2021 Volume 2021 Issue 48 Pages 198-213
アンスコムは「反因果説」ではない
吉田 廉
知識と行為はともにわれわれが世界と関わるあり方を指す言葉である.知識の本性を探究する学が知識の哲学と呼ばれるのと同じく,行為の本性を探究する学は行為の哲学と呼ばれる.行為の哲学で二十世紀にもっとも影響力を持った哲学者として,エリザベス・アンスコムとドナルド・デイヴィドソンの二人の名前をあげることができる.行為の哲学の展開はしばしば二人の対立から理解されてきた.デイヴィドソンは因果説と呼ばれる立場を擁護し,アンスコムはデイヴィドソンを批判したため,両者の対立には,デイヴィドソンの因果説とアンスコムの反因果説という構図が与えられてきた.本論文は,この構図がデイヴィドソンとアンスコムの対立を描くのには不適当であると指摘する.アンスコムを反因果説の論者とみなせば,彼女の哲学的な主張の眼目は失われる。それゆえ,デイヴィドソンと彼女との真の対立点も見失われる.因果説と反因果説のどちらの立場も含意しない彼女の主張を理解するには,行為の本性を探究する彼女の方法をただしく捉えることが肝要である.本論文は彼女の方法を「解明」と呼び,解明が行為の本性を探究する適切な方法であることを示す.本論文は大きく前半と後半に分かれる.前半の第二節から第三節では,行為の分析によって行為の本性へと迫ろうとするデイヴィドソンと,それを批判し自己知によって行為を解明するアンスコムの,方法論における対立を描く.後半の第四節から第五節では「反因果説」という特徴付けをアンスコムに与えることが妥当であるのかを検討する.「反因果説」をどのように定式化してもそうした特徴付けが妥当ではないことを示すことで,デイヴィドソンとアンスコムは因果説の特定のテーゼを受け容れるかどうかについて対立しているのではなく,本論文前半で示した方法論において対立していることを明らかにする.ここに試みるのは「アンスコムの反因果説」という伝承の真偽を文献的な調査によってさだめるささやかな作業である.
行為の哲学とは行為の本性を探究する学である.したがって,この学が探究している行為とはなにかが理解されれば,行為の哲学が理解されるだろう.だが「行為とはなにか」とは,定義上,まさにこの学が目指すところのものであり,それについての学知は行為の哲学そのものである.この循環から抜け出すには,いかにしてわれわれは行為の本性を知るのかと問わねばならない.
この問いは「私が腕を上げるという事実から,私の腕が上がるという事実を引くとなにが残るか」(Wittgenstein 1953, §621) というウィトゲンシュタインの問いを足場として考えられてきた.アーサー・ダントーは行為の哲学の目的を次のように説明している.
ウィトゲンシュタインの弟子たちは,行為の領域では,〔私が腕を上げるという事実から,私の腕が上がるという事実を〕引き算しても残るものがあると考えた.そこから生まれたのが,行為とは身体運動プラス 𝑥 であるという原則である.〔…〕問題は哲学的にきちんとした仕方で〔…〕𝑥 を見つけることである.(Danto 1981, 5. 〔〕内は引用者の補足)
私が腕を上げるという行為を単なる出来事から区別する特徴とはなにか.この問いに対するデイヴィッドソンの答えは,そのような付け加えられるべきものは「なにもない」(Davidson 1987, 101) というものだ.とりわけ,心的な意志作用のようなものが引き算の結果として残ることはないという主張は,オースティン,ライル,アンスコム以降の哲学者に共通する標準的な見解と言ってよい
だろう.実際,ウィトゲンシュタイン自身も続く箇所で「私が腕を上げるとき,大抵の場合,私は腕を上げようと試みたりしない」(Wittgenstein 1953, §622 強調原文) と語り,「試みる」といった心的作用に言及することで自らの問いに答えることはできないという否定的な答えを与えている.
