Inquiries into Philosophy
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2022 Volume 2022 Issue 49 Pages 12-23

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認識的不同意をめぐる論争1

1.はじめに

私たちは日常生活を送る中で,さまざまな種類の不同意(disagreement)2に直面する.例えば,旅行先の候補や夕食の献立,法廷での口頭弁論や国会の審議など,私たちが不同意に直面する事例は枚挙にいとまがない.

では,不同意は私たちにどのような影響を与えるのだろうか.典型的には,道徳や宗教に関する不同意が私たちに与える影響を思い浮かべるかもしれない.例えば,尊敬している同僚が「肉食は道徳的に許される」という私の意見に同意しないとき,私は自らの意見を差し控え,場合によっては肉食の習慣を変えるかもしれない.そうした不同意は,私たちの行為や生き方に影響を与えるのであり,時には当事者同士の衝突や戦争の引き金になることもあるだろう.

その一方で,事実に関する不同意が私たちに影響を与えることがある.以下の事例について考えてみてほしい.

事例1(探偵)  探偵のユウキとアオイは,強盗事件の犯人を突き止めようとしている.指紋や防犯カメラの映像などの証拠は概ね出揃っているが,犯人が誰なのかはまだわかっていない.ユウキとアオイは,こうした類の事件に関する観察力や推理力に長けており,互いの能力が同程度であることを認め合っている.さて,ユウキは出揃った証拠に基づいて「犯人はアキラである」と信じているのに対し,アオイはユウキと同等の証拠に基づいて「犯人はアキラではない」と信じている.

事例の説明に入る前に,ここでいくつかの用語を確認しておく3.信念(belief)とは,命題に対する心的態度のことである.また,命題(proposition)とは,平叙文で表される内容のことであり,世界のあり方に応じて真になったり偽になったりする.例えば,「パリはフランスの首都である」という命題は,実際にパリがフランスの首都であるときに真であり,そうではないときに偽となる.そして,主体が何らかの命題を信じているとき,その主体はその命題を真あるいは偽とみなしている.事例1について言えば,ユウキは「犯人はアキラである」という命題が真であるとみなしているのに対し,アオイは「犯人はアキラである」という命題が偽であるとみなしていることになる.

以上の用語をふまえた上で,事例1について考えてみよう.ユウキは「犯人はアキラである」という信念を抱いているのに対し,アオイは「犯人はアキラではない」という信念を抱いている.つまり,ユウキとアオイは,事件の犯人に関して互いに対立する信念を抱いており,事件の犯人が誰かということに関して不同意の状況に陥っているのである.では,こうした不同意を前にして,両者は自らの信念を差し控えるべきだろうか,それともその必要はないのだろうか.ここで問題になっているのは,事実に関する不同意に直面したとき,私たちは何を信じるべきか(what to believe)ということである.

何を信じるべきかという問いは,哲学では認識論(epistemology)という分野で論じられる重要なテーマの一つである.特に,事実に関して何を信じるべきかをめぐって生じる不同意のことを,認識的不同意(epistemic disagreement)という.こうした種類の不同意は,社会認識論(social epistemology)という分野で注目を浴びている現象である.本稿では,認識的不同意が現代の英語圏における認識論でどのように論じられているのか,ということを紹介したい.

さて,不同意の認識論は,ここ数十年の間に確立した比較的新しい分野であるにもかかわらず,現在では数多くの研究論文が公刊されている.しかし,入門書やサーベイ論文の数や種類が限られているため,不同意の認識論に関心を寄せる人にとっては敷居の高い状況が続いている(Frances 2014; Matheson 2015; Frances and Matheson 2018; Ferrari and Pedersen 2020).さらに,日本国内では一部の例外を除き,不同意の認識論に関して日本語でまとまった情報を得ることが困難な状況にある(徳永 2018; 須田 2021).

本稿の目的は,主に国内の読者に向けて,不同意の認識論がもつ面白さと射程の広さを示し,これから不同意の認識論について研究を進めようと考えている人に対して大まかな見取り図を提供することにある.

以上の目的を達成するために,本稿では,不同意の認識論がもつ二つの側面に焦点を当てる.第一の側面は,対等者不同意(peer disagreement)をめぐる論争である.概して言えば,対等者不同意とは,証拠や能力において互いに対等であるという理想的な状況に置かれた者同士の間で,事実に関して生じる不同意のことである.こうした不同意が私たちの信念に与える影響をめぐり,不動説(steadfast view)と譲歩説(conciliatory view)という見解が対立しており,両陣営の間で現在でも論争が続いている.

また,第二の側面は,非理想的な状況下での認識的不同意である.対等者不同意をめぐる論争が理想的な状況下でのやりとりを想定してきたのに対し,最近では非理想的な状況下での認識的不同意の意義を強調する議論が盛り上がりつつある.本稿では,非理想的な状況下での認識的不同意が,認識に関する倫理的問題と密接に関係していることも確認したい.

