Inquiries into Philosophy
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2021 Volume 2021 Issue 48 Pages 157-177

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三富 雄介

はじめに

「私は他人の歯に痛みを感じる」という文はどういう事態を表現しようとしているのだろうか.

ウィトゲンシュタインは『青色本』において,「私は他人の歯に痛みを感じる」という文が有意味なものとして理解されるような状況の一例をあげている.彼は, この文が表現している事態を, われわれのよく見知った経験だけに分解しようとする.われわれの身体感覚によって私の歯に痛みを感じていると知られるにもかかわらず, 視覚によってその痛みを感じている当の歯が他人のものであるということが了解されるような状況を想定するのである. この方針は, 「記号(文)はその意義を記号の体系, すなわちその記号の属する言語から得ている」とか「私はある文脈の中で語が意味するところを知っている」という『青色本』の主張と関連している 1. つまり, まだ知らないような語の組み合わせからなる文に出会ったならば, まずはそこに現れる語が日常言語においてどのような仕方で使われているかをよく見てみようじゃないか, ということである. ウィトゲンシュタインは「私は他人の歯に痛みを感じる」という文の解釈の一例として, 日常的な用法のパッチワークを想定するのである.

しかしながら, ウィトゲンシュタインとは違ったやり方で「私は他人の歯に痛みを感じる」という文の意味を考えることもできよう. すなわち, この文はわれわれがまだ知らないような経験, まさに他人の歯に痛みを感じるような経験を表現しているのだ, と. このような仕方で解釈することこそが「私は他人の歯に痛みを感じる」という文の本当の意味を与えてくれる, と主張するつもりはない. 『青色本』の主張に従うならば, ある文に対するさまざまな解釈は, ある語が使われるさまざまな状況を与え, 語にそれぞれ別の意味を与えているにすぎないからである. それゆえ, 本稿で試みる解釈は, ウィトゲンシュタインが与えた解釈と対立するものではない.

「私は他人の歯に痛みを感じる」という文がわれわれのよく知っている語の意味だけからなっていると考えることは, それらの語の組み合わせではなく, それらの語についてわれわれが現に持っている概念を記述し, 再構成するだけである. つまり, それらの語の新しい組み合わせを説明するような文脈が実際に可能であるかはまだわからないままである. 例えば「ブタが空を飛ぶ」という文を理解するにあたって, 語「ブタ」と語「空を飛ぶ」の日常的用法を調べ, このような文が有意味になるような一つの文脈はしかじかであり, そのような文脈は想像可能であると述べたとしよう. だが, そのことからブタが空を飛ぶような状況がありうるということにはならない 2.おそらく, ブタは, ブタの物理的な本性のために空を飛べない. 生物種ブタは本質的に重さをもち, ブタの形状はブタ的である(例えば, ふつうブタは羽を持たない). 仮にブタの本性が空を飛ぶという性質と両立しないならば, 空を飛べるようなブタはありえない. 空を飛べるがためにブタの本性を欠くものは, ブタに似ていたとしてもブタもどきである. 『青色本』の考え方に従うならば, われわれは語「ブタ」をあるときは重さを持つものとして, またあるときは重さを度外視して使用しており, それらは同じ意味では用いられていない, と反論されるかもしれない. たしかにその通りだろう. だが語「ブタ」がどのような意味で用いられているにせよ, ブタが空を飛ぶような状況の実現可能性はブタや重さを持たないブタもどきの本性に依存している.そしてブタの本性や, その本性と空を飛ぶという性質の両立可能性は,言語的探求によってではなく, 経験的探求によって調べられる事柄だろう. ウィトゲンシュタインのやり方は, 語「ブタ」についてわれわれが持っている概念をよく理解するためには有効であるが, 一方でブタの本性を理解するためにはほとんど役に立たない. 否, むしろブタとは「ブタ」という語をわれわれがしかじかのように考え, 使用している仕方によって理解されているものだとみなすことで, ブタの本性についての問いを無化する.

本稿で「私は他人の歯に痛みを感じる」という文にウィトゲンシュタインとは異なる解釈を試みる理由は, 私の身体と感覚の関係について示唆するところがあるからである. 「私の身体」という語や「しかじかの感覚を持つ」という語をわれわれがどのように使っているかはともかく, 私の身体や痛みのような感覚が現実にどのような特徴を持ち, どのような関係にあるかを見るために, ウィトゲンシュタインとは別の解釈を検討する.

本稿の結論は, 「私は他人の歯に痛みを感じる」という経験を有意味に解することはできないというものである. この文を, 感覚情報と視覚情報とが一致するような状況を意味するとして理解する場合(本稿の解釈), つまり感覚的にも視覚的にも他人の歯に痛みを感じるとする場合では, その感覚を他人の身体の感覚とみなせないために当の状況はありえない. 一方, この文を, 感覚情報と視覚情報とが一致しないような状況を意味するとして理解する場合(ウィトゲンシュタインの解釈), つまり感覚的には私の歯に痛みを感じるのだが視覚的には他人の歯に痛みを持つ場合では, その感覚を私の身体の感覚とみなせないために当の状況はありえない. もし「私は他人の歯に痛みを感じる」と正しく言いうる状況が困難ならば, 感覚と身体とをそれぞれが独立した要素とみなし, パッチワークのようにさまざまな身体と感覚を関係付けるということも難しいということになろう. このことは, 感覚というものがそもそも私の身体と密接な結びつきを持つものであることを示唆すると筆者は考えている.

