Studies of Buddhist Culture
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2002 Volume 6 Pages 52-74

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1. はじめに

1.1 本稿の目的

紀元前3世紀,Saṃghamittāのインドからの来島によりはじめて確立されたスリランカの比丘尼サンガは,国王による保護を受け,スリランカ各地に広まった.著名な比丘尼の名とその活躍,王の支援の様子は史書等に記されている.しかしアヌラーダプラ時代後期におけるインドのCoḷa王朝の侵略による国土荒廃と時を同じくし,10世紀の記述を最後にスリランカの比丘尼サンガは史書にはあらわれなくなる.なお,12,13世紀のPagan王朝時代の頃と推定されるビルマの碑文には,比丘尼の記録が残っており,その頃まで同じ上座仏教圏であるビルマには比丘尼が存在していたことが確認できる.しかしCoḷa王朝による国土混乱の平定の後に始まるポロンナルワ時代には,比丘尼サンガについては,比丘サンガの場合のようにビルマから比丘を迎えて受戒を行い再興したという記録は存在せず,スリランカの比丘尼サンガはその頃消滅したと考えられている.また他の上座仏教国の比丘尼サンガもその後やはり消滅した.比丘尼となるためには,比丘尼サンガ,比丘サンガ両方による受戒が必要であり,以降,上座仏教における女性修行者の出家の道は閉ざされてしまった1

本稿ではスリランカにおける比丘尼サンガの成立とその活躍,そしてその推移を追うとともに,その時代的背景について,Dīpavaṃsa,Mahāvaṃsa,Cūlavaṃsa(以下Dpv.,Mhv.,Cv.と略す)などのパーリ文献の史書を中心に用いながら検討したい.

1.2 扱う資料について

本稿で主に扱うDpv.,Mhv.,Cv.は,Mahāvihāra派所伝のものであるので,スリランカの王統史であると同時に,Mahāvihāra派からみた仏教の歴史が記されているという問題がある.しかし,現存する史書はMahāvihāra派のもののみである2.Mahāvihāra派による恣意的改変の可能性を否定することはできないが,これらの史書中の比丘尼サンガについての言及は,派の別に伴う教義的相違に由来するサンガ内部の対立に触れたものは存在していない3. 

Dpv.は,現存するスリランカの史書のうちでは最古の編纂であり,Mahāsena王(276-303)4までの治世下の内容が記述されている.紀元後4世紀から5世紀前半に書かれた作品とされているが,作者は未詳である.一方Mhv.は,紀元後5世紀末から6世紀初頭にかけて存命したMahānāmaによって編纂されたとされ,やはりMahāsena王の治世下までの内容が記されている5.これらはともにMahāvihāraに伝わる註釈文献に依拠しており6,仏教を中心として自国の歴史が述べられている7Mhv.は,Dpv.に比べてパーリ語の表現が洗練されていて論述の構成が緻密であり,また内容もDpv.より概して詳しいといえるが,Dpv.18章の内容としての比丘尼についての記述はMhv.には存在しない.Dpv.18章には,それぞれの王の治世下における代表的な比丘尼の名,そしてそれらの比丘尼の活躍などが記されている.この章は,前後関係が必ずしも時代の順序と一致しているわけではなく,記述についてのぎこちなさが感じられるが,比丘尼についてこれほど詳細に記されているものは他になく,Dpv.の編集には比丘尼が関与していたのではないかとも考えられている8.Mahānāma没後のMhv.の継続史はCv.と呼ばれ,複数の人々によって編纂され,Sirivikkamarājasīha王(1798-1815)の治世下までの内容が記されている.Cv.が依拠した資料もやはりMahāvihāra派のものである9.またCv.の比丘尼サンガに関する記述は,個々人の比丘尼やサンガの活動というよりはむしろ,各治世の王たちがサンガに対してどのような支援をしてきたかということに視点が置かれている.

 これらの史書には以上のような資料としての制約があるが,これらを用いて伝承としての比丘尼サンガの歴史を辿ることとする.

2. Saṃghamittāの来島と比丘尼サンガの成立

2.1 Mahindaの来島とAnulāたちの出家志願

インドのMaurya王朝第3代目のAsoka王の王子,Mahindaが来島して公式にスリランカに仏教は伝来したが10,Mahinda一行の来島によってスリランカで最初に預流果の悟りを得たのは,ときの王,Devānaṃpiyatissaの弟の妃,Anulāをはじめとする,女性たちであったとされる.

Mahindaは,32歳,法臘12年にしてランカー島への伝道の任務を引き受け11,4名の比丘と,妹Saṃghamittāの子である沙弥Sumanaと優婆塞Bhaṇḍukaとを伴って,ランカー島に赴いた12.Mahinda一行は,狩猟に出ていたランカー島の国王,Devānaṃpiyatissa(B.C. 250-210)とMissaka山で対面し,王は参集した大臣や軍隊とともに仏教に帰依する13.このとき王の弟であり副王であるMahānāgaの妃Anulāも14,Mahindaを礼し法を聴聞すると信を生じ,500人の女性たちとともに預流果を得た15.ランカー島における最初の悟り(abhisamaya)は,男性ではなく,女性によって得られたのであった16

王は首都のAnurādhapuraに,ランカー島における最初の精舎であるMahāmeghavana園を寄進した17.またMahindaの甥である沙弥,Sumanaによってインドから釈尊の右の鎖骨舎利が将来され,塔(thūpa)が建立される18.ランカー島で出家した比丘は3万人となった19.こうして仏教はランカー島に根付くことになる.