ただし,付け加えられるべきものなどなにもないと言うことで,デイヴィドソンは,出来事と行為を同一視しているわけではない.腕を上げようとしていないのに,私の腕が上がる事例は存在する.両者の外延が一致しないことを彼も否定してはいない.では,どのような条件が満たされれば,単なる出来事は行為となるのだろうか.ダントーのいう「プラス 𝑥」の候補を出来事の内在的性質に限定せず,対象領域を拡張したより一般的な問いをアントン・フォードにならって「ウィトゲンシュタインの方程式 (Wittgenstein’s equation)」と呼ぼう (Ford 2011, 77).以下では,行為がある理由のために遂行されたものであることを強調する際に,その行為を「意図的行為」と呼ぶ.意図された行為の失敗(非意図的行為)も行為ではあるため,行為と意図的行為は完全に一致する概念ではない.しかし,ウィトゲンシュタインの方程式を問題にする限りでは,両者は同義語として扱ってかまわない.なぜなら,引き算される項が行為であっても意図的行為であっても,ウィトゲンシュタインの方程式が単に起きたことと,自ら為したことの違いを答えとして要求している点で変わらないからだ.
ウィトゲンシュタインの方程式を補助線として,デイヴィドソンの最初期の論文「行為・理由・原因」(1963) を中心に彼の主張を確認しよう.私が駅のホームで電車を待っていたとする.向かい側のホームに立っている知人を見た私は,自分に気付いてほしくて手を振った.このとき,なにが私の手の動きを「挨拶」という行為にするのだろうか.意志作用を答えとして認めないのであれば,はじめに思いつくのは「挨拶をする私の意図」という答えだろう.しかし,これはウィトゲンシュタインの方程式の解としては不適格である.なぜなら,挨拶という問題の行為に言及せずに挨拶の意図を語ることはできないからだ.被定義項たる行為 𝑝 に対して,𝑝 する意図を定義項のひとつとして持ち出す分析は失敗している.
行為と意図に内的関係を認めることは,ある行為を成した理由に関する知識は因果関係のように帰納によって知られるものではないという一般的な事実の承認を前提としている.ワイングラスを落とす(原因)とワイングラスは割れる(結果)という知識は帰納によって得られる.しかし,私は自分が挨拶をした(結果)のはなぜか(理由)を,ワイングラスの破損の原因を知るのと同じ仕方で,すなわち観察によって知るのではない.デイヴィドソンもこの事実自体は認める.彼が否定するのは,上記の事実ではなく,上記の事実を認めるなら,理由は行為の原因ではないということが帰結するという論証の妥当性である.彼はメルデンの論証を取り上げてこの点に関して詳細な批判を加えているが,本論文にとって重要なのは以下の論点である.因果関係は帰納によって知られ,理由は観察によらずに知られるという主張にはデイヴィドソンは同意する.デイヴィドソンが認めるこの主張は,行為の理由は原因ではないといういわゆる「反因果説」の主張を導く前提である.しかし彼は帰納によってのみ因果関係は知られるという主張には同意しない.因果関係は観察によらずに知られることもあると認めるならば,理由が行為の原因であるということも認められるはずである.
しかし,なぜ理由が行為の原因であると考えねばならないのだろうか.より正確に言えば,理由は行為を合理化するだけでなく,行為を実際に引き起こしているという因果説の考えをなぜ受け容れなければならないのだろうか.デイヴィドソンは,自分の信念と欲求のいくつかに照らせば合理的であるような仕方で行為しつつも,しかし全く別の理由のために,その行為をなす事例 (Davidson 1993, 297) を引き合いに出して,因果説を採用する動機を説明している.デイヴィドソン自身の例は次のようなものだ.私はある老人を助けたいと欲しており,彼に傘の修理を頼んで修理代を払うことは彼の助けになると信じているとしよう.にもかかわらず,私が傘の修理を老人に頼むことは,老人を助けたいという欲求とは無関係でありうる.なぜなら,私は単に傘を修理したかっただけかもしれないからだ.デイヴィドソンの例をもとに,別の例も考えよう.私は手に入った過剰な量の食材を廃棄することを望んでおらず,その食材で友人に料理を振る舞うことが食材の廃棄を避けることにつながると信じているとしよう.にもかかわらず,私が料理を振る舞うことは,食材の廃棄を避けたいという欲求とは無関係でありうる.なぜなら,私は単に友人を喜ばせるために料理をしたのかもしれないからだ.以上の二つの例からわかるのは,理由による行為の分析には,行為を合理化する理由が実際に行為を引き起こしてもいるという条件が欠けている,ということだ.理由と行為の概念にとって重要な直観を救うが故に,因果説は採用されねばならない.
