2003 Volume 7 Pages 85-95
鎌倉時代初期の高野山において膨大な数の著作を残し「八傑之一」1と称されたほどの学僧であったにもかかわらず,道範(1178?-1252)の生涯に関する伝記史料は現在あまり残されていない.しかも現存する伝記史料は近世に成立した文献にかたよっており,また,現在公開されている文書類にも道範に関連した記述はきわめて少なく,そうした記録からも彼の活動をうかがい知ることは難しい.このような点が,道範の生涯に関する詳細な検討を極めて困難なものとしていることは否めない.しかし一方で,そもそも道範の生涯について検討される機会そのものがこれまで豊富だったとは言い難く,そうした現存の伝記史料すらも未だ充分に検討されているとはいえないのが実情である.そこで本稿では道範の生涯を把握するための基礎作業として,改めて道範に関連する史料を整理し,今後の研究の端緒としたい.
まず道範の生涯について言及されている論考のうち,主なものを紹介しておこう2.蓮澤浄淳[1922]では,道範が師事したとされる高野山華王院覚海(1142-1223)とその門人逹の生涯が紹介されている.そのなかに道範の項目があり,約5頁にわたって彼の生涯がつづられている3.しかしこれは後述する8点の伝記史料のうち②『続伝灯』,③『春秋』,⑧『風土記』の3点を比較検討したものにとどまっている.また,上田進城[1925]は道範の讃岐配流の経緯を後述する史料①-⑥,及び『南海流浪記』から辿ったものであり,論中では③『春秋』に記載されている道範配流の年月日に誤りがあることが指摘されている4.ただ筆者の気づいた限りでは,他の部分で『春秋』の検討に若干疑問点もみうけられる.第一には,本文中で仁治元(1240)年に道範は執行職にあったとされている点である5.『春秋』の嘉禎三(1237)年の項には「執行代道範覚本房」6とあり,仁治二(1241)年の項にも「執行代道範」(同153頁上)とあるが,『春秋』の仁治元年の項には明確な記載はないので,この年に道範が執行代だったかどうかは断定できない.『春秋』歴仁元(1238)年2月の項には,検校が良任から信寛に交代した記事7があり,続けて「執行代快賢」と記されていることから8,むしろこの年の検校交代とともに執行代が快賢に代わり,仁治二年になって道範が再任されたと考えるのが自然ではないかと思われる.第二には,道範の没年を『春秋』を根拠として75歳とされているが9,これは『春秋』本文ではなく,細注にある「院譜」の記載と思われる10.
このほか最近の研究として注目すべきものとしては山本信吉[1998]がある.この中の第一章「阿闍梨道範の略伝」においては,従来閲覧の難しかった正智院蔵,仁和寺所蔵の文献類をも検討対象に含めた興味深い考察がなされている.また密教文化研究所聖教文書調査班[2003]では「資料紹介」として高野山親王院所蔵の『道範日課臨終秘儀』と題された文献の翻刻・訳注が掲載されている.その論考によれば『道範日課臨終秘儀』は,建長四(1252)年7月に弟子の良昭によって記されたものを文政13(1830)年に書写したものであり,晩年の道範の日常生活と病中・臨終の様子が詳細に記されている.文献によると道範が亡くなったのは「五月廿二日戌時半」11であり,近世の諸史料と日付が一致している.また,自らの著書『秘密念仏鈔』下巻「臨終用心事」で主張した通りの作法で道範が臨終に臨んだ様子も記されており12,『秘密念仏鈔』の内容との関連を考える上でも重要である.
