Studies of Buddhist Culture
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2004 Volume 8 Pages 3-26

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0.はじめに

 われわれは様々な活動を行う際に,どれほどの確信を持って臨んでいるだろうか?

 例えば,ある特定の蛇口から出てくる液体を何度も飲んでみて,それが全て安全な水であることを確認した場合でさえ,次にその蛇口から出てきた透明な液体が安全な水であることを飲む前に知ることは容易ではないだろう.ましてや,過去に一度も経験したことがなく,多大な努力を要する行為に関して,所期の結果を生むかどうかを事前に知ることはより難しいだろうし,事後検証は無意味になりかねない.

 人々がどれほどの確信を持って行為を開始するのか,あるいは,認識は何によって正当化されるのかという問題は,インド哲学においては真知論(prāmāṇyavāda)という枠組みの中で議論されている.

インド古典論理学派(Nyāya, 以下ニヤーヤ学派)において,真知論は主にVātsyāyana(4-5世紀)の著作Nyāyabhāṣya(NBh)の冒頭箇所に対する註釈群の中で展開されてきた1

真知論の議論対象は多岐に渡るが,他律的検証理論を主張するニヤーヤ学派に対して投げかけられる問の中で,最大の問題の1つは,行為発動(pravṛtti)の前に,いかにして当該認識の〈真〉(prāmāṇya)を確定するかというものである.

というのも,特にヴェーダ祭式などの多額の費用がかかる行為に関しては,事後検証は無意味となってしまうからである2

志田[2002]において,Jayanta(9世紀)とVācaspati(10世紀)の行為発動前の検証理論を比較検討したことを踏まえて,本稿ではUddyotakara(6-7世紀)を含めたニヤーヤ学派各論師の真知論を対象として,以下の3点を軸に各論師の定説を分析し,その歴史的展開を跡づけることを試みる3

・行為発動条件として必要な認識の確度

・検証済と見なされる認識の確度

・既知領域に関する日常的認識と未知領域に関する非日常的認識の対比方法

1.準備作業

以上の問題の分析にあたり,各論師の定説の見通しをよくするための準備作業として,認識の確度毎に暫定的に以下の4つのタイプを設定する.

レベル1  まず,認識者が初めて経験する対象の認識などのように,真偽の判断材料が全くない認識を想定することができる.典型的な例として,新生児の最初の認識があげられる.ただし,輪廻を想定する場合,たとえ今回の人生で初めてであっても,過去世において経験済と見なすならば,このタイプに分類されない.このタイプの認識の確度を〈レベル1〉とする.

レベル2  次に,認識主体がある対象に関して「過去に正しく認識したことがある」という信念を抱いている認識,すなわち,認識者本人は真知であると思い込んではいるが,客観的には錯誤知などの偽知である可能性がある認識の確度を〈レベル2〉とする.一般的にニヤーヤ学派の真知論の文脈では,このタイプの認識は,過去における同種の対象の認識に基づく活動の成否を前提とする.

レベル4  また,当該認識に基づいた活動が首尾よく終わることで,実用的〈真〉が確認された認識の確度を〈レベル4〉とする4.ちなみに,実用的〈真〉が対応的〈真〉に遍充されているという仮定のもとでは,この認識は,外界と対応していることも検証されたことになる.

レベル5  最後に,外界と対応していることが確認された認識の確度を〈レベル5〉とする.これは真知の定義に適うものであり,確度としては最高レベルにあるが,ある認識が外界と対応していることを直接検証することは原理的に不可能である.ただし,前提として,対象を決して逸脱しないと見なされ,検証を免除される認識はここに含める.

以上の4種の認識を〈真〉の確度の順に並べれば,以下のようになるだろう5

L1. 過去世も含めて,認識主体にとって初めてのタイプの認識

L2. 過去に検証済の認識と同じ対象を持つと信じられている認識

L4. 当該認識に基づいた活動の成功により実用的〈真〉が事後的に検証された認識

L5. 外界との対応が確認済の認識(検証に関して自律的な真知)

以上の前提をもとに,次節以降,各論師が扱う様々な認識の確度を推測しながら,この中のいずれかに当てはめていく.そして,どの確度以上の認識が行為発動の条件となり,あるいは,検証済となると見なされていたかを考察する.その際「祭式を行えば天界を得る」などを内容とするヴェーダ言明[の認識](祭式行為発動前)の帰属先が1つの焦点となる6

2.各論師が想定する真の確度

2.1.Vātsyāyana

ニヤーヤ学派の真知論の起点ともいえるNBhの冒頭箇所は以下のようである.

NBh p.1.6-9: pramāṇato ’rthapratipattau pravṛttisāmarthyād arthavat pramāṇam/ pramāṇam antareṇa nārthapratipattiḥ, nārthapratipattim antareṇa pravṛttisāmarthyam/ pramāṇena khalv ayaṃ jñātārtham upa-

labhya tam artham abhīpsati jihāsati vā/ tasyepsājihāsāprayuktasya samīhā pravṛttir ity ucyate/ sāmarthyaṃ punar asyāḥ phalenābhisam-

bandhaḥ/

 真知手段に基づく対象理解がある場合,〈行為発動有効性〉があるので,真知手段は有効である.真知手段なしに対象理解はなく,対象理解がなければ〈行為発動有効性〉はない.周知のように,この認識主体は,真知手段によって対象を認識してから,その対象を得よう,あるいは捨てようとする.その取捨の欲求に突き動かされた人の努力7が「行為発動」と言われる.そして「有効性」とはそれ(=行為発動)が結果と結びつくことである.

まず,第1文と第2文において,対応的〈真〉(=真知手段に基づく対象理解, A)と実用的〈真〉(=〈行為発動有効性〉,すなわち目的実現, B)という2つの観点から〈真〉が捉えられている.また,Aがある場合にBがあり,AがなければBはありえない,という存在論的因果関係を示していると解釈すれば,AによるBの遍充が念頭に置かれていたことを読みとることは可能だろう.またその解釈のもとでは,目的実現の確認(=Bの知)は,当該認識が対応的に真であること(=A)を検証することになる8

取捨の努力の対象が,過去に経験済のものに限られるのか,あるいは,認識主体が初めて経験する対象も含むのかについては,冒頭箇所においては特に明記されていない9.いずれにせよ,第1, 2文における「対象理解(arthapratipatti)」と,第3文における「行為発動条件としての認識」をめぐっては後代の論師の解釈が分かれるところであり,それは本稿の主題でもある.

ただし,Vātsyāyanaは後にアートマン論の箇所で「生類における全ての活動は想起に依存する10」と述べ,また,中観批判の箇所では,錯誤知の発生を説明する際に,例えば杭を人と誤認する錯誤知は過去における人の認識を前提とすると述べている11.それを真知にも平行移動すれば,真知の場合も,当該対象の過去における経験を要請することになるだろう.以上から,暫定的ではあるが,第3文に説明される,行為発動条件となる認識を〈レベル2〉に分類する.

したがってNBh冒頭における認識の分類は以下のようになるだろう.

L1. 特に言及していない.

L2. 取捨の努力(=行為発動)の必要条件となる認識.

L4. 〈行為発動有効性〉により〈真〉が検証された認識.

L5. 特に言及していない12

また,冒頭箇所だけから,Vātsyāyanaが事前検証を意識していたかどうかを結論づけることは難しい.