1. ウィトゲンシュタインによる説明

ウィトゲンシュタインは常識的な哲学者, あるいは現実主義者たちが, 私にある痛みが他人にもあると想定することには何の困難もないと主張することに批判的である 3. 彼らは「彼には金歯がある」という命題と「彼には歯痛がある」という命題の外見的な類似に潜む困難に気付いていないのである.「彼には金歯がある」と言うときにはその金歯は彼の口の中にある. それゆえ私は彼に金歯があるか知らない場合もありえよう. その金歯は奥歯にあって, また彼は滅多なことでは笑わないのである. このことは「彼には歯痛があるのかどうか私は知らない」と言うときに, 私は彼に歯痛があるかどうか分からないということに見たところ類似している. しかし両者の間には決定的な違いがある. 「彼に金歯があるということを私は知らない」という命題では, もちろんその命題が偽となる可能性はある. 彼の口を開けて中を見てみればよいのである. この命題と実際上類似をなしているのは「彼の歯に痛みを感じることはできない」 という経験的な命題である. 「彼の歯に痛みを感じることはできない」という命題が経験的であるのは, 私が彼の歯に痛みを感じるという事態が想像可能だからである. つまりこの「彼の歯に痛みを感じることはできない」という命題は, 正確を期して「彼の歯に痛みを感じない」と表現することもできるのであり,しかもその命題が偽である可能性は開かれているのである.

それに対して「他人の歯痛を感じることはできない」という命題や「他人に歯痛があるのかどうか, 私は知らない」という命題は形而上学的な命題であると言われる. 形而上学的命題の特徴は, その命題を有意味な仕方で否定することは不可能であるということである.形而上学的命題はわれわれの能力のなさを語っているのではなくて, われわれの言語の文法を述べているのである 4. ところで形而上学的命題は有意味に否定されないのだから, 実のところ擬似命題であり, この種の命題を真なるものとして語ることには意味がない. ウィトゲンシュタインによる独我論者への応答は, 現実主義者たちのように事実的な問題として独我論者流の物言いに反論するものではない.独我論者たちが正当化不可能な形而上学的命題を何か経験命題であるかのように考えてしまっていることを示すというものなのである 5

いま一度, 「他人の歯に痛みを感じることはできない」という命題が経験的な命題であると言われる理由を検討してみよう.私が他人の歯に痛みを感じるという事態を想像可能だと言っても, そのような事態はもちろん日常的な事態ではない. したがって私が他人の歯に痛みを感じるという事態に言及したり, より一般的に私が他人の身体に感覚を持つという事態に言及したりするとき, ウィトゲンシュタインはどのような状況を念頭に置いていたのか確認すべきであろう.

まず「ある場所にしかじかの感覚を持つ」と言うことは何を意味しているのだろうか. ウィトゲンシュタインが問題にしているのは, 「場所」と言ったときの多義性である 6. 第一にはユークリッド空間中のある特定の座標にその感覚を持つという事態を指している場合を考えることができる.これは視覚に基づく場所の指示と言い換えてもよいだろう.しかしこのとき指先に痛みがある人は, その指で歯を触ったとき歯痛をも持つことになるのであろうか. あるいは歯に痛みがあると言うためには指先からわずかにでも離れていなければなら ないのだろうか. 「ある場所に痛みを感じる」ということが, ユークリッド空間中のある特定の座標にその感覚を持つという事態を指している場合ならば、われわれはこのような事例で歯に痛みがあると言うこともできる. しかしながら,「場所」の意味が違ったように解されるなら, またそうではないと言うこともできる. どちらが正しいというのではなく, ただ両者が異なった意味で場所を指示していることにウィトゲンシュタインは注意する.

痛みのある指先で歯に触っていても歯に痛みがあると言わない場合が第二の場合である.われわれは視覚だけではなく触覚や運動感覚によっても場所を指示するのである.同様に聴覚的な空間理解や嗅覚的な空間理解も考えることができよう. 「ある場所にしかじかの感覚を持つ」と言ったときには, どのような意味でその場所を指示しているのか精査する必要がある. そして実際に, 日常的にわれわれが痛みを指示するときには必ずしも壁から三メートル離れたところに痛みがあるという仕方で指示するのではなく, むしろほかの感覚に基づいて痛みの場所を指すのである.痛みに叫び声をあげる人や自分に痛みがあると言う人は, そのように叫び申し立てる口をあれかこれかと選び出すわけではなく, その行為に伴うある種の身体感覚によってその口が自分のものであることを了解しているという例も, 視覚に頼らない場所理解(あるいはこの場合は自己同定と言ってもよい)の一例である 7

このように場所の理解が多義的であるといっても, 種々の感覚が相関関係にあるからその多義性は通常われわれの意識に上らない.自分の眼から鼻を通って歯に向かって自分の指を動かしているということが触覚的, 運動感覚的に了解されたのならば, 鏡でそのように動いている様を見ることができる. 「私は他人の歯に痛みを感じることはできない」という命題は通常のこの連関を述べているのである. その連関とは, 種々の感覚によって指示される歯痛は視覚的にもその場所が自分の歯であることを常に再認できる, というものである. 一方, 「私は他人の歯に痛みを感じる」という命題はこの連関が存在しない状況を述べている. 例えば痛む歯を触ろうとするとき, その触覚的, 運動感覚的な感覚に結びついているものが, 他人の歯を自分の指で触るという視覚的経験である場合には, われわれは「他人の歯に歯痛を感じる」と言うことができるのである 8. 他人の身体だけではない. 視覚とその他の感覚の間の連関が欠如した場 合には, われわれは机や何もないところにさえ痛みを持つことができる(後者は幻肢痛と言って実際に存在する症例である).

いまや「他人の歯に歯痛を感じる」と言えるのはいかなる場合であるか, 明らかになった. だが, この分析は唯一可能であるようなものだろうか.

