ルール大学はボッフムの市内からはややはずれた郊外の広大なキャンパスに,すべての学部を集中させる方式を取っている.

 ルール大学は,創設当初から東アジア学部(Fakultät für Ostasienwissenschaften,略称OAW)がその一つの特徴をなす学部であり,特に日本研究は,当時まだドイツには専門の講座の少ない時代であったので,目玉として多くの学生を集めてきた.

 日本研究は,日本語学・文学と日本史の二つの学科からなるが,当初の教授は,語学・文学がレヴィン(Bruno Lewin),歴史がハミチュ(Horst Hammitzsch)である.レヴィン教授(在任1964―89)は古代から近代にまでわたる幅広い文学研究で知られ,翻訳も多い.ハミチュ教授(在任1965―77)は思想史・宗教史を主として,やはり業績が多い.その編集になるものでは,Japan-Handbuch(Wiesbaden,1981)が名高い.ハミチュ教授の後任はデトマー教授(Hans Adalbert Dettmer. 在任1978―92)で,古代史が専門で,アイヌ学にも詳しい.デトマー教授の後任はマティアス教授(Regine Mathias. 在任1996― )である.他方,レヴィン教授の後任はリックマイヤー教授(Jens Rickmeyer. 在任1991― )である.

 東アジア学部の現在の構成と教授は以下の通りである.

  中国史(Geschichte Chinas)           N.N.

  中国語学・文学(Sprache und Literatur Chinas)Prof. Dr. Helmut Martin

  日本史(Geschichte Japans) Prof. Dr. Regine Mathias

  日本語学・文学(Sprache und Literatur Japans)Prof. Dr. Jens Rickmeyer

  韓国学(Koreanistik)              N.N.

  東アジア経済 (Wirtschaft Ostasiens) Prof. Dr. Wolfgang Klenner

  東アジア政治(Politik Ostasiens) Prof. Dr. Peter Weber-Schäfer

 経済と政治は東アジアで一纏まりになっているため,その中で日本を中心に研究する学生もいるわけである.これは本学の一つの特徴で,従来の古典中心の日本学に対して,現代の政治や経済を重視するとともに,東アジア全体にわたる学際的な研究を可能としている.なお,東アジア学部の付属施設として,中国関係にリヒャルト・ウィルヘルム翻訳センター(Richard-Wilhelm-Übersetzungzentrum)がある.東アジア学部の学部長はヴェーバー=シェーファー教授である.

 日本史のマティアス教授については後述する.日本語学・文学のリックマイヤー教授はもともとハンブルク大学に学び,マールブルク大学教授などを経歴.日本語学が専攻で,独自の文法分析によって知られる.日本文学の研究者は多いが,純粋に語学的見地からの日本語研究が少ない中で,同教授の研究は特徴あるものである.

 日本史専攻は,マティアス教授の他に,専任教員(Akademischer Oberrat)として,江戸時代史を専門とするDr. Ulrich Gochがおり,さらに助手(Wissenschaftliche Mitarbeiterin)として,現代史を専攻するAnke SchererとKatja Schmidtpottの二人がいる.また,日本語学・文学専攻は,リックマイヤー教授の下に,語学講師(Lektor)としてAnette Dehnhardtがおり,また非常勤講師(Lehrbeauftragte)としてDr. Diana Donathが現代文学を担当している.(以上,1997年10月現在)

 1997年冬学期の日本史の講義は以下のようになっている.

