Studies of Buddhist Culture
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2004 Volume 8 Pages 84-109

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はじめに

唐玄宗の治世(712-756)の天寶十四年(755)に勃発して,以後八年間に亘って黄河流域を戦場と化し,人民を戦乱に巻き込んだ安史の乱がもたらした被害は計り知れず,戦場となった地域では仏教教団といえどもその禍を免れることはできなかった.しかしながら,江東地域の仏教教団が同時期に被った破壊の原因は,安史の乱とは完全に無関係とは言えないが,直接的には別に存したと考えられる.本論文では,至徳・広徳年間(756-764)における荊渓湛然(711-782)の足跡を追っていくが,この期間の中でも,特に上元・寶應年間(760-763)に天台山に迫った危機の正体を突き止めることによって,当時の江東仏教に容赦ない打撃を浴びせた反乱勢力の実体を明らかにしてみたい.

従来の湛然の伝記研究を見ると,特に至徳・広徳年間における湛然の行動の追跡過程に混乱があるように思われる.この混乱とは,主として文献解釈の際に生じた,年代特定の誤り,重要な表現の看過であり,それらの結果,或いはそれらの原因とも言うべきか,文脈を無視した強引な解釈がなされていることである.それでは,何故,このようなことが起こるのであろうか.それには二つの原因が考えられる.

その第一は,至徳・広徳年間は中国北方が安史の乱に巻き込まれた時期であったため,研究者は,北方の教団の被害状況を念頭に置き,当時の北方に関わる歴史状況をそのまま江南にも当てはめようとしたことに起因しよう.第二は,一度,安史の乱の影響によるものだろうという先入観に囚われてしまえば,それ以後,文献の読解作業はそのような前提,観点に立って進められていくことは避け難くなることに起因する.しかし,虚心に文献を読み解いて見ると,至徳・広徳年間に江東地域で発生した異変は安史の乱とは性質を異にし,数年遅れて勃発していることが明らかになる.従って,この時期の湛然の行動は,当然ながら,安史の乱に対応して取るであろう行動とはかなり異なるものとなったに違いない.事実,文献に現われる湛然の行動,特に彼の移動の経路とその時期を見ると,安史の乱の影響を受けてのものとは考え難いのである.しかし,これまでの研究は,時代背景に安史の乱を設定し,それに無理に合わせようとしたため,多くの齟齬を生じさせることとなった.具体的には,まず年代の特定が誤っており,更には江南の異変に関わる文献上の諸兆候を読み取れず,結局湛然の移動方向とその目的を全面的に誤解していると思われる.

そこで本論では,まず,従来の研究における文献解読上の誤りと見落としを指摘することから考察を進め,次に筆者の解釈を呈示し,当時の湛然の足跡及び周囲の情況を明らかにしていきたい.

1. 「摩訶止觀科文」の解釈上の疑点

 従来,天寶十四年(755)より寶應年間(762-763)までの湛然の足跡を示す好資料として,「摩訶止觀科文」冒頭に見える以下の一文が最も重視されてきた1

昔天寶十四年,臨安私記.元年建巳,国清再書.校勘未周,衆已潜写.屬2海隅喪乱,法侶星移,或将入潭衡,或持往呉楚.寶應於浦陽重勘,雖不免脱漏,稍堪自軌3

昔,天寶十四年(755),[わたしは]臨安4で[智顗『摩訶止観』の]私記を[撰述]し始め,元年5(762)の建巳月(四月),国清寺で再び書きなおした.まだ校勘も終わっていないものだったが,僧衆たちは已に[これを]潜かに写しはじめたのである.ちょうどその時,海隅[の諸州]が喪乱に逢い,法侶たちは星のように散り移り,或るものは[その書を]将って潭州や衡州[の江南西道の地域]に入り,或るものは[それを]持って呉州や楚州[といった北方]へ往くこととなった.寶應年(762-763),[わたしは]浦陽に於いて[同書を]重勘し,脱漏は免れないものの,しは軌範が整うものにはしたのである.

この一文は,極めて単純明快なように見えるが,実際には少なくとも以下の三つの難点を孕んでいるのである.第一は,「元年建巳」の年代特定に関わる問題である.第二は,「或将入潭衡,或持往呉楚」という一句の主語は誰なのかという問題である.第三には,「屬海隅喪乱」とは一体いつの時期に,どこで,誰によって起こされた「喪乱」を指しているのかという問題である.本項では,以下,これら三つの問題箇所について順次に考察していくこととするが,但し,このうち,第三の問題点は,本論文における最も中心的な問題――湛然の当時の行跡と直接に関わるものであるため,本項では,従来の解釈の問題点を指摘した上で,それとは異なる解釈を提示するにとどめ,詳細な考察は第二項に譲ることにしたい.

1.1 「元年建巳」の年代特定

 「元年建巳」という年代表記の最も特異なところ,そして長い間,湛然の研究者を悩ませてきたところは,この表記には「元号」が欠けているように見えることである.そして,研究者らは,この「元年」は,天寶十四年(755)から寶應元年(762)までの期間に含まれる,至徳年間(756年七月~758年二月),乾元年間(758年二月~760年四月),上元年間(760年四月~762年四月)のいずれかの年号の「元年」であろうと推測し6,誰もがこの「元年」は,安史の乱勃発の翌年の「至徳元年(756)」である,と結論づけるに至ったのである7

ところが,中国史には,元号を称さずに,ただ「元年」と呼ばれた期間がおよそ六ヶ月間にわたって存在していたのである.そして,この「元年」は,唐粛宗の上元二年(761)九月二十一日の勅8によって同年十一月一日に改元されてから,翌年四月十五日に代宗が年号を「寶應」に改元するまでの期間に相当する9.その間,年はただ「元年」と称されており,月はそれぞれの斗建によって名づけられたため,十一月から四月までは,順次に「建子月」,「建丑月」,「建寅月」,「建卯月」,「建辰月」,「建巳10月」と呼ばれていた.また,「元年」という年代表記は,762年四月十五日に新しい年号「寶應」に改められることとなったため,いわゆる「元年建巳」とは762年四月一日から十四日までの期間に当たるのである.そして,この半月間は,湛然が国清寺において『輔行』を再製した時期でもある.

ここで再び『摩訶止觀科文』本文に戻るならば,上掲の冒頭に「昔天寶十四年,臨安私記.元年建巳,国清再書」とあるが,湛然が臨安にいた天寶十四年(755)と国清寺にいた元年建巳(762年四月)との間には,およそ七年の隔たりがあることになる.この天台山登嶺に先立つ七年間における湛然の行跡を見ておくならば,湛然は,天寶十三年(754)に師玄朗が入滅した際には浦陽の左谿山にいたと言われているが11,その後,臨安に赴いた(755年)こともわかっている.そして,至徳年間(756-757),湛然は呉郡(蘇州)開元寺に移隸したと伝えられる12.このように,浦陽から,臨安を経て,蘇州に至るという湛然の移動経路を見ると,この時期の彼が南から徐々に北上して行ったことは明らかである.それ以後,湛然は蘇州より更に北へ向い,最終的には毘陵13に至ったと考えられる.なぜならば,湛然は毘陵を出発して,天台山の国清寺に赴いたことが明らかだからである14

湛然がその弟子らと15,いつ毘陵を出発し,いつ天台山,乃至は国清寺に到着したかは不明であるが,彼は天台山には数年間滞在し,そこで学徒のために講義をしていたと考えられる16.そして,762年に,戦乱を避けるために,彼は止むを得ず天台山を下り,西の浦陽を経て17,毘陵に帰った18が,再び天台山に戻り佛隴に登ったのは764年の夏であった19