2. 他者身体的な感覚

私自身の身体感覚を頼りに「私は他人の歯に痛みを感じる」と言えるような状況を二通り考えることができる.「私は私の歯(あるいは私の身体のどこか)が痛むとして他人の歯に痛みを感じる」という状況と「私は他人の歯が痛むとして他人の歯に痛みを感じる」という状況である. 本稿では後者の状況に注目して論じてみたい. 前者はすでに説明したものである. 私は目隠しをしている. いま私は, 歯痛の感覚が自分の口内にある歯のものであると, 歯痛の感覚が理由で考えている. 痛む場所を指で触ってみろと言われ, 触る.私は, 痛んでいる自分の歯を触っているように感じる. しかし目隠しを取ってみると, なんその歯は隣人のものだったことが視覚によって了解され,「私は他人の歯に痛みを持つ」と言うのである. 一方, 後者の場合には, 私は, 歯痛の感覚が他人の口内にある歯のものであると, 歯痛の感覚が原因で考えており, その歯を触る感覚も他人の歯を触っているように感じているのである.もちろん他人の歯を触っているように感じると言っても, われわれも経験できる他人の歯を触るという感覚のことではない.私の歯を触っているときには触っている感覚と触られている感覚が一体となったような感覚を持つはずである.これと同じ仕方で他人の歯を触っているように感じるのである.このように感じるひとは目隠しを取ってみて, やはりその歯は隣人の歯であったということを了解して,「私は他人の歯に痛みを感じる」と言うであろう.

痛みにかぎらず感覚一般について「他人の歯が痛むとして他人の歯に痛みを感じる」と言いうる感覚を「他者身体的な感覚」と呼ぶことにしよう. それに対して通常われわれが持つような感覚を「自己身体的な感覚」と呼ぶ. ここで注意されたいのは, 自己身体的な感覚を持つ仕方とか持っていると言いうる状況までもがわれわれの見知ったものである必要はないということである.例えば「私は私の歯が痛むとして他人の歯に痛みを感じる」というような場合には,この感覚を持つと言いうる状況は日常的なものではないのだが, それにもかかわらず感じている当の感覚がよく見知った感覚であるということから, すなわち私の身体の感覚であるということから, この感覚を自己身体的な感覚と言ってよいのである.

さて, 他者身体的な感覚という観念は, おそらく荒唐無稽なものに感じられるだろう. 少なくとも, そのような感覚が一体どういうものなのか, 想像の難しいものであることはたしかである. もし他者身体的な感覚がありうるならば,それはどのようにして自己身体的な感覚と区別されるのだろうか.はじめに思い浮かぶ答えは, それらは感覚の質が異なるというものであろう. ふつう, われわれは「どこかが痛む, だがどこが痛いかわからない」とは言わない. 手が痛むなら手が痛む感覚を持つし, 歯が痛むなら歯が痛む感覚を持つからである.痛みは, どこが痛むかによって, その感じ方が異なる. 痛みにかぎらず触覚や温冷感覚の場合もそうである.同じように, 自分の身体に痛みを感じるときと,他人の身体に痛みを感じるときとでは, 感じられる痛みの質が違うのではないか.

しかし, このような類推は正しくない. どこが痛むかということと, 痛みを感じているのは私の身体か, それとも他人の身体か, ということは同じではないからである. 例えば, 太郎は相異なった感覚 Q1 とQ2 を持つことがあるとしよう. Q1 の場合にはつねに太郎の虫歯と結びつき, Q2 の場合には常に花子の虫歯と結びつくような状況を想像してほしい.それぞれの感覚が別個の身体と結びついているというだけでは, まだ自己身体的/他者身体的という区別に至ることはできない. 太郎にとって, 太郎の歯は私の歯であり, 花子の歯は他者の歯であるという認識が必要なのである.

そこで, 太郎にとって自己身体的な歯の痛みとは, つねに太郎の虫歯と結びついて生じるある感覚Q1 と太郎の歯に生じる感覚が自分の歯の感覚であるという認識の合わさったものであり, 他者身体的な歯の痛みとは, つねに花子の虫歯と結びついて生じるある感覚Q2 と花子の歯に生じる感覚が他人の歯の感覚であるという認識の合わさったものである, と修正してみよう. だが, この考え方は誤っている. 実のところ, 本稿の議論によれば, 花子の虫歯と結びついて生じるある感覚Q2 と花子の歯に生じる感覚が他人の歯の感覚であるという認識が相伴うことはできないということが帰結するのだが, それについては最後に説明することにする.いまは, ひとまず人物と私や他者といったパースペクティブ, さらにそれらと身体や感覚の関係について整理しておくべきだろう.

3. 人物と帰属

前節で自己身体的/他者身体的な感覚という区別は, ある身体が自分のものであり, 別の身体が他人のものであるという認識を必要とすると述べた. 本節では, まずある人物と身体, 感覚の関係について考えたい. はじめに P. F.ストローソンによって立てられた次の問いを考察の手がかりとして引用する.

われわれの問題は「なぜそもそも意識についての言明は何かに帰属されるのか」というだけではない. われわれはこうも問える. すなわち「なぜ意識についての言明は物体的特徴, 身体的状況が帰属されるのとまったく同じものに帰属されるのだろうか」と 9

まず感覚(それはわれわれの意識の一つの様態と言ってよいだろう)は, それが帰属されるとすれば, 身体ではなくて人物に帰属されるということを明らかにしておかねばならない. というのも「太郎の足が痛む」というような日本語の文では「が痛む」という述語は太郎の足に述語づけられているように見えるからである. これが誤りであるということは, その痛みが幻肢痛であるような場合を想像すれば分かりやすい. 痛みは, もしそれが帰属されるべきならば, 存在しない足ではなくて太郎という人物に帰属されているのである.あるいは意識の志向性を例にとって考えてみれば, 「机についての意識」が机に帰属しているのではなくてそれを意識している私に帰属しているのと同様である.たしかに痛みは必ずある場所についての痛みでなければならないが, そのことと痛みの帰属先が身体であるというのは別のことである.