・基礎課程(Grundstudium)

  マティアス 講義「日本史Ⅰ――古代から戦国時代まで」

 マティアス/シュミットポット 初級ゼミ

 「日本古代中世史のいくつかの問題」

 マティアス/ゴッホ 総合初級ゼミ

 「近代から現代までの日本の家族の発展Ⅰ」

  ゴッホ 演習「近代史学文献講読」

  ゴッホ 演習「江戸時代史研究のための参考図書」

 シュミットポット 講読

「闇市からスーパーマーケットへ—1950年代の日本の日常生活」

  ドナト 演習「東アジア仏教入門」

・専門課程(Hauptstudium)

 マティアス 専門ゼミ

「20世紀におけるアジアと日本―日本における歴史と歴史教育」

  マティアス/ゴッホ 博士・修士候補者のコロキウム

  グランソー/レンツ/マルティン・リャオ/マティアス 

  「新たな映像 ― 新たな現実?中国と日本映画に見る社会変化」

  ゴッホ 演習「江戸時代史料講読」

  ゴッホ ゼミ「初期の欧日交渉」

 シェーラー/モル・ムラタ 学際ゼミ

 「日本の満州植民政策とその結果」

 このように,近世・近現代を中心としながらも,多彩な内容が工夫されており,また,映像を使ったり,学際的な試みもなされている.

 日本語学・文学の方は以下のような講義がある.

・基礎課程

  ドナト 初級ゼミ「現代日本文学」

 N.N. 初級ゼミ「日本学の参考図書と研究方法Ⅰ」

  デンハルト 講習「日本語専門講読Ⅲ」

   N.N. 講習「古典日本語入門 I. a」

・専門課程

   N.N. 講習「文語――入門と講読」

  リックマイヤー 講義・演習「漢文読み下し文入門」

  リックマイヤー 講読「『大学』――日本式の読み方」

  リックマイヤー 講読・講義「狂言――中世日本語入門をかねて」

  ハッセルベルク 「現代日本語文法意味論の上級ゼミ」

  ドナト ゼミ「現代日本女性文学」

 なお,これらの専門の基礎となる日本語教育は,中国語・韓国語などとともに基礎課程において開講されており,リックマイヤー教授,デンハルト講師,池沢講師によって担当されている.

 学生数は日本史だけでは約30名くらいである.

 アジア学部では,1978年より Bochumer Jahrbuch zur Ostasienforschungen を刊行しており,1996年で20巻を数える.極めて質の高い専門論文を集めており,ドイツにおける斯学の最も注目される雑誌の一つである.

 マティアス教授の着任を機に,東アジア学部や日本研究に関して充実を図るため,1997年には様々な新鮮な試みがなされている.例えば,

 1)秀村文庫の受け入れ.マティアス教授の九大時代の恩師である秀村選三名誉教授の社会経済史関係の蔵書の寄付を受け,その方面の充実を図る.

 2)学部・学科の宣伝活動.ホームページの開設(http://www.ruhr-uni-bochum.de/oaw).学科の年度報告作成.また,学部のパンフレットも準備中.

 3)授業内容の刷新,学際的授業の設置.上記のように,中国歴史・日本歴史の協力による満州国時代の研究,映像(映画)を使っての日中の生活比較,日本関係諸教官共同による日本に関する総合的入門講義の開設,等.

 なお,以前からあったものであるが,昼の研究会(Mittagsforum)では毎週月曜日の12―1時に,比較的インフォーマルな形でスタッフを始めとする専門家の発表と討議がなされている.1997年12月8日には,筆者も本大学滞在中の研究の一端を「シーボルトと仏教」と題して,英語で発表した.

(2)シーボルトコレクション

 ルール大学東アジア学部が所蔵する資料の中で,もっとも貴重なものがシーボルト・コレクションである.シーボルトのコレクションは,ミュンヘン,ライデン,ウィーン,ロンドンなど各地に散在するが,ルール大学が所有するものは,シーボルトが収集した日本の美術や民俗資料よりも,シーボルトの大著『日本』執筆のためのノート類が中心になっている.このため,他のコレクションに比べて地味であるが,『日本』成立を知るために欠くことのできない貴重な資料が多く,シーボルトが日本滞在時に日本人の門人に提出させたレポート類なども含んでいる.