1.2 「法侶星移」云々の解釈

続いて「摩訶止觀科文」に見える「屬海隅喪乱,法侶星移,或将入潭衡,或持往呉楚」という箇所を解釈することは,湛然の行跡を正しく辿るために,研究者が乗り越えなければならないもう一つの壁となってきた.従来の研究では,「ちょうど海隅諸州の喪乱にあい20,法侶らは星のように散り移り」に始まる文脈を無視し,「或将入潭衡,或持往呉楚」における「或」を「あるいは」という意味に捉えて,「入潭衡」,「往呉楚」などの行動の主体を湛然一人に帰するように解釈する場合が多い21

しかし,陳金華氏は,このような解読は文脈からして無理がある,と指摘している22.陳氏は,「或将入潭衡,或持往呉楚」の主語を見極めるためには,その直前にある「法侶星移」という一句に着目する必要があり,この「法侶」とはすなわち湛然の弟子を指すのであって,彼らこそが「或将入潭衡,或持往呉楚」の主語である,と主張している23.この陳氏の説に基づいて,「法侶星移,或将入潭衡,或持往呉楚」を解釈し直すならば,戦乱を避けるために,湛然の弟子たちは各地に離散することになり,彼らの中には,師の書を持って潭州や衡州へ向かった者もいれば,呉郡や楚州方面へ逃げた者もいた,という当時の僧衆四散の状況が浮かび上がってくるのである.

ところで,もし「潭衡」や「呉楚」へ避難したのが湛然自身ではなく,彼の弟子たちであるとすれば,「潭衡」と「呉楚」についても見直す必要性が生じてくる.というのは,従来の研究は,「潭」,「衡」,「呉」,「楚」を湛然自身の移動経路と理解していたため,潭から衡へ,更に呉を経て楚へ,という順に湛然の足跡を辿り,更には,「潭」,「衡」,「呉」,「楚」をそれぞれ「湖南省長沙市」,「湖南省衡陽県」,「江蘇省蘇州」,「江蘇省淮安県」の各都市に同定しようとすることに,こだわり過ぎた観があるからである.

そもそも事の発端は「海隅喪乱」という歴史的事件,動乱であり,この難は湛然個人ではなく,天台山の僧衆すべてに及んだと考えるのが妥当であろう(「法侶星移」).そして,この動乱が「海隅」,すなわち沿海地域を震源とするものであるならば,天台山から見て南や東に位置する台州や明州といった沿海地方ではなく,その反対の方向,すなわち西や北24の「潭衡」25や「呉楚」26の方角へ,天台山の僧衆が避難したと見るのが自然ではなかろうか.更に,「潭衡」や「呉楚」が特定の城市を示すと考える必要もないのではないか.思うに,「潭衡」とは現在の湖南省あたりの江南西道の地域を指しており,「呉楚」とは現在の浙江省より北方面にある江淮下流地域を指すのではあるまいか.つまり,ここで言う「潭衡」や「呉楚」とは,それぞれ西方面と北方面の地域を示す表現であり,これらの表現は,特定の目的地を表わすものではなく,あくまでも僧衆全体が流れていく方向を示すものであるように思われる.

1.3 「海隅喪乱」とは何か

それでは,天台山の仏教教団を突如として混乱に陥れた「海隅の喪乱」とは,一体,どういう歴史事件であったのか.従来の研究では,この時期に発生した戦乱は,地域を問わず,一括りに安史の乱と結びつけて考える傾向が強い27.しかし,「海隅の喪乱」が「安史の乱」と一体化した事件であれば,何故,「海隅」,すなわち海岸地域に関わる事件であったことを殊更に強調しなければならなかったのか.しかも,これと類似する表現として,湛然『止觀輔行搜要記』にも「海孽東殘」28という一句が現われる.「海隅」という地域,そして「海孽」と呼ばれる者は,いずれも「海」という属性と不可分の存在として意識されているように思える.

日比[1975]146は,これらの表現に見られる地域的性格に着目し,「海孽」を「海隅にあって孽をなすものの意」と解釈するには至ったが,氏はその歴史的性質を「安史の乱をはじめとして,その後に続起する一連の戦乱」であったと想定するに止まっている.日比氏が江南地域に「一連の戦乱」があったことに気づきながら,その戦乱を安史の乱から派生したものに過ぎないと考え,「海隅喪乱」の具体的性格の探求へと考察を進めなかったのは何故であろうか.

筆者が考えるに,これまでの湛然の伝記研究においては,至徳・広徳年間(756-64年)における湛然の行跡には安史の乱が最も深刻かつ直接的に影響した,という前提あるいは先入見が存在したため,特にその年代の特定に問題が生じ,従って史料の調査範囲もずれてしまった,と考える.本論文の前項(1.1)において論じたように,従来の研究は,湛然が国清寺で『輔行』を再書したとされる「元年建巳」を,安史の乱が勃発した翌年の至徳元年(756)四月に同定したが,これは誤りで,実際の「元年建巳」は,それより六年後の762年四月なのである.先行の諸研究が「元年建巳」を756年四月と誤認し,その時点の歴史的状況の中に「海隅喪乱」の痕跡を追い求めたために,正確な歴史像を描くことができなかったのではないか.従って,「海隅喪乱」と,それによって湛然や当時の天台山が直面せざるを得なかった実際の歴史的状況を再現するには,まず「元年建巳」を762年四月という正確な年代に設定し直し,この前提に立って史料調査を再開する必要があるだろう.それでは,「元年建巳」,つまり762年四月の天台山周辺には,どのような歴史状況が展開していたのであろうか.

当時の天台山を襲った危機は,遠方に望見される安史の乱の戦火に起因するものではなく,実際に目睫の近きに迫るものであった.その生々しい状況について,湛然は自ら,「自上元・寶應之際,此邦寇擾,緇錫駭散」29と記し,その原因を「歸屬群盜肆毒,碎金牓於鋒鏑,爇花幢於巨焰,慮禍不全,已遏影宇之能輯」30と語っている.普門も「釋籤縁起序」において,「間者島夷作難,海山不寧」(T33, 815a13)のため,湛然の天台山における『法華玄義』の講義が中断を余儀なくされたことを述べている.これらの記載を見ると,沿海地域と天台山(「海山」)の平和を打ち破ったのは,どうやら「島夷」の仕業であったことが伺える.そして,この「島夷」という表現,呼称は,前述の「海隅」や「海孽」と同様に,海に関わるものである.

これまでに考察したことをまとめると,当時の天台山を襲った危機の性質として,以下の三点が挙げられるだろう.

  1.    天台山の危機は,上元・寶應年間に生じたものであろう.
  2.    「海隅」地域を不安に陥れた「寇」や「盜」と呼ばれる者は,当時の社会では反乱者と見なされる人であったろう.そして,「島夷作難」や「海孽東殘」といった表現から判断すれば,それらの反乱勢力は元々海島において虬結・盤踞し,そこから大陸の海岸地域へ攻勢をかけ,反乱は次第に東方面に移っていった,と推察される.
  3.    国清寺などの寺院が破壊された状況から判断すると,その反乱勢力は,台州はもちろん,天台山中にも侵入してきたと考えられる.

これらの三条件をすべて満たしている歴史事件が,当時確かに発生していた.それは,袁晁(d.764年)に主導された農民反乱(762.8-763.4)にほかならない.

2. 袁晁の乱と湛然の避難

袁晁の乱については,既に松井秀一[1954],寧可[1961],西川素治[1974]によってその歴史的背景と全貌がほぼ究明されており,ここでは,主として袁晁反乱軍の進退経路と時期を中心に考察し,それが湛然の行動にいかなる影響を与えたかについて明らかにすることを試みる.

