2022 Volume 2022 Issue 49 Pages 92-106
「芸術とは何か?」という問題はどのように取り組まれるべきか?
制度種としての芸術と記述的アプローチの擁護
坪井 祥吾
0.はじめに
芸術とは何か? この問題は英語圏の芸術の哲学で,特に「芸術の定義」と呼ばれる分野において取り組まれている1.しかし,多くの論者がこの問題に取り組んでいるにもかかわらず,どのような方法でこれに取り組むべきかという点で不合意がある.この方法論的な点が本論文の主題である.本論文で私は,「芸術とは何か?」という問題に取り組む際には,われわれの直観が重視されなければならない,と主張する.
どのような方法論的な不合意があるのかを明確化しておこう.当問題に取り組む方法は,直観に関して,記述的な (descriptive) アプローチと改訂的な (revisionary) アプローチとの二種類に区別できる.記述的なアプローチというのは,芸術についてのわれわれの直観に基づいて芸術理論を作ろうとする立場のことである.これに対して,改訂的なアプローチというのは,なんらかの目的に応じて,必要であれば直観を改訂することを許容する立場のことである.これまで,「芸術とは何か?」という問題は,ほとんどの場合記述的なアプローチのもとで取り組まれてきた.しかし今日にいたるまで,どのような記述的な理論に対しても,その欠点が指摘されてきた.そのような状況で,方法論的な見直しの結果として,改訂的なアプローチへの切り替えを提案する哲学者も現れてきている.このような状況であるために,二つのアプローチのどちらをとるべきかという方法論的な点において,論者らの間で不合意があるのである.
本論文は次のような構成をとる.1節で,記述的な芸術理論にどのようなものがあるか,そしてその種の理論が何を前提しているのかを概観する.2節で,記述的なアプローチへのある批判を紹介する.3節で,芸術が制度種*(この「*」については3節で説明する)であることが,芸術理論を作る際に改訂的なアプローチよりも記述的なアプローチをとるべき動機になることを示す.最後に 4節で,3節の議論の補足をする.
1.記述的なアプローチと不可謬性テーゼ
本節では,まず,記述的な芸術理論にどのようなものがあるのかを概観する.一つ目は定義的な理論で,二つ目は反定義的な理論である.また,記述的な芸術理論をとるために前提しなければならないテーゼ(不可謬性テーゼ)があることを見ておく.
1.1. 定義的な理論
1.1.1. 古典的な定義的理論と不可謬性テーゼ
定義的な理論とは,われわれが持っている芸術概念の適用のための必要十分条件を与えているような芸術理論のことで,それにより「芸術とは何か?」という問題へ答えられることになる.この種の理論の古典的なものは,
(T): xは芸術作品である ⇔ xはCである,
という形をとる.Cは単一の条件ないし諸条件の連言で,あるものに芸術概念が適用されるための必要十分条件となっている.
定義的なアプローチを含む記述主義者は,自らの理論を作るときに,芸術概念の適用事例を根拠とする.これは事例の方法と呼ばれる.事例の方法とは,まず (1) 問題の概念についての直観を集め,次に (2) それらの直観に一致するような理論を提案する,という手順を踏む方法である.本論文では,ある種Kについての直観を,ある対象についての「これはKだ」「これはKでない」といった,熟考を経ていない判断のことだと理解する.
芸術理論のための事例の方法は,具体的には,次のような手順を踏む.まず,(1)「《モナ・リザ》は芸術作品だ」や「このボトルガムは芸術作品ではない」といった直観を集める.続いて,(2) こうした直観に一致するように,「xは芸術作品である⇔ xはCである」という芸術理論を提案する.事例の方法を通じて提案されてきた定義的な理論の代表的なものとしては,たとえば美的機能主義理論と呼ばれる次のものがある.
芸術作品とは,美的関心を満足させる能力をそれに与えようという意図を持って生産されるもののことだ.(Beardsley 2018, 25)
ここで,「美的関心を満足させる能力をそれに与えようという意図を持って生産される」という箇所が,(T) における条件Cにあたる.こうした理論の例として,他にはDickie (2018) の制度主義理論,Levinson (1979) の歴史主義理論などがある.
ここで注意すべきは,芸術理論が答えなければならないのは「芸術とは何か?」という問題だ,ということである.これは,芸術というものがどのような本性を持っているのか,という形而上学的な問題であって,芸術概念を適用するための条件は何か,という概念運用上の問題とは異なる.この形而上学的な問題に答えるために論者らは (T) の形の理論を作ろうとするのだが,事例の方法によって得られる理論は,正確には,
(T´): xに芸術概念が適用される ⇔ xはCである,
というものだ.というのも,事例の方法は問題となる概念の適用事例を根拠とする方法だからである.(T´)は芸術概念についての理論であり,あるものに芸術概念が適用されるための必要十分条件を述べているに過ぎない.(T´) と (T) の間にある隔たりが埋められるためには,次のようなテーゼが前提されていなければならないだろう.
不可謬性テーゼ: われわれの芸術についての直観は,大規模には誤りえない.
(T´) と不可謬性テーゼを合わせると (T) が得られる.というのも,(T´) の左辺の「xに芸術概念が適用される」ということは,不可謬性テーゼのもとでは,「xが芸術作品である」ということに(ほとんど)他ならないからである.そして,この不可謬性テーゼが前提されていることがまさに,このアプローチが記述的だと言われる所以である.要するに,われわれの直観はおおよそ正しいので,それを記述することで「芸術とは何か?」という問題に答えよう,というのが記述的アプローチである.したがって記述的なアプローチを採用したければ,このテーゼを正当化する必要がある.