 このコレクションは,もともとは1927年にベルリンの日本文化研究所Japaninstitutがシーボルトの長男アレクサンダーの娘エーリカから入手したもので,戦争の激化に伴い,同研究所の所蔵文献は一部はフュルステンヴァルトに疎開したが,これらはソ連に接収されて行方が分からなくなった.他方,テューリンゲンのウールシュタットに疎開したものは,アメリカ軍に接収された後,1958年には西ドイツ図書館に返還された.その後,日本文化研究所再建が実現しないため,ついに1966年にルール大学創建の際の助成として,同大学に寄付された.このコレクションは東アジア学部図書館が所有するものであるが,保管上の理由から,同大学総合図書館書庫に置かれている.

 同コレクションの整理,目録作成は大きな課題であったが,1981年からその作業にかかり,日本史学のデットマー教授を中心に大規模な作業が進められ,ついに1989年にヴェラ・シュミット博士Dr. Vera Schmidtの手になる目録が完成した(Die Sieboldiana- Sammlung der Ruhr- Universität Bochum).これには,600点を超えるコレクションの内容が,詳細に記述されている.この間にあって,1975年には沼田次郎氏,1986―87年宮崎道生氏が客員教授として滞在し,同コレクションの整理に当って大きな役割を果たした.

 筆者は幸いにボッフム滞在中に,マティアス教授の好意によって,同コレクション中の宗教関係の写本2部を詳しく調べることができた.その成果の一部は,「シーボルト/ホフマンと日本宗教」(『季刊日本思想史』55,1999)に発表予定である.

(3)東京大学との交流

 ルール大学と東京大学の交流は1969年に始まり,まもなく30年を迎えようとする長い歴史を持っている.ルール大学創設間もない頃,1996年11月に当時の東京大学大河内一男総長がルール大学を訪れ,ルール大学グレーフェン総長(Prof. Dr. Heinrich Greeven)と懇談し,その中で教員の相互交換を申し出たのがそもそものきっかけで,同12月26日付けで大河内総長からグレーフェン総長宛てに書簡が送られ,それに基づいて,試験的に教官の派遣がはじめられた.その後,その経験に基づいて,1969年に東京大学加藤一郎総長とルール大学ビーデンコップ総長(Prof. Dr. Kurt Biedenkoph. 現在,ザクセン州知事)との間で「東京大学およびボッフム=ルール大学間の学術交換の実施に関する合意書」が取り交わされ,正式に交流がはじめられた.

 大河内書簡および合意書に基づき,その後,両大学から教員の相互派遣が行われて今日に至っている.東京大学からの派遣は教養学部と文学部から一年交替で教授または助教授がルール大学の客員教授として派遣され,ボッフム側は東アジア学部が受入先となっている.分野は,哲学,ドイツ文学その他,幅広い分野が対象になっているが,特に受入先の関係もあって,日本学(国語・国文学,日本史)関係者が多いのが特徴である.滞在費用はそれぞれ派遣側が負担することになっているので,日本側は文部省在外研究(長期)によってきた.滞在中は,研究任務を主とし,それを妨げない範囲で教育活動にも従事することになっており,日本学関係の教官はしばしば東アジア学部での授業を担当している.私も1997年夏学期に日本仏教史の授業を担当した.ボッフム側からも同様に毎年教員が派遣され,東京大学の客員教授として研究に従事している.

 ボッフム側の受け入れ担当の責任者は当初東アジア学部長が当っていたが,1985年よりドイツ文学のグロッセ(Grosse)教授が担当し,1997年よりマティアス教授に引き継がれ,新たな交流の発展に向かって,東大側と協議しつつある.

