Inquiries into Philosophy
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2021 Volume 2021 Issue 48 Pages 93-115

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ドナルド・デイヴィドソンとプラトンのソクラテス:対話とその目的

田村 宜義

はじめに

対話の目的とそれによって獲得されるものとは何か.本論文の狙いは,この問いを,ドナルド・デイヴィドソンのプラトン解釈論文を出発点とし,それをプラトン対話篇から再解釈し,発展させることにある.

デイヴィドソンの博士論文は,『プラトンのピレボス』(1949 年)である.それから 35 年ほど,プラトンそのものをテーマにした論文を彼が書くことはなかった.だが,1983 年にグレゴリー・ヴラストスが発表した「ソクラテスのエレンコス」をきっかけに,再度デイヴィドソンはプラトンに帰ってくる.1985年「プラトンの哲学者」,1992 年「ソクラテスの真理概念」,1994 年「弁証と対話」1997 年「ガダマーとプラトンの『ピレボス』」と短い期間で,プラトンについて,とりわけ,ヴラストスが提唱したソクラテスのエレンコスについての論文が執筆されている.これらのうち「弁証と対話」において,デイヴィドソンは,「正義」「美」「真理」「徳」「知識」といったプラトン対話篇において馴染み深い語の定義について,こうした概念が私たちの思考の土台を形成しているということが明らかだとしても,それらを幾度となく掘り下げようとすること,つまり,それらを定義することは(循環論法を除いて)不可能であり,間違いであるとする.これはプラトン対話篇におけるソクラテスの対話的営みとは衝突するように思われる.なぜなら,「正義」などの概念を定義づけることがデイヴィドソンの述べるようなものだとすれば,ソクラテスが行なっている対話の目的は,言語を介して他者と特定の知識についての定義を形成することではなくなり,何のために対話をしているのかが不明確になるからである.

本論文では,この衝突をいかにしてプラトン対話篇が乗り越えられるかを考える.最終的には,デイヴィドソンのプラトン解釈は,ある一面では的確であ

り,もう一面では早合点であるということを示す.そして,その結果として,プラトンのソクラテスは,何か 1 つしかない動かぬ真理を,ただ闇雲に探求していたのではなく,ある認識論的な構造及びその限界を理解した上で,探求を続けていたはずだということを述べたい.

そのために,まず,2 章では,デイヴィドソンのプラトン解釈,その中でも,とりわけ,ヴラストスが提唱したソクラテスのエレンコスに関する論文について見ていく.そして,3 章では,2 章で論じたことのうち,デイヴィドソンのプラトン解釈として典拠が不十分かもしれないものについて,プラトン対話篇から典拠づけを行う.最後に,4 章では,それまでの章を踏まえた上で,プラトンが理解していたであろう認識論的構造を示すことで,デイヴィドソンのプラトン解釈がある意味で早合点をしているということを示す.

デイヴィドソンのプラトン解釈: ソクラテスのエレンコスについて

本章では,デイヴィドソンのプラトン解釈,とりわけ,ヴラストスが提唱したソクラテスのエレンコスについての解釈を扱う.そのために,まず,2-1 においては,デイヴィドソンのエレンコス解釈は,オリジナルであるヴラストスのエレンコスとは,どのように異なるのかを見ていきたい.そして,2-2 においては,なぜソクラテスは対話をする際にエレンコスという対話法を用いたのか,というデイヴィドソンが提唱した問いを彼の論文に則った形で吟味したい.最後に,2-3 においては,2-2 までで明確となったデイヴィドソン流のエレンコスとそれを用いての対話からはどのようなものが生み出されるのかを論じる.

2-1. デイヴィドソンとヴラストスのエレンコス

デイヴィドソンをプラトンへと回帰させた,ヴラストスのエレンコスとはそもそもどのようなものなのか.ヴラストスによればエレンコスの定義とは以下のものを指す.

  1.   

    対話相手がある命題 p を強く主張する.それをソクラテスは偽である

と考え,反駁対象とする.

  1. 2.  

    ソクラテスはその他にさまざまな前提についての同意をとりつける.例えば,q や r といったものである(これらは複数の命題の連言を表していてもよい).その同意はその場限りのものである.つまり,ソクラテスは q と r から議論を始めるのであって,それらを目的として議論をするのではない.

  2. 3.  

    それからソクラテスは,q と r が非 p を必然的に含んでいることを論じ,対話相手はそれに同意する.

  3. 4.  

    それゆえソクラテスは,非 p が真であって,p は偽であると示されたと主張する.(Vlastos 1994 p. 11)

ヴラストスもデイヴィドソンも述べていることだが,これだけではエレンコスには,ある命題の集合には互いに矛盾するような命題が含まれていて,それを取り除くことができるという機能しか持っていないことがわかる.つまり,エレンコスは,命題の集まりを無矛盾へと導く方法論でしかない.これは,プラトンのソクラテスが,真理の整合説に基づいて対話を行っていたと考えられる事例だとしても良いかもしれない.だが,これだけでは,対話相手が持っている信念群が矛盾したものである,という結論が出されて終わりである.それでも,ソクラテスは一歩先へと進んでいるように思われる.それは,一方で非 p が真であるとわかり,他方で p が偽であるとわかったのだから,最初の対話相手が持っていた命題p を棄却するように,その対話相手に迫るところである.集合に属する各命題が矛盾しているとわかったからといって,なぜそのうちの一つを特定して,それを捨て去れなどと言えるのだろうか.エレンコスを用いたとしても,命題の集合には何らかの矛盾があることまでしかわからないはずである.そして,それは,たまたま q と r という元の命題 p とは演繹的には無関係なもの(論理的必然性がないもの)を持ち出して証明されたことである.なぜソクラテスの対話相手は,前提や結論の方がおかしいのだと言わずに,自分が元から持っている命題(信念)を最終的に捨て去らなければならないのか.その回答の道具立てとして,ソクラテスが次のような想定を持っていたのだ

とヴラストスは述べる.