2.2.Uddyotakara

以上のNBh冒頭箇所に対する註釈Nyāyavārttika(NV)における,Uddyotakaraの真知論に特徴的なことは,無始の輪廻観を導入していることと,「真実の認識に基づく至福の獲得」に関して,日常レベル(=対象の取捨)・非日常レベル(=解脱)という二重構造を設定している点である.

■真知の検証と行為発動の先後関係をめぐる議論

真知の検証と行為発動の先後関係に関する想定反論が以下のように提示されている.

 相互依存となるので[対象理解と行為発動との]両者は成立しない. (中略) もしも,〈真知手段による対象理解〉がある場合に〈行為発動有効性〉があるのならば,あるいは,もしも〈行為発動有効性〉に基づいて〈真知手段による対象理解〉があるのならば,どちらが先でどちらが後であるかが述べられるべきである.

 まず,もしも〈真知手段による対象理解〉が先だとすれば,〈行為発動有効性〉なしに,どうして[対象を正しく]理解するのか?

あるいは〈行為発動有効性〉が先だとすれば,確定していないにもかかわらず,どうして対象に対して行為発動するのか?したがって行為発動にせよ,あるいは〈真知手段による対象理解〉にせよ先後関係はありえない13

この想定反論者は,全ての行為発動が事前検証を必要とすることを前提としている.後述するように,JayantaやVācaspatiはこの前提を受け入れず,未検証の認識からも行為発動がありうることを主張する.しかし,Uddyotakaraは以上の反論に対して次のように答えている.

 これもまたそのようではない.何故か?無始だからである.「この輪廻は無始である」ということが「以前に反復された云々」というスートラ14で説明されるだろう.

 [もしも]輪廻が始まりを持つならば,このことは過失となるだろう.すなわち〈真知手段による対象理解〉が先か,それとも〈行為発動有効性〉が先かというように15

Uddyotakaraが,後代に浮き彫りにされる〈事後検証の問題〉を予め考慮しているのか,あるいは,反論者に引きずられたのかは不明であるものの,彼は以上のように「無始の輪廻」を理由に,[錯誤知を含む]全ての認識に関して事前検証を認めるような回答を与えている16

■〈行為発動有効性〉の適用対象

後代のJayantaなどが考えるように,NBhの冒頭から,(i)真知手段に基づく対象理解K1.(ii)取捨の努力(=行為発動).(iii)〈行為発動有効性〉(=目的実現).(iv) K1自身の検証,という時系列に沿った検証の構造を導くことは決して不自然ではないだろう.

しかしUddyotakaraは,ある認識K1に基づく〈行為発動有効性〉はK1自身の検証に適用されるのではなく,その後のK1と同じ状況にある別の認識K1’の検証に適用すると考え,また,検証と行為発動はどちらが先というものではないとする.それにより,新生児の認識など現世で初めてのタイプの認識ですら,過去世の〈行為発動有効性〉により検証済であると見なし,その根拠を無始の輪廻に求めている.

■日常・非日常の分離

一方で,赤松[1989][2000]によって明らかにされたように,Uddyotakaraは,NV ad 1.1.2において,至福が2種類であることを導入して〈学問伝統の断絶〉という問題を解決している.

伝統断絶を指摘する反論  その反論の趣旨は以下のようである.すなわち,NS 1.1.1に従えば,真実の認識を獲得した者は,即座に至福を得て解脱することになるので,師資相承の学問伝統が断絶してしまう.逆に,真実の認識を獲得してもなお,至福を得ずに現世にとどまっているならば,真実の認識が至福の原因でなくなってしまう,というものである17

至福の二重構造による解決  以上の問題に対して,NVでは,〈真実の認識→至福の獲得〉という図式にも経験領域・非経験領域の二重構造があると解説する.

すなわち,ニヤーヤの体系では,経験的な事実に根拠をおく論証学・認識論と,それとは次元を異にする超越論的性格を持つ解脱論とが共存しているため,至福をも,超世間的な高次のもの(para)と,世間的な低次のもの(apara)とに分類した上で,ニヤーヤ学そのものである16カテゴリーの認識からは低次の至福(=認識対象の取捨)の獲得があり,アートマンに始まる12の真知対象(prameya)の認識から高次の至福(=解脱)の獲得があると説明する.

そして,経験的なことがらに関しては,真実の認識の直後に低次の至福の獲得があり,超経験的なことがらに関しては,真実の認識から徐々に解脱へと至るため,学問の伝統は保持されると回答している18

ケース 認識対象 検証方法 至福の種類
日常

真知手段などの

16カテゴリー

過去の認識の

〈行為発動有効性〉

低次

(対象の取捨)

非日常 アートマンなどの12真知対象 ??

高次

(解脱)

NVにおける日常・非日常の区別

■小結

Uddyotakaraは,NS 3.1.18を引用するなど,無始の輪廻観を真知論に積極的に導入しているので「現世では初めてではあるが,過去世では経験済の認識」を意識している.そのような認識は,過去世の経験に裏打ちされているため〈レベル2〉の確度として分類することができるだろう.そのことから〈レベル1〉の確度の認識の存在を認めていないことが予想される.

したがって,Uddyotakaraによる認識の分類は,以下のようになるだろう.

L1. 無始の輪廻の想定により,存在を認めない.

L2. それ自身行為発動条件であるが,過去に検証済の同種の認識を必要とする.

L4. 〈行為発動有効性〉により〈真〉が検証された認識.

L5. 特に言及されていない.

Uddyotakaraは,新生児の認識ですら過去世の〈行為発動有効性〉により検証済と見なしているため,行為発動前の当該の認識と,過去に検証済の認識をほぼ同一視している.したがって,そもそも〈レベル2〉と〈レベル4〉とをほとんど区別していない.いずれにせよ,〈レベル2〉以上の認識を検証済,かつ,行為発動条件と見なしていたと想定することができるだろう.

ただし,錯誤知に関しては,特に言及することはなく,錯誤知をどこに分類するかは不明である19.また,ヴェーダ言明正当化についても真知論において言及されていないため20,ヴェーダ言明の事前検証を意識していたかどうかという点も不明である.

2.3.Jayanta

■日常・非日常の分離と役割分担

Jayantaはまず,水の認識などの日常的なケースと,多額の費用がかかるヴェーダ祭式を教示するヴェーダ言明[の認識]などの非日常的なケースとに分ける.

そして,日常的な認識の場合は,〈真〉の検証がなくても日常生活が成り立つため,検証自体は重要ではないが,敢えてするならば,〈行為発動有効性〉によって事後的に検証すると説明する21

逆に,非日常的なヴェーダ言明の〈真〉の検証は,賢者が必ず行うべきことであり22,アーユルヴェーダなどに関する日常的な認識を〈行為発動有効性〉によって検証する人のみが,それらを喩例とした推論によって行うと述べている23

ケース 認識対象の例 検証方法 重要性
日常 水やマントラ言明

当該認識に基づく

〈行為発動有効性〉

重要ではない
非日常 ヴェーダ言明 日常のケースを喩例とした推論 賢者は必ず検証

NMにおける日常・非日常の区別

■目的実現確認知の非逸脱性と反復認識に対する否定的態度

目的実現確認知の検証に関する自律性  もしも,ある認識K1を正当化する認識K2について,その〈真〉の検証のために,さらに別の認識を要請するならば,検証過程は無限後退に陥ってしまう.したがって,認識の他律的検証を主張する場合,その〈基礎付け〉として,なんらかの自明な認識を認めなければならないが,Jayantaは,目的実現を確認する認識(phalajñāna, arthakriyājñāna)の非逸脱性を示し,それらの〈真〉は既に成立したものとして,検証を免除している24