2.1 袁晁の乱

袁晁は,もともと台州臨海県31出身32の,鄉県で鞭背を掌する胥吏33であったが34,寶應元年(762),明州翁山(浙江定海県)35で数万の衆を集め,八月辛未(25日)に台州を陥れて反乱を起こした36.反乱軍は,台州を拠点に浙東の各州県を攻略していくが37,そのために兵馬を北・西・南の三路にわけて進めていった,と考えられている38

まず北路では,明州と越州へ向けて進撃していったと思われる.反乱軍は明州の鄮県39を同年の十月十日までに占領したと伝えられるが40,越州方面に向けては,台州の唐興県41を経て越州の沃州,剡県に入り42,そこから会稽へ進もうとしていたと考えられる.反乱軍は,会稽で政府軍と交戦するが,最終的にこれを陥れたのは,浙東八州の中では比較的遅く,おそらく同年の十月以後のことであったと考えられる.

西路では,反乱軍は十二月までに婺州,睦州,そして衢州43を次から次へと占領し44,同時に南路では,十月頃,明州とほぼ同じ時期に温州を攻克し45,その後すぐに括州も陥れた46と考えられる.これで,越州以外の浙東全域が,袁晁反乱軍によって征服されることとなった.この浙東の変に臨み,越州と浙西の諸州はみな兵士を徴募し防衛態勢を整え,唐政権は河南道副元帥李光弼47に袁晁反乱軍を討伐するように命じたが48,袁晁反乱軍はついに越州を制圧すると,その年の十二月,台州の臨海において偽政権を設立し,年号を「寶勝」とした49.この時期は,言わば反乱勢力の絶頂期であったと言えるであろう.

その後,反乱軍は,衢州より更に西の信州へ50進もうとしたが,常山51で洪州觀察使張鎬軍の伏兵に襲撃され,上饒52に突入した袁晁軍三千人は全滅することとなった53のである.そして,寶應元年の十二月三十日に衢州で李光弼部隊に敗北した54反乱軍は,これ以降,戦線を急速に東へ後退させることとなる.これを追って,まず,李光弼の部将柏良器が浙西より婺州に入り55,更に,御史中丞袁慘は李自良56・張伯儀57・王栖曜58・李長栄59らの部将を率いて東討し,反軍を台州へ追い込んでいく.寶應二年(763)の春,袁晁軍が唐興県より寧海県へ敗退する途中,王栖曜,李長栄らと連日にわたって十数回交戦し,ついに三月四日に関嶺山石塁寨で完敗し60,賊首袁晁が生擒されて,十六の浙東郡邑が政府軍に收復された61.袁晁の弟袁暎は,五百人と共に寧海の紫渓洞に逃げ込み,脱出できずに全滅したと伝えられる62

2.2 農民反乱の影響

最盛期には浙東全域を占領した袁晁の乱が,それぞれの地域の政治・経済に与えた打撃の規模は言を俟たざるほどであったが,とりわけ明州・越州・台州の三州が,この時期に受けた被害は,その直後の行政63・経済政策上64の変化から,その深刻さが伺えるのである.

袁晁の乱は,古くから,それに関する史料の乏しさが指摘されてきており,仏教教団がそれによって受けた被害を伝える記録も断片的にしか残っていない.教外文献ではあるが,李華「衢州龍興寺故律師體公碑」に「群盜據州,寺半為墟」(『全唐文』巻319)とあり,これは,袁晁の乱が衢州の仏教教団に及ぼした被害を反映するもの65と考えられる.更に,僧史史料としては,『宋高僧伝』(T50, No.2061)中の以下の二つの記載に注目すべきである.その一つは「唐明州慈溪香山寺惟實傳」であり,そこには「時屬海寇袁晁蜂螘屯聚,分以剽劫,殺戮無辜,至于香山,衆皆奔竄」(877a15-19)とあり,これによって袁晁の乱に際し,明州ないし慈溪香山が受けた破壊の凄まじい実態が知られる.惟實に関するこの記事は,ほかに『寧波府誌』(巻32)66にも収められており,その中でも,袁晁軍の略奪の実状が「海寇袁晁党散掠居民,僧衆皆逃避」と伝えられている.

第二は「唐越州稱心寺大義傳」であり,それには「天寶中,[大義]遂築北塢之室,即支遁沃州之地也.初夢二梵僧曰「汝居此,與二十日」.至寶應初,復夢曰「本期二十日,今滿矣.魔賊將至,不宜更處」.無何,海賊袁晁竊據剡邑,至于丹丘.」(T50n2061, 800a28-b3)という逸話が伝えられており,これは越州の沃州寨にも袁晁軍が侵入した史実を物語るものである.

この沃州は,かつて支遁が隠棲していたと伝えられる地であり,台州の天台山とは隣接し,いわば台州と明州とをつなぐ境界地域に当たるところである.前述したように,袁晁軍は,台州の唐興県を経て越州の沃州山,剡県に入り,そこから会稽へ進もうとしていたと考えられる.だとすれば,天台山も反乱軍の勢力下に入ったことになり,沃州の場合と同様に,袁晁の乱による影響・被害を受けたことは想像に難くない.事実,第一項で見たように,上元・寶應年間には,天台山において湛然を中心として形成されていた教団に離散を余儀なくさせるような状況が発生したが,その危機の原因は,正にこの袁晁の乱であっただろう.ここで,袁晁の乱と天台山との関係をまとめれば,

  1.    袁晁の乱は,寶應二年の八月から台州において勃発しており,この時期は,天台山の危機が上元・寶應年間67に発生したとされるのと一致する.
  2.    袁晁を中心とする農民反乱勢力は,元々明州の翁山に虬結・盤踞していたが,そこから明州・台州・越州を始めとする海岸地域(「海隅」)に上陸して根拠地とし,浙東,更には浙西へと勢力範囲を拡大していった.但し,彼らは本来舟山群島付近で活動していたため,「海賊袁晁」68や「海寇」69と呼ばれていた.袁晁反乱に関わるこれらの事実と天台山異変の記述とは合致する.
  3.    袁晁の反乱勢力は台州臨海で偽政権を設立したが,それに先立って天台山を経由して明州へ侵入している.また賊首袁晁は,明州から台州へ後退する途中で政府軍に敗れて捉えられたと伝えられており,天台山付近は官軍賊軍が何度も通過し,従って,集中的に被害を受けた場所と考えられる.

このように,袁晁の乱という歴史事件は,第一項の末尾でまとめて示した,天台山を襲った危機の性質をすべて具えていることになる.上元・寶應年間に湛然らの僧衆を天台山から退去せしめたのは,袁晁の反乱勢力であると言っても間違いはなかろう.

2.3 湛然の足跡

ここで,これまでの考察によって明らかになった諸事実,特に天台山を取り巻く当時の歴史状況の中に,本論の主題である湛然を置いて,今一度,彼の足跡を辿り直してみたい.

第一項では,湛然の足跡について,主として『摩訶止觀科文』をはじめとする諸資料の記述に基づいて分析した.それらの記載によれば,湛然は,元年建巳(762年四月一日~十五日)には天台山の国清寺に滞在していたが戦乱を避けるために天台山を下り,寶應年間(762年四月十六日~763年七月十一日)には天台山の西北に位置する婺州の浦陽に至り,その後更に北上して毘陵に帰り,再び天台山佛隴に戻ったのは764年の夏(四月~六月)であった,と考えられる.