次に,近世に著された史料をみてゆきたい.道範の生涯については①師蛮『本朝高僧伝』巻14(以下『本朝伝』と略記),②高泉性潡『東国高僧伝』巻9(以下『東国伝』と略記),③懐英『高野春秋』巻7-9(以下『春秋』と略記),④寂本『野峯名徳伝』巻上(以下『名徳伝』と略記),⑤祐賢『金剛頂無上正宗伝灯広録続編』巻6(以下『続伝灯』と略記),⑥維宝『南山中院真言秘法諸祖伝譜』(以下『南山伝譜』と略記),⑦『金剛峰寺諸院家析負輯』巻1(以下『析負輯』と略記),⑧『紀伊国続風土記』高野山之部(以下『風土記』と略記)などの,江戸時代に著された伝記史料によってわずかにうかがえるのみである.このうち①②④⑤は記載内容,形式が非常に似通っており,⑧も若干異なる記述が挿入されているものの,体裁はほぼ同じである.本稿では紙面上の制約から詳細な比較対照表は掲載できないが,ひとまず上記8本をもとに整理してみたい.
<近世史料にみられる道範>13
年 代 | 年 齢 | 事 項 |
---|---|---|
? | 1 歳 | 泉州船尾に生まれる,字は覚本14①②④⑥⑦⑧ |
? | 14歳 | 正智院明任(1148-1229)に従い沙弥となる①②④⑤⑦ |
建仁二(1202)年 | 秋①,8月②④⑤⑦⑧ 兼澄(?-1202)の後をうけて宝光院主となる | |
建保四(1216)年 |
11月1日⑦15 明任から灌頂を受ける ①②④⑥ |
|
? | 23歳① | 覚海,静遍⑥,守覚法親王等に学ぶ①②⑦⑧ |
文暦一(1234)年 | 50歳④⑤ | 正智院に移る①②③④⑤⑦⑧ |
嘉禎三(1237)年 | 12月25日 金剛峯寺執行代となる③ | |
延応二(1239)年 | 5月16日 仁和寺道助法親王に菩提心論を講じ『質多鈔』を著す⑥ | |
仁治元(1240)年 | 『秘藏寶鑰問談鈔』を著す⑥ | |
仁治二(1241)年 | 1月 執行代に再任される③ | |
仁治三(1242)年 | 秋⑦11月⑥,京都六波羅に向かう | |
仁治四(1243)年 | 60歳⑦ | 春①④⑤⑧16,1月25日⑥,正月⑦讃岐に配流される①④⑤⑧ |
南海各地をめぐる①②⑦ | ||
寛元二(1244)年 | 夏④⑤ 善通寺に住す①②④⑤⑦ | |
寛元三(1245)年 |
9月14日 善通寺にて能遍に庭儀潅頂を伝授③ 9月18日 善通寺道場にて清円に両部潅頂を伝授③ 9月21日 善通寺を訪れた隆弁に両部大法,尊法などを伝授③ 10月2日 祐仁に秘密潅頂を伝授③ |
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建長一(1249)年 | 66歳⑦ |
夏①②,5月④⑥21日⑧ 赦免を受ける 8月17日④⑤⑦⑧ 帰山する 御影堂を開く③ 宝光院に住す①②④⑤ 11月6日 正智院にて印頂に具支潅頂 を授与③ |
建長二(1250)年 |
5月23日 正智院にて中川治部卿に 両部潅頂を伝授③ 11月8日 正智院の道場にて明澄に両 部潅頂を伝授③ |
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建長三(1251)年 |
11月13日 高野大明神より遍明院の慈氏 王丸に神託があり,他の僧侶らと共に 遍明院に赴く③⑧ |
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建長四(1252)年 |
夏①②⑤,4月④⑦⑧ 疽を患う 5月22日②④⑥⑧夜⑤⑦ 宝光院にて死去①-⑧ 無量寿院境内に埋葬される⑥⑧ |
このほか没後の逸話として次のような説話がある.宝光院内には道範自作の像があり,毎月命日に僧逹はその像の前で論席を設けていた.ある日,一人の僧侶が道範の釈と称して自らの意見を述べた時,その像が突然言葉を発してその僧を戒めたという(①②④⑦).
3.2 南海流浪記このほか彼の生涯をたどる助けになるものとしては,道範が讃岐に配流された7年間に記した『南海流浪記』がある.この中では配流中の道範の消息が和歌とともに仮名混じり文で書かれており,彼の文学的才能とともに配流当時の様子をうかがうことができる17.また嘉永四(1851)年版本の『南海流浪記』巻末には正智院道猷による略歴が記されている.『南海流浪記』に記載されている,以下に,配流中の道範の行状をまとめてみよう18.