1.1.2. 選言的な定義的理論
古典的な定義的理論では,芸術であるための必要十分条件が,単一の条件ないし諸条件の連言として表現される.一方で近年,新たな種類の定義的理論として,選言的な理論が現れている.それは,
(T´´): xは芸術作品である ⇔ xはC1である,あるいは,……,あるいは,xはCnである,
という形をとる.右辺が左辺の必要十分条件になっていることからわかるように,選言的理論もまた定義的である.この種の理論では,古典的な理論と異なり,あるものが芸術であるための必要十分条件が諸条件の選言として表現されている.このような選言的理論としては,たとえば,
あるものは時点t ―― t はそれが作られた時点よりも前ではない――において芸術作品である
というものがある.Steckerは選言肢として (a) と (b) の二つを用意しているわけである2.
このような選言的な理論が提案されるときにも,やはり,われわれの直観を根拠として使う事例の方法が用いられ,不可謬性テーゼが前提されている.
1.2. 反定義的な理論
反定義的な理論は,われわれが持つ芸術概念を捉えることによって芸術の本性を明らかにしようとする点では,定義的な理論と異ならない.一方で,芸術概念は必要十分条件によっては特徴づけられない,とする点で異なる.したがって,反定義的な理論は,(T) の形はとらない.たとえばWeitz (1956) は,芸術概念は必要十分条件によっては定義されないような開いた概念 (open concept) であり,あるものが芸術作品であるか否かはわれわれの決定に依存すると主張する.Gaut (2000) は,芸術概念は必要十分条件によっては定義できないクラスター概念 (cluster concept) であり,いくつかの基準を特別な仕方で満たすものが芸術作品だ,という理論を提案している3.
このような反定義的な理論を提案する哲学者も,自身の芸術理論を作るために事例の方法を用いており,やはり不可謬性テーゼを前提している.
2. 記述的アプローチに対する改訂的なアプローチからの批判
1節で確認した記述的アプローチに対しては,すでに多くの批判がなされている.なかでも深刻なのは,改訂的アプローチからの批判だ.改訂的アプローチをとる論者ら4は,記述的アプローチに反対し,記述的アプローチを特徴づけているところの不可謬性テーゼがそもそも成り立たない,と主張する.これが正しければ,記述的アプローチは断念されなければならないことになる.
2.1. 二種類の改訂的アプローチ
不可謬性テーゼをめぐる論争に立ち入る前に,改訂的アプローチは二種類に区別できるということを指摘しておく.そのために,概念工学についての鈴木 (2019) の議論を参照する.鈴木は以下のように,概念工学をその目的に応じて「記述的な概念工学」と「実践的な概念工学」の二種類に区別している.
〔…〕広義の概念工学に含まれる活動は,おおまかには記述的な活動と実践的な活動に分けることができる.自然科学者が新しい概念を作り出したり,既存の概念を修正したりするときには,実在そのものをより正確に捉えるために概念を創造したり改良したりする.これは記述的な概念工学の営みである.これに対して,サッカーでバックパスという反則が作り出されたり,オフサイドの定義が変更されたりするときには,その目的は,実在を正確に記述することではなく,サッカーの試合をより面白くすることである.人権やセクシャル・ハラスメントといった,社会生活においてより重要な意味を持つ概念も,社会をよりよいものにするという実践的な目的のために作り出された概念だと考えることができるだろう.これらは実践的な概念工学の営みなのである.(鈴木 2019, 97頁〔強調筆者〕)
まず,概念工学における区別と対応する区別を、改訂的アプローチにおいて立てることができる.というのも,概念工学によってある概念が修正されると,その概念が含まれる直観も改訂されるからである.また,この概念工学における区別は芸術概念でも成り立つ.というのも,第一に「記述的な概念工学」に関して,芸術概念は〈実在そのものを捉える〉という目的のもとで用いられうるので,その目的のためにその概念に改訂の余地があると考えることは一見したところ自然だからだ.また第二に「実践的な概念工学」に関しても,芸術概念はなんらかの実践的な目的(芸術に関連して特定のジェンダーや人種に属する人々が不当な評価をされているという状況を改善する,等)のもとでも用いられうるので,やはりその目的のために改訂の余地があると考えることも自然だからだ.
したがって,「芸術とは何か?」という問題において採用することができそうな改訂的アプローチを,鈴木に倣って次の二種類に区別する.(「実在把捉型の改訂的アプローチ」が鈴木の言う「記述的な概念工学」に,「実践的な改訂的アプローチ」が鈴木の言う「実践的な概念工学」に対応する.前者で「記述的な改訂的アプローチ」という呼称を使用していないのは,1節で扱った記述的アプローチと紛らわしいからである.)
実在把捉型の改訂的アプローチ: 〈芸術という現象をより正確に捉える〉という目的のために,芸術概念を改訂する.
実践的な改訂的アプローチ: なんらかの実践的な目的のために,芸術概念を改訂する.