このような湛然の移動が袁晁の乱を避けるためのものであったならば,彼は元年(762年)四月に『輔行』を再治した後もなお国清寺に滞在し,天台山を退去したのは,袁晁の乱が台州臨海で勃発する寶應元年(762)八月二十五日以後のことであったと考えられる.何故ならば,第一項で引用した湛然の言葉,当時の状況の描写70は極めて具体的で真に迫ったものであり,湛然自身が目撃した事実を反映しているように思えるからである.そして,湛然は同年(762)八月以降に天台山を下りて,反乱軍が向かおうとした越州を避けて西北にある婺州へ赴き,浦陽,つまり師玄朗がいた左谿山の教団に身を寄せたのであろう.湛然は浦陽には九月中に到着したと考えられるが,しかし,袁晁の乱が治まる兆候は一向に見られず,婺州さえも危険な状況になってきた.そこで,同年十月頃袁晁軍が婺州に押し寄せてくるまでに,湛然は更に北上しなければならなくなり,結局,彼は,先に天台山へ登嶺するために南下した路を逆に遡って,常州毘陵(「以舊轍反毘陵之故居」,『国清寺智者大師影堂記』)へ帰っていったのであろう.そして翌年の寶應二年(763)三月四日に袁晁が捕まり,四月七日,李光弼が袁晁を生擒したと奏上し,浙東の諸州県が完全に平定されるに至って湛然も同年の夏(四月~六月)までに天台山に帰山したと考えられる.

おわりに

以上,至徳・広徳年間(756-764年)における荊渓湛然(711-782)の行跡に関して,先行諸研究の成果に含まれる疑問点や問題と思われる箇所を検討し,その上で,上元・寶應年間(760-764)における天台山仏教教団及び湛然の動向を,当時の歴史状況の中に置いて見直してみた.その結果,中唐期における袁晁の乱という,天台山,更には江東仏教を危機に陥れた歴史事件の存在が浮かび上がってきたのである.

袁晁の乱は,中原地域の安史の乱によって江淮流域に誘発された一連の震動の一環であり,更に視野を広げるならば,安史の乱を契機に転換期を迎えた中世中国の社会状況の表象の一つとも言えるだろう.この社会的転換期に発生した諸変動に震撼したのは世俗世界だけではなく,仏教の信仰的世界もまた大きく動揺せずにはいられなかった.天台山がこの時期に受けた衝撃の歴史的本質はこのようなものであったろう.

しかし,湛然に筆を取らせたのは,まさに,この衝撃にほかならなかったと考える.安史の乱が勃発した直後に彼は臨安で『輔行』を記し始めたと伝えられ,その筆記の再製は六年後に一応完成を見たが,その後すぐ袁晁の乱に遭い,避難生活に追い込まれていたにも関わらず,再製から半年以内でその大作の校勘を終え,続けて『法華玄義釋籤』十巻(T33, No.1717)と『維摩経略疏』十巻(T38, No. 1778)の二作をまとめ上げたのである.そして,これらの校勘,撰述は一年足らずの天台山退去中に完成を急がれているのである.戦乱が湛然から筆を奪うこともなく,却ってそれをより急速に走らせることになったように見えるのは何故であろうか.

その答えは,迫り来る袁晁反乱軍を背に,湛然の弟子達が未校勘の『輔行』を携えて各地へ落ち延びて行く姿の中に求められるだろう.唐帝国の盛勢が急速に衰え始め,社会全体が崩壊していくものの,来るべき新時代の姿は見えない.このような過渡期にあった社会の各階層に属する人々は,社会に新たな均衡が生まれるまで,殊に真剣かつ慎重に対処し,次世代の到来に備えなければならなかったであろう.これは,当時の仏教教団を構成する人々にとっても同様であったに違いない.そして,湛然の著作活動にも,そのような歴史的課題に対応しようとする意図が無いはずはあるまい.なにしろ,湛然にとって,著作こそが,時間と空間を超えて天台大師智顗の面授を得ることを可能にする,唯一の船筏であったからである.

湛然は,袁晁の乱による危機が去った直後に,天台山の佛隴に登った.この場所は,彼にとって,天台仏教,否,中国仏教のまさに根源地であった71.思うに,彼の自覚した使命とは,単なる宗派的自覚というよりも,それまで統合されていなかった江東仏教を団結させ,智顗に発する中国仏教の慧命を存続させる担い手たらんとする極めて主体的なものであっただろう.本論文が,湛然の伝記研究のために一つの歴史的背景を補充しようとするばかりではなく,中唐時代という大きな社会的転換期における天台仏教ないし江東仏教の新たな展開に対する認識の深まりを促す一助となれば幸甚である.

【附録:年表】

年 代 出 来 事 出  典

天寶十四

年乙未

755

湛然,臨安で『止観輔行』を私記す. 『摩訶止觀科文』,ZZ43: 508

上元二年

辛丑

761

9月

壬寅

21日

去上元號,稱元年,以十一月為歲首,月以斗所建辰為名. 『新唐書』卷6,「本紀第六:粛宗」(XTS6, 6: 164)72

元 年

辛丑

761

建子月

(11月)

壬午

1日

去上元號,始稱元年. 『新唐書』卷6,「本紀第六:粛宗」(XTS6, 6: 164)

元 年

壬寅

762

建巳月

(4月)

湛然,国清寺で『止観輔行』再書す. 『摩訶止觀科文』,ZZ43: 508

甲子

15日

「寶應」と改元.

寶應元年

壬寅

762

8月

辛未

25日

台州人袁鼂反. 『新唐書』卷6,「本紀第六:代宗」(XTS6, 6: 167)
台州賊袁晁陷台州,連陷浙東州県. 『舊唐書』卷11,「本紀第十一:代宗」(JTS11, 11: 270)
湛然,於浦陽重勘『止観輔行』. 『摩訶止觀科文』,ZZ43: 508
9月

癸卯

27日

[九月]癸卯,袁鼂陷信州(婺州?). 『新唐書』卷6,「本紀第六:代宗」(XTS6, 6: 168)73
10月

張鎬,撫州刺史に赴任する.

(寶應元年(762)冬十月,公朝服受命,至自臨川.)

獨孤及「唐故洪州刺史張公遺愛碑并序」(TW390)
10月

乙卯

10日

十月乙卯,[袁鼂]陷溫,明二州.

詔浙江水旱,百姓重困,州県勿輒科率,民疫死不能葬者為瘞之.

『新唐書』卷6,本紀第六:代宗」(XTS6, 6: 168)74
袁晁,括州を陥れる. 『廣異記』第二百八十,「夢五」,「鬼神上:豆廬栄」
詔李光弼討袁晁. 『冊府元亀』巻122「征討」(CFYG122: 12a)
天寶中,大義遂築北塢之室,即支遁沃州之地也.至寶應初,海賊袁晁竊據剡邑,至于丹丘.