Anulāたちはすでに一来果を得,出家を志願したが20,Mahindaは比丘サンガだけでは女性の受戒を行うことはできないとし21,王は甥であるAriṭṭhaという大臣を遣わし,Saṃghamittāをランカー島に招聘する22.そしてその時に,釈尊成道の大菩提樹の南枝をも持ち来たることを指示する23.Anulāは,500人の侍女,そして500人の後宮の婦女子とともに10戒を保ち,袈裟衣を纏い,優婆夷精舎に住み,Saṃghamittāの来島を待望していた24

 

2.2 Saṃghamittāの来島

Saṃghamittāが大菩提樹の南枝とともにランカー島に来島したのは,Saṃghamittāが30歳の頃であったとされる25.副王の妃Saṃghamittāは,夫AggibrahmāがAsoka王の即位4年目に出家したその2年後に,兄Mahindaとともに出家した26.Mahinda 20歳,Saṃghamittā 18歳のときであり27,Mahindaは太陽,Saṃghamittāは新月と称された28

そのSaṃghamittāとともに,はじめてインドから来島した比丘尼たちについては,Mhv.には11人と記されているだけであるが29Dpv.には,個々人の比丘尼の名が記されている.まずインドから来島するとされていた比丘尼としては,明察あるUttarā,Hemā,Māsagallā,適切に言葉を語るAggimittā,Tappā,Pabbatachinnā,Mallā,Dhammadāsiyāである.これらの比丘尼たちは,貪を除遣し(dhutarāga),心を統一し,意思清浄であり,正法と律を楽しむものたちであって,煩悩を滅し,自在であり,三明を得,神通力を熟知し,最上の極みに住していた30.そして実際に来島したのは,明察あるUttarā,Hemā,Pasādapālā,Aggimittā,Dāsikā,Pheggu,Pabbatā,Mattā,Mallā,Dhammadāsiyāであり,これらの比丘尼たちはAnurādhapuraで律蔵,5ニカーヤ,及び7論を教えた31

Saṃghamittāの来島とともに菩提樹がランカー島に植えられた時,副王の妃Anulāは,侍女や後宮の女性たちとともに出家して阿羅漢に達した32.その後12の比丘尼房舎が造られたが33,閑静処(suññāgāra)を好んだSaṃghamittāの意向をくみとり,Devānaṃpiyatissa王はカダンバ花の叢林にあらたに比丘尼房舎を造った.それはHatthāḷhaka精舎として知られ,Saṃghamittāは後に入滅をもそこで迎えたとされる34

3. スリランカの比丘尼サンガの推移

3.1 スリランカ初伝の比丘尼サンガ

Saṃghamittāの来島により比丘尼サンガが確立され,さらにサンガを継承する比丘尼たちがあらわれる.それは,Saddhammanandi,Somā,Giriddhi,Dāsiyā,法の護持者であり,律に通暁したDhammā,頭陀説者であるMahilā,Sobhaṇā,Dhammatāpasā,大いなる智慧をもち律に通暁したNaramittā,長老尼の説に熟練したSātā,Kālī,Uttarāである35

スリランカに仏教が伝来された段階において,このように教法伝持について比丘尼サンガに大きくは持律,持法,そして頭陀行という枠組みが存在し36,また長老尼の説(theriyovāda)とあることから,比丘尼たちは自分たち独自の伝承を護持していたことが示唆されている37.史書において比丘尼の頭陀説者として名前が挙げられているのはこの箇所のみで,その後の記述は存在しない.しかし,律,ニカーヤ,論に通暁した比丘尼の名はその後も挙げられ,師資相承の系譜が存在していたことをうかがわせる.また,比丘尼は半月ごとに比丘のもとで布薩を問い,教誡を請わなければならないことが律蔵で義務づけられ38,しかも教誡する比丘はサンガから選任された者に限られているが39,ブッダ在世時にĀnandaが比丘尼たちを指導したことが知られているようなかたちでは,スリランカの比丘尼たちを指導した比丘の名などは特に史書に記されてはいない40.これらのことから,スリランカの比丘尼サンガの教義修得の水準は高く,律蔵の規定の範囲内ではあっても,サンガ構成員を自分たちで教育できる程であったと考えられよう.

