Studies of Buddhist Culture
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2001 Volume 5 Pages 51-73

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1.問題の所在

 瑜伽行派の思想は一般には唯識思想と考えられている.この「唯識」とはサンスクリット語のvijñaptimātraの漢訳であり,唯識思想とは一切の法はただ識(vijñapti)のみであって,外界の対象は実在しないという考え方である.たとえば,代表的な唯識思想家ヴァスバンドゥはその著書『唯識二十論』の第一偈で,

これは識のみ(vijñaptimātra)に他ならない.実在しない対象(asadartha)が現れているのだから.1

と述べ,認識されている対象が実在しないことを説いている.また,認識の対象はvastuと呼ばれることもあるが,このvastu について,同じくヴァスバンドゥの『唯識三十頌』では次のように説かれている.

あれこれの分別(vikalpa)によって,あれこれのvastuが分別されるが,それは遍計されたに過ぎない自性であって,それ(遍計された自性)は実在しない.

一方,依他起性は縁によって生じた分別であり,円成実はそれ(依他起性)が前者(遍計所執性)を常に欠いている状態である.2

ここではvastuは分別によって構想された遍計所執の自性であり,実在しないものと考えられている.この『三十頌』の二偈は唯識思想の重要な学説である三性説について解説しているものだが,ヴァスバンドゥの考える三性説の体系では,勝義である円成実性は依他起性が遍計所執性を離れている状態,すなわち分別がその対象であるvastuを離れている状態であり,その際vastuの存在性はまったく認められていない.そもそもvastuが勝義的状態に関わる余地すらない.

 ところが,瑜伽行派の基本典籍である『瑜伽師地論』(以下『瑜伽論』)「本地分」に含まれる『菩薩地』(Bodhisattvabhūmi)ではvastuは勝義として実在するものとされている.その点で『菩薩地』は唯識思想とは一見してかなり隔たりのある思想的立場に立っており,唯識思想以前の瑜伽行派の思想を伝えていると考えられる3

 ところで,そのようにvastuの実在性を主張する『菩薩地』の中に,「分別(vikalpa)からvastuが生じる」という記述がある.この場合のvastuは色(rūpa)などの名称で呼ばれる存在物であり,一方,分別はそれを対象とする心の働きである.このように心の働きから存在物が生じるとするのは唯識思想との関係を予想させるが4,こうした記述はvastuを勝義的実在とする『菩薩地』の思想とは矛盾しているようにも思われる.そのためこれは後代の思想的影響による増広との指摘もある5

 本論文では,『菩薩地』の思想を理解する上で,また唯識思想との関係を考察する上で問題になると考えられる「分別(vikalpa)から生じるvastu」に関連すると思われる「摂決択分」と『般若経』「弥勒請問章」の記述を取り上げ,瑜伽行派の思想におけるvastu 解釈の問題について考察する.

2.『菩薩地』における分別(vikalpa)から生じるvastu

 まず,『菩薩地』に見られる「分別(vikalpa)から生じるvastu」について概観しておく.vastuに関する学説は『菩薩地』第四章「真実義品」で詳細に取り上げられている.それによれば,vastuとは,色(rūpa)などの名称で呼ばれるものだが6,言語表現し得ない(nirabhilāpya)本質を持つという点で勝義的に実在するものと考えられている7.『菩薩地』はこのようなvastuの存在様態を論理的に説明し,またそれを裏づける教証を引用しているが8,今はそれらの内容は省略する.

 さて,vastuが言語表現し得ない本質を持っていることを説明した上で,『菩薩地』はvastuと分別(vikalpa)との関わりについて,次のように解説を始める.

他ならぬこの真如がこのように正しく理解されていないので,凡夫たちにはそれが原因となって,三種のvastuを生み出すものであり,すべての有情・器世間を作り出すものである八種の分別が起こる.9

ここで「真如」と言われているのは諸法が言語表現し得ない本質を持っていること(nirabhilāpyasvabhāvatā)であり,その内容を論理と教証(yukti,āgama)によって説明したように理解しなければ,vastuを生み出す八種の分別が起こることになる10.八種の分別とは

①自性についての分別(svabhāvavikalpa)

②特殊についての分別(viśeṣavikalpa)

③集合体を把捉する分別(piṇḍagrāhavikalpa)

④私であるとの分別(aham iti vikalpa)

⑤私のものであるとの分別(mameti vikalpa)

⑥好ましいものについての分別(priyavikalpa)

⑦好ましくないものについての分別(apriyavikalpa)

⑧その両者を離れた分別(tadubhayaviparītavikalpa)

であり,また三種のvastuとは

i)「色」などの名称を持ち分別戯論の拠り所となるvastu(vikalpaprapañcādhiṣṭhāna,vikalpaprapañcālambana)

ii)有身見と我慢(satkāyadṛṣṭi,asmimāna)11

iii)貪瞋癡(rāgadveṣamoha)

であって,①②③は i)を,④⑤は ii)を,⑥⑦⑧は iii)をそれぞれ生み出すとされている12.このような分別(vikalpa)とvastuの関係について,さらに次のように説かれている.