それに対してNMの中の対論者は,夢の中の目的実現確認知の逸脱可能性を指摘するが,Jayantaは覚醒時の認識が夢眠時のそれと明らかに違うという理由で,覚醒時の目的実現確認知の検証的自律性を擁護している25

〈行為発動有効性〉の適用対象と反復認識に対する否定的態度  Jayantaによれば,日常的なケースでは,認識の検証方法は〈行為発動有効性〉のみに基づくことを強調し,同じことを何度経験しようが,その都度行為を発動し,その〈行為発動有効性〉によって事後的に検証するという意図が窺える.「反復経験された対象の認識が自律的真知である」という「ある賢こがった者(prājñamānin)26」の前主張に対してJayantaは,否定的な態度を示し,反復された認識も他律的に検証されるとみなしている.特に「反復経験された対象の認識は,反復しているからこそ,その真偽に関する疑惑が生じる」と述べている点はニヤーヤの他の論師と比べて特異的である27

■行為発動条件としての「疑惑」

さらにJayantaは,全ての認識は発生段階において,真偽に関して疑惑の状態にあると明言している28.したがって,〈レベル1〉のタイプの認識の存在を認め,全ての認識を発生段階において〈レベル1〉の中に押し込むことが予想される.同時に,〈レベル2〉のタイプの認識は論理上(nyāyāt)認めていないと想定することができる29

また,行為発動条件に関しても,日常と非日常とに分けて論じている.すなわち,非日常の場合は発動前に検証を必要とし,一方日常の場合は,〈真偽に関する疑惑〉から行為発動があると説明する30

■小結

以上のように,Jayantaは非日常的なヴェーダ言明の正当化だけを特別に扱う.つまり,マントラ言明など[の認識]という〈レベル4〉の認識から引き出された遍充によってヴェーダ言明の〈真〉が検証されるとする.そのような認識は,〈レベル4〉の認識を同類例とする推論により検証されるのだから,〈レベル4〉と同等かそれよりやや劣るくらいの確度であると推定される.したがって,この認識の確度を〈レベル3〉とする.

以上から,Jayantaが想定する認識は以下のように分類されるだろう.

L1. 反復認識を含む発生した限りの全ての認識,日常的な行為発動条件(例. 実践前の水やマントラの認識,錯誤知,夢眠時の目的実現確認知?)

L2. 論理上,存在を認めていない.

L3. L4の認識を喩例とする認識.非日常的な行為発動条件(例.ヴェーダ言明の認識)

L4. 目的実現確認知により検証された認識.(例. 実践後の水やマントラの認識)

L5. 目的実現確認知(例. 覚醒時の水やマントラの効果の認識)

2.4.Vācaspati

Vācaspatiは,日常・非日常という分類は保つものの,検証方法については,水の認識も,ヴェーダ言明も同じ理論で正当化する理論を提示する.その詳細は志田[2002]で論じている.

■反復・未反復の場合分けと推論による正当化

Vācaspatiは他律的検証について以下のように述べている.

 〈真〉が自律的に確定できないことは確かである.そうではなく他律的に,[すなわち]〈反復状態に達していない〉既知のものを対象とする[認識]については,〈行為発動有効性〉のみに基づいてそれ(=〈真〉)が理解される. (中略) そして,疑いながらも行為発動するこれらの人は,〈行為発動有効性〉に基づいて,真知手段が[真に]それ(=真知手段)であることを決定してから,〈反復状態に達した〉その種類の他の[認識]に関しては,〈行為発動有効性〉に必ず先行して,〈その種類であること〉という証因による〈真〉の確定に基づいた対象の決定により行為発動する31

■推論による検証方法

abhyāsadaśāpannaとtajjātīyatāの導入  Vācaspatiは検証理論を組み立てる中で,以下のような2つの概念を導入している.

まず,反復・未反復という分類を導入し,〈反復状態に達した(abhyāsadaśāpanna)〉認識,すなわち,度重なる実践によって検証された認識群というタイプを設ける.そして,そのような認識が〈真〉に遍充されていることの把捉を可能とする32

さらに,認識上の属性として,認識間の類似性を意味する〈その種類であること(tajjātīyatā)〉という概念を導入し33,〈反復状態に達した〉認識群と同じ種類の認識に関しては,発動前に推論によって〈真〉を決定することができると説明する.

ヴェーダ言明の検証  以上のような前提により,Vācaspatiは以下のようにヴェーダ言明を正当化する.まず,経験的に検証可能なマントラなどについて,何度も実践し,活動が首尾よく終わることを経験する.それにより,〈信頼しうる人の言明〉が〈真〉に遍充されていることを把捉する.そして,ヴェーダ言明の認識には,マントラなどの認識との類似性があり,その類似性〈その種類であること〉を証因とした推論によって,ヴェーダ言明を正当化するのである34

結果認識の検証  Jayanta説に似た説を主張する「ある者35」は,[覚醒時の]結果認識の検証を免除するが,Vācaspatiは結果認識も以上の理論によって説明し直す36.つまり,結果認識,例えば水の場合であれば,飲んだり浴びたりしていることの認識の〈真〉の検証が不要なのは,本来的に逸脱しないもの(=〈レベル5〉)だからというのではなく,むしろ,それと同種の認識が過去に1度も逸脱していないことの反復経験を前提とした推論によって検証されると考える.したがって,この認識の確度を〈レベル4〉に分類してよいだろう.

逸脱を含む反復認識  遠方から蜃気楼を水と認識するケースのように,過去にたった1度でも逸脱があり,活動が失敗したような認識は,たとえ複数回認識していても〈レベル4〉とはならず,〈レベル2〉に分類されるだろう.同様にして,夢眠時の結果認識もこのタイプに含ませている37

ケース 認識対象の例 検証の根拠 反復対象
未反復

水の視覚知や

夢眠時の結果認識

当該認識に基づく〈行為発動有効性〉

反復

(日常)

水の結果認識

(覚醒時)

反復された認識

との類似性

[過去の]水の結果認識

反復

(非日常)

ヴェーダ言明 マントラなどの実践

NVTTにおける反復・非反復の区別

■行為発動条件と輪廻の想定

行為発動条件  行為発動条件に関しては,対象の確定(arthāvadhāraṇa)ではなく,単なる対象の認識(arthapratipatti)から行為発動があると述べ,さらに「対象理解」とは,(i)対象[自体]の理解であり,かつ,(ii)〈望まれたものの手段であることの理解〉であると説明する38.したがって,Vācaspatiは,たとえある認識が未検証であっても,目的の実現手段であると思えば,真偽に関する疑惑を伴った発動があることを認めている39

輪廻の想定  本稿が対象とするNVTTの真知論(pp.9.14-12.3.)は,NVにおける認識と発動の先後関係をめぐる議論40への註釈箇所にあたるが,認識主体にとって初めてのタイプの認識の扱いについては,NVとの間に差異がある.

先述のようにUddyotakaraの見解では,無始の輪廻を前提とした過去世の乳飲みの経験は行為発動条件となる一方で,事前検証の根拠にもなっている.一方,Vācaspatiは,真知論の最後半部において‘新生児の乳飲みは過去世の潜在印象を前提とする’と註釈を加えるが41,以下の理由から,過去世の乳飲みの経験は,行為発動条件とはなるものの事前検証の根拠とはなっていないと考えられる.