<南海流浪記にみられる道範>(*は和歌が付されている項目を示す)
年 代 | 月日 | 事 項 |
---|---|---|
仁治三(1242)年 | 11月18日 | 六波羅に参上する |
仁治四(1243)年 | 1月25日 | 讃岐配流が決定 |
1月30日 | 京都を出発 | |
2月1日 | 久我にて乗船,神崎に停泊* | |
2月2日 | 筒井に至る* | |
2月3日 | 岩屋,須磨の浦に至る* | |
2月4日 | 淡路国府に至る* | |
2月6日 | 淡路福良に3日間滞在* | |
2月10日 | 鳴戸を経て下船,阿波齋田に至る | |
2月11日 | 大津賀に至る | |
2月12日 | 讃岐国府に至る | |
2月13日 | 讃岐の守護のもとに至る* | |
2月14日 | 宇多津の御家人,橘藤左衛門高能のもとに預けられる | |
2月15日 | 僧房に移される* | |
3月21日 | 善通寺に詣でる* | |
3月22日 | 宇多津に戻る | |
寛元元(1243)年 | 9月15日 | 善通寺に居を移す |
9月21日 | 弘法大師の行道所に至る* | |
10月頃 | 南大門に行き,「西行の松」を見る* | |
寛元二(1244)年 | 1月頃 | 善通寺の童舞装束を調査する |
6月15日 | 多度郡田所入道の夢を見る | |
8月頃 | 淡路国に消息を送る* | |
寛元三(1245)年 | 12月16日 | 高野山浄菩提院尚祚の訃報を聞き落涙する* |
12月18日 | 出雲に配流されていた法性の訃報を聞き,悲嘆にくれる | |
12月19日 | 法性のために50日間の阿弥陀護摩行を始める* | |
宝治二(1248)年 | 4月頃 | 道助法親王の命により仏師を善通寺に呼び,大師の御影を模写させる. |
10月17日 | 伊予国寒川に建立された堂の三尊を供養する際,導師をつとめる* | |
10月29日 | 琴曳宮に参詣* | |
11月17日 | 尾背寺,称名院に参詣* | |
12月18日 | 阿波国瀧寺に参詣 | |
建長元(1249)年 | 5月21日 | 赦免を被る |
6月8日 | 六波羅より下知状等が届く | |
6月21日 | 持病が悪化し出立できず,さらに40日間ほど善通寺に滞在する* | |
7月29日 | 讃岐国白峰寺静円の申し出により,白峰寺に行く | |
8月4日 | 静円に伝法する | |
8月8日 | 白峰寺を出て引田に至る | |
8月9日 | 阿波大坂を過ぎて乗船する | |
8月14日 | 賀集を経て大谷に至る | |
8月17日 | 高野山に戻る | |
8月21日 | 奥院に参詣 |
帰山後の道範の行状を知ることができる文書類として,管見の及ぶ限りでは以下のようなものがある.
高野山霊宝館[1998]33頁に図版が掲載されている.山本信吉氏による解説(98頁)によれば,この文書は道範が建長三(1251)年7月9日に全文自筆で書いた正智院の財物等の処分状であり,道範の確実な自筆文書である.『南海流浪記』の嘉永四年版本,及び東北大蔵本巻末に「先徳道範真蹟長帳」として付されているものはこれにあたる.
『続宝簡集』第8に掲載されている19.もともと室生山にあった空海自筆の華厳経を高野山御影堂に奉納した際の寄進状とされる.奥書には「建長四年五月 日 阿闍梨道範」とあり,この月の22日に亡くなっていることから,最晩年に書かれたものであることがわかる.
このほか,前述の高野山霊宝館[1998]に掲載されている「正智院
文書(古代・中世)編年目録」20には以下の文書が記載されているので,挙げておく21.