したがって, ある身体とある感覚の結びつきを考えるためには, それらがともに述語づけられる人物が重要である. しかしながら, ある一人の人物に帰属しているような身体と感覚だけが結びつくというわけではないだろう. 例えば,太郎に対し, ある身体的場所についての感覚が帰属されており, 一方でその身体的場所であるような身体が花子に帰属していると考えることはできる.この場合, 身体と感覚は, それぞれが同じ人物に帰属しているという仕方で結びついているのではないが, 感覚に含まれている場所情報によって互いに関係しているのである. われわれが痛みを感じるとき, しかじかの場所が痛むように感じるということはすでに述べた通りである.それゆえこのような仕方で身体と感覚が結びつくことも可能であろう.

問題は人物・身体・感覚の三者を結びつけても, そこにはまだ私や他者といったパースペクティブが含まれていないということである.ある身体を私の身体と呼べるような状況の一つを描くことは, それほど難しくない. 例えば次のようなものが一例である. ある人物 x にはある身体 b1, b2, ……(たぶんそれほど多くはなく, ふつうは一つである)が帰属している. 人物 x が指示詞を使ってあるものを同定指示する際には, 聞き手の身体 h が位置する空間的条件とそれほど遠くないところに位置する bh の空間的条件に基づく. 例えば身体 bh がある大講義室の後ろ側に位置しているならば, その大講義室の教壇にあるレジュメは「それ/あれ(that)」で同定指示され, 手元にあるレジュメは「これ(this)」で同定指示されるというように.同様に, 身体 bh とみなされる有機的な全体の一部をなしている口が「私」と発声し, 手が「私」と書いたならば, そのように発声し書いた部分からなる身体 bh の空間的条件をもとに, そのような空間的条件を一人称パースペクティブとして持つ人物 x を指示し同定する.そして人物 x にとって私の身体とは人物 x の一人称パースペクティブの準拠点となっている身体 bh を通して同定された人物 x が所有するような身体 b1, b2, ……である,と 10.

4. 自己知

前節では, 空間的な位置をもとにある身体を私の身体と言いうる状況を示した. しかし多くの場合, ある身体が私の身体であるということは, もっと直接的な自己知(本稿では「自己知」を単なる直観ではなく, 知識の一種であるとみなす)であるように思われる. 本稿で問題にしている自己身体的/他者身体的な感覚という区別は, 話し手と聞き手の意味における同定によって説明されるようなものではない. 話し手と聞き手の意味における同定によって, すなわち身体の空間的位置によって, 他者の身体と呼ばれるような身体にある感覚を持つというのは, むしろウィトゲンシュタインが行った「私は他者の歯に痛みを感じる」の説明に近いだろう. 本節ではまず, どのような命題が直接的な自己知の表現とみなされ, そのような命題にはどのような特徴があるのかを明らかにする. このような一般的な説明を試みることは, ある身体を私の身体と呼ぶという個別的事例の説明のためには, 遠回りであると思われるかもしれない. だが 6 節と 7 節である身体を私の身体と言いうる直接的な自己知について説明するために, ぜひとも必要な準備であると理解していただきたい.

ウィトゲンシュタインは『青色本』で直接的な自己知について述べているから, はじめにそれを確認しよう. 『青色本』では「私」という語の客観としての用法と主観としての用法が区別されている 11. ウィトゲンシュタインが挙げている客観としての用法の例は「私の腕は折れている」「私が[背が]6 インチ伸びた」「私は額にこぶがある」「風が私の髪を吹き散らす」といったものである. 一方, 主観としての用法の例は「私はこれこれを見る」「私はこれこれを聞く」「私は私の腕をあげようとする」「雨が来ると私は思う」「私は歯が痛い」といったものである. この区別における重要な点は, ウィトゲンシュタイン自身が指摘しているとおり, 「私」の客観としての用法では一人の人間の認知が含まれており誤りの可能性があるのに対し, 主観としての用法では人間の認知が問題にならず誤りが不可能であるという点である.ここで誤りうる/誤りえないというのはあらゆる種類の誤りについて言われているのではなく, ある種の誤り, すなわち誤同定による誤りについて言われている. 誤同定による誤りとは, 誰かある人が F であり, ある人物(彼は F であってもなくてもいい)は誰かある人が F であると知っているのだが, 一体誰が F であるのかについて, 「人物 a はF である」と誤って考えてしまう(実のところ, a はF ではない)という誤りである. 客観としての用法では誤同定による誤りがありうる. 例えば鏡にうつっている隣の人のこぶを見て私のこぶだと思い違いをするような場合, 私はある人の額にこぶがあることを知っているのだが, 誤ってその人物が私であると考えてしまっているのである.それに対し, 主観としての用法では, 誤同定による誤りがありえない. 例えば「私は歯が痛い」と言っている人は誰かを私と間違えてその痛みにうめいているわけではないし, そんなことはナンセンスである. シューメーカーは「私」の主観としての用法のこのような特徴を「誤同定による誤りに対する免疫(immunity to error through misidentification)」と呼ぶ 12. 本稿では同定という語をすでに話し手と聞き手の二つの意味を持つものとして使ってしまったから(註 10 を参照), 誤同定による誤りに対する免疫と呼ぶ代わりに「誤指示による誤りに対する免疫」と呼ぶ. (以下, 心理述語を含むある種の一人称命題がこの免疫を持つという考えを「誤指示−免疫原理」と呼ぶことにする).

ウィトゲンシュタインによって導入された「私」の主観としての用法には, もう一つの誤りえなさ, 「誤帰属(mis-ascription)による誤りに対する免疫」がある13 以下, 心理述語を含むある種の一人称命題がこの免疫を持つという考えを 「誤帰属−免疫原理」と呼ぶことにする). ウィトゲンシュタインは誤指示−免疫原理と誤帰属−免疫原理を少なくとも明示的には区別しておらず, 混乱が見られる. ウィトゲンシュタインの挙げた例である「私は歯が痛い」という命題を考えてみよう. 誤指示−免疫原理は, 「誰について話されているのか」という問いに対して, 「私は歯が痛い」という命題を主張する当人が「私について言っているのだ」と答えたとき, それが偽になることはありえないという免疫原理であった. それに対して, 誤帰属−免疫原理は, 「話題になっている当のひとについて何が言われているのか」という問いに対して, 「私は痛い」という命題を主張する当人が「私は何かを感じているのだが, 痛みなのか分からない」などと答えることはありえないという免疫原理である. 誤指示−免疫原理が働いている命題では, 発話者は観察によらず, 語「私」によって正しく心理状態が帰属させられている対象を指示できたのに対し, 誤帰属−免疫原理が働いている命題では, 発話者は述語を観察によらず, 正しく主語に述語づけるのである.