ただし,デイヴィドソン自身が注記しているように,行為を合理化する理由が行為の原因でもあることは,その行為が意図的であるための必要条件であって十分条件ではない.逸脱因果事例と呼ばれる反例が存在するからだ.デイヴィドソンは後年「どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし,そもそもそのようなことが可能だとも思っていない」(Davidson 1993, 297) と語っており,逸脱因果事例の存在が因果説の脅威となるとは考えていないようだ.しかし,サイモン・エヴニンが指摘するように,この楽観的な態度に十分な根拠があるかは疑わしい (Evnine 1991, 47).とはいえ,この点についての検討は本稿の課題ではない.注目すべきは,彼の試みが成功しているか失敗しているかにかかわらず,これは因果性による意図的行為の分析であるということだ.それはまた,因果説の教説がウィトゲンシュタインの方程式の解として提示されているということを意味する.ある人が意図的に行為するならば,少なくともその行為は理由によって引き起こされていなければならない,というのが彼の出した答えだ.次節では,アンスコムはデイヴィドソンとウィトゲンシュタインの方程式にどのような答えを与えるかにおいてではなく,ウィトゲンシュタインの方程式に対して何らかの仕方で答えうると考えているかどうかに関して対立しているということを確認する.それは,行為の理由は原因でもあると考えるかどうか(因果説か反因果説か)ではなく,ウィトゲンシュタインの方程式を受容するか拒絶するかにこそ二人の対立点があると考えることと同じである.
前節では初期のデイヴィドソンの議論をウィトゲンシュタインの方程式の解という観点から一覧した.本節では,理由が原因であるという因果説の教説に対してではなく,ウィトゲンシュタインの方程式に何らかの答えが与えられるという前提に対して,アンスコムは批判を向けているということを見る.次いで,ウィトゲンシュタインの方程式の拒絶が,アンスコムの主著『インテンション』においても周縁的な主張ではなく,むしろその核心に位置付けられるということを,当該著作全体の構成から明らかにする.
アンスコムは「実践的推論」(1989) において,デイヴィドソンが逸脱因果事例を引き受けざるを得なくなった原因を彼の方法論に見出している.「「行為」と単に生起していることをまず区別し,それからわれわれは「行為」について語っているのだと述べる」デイヴィドソンの方法をアンスコムは「標準的アプローチ」と呼び,標準的アプローチが行為の本性を明らかにする可能性を否定する (Anscombe 1989, 112)。ここで標準的アプローチと呼ばれているのは,本稿の用語を用いて言えば,ウィトゲンシュタインの方程式を解くことで行為の本性へと至ろうとする方法である.
「実践的推論」以前にも彼女はデイヴィドソンについて次のように書いている.
彼〔デイヴィドソン〕の勇敢な試みは結局のところ道を見誤っていたのではないかと私は考える.人々が「行為」の意味に制約を加えようとする場合にはある目標が念頭に置かれているが,出来事のある部分クラスに当てはまる特徴付けを探ることでそうした目標が達成できるとは,私には思えない.(Anscombe 1982, 210 〔〕内は引用者の補足)
アンスコムの批判はここでも,因果説の教説の内容ではなく,方法についてのものだ.しかし,彼女のこうした批判は不可解なものに映るかもしれない.なぜなら,『インテンション』において彼女は「意図的行為をそうではない行為から区別するものはなにか?」と問い,この問に自ら「私が提示する答えは,意図的行為とは「なぜ?」という問のある特定の意味が適用可能な行為である,というものだ」(Intention, §5) と答えているからだ 1.であれば,出来事のクラスを制限することで意図的行為のクラスを取り出すという彼女が批判している当のことを彼女自身がしていることになりはしないか.