以上甚だ簡略ながら,道範の生涯をたどる上で手がかりとなり得る資料を一部紹介した.なお今回は考察できなかったが,現在各地に数多く残されている道範著作の写本,版本の奥書には年月日が明記されているものが少なくなく,道範の著作活動を知る上で有用なものと思われる.しかし同じ著作でもテキストによって奥書の異同が激しい文献もあり,各々について詳細な検討を要することから,これらについては稿をあらためて取り上げることとしたい.このほか,道範と関わりのあった人物(例えば仁和寺道助親王)に関する諸資料や血脈関係資料等を丹念にみてゆけば,その中から道範の行状を知る手がかりが得られる可能性もあろう.本稿ではそこまで立ち入ることはできなかったが,今後,それらも考慮した上で更に考察を深めてゆきたい.
(本稿は平成14年度文部科学省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である)
1 『本朝伝』巻14(仏全102,227上),『東国伝』巻9(仏全104,114上),『名徳伝』巻上(仏全106,11下),『続伝灯』巻6(続真全33,135上),『析負輯』巻1(続真全34,37下).
2 その他の道範伝記に関する論考については紙面の関係から詳述は控える.山本[1998]脚注(371頁),および本稿末にあげた参考論文を参照されたい.
3 『密教研究』10,153下-158上.
4 注16参照.
5 上田[1925]625頁.
6 日仏全131,150頁下.
7 『春秋』8,151頁上.
8 『春秋』8,151頁上.
9 上田[1925]624頁.
10 日仏全131,150頁上.なおこの「院譜」は道範の没した場所が宝光院であることから宝光院,あるいは道範が長年住した正智院の伝譜であると考え得る.『風土記』の道範伝をみると「宝光院譜曰…(中略)寂年六十九」(続真全39,1195頁)とある.また『析負輯』の正智院の項には道範について「生年七十五」(続真全34,28上)とある.『春秋』記載の「院譜」がこれらと同一のものであるかどうかは現在確認できないにせよ,道範の生年との関係も含めて再検討を要する点であると思われる.道範の生没年の問題については,いずれ稿を改めて論じることとしたい.
11 密教文化研究所聖教文書調査班[2003],88頁.
12 密教文化研究所聖教文書調査班[2003],83頁,『秘密念仏鈔』下「臨終用心事」(続浄全12,108頁上-)参照.
13 近世史料にみられる道範関連の事項を表にまとめた.なお各項目末尾の数字は、前述の史料に伏した番号を示す.
14 ⑤『続伝灯』のみ「松尾」「字本覚」(続真全33,387頁下).
15 ⑦『析負輯』細注参照(続真全34,28頁下).
16 ③『春秋』のみ「9月15日」.しかし上田[1925],森田[1979]では『南海流浪記』の記載と対照して『春秋』の日付を誤りとする.
17 『南海流浪記』の文学的側面について触れられている論考としては長崎[1989],川村[1983]などがある.また,山田[1987]第4章「西行の信仰と生活」の中でも,南海流浪記について若干の言及がある(291頁).また現存諸本の書誌学的考察については,森田[1979]に概略が紹介されている.
18 本稿では東北大学狩野文庫蔵版本を用い,群書類従,国文東方叢書,香川叢書と比較対照した.なお『国書総目録』には東北大蔵本は嘉永五年版となっているが,本書末尾にある道猷の識語には「嘉永四年」とあり,かつ筆者が見る限りでは嘉永五年版を示す記載は見られない.ただし,森田[1979]に紹介されている坂出市図書館蔵・嘉永四年版本の特徴と東北大蔵本の体裁とは異なる点がみうけられ,同一のものかどうかは比較検討を要する.なお『国書総目録』と森田[1979]によれば『南海流浪記』の完本には嘉永四年版本の他に写本6種があるとされ,諸本の異同について今後詳細に検討する必要があるが,これについては他日を期したい.
19 『大日本古文書』高野山文書2,289-290.
20 高野山霊宝館[1998]104頁.
21 高野山霊宝館[1998]104頁.