本稿の構成は以下の通りである.まず,不同意の認識論がいかなる問いを扱う分野であるのかを明確にする(2節).次に,不同意の認識論における中心的なトピックの一つである,対等者不同意をめぐる論争について,不動説と譲歩説の間の対立を軸としながら概観する(3節).最後に,認識的不同意が生じる理想的な状況と非理想的な状況を区別した上で,後者が認識上の倫理的現象の一種である,認識的不正義(epistemic injustice)と密接に関わることを確認して論を終える(4節).

2.認識論の主題としての不同意

私たちは世の中の事実に関して多数の信念を抱いており,そうした信念は他者との交流からさまざまな影響を受けている.例えば,路線の運行状況について「一部列車に遅れが出ている」という駅員の信念を参考にしたり,釣りについて「近所の堤防でブリが釣れる」という友人の信念を参考にしたりすることがあるだろう.

しかし,私たちは常に他者の信念を鵜呑みにするわけではない.時には,事実に関して他者の信念が自分の信念と対立することもある.では,事実に関して他者との不同意に直面したとき,私たちは他者に従うべきだろうか.それとも,自分の信念を曲げない方がよいのだろうか.こうした問題を考えるための手掛かりとして,以下の事例を考えてみてほしい.

事例2(専門家) ノリコは「太陽系惑星で環をもつのは土星だけである」と信じている.しかし,天文学者のカズミは「太陽系惑星で環をもつのは木星・土星・天王星・海王星の4つである」と信じている.カズミとの不同意を前にして,ノリコは自分の信念を差し控える必要があるだろうか.(Matheson 2015, 19 を改変した事例)

この事例において,ノリコが自分の信念を差し控え,カズミの信念に従うべきであることは明らかだろう.なぜなら,カズミは惑星に関してノリコが手にしていない重要な情報を手にしているからである.

しかし,以下のような一連の事例において,不同意に直面した当事者がどのように反応すべきであるのかは,それほど明らかではない.

事例3(知覚)  ルリとアサコは野鳥を観察している.どちらも野鳥観察の経験は同じくらいであり,視力や注意力は同程度に長けている.さて,ルリとアサコは木の上に鳥が止まっているのを目撃したとしよう.このとき,ルリは「あの鳥はサメビタキだ」と信じており,アサコは「あの鳥はコサメビタキだ」と信じている.なお,サメビタキとコサメビタキは野鳥観察の専門家でも見分けるのが困難であるとする.このとき,アサコとの不同意を前にして,ルリは自分の信念を差し控える必要があるだろうか.(Ferrari and Pedersen 2020, 174を改変した事例)

事例4(会計)  シロウとイサミは行きつけのレストランで夕食をとり,会計を割り勘にすることにした.合計は,18957円に消費税10%を掛けた金額になった.どちらもレシートに基づいて一人当たりの金額を暗算で求め,シロウは10426円と信じており,イサミは10428円だと信じている.両者は古くからの友人であり,こうした類の暗算に関しては互いが同等の能力をもっていると信じている.このとき,シロウはイサミとの不同意を前にして,自分の信念を差し控えるべきだろうか.(Christensen 2007a, 139を改変した事例)

さて,事例2のように,当事者の間で情報や認識能力の差があるとき,自らの信念を差し控えるべきであるのは明らかだろう.しかし,事例1事例3事例4のように,当事者の間で情報や認識能力の差がないように見えるとき,自らの信念を差し控えるべきかどうかはそれほど明らかではないのである.以上を背景として,不同意の認識論では,認識的不同意の多様な事例について,主体がいかなる場合に自らの信念を差し控えるべきか,ということに関する体系的な説明が試みられてきた.

不同意の認識論で展開されている議論を追うためには,証拠(evidence)と信念改訂(belief revision)という用語を理解しておく必要がある.そのため,ここで用語の説明を加えておこう.

まず,証拠とは,特定の命題を支持する要素のことである.事例1において,事件現場でアキラの指紋や遺伝子情報が採取されれば,それらは「犯人はアキラである」という命題を支持する証拠とみなされるだろう.ここでの「証拠」には,指紋や遺伝子情報といった物理的証拠だけでなく,犯人の顔を目撃したという記憶や伝聞といった心理的証拠も含まれる.

また,信念改訂とは,当事者が不同意に直面するよりも前にもっていた元の信念を差し控えるか,もしくは撤回するということである.事例1において,事件当日のアキラのアリバイが立証されたとすれば,ユウキは「犯人はアキラである」という信念を差し控えるだろう.このとき,ユウキは新たな証拠に基づいて自らの信念を改訂したことになる.