比丘尼の数は次第に増し,すでにDevānaṃpiyatissa王の治世下において,少なくとも1万6千人に達していた.Mahādevī,Padumā,名声あるHemāsā,Unnalā,Añjalī,Sumāが,6神通を具し,大神通力ある比丘尼としてそのサンガの代表的存在としてあげられ,Anurādhapuraで律蔵を教えた41

Devānaṃpiyatissa王の次の王Uttiyaの灌頂後8年目に,Mahindaは法臘60年にして入滅し42, その翌年,Saṃghamittāは法臘59年にしてHatthāḷhaka比丘尼房舎に於いて入滅した43

3.2 Saṃghamittā没後の比丘尼サンガ

その後,Duṭṭhagāmaṇī Abhaya王(B.C.161-137)の治世下においては,正法の系譜を熟知し,証知したSumanā,そして篤く敬われたUttarāが,貪を除遣し,心を統一し,意思がよく浄められ,正法と律を楽しむものたちである2万人の比丘尼たちの代表的存在として挙げられ,Anurādhapuraにおいて律蔵,5ニカーヤ,7論を説いた44

比丘尼サンガにはあらゆる階層の女性が存在していた.正法の系譜を熟知し,証知したMahilā,Kākavaṇṇa王の娘であるSamantā,帝師の娘の多聞であるGirikālī,すべての聖典を持した悪漢の娘であるDāsī,Kalī45などというように,出身に関係なく上首として名を残しているこれらの比丘尼たちは,2万人の比丘尼たちとともにRohanaからやってきて,Anurādhapuraで律蔵を教えた46.この頃には,島の南部Rohanaまで仏教が流布され,著名な比丘尼たちが首都Anurādhapuraだけでなく地方においても育まれていたのであり,比丘尼サンガが大きくなるにつれて,地域ごとにまとまりをもって存在していたことが推測できる.

AnurādhapuraにおけるMaricavaṭṭi精舎竣工法要には,10万人の比丘と9万人の比丘尼が集まったとされ47,またDuṭṭhagāmaṇī Abhaya王の塔建立開始の供養では,1万8千人の比丘と1万4千人の比丘尼とが共に阿羅漢に達したとされる48.教団内の比丘尼たちの数は比丘たちよりやや少ないが,この頃の比丘尼サンガの影響力は比丘サンガに決して劣るものではなかったといえよう49

3.3 Vaṭṭagāmaṇī Abhaya王治世における混乱と比丘尼サンガ

紀元前1世紀は,スリランカにとって混乱の時代であった50.Vaṭṭagāmaṇī Abhaya王(B.C.103-102)の即位後,インドのDamiḷa人が侵入して約15年にわたってランカー島を統治し,その後Vaṭṭagāmaṇī Abhaya王(B.C.89-77)はDamiḷa人のDāṭhika王を倒して復位した51.このときVaṭṭagāmaṇī Abhaya王は,ジャイナ教徒の園を壊してAbhayagiri精舎をたてさせ,Mahātissaという比丘に与えた52.しかしMahātissaは在家と交際する罪によりサンガから追放され,その弟子たちは憤ってAbhayagiriに移ってMahāvihāraとの往来を断ったので,ここにMahāvihāra派とAbhayagiri派の分裂が生じた53.まもなくインドのVajjiputtaという部派に属するDhammaruciという比丘の弟子たちがやってきてAbhayagiriに受け入れられたので,のちにAbhayagiri派はDhammaruci派としても知られるようになる54

このような分派がおこる中,おりしも飢饉がおこり55,それまで口伝で伝えられてきた聖典の書写が,法の久住のためとして行われた56.また仏説の根本は学(pariyatti)か行(paṭipatti)かという論争も起こった57

このような教団の混乱は,比丘尼サンガにも様々な影響を及ぼしたと考えられる.まずVaṭṭagāmaṇī Abhaya王は比丘尼サンガの再興のため,インドから2万人の比丘尼たちを招聘している.その代表的比丘尼は,Sīvalāと,正法の系譜を熟知したMahāruhāであり,Anurādhapuraにて律蔵を教え,5ニカーヤ,そして7論を教えた58

その後は比丘尼サンガにおいて,とりわけ律が重要視される傾向となったためか,律を説いた比丘尼が重要な存在として史書には記されている.持律者の上首として挙げられているのは,Mahāsoṇā,Dattā,明察あるSīvalā,放逸でないRūpasobhiṇī,尊崇されたDevamānusā,Nāgā,Nāgamittā,Dhammaguttā,Dāsiyā,真実の眼あり,正法の系譜を熟知したSamuddā,Sapattā,Channā,Upālī,篤く敬われたRevatāである59.そしてVaṭṭagāmaṇī Abhaya王の死去後,最初にまず律を教えたとされるのは,Somanadevaの娘Mala,Khemā,法師中の最上者のTissāである60

またKuṭikaṇṇa Tissa王(B.C.41-19),そしてBhātika Abhaya王(B.C.19- A.D.9)の治世下において,王妃Samuddanavāとともにランカー島で具足戒を受け,1万6千人の比丘尼たちの最上たる者であり,Anurādhapuraで律蔵を教えたのは,王の娘Sīvalā,畏れなきNāgapālī,博学のNāgamittā,比丘尼の守護者であり,律に通暁したMahilā,Nāgā,正法の系譜を熟知するNāgamittāであった61.Kuṭikaṇṇa Tissa王の母も出家しており,王は王家所有の邸宅の敷地に,母のために比丘尼房舎を造らせた62