というのも,彼は(i)疑惑を伴った発動を認めている.(ii)過去に一度も裏切られることがなかったという意味で〈反復状態に達した〉認識群と同種の認識だけの事前検証を認めている.(iii)ヴェーダ言明や結果認識の検証を説明する箇所では,過去世の想定を明確に示す語は用いていない42

したがって,輪廻の想定は新生児の行為発動条件としてのみ要請されていたと考えられ,事前検証に必要な〈反復状態に達した〉認識と見なしていたかという点は疑わしい.

■小結

以上から,Vācaspatiが考えていた認識は,以下のように分類できるだろう.

L1. 輪廻の想定により存在しない(?)

L2. 〈反復状態に達していない〉認識・・・行為発動条件.(例. 錯誤知,夢眠時の結果認識,新生児の認識?)

L3. 〈その種類の〉認識・・・L4の認識群と同種の認識.事前検証が可能.(例. ヴェーダ言明,覚醒時の結果認識)

L4. 〈反復状態に達した〉認識・・・一度も裏切られることなく反復された認識.L3の認識の検証の喩例となる.(例. 過去における水やマントラの効果の認識)

L5. 推論知,認識の認識43,〈その種類であること〉などを捉える意知覚44

そして,〈レベル2〉が行為発動条件となる認識,そして,〈レベル3〉以上の確度の認識を検証済と見なしているだろう.

3.結語

3.1.行為発動条件と検証の基準

Uddyotakaraは,行為発動条件としての当該認識と,過去に検証済の認識の確度をほぼ同一視している.さらに,無始の輪廻観を導入することで,行為発動と検証の先後関係の問題を解消している.しかし,錯誤知に基づく行為発動には言及していない.

Jayantaは,発生した限りの全ての認識は,たとえ過去に反復していようと,真偽に関して疑惑状態にあると述べ,そのような認識を行為発動条件と見なす.また,日常的な認識の場合は,必ず事後的に検証が行われるとする.その意味では,日常的な認識の〈真〉の検証は無意味ではあるものの,ヴェーダ言明の事前検証に間接的に適用する点に事後検証の意味を持たせている.

Vācaspatiは,〈望まれたものの達成手段であること〉の知を行為発動条件とし,疑いを伴った行為発動も認めている.新生児の行為発動をめぐって輪廻に言及するが,行為発動条件としてのみ輪廻を要請していると考えられる.また,検証に関しては,反復・非反復という分類のもとに理論を整理している.すなわち,反復認識を厳密に規定し直した上で,その種類の認識の事前検証を認める.同時に,検証の際に必要不可欠となる,推論・自己認識・意知覚などの数種の認識の検証的自律性を提示することで,検証手段をメタ的にも正当化する.

3.2.日常・非日常の場合分け

Uddyotakaraは,人の目的を教示するニヤーヤ学の位置づけを主眼としている.NS 1.1.1とNS 1.1.2でそれぞれ説かれる認識論と解脱論の両者を説明するために,日常的な認識論と非日常的な解脱論という二重構造を取り入れ,〈学問伝統の断絶〉という問題を意識している点が特徴的である.一方で,無始の輪廻という概念を根拠として導入している点は経験主義的認識論からの逸脱ともいえるだろう.その背景には,彼がKumārilaに先行し,真知論自体がトピックとして成熟していないという点が考えられるが,いずれにせよ,事前検証に関する彼の説明は疑問の余地を残しているといえるだろう45

Jayantaの真知論では,解脱論の意識はほとんど見られず,輪廻観を前提とすることもないので,専ら経験主義的認識論の枠内で考察しているといえる.また,彼の真知論は言語論の中で展開されるように,ヴェーダ言明の[他律的]事前検証を主眼としている.彼は,日常と非日常とに場合分けをする.さらに,日常的な認識を目的実現確認知とそれにより検証される認識とに分け,前者の検証を免除することで,正当化の〈基礎付け〉をし,検証過程の無限後退を回避している.ただし,非日常的なヴェーダ言明に関してだけは事前検証の必要性を強調し,その検証だけは推論に基づくと説明する.

Vācaspatiは,日常・非日常という問題意識を保ってはいるが,検証方法に関しては,むしろ反復・非反復という大分類をする.すなわち,未反復の場合は〈行為発動有効性〉による事後検証,1度も裏切られることなく反復された場合は〈その種類であること〉に基づく推論による事前検証というように,日常・非日常について統一的な見解を示している.すなわち,Jayantaならば別々の方法で検証するところの,目的実現確認知とヴェーダ言明という日常・非日常の2つの例を,共に反復のケースとみなし,〈その種類であること〉を証因とする推論に基づく統一的な検証理論を提示している46

Footnotes

1 JayantaはNyāyamañjarīの中で,NS 1.1.7に対する註釈箇所において真知論を展開するが,真知論において一度ならずNBhの冒頭箇所を肯定的に引用している(NM I pp.446.6-11, 450.8-11).

また,Uddyotakara以前は真知論が独立したトピックを形成しているとはいえない.インド哲学において真知論がはじめて体系的に論述されたのは,Kumārila(7世紀)のŚlokavārttika教令章においてであろう.

2 JayantaやVācaspatiは,特にヴェーダ祭式に関する事後検証を重要視している.NM pp.435.16-436.4: pratyakṣādiṣu dṛṣṭārtheṣu pramāṇeṣu prāmāṇyaniścayam antareṇaiva vyavahārasiddhes tatra “kiṃ svataḥ prāmāṇyam uta parataḥ” iti vicāreṇa na naḥ prayojanam; anirṇaya eva tatra śreyān/ adṛṣṭe tu viṣaye vaidikeṣv agaṇita-

draviṇavitaraṇādikleśasādhyeṣu karmasu tatprāmāṇyāvadhāraṇam antareṇa prekṣā-

vatāṃ pravartanam anucitam iti tasya prāmāṇyaniścayo ’vaśyakartavyaḥ/ tatra parata eva vedasya prāmāṇyam iti vakṣyāmaḥ/「既知のものを対象とする直接知覚などの真知手段については〈真〉の確定がなくても世間的活動は成立するので,ここにおいて「〈真〉は自律的かそれとも他律的か」という考察は我々にとって必要ではない.この点に関しては「不決定」こそが望ましい.一方,対象が未知である場合,計り知れない財の出費などの苦痛によって達成されるヴェーダ祭式は,それ[を指示するヴェーダ言明]の〈真〉を確定せずに賢者が行動することは不合理である.したがって,それ(=ヴェーダ言明)の〈真〉の確定は必ずなされなければならない.それについて,ヴェーダ言明の〈真〉は他律的に他ならないと述べるだろう.」, NVTT p.4.14-16: tad evaṃ dṛṣṭārthāḥ prāṇabhṛtāṃ vyavahārā bhavantu sandehād api yathā tathā, adṛṣṭārthās tu bahuvitta-

vyayāyāsasādhyā vaidikā vyavahārā dattajalāñjalayaḥ prasaktāḥ/「以上のように,生類において,既知のものを対象とする活動は,適宜,疑いからもあってよい.しかし,多くの財の支出と苦労により達成されるヴェーダに基づく活動は,別れの捧げ水が差し出されたこと(=無意味であること)に帰結する.」

3 テキスト箇所は,NBhの冒頭箇所(NBh(T) pp.1.6-2.5)に対する註釈NV(NV

(T) pp.1.3-9.17)および複註NVTT(特にNVTT(T) 9.14-12.3),及び,NMの真知論(NM(M) pp.419.20-451.21)とし,それぞれ括弧内のテキストを底本とする.NMの当該箇所については宇野[1996: 335-402]の訳註研究がある.

