Inquiries into Philosophy
Online ISSN : 2759-6303
Print ISSN : 0916-2208
[title in Japanese]
[in Japanese]
Author information
RESEARCH REPORT / TECHNICAL REPORT FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

2021 Volume 2021 Issue 48 Pages 23-40

Details

田中 東子

複雑化する「女性」の問題,そしてフェミニズム

イギリスのフェミニスト・メディア研究者のロザリンド・ギルによれば,今日の女性たちは「多様な(新旧の)フェミニズムによって表面上は特徴づけられている,現在の文化的な瞬間の複雑な様相」(ギル 2020, 157)のなかを生きているという.

ギルの言う「複雑な様相」とは,主流メディアやポピュラー文化のなかであたかも新しい現象であるかのように見えているフェミニズムの(再)台頭であり,古いフェミニズム――サラ・アーメッドによって議論された「興ざめフェミニスト」(ギル 2020, 167;バネット=ワイザー2020, 225)――への拒否や嫌悪と,否定的なものとしてイメージを構築され続けてきた古いフェミニズムの,肯定的な再意味付けという両極端な事象の同時進行である.

もしくは,それは,2000 年代初頭に現れたバックラッシュ,そしてフェミニズムの(再)台頭への反発/反作用として生じている「ふたたび活力を得ている反フェミニズムやポピュラーなミソジニー」(ギル 2020, 157)による攻撃が入り乱れ,群雄割拠の様相を呈している今日のジェンダー問題のことを示しているかもしれない.

メディア研究者であるギルは,現在のフェミニズムの多くが,メディアやポピュラー文化の領域で顕在化され,可視化されている点に,特に注目する.そして,「新たなフェミニズムの可視性」(ギル 2020, 178)という概念を複雑なものとしてとらえ返すことによって,「メディアで流通しているフェミニズムのさまざまなヴァージョンの間にある緊張関係や矛盾」(前掲)を提示することを試みている.

海外での新たなフェミニズムの可視化を追いかけるかのように,日本におい

ても2010 年頃から,一時期は忌避すべき単語にさえなっていた「フェミニズム」に関わる言葉と現象が復活し,注目を集めるようになってきた.

一方でそれは,テレビドラマや映画,漫画やアニメなど,ポピュラー文化の表現の中に現れ,はっきりと「フェミニズム」を主題とした(もしくは「フェミニズム」であると明言してはいないものの暗示的にほのめかす)作品が公開されるようになり,日本社会においてもそうした作品が多くの支持を得られるようになった.2004 年から連載が始まり 2021 年に完結した男女逆転の設定を生かした『大奥』(よしながふみ著,白泉社)やテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(2016 年,野木亜紀子脚本,TBS)が話題になり,2017 年以降いくつもの文芸雑誌が女性とフェミニズムを特集して重版がかかるようになったことや,翻訳された韓国の小説『82 年生まれ,キム・ジヨン』(2018 年)のベストセラー化,ガールズバンドCHAI による「NEO かわいい」を軸にした『N.E.O.』

(2017 年)やラッパーのあっこゴリラのアルバム『GRRRLISM』(2018 年)のリリース(中條 2021),もしくは,男性中心主義が色濃く残るアート界において第四世代フェミニストを自称している明日少女隊(Tomorrow Girls Troop)の活動(竹田 2021)などを挙げることができるだろう.ここで言及しているものはかなり広い範囲で話題になったものだけであり,それぞれの分野やジャンル内をつぶさに見ていけば,「フェミニズム」/「フェミニズム的なもの」を主題とする作品と,それらを支持する人の数は膨大なものになるはずだ.

もしくは SNS の言論空間において,家庭や学校や職場で直面する様々なジェンダー不平等についてつぶやき,告発する人も目に付くようになってきた.こうした発言に対して,同様の経験をしている人々が「いいね」をクリックし,リツイートすることによって,それが支援の可視化とリクルートにつながるといった現象も頻繁にみられるようになった.さらには,政治家など社会的に地位が高く注目を集めやすい人々による女性差別発言を受けて,それらを撤回させようとするハッシュタグ・アクティヴィズムが沸き上がり,オンライン署名活動のサイトである「change.org」などを活用した抗議活動も繰り広げられ,アカデミズムによるフェミニズム研究や,直接面識のある人々による継続的な人間関係を軸に組織・運営される従来型の社会運動とは異なる,一時的で流動的であるかもしれないが,オンラインを起点とした,ゆるやかなつながりに基づ

く,さまざまな活動が展開されるようになった.

他方で,フェミニズムの可視化は,行政的な言葉遣いである「女性活躍」,

「輝く女性」や「男女共同参画」,そして女性を応援する言葉であると同時にネオリベラルなコノテーションをも同時にもちあわせた「エンパワメント」といった言葉とともに私たちの前に現れてもいる.