前提 A: 偽なる道徳的信念を持っている人は誰であれ,つねに,その偽なる信念の否定を必然的に含むようないくつかの真なる信念を同時に持っている.(Vlastos 1994 p. 25)

こうした想定をソクラテスが持っているおかげで,エレンコスによって対話相手の矛盾が露呈されたとしても,抱えているさまざまな信念のどれか一つ(有力とされるのは,命題 p である)を破棄してしまえばよい.もしも彼がエレンコスによる推論に抵抗して非 p や q と r を退けたとしても,彼は真なる信念を同時に持っているがゆえに,エレンコスを再度働かせればその矛盾は露呈されることであろう.そして,最終的に何度もエンレコスを使えば,対話相手が持っている信念群は無矛盾なものとなり,そこにある信念はすべて真なるものとなる 1.つまり,何もしなくても私たちは真なる信念を持っているのだが,それを浮かび上がらせ,無矛盾という保証をもってして正当化するのが,エレンコスという対話法だということになる.それゆえ,このように考えれば,エレンコスとは,正当化された真なる信念(JTB = Justified True Belief)を獲得するための方法だとも言えるかもしれない 2

さて,デイヴィドソンはこうしたヴラストスのエレンコスをどのように捉えたのだろうか.まず,デイヴィドソンの基本姿勢から言えば,彼はヴラストスのエレンコスをネガティヴには評価していない.つまり,ポジティヴに評価している.それは,ヴラストスの論文に対して「刺激的で素晴らしい」(Davidson 1985 p. 226)と言っていることからもわかるだろう.Davidson(1985)で彼が論じるには,ヴラストスが言うようなエレンコスは,初期対話篇だけに特有なものではなく,中期対話篇や後期対話篇のほとんどでは姿を消しながらも,最終的には,最晩年期の著作とされる『ピレボス』にて,プラトン(のソクラテス)はそこに立ち戻ってきているとのことである(Davidson 1985 p. 238).デイヴィドソンがその論文で示したかったのは,プラトン(のソクラテス)が持っているエレンコスという哲学的探究法に対する信頼である.その論の根拠の一つには,もちろん,ヴラストスによるエレンコス解釈がある.Davidson(1985)の時点では,デイヴィドソンはヴラストスのエレンコス解釈をそのまま踏襲し

て議論を進めているのだが,7 年後に書いた論文「ソクラテスの真理概念」ではそれに幾分か修正を加えている.修正されている点は,上述したエレンコスの前提A である.それをデイヴィドソンは以下のように改める.

前提 B: 偽なる道徳的信念を持っている人は誰であれ,つねに,その偽なる信念の否定を必然的に含み,かつ,その人が決して譲るつもりはない真なる信念を同時に持っている.(Davidson 1992 p. 243)

ヴラストスが提唱した前提 A とデイヴィドソンが修正した前提 B の違いは,その前提に対話者の態度を盛り込んだところにある.ここで言う対話者の態度とは,対話者自身が持っている,とある信念に対する絶対的な信頼である.このおかげで,前述したような問題,つまり,エレンコスによる対話の結果として露呈した,信念集合の単なる矛盾からその原因となっている信念をいかにして取り除くことができるのか,といった問題や,対話者が最初にもっていた pという信念を非 p という結論が出るからといってなぜ棄却しなくてはならないのか,といった問題も解消されることになろう.というのも,エレンコスの結果得た非 p という信念は,ソクラテスの対話相手が決して譲るつもりはない真なる信念だからである.デイヴィドソンは,対話相手の態度をその前提に入れ込むことによって,ヴラストスが見落としていたものをうまく修正しているように見える.だが,彼はこうした前提 B すらも,エレンコスには必要ないのだとしている.前提 A と前提B を放棄して提唱した新たな前提は以下である.

前提 C: ある人が持っている真摯な(確固として抱かれている)道徳的信念は真である,という想定が存在する.(Davidson 1992 p. 244)

前提 C は,前提 A や前提 B とは何が異なり,何がそれらよりも有効なのだろうか.デイヴィドソンによれば,前提 A や前提 B を無条件に受け入れなければならない根拠はなく,そうした前提よりも比較的弱い前提 C に基づきさえすれば,エレンコスは正当化されるとした(Davidson 1992 p. 244).この前提 Cでは,前提B にはあったヴラストスの痕跡というものが消されている.ヴラス

トスの前提は,私たちが無意識のうちに偽なる信念の否定となるような真なる信念を持っている,つまり,何かしらの事柄に対してあらゆる信念を私たちは予め持っている,ということが示唆されているという点において,形而上学的と言えるだろう.おそらくデイヴィドソンは,そうした形而上学的なものに違和感を覚えたのかもしれない.その結果,前提 B で新たにデイヴィドソンが加えた「話者の態度」というものが,前提 C では全面的に押し出されているのだろう.それゆえに,前提 C はヴラストスから離れているものだと言える.

ここで,なぜデイヴィドソンは「話者の態度」に注目するのか,といった問題について考える.前提 C を提示した後に,彼は以下のよう述べている.そこからは,彼が考えている思考と言語との関係がよくわかる.