規準と徴候と呼ばれる区別がこの混乱を解消する.たとえば,気圧計の針が下がることは降雨に必然的に伴う現象であるが,それが天候を降雨たらしめているわけではない.気圧計の針を指で押し下げても雨が降るわけではないことからも,それは明らかであろう.降水量がゼロでないことは降雨の「規準」であるが,気圧計の針が下がることは降雨の「徴候」である.この区別を踏まえれば,アンスコムの主張を次のように整理することができる.アンスコムは意図的行為の徴候を提示している.だが,彼女の考えでは,行為とはそうした徴候があるが故に意図的となるようなものではない.すなわち,「なぜ?」という問が適用可能であるが故に,行為は意図的になるわけではない.多くの行為は意図的になされることも非意図的になされることもあるという事実に目を奪われることで「意図的だとか非意図的だと言えるような出来事はなんらかの自然なクラスであり「意図的」はそこに加わる性質であって,それを哲学者は説明しようとしなければならないと考えたくなる」(Intention, §47) 傾向が生じると彼女は言う.見落とされているのは,意図的行為として記述されることがなければ,非意図的行為として記述されることがありえない行為の存在だとアンスコムは言う.
たとえば,人の話を遮って話し始める癖を無自覚にもつジョン・ドゥは,つねに非意図的に人を怒らせているかもしれない.しかし,人を怒らせるという意図的行為の記述の形式が存在しなければ,ジョン・ドゥの行為は非意図的な行為としては記述されえない.コネクタに USB メモリを裏表逆に挿入するという行為は,大抵の場合は非意図的になされるが,この記述はコネクタに USB メモリを接続するという本質的に意図的な行為に依存する記述である.この他にも,電話する,署名する,契約する,結婚するといった行為は,意図的行為の記述の形式から独立に存在しえないと彼女は言う.
こうした行為の記述をアンスコムは「生命的記述 (vital description)」と呼ぶ (Intention, §47).生命的記述の存在が示唆しているのは,「意図的」という表現が,一部の出来事だけが持つ特別な性質ではなく,出来事の記述の形式を指示している,ということだ.意図的行為は出来事の一種であるのだが,それはミルクティーとレモンティーがともに紅茶の一種であるのと同じ意味においてではなく,発芽し樫の木となるドングリと腐敗したドングリがともに樫の木の種子と呼ばれるのと同じ意味においてである 2.ドングリが樫の木の種子であるのは,まさにそれが樫の木へと成長するからである.だが「樫の木となる」ことは特定のドングリだけが持つ付加的な特質なのではなく,ドングリについての記述形式である.それは腐敗して土へと還るドングリを記述する際にも前提されている.だからわれわれはドングリのことを種子と呼ぶのだ.
健康や成功や幸福といった人生の目的を求めてわれわれは挫折し続けている.求めても与えられないことは常であるから,さしあたり大抵の場合は思った通りのことを成し遂げているとは信じがたいかもしれない.だが,扉を開けようと思って開ける,一歩踏み出そうとして踏み出すといった「より直接的な仕方で記述された行ないが,当人の思っている通りでないということは必然的に稀な例外」(Intention, §48) なのである.であるからこそ,われわれは自分がなにをしているかを,それをしているが故に,知ることができる.「なぜ?」と訊かれて観察によらずに答えうるこの知識が意図的行為の記述の形式である.このように,知られる対象から得られる知識とは異なり「それによって理解される当のものの原因 (the cause of what it understands)」(Intention, §48) である知識を,トマス・アクィナスにならってアンスコムは「実践的知識」と呼ぶ.原因という言葉を作用因(行為の外的な原因)として解するなら,彼女が「身体運動+実践的知識=意図的行為」というウィトゲンシュタインの方程式の解を主張しているように思われるかもしれない.だが,実践的知識が意図的行為の記述の形式であることを考えれば,ここで言われている原因が作用因を意味しないことは明らかである 3.
あるものが当のそれであるだけでもつ形式のことを論理形式と呼ぼう.すると,実践的知識は意図的行為の論理形式である.なぜなら,行為者があるものについての実践的知識を持つだけで,そのあるものは意図的行為であるからだ.これは,意図的行為の論理形式の例化が意図的行為であるということに等しく,循環している.約束すること,署名すること,結婚すること,こうした例を確認すれば,循環はより明確になろう.これらの行為にとって不可欠であるのは,自分がそれをしていると知っていることである.約束とはそれが約束であると知りつつなされた行為であるという規定は,出来事の部分クラスへの制限とは異なり,循環している.もし,哲学的方法論として,必要十分条件による分析のみを認めるなら,循環はすべて悪循環である.