 なお,ボッフム側における受け入れに当って,長年尽力されてこられたのが,東アジア学部日本語学・文学のAkademischer Oberrat であったミュラー=ヨコタ博士(Wolfram Müller-Yokota)であった.同先生は,ハンブルク大学に学び,広島大学講師,ボンの日本大使館勤務などを経て本学で日本語を教え,その懇切な指導は学生たちの人気を博してきた.それとともに,日本人の夫人とともに日本からの派遣者に対して献身的な協力を惜しまず,同博士のおかげで,ドイツ語が十分にできない日本学関係者でも安心してドイツでの研究生活に従事することができたのである.同博士が1993年に定年退職してから,しばらく受け入れ担当者が不在であったが,マティアス教授の就任とともに,同教授が受け入れに関しても責任を持って当ることになった.

 なお,同協定に基づいて,派遣された東大側の教官は以下の通りである.

原佑(1967),内垣啓一(68),阿部秋生(69),尾藤正英(70),越智治雄(71),生野幸吉(72,73),古田東朔(74),築島裕(75),西川正雄(76),石井進(77),青柳晃一(78),久保田淳(79),義江彰夫(80),富永健一(81),篠原昭二(82),山口明穂(83),恒川隆男(84),浜井修(85),田中明彦(86),上野善道(87),三角洋一(88),金井新二(89),麻生建(90),関根清三(91),神野志隆光(92),村井章介(93),相澤隆(94),月本雅幸(95),鈴木淳(96),末木文美士(97)

(4)マティアス教授

 日本史学のマティアス教授は1950年生まれ.近代史を専攻している.最初ボッフムに学び,ウィーンに転じて,1977年北九州の炭鉱地帯の研究で博士号を得た.この博士論文はIndustrialisierung und Lohnarbeit. Der Kohlenbergbau in Nord-Kyûshû und sein Einflus auf die Herausbildung einer Lohnarbeiterschaft(産業化と賃金労働:北九州の炭坑と賃金労働者形成への影響)(Wien, 1978)として出版されている.1977―91年,ボン大学助手を勤め,1991年デュイスブルク大学教授となり,1996年秋からルール大学に転じた.デュイスブルク大学在任中は副学長の要職についている.日本へは,慶応大学・九州大学に留学している.

 同教授はボン大学在職中は日本語教育を担当していることからも知られるように,日本語もきわめて堪能である.研究の中心は大正・昭和期の社会・経済史であるが,女性史・生活史・文化史などにわたって幅広い関心を持ち,大きな成果を挙げている.その方法論は,従来の文献中心の日本学に対して,社会科学的な方法を重視するもので,ご夫君のマールブルク大学パウアー教授とともに,ドイツの日本研究の新しい動向を代表する研究者である.なお,正式にはマティアス=パウアー(Mathias-Pauer)という複姓である.

 日本語でも研究を発表しており,『福岡県史』の編集にも協力している.梅棹忠夫・栗田靖之編『知と教養の文明学』(中央公論社,1991)所収の論文「大量生産品となった文学的素養」は,レクラム文庫と岩波文庫を比較して,これらの文庫がそれぞれの社会の中で文学的教養の普及に大きな役割を果たしながら,教養の「民衆化」を十分に果たし得なかったという問題点を指摘しており,思想史と社会史・産業史を結ぶ新鮮な切り口を示している.

なお,同教授の方法論的な論文として,デュイスブルク時代に東アジア研究所の理念である「地域研究」(Regionalstudien)を論じたものがある.Warum  Regionalwisseschaften?  Warum  Ostasiatische Regionalstudien? (Ostasiatische Regionalstudien: Warum? Institut für Ostasienwissenschaften, Gerhard-Mercator-Universität Gesamthochschule Duisburg, 1995).「地域研究」(Regionalwissenschaft, Regionalstudien)は,英語のarea studiesに当るもので,まず,しっかしりた実用になる語学の訓練をもとに,様々な専門,特に社会学,政治学,文化・社会人類学,経済学,歴史学などの学際的な協力によって,その地域のできるだけ包括的な知見を得ようとするものである.