例えば,第2~4次安倍内閣(2012~2018 年)では,アベノミクスの「成長戦略」の軸として,2014 年 10 月に「すべての女性が輝く社会づくり」という取り組みを発表し,「女性の活躍を阻むあらゆる課題に挑戦し,「すべての女性が輝く社会」を実現」(首相官邸 HP)するために,就業支援および指導的地位に占める女性の割合の増加や,出産・育児による離職の減少を改善するための支援策などを中心に指針を定めた.それにともない,「様々な状況に置かれた女性が,自らの希望を実現して輝くことにより,我が国最大の潜在力である

「女性の力」が十分に発揮され,我が国社会の活性化につながる」(内閣官房 HP)ことを目的として,内閣府に「すべての女性が輝く社会づくり本部」が設置された.この組織は毎年,「女性活躍加速のための重点方針」を公開しているが,その 2019 年度版において,「女性活躍」は「生産性向上・経済成長」の切り札としてその重要性を語られている.

「女性活躍」というこの言葉は,一見したところ女性たちが社会的抑圧から解放され,自己決定でき,自己の人生を自由に選択し,自立した生を送ることを目的とするフェミニズムの目標に叶うものであると見えなくもないが,女性の活躍を経済成長としか結び付けようとしない言説は,多くの女性研究者によって批判されている.その主な論調は,ネオリベラリズムと手を結んだ日本政府が,経済成長という文脈のもとで女性を労働力や人的資本としてしか見なしていない点を批判するものである.

ネオリベ政権が「男女共同参画」を推進し,フェモクラット(フェミニスト・ビューロクラット)のパトロンになる傾向があることは,小泉,福田政権にも当てはまる.なぜなら経済合理性があるからだ.人口減少に苦しむ日本の経済にとっては,女性だけが最後の資源.(上野,2014)

政府,与党のいう「女性活躍」は,女性の人権からではなく,経済視点からの発想,というのが見え隠れしてますねん.先日も,超党派の議員連盟による女性議員を増やすための法案が自民党部会に示されたものの,異論が噴出したと報道されました.(谷口,2016)

こうした批判には,未だ有効な今日のフェミニズムの主張と,政治的・社会的・文化的なジェンダー不平等を放置したまま経済的な領域においてのみ女性たちを引き上げ,女性たちを新たな労働力として搾取しようとする,経済政策へと吸収されてしまったかつてのフェミニズムの残滓とを区別しようとする視線が内包されている.

このように,女性たちを使役しやすい労働力へと封じ込め,人的資本,もしくは商品のように見なし,資本主義経済発展に寄与するものとしてのみ女性たちの地位向上を称揚していくフェミニズムは,ロッテンバーグによって「ネオリベラル・フェミニズム」(Banet-Weiser, Gill, Rottenberg 2019)と呼ばれ,フェミニズムの理念のネオリベラリズムへの取り込みとして批判されている.

本稿ではギルに倣い,「フェミニズムの(再)台頭」としてメディアを通じて可視化され,ポピュラーなものとなり,流通しているフェミニズムのさまざまなヴァージョンを,日本社会で実際に起きている現象とも突き合わせ,その緊張関係や矛盾について考察していくことにする.

複雑な様相とはどのようなものであるのか?

ギルは,可視化された現代フェミニズムの様相を,以下の四つに分類している(ギル 2020, 162-169).本節では,その分類に照らし合わせて,日本社会における現在のフェミニズムの複雑な様相について見ていくことにする.

第一に,「ポピュラー・フェミニズム」である.これは,メディアにおいてフェミニズムの問題が可視化されるようになり,ますます注目が高められていく状況を示すカテゴリーである(ギル 2020,162).政治や経済の場におけるジェンダー不平等の問題,セレブリティによるフェミニズムへの賛意の表明,女性の表象についての論争,家庭や学校や労働の場で経験するセクシズムについ

ての指摘など,今日ではソーシャル・メディア上の言論空間での発言を通じて,フェミニズムに関するアジェンダがただちに明るみにだされ,ポピュラーなものとして私たちに認知されるようになっている.

ソーシャル・メディアによって媒介されたフェミニズムをめぐる女性たちの発話は,フィルターを通すことなく即時的に可視化され集積されていくことから,フェミニズムを表明する人の数を増殖させただけでなく,その内容の複雑さやまとまりのなさと,ポピュラー化とを引き起こすことになった.このようなポピュラー化の様相に注目しつつ,バネット=バイザーは,「アカデミックな飛び地やニッチな集団に限定されることなく誰にでもアクセス可能なもの」

(2020;213)になったと,今日のフェミニズムを位置づけている.