「国家の権威の源について」(1978) においてアンスコムは,約束や規則の定義は必ず循環を含み,なんらかの特徴によっては分析不可能であると主張し,権利や義務といった概念についても同様の分析不可能性を認める.
権利についても同様のこと〔権利の定義は権利への言及を必ず含むということ〕がもう少しあとで明らかになるだろう.一方,われわれは,権利のいかなる有効な定義も為し得ない,ということに注目してよい.しかし,定義は唯一の説明方式ではない.考慮すべきは様相である.(Anscombe 1978, 138 〔〕内は引用者の補足)
アンスコムは「〜しろ」という強制様相と「〜するな」という停止様相の矛盾対当から,約束や,約束がもたらす義務の「アリストテレス的必然性」を明らかにする.ある哲学的概念を別の——しかし内的関係にはある——哲学的概念によって説明するこの説明方式に対してアンスコムは名前を与えていないが,私はこれに「解明」という名前を与えようと思う.アンスコムのこの説明方式がどのような名前で呼ばれるかはさしあたり重要ではない.だが,『インテンション』がいかなる書物であるかは一言で表現できるようになる.すなわち,実践的知識による意図的行為の解明である,と.
以上の整理ではアンスコムとデイヴィドソンの対立点をウィトゲンシュタインの方程式に置いた.デイヴィドソンは行為を分析し,アンスコムは解明する.しかし,一般的には,両者は行為の因果説であるか反因果説であるかで対立していると理解されている.アンスコムの批判が因果説の教説それ自体についてのものではないことは既に見たが,アンスコムを理由と原因の峻別にコミットする反因果説の論者とみなす傾向は本邦ではとくに顕著である.本節では,アンスコムが「理由と原因の峻別」を受け容れているという点で「反因果説」と特徴付けられていることを確認する.
アンスコムが反因果説と呼ばれるようになった理由は二つ考えられる.第一に,デイヴィドソンが「行為・理由・原因」の注で「行為の理由は原因である」という主張を批判する論者として,アンスコムの名前を『インテンション』とともにあげていることにあるだろう.第二に,アンスコムがデイヴィドソンの因果説を批判していることにある.
まずは第二の点について考えよう.そもそも,ある立場を批判することに関して一致している人々が,なんらかの主張を支持することに関して一致しているとは限らない.たとえば,護憲派を批判する人は,憲法は廃すべきだと考えているかもしれないのだから,改憲を望んでいるとは限らない.改憲によって何らかの事態が改善するという前提を受け容れているという点で,そうした人は改憲派も批判するであろう.また,心の実在論を批判する人は,物の実在論者であるとは限らず,ただ心の反実在論を主張しているのかもしれない.因果説の主張を批判している論者をまとめて反因果説の論者と呼ぶときには,反因果説の論者であるとはどのような主張にコミットすることであるのかを明確化することが重要である.したがって,第一の点についての検討は,第二の点についての検討を兼ねることになる.
第一の点について考えよう.行為の因果説の主張は明確であるが,「反因果説」をどのような主張にコミットする立場として捉えるかは論者によって異なる.アルフレッド・ミーリーは因果説のアプローチに反対し,人間の行為は目的論的に説明されると考える立場を anticausalist teleologism と呼び,デイヴィドソンの挑戦を批判した幾人かの論者をこの立場に分類している (Mele 2003, 38).マリア・アルヴァレズは理由が行為を引き起こす心的実体であるという考えと,理由説明が因果的説明であるという考えの両方に反対する立場を anti-causalistと呼び,心的原因と心的理由は区別されるべきであるという主張にコミットしているという理由から,アンスコムをそのひとりとして数えている (Alvarez 2007, 103).ジュゼッピーナ・ドーロとコンスタンティン・サンディスはドレイとアンスコムを anti-causalism の論者として挙げ,両者の思想をコリングウッドとウィトゲンシュタインという異なる師の影響下にあるものとみなしつつも,思想の上での親近性を認めている (D’Oro & Sandis 2013).黒田亘は原因と理由の峻別をその主張とする反因果説には「長い伝統」があると述べ,歴史主義の運動や新カント派の科学論,ウェーバーの理解社会学など「説明」に対する「理解」というコントラストを採用する人々とアンスコムの連続性を強調する(黒田 1992, 53).