少なくとも,非常に注意深く透明な思考に関して言えば −−− ここで私は価値判断と「事実的」信念の区別をしていない −−− ,私たちが心に抱いていることを誠実に話す際に述べていることは,私たちが本当に考えている事柄を露わにしている.[中略]私たちが本当に明確に述べているものからは,魂の真なる窓口が提供される.言語は必ず公的なものだ.それゆえ,私たちが発する言葉の文字通りの意味において,好意的で根気のある解釈者が原理的に理解できないものなど存在し得ない.だから,混乱している場合は別として,そのような解釈者が私たちの思考を指していると決定しているものこそ,私たちの思考が本当に指し示している事柄なのである

(Davidson 1992 pp. 244-245)

ここで注目したいのは,私たちが誠実に話せば,その話したことは,その人が本当に考えていたことを指し示しているということである.心に抱いている信念は,その人がその信念に信頼を置いており,なおかつ,それが明確化されていれば,それはその人が本当に考えている事柄なのである.そして,言語が公的なものであるということによって,対話相手に対して,好意的で相手のことを理解しようという気がある人であれば,その人の言っていることに関してわからないことなどないことになる.デイヴィドソンによれば,何かしらの事柄を真かどうか判断する場合,ある人がそのことを本当に考えているというこ

と以上の根拠はないように見える.そして,本当に考えていることを出来る限り明確化して,言語に乗せ,他者と会話することで,その信念はさらに明確化されることになる.言語という形で明確化できるということは,最低限その人は合理的であるということを示している.合理的であるということは,その人が確固として抱いている信念が,ある程度,ほかの信念と比べて,整合性が取れているということを指す(Davidson 1992 p. 245).しかし,そうした整合性も,信念に対する確固たる態度も,話者が内側で持っているものである.それは,外部からの刺激で綻ぶかもしれない.その作用をもたらしてくれるのが,まさにエレンコスを通しての会話というわけである.こうして,前提 C さえ持っていれば,つまり,話者の態度にさえ依存していれば,ヴラストスが言うような形而上学的な前提に基づかなくても,話者は,話し相手から,正当化された真なる信念を引き出すことができるのである.

2-2. エレンコスの使用動機と他者

それでは,なぜソクラテスはエレンコスという対話法を用いたのか.この問いに関する明確な回答としては,「エレンコスは一般に真理へと導く方法」

(Davidson 1992 p. 246)だからである.だが,それに加えてデイヴィドソンは次のような問いを投げかける.それは,「エレンコスによる対話は誰のためのものなのか」(Davidson 1992 p. 246)というものである.エレンコスを使えば,ソクラテス一人だけでも真理へと向かうことができたかもしれないのにもかかわらず,彼は敢えてほかの人と関わろうとしている.それはなぜなのか.その回答として,デイヴィドソンは,まず以下の三つのものを提示する(Davidson 1992

pp. 246-248).一つ目は,自分が知らない事柄を他者は知っているのだと期待しているからというものである.二つ目は,他者を益するためというものである.そして,三つ目は,ダイモーンに指示されたからというものである.だが,いずれもデイヴィドソンは否定する.一つ目と二つ目については,プラトン対話篇内において,ソクラテスと議論した相手は,最終的には混乱したり,イライラしたり,屈辱まで感じており,理解が進んだといった描写がほとんど見受けられないどころか,ただ悩まされているだけなように見えるというものが挙

げられる.また,三つ目については,ダイモーンによる禁止や促しが,ソクラテスの宗教的な直観に合致していたとしても,彼がそのような権威的なものに論証抜きに従うわけがない,という理由からそれを退けている 3

デイヴィドソンは以上の理由を棄却した末に,ソクラテスは次のように考えていたのではないかと提案している.

他者が自分ほど賢くないとしても,その人たちとエレンコスを用いたやりとりをすることで,ソクラテスは自分自身がより賢くそして明晰になるだろうと確信していた(Davidson 1992 p. 248)

この理由は,最初に提示した,他者が知っていることをその人から教えてもらうためだ,というものと何が異なるのだろうか.デイヴィドソンはそれを明確に示していないが,おそらく,ソクラテスは単に誰かが知っている事柄を教えてもらうために対話をしていたわけではない,とデイヴィドソンは考えていたというものだろう.単純に誰かが知っている事柄を教えてもらうのであれば,それこそエレンコスなどという対話法を使うことなしに,「S は P である」と対話相手が言うことに関して,ソクラテスがそのままそれを受け入れればよいだけの話である.問題なのは,彼がそのままそれを受け入れずに反駁していることであって,その際になぜエレンコスという方法を用いているのか,ということである.最初に提示した,他者から知を得るためという理由だけでは,エレンコスの使用に根拠を与えることができないのである.ソクラテスの対話相手には,予め何かを知っていると思っている人物もいれば,ある事柄に関して何も知らないと思っている人物もいるだろう.最初の理由では,前者の人物に対応できたとしても,後者の人物には対応できない.なぜなら,その人は,ソクラテスが求めているような知を持っていないと自覚しているからである.だが,彼は自分が話すに値する人物だと思えば誰かれ構わず議論をもちかける.その理由として,デイヴィドソンの上記の提案が当てはまる.その人はソクラテスよりも賢くないとしても,実際にエレンコスを伴った対話をすることで,ソクラテスは自分が賢くなり明晰になることを確信していた.さらに,エレンコスによって他者とやりとりをすることは,デイヴィドソンが言うように,自

分のためだけでなく,他者のためにもなるということをソラクテスは何度も語っている(Euthphr. 14d, Prt. 333b-c, Men. 77A, and Chrm. 166c-d).つまるところ,他者を通してのみ,エレンコスというのは真に力を発揮するのだと言えよう.それは,自分一人だけでは,自分が考えていることを本当には明確化できないということを指し示しているのかもしれない.そこに他者が介入するのは,対話という仕方を通してである.だが,そもそも,その対話による最終的な目的地はどこにあるのか.それについては,Davidson(1992)において,『パイドロス』を端として発する,デイヴィドソンの対話に関する議論を追うことで考えていく.