4 〈レベル3〉には,後でヴェーダ言明を対象とする認識が加わるため,一旦空白にしておく.この他,論師により,反復・非反復,覚醒時・夢眠時という場合分けも見られるが,それらは,二次的な分類として扱う.

5 同一の内容を持つ認識であっても,状況により異なるタイプに属しうるとする.例えば「これは水である」という認識を例にとっても,誰が認識主体か,あるいは,行為発動や検証の前か後かなどの状況により,異なるタイプに属すことは首肯されよう.

 例として,新生児による乳房の認識の確度の変遷を挙げる.ただし,以下の3点を仮定する.(i) 過去世の記憶を想定しない.(ii) 無条件に行為発動がある.(iii) 目的実現確認知を検証に関して自律的な真知とし,その検証を不要とする.

 まず,仮定(i)により,乳房を初めて認識する(K1)時点で,K1の確度は〈レベル1〉である.また,K1に基づき行為発動が起こり(仮定(ii)),乳飲みに成功した場合,目的実現の知K2の確度は〈レベル5〉となる(仮定(iii)).K2を根拠として検証されたならば,K1の確度は〈レベル4〉となる.その後,別の機会に,その新生児が何か(乳房であれ別のものであれ)を見て,それを乳房であると思い込む(K1’)ならば,その認識K1’の確度は〈レベル2〉である.

6 たとえヴェーダに類似するマントラやアーユルヴェーダに関する認識が検証済だとしても,所詮ヴェーダとマントラなどとは異なるからである.つまり,何の前提も加えなければ,ヴェーダ言明[の認識]は〈レベル2〉のタイプとしてすら扱うことはできず,〈レベル1〉のタイプに分類されるはずである.

7 Cf. NBh ad 1.1.11 p.17.4-5: īpsitaṃ jihāsitaṃ vārtham adhikṛtyepsājihāsāprayu-

ktasya tadupāyānuṣṭhānalakṣaṇā samīhā ceṣṭā, sā yatra vartate tac charīram/

8 筆者の見解は服部[1999: 333, n.2]にも整合するが,石飛[2001]は服部氏の解釈を「この解釈は,『ニヤーヤ=バーシャ』の論理学書としての価値を全くおとしめるものである」と評価した上で(p.63),この冒頭の2文は経験的な視点からではない主張であり,いわば公理的に認識根拠(pramāṇa)を規定する文として解釈している.すなわち,第1文,第2文ともに全称命題として解釈し,それにより対応的〈真〉(=認識根拠によって対象を知ること)と実用的〈真〉(=活動が実効があること)とが同値であることを導出していると考える(pp.72-74).

しかし,第1文を存在命題,第2文を全称命題とすれば,火と煙の遍充把握の議論とパラレルにもなるように,実用的〈真〉と対応的〈真〉の存在論的因果関係の把捉を記述していると見なすことができる.その場合,実用的〈真〉(=〈行為発動有効性〉)が対応的〈真〉の証因となる.

石飛・服部両見解の差異は対応的〈真〉と実用的〈真〉を同値と認めるかどうかであり,「対象通りに認識しているのに取捨不可能なもの(=対応的〈真〉,かつ,実用的〈偽〉)」の存在をVātsyāyanaが認めているかどうか,という問題に還元できるだろう.例えば「熱を除く[蛇]Takṣakaの頭部にある宝玉の装飾(jvaraharatakṣakacūḍāratnālaṅkāra)」(NVTT p.3.21, NBT p.14.5, cf. BS 81.25, 82.5-6)の類のものの存在を認めるどうかが以上の問題のリトマス紙となるであろうが,筆者はNBhにおけるそのような議論を未だに知らない.

ところで,ニヤーヤ学派は,一貫して対応説を真理基準として採用しており,また,本稿で検討するように,後代の検証理論では,明らかに実用的〈真〉に基づく対応的〈真〉の検証を原則としているので,筆者は石飛氏の見解には賛同しない.

9 第3文における“ayaṃ jñātārtham upalabhya”という箇所における“jñātārtham”を複合語に解釈して「彼は既に認識したことのある対象を理解して」と読めば,過去に認識済の対象であると思い込んだ対象のみに行為を発動することになるだろう.しかし,積極的な根拠がなく,NVも‘pramātṛ-’と解釈していると考えられるので,本稿ではJha[1999: 1], 宮坂[1956: 1],服部[1999: 333]などの従来の訳註研究に従う.cf. NV p.3.2: so ’yaṃ pramātā yadā pramāṇenārtham avadhārya pravartate ..., ibid. p.3.15-17: asya cārthasyopadarśanārthaṃ vākyam iti lokavṛttānuvādo vā/ sarvaḥ pramātā pramāṇenārtham avadhārya pravartamānaḥ phalam upalabhata iti lokavṛttaṃ tadvākyenānūdyata iti/

10 NBh ad NS 3.1.14 p.314.3: smṛtyāśrayāś ca prāṇabhṛtāṃ sarve vyavahārāḥ/

11 Cf. NBh ad NS 4.2.34: p.275.1-3: atasmiṃs tad iti ca vyavasāyaḥ pradhānāśrayaḥ/ apuruṣe sthāṇau puruṣa iti vyavasāyaḥ, sa pradhānāśrayaḥ/ na khalu puruṣe ’nupa-

labdhe puruṣa ity apuruṣe vyavasāyo bhavati/「Xでないものに対する「Xである」という思い込みは〈もとになるもの〉に依存している.[例えば]人でない杭に対する「人である」という思い込みは〈もとになるもの〉(=人)に依存している.周知のように,人を認識していないならば,人でないものに対する「人である」という思い込みはない.」cf. NBh ad NS 4.2.37 p.276.11-12: tattvaṃ sthāṇur iti, pradhānaṃ puruṣa iti/ tattvapradhānayor alopāt sthāṇau puruṣa iti mithyābuddhir utpadyate sāmānyagrahaṇāt/; cf. 加藤[1993].

12 Vātsyāyanaは,対応的真理観を提示している.cf. NBh p.1.16-18: kiṃ punas tattvam? sataś ca sadbhāvo ’sataś cāsadbhāva iti/ sat sad iti gṛhyamāṇaṃ yathā-

bhūtam aviparītaṃ tattvaṃ bhavati/ asac cāsad iti gṛhyamāṇaṃ yathābhūtam avi-

parītaṃ tattvaṃ bhavati/

13 NV p.3.4-9: parasparāśrayatvād ubhayāsiddhir ... yadi pramāṇato ’rthapratipattau pravṛttisāmarthyam, yadi vā pravṛttisāmarthyāt pramāṇato ’rthapratipattiḥ, kiṃ pūrvaṃ kiṃ paścād iti vācyam/ yadi tāvat pramāṇataḥ pūrvam arthapratipattiḥ, pravṛttisāmarthyam antareṇa kim iti pratipadyate/ atha pūrvaṃ pravṛttisāmarthyam anavadhāryārthe kim iti pravartate, tasmāt pravṛtteḥ pramāṇato ’rthapratipatter vā pūrvāparabhāvo na kalpata iti/

14 Cf. NS 3.1.18 , 3.1.21 pp.741, 745: pūrvābhyastasmṛtyanubandhāj jātasya harṣa-

bhayaśokasampratipatteḥ// pretyāhārābhyāsakṛtāt stanyābhilāṣāt//「以前の反復された記憶の継続に基づいて,生まれた[ばかりの新生児]において,楽しみ・怖れ・悲しみの理解がある.」「次の生において[新生児は],[過去世における]摂取の反復によって作られた[記憶]に基づいて,乳房を求めるからである.」 cf. 服部[1966: 530-531], 生井[1996: 250, n.62].