本論文では,これら二種類の改訂的アプローチのうち,実在把捉型の改訂的アプローチの方を重点的に取り上げる.結論を先取りしておくと,実在把捉型の改訂的アプローチをとることは,芸術概念に関しては不可能であると私は主張する.その理由は,3節で,芸術が制度種*であることに求められる.一方で,5節でも論じるが,芸術概念に関して実践的な改訂的アプローチをとることの可能性は否定されない.
2.2. 不可謬性テーゼは成り立たないという主張
続いて,不可謬性テーゼを否定する,実践的な改訂的アプローチからの主張を検討する.記述的アプローチに対する批判者は多く存在する (注4を見よ) が,本論文では Zangwill (2007) のものを取り上げる.
まず,Zangwillの立場を実在把捉型の改訂的アプローチに位置づけることの正当性を示す.確認しておくと,不可謬性テーゼとは次のようなものだった.
不可謬性テーゼ: われわれの芸術についての直観は,大規模には誤りえない.
さらに確認しておくと,芸術についての直観というのは,「これは芸術作品だ」や「これは芸術作品でない」といった熟考を経ていない判断のことだった.それゆえ,不可謬性テーゼを認めることは,われわれの「これは芸術作品だ」という日常的な判断がほとんどの場合で正しいものであることを認めることである.しかしZangwillによれば,本節の以下で述べる通り,芸術という現象を正確に捉えるためには,「日常的な普通の〔芸術〕概念を修正すること」(Zangwill 2007, 8) が許される,すなわち不可謬性テーゼが拒否されることになる.Zangwillのこの立場はたしかに実在把捉型の改訂的アプローチである.
それでは,いかなる理由によって,Zangwillは不可謬性テーゼを拒否するのか.これを拒否するための前提は二つある.一つ目は,われわれ全員が共通して用いているような唯一の芸術概念は存在しないように思われる,ということである.Zangwillによれば,そのような芸術概念の候補としては,芸術に精通している人が用いているようなファイン・アート (Fine Arts) 概念と,そうでない人々が用いているような民衆的な (folk) 芸術概念がある.しかしながら,一方でファイン・アート概念は広く普及しているとは言いがたく,他方でファイン・アート概念に汚染されていないような「前理論的な」民衆的な芸術概念のうちで,われわれが共通して用いているようなものは存在しない,とZangwillは主張する (Zangwill 2007, 75–7).二つ目は,彼自身の芸術理論である.Zangwillによれば,芸術作品とは,ある美的性質を実現することを意図して作られたもののことである5.
以上の前提のもとでZangwillは,芸術の本性を捉えるために必要であれば,芸術概念を修正し,その概念が用いられた直観を改訂することを許す6.たとえば,小説,演劇,映画といった「物語的な芸術 (narrative arts)」のうち,特に韻律のような美的な要素を一切欠いていて,「ただドラマ上 (dramatically) 重要であるだけ」の要素しか持たないような作品7についてのわれわれの直観は誤りであるとされる (Zangwill 2007, 73).というのも,彼の芸術理論にしたがえば,こうした作品はある美的性質を実現することを意図して作られたものではないために,芸術作品ではないからである.ここで,それらの作品が芸術作品であるという直観は,共有された唯一の芸術概念に基づいたものではなく,信頼性を欠いているために,改訂が許されることになる.彼の理論は「[芸術作品] に対するわれわれの関心と,芸術作品を維持する活動や制度を説明する基盤を与える」(Zangwill 2007, 81) という理論的有用性を持つために,この改訂はさらに正当化される.
たしかにZangwillが主張する通り,われわれが共有しているような芸術概念が存在しないと想定することは一見もっともらしく,もしそうだとすると不可謬性テーゼが成り立たない.記述的アプローチを維持するには,このような批判に応答して,不可謬性テーゼが成り立つことを示す必要がある.
3. 制度種*としての芸術と記述的アプローチをとるべき動機
1節と2節で私は,記述的アプローチと実在把捉型の改訂的アプローチが不可謬性テーゼをめぐって争っている様子を描いた.本節で私は,芸術について,3.3節で定式化される形の不可謬性テーゼは成り立つことを示し,それゆえ「芸術とは何か?」という問題に対しては,実在把捉型の改訂的アプローチをとるよりも記述的アプローチをとる方がよい,と主張する.議論は次のように進む.
(前提1) 制度的特徴*を持つものを制度種*と呼ぶ.
(前提2) 芸術は制度的特徴*を持つ.
(帰結3) 芸術は制度種*である(前提1,前提2より).
(前提4) すべての制度種*について,原理DP1か原理DP2のいずれかが成り立つ.
(前提5) 原理DP1と原理DP2はどちらもある不可謬性テーゼを含意する.
(帰結6) すべての制度種*について,ある不可謬性テーゼが成り立つ(前提4,前提5より).
(帰結7) 芸術について,ある不可謬性テーゼが成り立つ(帰結3,帰結6より).
以下,3.1節では (前提1) から (帰結3) にいたる議論を,3.2節では (前提4) から (帰結6) にいたる議論を,3.3節では (帰結7) とその意義を,それぞれ扱う.