『宋高僧伝』「唐越州稱心寺大義傳」(T50n2061, 800a28-

b3)

攻越州:「臨海賊袁晁,狃於會稽之役,侵我東鄙.」 獨孤及「唐故洪州刺史張公遺愛碑并序」(QTW390)75
陥衢州 李華「衢州龍興寺故律師体公碑」76
12月 浙東賊袁晁反台州,建元寶勝,以建丑(12)為正月,殘剽州県. 『新唐書』卷136,「列傳第六十一:李光弼」(XTS136, 61: 4589)77
[代宗初,起[張鎬]為撫州刺史,遷洪州觀察使,更封平原郡公.]袁晁寇東境,江介震騷,鎬遣兵屯上饒,斬首二千級. 『新唐書』卷139,「列傳第六十四:李光弼」(XTS139, 64: 4631)
「臨海賊袁晁.狃於會稽之役.侵我東鄙.江介大恐.民斯繹騷.公[張鎬]命左軍屯上饒之隘.塞常山之口.斬其唐突者三千餘人.自是姦黨散落.不敢南向而射.邦人安焉.」 獨孤及「唐故洪州刺史張公遺愛碑并序」(QTW390)

甲戌

30

李光弼[部将]及袁鼂戰于衢州,敗之78 『新唐書』卷6,「本紀第六:代宗」(XTS6, 6: 168)79
柏良器,字公亮,魏州人.…父友王奐為光弼從事,…乃薦之光弼.授兵平山越,遷左武中郎將.以部兵隸浙西,豫平袁晁,方清. 『新唐書』卷136,「列傳第六十一:李光弼」(XTS136, 61: 4596)
[李光弼]召[柏良器]與言.遂授以兵.使平安越之盜.累授左武中郎將.以所將兵隸於浙西.廣德中.盜陷江東十州.公帥所將兵來婺州.功多進左武 將軍. 李華「唐故特進左領軍?上將軍兼御史大夫平原郡王贈司空柏公神道碑」(QTW638)

寶應二年癸卯

763

3月

丁未

4日

袁慘破袁晁於浙東80 『舊唐書』卷11,「本紀第十一:代宗」(JTS11, 11: 272)
李光弼[部将]及袁鼂戰,敗之. 『新唐書』卷6,「本紀第六:代宗」(XTS6, 6: 168)81
4月

庚辰

7日

[寶應二年]四月・・・庚辰,河南副元帥李光弼奏生擒袁晁,浙東州県盡平. 『舊唐書』卷11,「本紀第十一:代宗」(JTS11, 11: 272)82
7月

壬寅

1日

張鎬,在癸卯七月壬寅薨於位. 獨孤及「唐故洪州刺史張公遺愛碑并序」(QTW390)

廣徳元年

癸卯

763

7月

壬子

11日

粛宗,「広徳」と改元する.

廣徳二年甲辰

764

湛然,天台山佛隴に帰山する. 梁粛「維摩経略疏序」,QTW518
7月

巳酉

14日

李光弼歿 『舊唐書』卷11,「本紀第十一:代宗」(JTS11, 11: 275)
11月

癸丑

20日

袁晁伏诛.

免越州今歲田租之半,給復溫,台,明三州一年.

『新唐書』卷6,「本紀第六:代宗」(XTS6, 6: 171)
宰臣已下祖送李光弼詔 『冊府元亀』(CFYG385: 4b);『舊唐書』卷110,「列傳第110:李光弼」(JTS110, 60: 3311)
Footnotes

1 1 この一文は,日比[1975]66; PENKOWER[1993]76; CHEN[1999]26-27という前後三つの湛然研究書によって,それぞれ引用・注釈がなされている.

2 2 屬,「副詞,表示時間.正,適値.『左伝・成公二年』:属当戎行,無所逃隠.杜預注:“屬,適也.”」(『漢語大字典』2: 982-83).

3 ZZ43: 508.

4 『舊唐書』「地理志」に,「臨安,垂拱四年(688),分餘杭,於潛,置於廢臨水県」(JTS40, 20: 1589)とある.

5 「元年」については次の「1.1」項で論じる.

6 日比[1975]66.

7 日比[1975]66; PENKOWER[1993]76; CHEN[1999]26.

8 『新唐書』卷六,「本紀」第六,「粛宗上元二年」条に,「九月壬寅(21日),大赦,去「乾元大聖光天文武孝感」號,去「上元」號,稱「元年」,以十一月為歲首,月以斗所建辰為名」(XTS6, 6: 164)とあり,また粛宗は,この年号改革の理由ついて,『舊唐書』卷十,「本紀」第十「粛宗」条に,「欽若昊天,定時成歲,春秋五始,義在體元,惟以紀年,更無潤色.至于漢武,飾以浮華,非前王之茂典,豈永代而作則.自今已後,朕號唯稱皇帝,其年號但稱元年,去上元之號.」(JTS10, 10: 262)と述べている.

9 胡適[1970]372-76に詳しい.CHEN[1999]4-5, note9において,胡適の研究を紹介し,趙明誠(1081-1129)『金石録』に見える四つの文献(Nos.1377-1380)に現われる同様の紀年「元年建辰月」を「762年」と特定することに成功しているが,しかし,CHEN[1999]はなぜか,「元年建巳」の場合には同様の見解を示さず,この「元年」を「至徳元年」とするのである(CHEN[1999]26).

10 日比[1975]66は,「建巳」を「建巳の月」と把握し,CHEN[1999]26は,より明確に「the jianyi(fourth) month」と訳している.但し,PENKOWER

[1993]76は「元年建巳」を「after the new reign had begun」と英訳するが,これは「建巳」を「建已」と誤解しているのではなかろうか.

11 日比[1975]62.

12 『天台九祖伝』(T51, No.2069)を見ると,湛然は姑蘇開元寺に寄せた書信のなかで,「暨至徳中,移隸此寺」(103a24)と自ら述べている.

13 湛然の伝記には,毘陵,毘壇,或いは晋陵,蘭陵といった地名がしばしば現われる.本論中でも,それらの幾つかに触れるため,ここで,少し説明を加えておこう.『宋高僧伝』をはじめとする諸伝記には,湛然の出身地について,「世居晋陵之荊渓,則常州人也」と記されている.この「晋陵」とは,唐代における「晋陵郡」を指していると考えられる.晋陵郡は,即ち隋代の「毘陵郡」にあたり,唐高祖武徳三年(620)に設置された「常州」でもあり,ここは唐玄宗の天寶元年(742)から粛宗の乾元元年(758)までは「晋陵郡」と呼ばれていた(JTS40, 20: 1585).晋陵郡には,晋陵・義興・無錫・武進という四つの轄県がある.そのうち,義興県(即ち今日の江蘇省宜興市)は,すなわち湛然の出身地荊渓である.また,晋陵県は,『咸淳毘陵志』(巻二)では,「古延陵邑…秦隷会稽,前漢改曰毘陵,新莽改曰毘壇,後漢復舊名,隷呉郡,晋隷毘陵郡,避世子(東海王越世子毘)諱,改曰晋陵,隋置常州,復隷焉」(5a-b)とされており,晋陵,毘壇,毘陵が同一の場所であることがわかる.最後に,武進県は,梁武帝天監初年蘭陵県と改められ,唐武徳三年(620)に復置したが,貞観八年(634)からは晋陵県に属していたが,垂拱二年(686)に復される.すなわち,蘭陵県とは武進県のことであり,晋陵郡(常州)に属する県であることがわかる.

14 まず,普門子「釋籤縁起序」(764年)には「洎毘壇以至於國清,其從如雲矣」(T33, 815a12)とあり,または長安沙門曇羿『國清寺智者大師影堂記』(788年)に,「荊溪言:歸屬群盜肆毒,碎金牓於鋒鏑,爇花幢於巨焰,慮禍不全,已遏影宇之能輯,遂以舊轍反(返)毘壇之故居」(『天台霊應図本伝集』巻下)とある.これらの記載(特に下線部分)によれば,湛然が天台国清寺に行くまでは毘陵にいたことがわかる.

15 注13,普門子「釋籤縁起序」の引用文を参照.