不同意の認識論では,不同意が信念に対して与える影響を明らかにするため,「理想的な状況下で,不同意はそれ自体として自らの信念を改訂するための証拠とみなされるのかどうか」と問うことから議論を始めることが多い.特に,当事者の証拠や認識能力が対等であるような理想的な状況下で生じる不同意のことを,対等者不同意という.ここで問われているのは,対等者が不同意に直面しているという事実が,対等者自身の信念を改訂する新たな証拠になるのかどうか,ということである.

しかし,ここでなぜ理想的な状況下での不同意について考える必要があるのか,という疑問を抱く人がいるかもしれない.この疑問に対して,マシソンは次のように応答している(Matheson 2015, 33).第一に,理想的な状況は,日常的事例では利用できない程度の正確さを可能にする.第二に,理想的な状況は,意図しない要因のコントロールを可能にする.つまり,不同意という現象そのものに関係しない要素や要因を排除できる.第三に,理想的な状況は、不同意の認識的意義を判定するための最低限の基準を明らかにしてくれる.以上の理由に基づいて,不同意の認識論では,理想的状況を想定した上で議論を進めることが多いのである.

このように,不同意の認識論では,現在でも多くの論者が対等者不同意をめぐって議論を交わしており,さまざまな見解を提示している.そこで次節では,対等者不同意をめぐる論争の状況を紹介したい.

3.対等者不同意をめぐる論争

本節では,理想的な状況下での対等者不同意をめぐる論争について紹介する.論争の状況を理解するために,対等者不同意の事例である事例3事例4を改めて確認しておこう.

事例3のルリとアサコは,互いが野鳥観察に関連する証拠に等しくアクセスでき,野鳥観察に関連する視力や注意力が同程度であることを認め合っている.それにもかかわらず,ルリは「あの鳥はサメビタキだ」と信じており,アサコは「あの鳥はコサメビタキだ」と信じている.つまり,観察された野鳥が正確には何であるのかをめぐって,ルリとアサコの間で対等者不同意が生じている.このとき,ルリとアサコは互いの不同意を前にして,自らの信念を改訂すべきだろうか.

事例4のシロウとイサミは,互いが会計に関連する証拠に等しくアクセスでき,会計に関連する計算能力が同程度であることを認め合っている.それにもかかわらず,シロウは「割り勘の金額は10426円だ」と信じており,イサミは「割り勘の金額は10428円だ」と信じている.つまり,割り勘の金額が正確には何円であるのかをめぐって,シロウとイサミの間で対等者不同意が生じている.このとき,シロウとイサミは互いの不同意を前にして,自らの信念を改訂すべきだろうか.

以上の事例で問題になっているのは,「対等者不同意に直面したとき,私たちは自らの信念を改訂すべきかどうか」ということである.この問いに対して,「改訂すべきである」と主張するのが譲歩説と呼ばれる見解であり,「改訂する必要はない」と主張するのが不動説と呼ばれる見解である.以下では,不動説の代表的見解である正当理由説(The Right Reason View)と,譲歩説の代表的見解である同等比重説(The Equal Weight View)をそれぞれ紹介しよう.

3.1 正当理由説

不動説の一種である正当理由説は,不同意が自らの信念を改訂するための証拠とはならないと主張する.正当理由説によれば,当事者は対等者不同意に直面したとしても,自らの信念を改訂する必要はないことになる(Kelly 2005; Titlebaum 2015).

さて,事例3のルリとアサコが自らの信念を改訂すべきかどうか考えてみよう.ルリは,出揃った証拠に基づいて「あの鳥はサメビタキだ」と信じている.それに対し,アサコは,ルリと同等の証拠に基づいて「あの鳥はコサメビタキだ」と信じている.では,ルリとアサコの間で生じた不同意という事実は,両者の信念を改訂するための新たな証拠とみなされるだろうか.

正当理由説によれば,不同意は自らの信念を改訂するための新たな証拠とはみなされない.このことを理解するために,ケリーに従って二種類の証拠を区別しておこう(Kelly 2005).命題を支持する証拠を一階の証拠(first-order evidence)という.例えば,特定の石器や土器は「発掘された遺跡は縄文時代のものである」という命題を支持する一階の証拠である.これに対し,一階の証拠についての証拠を高階の証拠(higher-order evidence)という.例えば,「自分は特定の石器や土器といった証拠に基づいて「発掘された遺跡は縄文時代である」と信じている」という事実は,一階の証拠についての証拠である.

以上のことをふまえ,正当理由説を支持する論証を整理すれば,以下のようになるだろう.

(前提1)一階の証拠は自らの信念を改訂するための証拠となるのに対し,高階の証拠はそうした証拠とはならない.

(前提2)不同意は,高階の証拠の一種である.