また,それはまとめると以下の二つ,(すなわち)分別(vikalpa)と分別の基体であり,分別の拠り所であるvastuとなる.そして,この両者は始まりのないはるか昔からのものであり,お互いを原因とするものと理解すべきである.過去の分別は分別の拠り所である現在のvastuが生起するための(原因であり),さらにすでに生起した,分別の拠り所である現在のvastuは,それ(vastu)を拠り所としている現在の分別が生起するための原因である.ここで今現在,分別について正しく理解していないことが未来にそれ(分別)の拠り所であるvastuが生じるための(原因である).さらにまた,それ(vastu)が生じるので,必ずそれ(vastu)を基体とし,それ(vastu)に依存している分別も生じることになる13

 それぞれ八種と三種に分類され,それらの関係が個別に説かれていた分別(vikalpa)とvastuは,単なる分別(vikalpa)とその分別の拠り所としてのvastuにまとめられる.分別(vikalpa)の拠り所としてのvastuは先の分類では i)に相当するが,『菩薩地』によれば,三種のvastuのうち iii)は ii)に,ii)は i)に依存するとされているので14,結果として三種のvastuは分別戯論の拠り所としてのvastuに帰着することになる.三種のvastuのうち,ii)と iii)は事物というよりはむしろものの見方やものに対する感情であるのに対して,i)は色(rūpa)などの名称を持つ事物としてのvastuであり,そのようなvastuと分別が過去から未来にむかって相互に因果関係にあるとされている(下線部).以上が『菩薩地』における「分別(vikalpa)から生じるvastu」の概要であり,これに続く部分ではこの分別(vikalpa)を正しく理解する方法について説かれているが,ここでは省略する.

3.「摂決択分」における分別と*vastuの相互因果関係

3-1.五事説における「分別から生じる相(*nimitta)」

 『瑜伽論』「摂決択分」には『菩薩地』「真実義品」を五事説によって解説している箇所があり,その中に分別とvastuの関係への言及があるので,その内容を検討しようと思うが15,その前に五事説について簡単に触れておく.五事説とは相,名,分別,真如,正智の五つの要素(五事)によって一切法を説明しようとする瑜伽行派の学説であり,『瑜伽論』「摂決択分」で特に重視されているが,その他の唯識論書では三性説との関連で触れらる以外にはほとんど取り上げられることがない.「摂決択分」はそれら五事を次のように定義している.

相(rgyu mtshan = *nimitta)とは何かというならば,まとめると言語表現のための語の基体となった*vastu(= dngos po)である.

名(ming = *nāman)とは何かというならば,他ならぬこの相に対する名称(tshig bla dags = *adhivacana)である.

分別(rnam par rtog pa = *vikalpa)とは何かというならば,三界においてはたらく心心所の諸法である.

真如(de bzhin nyid = *tathatā)とは何かというならば,法無我として現れた,聖者の智慧の対象領域であり,すべての言語表現の基体とならない*vastu(= dngos po)である.

正智(yang dag pa'i shes pa = *samyagjñāna)とは何かというならば,それはまとめると二種と見られるべきである.(すなわち)ひとえに出世間的(な正智)と世間的であり出世間的でもある(正智)である.16

 下線で示したように,五事のうち相(*nimitta)は言語表現の基体となった*vastuとして,一方,真如(*tathatā)はすべての言語表現の基体とならない*vastuとして定義されている.「摂決択分」では,この両者は異なるとも異ならないとも言うべきではないとされているので17,五事説においては,言語表現の基体となるか否かという点で,*vastuが相と真如という二つの側面に分析されていると見ることができる.なお,相は分別の対象領域,真如は正智の対象領域とされている18

 さて,このような相(*nimitta)と分別(*vikalpa)の間には次のような相互因果関係がある.(参考のために真如に関する箇所も引用しておく.)

相(*nimitta)は何から生じるものと言うべきかと言うのであれば,(次のように)答える.相から生じるものと過去の分別(sngon gyi rnam par rtog pa=*pūrvavikalpa)から生じるものである.…  分別(*vikalpa)は何から生じるものと言うべきかと言うのであれば,(次のように)答える.分別から生じるものと,相から生じるものである.… 真如(*tathatā)は何から生じるものと言うべきかと言うのであれば,(次のように)答える.生起しないもの(*anutpāda)と言うべきである.19

 下線で示したように,「相は過去の分別から」生じ,また「分別は相から」生じるという関係は,先に引用した『菩薩地』の記述とよく一致する.『菩薩地』では

過去の分別は分別の拠り所である現在のvastuが生起するための(原因であり),さらに,すでに生起した,分別の拠り所である現在のvastuは,それ(vastu)を拠り所としている現在の分別が生起するための原因である.20

と説かれていたが,すでに述べたように五事説の相(*nimitta)は分別の対象領域(rnam par rtog pa'i spyod yul)とされているので,『菩薩地』に説かれる「分別の拠り所(vikalpālambana)」に相当すると言えよう.したがって,「摂決択分」に見られる相と分別の相互因果関係は『菩薩地』の説くvastuと分別の相互因果関係と内容的に一致するものと言える.