 この方法は,従来の古典的な主として文学的な文献の解明にもとづいて文化を理解しようとする方法と対立するもので,1980年代にドイツ各地の大学に導入されるようになった.従来の方法に基づく日本研究がしばしば「日本学」Japanologieと呼ばれるのに対して,この新しい方法は「日本研究」(Japanstudien; Japanese Studies)と呼ばれることもある.

 日本においても,この二つの方法は文化研究に際してしばしば議論の的になるところで,ドイツでもこの新しい動向に対しては批判もある.しかし,マティアス教授の求めるのは,どちらかの方法に固執した二者択一的な態度ではなく,より開かれた形での学際的な協力による総合的な異文化の解明ということであり,マティアス教授自身の成果がそうした学際的な性格を持っている.文献研究の立場に立ちながらも,それだけに狭く限ることに疑念を持つ筆者は,マティアス教授の方法に学ぶところが少なくなかった.

2,ドイツ各地の大学・研究機関

 ドイツにおける日本研究の状況については,Klaus Kracht: Japanologie an deutschsprachigen Universität, Wiesbaden, 1990がきわめて詳しく便利であるが,今日ではやや情報が古くなっている.最近,マティアス教授の作成された資料によると,現在,ドイツ語圏の以下の大学に日本関係の講座があり,担当教授がいる.

Berlin(FU) 文学(Hijiya-Kirschnereit),経済(Park)

Berlin(HU) 言語文化(Kracht思想史)

Bochum 歴史(Mathias),言語(Rickmeyer),東アジア政治(Weber-Schäfer),東アジア経済(Klenner)

Bonn(JS)  歴史(Pantzer),日本学(Kreiner)

Bonn(SOS) 言語(Genenz)

Düsseldorf 近代史(Müller, Klaus),女性(Mae)

Duisburg 東アジア経済(Pascha),東アジア政治(欠員),社(欠員),東アジア地理(Flüchter),言語文化(欠員)

Erlangen 文化人類学(Ackermann)

Frankfurt 文学(May)

Göttingen 文学・演劇(Fischer, Klaus)

Hamburg 中世言語文学(Schneider),政治・社会(Pohl),言語文学(Genenz)

Halle 政治(Foljanty-Jost),社会経済史(空席)

Heidelberg 文学(Schamoni),政治(Seifert)

Köln 文学・思想史(Ehmcke)

Leipzig 思想史(Richter)

Marburg 社会・歴史(Pauer経済・技術史),法律(空席),宗教・思想史(Pye),経済(日本からの客員教授)

München(Japanologie) 文学(空席),宗教(Laube),思想史(Steenstrup)

München(Japan-Zentrum) 思想史(Pörtner),経済(Waldenberger),

             法律(客員教授)

Trier   文化人類学・歴史(Antoni),文学(Gössmann)

Tübingen  歴史(空席),言語(Eschbach-Szabo)

Wien 社会(Linhart)

Zürich  文学・演劇(Klopfenstein)

 以下,筆者が情報を得られた範囲で,いくつかの地域について簡単に記しておく.

〔ベルリン〕

 ベルリン・フンボルト大学日本言語文化センター(Zentrum für Sprache und Kultur Japans)は,旧東ドイツ時代の日本学講座を改組し,1995年に新たにテュービンゲン大学からクラハト教授(Klaus Kracht)を招かいて設立した.日本学研究所(Institut für Japanologie)と森鴎外記念館(Mori-Ôgai-Gedenkstätte)からなる.前者が通常の研究教育組織であり,190名の学生を擁し(1996年冬学期),日本語・日本文化の研究・教育を行っている.クラハト教授はボッフムの出身で,江戸時代の思想史を専門とし,中堅の日本研究者として幅広い活動を行っている. 1997年には平石直昭教授(東京大学社会科学研究所)が客員教授として滞在した.森鴎外記念館は森鴎外の旧下宿先を記念館としたもので,資料の収集・展示・研究を行っている.