以上の特徴付けを総覧してわかるのは,「反因果説」の多義性である.「反因果説」の論者と呼ばれるのは,狭義には「行為・理由・原因」におけるデイヴィドソンの「行為の理由は原因である」という主張に反論する人々であり,広義には行為のもつ目的論的性格を強調し,非還元主義を採る人々である.既
に見たようにアンスコムはデイヴィドソンを批判してはいるが,理由の身分に関する彼の主張を批判しているわけではないから,前者の意味で「反因果説」であるわけではない.後者の特徴付けは「目的論」や「非還元主義」と区別できないほど緩いものであるため,この意味で誰かをあえて「反因果説」と呼ぶ意味はないだろう.アンスコムが「反因果説」と呼ばれるのはアルヴァレズや黒田に従えば,彼女が原因と理由は区別されるべきものであると考えているという点においてである.
黒田は反因果説の核心的主張を「原因と理由の峻別」と呼ぶ.「原因と理由の峻別」は因果説の「行為の理由はすべて原因である」という主張の否定として捉えられている.だが,この主張の単なる否定は多義的である.ある 𝑥 が行為の理由であることを 𝑅(𝑥),行為の原因であることを 𝐶(𝑥) と書くことにしよう.すると因果説の主張と,反因果説の主張はそれぞれ以下のように表現できる.
因果説:∀𝑥(𝑅(𝑥) → 𝐶(𝑥))
反因果説:∃𝑥(𝑅(𝑥) ∧ ¬𝐶(𝑥))
反因果説はどのような形態を取ろうとも,行為の理由ではあるが原因ではない事例が存在することを認めるものだ.「原因と理由の峻別」は論理的な可能性として,三つの解釈が可能である.(1) 原因でありかつ理由である事例は存在するが,両者は概念的に区別される.(2) 原因と理由は概念的に区別され,原因でありかつ理由である事例は存在しない. (3) 原因はすべて理由である.これらのうち (3) が「原因と理由の峻別」を意味しないのは明らかである.
検討すべきは,(1) と (2) の解釈だ.アンスコムが (2) の主張を受け容れないことは『インテンション』の次の記述から理解できる.
あるものがあることの理由であるのか,それとも原因であるのかはっきりとした区別ができない場合がしばしば存在する.なお,ここでいう原因とは「なにがその行為を導き,その行為をもたらしたのか」と行為者に訊ねる場合に求められているものだと説明してきたものである.さて,行為者に対して行為の理由が与えられ,彼がそれを受け容れるという場合には,理由と原因のはっきりとした区別はなりたたない.〔…〕このように,完全な区別が成り立つ場合を考察することは理由と原因の区別を把握するために必要である.ただ,(一般に言われている)理由と原因はどんな場合にでもはっきり区別された概念である,というのは正しくない.この点は心得ておく必要があろう.(Intention, §15)
原因と理由の区別が完全に成り立つ場合もあり,それは原因と理由の区別をわれわれが学ぶときには有用ではあるが,この区別がいかなる場合においても成り立つということはありえない.これがアンスコムの主張である.いかなる事例においても原因と理由の区別が成り立つことを認める (2) の主張をアンスコムは受け容れていない.したがって,(2) の意味での「原因と理由の峻別」を受け容れているという意味でアンスコムが反因果説の論者であることはない. ob
では,残る (1) の解釈を検討しよう.原因でありかつ理由である事例は存在するが,両者は概念的に区別される.この主張をアンスコムは受け容れているのだろうか.アルヴァレズも黒田も主に『インテンション』§§9-16 の「心的原因」に関する議論を根拠に,アンスコムを反因果説の論者だとみなしている.心的原因に関する議論を中心にこの問題を考えることにしよう.
まずは,心的原因に関する議論を概覧する.意図的行為とは自分が何をしているか知っている行為であるとアンスコムは述べる.さらにその知識は,観察によらずに知られるものでなければならない.この主張の意味するところは,第三節で確認した.しかし,観察によらずに知られるのは,自らの行為だけではない.窓に顔をみたと思い,跳び上がってしまった人をアンスコムは例として出している (Intention, §5).なぜ跳び上がったかと訊かれれば,この人は観察によらずにその答えを述べるだろう.そのとき記述されるものが心的原因である.心的原因は意識的であるという点で動機とは区別される.また,単に心的原因によって引き起こされたにすぎない行為は,意図的行為ではない.