2-3. エレンコスと間主観的真理

デイヴィドソンが述べているように(Davidson 1992 p. 249),ソクラテスが自分の命を賭けてまでもエレンコスという方法論を用いた対話に身を捧げていたのは,『ソラクテスの弁明』からもわかるだろう.ソクラテスが死の間際までし続けた対話というのは,実際に各々の口から発せられる話し言葉をもってしてなされる.デイヴィドソンは『パイドロス』にある,書かれた言葉への批判,そして,話された言葉の優位性に注目する.『パイドロス』にてソクラテスは以下のように言う.

一方で,書かれた言葉それ自体は何らかのことを考えているかのように話しているのだときみには思われるだろう.だが他方で,その言葉が話していることどもについてきみが学びたいと思い,何か問いかけるのならば,書かれた言葉はいつもまさにたった一つのことしか言わないのだ(Phdr. 275d)

話された言葉は,書かれた言葉とは対極にある.話された言葉は,実際に何ごとかを考えており,その言葉で表されているものについて尋ねれば,さまざまな応答が返ってくるであろう.そうした言葉は生命を持っている(Phdr. 276a).こうした話された言葉でなされるコミュニケーションについて,デイヴィドソンは以下のような問いを出す.つまり,「いったいなぜソクラテスは,話され

た言葉によるコミュニケーションによって,それが適切に導かれたならば,自分は真理の認識へと至ることができると信じたのか」(Davidson 1992 p. 249)という問いである.これに対して,デイヴィドソンは,自分ではソクラテスの視点に立ってその問いに答えることができないと言う.それゆえに,上記の問いの主語をソクラテスから私(デイヴィドソン)に置き換えることによって答えようとする.

ある人が持っている思考や判断の内容は,その人が他者や世界と関係を持つということに依存している(Davidson 1992 p. 249)

この引用にある,「人が他者や世界と関係を持つということ」というのは,デイヴィドソンの言葉からすれば,「三角測量」(Davidson 1982 p. 105)だと言えよう.そして,三角測量が成立しており,また,それに基づいて対話をするからこそ,「実際に,最も単純で最も基礎的な文の意味は決定され,それゆえにまたそうした文によって表現されている思考内容も決定される」(Davidson 1992 p. 245)のである.彼が言うように,多くの人は,予め十分に形作られた思考を表現する場として,対話というものを捉えている.確かに一側面上ではそのように見える.だが,対話が持っている最も重要な機能をそうした人たちは見逃している.それは,思考や概念を形成し,それに意味を与える場を提供するものこそが,対話なのだということである.ここに,多くの人が考えていることからの逆転がある.前述したように,デイヴィドソンによれば,言語は公的なものである.それゆえに,言語を通して形成される,思考や判断や合理性,そしてそれらがなされる対話も,もちろん社会的な現象の一つである.公共的なものである言語は,その公共性という力を,対話という場において最も発揮する.そこにおいて,概念や思考内容は明確化されるのである.そこには,話し手と解釈者と世界という「三角測量」の関係がある.その関係を無視しては,対話は成立しない.その関係に自ら身を置き,対話を開始し,エレンコスという洗練された方法を用いながら,話されている事柄を根気強く解釈すること,それこそが,ソクラテスが知っている,「道徳的真理」へと到達する唯一の方法であり,対話法のモデルケースを示しているのである 4

このとき,道徳的真理とは,エレンコスを伴ったコミュニケーションの最終到達点としてある.だが,この道徳的真理に本当にたどり着けるかどうかの保証はどこにもない.それはプラトン対話篇を見れば明らかであろう.大抵の場合,プラトンの登場人物たちから,ある一定の答えというものは出ず,その対話はアポリアの形で終わる.前述したことだが,デイヴィドソンが指摘したように,プラトンが後期対話篇の『ピレボス』にて再度,エレンコスによる対話をしながら,善く生きることにまつわる初期対話篇で最も議論されていた問題に立ち返っていることからも,道徳的真理に本当にたどり着けるかどうかを保証してくれるものはない,ということがわかるだろう.ある一定の見解が,登場人物たちにおいて共有されたからといっても,それに満足せずに,またそれを問いの種とする.これは,その見解が本当には一定しておらず,疑う余地があるものだということを意味している.確かに,『国家』(第 4 巻)のように,正義とは何かという元の問いに対する回答が,魂の 3 つの部分がそれぞれ調和を保ちながらその役割を果たすということで表されることはある.だが,それは,その場にいる人物たちでやりとりされた道徳的真理でしかない.それを真理とするのは適切なのか.それは,あくまで,ある一定数の人としか共有されていないものである.そうしたものは,間主観的真理であるとは言えるかもしれない(Davidson 1997 p. 271)5.しかし,プラトンのソクラテスは間主観的真理を探求したかったのか.こうした問題は依然として残される.それゆえに,次章以降では,デイヴィドソンのエレンコス解釈に則った上で,デイヴィドソンのプラトン解釈だけでは足りないところの隙間を,プラトン対話篇を用いて埋めたい.そして,最終的に,依然として残されている問いである,間主観的真理に関する問題を考えていく.