フェミニズムのポピュラー化によって明らかにされたのは,個々の女性たちの経験に関する発言の複雑さである(バジェオン 2020,169).女性の生き方がより均質的に抑圧されていた過去の時代と比べて,今日の女性たちは一見,さまざまな選択の自由を与えられ,「自助」やそれぞれの「努力」の程度に応じて,異なる経験を享受しているようになる.例えば,より高等な教育機関に進学する/しない,仕事を続ける/続けない,正規雇用者となる/非正規雇用者となる,結婚する/しない,子供を産む/産まない,都会や都市に住む/地方や農村に住む,といった様々な「選択」――当然のことながらすべてが自由意志の下に選択できるものでは決してないのであるが――の道をたどる中で,女性たちの生きられた経験は分岐し,細分化され,不均質な抑圧状態の下にあるそれぞれの社会的地位と相まって,女性たちの声は不協和音のように響き渡るようになる.

その結果,「ひとり一派」なるネット・スラングが頻繁に用いられるようになるほど,フェミニズムに関する発言は断片化され,分散していくことになった.透過する光を屈折させ散乱させてしまうプリズムのようなものと化した今日のフェミニズムは,調和することを求め,ひとつにまとめようとするならば,女性たちそれぞれの生を暴力的な形で一つに圧縮し,還元してしまうという結果になりかねないのである.しかし,生きられた経験の細分化や複雑化を認めた上で,次に生じるのは,私たちはどうすれば個々の経験の多様性を維持したまま連帯できるのか,という課題である.

ギルによる第二のカテゴリーは,「企業フェミニズム/ネオリベラル・フェミニズム」である.これは,企業活動や経済政策へと吸収されたフェミニズムであり,メディアを媒介することで可視化され注目を集めるようになった現代フェミニズムの多くの現象が,このカテゴリーに含まれるようになったと考えられる.ギルによるとこれは,

『リーン・イン』,『なぜ女は男のように自信をもてないのか』のような現代の中心的なフェミニズム的なテクストは,(…)フェミニズムという領野への,企業というアクターの侵入も表している(…)資本主義,そしてほかの(階級的,人種的,そしてトランスナショナルな)不公正のシステムに対して批判的というよりはそれと共犯的な,個人主義的で起業家的なイデオロギーの唱道者となっている.これらの著作は,キャサリン・ロッテンバーグとサラ・ファリスが(…)フェミニズムの「右化」と呼んでいるものの一部を代表している.(ギル 2020, 165)

日本においても,『日経 woman』のような雑誌の特集記事の内容や,高学歴女性による社会的成功へのメディアの注目とそれを称揚するさまざまな記事(その典型的なものは,「仕事も家庭も子供も」すべてを手に入れた女性というストーリーに沿って展開される),働く女性に向けて刊行される自己啓発本,企業広告や女性向けの主力商品としてフェミニズムの利用がますます増えつつあるなかで,「企業フェミニズム/ネオリベラル・フェミニズム」から身を引きはがしてフェミニズムを主張することはますます困難になりつつある.

経済活動と絡まりあったフェミニズムは,一方では「フェミニズム」の人気や可視性の向上,認知の高まりといった歓迎すべきものとして好意的に捉えることができるかもしれない.しかし,複数のフェミニズムの研究者によって指摘されているように(McRobbie 2004:2009, Harris 2004, Gill 2007),それは好意的に捉えられると同時に,「フェミニズム」によって理想とされる「自己決定でき,しなやかで,フレキシブル」(Harris 2004, 6)であることが良きものとされる自立した女性ばかりが注目を集め,もしくはそのような存在であることが

良いとされ,さらにいっそう商業的に利用されていく循環経路をたどるという意味において,問題含みの現象にもなっている.