 ベルリンのもう一つの大学である自由大学(Freien Universitat)の東アジア研究室日本学専攻(Ostasiatisches Seminar, Japanologie)は,現代文学を専攻するヒジヤ=キルシュネライト教授(Irmela Hijiya-Kirschnereit)が指導に当っている.同教授は1997年現在,東京のドイツー日本研究所長として赴任している.なお,クラハト教授,ヒジヤ=キルシュネライト教授ともにボッフムの出身である.

 ベルリンには国立図書館(Staatbibliothek zu Berlin)があり,ここの東アジア部門は日本関係の最大の蔵書を誇り,この蔵書は各地の大学からも借り出すことができる仕組みになっている.

 さらに,ベルリンにおける日本関係組織として,ベルリン日独センター(Japanisch-Deutsches Zentrum Berlin)が重要である.ここは戦前の日本大使館跡を整備して,1988年に開設されたもので,日独政府の援助下に,各種シンポジウムの開催など,日独文化交流の基点となっている.なお,首都のベルリン移転に伴い,この建物が新たに日本大使館となるため,日独センターは別に移る予定である.

 以上,ベルリンの日本研究の状況については,Bert Becker: Japan an der Spree―Deutsch-Japanische Beziehung im Spiegel Berlins und Brandenburgs (Die Ausländerbeauftragte des Senats, 1996)に詳しい.

〔ボッフム〕

 ルール大学の他,ノルトライン=ウェストファレン州立言語文化研究所(Landesspracheninstitut Nordrhein-Westfalen. LSI)で日本語教育がなされている.この研究所は,ロシア語・中国語・日本語・アラビア語の4部門からなり,大学と違って,授業料を取って語学の集中教育を行っている.日本語部門はヤポニクム(Japonicum)と呼ばれ,シュルテ=ペルクム所長(Rudolf Schulte-Pelkum)のもとに,ドイツ人・日本人講師が指導に当っている.基礎コース・初級コース・中級コースの3つのコースが開講されて,それぞれ3週間ずつの密度の高い集中教育が行われている他,ホームステイによる東京の夏季コースもある.

〔ボン〕

 ボン大学日本文化研究所(Japanologisches Seminar)は,クライナー教授(Josef Kreiner)とパンツァー教授(Peter Pantzer)が指導している.両教授ともにウィーン大学の出身で,クライナー教授は同大学の社会民族学的研究の流れを受け,社会科学的方法を採り入れた先駆者である.沖縄研究などに成果を挙げている.パンツァー教授は日欧交渉史などの分野を専門とする.中世史のタランチェフスキー氏(Detler Taranczewski)など,研究者の層が厚い.ボン大学では別に東洋語学科(Seminar für Orientalische Sprachen. SOS)があり,日本語教育はこちらで行われる.ゲネンツ教授(Kay Genenz)が担当している.なお,ボン大学に関しては,大林太良「ボン大学における日本研究」(『東方学』89)に詳しい.

〔デュッセルドルフ〕

 デュッセルドルフ大学で近代を中心とした日本研究がなされている他に,私立の施設として「恵光」日本文化研究センター(恵光ハウス.EKO-Haus der Japanischen Kultur e.V.)がある.ここは日本の仏教伝道協会によって1988年に基礎が築かれた.仏教伝道協会は故沼田恵範氏の発願になる仏教伝道を目的とする組織であり,国際的には諸国語訳「仏教聖典」の普及,英訳大蔵経の刊行,欧米の大学への寄付講座の開設(Numata Chair)などで知られる.本センターは仏教と日本文化の普及を目的として,ドイツ文学者として知られる薗田宗人所長(元大阪市大教授)のもとに活動を展開している.