3.1. 芸術は制度種*である
(前提1) について.まず,本論文では,SearleやThomassonによる,制度を規則ベースで理解する立場が正しいものと仮定する8.Searle (1995; 2010) は,制度的事実が創出され,維持される仕方について,次のような一連のアイデアを提案している.それは,
というものである.これらを理解するために,次の状況を想定しよう.すなわち,ある敵対する二つの部族が,お互いのテリトリーの間に,石を並べて境界線を引くという状況である.このとき,この石の列は,その物理的な特徴のみによっては(簡単にまたいで越えることができるために)敵対部族の侵入を防ぐことができないにもかかわらず,境界線という地位を果たしている.また,ここでこの地位には〈この石の列を許可なく越えてはならない〉という義務論的な力が結び付けられている.この地位,この力はどのようにして生じているのか? Searleによればそれは,〈この状況(C)においてこの石の列(X)は境界線(Y)とみなされる〉という構成的規則が存在していて,かつ,それを二つの部族のメンバーの大半が集団的に受け入れている,ということによって生じているのである.
さらに,義務論的な力という概念の明確化もしておきたい.Searleが指摘するところでは,義務論的な力は欲求独立の行為の理由をわれわれに与える (Searle 1995, 70; 2010, 8–9).たとえば上記の石の列の事例において,〈この石の列を許可なく越えてはならない〉という義務論的な力は,それぞれの部族のメンバーにとって,石の列を越えないように行為するための理由となる.仮に石の列の向こうに豊かな土地があったとしても,石の列のこちら側の部族のメンバーは,その土地を手に入れたいという欲求を持ちながらもそれを断念して,石の列を越えないように行為するだろう.こうした欲求独立の行為の理由を与えるという性質は,義務論的な力を特徴づける重要な性質である.
さて,注意すべきは,構成的規則の集団的受け入れが制度的対象を成り立たせているというSearleによる上述の分析は,すべての制度的対象には当てはまりそうにない,ということだ.Searleの分析では捉えられない制度的対象として,すでにさまざまな事例が指摘されている10.そうした指摘の多くはおそらく正しく,それゆえ,Searleによる制度の分析が,制度的対象一般に適用されると考えることはもっともらしくない.だが本論文では,こうした論争には立ち入る必要はない.というのも.Searleへの反論者たちは,彼の分析が制度的対象一般のクラスには適用されず,その特殊なサブクラスにしか適用されないということを指摘しているわけだが,その際,その特別なサブクラスに彼の分析が適用されることは認めているからである.本節ではこの特別なサブクラスに芸術が含まれることを利用した議論を行うだけなので,Searleの分析が制度的対象一般に適用されないという問題は無害である.
また本論文では,議論の都合上,新たに二つの当座的な概念を導入しておく.「制度種*」と「制度的特徴*」である.まず,Searleの分析が適用されるような特別なサブクラスを「制度種*」と呼ぶことにする.「*」がついているのは,上述の理由から,このクラスは「制度種」と呼ぶには狭すぎるからである.そして,ある制度種*を性格づける特徴をその種の「制度的特徴*」と呼ぶことにする.「*」がついている理由は上に同じである.制度的特徴*は,Searleによる上述の (1) から (3) のアイデアをよく反映しているような特徴でなければならない.したがって制度的特徴*は,その存在が物理的特徴に加えて関連する構成的規則の集団的受け入れにも依存していて,かつ,義務論的な力を伴うような特徴である,と言えるだろう.石の列の例で言えば,石の列は〈境界線である〉という制度的特徴*を持っている.この特徴はたしかに,石が一列に並んでいるという物理的特徴に加えて関連する構成的規則の集団的受け入れにも依存していて,かつ,〈この石の列を許可なく越えてはならない〉という義務論的な力を伴っている.
以上の検討から,
(前提1) 制度的特徴*を持つものを制度種*と呼ぶ,
と言える.
続いて,(前提2) を検討しよう.芸術という種に結び付けられた制度的特徴*として,どのようなものがいくつあるかは不明である.だがここでは,少なくとも一つ,芸術に結び付けられた制度的特徴*が存在することを言えれば十分だ.そして,そうした特徴の候補として,すでに倉田 (2018) が〈鑑賞のための候補である〉と〈著作物である〉の二つを検討している.倉田は,伴われる義務論的な力が弱いという理由で(4.3節で詳しく述べる),〈鑑賞のための候補である〉ことは制度的特徴*とは言えないとして退ける.一方で,伴われる義務論的な力が十分に強いという理由で,〈著作物である〉ことは芸術の制度的特徴*として適格であると論じている.私も,この〈著作物である〉という特徴は,芸術の制度的特徴*の候補として有力だと考えているが,本論文ではこの点には立ち入らない.
その代わりに,倉田に反対して私は,〈鑑賞のための候補である〉こともまた,芸術の制度的特徴*として適格である,と主張する.この主張を正当化するためには, (1) この特徴をすべての芸術作品が持っているということ, (2) この特徴がたしかに制度的特徴*であること,の二つを示さなければならない.これら二つのことを示すには,鑑賞するとは何をすることなのかを明らかにする必要があるので,論証は4節で行う.4節での議論により,
(前提2) 芸術は制度的特徴*を持つ,
ということが成り立つ.(前提1) と (前提2) を合わせると,
(帰結3) 芸術は制度種*である,
ということが出てくる.
3.2. すべての制度種*についてある不可謬性テーゼが成り立つ
次に,(前提4) について.制度種*についてのSearleの分析は,Thomasson (2003b) によってより形式的に再構成されている.そしてこの再構成された分析の一部が,(前提4) に他ならない.
まず,Thomassonの議論とSearleの議論を接続することは妥当である.というのも,Thomassonの狙いは,Searleによる制度の分析の曖昧な点を明確にすることにあるからだ.Thomassonは次のように言う.