16 『法華玄義釋籤』(T33, No.1717)卷第一の冒頭で,湛然自身が「昔於台嶺,隨諸問者籤下所録,不暇尋究文勢生起,亦未委細分節句逗.晩還毘壇,輒添膚飾,裨以管見.」(815b5-7)語っている.本書は,普門子がその序文を書いた年代(764年)に完成したもの(日比[1975]198)とすれば,この年代と,湛然が国清寺を離れ浦陽に出発した762年とは,わずか二年の差しかないことになる.しかし,『法華玄義』の講義が「昔,台嶺に於いて」行われた,と湛然自身が言っている.すると,湛然は762年に先立つ数年前から天台山にいたと推察されるのである.但し,湛然が天台山にいた年数と,国清寺に住んだ年数とが一致するとは限らない.

17 『摩訶止觀科文』には「寶應於浦陽重勘」とある.現代語訳は頁2を参照.

18 湛然『止觀輔行搜要記』卷第一に「屬海孽東殘,脱身西下.唯持記本,間行而出.之(衍字)退而省之,進而思之.豈慙辭陋,而擁異無聞.却還毘壇,方露稿本」(ZZ99: 221a8-10)とある.または,注14,曇羿『國清寺智者大師影堂記』の引用文や,注16,『法華玄義釋籤』の引用文の下線部分を参照.

19 梁粛「維摩経略疏序」に「[維摩経略]疏成之歲,歲在甲辰(764),吾師自晉陵歸於佛龕(隴)之夏也」(QTW518)とあるため,764年夏前に,湛然はすでに佛隴に到着していたと考えられている(日比[1975]244).

20 屬海隅喪乱の歴史的背景については,次の項で詳細に論じる.

21 日比[1975]66-67は,「湛然は当時『止観輔行』をもって…国清寺から「潭」,すなわち湖南省長沙市に行き,次いで「衡」,すなわち湖南省衡陽県に行き,そして「呉」,すなわち江蘇省蘇州府呉県(唐代に呉という場合,蘇州を指すとみるのが正しいようである)に行き,更に「楚」,すなわち江蘇省淮安県(唐代に楚州とした)に至った」と解釈している.また,PENKOWER[1993]

80もこの説を支持している.

22 CHEN[1999]27, note80.

23 Ibid.因みに,陳氏による「屬海隅喪乱,法侶星移,或将入潭衡,或持往呉楚」の英訳を以下に示しておく.“When war broke out in the coastal area, dharma-

brothers scattered like stars. Some of them brought their copies of the text into Tan and Heng, while others carried theirs to Wu and Chu.”(Ibid.: 26-27)ここで,陳氏が「或」を「some of them」,「others」というように,「或る者」つまり名詞として捉えている点も,従来の解釈とは異なっている.

24 ここで言う「西と北」として,あくまでも江淮流域以南の地域範囲内,つまり江蘇省南部や浙江省からみての西方面や北方面の地域を,筆者は想定している.というのは,淮水流域以北の地域では,安史の乱による被害が深刻だったからである.

25 「潭衡」は,文字通り,潭州(現在,湖南省北部に当たる)と衡州(湖南省南部)を指すのであろう.潭州は「唐改長沙郡置,属江南道,治長沙.取昭潭為名」(劉均仁[1980]: 1220),衡州は「唐改衡山郡置,属江南道,治衡陽」(劉均仁[1980]: 1763)とされている.その具体的な所在や周辺の地域との位置関係を確認するには,譚其驤[1982]V57-58(「隋唐五代十国時期:江南西道」)の地図が参考になる.

26 「呉楚」は,文字通りには,呉郡と楚州を指すだろう.呉郡は「東漢改会稽郡置,属揚州,治呉・・・隋初改蘇州;尋復揚州,為呉郡,治呉.唐改蘇州」(劉均仁[1980]: 295-96),楚州は「隋改山陽郡置;尋廃.唐復置.属淮南道,治山陽;天寶中,嘗為淮陰郡」(Ibid: 975),とされている.尚,譚其驤[1982]V: 55-56, 54(「隋唐五代十国時期:江南東道,淮南道」)の地図を参照.

27 例えば,日比[1975]66は,「『止観科』にはその後,海隅が喪乱したとあるが,これは天寶十四年の安禄山の乱であるといえる」と言うが,この説は以後の研究にも踏襲され,現在では一つの定説となっている.

28 注18を参照.

29 梁粛『台州隋故智者大師修禅道場碑銘』,拓文は,常盤大定・関野貞[1975]『中国文化史蹟』(第六巻,京都:法蔵館)頁16に見える.この碑銘に関しては,池麗梅「梁粛撰「天台智者大師修禅道場碑銘」の研究」に詳述する予定である.

30 曇羿『國清寺智者大師影堂記』,『天台霊應図本伝集』巻下.

31 『舊唐書』「地理志」に「臨海,漢回浦県,屬會稽郡.後漢改為章安.吳分章安置臨海県.武德四年,於県置台州,取天台山為名」(JTS40, 20: 1591)とある.

32 XTS6, 6: 167.

33 安史の乱以後の江南における胥吏層の動向については,鈴木正弘[1988]に詳しい.また,それまでの胥吏をめぐる研究の展開については,同論文注1(17-19)に纏められている.

34 『新唐書』「韓滉傳」に「滉曰:「袁晁本一鞭背史,禽賊有負,聚其類以反」(XTS126, 51: 4435)とあるのによって,従来の研究では,袁晁の本来の身分は「鞭背史」であり,盗賊の取り締まりに失敗し,敢えて反乱に踏み切った,と推測されている.また,『四庫全書総目提要』(巻29)は,杜甫「喜雨」における「安得鞭雷公,滂沱洗吴越」について,杜甫の自注「浙右多盜賊」を参考し,この一句は「寶應元年袁晁之亂」を指しているという(3124).

35 翁山について,「開元二十六年(738),以鄮県為明州,析鄮地別置県曰奉化,慈溪,翁山」(『至正四明続志』巻1, 1b-2a)という記述がある.『寧波府誌』によれば,この島は「孤懸海外,形如巨艦」のため,「舟山」と呼ばれるようになり(巻5, 7),戦略上の重要性から正に「全浙之咽喉,亦即東南諸州之咽喉」に当たる場所と言われている(巻15, 28b-29a).しかしながら,この海防上の重鎮は,唐大暦六年(771)から宋熙寧六年(1073)までの間に廃県されていたのである.その原因は,『唐會要』(宋代王溥編,全100巻)と『太平寰宇記』(北宋樂史編,全200巻)とが何れも袁晁の乱のためであると伝えている.これらの記事を信用すれば,翁山は当時袁晁軍の重要拠点になっていただろうと考えられる.また,寧可[1961]48も指摘したように,袁晁の軍が「海寇」(李華「登頭陀寺東楼詩序」に「王師雷行,北舉幽朔.太尉公分麾下之旅,付帷幄之賓,與前相張洪州夾攻海寇,方收東越」,QTW315)と呼ばれたことや,海島遇仙の逸話(『太平廣記』巻39「慈心仙人」)からすれば,この反乱軍が舟山群島付近の海上に出沒し,政府軍を攻撃していたと考えられる.ところで,翁山廃県の時期について,『唐會要』(巻71「州県改置下」)と『太平寰宇記』(巻98)とはそれぞれ,「廣德元年(763)三月四日,因袁晁賊廢」,「大暦六年(771),因袁晁反於此県,遂廢之」とし,意見が分かれている.翁山廃県は,『新唐書』「地理志」などによれば,確かに大暦六年に正式に実行されたと考えられる.ただし,「袁晁作乱,攻陥浙東諸州,乃棄翁山県,徙鄮県於三江口以避之」(『寧波府誌』巻36, 3a),更に,袁晁らが「拠鄮・翁山」,「久不克復,遂廃翁山不治」(同書巻2, 12a)という記述から,袁晁軍によって占領されて以来,県治の機能は既に破壊されており,廣德元年(つまり寶應二年,763)の三月,政府軍は袁晁を捉え,翁山県を取り戻したものの,新たな統治機構を復活させなかったため,その時期からすでに実質的に廃県されたと考えてよかろう.