 このように律に通暁する著名な比丘尼たちの名は史書に連なるが,比丘サンガと比べて,比丘尼サンガへの王の寄進の割合は次第に減少していった.Mahācūḷī Mahātissa王(B.C.76-62)は,布(acchādana)を3万人の比丘と1万2千人の比丘尼に施し,6種衣(chacīvara)を6万人の比丘と3万人の比丘尼に施したとあり63,この頃の比丘尼サンガへの王の寄進は比丘サンガの約半分であったとみられる.しかし,紀元後に至ると,Mahādāṭhika Mahānāga王(A.C.9-21)は,比丘サンガには60万の,比丘尼サンガに対しては10万の価値ある物を施したとされており64,比丘尼サンガへの施しは,比丘サンガの6分の1と激減してしまった.この原因は,比丘に対する比丘尼の数の割合が減少したか,あるいは比丘尼サンガの影響力が比丘サンガのそれに比べて減少したかの2つが考えられるが,いずれにしても,比丘尼サンガが衰退のきざしを見せはじめたといえるであろう.

3.4 サンガの分裂と比丘尼 

3世紀はVitaṇḍavāda,Vetulyavādaが伝播し,それを保持する徒の活動がAbhayagiriを中心に活発になり,派による教義上の違いが明確にあらわれてくる65

Vohārikatissa王(214-236)はVitaṇḍavāda,Vetulyavādaを破却した66.しかしGoṭhābhaya王の治世下においては,Abhayagiriの比丘のうち,これらを仏説として主張するものがAbhayagiriに残り,他はAbhayagiriを離れて紀元前1世紀にUttiyaという将軍が建てた精舎,Dakkhiṇaに移った.そしてSāgalaという比丘の教えを受け,Sāgaliya派を結成し,AbhayagiriのVetulyavādaを奉ずる徒をインドへ追放した67

ところがMahāsena王(276-303)の治世になると,Saṃghamittaという名の比丘が王を利用し,Mahāvihāraに属する建物を次々と壊し,あるいは没収してそれをAbhayagiriへと移させた68.その後Mahāvihāra はMeghavaṇṇābhayaという大臣の説得によって保護されたが69,今度はMahāsena王がDakkhiṇa園に住むTissaという比丘の誘いにのって,Mahāvihāraの比丘の反対を押し切りMahāvihāraの境内にJetavana精舎を建立させ70,その後Jetavana精舎をSāgaliya派の比丘たちに寄進した71.このように,教団は教義上の異質性の故に分かれ,Mahāvihāra,Abhayagiri(Dhammaruci),Jetavana(Sāgaliya)の3宗派が形成された72

このような変動の中,Tissaが処分を受けたあと,Mahāsena王は,いくつもの精舎を建立した.比丘サンガに対しては,Maṇihīraka,Gokaṇṇa,Erakāvilla,Kalanda,Migagāma,Gaṅgāsenaka,Dhātusena, Kokavāta,Thūpārāma,Huḷapiṭṭhiという名の,あるいはその名の場所に精舎(vihāra)を建てているが,比丘尼サンガに対しては,Uttarābhayaに2つの比丘尼房舎(bhikkhuṇupassaya)を造らせたとあるだけであり73,比丘尼サンガは衰退してしまったままであったとみられる.

3.5 その後の比丘尼サンガ

Mahāsena王以降の記述はCv.に引き継がれ,ことに比丘尼サンガについては,王家の支援に焦点が置かれて史書に記されている.

Moggallāna I(495-512)は,Daḷha,Dāṭhākoṇḍaññaと名づけられた精舎をDhammaruci派とSāgaliya派の比丘たちに与えたが,Rājinīと名づけられた比丘尼房舎を造ってSāgaliya派の比丘尼たちにも寄進したとあり74,Sāgaliya派にはその頃比丘尼サンガが存在し,また王はMahāvihāra派以外の派に対しても支援を行っていたことが知られる.

王だけではなく,王妃も比丘尼たちを支援している.Aggabodhi I(575-608)治世下においては,Aggabodhi Iの王妃が,Kaliṅgaの国王とともにランカー島で出家したそのKaliṅga王の妃のためにRatanaという精舎を造らせ75,また比丘尼たちに継続して食事を与えることを命じた76.またAggabodhi IV(667-683)の妃Jeṭṭhāは,比丘尼房舎にJeṭṭhā園をつくり,さらにPattapāsāṇaの地に2つの村と,Buddhabhela村,そして100人の守園人を施した77.Kassapa V(914-923)の妃Vajirāは,Padalañchanaに房舎を造って,比丘尼たちに施した78

時代が前後するが,その他比丘尼サンガに対しては,Mahinda I (730-733)が自己の名を附した比丘尼房舎を造らせ79,またSena I (833-853)が比丘尼たちに対してもなすべきつとめを行ったとある80.さらにKassapa IV(898-914)の軍師,Sena Ilaṅgaは,比丘尼たちのためにTissa園に比丘尼房舎を造って,Maricavaṭṭiの菩提樹の世話を任せ81,Mahinda IV(956-972)は,Coḷa王の軍勢によって燃やされたPadalañchanaの比丘尼房舎に,4つの塔廟の堂を建立し82,またMahāmallakaと名づけられた房舎をつくって比丘尼たちに与えさせたことが記されている83

王家の女性が出家した事情についても記されている.Jeṭṭhatissa III(632)の王妃が,王の遺言通りに出家し,アーガマ,アビダンマを学び,その功徳をDamiḷa人と戦って自己の首を断った王に施したこと84,またAggabodhi VI(733-772)が,夫が自分を殺そうとしているとの娘の訴えを聞いて,比丘尼房舎に赴いて娘を出家させたこと85,などである.