 ところで,五事説で説かれる相(*nimitta)には本性相(rang bzhin rgyu mtshan = *prakṛtinimitta)と影像相(gzugs brnyan rgyu mtshan = *pratibimbanimitta)の二種類があるとされているが,両者はそれぞれ次のように説明されている.

本性相とは何かと言うのであれば,(次のように答える.)過去の分別によって生じた相と,相から生じ,周知のものとなった相である.

影像相とは何かと言うのであれば,(次のように答える.)遍計されたもの(kun brtags pa = *parikalpita)であり,それは思い込み(*adhimukti)によって現れたものなのだが,自性として存続するものではない.21

 下線で示したように,過去の分別によって生じる相(*nimitta)は本性相である.本性相の「本性(rang bzhin = *prakṛti)」が何を意味するのか明確ではないが,影像相との関係から推察すると,影像に対する実体を指しているものと考えられる.「摂決択分」では五事説における相(*nimitta)は実有(*dravyasat)の場合と仮有(*prajñaptisat)の場合があるとされているが22,影像相が仮有とすれば,本性相は実有に相当すると考えられる.

 以上のことから,五事説で説かれる「分別から生じる相(*nimitta)」は『菩薩地』で説かれていた「分別から生じるvastu」と内容的に一致しており,その場合,分別から生じるのは影像のような実体のないものではなく,何らかの実在と考えられていると言える.

 ところで,すでに述べたように「分別から生じるvastu」に関する記述を後代の付加とする見解があり,それによればvastuの「絶対的実在」を「隠蔽」しようとする意図がその背景にあると考えられている23.しかし,これまでに見てきたように分別から相(*nimitta)すなわち言語表現の基体であり,分別の対象である*vastuが生じるという学説はvastuの実在性を否定するようなものではない.また,「摂決択分」には次のような記述がある.

「本地分」で過去の八種の分別から現在の三種の*vastuが生じることになるとすでに説かれている・・・24

 これも五事説に関する議論の中に見られる一文だが,ここで「本地分」と言われているのはその内容から明らかに『菩薩地』を指していると考えられる.したがって,「過去の分別からvastuが生じる」という学説は「摂決択分」で五事説が説かれる以前にすでに説かれていたと言える.以上のことから,問題の箇所が仮に増広されたものであるとしても,『菩薩地』の学説に改変を迫るような目的でなされたものとは考えられない.

3-2.言語表現から生じる*vastu

 これまで「分別から生じる相(nimitta)」について考察してきたが,「摂決択分」の他の箇所では「言語表現から生じる*vastu」という学説も説かれている25.「摂決択分」によれば,凡夫は言語表現される*vastu(brjod par bya ba'i dngos po = *abhilāpyavastu)を言語表現通りに自性(ngo bo nyid = *svabhāva)として執着しているとされており26,その理由の一つとして,相(mtshan ma = *nimitta)に対する言語表現(brjod pa = *abhilāpa)による束縛があげれらている27.さらに「摂決択分」はその言語表現による束縛の原因に論及しているが,その中で*vastuと言語表現(*abhilāpa)の相互依存関係を取り上げて,次のように述べている.

さらにまた,一方の生起にとっての基体は他方であるので.すなわち,*vastuに依存して言語表現が生じることも見られ,また言語表現に依存して*vastuが生じることも見られるので.

例えば,世間の人々は*vastuがある場合に,名称や言語表現によって分別するが,*vastuがない場合には分別することができないので,このように*vastuに依存して名称や言語表現が生じることが見られる.

例えば,静慮者が各人において静慮する場合,あれこれと意言(*manojalpa)に作意するとおりに,そのとおりに心相続に属する認識対象としての*vastuと同分である諸々の影像が現れるという仕方で生じることになるので,このように言語表現に依存して*vastuが生じることも見られる.28

 ここでは*vastuは分別(vikalpa)ではなく言語表現(brjod pa = *abhilāpa)と相互依存の関係にあるとされている.まず,*vastuに依存して言語表現が生じることについては,世間の人々が*vastuが存在する場合に言語表現により分別し,*vastuが存在しなければ分別しないという例をあげて説明している.この内容的については問題にすべき点はないだろう.

 一方,言語表現から*vastuが生じることに関しては,下線で示したように,瞑想中に生じる影像(gzugs brnyan = *pratibimba)を例にあげて説明しているが,こうした説明は,例えば『解深密経』で瞑想体験中の影像(gzugs brnyan=*pratibimba)が認識の表象(rnam par rig pa = *vijñapti)に過ぎないことから,一切法の唯識性が説明されていることを考えると29,唯識思想との何らかの関係を予想させるものである30.また「*vastuが生じる」という表現はすでに見てきた「分別(vikalpa)から生じるvastuあるいは相(nimitta)」という学説との関係も思い起こさせる31

 しかし,「分別(vikalpa)からvastuあるいは相(nimitta)が生じる」という学説では,過去の分別から現在のvastuあるいは相(nimitta)が生じ,現在のvastuあるいは相(nimitta)から現在の分別が生じるというように,時間の連続の中での相互因果(anyonyahetuka)が考えられていたのに対して,この箇所で説かれている*vastuと言語表現(*abhilāpa)の相互依存関係は,*vastuに依存して言語表現が生じる場合と言語表現に依存して*vastuが生じる場合をそれぞれ個別に説明しているだけで,厳密な意味での相互依存関係が説かれているわけではない.また,言語表現(*abhilāpa)から生じる*vastuを瞑想体験中の影像(*pratibimba)として説明しているが,五事説では分別から生じる相(*nimitta)は影像とは明確に区別されていたので,この箇所の*vastuの生起に関する見解は五事説に関連して説かれていたものとは視点が異なっている.