15 NV p.3.9-12: tac ca naivam/ kasmāt? anāditvāt/ anādir ayaṃ saṃsāra iti pūrvā-

bhyastasūtre pratipādayiṣyāmaḥ/ ādimati ca saṃsāra eṣa doṣaḥ, kiṃ pūrvaṃ pramāṇato ’rthapratipattiḥ, utāho pravṛttisāmarthyam iti/

16 赤松[2000: 673-677]によれば,‘輪廻(saṃsāra)’という概念は,NSには現れず,NBhでは曖昧性を残したままであるが,UddyotakaraはNVにおいて,‘転生(pretyabhāva)’と関連させて明確に定義している.そして,輪廻は,無始であるため時間的な先後関係を決定できないものであると考えているようである.

17 NV pp.21.13-22.1, 特にp.21.15-16: yadi tattvajñānād anantaram apavargaḥ syāt, śāstrasampradāyo vicchidyeta/; cf. 赤松[2000: 669-670]

18 NV p.22.1-4: na, niḥśreyasasya parāparabhedāt/ yat tāvad aparaṃ niḥśreyasaṃ tat tattvajñānānantaram eva bhavati/ tathā coktam, jīvann eva hi vidvān saṃharṣāyā-

sābhyāṃ vipramucyata iti/ ayaṃ śāstrārtha iti/ paraṃ tu niḥśreyasaṃ tattvajñānāt krameṇa bhavati/; ibid. p.1.2-3: pramāṇato ’rthapratipattāv ity evamādi tasyānusa-

ndhānavākyam, śāstrasya puruṣaśreyo ’bhidhāyakatvāt/ ibid. p.1.14: tac chāstraṃpu-

ruṣaśreyo ’bhidhatte/; cf. 赤松[1989: 67-68, 73] [2000: 670].

19 Uddyotakaraは貝を銀と認識するような錯誤知からの行為発動をおそらく考慮に入れていない.というのも,輪廻が無始であるならば,過去世においても必ず錯誤に基づく失敗があったはずであり,例えば,過去世で貝を銀だと誤って認識し活動が失敗していたとしたら,今回の人生で,銀と認識した貝への行為発動の前に検証済とは見なせないからである.つまり,単に輪廻を要請するだけでは,錯誤知に基づく行為発動を説明できないはずである.

20 Jayanta以降,真知論においてヴェーダ言明を行為発動前(=祭式実践の前)に検証することが強く意識され,NS 2.1.68におけるヴェーダ言明の正当化が真知論に組み込まれている.UddyotakaraもNS 2.1.68への註釈箇所では,NS以来の方法を踏襲しているが,NS 1.1.1-2への註釈箇所では,ヴェーダ言明の正当化には触れていない.

21 NM I p.445.2-5: na hi nīlagrāhiṇā pramāṇena nīlasvarūpam iva svaprāmāṇyam api tadānīṃ niścetuṃ śakyata iti/ kālāntare tatprāmāṇyaniścayaḥ satyam asti, na tu tatra

nairapekṣyam, pravṛttisāmarthyādhīnatvāt tanniścayasya//「青を把捉する真知(K1)によっては,その発生時において,青そのものを[確定する]ようには,K1自らの〈真〉を確定することはできない.後になって,それ(=K1)の〈真〉が確定するのは確かであり,それが他に依存しないということはない[すなわち,認識の〈真〉の検証は他律的である].なぜなら,それ(=K1の〈真〉)の確定は〈行為発動有効性〉に依存するからである.」, pp.448.16-449.3: kin tu lokaḥ pravartakajñānānantaraṃ phalaprāptiṃ prati yathā sodyamo dṛśyate na tathā tatkāraṇaparīkṣāṃ prati/ phalajñānam evetthaṃ parīkṣyate/ ādyasya hi jñānasya phalajñānād eva prāmāṇyasiddhiḥ/ kaś ca nāma nikaṭam upāyam upekṣya dūraṃ gacched iti!「そうではなく,世間の人は,[人を]行為発動させる認識K1の直後にある結果の獲得に対して一所懸命であることが経験されるほどには,それ(=K1)の原因の検討に対しては[一所懸命ではない].[したがって]結果認識のみが,以上のように精察されるのである.というのも,第一の認識(=K1)は,結果認識のみに基づいて〈真〉が成立するからである.一体誰が,近くにある手段(=結果認識という検証手段)を無視して,遠くの[手段](=K1の原因の検討という検証手段)へと行くだろうか?」

22 NM I pp.435.16-436.4, cf. 本稿脚註2, p.451.15-20: adṛṣṭe tu parīkṣāyā avaśya-

kartavyatvād upapatteś ceti// tasmād *adṛṣṭapuruṣārthapathopadeśi mānaṃ manīṣibhir avaśyaparīkṣaṇīyam/ prāmāṇyam asya parato niraṇāya ceti cetaḥpramāthibhir alaṃ kuvikalpajālaiḥ//81// *-puruṣārthapathopadeśi] em.; -puruṣārthapadopadeśi MVS; cf. NM I p.481.13-14: śabde punaḥ adṛṣṭapuruṣārthapathopadeśini prāmāṇyam ...「一方,未知のものを対象とする[ヴェーダ言明など]については,[その〈真〉の]検証が必ずなされるべきであるから,決して不合理ではない.従って,未知なる人の目的への道を教示する手段(=ヴェーダ文)は,賢者が必ず検証すべきものである.その〈真〉は既に他律的に決定された.したがって,心をかき乱す悪しき選言の網は不要である.」

23 NM I p.446.1-5: vaiyarthyaṃ tu dṛṣṭe viṣaye satyam iṣyate, kin tu tatra pravṛtti-

sāmarthyena prāmāṇyaṃ niścinvann āptoktatvasya hetoḥ prāmāṇyena vyāptim avagacchatīty adṛṣṭaviṣayopayogivedādipramāṇaprāmāṇyaparicchede pāraṃparyeṇo-

pāyatvāt svaviṣaye vyartho ’py asau tatra sārthakatām avalambata ity adoṣaḥ//「一方,既知の[日常的]対象について,[発動後の真偽の検証は]たしかに無意味だと認められる.しかし,その場合〈行為発動有効性〉によって〈真〉を確定する人は,〈信頼しうる人の教示であること〉という[推論の]理由が〈真〉により遍充されていることを理解する.したがって,[日常的なケースにおける〈行為発動有効性〉による〈真〉の検証は]未知の対象を持つヴェーダ言明などの真知手段の〈真〉の確定に対して間接的に手段となるので,たとえ認識自身の対象について無意味であっても,それ(=ヴェーダ言明の正当化)については意味があることを認めるので,過失はない.」