またMahāvihāra以外の派と考えられる比丘尼サンガに対しては,Mahinda II(777-797)は麗しい菩薩像をつくらせて美しいSilāmeghaの比丘尼房舎に安置し86,次のUdaya I(797-801)はもとのSilāmegha比丘尼房舎のあった場所に,あらたにSilāmegha比丘尼房舎を造って寄進をした87.Abhayagiri派について記した碑文からは,Kassapa V(914-923) の治世下に比丘尼房舎があったこと88,Mahinda IV(956-972)が比丘尼サンガのために施食堂を建て,比丘尼房舎を修繕したことが知られる89

4. スリランカの比丘尼の他国への伝道

中国の記録によれば,5世紀の前半頃にスリランカと中国との往来が盛んに行われており,南朝劉宋に渡ったスリランカの比丘尼についても記されている90.元嘉6年(429)には船頭の難提という者が,スリランカから都の景福寺へ比丘尼を案内し,さらに元嘉10年(433)には鐵薩羅(Tesarā)を含むスリランカの比丘尼11人が劉宋に到着し,南林寺で300人あまりの中国の女性出家者が受戒している91.他国の比丘尼が中国に来たのはこれがはじめてのことであったが,中国にはすでに比丘サンガのもとでのみ受戒した女性出家者たちが存在しており,このとき,中国の女性出家者たちは,スリランカの比丘尼サンガと,僧伽跋摩(Saṅghavarman)を戒師とする比丘サンガとの両方から受戒した92.インドでの留学生活を経た法顕がスリランカに滞在していたのはこの20年程前のことであり,無畏(Abhayagiri)に5千人,摩訶毘訶羅(Mahāvihāra)に3千人僧侶がいたことを記録に残している93.その頃はAbhayagiri派が優勢であり,また僧伽跋摩もMahāvihāraの徒ではなかったとされていることから,スリランカから劉宋に渡った比丘尼たちもMahāvihāra派ではなかった可能性が高いと考えられている94.またチベット聖典の翻訳にCandramālīという名のスリランカの比丘尼が寄与したということも知られており,それは11世紀前半頃とされている95

5. 比丘尼サンガの消滅

以上みてきたように,Mahāvihāra派に伝えられた史書の記述からは,少なくとも10 世紀頃までスリランカに比丘尼サンガが存続してきたと考えられるが,その後比丘尼の記述は絶えてしまう96

 10世紀のスリランカはインドのCoḷa王朝により侵略を受けていた時期である97.Mahinda IV(956-972),Sena V(972-982) と経て,次の王Mahinda V(982-1029)はCoḷa王朝に捕らえられ,Anurādhapuraは陥落する.Coḷa王朝は拠点をPolonnaruvaに移し,ランカー島の北部,中央部を支配下に置いた.しかしその後,スリランカの王Vijayabāhu I(1055-1110)は南部のRohanaで勢力をつちかい,やがてCoḷa王朝からPolonnaruvaを奪回し,Polonnaruvaを首都に定める98.仏教教団はこのCoḷa王朝の侵略で衰滅し,混乱の平定後受戒を行うだけの比丘を集めることもできなかった99.比丘尼についての記述は何もないが,やはり,戦乱で亡くなったり,国外に避難したり,あるいは還俗したりなどして比丘尼はスリランカに存在しなくなったのではないかと考えられる100

Vijayabāhu Iはビルマから比丘を迎えて比丘サンガ再建に努めたが101,比丘尼についてのサンガ再建の記述は存在しない.12 世紀に至り,Parakkamabāhu I(1153-1186)は,Mahāvihāra派を軸とする三宗派統合を推進したが, やはり比丘尼サンガの復興を図ったという記述はない.12,13世紀のPagan王朝期の碑文により,ビルマに比丘尼が存在していたことが推定されるが102,ビルマの比丘尼についての痕跡もこれが最後のものとなり103,そして上座仏教圏の比丘尼サンガは滅亡してしまったものとみられる104

6. おわりに

スリランカは16世紀から西欧諸国による植民地となった.Vimaladhammasuriya I(1592-1604),Vimaladhammasuriya II(1687-1707)は受戒のためにビルマから比丘を招請したにもかかわらず仏教教団は衰滅し105,Kittisirirājasīha王(1747-1781)がタイ(シャム)からUpāli一行を迎えて受戒を行い,これによって仏教教団は復興した106.その後19世紀にもビルマのAmarapura,Rāmaññaの比丘からの受戒を得て宗派の別ができ,現代の教団はシャム派,アマラプラ派,ラーマンニャ派に大別されるものとなっている.全体の比丘の数は,1984年の時点で約3万人となっている107

現代のスリランカにおける女性出家者についての報告もなされている108.正式な比丘尼として認められているわけではないが,10戒を守り,黄衣をまとうdasasilmātāと呼ばれる修行者が,1990年代後半の時点で5千人以上存在しているといわれる109