 したがって,ここで説かれる「言語表現(*abhilāpa)から*vastuが生じる」という学説は『菩薩地』などで説かれている「分別(vikalpa)からvastuが生じる」という学説とまったく同一の問題意識に基づくものとは言い難い.すでに指摘されているように,この記述が『菩薩地』などの思想から唯識思想へ移行する過渡期の思想を残していると見ることはできるであろうし32,そうした思想的立場からの「*vastuの生起」に対する解釈として理解することはできるが,『菩薩地』の思想を直接継承・発展させた思想とは言えないのではなかろうか.

4.「弥勒請問章」におけるvikalpamātraとしてのvastu

 「分別(vikalpa)から生じるvastu」について直接言及してはいないが,分別(vikalpa)とvastuの関係について参考になる記述が『般若経』「弥勒請問章」に見られる.

 「弥勒請問章」は『菩薩地』と同様に言語表現の基体をvastuと呼び33,またそのvastuは言語表現し得ない(nirabhilāpya)dhātuと異なるのでも,異ならないのでもないとしているが34,それに続けて次のように説いている.

実にマイトレーヤよ,その形成因(saṃskāranimitta)35であるvastuは決して存在することもなく,存在しないこともない.それはなぜか.マイトレーヤよ,あるいは,(1)その形成因であるvastuを汝が分別する時,その時,その形成因であるvastuは分別(vikalpa)に基づいて把捉され,また,あるいは(2)言語表現し得ないdhātuに関わっている智慧の働きに身を置いている(汝)が分別しない時,その時,無分別に基づいて把捉されるからである.…しかし,そのような場合,マイトレーヤよ,それに対して「これは色である…」という偶然的な名称が付与される (3)形成因であるvastuは分別に過ぎないもの(vikalpamātra)ではないのか36

 「弥勒請問章」では言語表現の基体であるsaṃskāranimittaとしてのvastuを分別する場合,そのようなvastuは分別に基づいて把捉されたもの,すなわち分別されたものであるから(下線部(1)),「分別に過ぎないもの」(vikalpamātra)であるとされている(下線部(3)).この内容からすれば,saṃskāranimittaとしてのvastuはvikalpitamātraとする方が適切なように思われるが,下線部(1)の後半を文字どおりに訳すと「そのsaṃskāranimittavastuが分別から認識に赴く(tat saṃskāranimittaṃ vastu vikalpato grahaṇam eti)」となり,単に対象物として存在しているvastuを判断的に認識する(vikalpayasi)という行為を説明しているのではなく,認識にのぼったものは分別(vikalpa)が起源となっているということを説明していると考えられるので,その意味で認識されたsaṃskāranimittaとしてのvastuは「分別に過ぎないもの」(vikalpamātra)と言える.その場合,そのような「分別に過ぎないもの」とされるvastuを認識する原因は分別であり,それ以外に何らかの対象物が存在するか,否かということは判定できないということになる.しかし,それはvastuが言語表現の基体となり,分別の対象となっている状態について述べられたものであり,言語表現し得ないdhātuに関わる智慧,すなわち無分別智が働いている状態に言及するものではない(下線部(2)).

 ところで「弥勒請問章」のこの部分の学説は言語表現の基体をsaṃskāranimittaとしてのvastuと呼び,それが勝義として言語表現し得ないdhātuと異なるのでも,異ならないのでもないとしている点で『菩薩地』のvastuに関する学説や「摂決択分」の五事説に近い37.特に,saṃskāranimittaとしてのvastuは五事説の相(nimitta)に相当し,言語表現し得ないdhātuは真如(tathatā)に相当すると考えられ,その点でより五事説に近いと言える.これは用いられている術語(vastu,nimitta,vikalpa,nirabhilāpyaなど)も『菩薩地』などと共通するものが多いことからも裏づけられる.

 しかし,五事説では相(nimitta)と分別(vikalpa)の関係について,「弥勒請問章」とは異なった見解を示している.「摂決択分」は相(nimitta)と分別の異同について次のように述べている.

(分別が相と)異なる場合,どのような過失があるのかと言うのであれば,諸分別は相(nimitta)を本質とするものではないことになる.

(分別が相と)異ならない場合,どのような過失があるのかと言うのであれば,分別を離れている諸相(nimitta)も分別を本質とするものに過ぎないものとなる.38

このように,五事説においては,言語表現の基体としての*vastuである相(nimitta)は分別よりも広い範囲に及ぶ概念なので,単に分別に過ぎないもの(vikalpamātra)とはなり得ない.