マクロビーが述べているように,実際に今日の女性たちは「自己の生産という活動に積極的に参加させられ,自分自身へのジャッジを厳しくしなければならない(…)商業的な領域は,若い女性たちへの直接の呼びかけを激増させていて,その呼びかけを拒絶するか,それに応えきれない女性たちには厳しいペナルティが待ち受けている」(McRobbie 2009, 60)という権力の地場へと誘導されている.このような自分自身への厳しいジャッジの空間は,女性たちに,学歴や能力を遺憾なく発揮しつつも美容やファッションの領域においてはより感じよく魅力的であることを求めると同時に,主流メディアやオンライン空間での発言や労働の場においては男性にとって脅威にならないようなほどほどのふるまい方ができ,男性中心の組織から排除されることなく栄達できるような,カナイの指摘する「社会的に評価されるタイプの女らしさ」(Kanai 2016, 18-19, Bannet-Weiser 2018 より引用)をますます女性たちに強いるようになる.これはまさに,元東京五輪組織委員長の森喜朗がその「見事な」語彙力で表現した「わきまえた」女性として生きることを女性たちに要請する態度と共振している.主体的に生き,夢や理想を叶え,独立と自己実現を達成することを積極的に 求められる――つまりは成功し,輝くことを強いられる女性たちは,自分自身のイメージと見え方をつねに気にかけ,「自己プロデュース」のスキルを駆使して自分自身を生産し,アップデートし続けなければならない.その結果,現代の若い女性の多くは,ますます新しいテクノロジーを使いながら自分自身をスペクタクルな商品として展示し,フェミニズムへの「企業というアクターの侵入」に依存することで,「自己決定でき,しなやかで,フレキシブル」なアイデンティティを誇示することなしには主体的に生きていくことのできない状況へとおいやられている.このような,つねに成功のイメージと結びつけられた「女らしさ」の再生産という回路から,いかに身を引きはがしながらジェンダー平等の達成に向かうことができるのか,これもまた今日のフェミニズムの

重要なテーマである.

第三のカテゴリーは,「セレブリティ・フェミニズム/スタイル・フェミニズム」である.これは,英語圏では UN Women によって始められた HeForHer キ

ャンペーンの推進役となり,その前後からフェミニズムに賛同する発言を行っているエマ・ワトソン,その他にもビヨンセ,テイラー・スィフト,マイリー・サイラス,ジェニファー・ローレンスや,日本においても『女になる方法―ロックンロールな 13 歳のフェミニスト成長記―』(2018 年,北村紗衣訳,青土社)が刊行されているキャトリン・モランなどがその代表として挙げられるカテゴリーである(Rivers 2017, 58).ギルによると,

メディアの風景の中でもうひとつ可視的なのは,ある種のセレブリティとスタイルの政治であり(…)「フェミニズムの」クール化とでも呼べるものが,メディアと,より広くセレブリティ文化の全体に広まっているのだ

(…)それは現代のある種の「スタイリッシュ」なフェミニズム(ギル,2020, 166)

である.これは,1990 年代から 2000 年代にかけてフェミニズムに与えられ続けてきたフェミニズムの「感じの悪さ」から距離をとり,もしくはフェミニズムが企業活動に吸収されていくにつれて徐々にフレンドリーなものと化すことが必然視されるなか,「感じのいいフェミニズム」(田中 2020)ばかりが受け入れられていくようになる土壌において,ますます脚光を浴びるようになっている.

フェミニズムをめぐる「感じのいいフェミニズム」と,それとは対称的な位置に置かれる「感じのわるいフェミニズム」は,次節でも見ていくとおり,今日のフェミニズムについて考えていくときに鍵になると考えられる.この現象は,1970~80 年代に隆盛した第二波フェミニズムの担い手たちの,社会における表象の問題と深くかかわっている.日本に限らず欧米社会においても第二波のフェミニズムは,歴史的にメディアにおいて「怒り,反抗心,男嫌いな女性たち」(バネット=ワイザー2020, 225)として可視化され,表象されてきた.もしくは,ロクサーヌ・ゲイが描いているように「怒りっぽい,セックス嫌いの,男嫌いの,被害者意識でいっぱいの気取り屋」(ゲイ 2017, 11)であるという,主にメディアにおける表象によってステレオタイプ化された決めつけである.

こうした「感じのわるい」フェミニズムへの忌避と,それとは距離をとりたいという感覚が,90 年代から 2000 年代にかけて,社会的に埋め込まれた女性の不平等という問題に関心を持つ人々にさえ「私はフェミニストではありません」と言わせるダークなエネルギーになってきた.また,女性たちが社会構造のなかで単に中心から排斥され,抑圧されているだけではなく,むしろ包摂されながらも抑圧されているという「ポストフェミニズム」(McRobbie 2009)という今日のジェンダー体制――これは,女性としての生き方の解放と同時に資本主義への自己の従属化という抑圧をもたらす,矛盾し,二重にもつれたジェンダー体制である――の下に置かれているということもまた,女性たちが「感じのよさ」を求める背景にある.

確かに,フェミニズムを忌避しようとする私たちの社会に向けて「フェミニズム」を浸透させようとするためには,美しい容姿や感じの良さを伴い,場をしらけさせるような発言をすることなくジェンダー平等について語ることのできる「セレブリティ・フェミニズム」のようなものは,重要な戦略のひとつになるのかもしれない.