「私」の主観としての用法が見られるような命題では, 少なくとも二つの免疫原理が働いている(以下, 免疫原理が働いているような命題を「免疫命題」と呼ぶことにする 14. また文脈によっては免疫原理が働いていなくても, 命題のタイプとして免疫命題と同一であるような命題をも免疫命題と呼ぶことがある).二つの免疫原理は, 直接的な自己知を表している. 私は, 心理的述語を含むある種の一人称命題で, 観察によらず, 語「私」によって正しく心理的状態が帰属させられている対象を指示し, また述語を正しく主語に述語づけていることを知っているからである.

たったいま述べた免疫原理と自己知の説明に対しては, 二つの反論がありうる.一つは, 誤指示−免疫命題で, 私は自分自身を本当に指示しているのだろうかというものである.もしもある命題中の主語によって指示が行われているならば, その指示を誤ることが論理的には可能ではないだろうか. そうであるならば, 誤指示−免疫命題に対して, われわれが取りうるもっともらしい選択肢は二つしかない.誤指示−免疫原理を誤りとして退けるか, そのような命題では命題中の主語が指示をしていないと考えるか, である.しかし誤指示−免疫原理は心理的述語を含むある種の一人称命題において, 明らかにどのような場合でも働いているように思われる.それゆえ誤指示−免疫命題では, 命題中の主語, つまり語「私」は何も指示していない 15. 語「私」は免疫命題が一人称パースペクティブの経験を表していることを示しているかもしれないが, その経験が一人称パースペクティブを持つことは心理的述語の主観的使用から明らかである.したがって, 免疫命題の主語「私」は消去可能な表示にすぎない.

もう一つの反論は, 免疫命題を私が信念として持つとき, それは私にとって自己知とみなされるべき知識の一種なのかというものである.伝統的には知識とは正当化された真なる信念であると言われる.この定義は完全なものではないが, それでも一つの目安としては有効であろう. この定義からもとの反論を言い換えれば, 次のようになる. すなわち, 免疫命題を私が信念として持つとき,それは正当化された真なる信念なのか.まず問題になるのは正当化である.私は免疫命題によって, ある心理状態にあるような指示対象やある心理状態の帰属先であるような対象を, 直接的に把握している. 言い換えれば, 命題の真偽について外的な基準がなく, いかなる観察も必要ない. もちろん「私は歯が痛い」のような命題に対して, 私の直接的な把握とは別に, 外的な基準を設けることはできる. 例えば私の口内に虫歯があることなど. しかしその場合には誤指示, 誤帰属のどちらもが起こりえるので, もはや免疫命題ではない. 以上から, 免疫命題には正当化が欠けているということになろう. 続いて免疫命題が真であるということが問題になる. 免疫命題が正当化を欠いており, しかも論理的同語反復でないならば, それを真ということにいかなる意味があるのだろうか. 免疫命題には偽である可能性がはじめから用意されていない以上, われわれは免疫命題を真であると言うことに意味がない. このような議論によって,免疫命題はそれが知識の内容となりうるための要件を満たしておらず, 免疫命題は知識になりえないという反論が生じるのである.

5. 誤指示−免疫原理に対する神経科学の説明

前節の終わりで述べた二つの反論はもっともらしく見える.しかしながら一つ目の反論を退けることは, それほど難しくない.一つ目の反論は, 誤指示−免疫原理が明らかに正しいという考察に依拠していた.ところが, 誤指示−免疫原理には反例があるのである. Frith(1992)の報告によれば, 統合失調症の患者は「『神を殺せ』のような考えが私の頭の中にやって来るのだ. それは自分の心の働きのようなのだが, そうではない. クリスって奴からやって来るのだ.それは彼の考えなのだ」と述べているそうである. しかしながら彼にそのような考えを吹き込むクリスなる人物はいない. 「神を殺せ」という思考は統合失調症の患者自身が生み出したものなのである.ウィトゲンシュタインやシューメーカーの議論に従えば, 「私は『神を殺せ』という考えを持っている」という命題では, 「私」は主観的用法であり, 誤指示−免疫原理が働いている. にもかかわらず統合失調症患者の証言では指示の誤りが生じているとCampbel(l 1999)では述べられている.

統合失調症患者が「私は『神を殺せ』という考えを持っている」と言った場合には, ここで語「私」はその同定指示が問題にされるような, 客観的用法であると言われるかもしれない. つまり「神を殺せ」という思考は物理的には患者の頭の中にあり, 語「私」は物理的対象である頭を同定指示しているのであって,この命題はそもそも免疫命題のタイプではないという反論である.この反論が妥当であるような場合もたしかにありえる. しかし, この反論は統合失調症患者の証言にかぎらず, すべての免疫命題に対して成り立つ. もちろんわれわれは免疫命題において, つねに語「私」が私の頭を指示しているということは認めないだろう. であるならば, 統合失調症患者の証言の場合にも, そこに現れる語「私」が主観としての用法として用いられていてもよいと認めるべきである.さて, この反例から, 誤指示−免疫原理がそれほど強固な原理ではないことが わかるだろう. 少なくとも誤指示−免疫原理は免疫命題の文法的特徴ではなく,免疫命題の経験的特徴である.それゆえある一人称命題が免疫命題であるということから, 語「私」は何も指示しないという文法的帰結は出てこない.