Anagārika Dharmapāla(1864-1931)は,Mahā Bodhi Societyを発足させ,近代スリランカ上座仏教の発展に大きな貢献をした比丘であり,1890年代後半に,ColomboのDarley LaneにdasasilmātāのためにSanghamittārāmayaという寺院を開設した110.これが現代の比丘尼サンガ復興運動の先駆的事業とされる.その後Dharmapālaがインドへ渡るに及んでその寺院は閉鎖されたが,この運動はCatherene de Alwisに引き継がれ,彼女は1900年代初頭にdasasilmātāの本部をKandyのKatukelleに設立し,その支部も各地に開設した111.その後,中国の比丘尼寺院を視察し,中国の比丘尼の協力を得て,スリランカのdasasilmātāを正式な比丘尼とすることを提唱し,その地位にふさわしい存在となるべく,dasasilmātāに対して聖典の教育をした比丘たちもいたが,皆志半ばにして亡くなった. J.R. Jayawardeneも,仏教徒使節団を中国に送り,やはり中国の比丘尼の協力のもとでスリランカの比丘尼サンガを復興する可能性を報告したが,純粋な上座仏教が大乗仏教に混合されるという理由で批判も強かった112

1996年12月8日,Mahā Bodhi Societyの会長である比丘Mapalagama Wipulasaraの後援により,インドのSarnathで韓国の比丘尼による10人のスリランカのdasasilmātāに対する受戒が行われたが113,スリランカの比丘サンガの大半の賛同は得られていないのが実状のようである.比丘サンガのみからの受戒を認めることも提唱されてはいるが114,実現されてはいない.

 紀元前3世紀のスリランカにはじめてインドから来島した比丘尼Saṃghamittāには,2つの大きな使命があった.大菩提樹の南枝の将来と,そして,スリランカの比丘尼サンガの確立である.

釈尊が成道したインドのBuddhagayāからSaṃghamittāがスリランカに将来したこの大菩提樹は,スリー・マハーボーディと呼ばれ,Anurādhapuraに現存する.記録に残っている世界最古の樹木であり,その分け木の8大菩提樹をはじめとして115,スリランカ全島に菩提樹信仰が盛んであり,Kandyの仏歯寺に祀られている仏歯と共に,現在に至るまで人々の尊崇の的となってきた116.インドのBuddhagayāの大菩提樹は,兵火にかかり焼失してしまったが,19世紀にこのスリランカのスリー・マハーボーディの実生が里帰りして甦った.そしてBuddhagayāの大菩提樹には今,世界中からの仏教徒の巡礼が絶えない.

 一方,Saṃghamittāにより確立したスリランカの比丘尼サンガは,10世紀の史書の記録を最後に消滅してしまった.そして現代,その復興の努力が続いている.

Footnotes

1 現代のスリランカでは,10戒を守り,黄衣をまとったdasasilmātāと呼ばれる女性修行者が存在するが,正式な比丘尼としての地位を与えられているわけではない.本稿6章を参照.

2 かつてはAbhayagiri派の王統史も存在したが,Parakkamabāhu I(1153-1186)の治世下におけるMahāvihāra派を軸とする三宗派統合の際に,消失したものと考えられる.森 [1984] p.471.

3 Nikāyasaṇgrahawa(以下Nks.と略す)の大乗仏教に関する記述については,充分な注意が必要であることが指摘されている.Mori [1999] pp.11-33.

4 王統年代については,Nichlas&Paranavitana [1961] pp.341-345, 森 [1984] pp.319-338を参照した.

5 Hazra [2002] pp.2-11.

6 Dpv. p.7, Hazra [2002] p.2 n.5.

7 李 [1996]

8 Hazra [2002] pp.3-4, Malalasekera [1994] pp.135-136, Gunawardana [1988] p. 17, Weeraratne [1970] p.336.

9 GeigerはMhv.を二分し,37章50偈までをMhv.と呼び,それに継続する部分をCv.と呼んでいる.Cv. p. III. 森 [1984] pp.470-471, 477 n.6.

10 Dpv.7,31, Mhv.13.8-10. Asoka王の弟という説もある.山崎 [1979] pp.177-180.

11 Dpv.12.43, Mhv.13.1. 出家し,具足戒を受けたのは20歳のときである.Dpv.7.20-22, Mhv.5.203-205.

12 Dpv.12.8-13,25-27, Mhv.12.7-8, 13.4,16-20, Bn. p.187 (pp.70-71).

13 Dpv.12.35ff, Mhv.14.1ff.

14 Mhv.14.56.

15 Dpv.12.82-86, Mhv.14.57-58, Bn. pp.194-195 (p.80).

16 Dpv.12.86.

17 Dpv.13.30-33. Mhv.15.24. ここがMahāvihāraの起源である.Mhv.15.214.

18 Dpv.15.5-17, Mhv.17.3-21, Bn. pp.197-199 (pp.83-85).

19 Mhv.17.57-61, Bn. p.202 (p.90).

20 Mhv.15.18-19.

21 比丘尼となるためには,比丘尼サンガ,比丘サンガ両方による受戒が必要である.Vin. II, p.255. 平川 [1998] pp.66, 87-89, 佐々木 [1999] pp.208-211.