日本においては,英語圏のような「セレブリティ」に対応する人物を見出すことは難しいかもしれないが,それでも,俳優やタレントなど芸能関係の人々,作家や有名ライターなど自分自身の名前とともに仕事を行っている,ある程度の有名性を獲得した人々,アスリートや弁護士,新聞記者や大学の教員など専門性が高く,各種メディアでの発言の機会を得やすい職業に就いている人など,限られた範囲であるとはいえ社会的になんらかの影響力を行使できる人々による感じのよさを伴ったフェミニズムへの賛意の表明は,ここ数年,増加傾向にある.

有名性を獲得したセレブリティによるフェミニズムへの賛同は,もちろん一般の人たちの注目を呼び込み,メディアのスポットライトを集め,それが重要なアジェンダであるということを人々に知らしめることにつながるという点ではフェミニズムを喧伝する重要な要因となっている1.しかし,セレブリティにばかり視線が集中することは,結局,フェミニズムが「成功した女性性」(バジェオン 2020)と結びつけられていく力を強めることにもなる.

これら,メディア言説や,SNS などでポピュラーに議論され,スポットライ

トを浴びることで可視化される社会現象がある一方で,スポットライトを浴びないことで,今日のフェミニズムの複雑さを示す現象もある.慰安婦問題,人種差別とクロスする形での女性差別の問題,テレビのバラエティやウェブ記事などで見世物化されることはない代わりに不可視化されてしまっているより広範な女性の貧困問題など.メディア文化やポピュラー文化と相性の悪い現象が,今日のフェミニズムの対象から除外されやすい点については,今後検証していく必要があるだろう.

可視化されたフェミニズムをめぐるこのような現象を受けて,ギルは第四に,

「フェミニスト・アクティヴィズム」を挙げている.これは,

さまざまな形態の,萌芽的または進行中のフェミニスト・アクティヴィズム――エコ・フェミニズムから,社会主義フェミニズムの反緊縮アクティヴィズム,移民の強制送還反対運動,セックス・ワーカーのアクティヴィズム,クィアとトランスの取り組みにいたるまでと,そのほか多く――が現代において流通していることは,(ソーシャル・メディアを除いては)比較的に限定的な報道しか生み出してはいない.(ギル 2020, 164)

ということである.ギルが指摘しているように,フェミニズムをめぐる「アクティヴィズム」については,限定的な報道しか生み出されていない.確かに,

「見世物的な」抵抗や第三世界の運動についてはニュース価値があるとされ,可視化されやすいものの,国内の運動や国内の男性たちの権威を傷つけるようなフェミニズムの活動にメディアのスペースが割かれることはほぼない(164).日本において,「デモ」や「抗議行動」などフェミニズムに関するアクティヴィズムを報道しようとする際に,新聞社やテレビ局内で編集権をもつ男性上司を説得し,記事を掲載するためのスペースを確保することがいかに困難であるかというエピソードを,女性記者へのインタビュー調査では必ず聞くことができる2.ただし,運動の担い手が若い女性(日本においては,例えば「女子大生」が主体の運動であるような場合)などには,途端にニュース価値をもつと考えられ,報道されやすくなる傾向がある.

フレームに入れる/入れない,フレーム内での意味付けの方法については,

可視性をめぐる権力の磁場の問題として,今後継続的に検討していく必要がある.この第四のカテゴリーは,その際に「萌芽的または進行中」のものとして,今後ますます重要になってくるだろう.

ともあれ,本稿では引き続き,フェミニズムの複雑さを示す事例をもとに考察を進めていく.

複雑さをどのように読み解くのか?

メディアによるスポットライトの下で展開される現在のフェミニズムの複雑さを象徴的に示す事例として,ここで,「#国際女性デー2020」,「#メディアもつながる」というハッシュタグを添えて 2020 年3月に展開されたメディア連携プロジェクトについて見ていくことにする.

これは,3 月 8 日の国際女性デーに向けて,全国紙と地方紙,テレビ局,ウェブジャーナルなど10 社以上のメディアによって連携的に行われたプロジェクトと,そのステートメントおよび関係者の SNS 上での投稿と,それへの反応をめぐる一連の論争から成り立っている.このプロジェクトは,長年,新聞やテレビやウェブなど,さまざまな媒体によるジャーナリズムで記者として働き,女性の問題を記事にしてきた(もしくは記事にすることを阻まれてきた)メディア企業で働く女性たちを中心に企画されたものである.現時点ではまだ,当事者の女性たちへのインタビュー調査の途中であるため,本稿では当事者の言葉を用いて分析することは控え,主に Twitter や note などのソーシャル・メディア・プラットフォーム上で一般に向けて公開された情報のみに言及しながら,論を進めていくことにする.