心的原因をアンスコムが取り上げるのは,心的原因がそれ自体として重要だからではない.では,黒田が疑問を呈しているようにアンスコムは心的原因という「瑣末な概念になぜそれほど拘泥し,多くの議論を費やさねばならなかったのか」(黒田 1983, 215).黒田自身のウィトゲンシュタイン解釈がその答えを与えてくれる.「「原因」と「理由」の区別を行為の基礎仮定としたのはヴィトゲンシュタイン自身ではなく,その解釈者たちである.後期のヴィトゲンシュタインはしばしばこの区別に言及するが,彼はそれを治療的分析の手段として活用しただけである」(黒田 1973, 294).以上の黒田の所見は,ウィトゲンシュタインをアンスコムに置き換えても,概ね成り立つ 4.アンスコムにとって,心的原因と理由の区別をつけることは重要ではない.彼女が心的原因を取り上げるのは,それがヒューム的な原因観の反例となっているからである (Intention, §10).その原因観とは,原因は観察によって知られるが,行為の理由はそうではない,という第二節でみた反因果説の前提である.デイヴィドソンは,原因は観察によらずに知られることもあるという点を加えてこの前提に同意するが,アンスコムは観察によらずに知られる原因の存在を手がかりに,この前提を拒絶する.
因果性という話題はあまりにも大きな混乱の状態にあり,不意にびくりとするという事例〔心的原因の事例〕ではその「理由」とは原因なのだと言ってもほとんど啓発的ではないだろう.わかっているのは,これはわれわれが「原因」という言葉を使う一つの場面であるということだけである. (Intention, §5 強調原文〔〕内は引用者の補足)
心的原因の検討を通じてアンスコムが得た見解は次のようなものだ.事物の運動だけでなく,行為を説明するときにもわれわれは「原因」の概念を用いることがある.この「原因」の用法は行為の理由を説明する用法から区別できる.この見解が「行為の理由は原因ではない」という反因果説の見解,とりわけ反因果説の (1) の解釈と同一ではないことは,実践的知識が意図的行為の原因であると言われていたことの意味を考えれば,よりいっそう明らかになる.アンスコムの考えでは,理由による行為の説明も,実践的知識が出来事の記述の形式であることも,ともに因果的であるのだ.ただし,その因果性の理解がアンスコムと因果説では異なる.それ故にアンスコムの立場を「行為の理由は原因である」という因果説の主張の否定として捉えることはできない.彼女の批判はここでもその前提へと向けられている.
本稿はデイヴィドソンとアンスコムの対立軸を因果説と反因果説ではなく,ウィトゲンシュタインの方程式の採用と拒絶に置くことで,『インテンション』を解明の書物と読む方途を示した.併せて,アンスコムを「反因果説」と呼ぶ積極的な意義はないことを論証した.
1. 「(Anscombe 1963)」からの引用はセクション番号で行う.たとえば (Intention, §8) は
(Anscombe 1963, 13) を指す.
2. ある行為が本質的に生殖的であるとはどのようなことかを説明するアンスコム自身の例を借りた (Anscombe 1968, 85).この解釈は「形式 (form)」と「大抵の場合は (hōs epi to polu)」に関するマイケル・トンプソンの議論に多くを負っている (Thompson 2008).
3. 多くの解釈者はこの原因のあり方を「形相因」と呼ぶ(Hursthouse 2000, Stoutland
2011, 鴻 2017).
4. 黒田はハート&オノレの『法における因果』(1958) が『インテンション』と同じ「反因果説」の基本姿勢を共有していると書いている.だが,アンソニー・ケニーの伝えるところでは,アンスコムは本書を読むべき本としてケニーに与え,その理由をこの本の序文が「因果性についての現代の哲学的観念が完全に破綻していることを明晰にあらわしている」からだと述べたそうである (Kenny 2019).アンスコムが同じ基本姿勢を共有するはずの反因果説の論者と厳しく対立している理由は,アンスコムを反因果説とみなす理解からは明らかにならない.本論文は,現代の因果性理解に対するアンスコムの処方箋を処方箋として読むための,治療的読解である.
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