22 Dpv.15.74-77, 81-83, Mhv.15.20-23, 18.1-8.

23 Mhv.15.22-23,35, 18.15, Bn. p.203 (pp.90-91). 釈尊が成道したとされるインドのBuddhagayāの菩提樹である.前田編 [1986] pp.413, 442.

24 Dpv.15.84-85, Mhv.18.9-12, Bn. p.203 (p.91).

25 Asoka王の即位6年目にSaṃghamittāは18歳で出家した(Mhv.5.203-204, 209).そしてAsoka王の即位18年目にSaṃghamittāの将来した大菩提樹はMahāmeghavana園に植えられた(Mhv.20.1).

26 Mhv.5.169-171, 201, 203, 209, Bn. pp.173, 176 (pp.51-52, 55-56).

27 Mhv.5.204.

28 Mhv.5.211.

29 Mhv.19.5

30 Dpv.15.78-80.

31 Dpv.18.11-13. Dpv.18.13cdには vinaye pañca vācesuṃ satta c’ eva pakaraṇeとあるが,Dpv.18.19, 33, Vin. V, p.3より,下線部はnikāye ととる.

32 Dpv.16.38-41, Mhv.19.64-65, Bn. pp.210-211 (p.100).

33 Mhv.19.69, Vsp. II. pp.408-409.

34 Mhv.19.72-84, 20.21,48-50.

35 Dpv.18.14-16.

36 比丘サンガについては,Dpv.18.1-2. インドにおいては,藪内 [2000]を参照.

37 Mahāvihāra, Abhayagiri, Jetavana で比丘尼律についても差異が認められる.Gunawardana [1988] p.26.

38 Vin. II, p.255. 平川 [1998] pp.62-64, 佐々木 [1999] pp.206-207.

39 Vin. IV, p.51. 平川 [1998] p.84.

40 SN. II, pp.214-217, TA, p.42.

41 Dpv.18.24-26.

42 Dpv.17.94-95, Mhv.20.32-33.

43 Mhv.20.48-5. Saṃghamittāは18歳で出家した(Mhv.5.203-205).女性は式叉摩那として2年間6法戒を学んだ後に,具足戒を受けることになっている.Vin. II, p.255, 平川 [1998] pp.66-68.

44 Dpv.18.17-19.

45 Dpv.18.21. n.21参照.sabbapāpikāをsabbapālikāととる.

46 Dpv.18.20-23.

47 Mhv.26.14-15. Vps. II, p.496.

48 Mhv.29.69.

49 ランカー島で発見された,紀元前3世紀から紀元前1世紀頃のものと推定される碑文にも,多くの比丘尼が記されている(Paranavitana [1970] p.xvii, Gunawardana [1982] p.13.).それらの比丘尼たちは,寄進された洞窟(leṇa)にその名が残っており,この頃ランカー島各地に比丘尼が存在していたことが,史書からだけではなく碑文からも実証されている.

Paranavitana [1970] より,発見された場所と比丘尼の名を以下に示す.

Mihintalē : Tissā,Savera,<SaveraはKaṇagama-tissa王の娘> (p.1. no.8, p.2. no.14),

AnurādhapuraのVessagiri : Yahasini (p.7. no.89),

Brāhmaṇayāgama : Pālā,Sumanā (p.13. no.159, no.161b),

Maha-Äḷagamuva :Raki (p.18. no.224),

Kuruṇgala地方のDāgama : Revatī (p.76. no.969),

Dambulla : Macchakkhā (p.66. no.857),

Erupotāna :Rohiṇī (p.26. no.332),

Monarāgala地方のVälaellugoḍa-kanda : Nāgā (p.55. no.725),

<NāgāはDuṭṭhagāmanī王(B.C.161-137)に仕えた将軍Phussadevaの娘 (p.lv)>

Ampāre地方 のMullikoḷuḍumalai : Tissā (p.37. no.482)

Gunawardana [1988] p.3を参照.

50 水野 [1953] p.9, 奈良 [1979] pp.408-411.

51 Dpv.20.14-19, Mhv.33.34-78.

52 Mhv.33.79-83.

53 Mhv.33.95-98.

54 Vsp. I, p.175, Nks. tr.p.12. Rahula [1956] p.84. Nks.によれば,Mahātissaの弟子たちは,比丘尼サンガと分かれてAbhayagiriに移り,Dhammaruci派は比丘尼サンガを伴わない派であったとされる.ただし,Nks.の記述についての取り扱いには注意が必要である.註3参照.