24 NM p.447.2-8: phalajñāne tu siddhaprayojanatvāt prāmāṇyaparīkṣāpekṣaiva nāstīti kuto ’navasthā? saṃśayābhāvād vā tatprāmāṇyavicārābhāvaḥ/ pravartakaṃ hi prathamam udakajñānam avidyamāne ’pi nīre mihiramarīciṣu dṛṣṭam iti tatra saṃśerate janāḥ/ arthakriyājñānaṃ tu *salilamadhyavartināṃ bhavat tadavinābhū-

tam eva bhavatīti na tatra saṃśayaḥ/ tadabhāvān na tatra prāmāṇyavicāraḥ, vicārasya saṃśayapūrvakatvāt// *-madhyavartināṃ] VS; -madhyartināṃ M「一方,結果認識は,目的が成就しているため,〈真〉の検証の必要そのものがないので,どうして無限後退となろうか?あるいは,疑惑がないのだから,それ(=結果認識)の〈真〉の考察はない.というのも,行為発動させるものである最初の水の認識(=K1)は,水が存在しない場合でも太陽光線などに対して[人を行為発動させることが]経験されるので,それ(=K1)について,人々は疑惑を持つ.しかし,水の中にいる人において効果的作用の認識(K2)があるならば,[K2は]必ず,それ(=水)と不可離関係にあるので,それ(=K2)に対する疑惑はない.それ(=疑惑)がないのだから,それ(=K2)に対して〈真〉の考察はない.というのも,考察は疑惑を前提とするからである.」

25 NM I pp.447.13-448.4: svapne ’py asya prabandhasya darśanam astīti cet — na — svapnadaśāvisadṛśavispaṣṭajāgradavasthāpratyayasya saṃvedyatvāt/ eṣo ’smi, jāgarmi, na svapimi — iti svapnavilakṣaṇam anidrāyamāṇamānasaḥ pratyakṣam eva jāgratsamayaṃ sakalo janaś cetayate/ na ca tasminn avasare salilam antareṇaitāḥ kriyāḥ pravartamānā dṛśyanta iti tadviśeṣadarśanāt sujñānam arthakriyājñānaprāmā-

ṇyam//「夢の中においても,この一連のことが見られる,というならば,そうではない.夢眠状態とは異なる明晰な覚醒状態の認識が意識されるからである.「これは私であり,覚醒していて,眠っていない」という夢とは異なった知覚を,マナスが眠っていない全ての人が覚醒時に意識している.そして,その時,水がなければ,この行為が発動していることは経験されないので,その特殊を見ることから,効果的作用の認識の〈真〉は容易に知られる.」

26 Cf. Shida[2004]

27 NM p.440.6-14: yat tu nānubhūyate saṃśaya iti — satyam — ananubhūyamāno ’pi nyāyād abhyaste viṣaye *’vinābhāvyasmaraṇāt sa parikalpyate, niścayanimittasya tadānīm avidyamānatvāt, saṃśayajananahetoś ca sāmagryāḥ sannihitatvāt/ tathā hi yathārthetarārthe sādhāraṇo dharmo bodharūpatvam ūrdhvatvādivat tadā prakāśata eva/ na ca prāmāṇyāvinābhāvī viśeṣaḥ kaścana tadānīm avabhāti/ tadagrahaṇe ca samānadharmādhigamaprabodhyamānavāsanādhīnā tatsahacaritaparyāyānubhūtaviśe-

ṣasmṛtir api saṃbhavaty evetīyatīyaṃ sā saṃśayajananī sāmagrī sannihitaiveti kathaṃ tajjanyaḥ saṃśayaḥ na syāt/ *’vinābhāvyasmaraṇāt] conj.; ’vinābhāvasma-

raṇāt MVS「一方‘疑惑は経験されていない’と述べられたことは,一応正しい.しかし,経験されていないにもかかわらず,論理の上では,反復された対象に関しては,[〈真〉との]不可離関係項の非想起に基づいてそれ(=疑惑)が想定される.というのも,その時には[真偽を]決定する原因がなく,また疑惑を生じさせる原因総体があるからである.すなわち,対象通り[の認識]とそうでない[認識]に共通する〈認識というあり方〉という属性が,[人と杭に共通する]直立性のようにその時に現れないことはない.そして,〈真〉と不可離関係にあるような,いかなる特殊もその時には現れない.そして,それ(=特殊)が把捉されないならば,共通する属性の理解により目覚めされられつつある潜在印象に依存して,それと共存し,何度も経験された特殊の想起も生じないことはないので,この限りの疑惑を生じさせる原因総体が必ずある.したがって,どうしてそれ(=原因総体)により生じる[真偽の]疑惑がないことになろうか?[疑惑はある.]」

28 これに関する議論はNM I pp.439.12-440.14, 441.17-442.10に論じられている. 特に,その後半箇所で以下のようにまとめている.NM I p.442.5-7: na ca sarvathā saṃśayasamarthane ’smākam abhiniveśaḥ/ prāmāṇyaṃ tu jñānotpattikāle gṛhītum aśakyam iti naḥ pakṣaḥ/ prāmāṇyāgrahaṇam evānadhyavasāyasvabhāvaṃ saṃśaya-

śabdeneha vyapadekṣyāmaḥ/「そして,我々は必ずしも,疑惑の確立に固執しているのではない.そうではなくて,認識発生時において〈真〉を把捉することができない,というのが我々の立場である.確定を本質としていない,他ならぬ〈真〉の無把捉を,ここにおいて「疑惑」という言葉によって表現することにする.」

29 Cf. 本稿脚注27.

30 NM I p.445.14-17: tatrādṛṣṭe viṣaye prāmāṇyaniścayapūrvikāyāḥ pravṛtter abhyu-

pagamān netaretarāśrayaṃ cakrakaṃ vā/ dṛṣṭe viṣaye hy anirṇītaprāmāṇya evārtha-

saṃśayāt pravṛttirūpam, anarthasaṃśayāc ca nivṛttyātmakaṃ vyavahāram ārabha-

māṇo dṛśyate lokaḥ/「その中で,対象が未知のものである場合,〈真〉の確定を前提とした発動を認めているので,相互依存や循環[の虚偽]はない.なぜならば,対象が既知のものであり,かつ,〈真〉が確定されていない場合にだけ,(i)有益なものではないかという疑惑から行為発動というあり方の活動を,そして(ii)不利益なものではないかという疑惑から行為停止を本質とする活動を,世間の人が企図していることが経験されるからである.」

31 NVTT pp.10.2-8: satyaṃ na svataḥ prāmāṇyaṃ śakyāvadhāraṇam/ paratas tu dṛṣṭārtheṣv anabhyāsadaśāpanneṣu pravṛttisāmarthyād eva tad gamyate/ ... tad amī saṃśayānā api pravartamānāḥ pravṛttisāmarthyāt pramāṇasya tattvaṃ viniścitya tajjātīyasyānyasyābhyāsadaśāpannasya pravṛttisāmarthyāt prāg eva tajjātīyatvena liṅgena prāmāṇyāvadhāraṇād arthaviniścayena pravartante/

32 したがって,一度も裏切られることなく反復されていなければならないので,ただ反復された認識というよりは条件が厳しい.cf. 本稿脚註36.