プラトンと間主観的真理

本章では,デイヴィドソンのプラトン解釈を,デイヴィドソンが引用していた以外のプラトン対話篇上の典拠をもってして,擁護することを試みる.デイヴィドソンはエレンコスの有用性を論じるために,「三角測量」などの自らが長年考えてきた議論を持ち出している.そして,デイヴィドソンは,対話の目

的を「言葉の意味や話者たちが抱いている概念が発展し明確化される」(Davidson 1994 p. 254)ことだとした.プラトンはこの結論に納得するだろうか.プラトンの見解だと言えるものを示すためには,プラトン対話篇からデイヴィドソンの議論をもう一度振り返らなくてはならないだろう.そのために,3-1 では,デイヴィドソンの議論の土台となっている「三角測量」について確認する.そして,3-2 では,デイヴィドソンは対話に参加する話者の態度に注目していたが,プラトンもそれに注目していたことを示す.話者がどのような態度で対話に臨むかが,コミュニケーションを成功させる上での重要な条件となる.最後に 3-3 では,プラトン対話篇からも,間主観的真理の考えを見出せないか,また,示唆できないかどうかを考える.これによって,デイヴィドソンのエレンコス解釈は,彼自身の哲学のみならず,プラトンからも擁護され得ることになるだろう.

3-1. プラトンと三角測量

「三角測量」とは,デイヴィドソンが対話について論じる際に用いる彼独自の術語である.それは,前述したように、対話の必要条件として,最低 2 人以上の人物と彼らが同じ世界を共有しているということがなくてはいけないということを示している.これは至って常識的な立場であると言えよう.当然,対話をするのだから,それは誰かとの対話でなくてはならない(ここでは自分自身に問いかけるような,自己の心的な対話というのを考慮しないでおく).そして,対話に参加している人たちが,ある一つの世界を共有しているのでなくては,彼らが何を言っているのか,そして,そもそも自分が何を言っているのかはわからないであろう.自分が言っていること,そして,相手が言っていることがわかるということそれ自体,言語が公的であって,世界を媒介する一種の道具となっているということがわかる.

「三角測量」は素朴な考えである.おそらく,ほとんどの人が,周りにいる人たちの存在や,自分を含めた存在者を取り囲む世界を疑わずして会話をするだろう.プラトン対話篇においても,登場人物たちは自らの存在や他者の存在,そして周りの世界を疑わずして,さも問いや言っている事柄が共有されている

ものだとして議論に入り込んでいる.彼らはそうしたことを疑うことができないのでは決してないだろう.だが,そうしたことを疑ってしまえば,つまり,最初から「他者の存在は偽かもしれない」と疑ってかかれば,彼らが言っていることを理解したり,正しいとしたりすることは困難になるだろう.懐疑の目で他者や世界を見ること,それは,ある意味では,言語を使っての対話の論点先取である.他者や世界の存在が偽かもしれない,というのは予めわかるものではない.最初は,当然あるものとして,つまり,前提として,それらを置いて議論していくのでなければ,それらの事柄を保証するような根拠は全く出てこないだろう.私たちが「他者なんて本当はいないのでは」とか「世界なんて本当はないのでは」と考えてしまうのは,言語をさまざまな他者から学習した後のことである.もちろん,以上のようには,プラトンは,「三角測量」に関する事柄を問題視してはいない.それゆえに,プラトン対話篇からそのことについて明確な典拠を持って来ることはできないかもしれない.だが,その問題視していないことこそ,プラトンが,予め前提として「三角測量」を対話篇内に置いているということを示しているのではないだろうか.対話をしている様子が,実際に,プラトンによって描かれているという事実こそ,彼が「三角測量」を暗黙のうちに前提しているということを示しているのだと言えよう 6

3-2. ソクラテスの対話相手となるために必要な条件

前節では対話が成立するために必要な「三角測量」について考えてきた.対話をする際,「三角測量」が成立しているのはもっともらしい.それゆえ,もちろんそこには頂点の一つとしての対話相手もいる.だがその対話相手はどのような人物であればよいのだろうか.前掲したように,デイヴィドソンが言及している対話者の態度とは,「好意的」で「根気強く」,そして「心に抱いていることを誠実に話す」というようなものであった.もちろん,それは彼が元から自分の哲学上で考えていたことであるだろうし,彼自身それをプラトン対話篇に照らし合わせて,一部ではあるが引き出そうとは試みている.だが,それは元はと言えば,ヴラストスが自身の論文でプラトン対話篇から引用していたものを,さらにデイヴィドソンが引いてきたものである.それをもう一度提

示してみよう.

友情の神にかけて,カリクレスよ,きみ自身ぼくをからかわなくちゃいけないのだと考えたり,信じていることどもに反して成りゆき任せに返答するなんてことを考えたりしないでくれたまえ(Grg. 500b)

どうかきみ,なんらかの結論を導くために,信念に反して答えるなんてことをしないでくれたまえ(R. 346a)

以上の引用によって,デイヴィドソンが考えている,対話相手に必要な条件が満たされているのは,「心に抱いていることを誠実に話す」ということである.これは言い換えれば「率直さ」である.率直さがなければ,それは対話相手に対して,予め自分が偽だと思っている信念を語る場合も出てくるであろう.それでは,良い対話にはならないし,もちろん,間主観的真理にも到達できない.そのためにこそ「率直さ」は対話に必要なものである.