 ここには欧州で唯一の本格的な日本式仏教寺院の他に,日本庭園・日本家屋などがあり,幼稚園と図書館の設置を準備中である.各種法要(彼岸・盂蘭盆・除夜など)や座禅会,学術シンポジウム,各種講演会・文化コース(華道・書道・日本舞踊・語学など),コンサート,春祭りなど,様々な活動がなされている.寺院は浄土真宗本願寺派に属するが,一宗に限らず,座禅会をはじめ,日本系の諸宗派を広く受け入れている.また,恵光奨学生と大谷奨学生の2種類の奨学生を毎年日本から受け入れ,その研究を援助している.

 学術シンポジウムは4月と9月の2回行われ,4月は日本研究,9月は仏教研究を中心とする.1997年は春は,「日本における生活形態と生活像(Lebensformen und Lebensbilder in Japan)」というテーマで4月2―5日に開催された.発表者は,小林亮(慶応大学),Michiko Mae (Düsseldorf),河野英二(早稲田大学,恵光奨学生),Steffi Richter (Leipzig),Peter Pörtner(München),W.J. Boot(Leiden), Guido Rappe(Virsen), Carl Steenstrup(München),Wolfram Naumann,Nelly Naumannの諸氏である.ネリー・ナウマン博士はフライブルク大学の日本学を率いていたが,同教授の退職後,同大学の日本学は閉鎖された.古代日本宗教史の第一人者である.ご夫君のヴォルフラム・ナウマン博士はミュンヘンの日本学教授を退職したが,幅広い古典文学研究で知られる.ボート教授は江戸時代の思想史を専門とするが,仏教にも造詣が深く,諸国語に通じ,国際的な指導者の1人である.

 同年の秋のシンポジウムは,「仏教と西欧哲学における因果(Kausalität, Ursache und Wirkung im Buddhistischen und westlichen Denken)」をテーマに,9月3―6日に開催された.発表者は末木文美士(東京大学),Christian Lindtner(Naerum),梶山雄一(創価大学),Alexander Mayer(Heidelberg),Hans Rudolf Kantor(Bonn),Rolf Elberfeld (Wuppertal),Hendrik Sorensen(Kopenhagen),Theodor Leiber(Augusburg),Hans Lenk(Karlsruhe),Tadashi Otsuru(München)である.

 また,年1回,ドイツ語圏の浄土真宗信者が集まるシンポジウムも行われており,1997年は11月7―9日,竜谷大学大峯顕教授を招いて行われた.

 恵光ハウスでは, EKO-Blätterというパンフレットと,Hôrin(法輪)という雑誌を年1回ずつ発行している.後者は1994年から刊行され,仏教及び日本文化に関する質の高い論文を集めて定評がある.なお,同誌の編集やシンポジウムの中心になっているのは,カールスルーエ(Karlsruhe)大学パウル教授(Gregor Paul)で,仏教を中心とした日本哲学の研究者である.

〔ケルン〕

 ケルン大学の日本学(Ostasiatisches Seminar, Japanologie)はエームケ教授(Franziska Ehmcke)が率いている.エームケ教授は,日本文化史が専攻で,『一遍聖絵』の独訳(Die Wanderungen des Mönches Ippen, 1992)で知られる.このように,仏教に詳しく,また,茶道・華道にも詳しい.ドイツの仏教研究,特に中国・日本仏教に関しては,哲学的なアプローチが多い中で,エームケ教授は美術などとも関連させた文化史的なアプローチをしている点に特徴がある.

 ケルンの日本学科のある建物の近くには,日本文化会館(Japanisches Kulturinstitut)と東アジア美術館(Museum für Ostastische Kunst)があり,日本文化研究には非常によい環境になっている.日本文化会館(上田孝館長)は国際交流基金によって設立されたもので,コンサート・映画・講演・日本語講座など,日本文化普及のための事業を行っている.

 1997年10月31日―11月2日には,これら諸機関の協力で,Indras Netzというシンポジウムが開かれた.これは,仏教で言う「因陀羅網」(帝釈天の宮殿を飾っている網で,その網の結び目の無数の宝石が相互に反映しあうというもの)に現代の情報ネットの問題を引っかけて,仏教・現代哲学・情報理論・コンピューターアートなど,幅広い分野の間で討議を行うという斬新で刺激的な試みであった.