Searleはただ,彼が「社会的現実を構成する基礎的な公式」と呼ぶところのもの,すなわち「文脈CにおいてXはYとみなされる」〔という公式〕を展開するだけだが,しかしこれは関連する規則の一般的な特徴を捉えてもいないし,制度的〔…〕事実が人間の志向性に依存することを捉えてもいない. (Thomasson 2003b, 586–7)
Thomassonの分析は,(1) Searleの構成的規則の論理構造を明確にすること,(2) 制度的対象が人々の集団的な受け入れへ(因果的にではなく)構成的に依存している仕方を明確にすること,(3) 具体的な制度的対象と抽象的な制度的対象の区別を明確にすること,の三点を目指している.すなわちThomassonは,Searleが論じている対象の範囲(制度種*)を受け入れた上で,それについての説明の仕方を洗練させることを目指しているのである.
ここで,以上のような明確化として,具体的にどのようなことがなされているのかを簡潔に述べておく.まず (1) の点だが,これはSearleが〈CにおいてXはYとみなされる〉と表現する構成的規則を,述語論理の言語に翻訳するということだ.次に (2) の点だが,これは制度種*の集団的な受け入れへの依存の仕方に,二つの「方向」があることを明確にするということだ.すなわち,〈関連する集団的な受け入れなしでは制度種*は存在しえない〉という依存の方向と,〈関連する集団的な受け入れがあるのに制度種*が存在しないということはありえない〉という依存の方向である.最後に (3) の点だが,Thomassonは,Searleが区別するべき二種類の制度種*——具体的な制度種*,抽象的な制度種*——を区別していないことを指摘する.石の列やチェスの駒といった具体的な制度的対象は,Searleが正しく述べるように,すでに存在する存在者に制度的な性質を付与することによって存在している.一方で,法や会社といった抽象的な制度的対象は,それに制度的な性質を付与できるような対象がその付与に先立って存在しているわけではなく,むしろ,新たにそうした対象が作り出されている.Thomassonによれば,これら二種類の制度種*においては,異なる構成的規則が働いているのである.
以上のことから,Thomasson は次の二つの存在論的な原理 (Dependence Principle) を定式化する.DP1は具体的な制度種*に,DP2は抽象的な制度種*に対応している.Kは制度種*である.双条件法が依存の二つの「方向」を表している.
(DP1): 以下のことが必然的である.すなわち,
すべてのxについて,xはKである ⇔ 〈すべてのyについて,yがCの全ての条件を満たしているなら,yはKである〉ということが集団的に受け入れられているような条件の集合Cが存在し,かつ,xがCの全ての条件を満たしている.(Thomasson 2003b, 587)
(DP2): 以下のことが必然的である.すなわち, Kであるようなあるxが存在する
以上の分析は,Searleによる制度についての見解の明確化であるから,どんな制度種*も,DP1かDP2のいずれか一方は当てはまるようになっている.すなわち
(前提4) すべての制度種*について,原理DP1か原理DP2のいずれかが成り立つ,
が真である.
続いて (前提5) を示そう.ThomassonはDP1,DP2から,それぞれ次の二つの認識的な原理 (Epistemopogical Principle) を引き出す.(Kは制度種*.)
(EP1): 以下のことが必然的である.すなわち,
すべての条件集合Cについて,〈すべてのyについて,yがCのすべての条件を満たしているなら,yはKである〉ということをわれわれが集団的に受け入れている ⇒ すべてのxについて,xがCのすべての条件を満たしているなら,xはKである.(Thomasson 2003b, 588)
(EP2): 以下のことが必然的である.すなわち,
すべての条件集合Cについて,〈Cのすべての条件が満たされているなら,Kyであるようなあるyが存在する〉ということをわれわれが集団的に受け入れている
このEP1は,上述のDP1から,以下のように論理的に帰結する.DP1が成り立っており,かつ,あるグループが種Kに属するための条件集合Cを集団的に受け入れていると想定する.このとき,もしある対象xが実際にCを満たしているとしたら,DP1より,xはKである.(EP2がDP2から帰結することも同様にして示される.)
ここまでが,Thomassonによる制度種*の分析である.ここから私は,ある不可謬性テーゼが導かれることを示す.
EP1が表現していることは,大まかに言えば,〈Cを満たすものはKである〉ということをわれわれが集団的に受け入れているならば,Cを満たすものは実際に11Kである,ということだ.ここで,ある制度種*Kについてある条件集合Cが存在し,〈Cを満たすものはKである〉が集団的に受け入れられているとしよう.するとEP1より,Cを満たすものは実際にKである.さらにわれわれは,ある対象が実際にCを満たしていることを,観察や,あるいは信頼できる他人からの教示,等を通じて知ることができる.このとき,Cを満たすものは実際にKであるということと,ある対象が実際にCを満たしていることから,われわれはその対象が実際にKであることを推論できる.この推論は妥当であり,その対象がKであることについてわれわれは誤りえないだろう.(以上の議論は,適切な調整をすれば,EP2でも成り立つ.)すなわち,以下のように明確化された不可謬性テーゼが成り立つはずだ.
明確化された不可謬性テーゼ(制度種*): あるものが制度種*Kであるか否かについての判断12は,その判断が集団的な受け入れに適切に基づいているならば,大規模には誤りえない.