 「弥勒請問章」は言語表現の基体をvastuと呼び,それが勝義として言語表現し得ない(nirabhilāpya)としている点で『菩薩地』や「摂決択分」の五事説に近いが,そのようなvastuを分別に過ぎないものとする点で大きく異なっている.『菩薩地』の思想や「摂決択分」の五事説に比べて,「弥勒請問章」の学説はより分別(vikalpa)に重点を置いていると言える39

5.『菩薩地』の学説の再検討

 最後に『菩薩地』が「分別(vikalpa)からvastuが生じる」と説いた意図について考察しておく.分別(vikalpa)について『菩薩地』は次のようにも説いている.

凡夫達には三つのvastuを生み出すものであり,世間を作り出すものであるこの八種の誤った分別があるが,それ(分別)はこの四種の如実知を欠いているので,(すなわち)備えていないので起こる.さらにまたこの誤った分別から汚れが(起こり),汚れから輪廻の流転が(起こり),輪廻の流転から輪廻に随伴する生老病死などの苦が起こる.40

ここでは分別から生じるvastuは「世間」(loka)と言い換えられているが,これは有情世間と器世間のことである.また,さらに分別が原因となって汚れ,輪廻,生老病死などの苦が次第に起こるとされているように,分別は迷いの世界や輪廻,苦などの原因と考えられている.

『菩薩地』ではvastuは勝義として言語表現し得ない実在と述べられているので,「vastuが分別から生じる」という表現は確かに一見矛盾しているように見える.しかし,逆に勝義的実在であるvastuがまず存在し,それが原因となって分別が起こるとすると,勝義的なものから世俗的な迷いの世界や輪廻が生じるということになってしまう.こうしたことから考えて,『菩薩地』が「分別からvastuが生じる」と説いた意図は勝義的な実在であるvastuが分別から生じるということを説こうとしているのではなく,迷いの世界の原因が分別(vikalpa)にあることを説こうとしているものと理解すべきであろう.

6.結論

 「分別からvastuが生じる」という主張は,vastuの実在性を前提に学説を構築している『菩薩地』においては,一見矛盾した見解のように思われ,また唯識思想との関係を予想させるものである.しかし,本論文5で述べたように,この学説は本来は汚れた迷いの世界の原因を説明しようとしたものと考えられるので,『菩薩地』そのものの学説と矛盾するものではない.また,このような『菩薩地』の学説は「摂決択分」においても取り上げられているが,そのうち五事説に基づく理解によれば,必ずしも唯識思想との関連を念頭において解釈するべきものでもない.

 一方,同じく「摂決択分」では「言語表現から生じるvastu」を瞑想体験中の影像とする解釈が見られるが,本論文3‐2で述べたように,『菩薩地』の学説と類似しているが厳密に一致するものではなく,また五事説のvastu観とは視点の異なるvastu観を示していることから,『菩薩地』の思想を継承・発展させたvastu解釈としてはかなり飛躍した理解と言える.

 これに対して「弥勒請問章」の学説はその内容や術語の点で『菩薩地』の思想や「摂決択分」の五事説と関連があると考えられるが,本論文4で見たように,そこではvastuを「分別に過ぎないもの(vikalpamātra)」と解釈している.この解釈はvastuを分別(vikalpa)に還元し得ることを,瞑想体験によらずに説明している点に特徴があり,また,vastuを影像とする解釈に比べて,『菩薩地』の学説や「摂決択分」五事説との思想的関係が密接であると考えられる点で重要な資料と言える.しかし,この解釈の場合も,vastuよりも分別(vikalpa)に比重を置いている点で五事説と異なっていた.

 以上「分別から生じるvastu」という記述をもとに,瑜伽行派のvastu観について考察したが,こうした解釈の展開は,瑜伽行派の思想形成においてvastu解釈が重要な意味を持っていたことを示すものであろう.『菩薩地』において勝義として実在するものと述べられるvastuが,後には心の働きに深く依存するものと解釈されるようになった背景には,唯識思想の発展が関わっていると予想されるが,それでは,なぜ『菩薩地』はvastuを説いたのか,また,なぜそのvastuの存在様態が問題になり,後に『菩薩地』とは対極的な理解に至るのかという点が問題として残るだろう.

Footnotes

1 Viṃś k. 1ab: vijñaptimātram evaitad asadarthāvabhāsanāt/

2 Triś k. 20-21: yena yena vikalpena yad yad vastu vikalpyate/

parikalpita evāsau svabhāvo na sa vidyate//20//

paratantrasvabhāvas tu vikalpaḥ pratyayodbhavaḥ/

niṣpannas tasya pūrveṇa sadā rahitatā tu yā//21//

3 『菩薩地』の思想に関する詳細は阿[1982][1984]を参照.

4 Schmithausen[1972]239では,『菩薩地』のこのような考え方は"Mahāyānictic illusionism"と呼ばれ,"Yogācāra idealism"そのものではないが,その準備段階と考えられている.また,Willis[1970]でも,こうした記述が唯識あるいは"idealism"と関連付けて理解されているが(40,132),同氏は『菩薩地』の学説自体は"idealism"ではないと考えている.

5 池田[1996]370.