〔ハンブルク〕

 ハンブルク大学の日本言語文化研究室(Seminar für Sprache und Kultur Japans)は,1914年にドイツの諸大学の中で最初に設けられた日本研究機関である.現在,古典文学をシュナイダー教授(Roland Schneider),政治・社会をポール教授(Manfred Pohl),言語文化をゲネンツ教授(Kay Genenz)が担当している.シュナイダー教授は,幸若舞など中世文学を専攻しており,仏教にも詳しい.本大学には,インド学のシュミットハウゼン教授(Lambert Schmithausen),中国学のフリードリッヒ教授(Michael Friedrich)と,ともに仏教に詳しい教授陣がそろっており,協力して仏教研究に当っている.仏教研究センター設立の計画もあったが,予算難で実現していない.1996年には日本言語文化研究室が中心になって,小松智光尼の『ブッダの教えと平和への道』の独訳が刊行されている(Die Lehre Buddhas und der Weg zum Frieden).

〔マールブルク〕

 マールブルク大学の日本研究センター(Japanzentrum)は1988年に開設され,パウアー教授(Erich Pauer)を所長に,上記のような地域研究としての社会科学的なアプローチを重視する,新しいタイプの研究所として発展してきた.パウアー教授はマティアス教授のご夫君であるが,ウィーン大学に学び,技術史の分野で大きな成果を挙げており,社会・経済史にも詳しい.1994年には,センター内に日本環境問題研究会(Arbeitgemeinschaft für Umweltfragen Japans)が設置され,日本における環境問題の研究に従事している.また,全農林文庫のように,他の諸大学と性質を異にした特殊文庫を受け入れている.

 同センターでは,パイ教授(Michael Pye)が宗教学を担当している.パイ教授はイギリス出身で,『法華経』などの方便の問題を扱ったSkilful Means(1978)や富永仲基の『出定後語』の英訳(Emerging from Meditation, 1990)で知られる.なお,本大学には,オットー,ハイラーなどの著名な宗教学者に由来する宗教博物館(Religionskundliche Sammlung)があり,日本の宗教関係の収集品も展示されており,クラーツ博士(Martin Kraatz)が管理に当っている.

〔ミュンヘン〕

 ミュンヘン大学の日本研究は,哲学部(Philosophische Fakultät für Altertumkunde und Kulturwissenschaften)の中に属し,東アジア研究所日本学科(Institut für Ostasienkunde, Japanologie)と日本センター(Japan-Zentrum)で研究・教育がなされている.主として前者では前近代,後者で近代を扱う.前者は法制史が専門のシュテーンシュトルプ教授(Carl Steenstrup),哲学史が専門のラウベ教授(John Laube)がいる.シュテーンシュトルプ教授には著書History of Japanese Law (1991) があり,ラウベ教授には,著書Dialektik der absoluten Vermittlung. Hajime Tanabes Religionsphilosophiee als Beitrag zum “Wettstreit der Liebe” (1984) がある.日本センターの方は主として現代日本を扱い,ペルトナー教授(Peter Pörtner)が率いる.ペルトナー教授は西田幾多郎の『善の研究』の独訳で知られ(Nishida Kitaro’s “Zen no kenkyû”, 1990),哲学に詳しい.

 なお,上記のパウル教授やペルトナー教授の提出している「日本哲学」の理解に関しては,拙稿「『日本哲学』の可能性」(拙著『解体する言葉と世界』,岩波書店,1998所収)で,また,ネリー・ナウマン博士の日本宗教史研究に関しては,拙稿「ネリー・ナウマン著『日本の土着宗教』について」(『神道古典研究』5,1999)で論じた.

 
© Young Buddhist Association of the University of Tokyo
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