だが,デイヴィドソンが挙げていた条件のうち,残り 2 つのもの,つまり,

「根気強さ」と「好意」についてはどうだろうか.それらについて,彼が言及することはないが,プラトン対話篇から導き出せないことではないだろう.まず,

「根気強さ」に関しては,ソクラテスの対話相手が,問いに答えるようにソクラテスからしつこく懇願され,しぶしぶではあってもそれに応じている人物ばかりだということから,プラトンはそもそも根気がないような人物をソクラテスの対話相手に選ぶことはあまりないように見える 7.また積極的に対話に取り組もうとしている人物もいる.例えば,『国家』において,ソクラテスの対話相手であるグラウコンやアデイマントスは,ソクラテスが対話を切り上げたり話題を変えようとしたりするところにすかさず食いついて,元の議論を続けようとしている.こうしたことのゆえに,プラトンもデイヴィドソン同様,対話相手に必要な条件には「根気強さ」も含まれるのだと考えていたと言えよう.残ったもう 1 つの条件についてはどうだろうか.対話相手が持つべき条件と

しての「好意」については,以下の『ゴルギアス』の引用から見てみよう.

魂がほかのもの以上に正しく生きているかを十分吟味しようとする人は,これら3 つのものを持っていなければならない,とぼくは考えているのだ.つまり,知識と好意と率直さである.きみはそれらを 3 つとも全部持っているのだ(Grg. 486e-487a)

これは,カリクレスが「自然の正義」について語り,年老いてまで哲学に取組んでいる人物に対して非難を浴びせた直後に,ソクラテスが彼に対して語った言葉である.この引用からわかるように,プラトンのソクラテスは,魂の吟味をする際に,吟味する側の人間が持っていなくてはならない条件を提示している.それが「知識(ἐπιστήμη)」と「好意(εὔνοια)」と「率直さ(παρρησία)」である 8.このうちの「率直さ」は前述したものであって,デイヴィドソンが

「心に抱いていることを誠実に話す」と書いたものである.そして,残された「知識」と「好意」のうちの後者はまさしくそのまま,デイヴィドソンが考えていた条件と一致する.「好意」があれば,自分が「率直」に思っていることとは逆のことを自ら進んで相手に言うことは可能性は低くなるだろう.つまり,ソクラテスが言うように,その人は対話相手を「欺こうとしているわけではない」

Grg. 487e)のである.こうした点において,「好意」と「率直さ」というのは類似したものであることが伺える.

だが,最後に残った条件である「知識」はそれら 2 つとは一線を画しているように見える.というのも,「好意」も「率直さ」も,特別な訓練を必要とすることなしに,人が持つことができるかもしれない性格だからである.ソクラテスが何度も「心に思っていることを言ってくれ」と懇願しているところを見ると,「知識」よりも「好意」や「率直さ」の方が,対話にはより必要な条件のように思われる.つまり,後者 2 つが第一条件であって,前者は補足的な第二条件だと言えそうなのだ.だが,ソクラテスはこれらの条件を挙げる際,「好意」や「率直さ」よりも先に「知識」について語っている.「知識」よりも「好意」や「率直さ」の方が対話の条件としては優先されるというのは正しいのだろうか.プラトンが敢えて「知識」を先に挙げたのは何かしらの意図があったのだろうか.それについて明確な記述をプラトンはしていない.だが,そのような意図もあったのではないかと考えられるということを示しておきたい.3

つの条件の提示後に,ソクラテスは,「知識」を「賢い」という言葉をもってして言い換えている 9.だが,どうやってカリクレスは「知識(賢さ)」を手に入れたとソクラテスは言うのだろうか.これに関して,ソクラテスは明言してはいないが,上記の引用の直後に以下のように述べている.

きみは十分教育を受けているし,[中略]その上,ぼくに対して好意的でもあるのだ(Grg. 487b-c)

この引用からは「好意的」であることと「教育を受けたこと」は別のものであることが窺える.もしも前述したように「好意的」であることと「率直さ」というものが,訓練を抜きにして持つことができるものだとすれば,明らかにそれらとは異なる位置づけにある「教育」が必要とされる条件とは,残された

「知識」のことであろう.「教育」で獲得されるような「知識」とはどのような ものなのだろうか.またその時の「教育」とはどういったものなのか.『ゴルギアス』ではこうした問いについては触れられていない.だが,ソクラテスによれば,カリクレスに足りていないのは「幾何学」だとされる(Grg. 508a).また,あえて他の対話篇を持ち出すとすれば,『国家』で挙げられる教育において,「幾何学」などの数学の後に置かれるものがある.それが,「対話(διαλέγεσθαι)」である(R. 532a).「対話」を学ぶというのは,言い換えれば,「対話法(διαλεκτική)」を学ぶということである.この「対話法」には,さまざまなものがあるかもしれない.だが,そのなかの一つとして,エレンコスという対話法も含まれているはずである.それゆえに,ひょっとしたら,プラトンは,エレンコスも「教育」において学ばれるべき「知識」だと考えていたのかもしれないのである.

それゆえに,ここで言われる「知識」とは,本論文の 2 章で論じられていたような,エレンコスを伴った対話によって獲得されるだろう「間主観的真理」ではない.それは教育を通して学ばれる知識のことである.前者の知識を獲得するためには,そもそも哲学的な対話をするためには,さまざまな学問から得なければならない前提知識が必要なのである.そこに対話相手への「好意」や

「率直さ」が加えられることで,初めて,デイヴィドソンの言うような哲学的対話の場が生まれるのである.

3-3. 対話と間主観的真理

哲学的対話をする人は,「知識」「好意」「率直さ」を具えている方がよい.そして,2 章までの議論を用いるとすれば,それらを持っている人物たちと,エレンコスを伴った哲学対話をすることで,「間主観的真理」へと到達できる.このことについて,デイヴィドソンが引用していないプラトン対話篇の箇所から,彼の議論を擁護する.『ゴルギアス』においてソクラテスは以下のように述べている.

ぼくの魂が信じていることどもについて,きみがぼくに同意してくれるなら,そのことどもはもうすでにそれ自体真であるとぼくはよくわかっているのだ(Grg. 486e)

ここでの「真」とは ἀληθής のことである.そして,この引用の直後に,そういうことができるのは,対話相手が前述したような条件を持っているからだとソクラテスは述べる.また,同箇所付近にて,彼は以下のようにも述べている.