しかし, それにしてもある一人称命題が一般的には免疫命題であり, 特殊な場合には免疫命題ではないという事実は奇妙である.免疫命題はいかなる理由によって, 誤指示−免疫原理を獲得しているのか. この問いに答える準備として,一つの区別を紹介しよう.Gallaghe(r 2000)は「主体感覚(the sense of agency)」と「所有感覚(the sense of ownership)」を区別する. 「私はカップに手を伸ばす」というような事態を想像しよう. このときこの行為をしたのは私であるという感覚を私が持っているならば, 私は所有感覚を持っている. その行為を因果的に引き起こし, 制御しているのは私であるという感覚を私が持っているならば, 私は主体感覚を持っている. 通常私の自発的な行為に対しては, 主体感覚と所有感覚は一致して現れる.それゆえこの区別が意識されることはほとんどない.しかしながら所有感覚を持ちながら主体感覚を持たないという場合は,統合失調症患者の証言のようにたしかに可能であり, この区別は妥当なものである.

主体感覚と所有感覚の区別から統合失調症を次のように描写することができるだろう. すなわち統合失調症における一人称的経験では, 所有感覚は通常と同じように働いているのだが, 主体感覚が欠如しているのである. ギャラガーは神経科学の知見から, 統合失調症の原因を次のように説明している. 神経科学では脳内に「内部モデル」が存在し, これがわれわれの運動制御や認知に関わっていると考えられている. 内部モデルにはさらに「順モデル」と「逆モデル」があって, このうち主体感覚に関わるのは順モデルである. 順モデルでは, われわれの運動に際して作られる「遠心性コピー」が感覚情報処理系に送られ, 運動結果を予測する. その後, 運動結果の感覚的なフィードバックと照合し, フィードバックが予測と一致するならば, その運動は自分自身による運動だと認識される. 一方, フィードバックが予測と一致しないならば, その感覚は環境の変化によるものだと認識される. つまりこの場合, われわれは主体感覚を持たない. それに対して, 所有感覚はもっぱら運動の意図と認知的なフィードバックとの一致によってもたらされる. 統合失調症では, この順モデルだけがうまく機能しないために, 主体感覚と所有感覚の不一致が生じるとギャラガーは説明している.

免疫命題は誤指示−免疫原理を持つ. 免疫命題は命題中の主語「私」の指示を決して誤ることがない.なぜなら免疫命題における指示を確定させるために,私が何かを観察することはなく, その経験が一人称パースペクティブであることを直接的に把握するからである. このような説明は部分的には正しく, 部分的には誤っている.たしかに免疫命題はあるときには誤指示−免疫原理を持ち, このとき私は何かを観察する必要はなかった. しかしながら, 免疫命題における一人称パースペクティブの把握は, 純粋に直接的な把握ではなく, 外界の認知とは異なったモデルが脳内で働いているということから説明できるのである.われわれの意識の上では, 免疫命題で言い表される経験が一人称パースペクティブであることが直接的であるように思われたとしても, 実際にはそこに外的基準が介在している.もしある経験が一人称パースペクティブであると外的基準によってのみ認められるのであれば, 免疫命題における語「私」は消去可能ではない. 免疫命題における語「私」は, そのように発話するある身体を所有するような人物が一人称パースペクティブの経験をしていると表示する役割を持っているからである. このように神経科学からの説明は, 第一の反論を退ける. 一方で, 誤指示−免疫原理自体が退けられたわけではない点に注意したい.もちろん誤指示−免疫原理は絶対的なものではなく, ある程度その主張が弱められなければならない. とはいえ, 免疫命題において大体の場合成り立っている経験的事実であるということが否定されたわけではないのである.

6. 誤帰属−免疫原理に対する神経科学の説明

誤指示−免疫原理に対する神経科学の説明から, 第二の反論についても半分は解決されたことになる. 免疫命題を私が信念として持つとき, それが知識ではないとされた理由は, 正当化を欠いているからであり, 偽となる可能性がないからであった. いま免疫命題における主語「私」の指示の場合には, それが外的基準を持つことが分かったのだから, 誤指示−免疫原理は正当化されうるし, 偽となる可能性がある.しかしながらもう一つの免疫原理, 誤帰属−免疫原理については, それが外的基準を持つかどうか, したがって正当化されうるかどうか,偽となる可能性があるかどうか, まだわからない.

誤帰属−免疫原理についても, 神経科学からの説明を与えることができる.話を簡単にするため, 知覚経験は無視して, 感覚経験だけに絞ろう(議論の大筋は知覚経験の場合にも同様であり, この限定が議論の説得力を損なうということはない). たしかに人はある感覚を認識したあと, 全身をくまなく調べて指の切り傷を認めてはじめて「指が痛い」と知るのではない. それゆえ感覚の帰属が行われる際, 人間の認知は問題となっていない. しかしやはり感覚帰属の場合にも, 外的な基準を認めることができる. ヒトは体性感覚としてまとめられる感覚受容のシステムを持っている16.皮膚表面には皮膚感覚の受容器があり,触覚や温冷, 痛みにそれぞれ対応した受容器が存在する. 体内には深部感覚の受容器があり, 身体の運動に伴う感覚を伝達する. 要するに, 感覚は大雑把に感覚として捉えられたあと, 具体的な感覚として認知されるのではなく, はじめから細分化された感覚として捉えられるのである.この説明は感覚の帰属に人間の認知が問題とならないという点をしっかりと押さえている上に, 感覚の帰属についての外的な基準を提供している.つまり, 感覚受容器に異常があれば,われわれは「私は何かを感じているのだが, それが痛みなのかわからない」と言うかもしれないのである.したがって免疫命題を内容とする信念は知識の候補となる.なお, 誤帰属−免疫原理の場合にも, その原理が一般的に成り立っていることが退けられたわけではない点は, 誤指示−免疫原理と同様である.