6 BBh 45. 7-8: rūpasaṃjñake vastuni….

7 BBh 45. 16-18: prajñaptivādanimittādhiṣṭhānaṃ prajñaptivādanimitta-saṃniśrayaṃ nirabhilāpyātmakatayā paramārthasadbhūtam vastv ….

8 BBh 43. 24-50.21.

9 BBh 50. 22-24: tasyā eva tathatāyāḥ evam aparijñātatvād bālānāṃ tannidāno 'ṣṭavidho vikalpaḥ pravartate trivastujanakaḥ. sarvasattva-bhājanalokānāṃ nirvartakaḥ.

10 この引用箇所の直前に「真如」という表現はない.少し離れているがBBh 48.4-5にtathatāṃ nirabhilāpyasvabhāvatāṃとあり,また引用した部分の直前には「語ることと聴くことがない場合,その言語表現し得ない本質を持っていることは理解されることさえもできない.」(BBh 50. 19-20: vacane śravaṇe cāsati sā nirabhilāpyasvabhāvatā jñātum api na śakyate.)とあるので,「他ならぬこの真如」(tasyā eva tathatāyāḥ)は「その言語表現し得ない本質を持っていること」(sā nirabhilāpyasvabhāvatā)を指していると考えられる.

11 詳しくは「この二つの分別はその他のすべての見の根源である有身見とその他のすべての慢の根源である我慢を生じる」(BBh 51.9-11: imau dvau vikalpau satkāyadṛṣṭiṃ ca tadanyasarvadṛṣṭimūlam asmimānaṃ ca tadanyasarvamānamūlaṃ janayataḥ.).なお荻原本はtadanyasarvadṛṣṭimūlaṃ mānamūlaṃ caとなっているが,京大写本にしたがって上記のように改めて読む.

12 BBh 50.24-51.20.

13 BBh 52.21-53.2: tac caitad dvayaṃ bhavati samāsataḥ vikalpaś ca vikalpādhiṣṭhānaṃ ca vikalpālambanaṃ vastu. tac caitad ubhayam anādikālikaṃ cānyonyahetukaṃ ca veditavyaṃ. pūrvako vikalpaḥ pratyutpannasya vikalpālambanasya vastunaḥ prādurbhāvāya. pratyutpannaṃ punar vikalpālambanaṃ vastu prādurbhūtaṃ pratyutpannasya tadālambanasya vikalpasya prādurbhāvāya hetuḥ. tatraitarhi vikalpasyāparijñānam āyatyāṃ tadālambanasya vastunaḥ prādurbhāvāya. tatsaṃbhavāc ca punar niyataṃ tadadhiṣṭhānasyāpi tadāśritasya vikalpasya prādurbhāvo bhavati.

14 「このうち分別戯論にとってのvastuを拠り所として,有身見と我慢があり,有身見と我慢に依存して貪瞋癡がある」(BBh 51.16-18: tatra vikalpa­prapaṃca­vastvāśrayā satkāyadṛṣṭir asmimānaś ca. satkāyadṛṣṭyasmimānāśritā rāgadveṣamohāḥ.)

15 以下で引用する「摂決択分」に対しては勝呂信静[1985][1987]にまとまった和訳がある.

16 ViSg P zi302b3-5, D zhi287b2-6:

rgyu mtshan gang zhe na/ mdor bsdu na/ mngon par brjod pa’i tshig gi gnas su gyur pa’i dngos po gang yin pa’o//

ming gang zhe na/ rgyu mtshan de nyid la tshig bla dags gang yin pa’o//

rnam par rtog pa gang zhe na/ khams gsum na spyod pa’i sems dang sems las byung ba’i chos rnams so//

de bzhin nyid gang zhe na/ chos bdag med pas rab tu phye ba/ ’phags pa’i ye shes kyi spyod yul/* mngon par brjod pa thams cad kyi** gzhi’i gnas su ma gyur pa’i dgos po gang yin pa’o//

yang dag pa’i shes pa gang zhe na/ de ni mdor bsdu na rgyu gnyis su blta bar bya ste/ gcig tu ’jig rten las ’das pa dang/ ’jig rten pa dang ’jig rten las ’das pa’o//

*D zhi287b3, P zi302b4: ye shes spyod yul.**P zi302b4, D zhi287b4 mngon par brjod pa tshig thams cad kyi.

17 ViSg P ’i2b1, D zi2a1 : rgyu mtshan las de bzhin nyid gzhan du brjod par bya ’am/ gzhan ma yin par brjod par bya zhe na/ smras pa/ gnyi gar yang brjod par mi bya’o//(相と真如は異なると言うべきか,異ならないと言うべきかというのであれば,(次のように)答える.どちらとも言うべきではない.)

18 ViSg P ’i3a8-b2, D zi3a3: rgyu mtshan gyi mtshan nyid gang zhe na/ smras pa/ rnam par rtog pa’i spyod yul gyi mtshan nyid do//…de bzhin nyid kyi mtshan nyid gang zhe na/ smras pa/ yang dag pa’i shes pa’i sbyod yul gyi mtshan nyid do//(相の特徴は何かと言うのであれば,(次のように)答える.分別の対象領域という特徴である.…真如の特徴は何かと言うのであれば,(次のように)答える.正智の対象領域という特徴である.)