もしきみがさまざまな議論のなかで何かしらについてぼくに同意してくれるなら,そのことはもうすでに,ぼくときみによって十分吟味され尽くしているだろうし,もはやそのことを他の吟味へと連れ戻す必要もないだろう(Grg. 487e)

ぼくときみが同意するということによって,もうすでに真理を完成させていることになるだろう(Grg. 487e)

これらの引用からは,ソクラテスは対話相手の同意をかなり重く見ているということがわかる.ソクラテスの対話相手が,双方の言っていることに同意さえすれば,もうそれ以上吟味する必要がないと,推量の形ではあれ明言しているのは興味深い.そして,一つ目の引用にある,もはやそれ以上吟味せずとも

よいというのは,ソクラテスにとって,真理の完成に達しているということを示している.この二者間での同意による真理の到達は,まさしく,2 章で見たような「間主観的真理」であるところの「道徳的真理」のことだと言えよう.以上のことを踏まえると,前節と本節で引用している『ゴルギアス』の 486e-487eというのは,対話者の条件とその到達地点を端的に表している箇所と言える.つまり,前述してきたように,「知識」「好意」「率直さ」といった哲学的対話の話者たりうる条件や態度のおかげで,間主観的真理は,対話者双方の同意のもとで獲得される.しかも,「真理を完成させる」という動的な形において.

おわりに

これまでの議論は,デイヴィドソンのエレンコス解釈を,プラトンからの典拠をもって示してきた.そして,対話の到達点として獲得されるのは「間主観的真理」であるとされた.だが,そもそもプラトンのソクラテスが探求していた真理とは,そのような「間主観的」といった修飾語句が付いてしまうようなものだったのだろうか.彼が欲しがったのは,どんなものも寄せ付けない,括弧書きで表されるようなものではない,端的な真理だったのではないだろうか.

『ゴルギアス』では,二者間の合意によって,それ以上吟味しなくてもよいような真理が獲得される.一旦,その真理を別の話者との対話に持ち出すとする.その場合,その真理は,別の対話では,別のエレンコスにより話者が持っている他の信念と矛盾することが明らかになるかもしれない(もちろん,矛盾しない場合もあろう).そうすると,そこからまた別の事柄が真理として措定されることになる.この二者間での真理の獲得という営みは,新たな対話の場でのエレンコスという対話法が有効である限り,反駁される可能性がある不安定なものである.

また,対話において双方に合意し,「間主観的真理」を獲得したとしても,最終的にそれを「真理」だとするのは一体誰なのか,という問いは出てくる.その行為主体は,まさしく,話者の一人であろう.結局その一人の人物だけに,

真理だと思われるのであればよいということになるのだろうか.そうだとすれば,それは,真理であるものではなく,真理だと思われるものであることにな

る.プラトンはソクラテスに以下のようなことを言わせている.

ぼくが話していることどもが,そばにいる人たちにとって真実だと思われるように,ぼくは一生懸命になっているのではないのだ.そんな付随的なことではなく,他の誰でもないこのぼくにとって,真であると思われるように一生懸命になっているのだ 10Phd. 91a)

これは『パイドン』にて所謂「言論嫌い」について言及する際に,ソクラテ スが述べている箇所である.ここで注目すべきなのは,誰にとっても真であるとされるものを探求している人物像として描かれやすいかもしれないソクラテスが,死の間際のこの場面においては,他でもない自分自身が真であると思いたいと述べている点である.そして,それに加えて,重要なのは「,付随的(πάρεργος)」という表現にある.付帯状況的に「他者が思う」ということは起こり得る.なぜ,それが付帯状況的に起こるのかと言えば,上記の引用に続く箇所を見ればわかるだろう.

きみたちがぼくに従ってくれるなら,ソクラテスのことを気にかけるのはほんのすこしだけにして,それよりもいっそうはるかに真理について考えてくれたまえ.そして,ぼくが話していることが真実だときみたちに思われるのであれば,同意してくれたまえ.また,もしそうでなければ,言葉の限りを尽くして反対してくれたまえ(Phd. 91b-c)

この引用は,3 章までの議論とも通じるだろう.ソクラテスは,他者との対話では,同意というものを非常に重要視する.そして,もしも前述したような話者の条件を具えている他者との対話であれば,その人は真理に目を向けながら,同意と否定をする.この同意と否定というのが,ソクラテスとの対話において付帯状況的に生じる「~であると思う」というものと「~でないと思う」というものなのである。