このプロジェクトは,国際女性デーの象徴ともいえるミモザの花をモチーフにした「Twitter カード」へのステートメントを,連携各メディアが 3 月 1 日に一斉に公開するということから始まった.活動の中心となったのは,新聞労連

(日本新聞労働組合連合)の中心にいた女性記者たちのグループと,新聞・テレビ・ウェブジャーナルなどの媒体を通じて積極的にジェンダーやフェミニズム関連の記事を出稿してきた女性ジャーナリストたちのグループである.二つのグループは,一部メンバーを重複させつつ,メッセンジャーのグループ機能を

使って調整と準備を重ねた.カードに書かれたステートメントは,以下の通りである.

“202030”

…2020 年までに,リーダー層の女性を少なくとも 30%に.

政府が目標に掲げた 2020 年を

迎えたいま,現実はどうでしょうか?誰もが性別に関係なく尊重され,

自由に生きられるように.

そんなバトンを未来につなげるように.

私たちはメディアの枠を超えて,手を取り合います.

#国際女性デー2020 #メディアもつながる

2003 年に政府が「20 年までに指導的地位の女性比率を 30%に」と掲げていたにもかかわらず,まったく目標に到達することなく先送りされた「202030」という数字を問いただすことをきっかけにジェンダー平等を訴えることを目的としたこのステートメントは,しかし,公開直後にプロジェクトの推進メンバーの想定していなかった点から,Twitter 上で批判を受けた.

「誰もが性別に関係なく尊重され」の部分が,「国際女性デー」にそぐわないというのが,その批判のポイントであった.女性のための日であるからには,尊重される対象を「誰もが」と広げるのではなく,「女性が」尊重されることを主張するべきであるという意見が,少なからず投稿された.ステートメントを作成したメディア連携プロジェクトの企画者たちの意識の中で,この「誰もが性別に関係なく尊重され」という文言は,ベル・フックスの名著『フェミニズムはみんなのもの』に示されているような,女性差別の問題を女性だけで問うのではなく,耳を傾けてくれる男性たちにも開き,手を取り合って解決していこうとする姿勢の表明であることは容易に読み取れる.実際,批判する側にも,企画した人々の意図を好意的に読み取り,その上でしかし,女性デーに向けた企画なのだから,「誰もが」とするのではなく「女性が」と書くべきであ

ったという意見もあった.

こうした批判の妥当性を測ることは難しいが,しかしこのステートメントにおける「誰もが」という表現が,「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切だ)」に対抗して白人至上主義者たちが「オール・ライブズ・マター(あらゆる人の命は大切だ)」という言葉を掲げることで,人種差別の対象とされたエスニシティ集団を透明化しようとする方法に,似通っているように見えてしまったことは否めない.

このステートメントへの言及だけであったならば,この「#国際女性デー2020」のメディア連携プロジェクトはこれ以上の批判を浴びることはなく,それなりに注目を集め,滞りなく展開されていったはずである.ところが,3 月 3 日に第二の矢が放たれた.この連携プロジェクトに参加していたTBS の女性記者が,この企画に参加する心意気について,TBS note に以下の文章を掲載したのである.

社歴は 20 年を超えた.スーツを着れば,圧がかかる.何気ない一言にも,後輩にびくっとされる.そんな私がジェンダーを語ったら,バリバリのフェミニストに見えるだろう,少なくとも会社では.ああ,ついに私もそうなったか.なりたくなかったあれに.いやいや,ちょっと違うんです,違うんだなー.そもそもこれまでの「フェミニスト」って何?男社会に対し,異を唱え,論破して,傷ついても立ち直る人?とてもじゃないけど,私はそうはなれない.体力も,気力も持たない.私がなりたいのは,男社会のテレビ局の報道フロアの中にあって,男性目線のニュースばっかり出していたら,本当にダサいし,視聴者から離れていくから,「ニュースの幅を広げましょう」「多様なニュースを出していきましょう」と呼びかける存在.その存在にまだ名前はついていないんだけど.(https://note.com/tbsnews,ただし現在は削除されている)

この文章を解釈する前に,公開後の経緯について先に説明する.この文章が公開されると,Twitter 上では瞬く間に批判の声が広がり,普段からフェミニズムに寄り添う形で投稿している人たち(その中には,この連携企画に参加を表

明している企業に所属するジャーナリストも含まれていた)による,TBS 報道部で働くこの女性の発言への批判に留まらず,この連携企画自体を批判する投稿も現れた.

問題だったのは,女性のための連帯を唱える企画に参加しているテレビ局勤務の女性が,「ああ,ついに私もそうなったか.なりたくなかったあれに」と書いたこと,つまりは「フェミニスト」に彼女自身がなってしまったと周囲に思われていることを自虐的に描いているとみせかけながら,「フェミニスト」であることと距離をとろうとする態度が,メディア企業による「フェミニズムの理念の侮辱と搾取的利用」として掲示されてしまったという点である.