19 ViSg P zi304a4-6, D zhi289a5-8 : rgyu mtshan gang las* rab tu skye bar brjod par bya zhe na/ smras pa/ rgyu mtshan las rab tu skye ba dang/ sngon gyi rnam par rtog pa** las rab tu skye ba yin no//…rnam par rtog pa gang las rab tu kye bar brjod par bya zhe na/ smras pa/ rnam par rtog pa las rab tu skye ba dang/ rgyu mtshan las rab tu skye ba yin no//…de bshin nyid gang las rab tu skye bar brjod par bya zhe na/ smras pa/ skye ba med par brjod par bya’o//

*D zhi289a5, P zi304a4:gang la.**D zhi289a5, P zi304a5: rnam par rtogs pa.

20 本文56頁参照.

21 ViSg P ’i4b2-3, D zi4a4-5: rang bzhin rgyu mtshan gang zhe na/ sngon gyi rnam par rtog pas bskyed pa’i* mtshan ma dang/ mtshan mas bskyed pa** grags pa’i mtshan ma’o//

gzugs brnyan rgyu mtshan gang zhe na/ kun brtags pa gang yin pa de ni mos pas snang ba yin gyi/ rang bzhin du gnas pa ni ma yin no//

*D zi4a4, P ’i4b2: skyes pa’i.**D zi4a4, P ’i4b3: skyed pa.

22 ViSg P zi303b3-4, D zhi288b2-3: rgyu mtshan rdzas su yod par brjod par bya ’am/ btags pa’i yod par brjod par bya zhe na/ smras pa/ ’du byed rdzas su yod pa rnams kyis ni* rdzas su yod par brjod par bya’o// btags pa’i yod pa rnams kyi ni btags pa’i yod par brjod par bya ste/

*P zi303b3, D zhi288b3: ’du byed rdzas su yod pa rnams kyi mtshan ma ni.cf. 玄奘訳696b7-8:実有行中當言実有.(相は実有(*dravyasat)と言うべきか,仮有(*prajñaptisat)と言うべきかと言うのであれば,(次のように)答える.実有である作られたもの(*saṃskāra)に関しては実有と言うべきである.仮有である(作られたもの)に関しては仮有と言うべきである.)

23 池田[1996]370.

24 ViSg P ’i13b2-3, D zi12b5-6: sai dngos gzhir rnam par rtog pa snga ma rnam pa brgyad las da ltar byung ba’i dngos po rnam pa gsum ’byung par ’gyur ro zhes ji skad bstan pa yin te/ (Schmithausen[1969]17, n.4,同[1991]687,n.1および松田[1988]18を参照.)

25 Schmithausen[1972]では以下で取り上げる記述は『菩薩地』の"nomi­nal­ism"(すべての存在は仮説に過ぎない(prajñaptimātra)とする見解)の段階と『解深密経』で説かれる唯識(vijñaptimātra)の段階を結ぶものと見られている(244).

26 ViSg P ’i22b4-5, D zi21a1: de la byis pa rnams ni brjod par bya ba’i dngos po la rgyu lngas ming ji lta ba dang brjod pa ji lta ba bzhin du ngo bo nyid du mngon par zhen par rig par bya ste/(ここで凡夫達は言語表現されるべき*vastuに対して五つの理由で名称のとおり,言語表現のとおりに自性として執着すると理解するべきである.)

27 ViSg P ’i23b3,D zi21b6: gzhan yang byis pa thams cad ni mtshan ma la brjod pas bcings pa yin pa’i phyir ming ji lta ba dang/* brjod pa ji lta ba bzhin du/* dngos po la ngo bo nyid du mngon par zhen pa yin par blta bar bya ste/(また,すべての凡夫は相(*nimitta)に対する言語表現により束縛されているので,名称通りに,言語表現通りに*vastuに対して自性として執着していると見るべきである)

*P ’i23b4 om "/".

28 ViSg P ’i23b6-24a2, D zi22a1-4: gzhan yang gcig gi skye ba’i gnas gcig yin pa’i phyir te/ ’di ltar dngos po la brten nas brjod pa skye ba yang dmigs la/ brjod pa la brten nas kyang dngos po skye ba dmigs pa’i phyir te/

’di lta ste dper na ’jig rten pa dag dngos po yod na*/ ming dang brjod pas** rab tu rtog par byed kyi/ dngos po med pa la ni yongs su rtog par mi nus pas/ de ltar na dngos po la brten nas ming dang brjod pa skye bar dmigs pa yin no//

’di lta ste dper na bsam gtan pa so so’i bdag nyid la bsam gtan byed pa na/ ji lta ji ltar yid la brjod pa’i yid la byed pa*** de lta de ltar sems kyi rgyud du gtogs pa’i shes bya’i dngos po dang cha mthung pa’i gzugs brnyan dag snang bar ’gyur ba’i tshul gyis ’byung bar ’gyur bas/ de ltar na brjod pa la brten nas dngos po skye ba yang dmigs pa yin no//

*D22a2, P23b7:dngos yod na.**P23b7, D22a2:ming du yang brjod pas.***D 22a3, P 23b8-24a1:yid la byed pa dag yid la byed pa.