以上の経験的考察から, 自己知について次のことが言えるだろう.すなわち,たしかにわれわれはある意味で直接的に自己知を持つことができる.そのような自己知はいかなる場合にも成り立っているわけではないし, 実際のところ複雑なプロセスを経て形成された信念である. だが, その信念の主観的な把握の仕方は外界の認知を必要としないという点で直接的であり, しかも大体の場合で一般的に成り立っている, と.

さらに進んで, 本節で得られた自己知についての考えから, 3 節で示した状況とは別に, 私がある身体を私の身体と呼べるような状況を考えることができる. 3 節で示した状況, 話し手と聞き手相互の空間的条件に依存した同定指示によって一人称パースペクティブの準拠点を与え, ある身体を私の身体と呼んだのであった. 他方, 本節の考察に従えば, 私は聞き手の空間的条件に依存しないで,ある身体を私の身体と把握できる. ある人物はある感覚をもとに, そのような感覚の場となっている身体を私の身体であると直接に言うことができる.なぜなら誤指示−免疫原理に対する神経科学の説明によって, 感覚のうちにすでに一人称パースペクティブが埋め込まれていると言えるからである.この状況をより正確に述べるなら, 次のようになろう. ある人物 x は身体 b1, b2, ……(たぶんそれほど多くはなく, ふつう一つである)を所有している. 人物 x は, 人物 x の所有する身体 bi を通して知覚経験ないし感覚経験を持ったとき, しばしばそれにともなって主体感覚と所有感覚の二つを観察によらず持つ.このような場合, 人物 x は語「私の身体」によって身体 bi を指示することができ, 身体 bi は人物x にとって一人称パースペクティブの準拠点となっている.このモデルは,自分自身の身体を特定するためには聞き手の空間的条件に依存しなければならないという状況が奇妙だというわれわれの直感に, 説明を与えてくれる.

7. 所有感覚と「他人の歯に痛みを感じる」こと

2 節の最後で, 自己身体的/他者身体的な感覚の区別について次のように考えたらどうか, と述べた.すなわち, 太郎にとって自己身体的な歯の痛みとは, つねに太郎の虫歯と結びついて生じるある感覚Q1 と太郎の歯に生じる感覚が自分の歯の感覚であるという認識の合わさったものであり, 他者身体的な歯の痛みとは, つねに花子の虫歯と結びついて生じるある感覚Q2 と花子の歯に生じる感覚が他人の歯の感覚であるという認識の合わさったものである, と. 前節までの議論をもとに言い直せば, この状況は, 太郎が太郎の歯に生じる感覚を所有感覚とともに持つとき, 自己身体的な歯の痛みを持つと言い, 花子の歯に生じる感覚を持つが所有感覚を伴わないとき, 他者身体的な歯の痛みを感じる, ということになる.

では, そのような状況は可能だろうか. おそらく可能ではない. そのことを示す実験がある. それはよく知られたもので, 「ラバーハンド錯覚」と呼ばれている. この錯覚を最初に報告したのは Botvinick and Cohen(1998)である.彼らは, 被験者の左手を衝立で隠し, ゴム製の義手(ラバーハンド)を被験者の前においた. それから被験者にラバーハンドを見つめるよう指示し, 本物の手とラバーハンドに同時に刺激を行った. その後, 被験者に質問すると, 被験者はラバーハンドが自分の手であるように感じていたという. しかし, 本物の手とラバーハンドに与える刺激のタイミングをずらすと錯覚は生じなかった.この実験の示唆することは, ある身体を自分の身体であると感じることと, 視覚情報と触覚情報の共時的な生起とが関連しているということである. 金谷・横澤

(2015)によれば, 刺激を触覚的に感じる位置と視覚的に見てとる位置(ここでの位置は自分の手と他人の手のような位置ではなく, 人差し指に痛みを感じるのか, 中指に痛みを感じるのかといった際に違ってくる位置)との一致によって,ある身体が自分の身体であるという感覚が保持されているという.またShimada et al.(2009)によれば, 刺激に対する視覚情報と触覚情報のタイミングが一致していなければ, 所有感覚を持てない.

本稿の議論にそって考えれば, 太郎が花子の歯が痛みの場所であるとして花子の歯に痛みを感じるとき, 太郎には所有感覚が生じてしまうということになろう.刺激に対する視覚情報と触覚情報のタイミングは一致していると仮定すれば, 太郎が触覚的に痛みを感じる場所と視覚的に痛みを持つ場所が一致しているからである. したがって他者身体的な感覚は可能ではない.

他方, いま示した本稿の結論は, ウィトゲンシュタインによる「私は他人の歯に痛みを持つ」という文の解釈に対しても, 興味深い説明を与えるだろう. ウィトゲンシュタインはこのような文をよく見知った経験だけに分解したのであった. つまり触覚的には自分の身体に痛みを感じるが, 視覚的には他人の歯に痛みを持つような状況を想定したのであった.だが触覚と視覚の間で感覚の不一致が起こっているならば, その感覚を「私の」身体の感覚とみなす可能性は低いと思われる. ウィトゲンシュタインが彼のパラフレーズにおいて, 視覚情報と触覚情報のタイミングおよび位置両方の同期を想定していたとしよう.このときには, 私は視覚的に痛みを持つ場所に対して, 所有感覚を持つことになり,

「私は他人の歯に痛みを感じる」とは言えない. 客観的に描写するならば, 「太郎は花子の歯に痛みを感じる」と言えるだろうが, それと「私は他人の歯に痛みを感じる」と言うことは同じではない. それに対し, ウィトゲンシュタインが彼のパラフレーズにおいて, 視覚情報と触覚情報のタイミング・位置ともに同期していないと想定していたとしよう. このとき, たしかに「私は他人の歯に痛みを感じる」と言う可能性は残されている. しかしながら, それが可能なのは,昨日, 花子の奥歯に傷があるのを太郎が見たとして, 今日になって太郎の前歯に感じている痛みが花子の歯の痛みだと太郎が考える, という事態が可能ならば,である. この想像は, 常識的にはいささかナンセンスなものであり, 少なくともウィトゲンシュタインが考えていたほど, 自明にパラフレーズが可能であるというわけではないことを示している.