外部の人間には,この企画の中心人物が誰で,中心企業がどこであるのか判然としないまま,TBS note を批判する意見の投稿において,この記事を書いた女性の言葉が連携プロジェクト全体の主張であるかのようにすり替わって議論が進展していく面もあった.さらに,この文章から派生した「#なりたくなかったあれは私だ」というハッシュタグを使って,フェミニストである自己の生きざまを肯定し,長くフェミニズムが停滞していた時期にその主張を背負いつづけてくれた女性たちへの称賛,TBS の女性記者を批判した人たちを支援する投稿などが短時間のうちに広がった.この炎上に対し,連携プロジェクトを代表してただちに説明や擁護を行う人物は現れず,翌 4 日になるとプロジェクトに関係しているメンバーが少しずつ,批判の中心にいた女性ジャーナリストの投稿への間接的な応答と見えるような返信をいくつか Twitter 上に投稿し始めた.さらに,プロジェクトの主旨や中心メンバーの意図を説明する投稿への賛同と批判の声が寄せられるという形で,その後もしばらくプロジェクトの是非を問う声は続いたが,この出来事は現在まで,論争に関係した人々の間で検証されることはなく,ネットの広大な言論空間を漂うまま捨て置かれている.

上に引用した TBS note への書き込みの文言からは,いくつかのことが読み取れる.まず,この発言には,女性たちと共同で声を挙げることができることへの喜びと興奮と衒いのようなものが同時に現れている.次に,「フェミニストになる」ということが,テレビ局内においては「なりたくなかったあれ」と称されるような否定的な存在になることと同意であるらしいということ.最後に,この発話者の内には,「なりたくなかったあれ」である「フェミニスト」を,

テレビ局内の他の人たち(おそらくその多くは男性であるだろう)と同様のモードで嘲笑う感覚を共有する部分と,「なりたくなかったあれ」(最近のはやり言葉を使うならば「わきまえない女」になるだろうか)を,「男社会に対し,異を唱え,論破して,傷ついても立ち直る人」と定義し,はっきりと意見を言い権利を主張する,自分にはとてもできそうもないことを実行している人たちであるとして,肯定的に評価する部分とが,共存しているということである.

ここには,二つの意識の対立が浮かび上がる.

一方には,90 年代以降,フェミニズムの恩恵を受けながらも男性中心の社会で自分自身のキャリアを確保するためにそれを否認してきた,「ポストフェミニスト」的な女性たちによる,「フェミニズム」は必要であるが同化したくはない,という意識がある.これは,「感じのよさ」が生き延びるために必須条件となっている女性たち,もしくは「感じのよさ」が仕事を続けていく上で必須の手段となる女性たちにとっては,簡単に切り離すことのできない身体技法のようなものとなっている.

他方には,現在もなお続く性差別に直面している女性たちによる,「フェミニズム」への好意的な評価と,積極的に「フェミニスト」になろうとする意識がある.こちらは,フェミニズムがポピュラリティを獲得しつつある 2010 年代後半に,より怒りを露わにし,感じの悪さやわきまえのなさを示すことを評価するようになった女性たち,と言い換えることもできるかもしれない.ただし,怒りを露わにし,わきまえのなさを示すための空間であるソーシャル・メディアがアテンション・エコノミーやコミュニケーション資本主義といった外的要因に支えられているという点については注意しておく必要がある.

両者は,オンライン上で別々の発話者として出会うことで,「対立」しているかのように見えてしまった.しかし,TBS note に書き込まれた言葉と,プロジェクトに対する批判からは,これらの意識が社会全体に構造的に広がるものであると同時に,一人の女性の身の内にも同時に存在しているのだということを読み取ることができる.U 字型の磁石の両端のように現れる二重の意識をどのように言語化し,どのように対峙していくのか――それが、今日のフェミニズム現象を読み解く際に、重要な鍵となるかもしれない.

1. 「セレブリティ・フェミニズム」とは対称的な形象でありながら脚光を浴びているのが,貧困女性の見世物化という現象である.これは,マクロビー(2020)が,貧困女性を侮辱的に見世物化した英国の「リアリティ TV」の番組分析の中で行っているように,日本においても特にウェブの記事などに顕在している.日本の場合,貧困女性の生活と経験が,風俗産業への参入の記録としてポルノグラフィ的読み物として(一見したところドキュメンタリー調でポルノグラフィであるとは表明されないまま)提示されることが多い.これは,ただでさえメディアによってスポットライトを浴びることの少ない貧困女性が,メディアにおいてイメージを形成されていく際に,特定の方向でのステレオタイプ化をされていく問題を指摘するという意味で重要である.