33 NVTT p.11.10-11: jñānagatatajjātīyatvaliṅgagrāhiṇaś ca jñānasya mānasapratya-

kṣasya tādṛśasyādṛṣṭavyabhicāratayā parito nirastasamastavibhramāśaṅkasya svataḥ prāmāṇyam iti nānavasthā/

34 NVTT p.10.8-10: evaṃ ca dṛṣṭārthamantrāyurvedaprāmāṇyaṃ pravṛttisāmarthye-

nāvadhārya tajjātīyasyāptoktasyādṛṣṭārthasya vedasya vināpi pravṛttisāmarthyaṃ prā-

māṇyāvadhāraṇam āptoktatvena nivedayiṣyate/「また同様にして,既知のものを対象とするマントラ・アーユルヴェーダの〈真〉を〈行為発動有効性〉によって確定してから,その種類であり,信頼しうる人に述べられていて,未知のものを対象とするヴェーダについては,〈行為発動有効性〉なしに,〈信頼しうる人に述べられていること〉[という証因]によって〈真〉が確定されることは,後で説明されるだろう.」

35 Cf. NVTT p.10.10-15, 志田[2002: 33].

36 NVTT p.10.14-21: vayaṃ tu brūmaḥ, phalajñānam apy abhyāsadaśāpannatayā tajjātīyatvena liṅgenāvadhṛtāvyabhicāram eva/ evaṃ tatpūrvaṃ tatpūrvataraṃ tatpūrvatamam iti/ na ca saṃpratitanasya phalajñānasya prāmāṇyāvadhāraṇāyedānīm eva pūrvasya phalajñānasya tajjātīyatvena prāmāṇyāvadhāraṇe saty anavastheti vācyam/ pūrvatarasādharmyeṇa pūrvam eva pūrvasyāvadhṛtaprāmāṇyatvāt/ evaṃ pūrvatamasādharmyeṇa pūrvatarasya, evaṃ tatpūrvasādharmyeṇa pūrvatamasya — ity anāditayaivātra parihāraḥ/ eteṣu ca madhye yat phalajñānaṃ svapnādyupabhoga-

tulyatayā śaṅkitavyabhicāraṃ tad anabhyāsadaśāpannam/「一方,我々は以下のように述べる.結果認識もまた〈反復状態に達した〉ものとして,〈その種類であること〉という証因によって,逸脱がないことが確定されるものに他ならない.それと同様に以前の[結果認識P-1があり],さらに以前の[結果認識P-2があり],さらにより以前の[結果認識P-3があった]というように.そして,今回の結果認識P1の〈真〉の確定のために,まさにその時,1つ前の結果認識(=P-1)との〈その種類であること〉によって〈真〉の確定があるならば,無限後退となる,と述べられるべきではない.というのも,2つ前[の結果認識P-2]との共通性により,以前に,1つ前[の結果認識P-1]の〈真〉の確定があるからであり,同様に3つ前[の結果認識P-3]との共通性により,2つ前[の結果認識P-2]の〈真〉の確定がある.同様に,さらに前[の結果認識P-4]との共通性により,3つ前[の結果認識P-3]の[〈真〉の検証がある],というように,無始であることで回避される.その中のある結果認識が,夢などにおける享受と等しいものとして,逸脱が疑われる場合,それは〈反復状態に達した〉ものではない.」; cf.谷沢[2000: 4-5].

37 Cf. 本稿脚註36.

38 NVTT pp.10.4-5, 12.2-3: arthapratītyadhīnā tu pravṛttir nārthāvadhāraṇādhīnā, arthasandehād api prekṣāvatāṃ pravṛtteḥ/ no khalūpāyatāviniścayenāpi pravartamānā nānāgataphale sandihate/, arthapratipattir ity arthapratipattiś cārthasyāpekṣitopāya-

tāpratipattiś cety arthaḥ/「一方,発動は,対象理解に依存するのであり,対象の確定に依存するのではない.というのも,賢者は対象への疑いからも発動するからである.周知のように,[人々は実現]手段であるとの決定によって発動しながらも,未来の結果に対して疑わないわけではない.」「‘対象理解’とは,対象[自体]の理解であり,かつ,対象が期待されたものの[実現]手段であることの理解という意味である.」; cf. NVTT pp.9.21-10.1: tad idam uktam, yadi pūrvaṃ pramāṇato ’rthapratipattir viniścitir apekṣitopāyatānumānasahitā pravṛ-

ttisāmarthyam antareṇa kim iti pratipadyate niścinoty apekṣitopāya eveti ca toyam eveti ceti?

39 Cf. NVTT p.3.10-12: viniścitāptabhāvāś ca muner āptatvena tadvākyāt prayojanādi viniścitya *pravartsyanti, āptatvāviniścaye tv arthasaṃśayāt/ na khalu kṛṣyādāv api viniścitasasyādyadhigamānāṃ pravṛttiḥ, antarāvagrahādipratibandhena phalānutpāda-

syāpi saṃbhavāt/ *pravartsyanti] C; prarktsyanti T「また,信頼しうる状態を確定した人たちは,聖仙が〈信頼しうるもの〉であることにより,その[聖仙の]文に基づいて,目的などを決定して,行為発動するだろうが,しかし,〈信頼しうるもの〉であることが決定していない場合は,対象への疑惑に基づいて[行為発動するだろう].周知のように,農業などにおいても[将来の]収穫などの理解が決定した人々において行為発動があるわけではない.というのも,途中で干魃などの障害によって,結果が生じないこともありうるからである.」

40 Cf. 本稿脚註13, 15.

41 NVTT pp.11.19-12.2: arthasyāpekṣitopāyatānumānapravṛttisāmarthyayoḥ paraspa-

rāpekṣitvam avaśiṣyate/ tatrāpy anāditāparihāraḥ/ utpannamātrakasya hi bālakasya stanaṃ *dṛṣṭvā prāgbhavīyas tajjātīyāpekṣitānubhavajanitaḥ saṃskāra āvirasti/ tataś ca smaraṇam/ tato ’pekṣitopāyatānumānam/ tataḥ pravṛttiḥ/ tatas tasyāḥ sāmarthyam/ evaṃ pūrvasmin pūrvasmiñ janmanīty anāditayā na bījāṅkuravat parasparāpekṣiteti/ *dṛṣṭvā] C; dṛṣṭā T「対象が,期待されたものの手段であることの推論と,〈行為発動有効性〉の間の相互依存[の問題]が残されている.それ(=相互依存)についても,無始であることによる否定がある.なぜならば,生まれたばかりの[新生児]は乳房を見てから,その種類の期待されたものの経験から生じた,以前の潜在印象があらわれる.そして,それから想起がある.それ(=想起)に基づいて,期待されたものの手段であるとの推論が[生じる].それ(=推論)に基づいて,行為発動がある.それから,それ(=行為発動)が有効なものとなる.同様に,前々の生においても,種と芽のように,無始であることにより,相互依存となることはない.」

42 Cf. 本稿脚註31, 34, 36.

43 原語は“saṃvedana”であるが,Udayanaは追認識(anuvyavasāya)として註釈を加えている. cf. 志田[2002: 34, n.30]

44 ある認識K1が〈レベル3〉であることを知るには,推論やK1の知や〈その種類であること〉を捉える意知覚などが必要とされるが,それらの認識の非逸脱性を認め検証を免除することで,検証手段のメタ的な正当化も行っている.Cf. NVTT pp.10.22-11.15, 志田[2002: 33-34], 戸田山[2002: 18-20].

45 Uddyotakaraは,主宰神による世界創造についても「世界創造が無始であること」を根拠としており,この論法に対して,Ingalls[1957: 233]は失望している. cf. NV p.437.

46 最後になるが,JayantaもVācaspatiもヴェーダ言明の正当化には推論を用いている.推論の前提となる遍充関係の把捉に関しては,片岡[2003]の網羅的な研究があるが,Jayantaは遍充把捉に対して多経験を要請せず,Vācaspatiは多経験を要請していることが,結論として導出されている.本稿の真知論におけるヴェーダの権威論証の前提となる遍充把捉に関しても,この結論と符合する.

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