おわりに

最後に本稿の議論を簡単に振り返って, 締めくくりとしたい.

本稿で問題としたのは, 「私は他人の歯に痛みを感じる」という命題やそれが表す経験の可能性についてであった. この命題ないし経験の解釈について, ウィトゲンシュタイン流のパラフレーズと本稿で示した解釈があるのだが, どちらの解釈をとるにせよ問題となるのは, ある身体が私あるいは他人に帰属させられているということをどう考えるべきか, また, ある感覚が私あるいは他人に帰属させられているということをどう考えるべきか, という問題である. ウィトゲンシュタインは, そのような帰属ははじめから問題にならないとして, 免疫原理を想定していたのだが, 実のところ, 身体や感覚の帰属には経験科学による説明が可能である. 経験科学は, 身体と感覚の帰属が複雑な関係に立っていることを示している. そして経験科学による説明をもとにして, 再び「私は他人の歯に痛みを感じる」という命題を見直した結果, 「私が他人の歯に痛みを感じる」という命題ないし経験について, 本稿で示したような解釈をとるにせよ, ウィトゲンシュタインによる解釈をとるにせよ, そのような状況を考えることは困難である, ということが示された. 身体と感覚とは独立した要素ではない. 身体と感覚との結びつきは, ウィトゲンシュタインがしたように簡単にパラフレーズできるようなものではない. このようにして, 感覚と私の身体とは特別な結びつきを持つのである.

1. TS309, p. 7, p. 15(28 頁, 34 頁). 強調は原典による.

2. 信原(2002), 34–41 頁.

3. TS309, pp. 80–81(93–94 頁).

4. Ibid., pp. 89–90(100–101 頁).

5. Ibid., p. 111(119 頁).

6. Ibid., pp. 82–85(95–98 頁).

7. Ibid., p. 114(122 頁).

8. Ibid., p. 87(99 頁).

9. Strawson(1959/2003), p. 90.

10. ここでは「同定する」という語は, 話し手が聞き手に対して同定指示する対象を聞き手が特定することと考える. Strawson(1959/2003)を参照されたい.

11. TS309, pp. 112–113(120–121 頁).

12. 言うまでもなく, 語「私」が同定指示されているならば, その語は時空内に位置する客観的存在者に対して向けられている. それゆえ, 「私」の主観としての用法が問題になるのは, 語「私」が同定指示とは別の意味で指示されている(あるいはそもそも指示されていない)場合なのである.

13. De Gaynesford(2017), pp. 486–487.

14. 単に一人称心理命題と呼べばよいではないかと言われるかもしれない. しかしながら誤同定による誤りに対する免疫を持つような命題のクラスと, 心理的述語を含み語

「私」を文法的主語とする命題のクラスは一致しない. 第一に, 後者のクラスに属するが, 前者のクラスには属さないような命題がある(Shoemaker(1968)). 例えば

「私はとても賢い」がそれである. 他人のテストの結果を誤って自分のものとみなし,そう思ってしまうかもしれない(そして実は私は赤点だったかもしれない)のだから,この命題は誤同定による誤りを免れていない. 第二に, 前者のクラスに属するが, 後者のクラスには属さないような命題がある(Shoemaker(1968), Child(2018)). 例えば「私は足を組んでいる」がそれである. もちろん私は観察によって自分が足を組んでいると知ることもありうる. しかしながら, それは誤同定による誤りに対する免疫をもつような命題のクラスに属する命題であれば, 心理的述語を含むような命題に対しても言えることである. 私は鏡で自分の顔色を見て, はじめて気づいて言うかもしれない. 私は憂鬱だ, と.

15. TS309, p. 113(121 頁).

16. 脳科学辞典「体性感覚」(橋本, 入来).

参考文献

Botvinick, M.and Cohen, J. (1998)“Rubber hands ‘feel’ touch that eyes see”, Nature,

391, p. 756.

Campbell, J. (1999)“Schizophrenia, the space and reasons and thinking as a motor process”, The Monist, 82, pp. 609–925.

Child, W. (2018)“Two kinds of Use of ‘I’: The Middle Wittgenstein on ‘I’ and the self”, in Wittgenstein in the 1930s, Cambridge University Press, pp. 141–157.

De Gaynesford, M. (2017)“Wittgenstein on ‘I’ and the Self”, in A Companion to Wittgenstein, Wiley Blackwell, pp. 478–490.

Frith, C. (1992)The Cognitive neuropsychology of Schizophrenia, Elbaum. Gallagher, S. (2000)“Philosophical conceptions of the self: implications for

cognitive science”, Trends in Cognitive Sciences, 4, pp. 14–21

橋本照男・入来篤史「体性感覚」, 脳科学辞典, https://bsd.neuroinf.jp/wiki/体 性感覚, 2020 年 11 月 30 日閲覧.

金谷翔子・横澤一彦 (2015)「手の身体所有感覚とラバーハンド錯覚」, 『バイオ

メカニズム学会誌』, 39, 69–64 頁所収.信原幸弘 (2002)『意識の哲学』, 岩波書店.

Shimada et al., (2009)“Rubber hand illusion under delayed visual Feedback”, PLoS One, 4, e6185.

Shoemaker, S. (1968)“Self-Reference and Self-Awareness”, The Journal of Philosophy, 65, pp. 555–567.

Strawson, P. F. (1959/2003)Individuals London/New York: Routledge. Wittgenstein, L. (1958/2016)TS309: so-called Blue Book, ed. The Wittgenstein

Archives at the University of Bergen under the direction of Alois Pichler. (大

森荘蔵訳, 『ウィトゲンシュタイン全集 6』, 大修館書店)

 
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