そして,このような対話者たちが目を向けているところの真理も,最終的には,その「思い」からは独立できていない.もしも,これまでの議論通り,そ

の対話によって,「思い」から独立した真理が獲得されたとしても,最終的には,「ぼくにとって思われる」という「思い」に吸収される.本当に実在する

はずの,人の信念から独立した真理を目指していたはずが,いつの間にか,特定の人物の信念として結びつく「思い」という形で認識される.非人称の真理を目的としていた対話は,エレンコスという形をとって,一人称複数の真理,つまり,間主観的真理へと至る.そして,その間主観的真理は,また,非人称の真理を目的とする対話へと取り込まれる.それは,延々と繰り返され得る営みである.どこかで区切りを付けようとする.だがそうすると,その一人称複数の真理は,「私が思う」という一人称単数の真理になってしまう.この一人称複数の真理(間主観的真理)と,一人称単数の真理(主観的真理)は表裏一体である.プラトンのソクラテスが行う対話の最終地点では,他者は抹消されない.他者のおかげで,間主観的真理は生み出され,最終的には,それは一人称単数の真理を成立させるために必要な条件として残される.ソクラテスは,対話によって,他者,つまり,「私たち」という一人称複数の中に潜む「あなた」という二人称を,浮かび上がらせている.他方で,非人称の真理とは,そのような構造の外にあるのでなければらない.というのも,一旦,対話の構造に取り込まれると何かしらの人称が付与されることになるからである.プラトンは以上のような人による認識の限界というものに気づいていたのではないだろうか.いくら「思い」を取り払ってもそこから抜け出せ得ないということに.また,認識論に取り組む際,最終的に,「〜にとって」に還元させられるか らといって,プラトンは,以上のような議論を,独我論的観念論のようなものだとは考えていないだろう.『テアイテトス』におけるプロタゴラスの相対主義批判を踏まえると,「〜にとって」が入り込んでしまう相対主義を,プラトンが支持していたとは思えない.それゆえに,これは,認識論は,最終的には,相対主義の問題にぶつかってしまい,本当に絶対的に定まった真理などというものはない,ということを言っているのではないだろう.むしろ,間主観的真理を獲得するためには,非人称的な絶対的真理が実在していなければならないということにプラトンは気づいていたはずである.それこそ彼がイデア論や想起説を述べていることの理由の一つかもしれない.そして,絶対的真理を獲得しようする目的を持ちながらも,間主観的真理しか獲得しえないという肉体を

持った人間の認識の限界ということにも彼は気づいていたからこそ,肉体の死を迎えるソクラテスに前のようなことを語らせたのだろう.そして,そのような認識論的構造がありながらも,アナロジーやミュートスといった方法を用いながら,実在するはずの真理を探求し続けたのが,プラトン対話篇であるのかもしれない.デイヴィドソンのエレンコス解釈は,その目的に何かしらの真理

(間主観的真理)があるとしている点においては的確ではある.だが,こうした認識論的構造については言及されてはいない.これこそ,デイヴィドソンがプラトンに対して見抜けなかったことであり,それゆえに彼は,ただ闇雲にプラトンが真理を措定しているという早合点を犯してしまっているのである.

1. ヴラストスはこうしたことを『ゴルギアス』や「想起説」を持ち出すことで明らかにしようとしている.詳しくは,Vlastos(1994)を見られたい.

2. もちろん,エレンコスによって獲得された,正当化された真なる信念が,何かしらの道徳的真理を表しているとしてもよいのか,という問題には多くの議論が必要であろう.JTB に関しては,『テアイテトス』にその起源を見ることができるとされているが,そこから派生した現代的問題(JTB を真理としてもよいのか)としては「ゲティア問題」が挙げられる.詳しくは,Gettier(1963)を参照されたい.

3. 棄却した議論が持つ力,つまり,プラトン対話篇上に見出されるような根拠を,過小

評価しているかもしれないとデイヴィドソンは自覚している(Davidson 1992 p. 247).これについて,筆者からすれば,実際に,デイヴィドソンは対話篇上の根拠を過小評価しているであろうと考える.というのも,ソクラテスが他者を吟味し続けたのも,デルフォイの神託を解釈した結果であるし(Ap. 21B-C),また,政治参加をせずに哲学に従事している理由は,「ダイモーン」にあると,自ら語っているからである(R. 496C)

(プラトン対話篇の略記については,Liddell and Scott(1996)に準ずる.また,プラトン対話篇の訳出については,Oxford Classical Text を用いる).

4. 「道徳的真理」というのはデイヴィドソンの記述であることを明記しておきたい.また,

2-2 から 2-3 のここまでの議論をデイヴィドソンは他の論文で端的にまとめているように思われる.それによれば,「ソクラテス的対話〔つまり,エレンコス〕には,二つの本質的側面がある.それは,単に矛盾した知識を主張する人にその誤りを悟らせること以上のものである.一つは,対話に関わっている両者が何らかの利益を獲得したいと望み得るということであり,もう一つは,書かれた論文とは違って,ソクラテス的対話とは,〔言葉の意味や話者たちが抱いている概念の〕変化を引き起こす過程を表しているということである.もしもその対話によって以上のような目的が達成されたのならば,エレンコスを用いた議論というのは,言葉の意味や話者たちが抱いている概念が発展し明確化される一つの出来事なのだ.この点において,エレンコスを用いた議論は,コミュニケーションという試みのあらゆる成功モデルの一つなのである」

(Davidson 1994 p. 254)(括弧内は訳者による補足説明.以下同様とする).

5. ここでのデイヴィドソンは,「間主観的」を表す際に,他の論文で用いているintersubjective

ではなく,interpersonal という単語を用いている.

6. こうしたことを看破していたがゆえに,デイヴィドソンはそもそも「プラトンにおいて三角測量は成立するのか」といった問題を提示しなかったのかもしれない.

7. もちろん,『ゴルギアス』における,ゴルギアスや,『プロタゴラス』における,プ

ロタゴラスといった例外はいる.

8. これら三つのものがそれぞれ何を指しているのかについては,Dodds(1959)及び,Irwin

(1979)といった注釈書では詳述されていない.だが,Dodd(s 1959)に関しては,ἐπιστήμηを δόξα と同一視するのは誤りであるということが言及されている.

9. この言い換えに関しては,Irwin(1979)も同一の読みをしている.

10. ここでの「他の誰でもないこのぼくにとって,真であると思われるように」するとい うこと,つまり,「自分自身を納得させるのが第一の関心事である」というソクラテスの態度は,Gallop(1975)p. 155 によれば,「本当の哲学者であるということの証」を示しているのだとされる.

参考文献

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