36 袁晁の乱が台州で勃発したことを記載した史料は三つある.但し,『舊唐書』(JTS11, 11: 270)は,時期を「八月」とするのみで,『新唐書』(XTS6, 6: 167)は「八月辛未」,と明示している.これらよりも詳しく当時の状況を伝える史料は『冊府元亀』「李光弼討袁鼂詔」(詔文にはもともと「李鼂」とされているが,しかし,内容の全体から,これは明らかに「袁鼂」の間違いであることがわかる.故に,現行本『冊府元亀』の「李鼂」は誤写であり,正しくは「袁鼂」と訂正すべきである.因みに,「鼂」は「晁」の異形であり,『新唐書』「本紀第六」(XTS6, 6: 166-68)において,「袁晁」のかわりに,「袁鼂」と書かれている)には,「代宗寶應元年八月,台州賊李(袁)鼂攻陷台州,刺史史敘脫身而逃,因盡陷浙東諸県,有衆數萬.越及浙西諸州,咸理兵以禦.詔河南道副元帥李光弼討之.二年四月李(袁)鼂平」(CFYG122: 12a)とある.

37 JTS11, 11: 270; CFYG122: 12a.

38 この進軍経路に関して,概ね,寧可[1961]49に従うが,細部に及ぶと,特に袁晁反乱の及んだ範囲に関しては,氏の見解に同意できない点がある.それらの諸点は議論を進めていく中で指摘していく.

39 『舊唐書』「地理志」に,「鄮,漢県,屬會稽郡.至隋廢.武德四年,置鄞州.八年,州廢為鄮県,屬越州.開元二十六年,於県置明州.奉化,慈溪,翁山,已上三県,皆鄮県地.開元二十六年,析置.」(JTS40, 20: 1590)とある.

40 XTS6, 6: 168; ZZTJ222, 38: 7132.

41 唐興県,即ち始豐県,『舊唐書』「地理志」に,「唐興,吳始平県,晉改始豐,隋末廢.武德四年(621)復置」(JTS40, 20: 1591)とあり,また,『唐會要』卷71「州県改置下」によれば,「唐代貞觀八年(634)置,上元二年(675)二月六日,改為唐興県」とされている.

42 『宋高僧伝』「唐越州稱心寺大義傳」(T50n2061, 800a28-b3).

43 『舊唐書』「地理志」に,「衢州,武德四年(621),平李子通,於信安県置衢州.…垂拱二年(686),分婺州之信安・龍丘置衢州,取武德廢州名.天寶元年(742),改為信安郡.乾元元年(758),復為衢州,又割常山入信州」(JTS40, 20: 1593)とある.この地は,「居浙右之上游,控鄱陽之肘腋,掣閩越之喉吭,通宣歙之聲勢,東南有事,此其必爭之地…爭兩浙而不爭衢州,是以命與敵也」(『衢州府志』巻2, 4b)と言われるほどの戦略上の要地である.

44 袁晁軍の西方における推軍に関する史料は極めて乏しく,不明確なところが多い.但し,袁晁軍は,会稽を陥れてから衢州も制し,更にそこより常山を突破しようとしたことがわかる(獨孤及「唐故洪州刺史張公遺愛碑并序(QTW390)).この一戦は,遅くとも,762年十二月三十日に李光弼の部将と衢州で対戦する(XTS6, 6: 168)以前に,交わされたはずである.

45 XTS6, 6: 168; ZZTJ222, 38: 7132.

46 唐・戴孚『廣異記』巻280「夢五・鬼神上:豆廬栄」に,「寶應初,臨海山賊袁晁攻下台州.公主女夜夢一人,被髪流血,謂曰「温州将乱,宜速去之.不然,必将受禍」.…又夢見栄,謂曰「…浙東将敗…无徒恋财物.」…他日,女夢其父云「浙東八州,袁晁所陥.汝母不早去,必罹艱辛」.言之且泣.公主乃移居括州,括州陥,軽身走出,竟如夢中所言也.」とある.この怪談の信憑性はともかくとして,ここに示された袁晁軍の浙東南部における推進経路は重要である.それによれば,浙東八州はすべて袁晁に陥れられることになるが,そのうち,温州,そして括州の失陥は比較的遅かったようである.

47 伝記は,JTS110, 60: 3303-11; XTS136, 61: 4583-90に見える.

48 前述した「李光弼討袁鼂詔」(CFYG122: 12a)は,袁晁反乱の勃発直後に出されたものではなく,袁晁軍が台州を制し,明州・温州などの浙東諸州は占領して,まだ越州と浙西諸州へは及んでいなかった十月と,越州を攻陥した十月末までの間に下されたものである,と考えられる.

49 『新唐書』「李光弼傳」(XTS136, 61: 4589); ZZTJ222, 38: 7130.

50 袁晁軍の信州攻陥は,『新唐書』「本紀六」によれば,「[寶應元年(762)九月]癸卯(27日)」(XTS6, 6: 168)とされており,これを『資治通鑑』「唐紀」もそのまま踏襲している(ZZTJ222, 38: 7132).しかし,この記載は信用できないものと考える.衢州は江東から江西へ渡るためには必経の地であり(注50を参照),当然ながら政府軍も必死に守ろうとしたに違いない.袁晁軍は衢州の信安を占領しているが,これは,東北の睦州,東の婺州,そして東南の括州の三方から包囲する作戦をとることによって成功したと考えられる.しかし,信安より更に信州へ向けて進出するには,常山の嶺路を突破する必要がある.しかし,それが可能であったかどうか疑問である.事実,政府軍の張鎬は上饒の隘と常山の関という地利を得て反乱軍を挫敗しているのである(注51・53を参照).これらの史実は,いずれも袁晁軍が信州に侵入するどころか,常山すら越えられなかったことを物語っている.

51 『舊唐書』「地理志」に,「常山,咸亨五年,分信安置,屬婺州.垂拱二年,改屬衢州.乾元元年(758),屬信州,又還衢州」(JTS40, 20: 1594)とある.常山嶺路の開通は陳天嘉初に遡られるが,以後衢州より西へ信州を通って陽郡に行くには必ず常山に由らなければならない(『常山県志』巻14).従って,常山は戦略上極めて重要な位置を占めており,「実浙江両盡之地,巒嶺逼蹙,形勢峻絶…假設為攻守之論,以浙拒江者,封草萍之關,則西師之萬騎可遏;以江拒浙者,塞漁溪之津,則東師之一縷莫通.昔人謂為雄鎮,不其然哉!」(『衢州府志』巻2)と言われるほどである.

52 『舊唐書』「地理志」に,「乾元元年(758),割衢州之常山,饒州之弋陽,建州之三鄉,撫州之一鄉,置信州,又置上饒,永豐二県.上饒,乾元元年置,州所理也」(JTS40, 20: 1594)とある.

53 獨孤及「唐故洪州刺史張公遺愛碑并序」(QTW390)は「公[張鎬]命左軍屯上饒之隘,塞常山之口,斬其唐突者三千餘人」としているが,『新唐書』卷139,列傳64では「斬首二千級」(XTS139, 64: 4631)とされている.ここでは『全唐文』に従う.