ここで,適切な集団的な受け入れと言うのは,上述のような〈Cを満たすものはKである〉ということの集団的な受け入れのことである.以上から,
(前提5) 原理DP1と原理DP2はどちらもある不可謬性テーゼを含意する,
ということが成り立つ.(前提4) と (前提5) を合わせると,
(帰結6) すべての制度種*について,ある不可謬性テーゼが成り立つ,
ということが出てくる.
3.3 芸術についてある不可謬性テーゼが成り立つ
3.1節では,芸術は制度種*である,ということが,3.2節では,すべての制度種*について,ある不可謬性テーゼが成り立つ,ということが,それぞれ示された.これらを合わせると,
(帰結7) 芸術について,ある不可謬性テーゼが成り立つ,
ということが帰結する.成り立つのは次のようなテーゼである.
明確化された不可謬性テーゼ(芸術): あるものが芸術作品であるか否かについての判断は,その判断が集団的な受け入れに適切に基づいているならば,大規模には誤りえない.
このテーゼが成り立つことの帰結は,芸術の理論を作ろうとするときに,実在把捉型の改訂的アプローチは有望ではないということである13.もちろん,われわれは,特定の状況のもとでは,芸術作品か否かの判断を誤ることはありうる.だが少なくとも,〈Cを満たすものは芸術作品だ〉という集団的に受け入れられた規則と,実際にあるものがCであることに基づいて,「これは芸術作品だ」という判断を下したときに,われわれが集団として大規模に誤っているということはありえないことは,このテーゼから保証される.したがって,こうした判断は芸術の理論の根拠として使うことができる.事例の方法において用いる直観をこのような判断に制限すれば,記述的アプローチをとることは正当化される.
4. 鑑賞することについての補足
3.1節で私は,芸術が〈鑑賞の候補である〉という制度的特徴*を持っているということを根拠に,芸術は制度種*であるという結論を引き出した.しかし,「鑑賞する」とはどういうことか,という点には深く立ち入らなかった.3.1節の議論を十分に擁護するためには,この点を明確にしておく必要があるだろう.
4.1. 鑑賞するとは何をすることか?
まず,「鑑賞する」ということで私がどのような実践を念頭に置いているのかを明確にしたい.その際,Carroll (2016) の芸術鑑賞についての見解を利用する.Carrollは,「さまざまな形式にわたって芸術を鑑賞するための一般的な手続きとして」彼が推奨する,「芸術鑑賞ヒューリスティック」という次のような手続きを定式化している.Carrollによれば,芸術作品を鑑賞するためには,
必要がある(Carroll 2016, 5).彼自身が挙げる例を用いると,たとえばDamien Hirstの《神の愛のために》という作品を鑑賞するためには,(1)意図された目的の一つが,〈死は免れないということを見る者に思い出させること〉だということを同定し,(2)その目的のために頭蓋骨に8601個のダイヤモンドが散りばめられているという形式が適切である(ないし不適切である)と決定する必要がある.ここで私が強調しておきたいのは,鑑賞という実践において,なんらかの正しい目的——すなわち,作者によって意図された目的——を特定することができ,その特定された目的が正しい鑑賞の基準となる,ということである.
Carrollの言うところでは,この芸術鑑賞ヒューリスティックはあくまでうまく鑑賞をするための便利なガイドであって,鑑賞という実践の分析ではない.しかし,このヒューリスティックは明らかに,鑑賞という実践の重要なポイントを捉えている.そのため,本論文ではこれを「鑑賞すること」のさしあたりの定義として流用したい.すなわち以下では,Aを行為者,oを人工物であるような対象として,
Aはoを鑑賞する ⇔ Aは,
というふうに鑑賞という実践を理解する.この定義には様々な反例が提示されうるだろうが,鑑賞という実践の中心的事例はカバーできていると思われる.ここでの狙いは,鑑賞の一般理論を作ることではなく,現実に行われているある種の鑑賞実践を上述のように定義することに過ぎないので,細かい反例がありうることは深刻な問題ではない.
さて,「鑑賞すること」を以上のように理解した上で,芸術という種に結び付けられた制度的特徴*〈鑑賞の候補である〉が存在することを示そう.このことを言うためには, (a) この特徴をすべての芸術作品が持っているということ, (b) この特徴がたしかに制度的特徴*であること,の二つを示さなければならない.以下,順番に検討する.
4.2. 〈鑑賞の候補である〉ことは本当にすべての芸術作品に成り立つのか?
まず,(a) について.〈鑑賞の候補である〉ことはすべての芸術作品に成り立つ,という全称命題を証明することは実践的にはほとんど不可能であるため,ここでは,これまでに提案されてきた芸術理論のほとんどが上で定義した意味での鑑賞者の存在を要求することを見た上で,一見したところの反例に応答するにとどめざるをえない.
まず,たとえば,Beardsley,Dickie,Levinsonといった代表的な芸術の哲学者らによる理論は,鑑賞者の存在を要求する.Beardsleyによれば,あるものが芸術であるためには,単に美的なだけでなく,それが,「美的関心を満足させる能力をそれに与えようという意図」を持って作られていなければならない(Beardsley 2018, 25).このためには,美的関心を満足させられる鑑賞者の存在が必要である.Dickieの理論に「観衆」が現れていることも,より直接的に鑑賞者の存在を要求している(Dickie 2018, 20).Levinsonが適切な「考慮(regard)」のされ方に言及していることからも,やはり鑑賞者の必要性が示唆される(Levinson 1979, 236).