Willis[1979]132参照.

29 SNS P 29a7-b1:bcom ldan ’das rnam par lta bar bgyid pa’i ting nge ’dzin gyi sbyod yul gzugs brnyan gang lags pa de ci lags/ sems de dang tha dad pa zhes bgyis ’am/ tha dad pa ma lags shes bgyi/ byams pa tha dad pa ma yin shes bya’o// ci’i phyir tha dad pa ma yin zhe na/ gzugs brnyan de rnam par rig pa tsam du zad pa’i phyir te/…(世尊よ,観察者の三昧の対象領域である影像,それは何でしょうか.この心と異なるとするのでしょうか,それとも異ならないとするのでしょうか.マイトレーヤよ,異ならないとするのです.どうして異ならないのかというと,この影像は単なる表象に過ぎないものなので…)

30 Schmithausen[1972]244ではこの箇所について次のように述べられている."On the analogy of this parallelism of meditation-object and ordinary objects as regard their dependence on speech, it was only a small step to assert the ideality also of ordinary objects if the object-like images of meditation are considered to have only an ideal existence. Since this latter fact is expressly stated already in the Bodhisattva­bhūmi­viniścaya passage referred to above which characterizes the object-like images of meditation as "belonging to the mental series" (*cittasantānaparyāpanna), the transition to universal idealism in the Saṃdhinirmocanasūtra was quite natural."

31 『菩薩地』の英訳者Willis氏も先に引用した分別とvastuの相互因果関係に関する記述の部分の注記で「摂決択分」のこの箇所との関係を指摘している.Willis[1979]132参照.

32 註25,30.

33 Conze&Iida[1968]234.31-33: āgantukam etan nāmadheyaṃ prakṣiptaṃ tasmin saṃskāra-nimitte vastuni yad idaṃ rūpam iti….(「これは色である…」という,この偶然的な名称が,その形成因(saṃskāranimitta)すなわちvastuに対して付与される.)

なお,テキストの表記は原則的に原著論文にしたがっている.以下同.

34 Conze&Iida[1968]236.43-237.2: na tasmāt saṃskāra-nimittād vastuno ’nyā nirabhilapyā dhātur, na-api tasmād ananyā nirabhilapyā dhātur yatredam āgantukan nāmadheyaṃ prakṣiptaṃ* yad idaṃ rūpam iti….*テキストはprakṣitam.東大写本No.234により訂正.(それに対して「これは色である…」というような偶然的な名称が付与される言語表現し得ないdhātuはこの形成因であるvastuと異なるのではなく,またこれ(saṃskāranimittavastu)と異ならないのでもない.)

35 「形成因」という訳語は袴谷[1975]204,n.36を参照.

36 Conze&Iida[1968]237.9-18: na hi maitreya tasya saṃskāra-nimittasya vastunaḥ kācid vidyamānatā vā avidyamānatā vā. tat kasya hetor? yasmin hi vā maitreya samaye tat saṃskāra-nimittaṃ vastu vikalpayasi tasmin samaye tat saṃskāra-nimittaṃ vastu vikalpato grahaṇam eti. yasmin vā punaḥ samaye nirabhilapya-dhātu-upanibaddhe prajñā-pracāre varttamāno na vikalpayasi tasmin samaye nirvikalpato grahaṇam eti* … (na) tv evaṃ sati maitreya vikalpa-mātram etad yad uta saṃskāra-nimittaṃ vastu yatredam āgantukaṃ nāmadheyaṃ prakṣiptaṃ yad idaṃ rūpam iti.(*テキストは疑問文になっている.)

37 本論文3-1および註7,17参照.

38 ViSg P ’i2a4-2b1, D zi1b4-2a1: gzhan nyid yin na skyon ci yod ce na/ rnam par rtog pa rnams rgyu mtshan gyi bdag nyi ma yin par ’gyur ba’o// gzhan ma yin pa nyid yin na skyon ci yod ce na/ rnam par rtog pa dang bral* ba’i rgyu mtshan rnams kyang rnam par rtog pa’i bdag nyid kho nar ’gyur ba’o//

*P ’i2a6, D zi1b5: bal.

39 「弥勒請問章」の成立年代が明確でないので,『瑜伽論』との思想的影響関係について断定することはできないが,仮に『瑜伽論』の五事説が先行しているとすると,「弥勒請問章」は五事説を継承しながら,より認識に重点をおいた学説を展開したと考えられる.

40 BBh 55.4-10: yo 'yam aṣṭavidho mithyāvikalpo bālānāṃ trivastujanako lokanirvartakaḥ, so 'sya caturvidhasya yathābhūtaparijñānasya vaikalyād asamavadhānāt pravartate. tasmāc ca punar mithyāvikalpāt saṃkleśaḥ, saṃkleśāt saṃsārasaṃsṛtiḥ, saṃsārasaṃsṛteḥ saṃsārānugataṃ jātijarāvyādhimaraṇādikaṃ duḥkhaṃ pravartate.

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