54 XTS6, 6: 168; XTS136, 61: 4589; ZZTJ222, 38: 7130.

55 XTS136, 61: 4596; QTW638.

56 JTS146, 96: 3957; XTS159, 84: 4950.

57 XTS136, 61: 4593.

58 JTS152, 120: 4096; XTS170, 95: 5171-72.

59 JTS152, 120: 4096.

60 石塁寨について,『嘉定赤城志』巻39に,「天台県北五十里関嶺山,塁石為之.側有李相公廟,蓋唐広徳元年,王師討袁晁処,今遺蹟尚存,父老皆能言之」とある.

61 JTS152, 120: 4096; XTS170, 95: 5171-72.

62 『台州府志』(巻2)によれば,紫渓洞は,寧海県の北四十里にあり,「地幽阻,僅一線道…晁弟暎従五百騎遁入洞中.光弼駐兵絶其糧道,其徒皆餓死」と伝えられている.

63 例えば,前述した翁山県の廃止はそれである.

64 「免越州今歲田租之半,給復溫,台,明三州一年」(XTS6, 6: 171);または,『冊府元亀』「帝王部・恵民二」に「唐太(代)宗広徳二年(764),浙東諸州以討平賊帥袁晁,瘡痍初復,乃加賑恤」(CFYG106: 1)とある.

65 寧可[1961]49, 注7.

66 『寧波府誌』(巻32)「仙釈」2b.

67 袁晁の乱が勃発した年代は,精確に言うと,確かに寶應元年,つまり762年の八月であるが,しかしその年は四月に改元するまでは上元二年でもあった.すると,上元・寶應年間とは,762年を指す年代と考えられる.また,「上元・寶應」という年代と袁晁の乱とを結びつけた例としては,ほかに陳諌「劉晏論」に「上元・寶應間,如袁晁・陳荘・方清・許領等,乱江淮,十余年乃定」(QTW684)とあるが,これらの反乱の中では,袁晁の乱が時期的に最も早かった.

68 前文に引用した,『宋高僧伝』「唐越州稱心寺大義傳」(T50n2061, 800b3).

69 前文に引用した,『宋高僧伝』「唐明州慈溪香山寺惟實傳」(T50n2061, 877a

15);または,李華「登頭陀寺東楼詩序」(QTW315).

70 特に『国清寺智者大師影堂記』に引用された湛然の言葉が重要である.

71 湛然にとって佛隴の持つ意義に関しては,「梁粛撰「天台智者大師修禅道場碑銘」」で考察する予定である.

72 『舊唐書』卷10,「本紀第十:粛宗」(JTS10, 10: 262).

73 『資治通鑑』第222卷「唐紀」三十八「代宗:寶應元年」に「袁晁陷信州.〔信州,本吳鄱陽郡之葛陽県,陳改葛陽為弋陽.唐乾元元年,分饒州之弋陽,衢州之常山・玉山及割建,撫之地置信州,治上饒県,以其旁下饒州,故以名県.晁,馳遙翻.〕」(ZZTJ222, 38: 7132)とある.

74 『資治通鑑』第222卷「唐紀」三十八「代宗:寶應元年」に「冬十月,袁晁陷溫州,明州.〔溫州,永嘉郡,治永嘉県.明州,餘姚郡,治鄮県,今之鄞県是也.〕」(ZZTJ222, 38: 7132)とある.

75 寧可[1961]49, note6では,反乱軍は,九月に信州を陥れる以前から,越州攻撃を開始していた,と推測されている.また,同氏は,劉長卿「送朱山人放越州賊退後帰山陰別業」(『劉随州詩集』巻一)に見える「越州(一作中)初罷戰」,「空城垂故柳」といった描写によって,袁晁軍が越州を陥れた,と確信している.

76 寧可[1961]9, note7では,李華「衢州龍興寺故律師体公(d.764.6)碑」に見える「群盗拠州,寺半為墟」によって,袁晁軍が衢州を占領していたことが判明するし,反乱軍の進出経路からすれば,それは信州を制する前のことであろう,と判断されている.

77 『資治通鑑』第222卷「唐紀」三十八「代宗:寶應元年」に「台州賊帥袁晁攻陷浙東諸州,改元寶勝;民疲於賦斂者多歸之.〔考異曰:柳璨正閏位曆,宋庠紀元通譜皆改元「昇國」.今從新書.〕」(ZZTJ222, 38: 7130)とある.

78 衢州の戦で活躍したのは張伯儀であった可能性が高い.彼の伝記に「魏州人,以戰功隸光弼軍.浙賊袁晁反,使伯儀討平之,功第一,擢睦州刺史」(XTS136, 61: 4593)とある.

79 衢州の交戦について,『新唐書』卷136,「列傳第六十一:李光弼」にも「光弼遣麾下破其衆於衢州」(XTS136, 61: 4589)とあり,また,『資治通鑑』第222卷「唐紀」三十八「代宗:寶應元年」にも「李光弼遣兵擊晁於衢州,〔衢州,春秋時越姑蔑之地,秦以為太末県,漢分立新安県,晉改信安;唐置衢州,以三衢州,以三衢山名.昔洪水派山為三道,故曰三衢.斂,力贍翻.〕破之.」(ZZTJ222, 38: 7130)とある.

80 浙東地域で袁晁軍と戦った部将には,①李自良や②王栖曜らがいた.

①李自良,兗州泗水人.初,祿山之亂,自良從兗鄆節度使能元皓,以戰功累授右衛率.後從袁慘討袁晁陳莊賊,積功至試殿中監,隸浙江東道節度使薛兼訓.(『舊唐書』卷146,「列傳第九十六:李自良」,JTS146, 96: 3957);李自良,兗州泗水人.天寶亂,往從兗鄆節度使能元皓.以戰多,累授右衛率.從袁慘討賊袁晁,積閥至試殿中監,事浙東薛兼訓節度府.(『新唐書』卷159,「列傳第八十四:李自良」,XTS159, 84: 4950)

②上元元年,王 為浙東節度使,奏[王栖曜]為馬軍兵馬使.廣德中,草賊袁晁起亂台州,連結郡県,積眾二十萬,盡有浙江之地.御史中丞袁慘東討,奏栖曜與李長[栄]為偏將,聯日十餘戰,生擒袁晁,收復郡邑十六,授常州別駕,浙西都知兵馬使(『舊唐書』卷152,「列傳第百二十:王栖曜」,JTS152, 120: 4096);王栖曜,濮州濮陽人.安祿山反,尚衡裒義兵討賊,署牙將,徇兗,鄆諸県下之,進牙前總管.・・・袁晁亂浙東,御史中丞袁慘討之,表為偏將.與賊戰,日十餘遇,生禽晁,收州県十六,授常州別駕,浙西都知兵馬使.時江介未定,詔內常侍馬日新以汴滑軍五千鎮之.中人暴橫,賊蕭廷蘭乘衆怨逐日新,劫其衆.栖曜方游弈近郊,賊脅取之,與圍蘇州.栖曜乘賊怠,挺身登城,率城中兵出戰,賊衆大敗,遷試金吾大將軍.(『新唐書』卷170,「列傳第九十五:」,XTS170, 95: 5171-72)

81 『新唐書』卷136,「列傳第六十一:李光弼」に「廣德元年,[光弼]遂禽晁,浙東平.[詔增實封戶二千,與一子三品階,賜鐵券,名藏太廟,圖形凌煙閣.](XTS136, 61: 4590)とある.

82 『資治通鑑』第222卷「唐紀」三十八「代宗:広徳元年」に「夏四月庚辰,李光弼奏擒袁晁,浙東皆平.時晁聚眾近二十萬,〔近,其靳翻.〕轉攻州県,光弼使部將張伯儀將兵討平之.」(ZZTJ222, 38: 7142)とある.

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