次に,反例として,Kafkaの『審判』やDargerの『非現実の王国で』といった作品を挙げる者がいるかもしれない.これらは,作者に刊行の意志がなく,鑑賞されることを意図して作られたものではないが,しかし明らかに芸術作品であるような事例だからだ.しかしながら,このような事例においても,作者がなんらかの目的を意図して制作しているだろうことは間違いない.すると鑑賞者は,(1) 作者がこの作品において意図した目的を同定し,(2) その目的に対してその作品が持つ形式が妥当であるか評価する,という活動,すなわち上で定義したところの鑑賞を行いうる.したがって,ある作品が実際の鑑賞者に向けられて制作されたものではなくとも,その作品は鑑賞実践の候補ではあると言えるのである.
ここでさらに,非芸術の人工物もまたなんらかの目的を意図して作られているので,〈鑑賞の候補である〉という特徴によっては芸術作品とただの人工物を区別できない,と反論する者がいるかもしれない.しかし,今私が示そうとしているのは,〈鑑賞のための候補である〉ことがすべての芸術作品に成り立つということ,すなわち〈鑑賞のための候補である〉ことが芸術作品であるための必要条件であることにすぎないため,この特徴によって芸術作品とただの人工物を区別できないことは問題にならない.また,次の4.3節で論じる義務論的な力をそれが伴っているか否かによって,ただの人工物の大部分と芸術作品は区別されるかもしれない.
4.3. 〈鑑賞の候補である〉ことは本当に制度的特徴*なのか?
続いて,(b) について.この〈鑑賞の候補である〉という特徴は,すべての芸術作品が持っているだけでなく,たしかに制度的特徴*である.このことを主張するには,(1) その存在が物理的特徴に加えて関連する構成的規則の集団的受け入れにも依存していて,かつ,(2) 義務論的な力を伴うような特徴である,ということを示せばよい.
(1) を示そう.この特徴は,芸術作品の物理的な特徴だけによっては成立しえない特徴だ.芸術と道具を比較するとこのことがはっきりするだろう.ナイフやねじ回しといった道具は,ものを切ったりねじを回したりといった機能を持っている.だが,こうした機能はその道具の物理的な特徴だけによって実現されている.このことは,次のように,その道具を使うグループのことを考えると明白になる.グループAでナイフが生産され,使用されているとする.このとき明らかに,Aにとって,あるナイフは,ものを切る機能を持っている.さらに,この同じナイフを,ナイフの生産・使用が行われていないグループBに持っていくことを想定する.Bにとってもやはりこのナイフは,ものを切る機能を持っているだろう.これは,ナイフの〈ものを切る〉という機能が,〈鋭い縁がある〉という物理的な特徴のみに依存しているからだ.しかしながら,同じことは芸術では成り立たない.鑑賞実践が営まれているようなグループA´で芸術であるようなものを,鑑賞実践が全く存在しないようなグループB´に持っていくことを想定すると,B´にとってその作品が〈鑑賞の候補である〉という特徴を持つということはありえないだろう.
(2) を示そう.〈鑑賞のための候補である〉という特徴は,義務論的な力を伴うような特徴だ.それは,〈かく鑑賞すべし〉という力である.この義務論的な力がどのようにして生じるのかを明確にするために,この種の議論でしばしば言及される映画『プラン9・アウター・スペース』を例に取ろう.この作品は史上最低の映画として名高く,脚本,映像,芝居,どの点をとっても褒めるべきところのないSF映画である.それゆえこの映画は,SF映画として見られたときには,支離滅裂で,安っぽく,退屈なものであるだろう.しかしそれは,ある種のポスト・モダン的なパロディ作品として見られたときには,境界侵犯的で,クールで,SFのお約束を暴き出しているようなものであるかもしれない.同様の点,すなわち,どのカテゴリーのもとで鑑賞されるかによって鑑賞される作品の美的性質が変化するという点は,Walton (1970),Ziff (1958) も指摘している.ここで私は,支離滅裂な映画よりも境界侵犯的な映画の方を好むために,この映画をポスト・モダン的なパロディ作品として見たいという欲求を抱くだろう.しかし,WaltonやZiffが指摘するように,そしてわれわれも4.1節で見たように,鑑賞には正しさの基準があり,この映画をパロディ作品として鑑賞することは誤っている.この映画において意図された正しい目的には,パロディ作品として見られること,そのように見られることによる境界侵犯性を実現すること,等は含まれていないのである.それゆえ私は,パロディ作品として見たいという欲求を持っているにもかかわらず,これをSF映画として見るべきである.ここには欲求独立の行為の理由があり,この理由はある義務論的な力によって与えられている.そしてその義務論的な力は,〈鑑賞のための候補である〉という特徴に伴われた力なのである.