2. インタビュー調査については二種類の方法で行っている.第一の方法は,筆者にフェミニズムやジェンダーの問題について取材を申し込んできた新聞社,テレビ局,ウェブジャーナルの女性記者たちに,短い時間ではあるが,その記事を掲載するに至るまでに(主に男性の)上司やデスクとどのような交渉を行い,周囲からの圧力のある中でどのように記事の掲載を承認させたかについて逆インタビューを行うというものである.第二の方法は,長期にわたってマスメディアの中で女性関連の記事を書き続けてきた女性記者たちに,長時間のライフヒストリーも含めたインタビュー調査を行うというものである.これらの調査結果については,稿を改めて執筆する予定である.

参考文献

Banet-Weiser, S. (2018). Empowered: Popular Feminism and Popular Misogyny, Duke University Press(「エンパワード:イントロダクション」,田中東子訳,早稲田文学会編,『早稲田文学』2020 年夏号,212-252 頁).

Banet-Weiser, S., Gill, R., and Rottenberg, C. (2019). "Postfeminism, popular feminism and neoliberal feminism? Sarah Banet-Weiser, Rosalind Gill, Catherine Rottenberg in conversation" in Feminist Theory, 21(1), pp.1-22, Sage.

Budgeon, S. (2011) “The Contradictions of Succcessful Femininity: Third-Wave Feminism, Postfeminism and ‘New’ Femininities” in Rosalind GillChristina Scharff (eds.) New Femininities: Postfeminism, Neoliberalism and Subjectivity, Palgrave, pp.279-292(バジェオン,シェリー (2020)「成功した女性性の矛盾―

第三波フェミニズム、ポストフェミニズム、そしてさまざまな「新しい」女性性」芦部

美和子訳,『現代思想』48(4), 青土社,169-183 頁)

中條千晴(2021)「ジェンダーの視点からポピュラー音楽を読み解く」,田中東子編

『ガールズ・メディア・スタディーズ』北樹出版,31-45 頁.ゲイ,ロクサーヌ(2017)『バッド・フェミニスト』亜紀書房

Gill, R. (2007). “Postfeminist media culture: Elements of a sensibility”, in European Journal of Cultural Studies, 10(2), pp.147-166.

——— (2016), “Post-postfeminism: new feminist visibilities in postfeminist times”,

Feminist Media Studies, Vol.16, No.4. (「ポスト・ポストフェミニズムなのか?——ポストフェミニズム時代におけるフェミニズムの新たな可能性」,河野真太郎訳,早稲田文学会編, 『早稲田文学』2020 年春号, 156-183 頁).

Harris, A. (2004). Future Girl: Young Women in the Twenty-First Century, Routledge.

ハフポスト日本版編集部(2020 年 03 月 01 日)「「#手を取り合おう」 国際女性デーで,10 社以上のメディアが連携します」(最終アクセス 2020/12/10) https:// www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e5b410ec5b6010221120470

McRobbie, A. (2004). “Post-feminism and Popular Culture”, in Feminist Media Studies, 4(3), pp.255-264.

——— (2009). The Aftermath of Feminism: Gender, Culture and Social Change, Sage.

(アンジェラ・マクロビー「フェミニズムの余波 イントロダクション:フェミニズムと引き換えに」,菊地夏野・黒岩裕市訳,早稲田文学会編,『早稲田文学』2019年冬号,142-151 頁).

——— (2020). Feminism and the Politics of Resilience : Essays on Gender, Media and the end of Welfare, Polity Press.

Rivers, N. (2017). Postfeminism(s) and the Arrival of the Fourth Wave――Turning Tides, Palgrave Macmillan.

竹田恵子(2021)「ジェンダー・トラブル・イン・アートワールド」,田中東子編『ガールズ・メディア・スタディーズ』北樹出版,118-129 頁.

田中東子(2020)「感じのいいフェミニズム? : ポピュラーなものをめぐる,わたしたちの両義性」,『現代思想』48(4), 青土社,26-33 頁.

谷口真由美(2016)「論点 消費増税 再び延期「14 年衆院選なんやった」,『毎日新聞』2016 年 6 月 1 日朝刊 12 版.

上野千鶴子(2014)「安倍政権の女性施策は勘違いばかり ―女性に不利な働き方のルールを変更せよ」,WEBRONZA(最終アクセス 2016/4/15) http://webronza.asahi.com/journalism/articles/2014121000001.html

首相官邸ホームページ(https:// www.kantei.go.jp/jp/headline/josei_link.html,最終アクセス 2020/12/10)

内閣官房ホームページ(https:// www.cas.go.jp/jp/seisaku/kagayakujosei/index.html,最終アクセス 2020/12/10)

 
© The Japan Forum for Young Philosophers
feedback
Top