55 Mp. I, p.92.

56 Dpv.20.20-21, Mhv.33.100-101.

57 Mp. I, pp.92-93. 藪内 [2001]

58 Dpv.18.31-33.

59 Dpv.18.29. n.29. venayaggīnaṃ aggāをvenayikānaṃ aggāととる.

60 Dpv.18.27-30.

61 Dpv.18.34-37.

62 Mhv.34.36(ここではKuṭakaṇṇatissaとなっている).またKuṭikaṇṇa Tissa王は比丘尼たちのために浴室をもつくらせた(Dpv.20.33).

またいつの頃と明記されてはいないが,Cūlanāgā,Dhannā,篤く敬われたSoṇā,正法の系譜を熟知し,証知したSaṇhā,Gamikaの娘であり,大いなる智慧をもち畏れなきMahātissa,Cūlasumanā,Mahāsumanā,博学のMahākālī,良家に生まれて尊敬され,大いなる名声をもつLakkhadhammā,大いなる智慧をもち,Rohanaで篤く敬われたDīpanayā,正法の系譜を熟知し,分別説者であって持律者であり,証知したSamuddā,以上の比丘尼の名が史書に記されている(Dpv.18.38-42).

63 Mhv.34.6-8.  Vsp. II, p.624では,6種衣(chacīvara)ではなく,3衣(ticīvara)とある.

64 Mhv.34.87.

65 Dpv.22.43-45, Mhv.36.41. 森 [1989]

66 Nks.tr.p12 によれば,Vaitulya(Vetulya)を邪教と判断したのは比丘尼たちであったとされる.ただしNks.については,註3参照.

67 Mhv.33.88,98, 36.111-112, Nks.tr.p.13. Rahula [1956] p.92, 奈良 [1979] p.412.

68 Mhv.37.1-16.

69 Mhv.37.17-31.

70 Mhv.37.32-33.

71 Nks.tr.p.16, Vsp. I, p.175, Rahula [1956] p.95.

72 Mhv.5.13.

73 Mhv.37.40-43.

74 Cv.39.41, 43.

75 Cv.42.44-47.

76 Cv.42.68.

77 Cv.46.27-28.

78 Cv.52.63.

79 Cv.48.36.

80 Cv.50.3.

81 Cv.52.24, EZ. II, p.34.

82 Cv.54.44.

83 Cv.54.47.

84 Cv.44.108-117.

85 Cv.48.56-57.

86 Cv.48.139.

87 Cv.49.25.

88 EZ. I. pp.52-53. Gunawardana [1988] pp.33-34.

89 EZ. I. pp.214-215, 228. Gunawardana [1979] p.36.

90 水野 [1953] pp.11-12, 藤吉 [1977] pp.136-137, 奈良 [1979] pp.415-416. インドの求那跋摩(Gunavarman)がスリランカに渡り,その後中国へ向かったのもこのころである.T. 55, p.104b. T. 53, p.616c. Tsai [1994] p.36, p.128 n6.

91 T. 50, p.342b, p.939c. Tsai [1994] pp.53-55, Pachow [1954] pp.183-184, Gunawardana [1988] pp.39-55. 元嘉3年(426)に8人のスリランカの比丘尼が,さらに元嘉6年(429)に3人のスリランカの比丘尼が宋の都(現在の南京)に到着し,元嘉11年(434)にはじめてスリランカの比丘尼が中国の比丘尼の受戒に関与した,との記録もある.Senaveratne [1915-6] pp.107-108, Gunawardana [1979] p.37. (T. 49, p.344c.)

92 T. 50, p.939c. T. 55, p.104c. Tsai [1994] p.63.

93 T. 51, pp.864c-865b.

94 Gunawardana [1988] pp.51-52.

95 または,Candramālā,Candiramāle,Candiramālāと記されている.Gunawardana [1988] pp.55-58.

96 Bartholomeusz [1992] p.39.

97 藪内 [2001] pp.122-123.

98 Nicholas&Paranavitana [1961] pp.153-158, 184-198.

99 Cv.60.4.

前章で述べたチベットに11世紀前半に存在した比丘尼も,この混乱で国外に避難した比丘尼の一例であったとも考えられる.

Cv.60.5-8.

Gunawardana [1979] p.39, Bartholomeusz [1992] p.40, Than Tun [1958] pp.37-47, Luce [1959] pp.95-96.

Khaing [1984] p.78.

タイではその仏教史上,正式な比丘尼サンガは成立しなかった.Kabilsingh [1991] p.36.

Cv.94.15-19, 97.8-13.

Cv.100.54ff.

前田編 [1986] p.171.

前田編 [1986] pp.152ff, Bloss [1987], Bartholomeusz [1992], [1994], Weeraratne [2000]など.上座仏教圏の女性修行者について,ビルマのものとしてKhaing [1984], Kawanami [1990], [1997], タイのものとしてKabilsingh [1991] などが挙げられる.現在上座仏教圏には正式な比丘尼は存在しない.平川 [1998] p.429.

Wipulasara [2000] p.92.

Bartholomeusz [1994] pp.60-61, Weeraratne [2000] pp.85-86.

Katukelleに寺院が建立されたのは,Weeraratne [2000] (p.86), Wijayasundara [2000] (p.80)では1903年とあるが,正式に発足したのは,Bloss [1987] (p.10), Bartholomeusz [1992] (p.49), [1994] (p.102)により1907年とされている.

Weeraratne [2000] pp.86-88.

Wipulasara [2000]

Wijayasundara [2000]

Mhv.19.58, Bn. p.210 (p.100). 鈴木 [1996] pp.70-71.

鈴木 [1996] p.363.

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