ここで,どのような芸術作品にも〈かく鑑賞すべし〉という義務論的な力が働いている,という主張は強すぎると反論する者がいるかもしれない.そのように主張することは作品の解釈の余地をなくすことであるように見えるからだ.しかし,注意すべきは,「作品の解釈の余地」というのは,作品の意味に対して鑑賞者が持つ認識的なアクセス可能性の問題だということだ.それゆえ,まず,仮に正しい鑑賞の基準が作品の意味を一通りに決定するとしても,鑑賞者がその基準に十全に認識的にアクセスできるとは限らず,その場合その鑑賞者にとって解釈の余地は残される.次に,そもそも正しい鑑賞の基準が作品の意味を一通りに決定すると想定する理由はない.たとえば,正しい鑑賞の基準が決定するのはせいぜい,どのカテゴリーのもとで鑑賞されるべきか,どの文脈において鑑賞されるべきか,といったことのみかもしれない.その場合,どの鑑賞者にとっても解釈の余地が残される.というのも,鑑賞者は,カテゴリーや文脈の決定の後に,作品の解釈に従事することができるからだ14.したがって,いずれにせよ,〈かく鑑賞すべし〉という義務論的な力は,作品解釈の余地をなくしてしまうわけではない.以上の検討から,どのような芸術作品にも〈かく鑑賞すべし〉という義務論的な力が働いている,という主張は,見かけほどには強いものではないと言える.
最後に,3.1節で触れた倉田 (2018) の見解を検討しておこう.同じこの (2) の点について倉田は,私とは反対に,〈鑑賞のための候補である〉ことが制度的特徴*であることを否定する.その理由として倉田が指摘するのは,それが義務論的な力を伴わないという点である.彼は次のように述べる.
〔〈鑑賞のための候補である〉ことはたしかに,〕ある人工物を何らかの鑑賞規範の体系(「かく鑑賞すべし」)の中に組み入れることを含意するだろう.たとえば,「美術館に展示されたしかじかの作品には手で触れてはならない」や「しかじかの種類の作品が上演される際には,このタイミングで拍手してよい(するべきである)」などがそうした鑑賞規範だと考えられる.しかし,それらは「権利」や「義務」といった義務論的力としてはやや弱い.なぜならそれらはせいぜい芸術の各ジャンルがもつ「慣習」を再確認したものにすぎないからである.(倉田 2018, 115–6頁)
しかし,本節で検討したように,〈鑑賞のための候補である〉ことに伴う〈かく鑑賞すべし〉という力は,単なる「慣習」と言えるほどに弱いものではない.それは,欲求独立の行為の理由を与えるという義務論的な力の重要な性質を持っているのである.たしかに,〈かく鑑賞すべし〉は,法的な制度的人工物に伴うような強い義務論的な力(〈しかじかの行為をした者はしかじかの刑罰を受けなければならない〉,等)ではないが,しかし,石の列の事例における〈境界線である〉という特徴に伴う〈この石の列を許可なく越えてはならない〉という比較的弱い力もまた義務論的な力であることを考えれば,〈かく鑑賞すべし〉は十分な強さの義務論的な力だと言える.
以上の考察から,芸術という種に結び付けられた制度的特徴*〈鑑賞の候補である〉が存在する,という主張は妥当なものだと言える.
5. おわりに:実践的な記述的アプローチの可能性
本論文の議論を要約しておこう.1節と2節で,記述的アプローチと実在把捉型の改訂的アプローチは不可謬性テーゼを認めるか否かという点において対立しており,それゆえ,芸術理論を作るにあたって記述的なアプローチを維持するためには不可謬性テーゼが成り立つことを示す必要があることを私は指摘した.3節と4節で私は,芸術は制度種*であるためにある不可謬性テーゼが成り立ち,したがって芸術について,実在把捉型の改訂的なアプローチではなく記述的なアプローチをとることを正当化した.
3節で私は,SearleとThomassonが支持する,制度についての規則ベースの立場の妥当性は問わなかった.本論文の議論を完全なものにするためには,この立場を擁護するか,あるいは彼女らと対立する立場(注8を見よ)のもとでも本論文の議論がうまくいくことを示さなければならない.
最後に,改訂的なアプローチの可能性に触れておこう.不可謬性テーゼが成り立つことによって退けられるのは実在把捉型の改訂的アプローチだけで,実践的な改訂的アプローチは依然として可能である.というのも不可謬性テーゼは,〈実在をより正確に捉える〉という目的だけに関与的であり,その他の実践的な目的には関与的ではないからだ.さらに,芸術についてそうした実践的な目的はさまざまなものがありうるだろう.そうした目的としては,2.1節で示唆したように,〈芸術に関連して特定のジェンダーや人種に属する人々が不当な評価をされているという状況を改善する〉という目的などが挙げられるかもしれない.
より詳しく述べると,本論文での議論は,実践的な改訂的アプローチの展開に次のようにして貢献するはずだ.まず,芸術が制度種*であることは,実践的な改訂的アプローチの理論的な基礎になる.すなわち,実在把捉型の改訂的アプローチは芸術が制度種*であることによって退けられるが,実践的な改訂的アプローチは芸術が制度種*であることによってむしろ実行可能なものになるのだ.というのも,Cappelen (2018, 43–6) が指摘するように,われわれの芸術概念が芸術という実在を構成しているのなら,芸術概念を改訂することによって実在をも改訂することができるはずだからである.さらに,実践的な改訂を行う目的を定める際には,記述的アプローチが実践的にも有用だ.というのも,記述的アプローチを通じて,芸術という実在がどのようになっているのか,芸術概念にはどのようなものがあるのか,といったことが明らかにされることは,実践的な目的の特定(芸術という実在が引き起こしている害の特定,その害をもたらしている芸術概念の特定,等々)に貢献するはずだからである.
註
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