(結論)不同意は,自らの信念を改訂するための証拠とはならない.

前提1によれば,自らの信念を改訂する上で考慮すべきなのは,不同意が生じるよりも前にもっていた一階の証拠が正しく評価されていたかどうかだけである.そのため,高階の証拠は出る幕がない.例えば,事例3でルリが「なぜあの鳥がサメビタキだと思うのか」と問われたとき,「灰褐色の斑紋があるから」とは答えるかもしれないが,「自分は斑紋やクチバシの形状といった証拠に基づいて「あの鳥はサメビタキだ」と信じているから」とは答えないだろう.

前提2によれば,不同意は「自分と他者が同じ証拠に基づいて異なる信念をもっている」という事実であり,一階の証拠についての証拠である.したがって,前提1と前提2より,不同意は自らの信念を改訂するための証拠とはならない.以上が正当理由説の理論的根拠に関する説明である.

しかしながら,正当理由説に対しては,さまざまな種類の反論が提出されている.ここでは特に,正当理由説の前提1を拒否するという反論を紹介しよう.マシソンによれば,高階の証拠の中には,自らの信念を改訂するための証拠となるものが存在する(Matheson 2015, 37-8).事例3で,野鳥観察の専門家である第三者のトモミが,ルリやアサコと同じ証拠に基づいて「あの鳥はコサメビタキである」と信じているとしよう.このとき,アサコはルリを説得するために,トモミによる証拠の評価を,「あの鳥はコサメビタキである」という命題に関連した高階の証拠として持ち出すだろう.つまり,アサコは「トモミも同等の証拠に基づいて「あの鳥はコサメビタキである」と信じている」という高階の証拠を,ルリの信念を改訂するための証拠として活用できる.

以上の反論が正しければ,正当理由説は高階の証拠が信念に与える影響を低く見積もっていることになる4.ただし,正当理由説は現在ではさまざまな観点から改良が施されており,その是非をめぐって論争が続いている(Titlebaum 2015).

ここまでは不動説に属する正当理由説の考え方を見てきたが,続いて譲歩説に属する同等比重説の考え方を紹介しよう.

3.2 同等比重説

譲歩説の一種である同等比重説は,不同意が自らの信念を改訂するための証拠となると主張する.そのため,対等者不同意に直面した当事者は,自分の信念を差し控えるか,撤回しなければならないということになる(Feldman 2005, 2006; Christensen 2007a; Elga 2007; Bogardus 2009; Matheson 2015; 徳永2018; 須田 2021).

さて,事例4のシロウとイサミが自らの信念を改訂すべきかどうか考えてみよう.シロウは,手持ちの証拠と暗算に基づいて「割り勘の金額は10426円だ」と信じている.それに対し,イサミはシロウと同等の証拠と暗算に基づいて「割り勘の金額は10428円だ」と信じている.では,シロウとイサミの間で生じた不同意という事実は,両者の信念を改訂するための新たな証拠とみなされるだろうか.

同等比重説によれば,事例4のシロウとイサミは,どちらも相手に譲歩して自らの信念を差し控えるべきだということになる.というのも,シロウとイサミは互いに同等の証拠や計算能力をもっているにもかかわらず割り勘の金額に関して不同意に直面しており,そうした不同意の事実は両者が「会計に関して自分は間違っている」と信じるための証拠となるからである.

以上のことをふまえ,同等比重説を支持する論証を整理すれば,以下のようになるだろう.

(前提1)不同意は,「自分は間違っている」ことを信じるための証拠となる.

(前提2)不同意において,当事者が置かれている状況は対称的である.

(結論)不同意の当事者は,自分と相手の信念に等しい重みを与えることになる.

前提1によれば,不同意は「自分は間違っている」という信念を支持するための証拠となる.同等比重説によれば,不同意は高階の阻却要因(higher-order defeater)という特殊な種類の証拠である(Christensen 2010, 20; 徳永 2018, 27).高階の阻却要因とは,一階の証拠についての主体の評価が間違っていることを支持する証拠のことを意味している.例えば,事例4のシロウとイサミの不同意は,「会計に関する証拠や認識能力を自分は正しく評価していないかもしれない」という疑念を両者に突きつける.

前提2によれば,不同意の当事者は,証拠や認識能力に関して互いに対称的であるような状況に置かれている(Christensen 2007a).例えば,事例4でシロウが頭痛のせいでいつもの調子を出せていなかったり,イサミが周りのいたずらによって証拠の一部にアクセスできなかったりすることはない,ということである.ここで注意してほしいのは,対称性が要請されるのは不同意が生じている命題に関連する状況に限られるということだ.例えば,事例4でシロウが「レーズンは好物である」と信じており,イサミは「レーズンは苦手である」と信じているとしても,それらが会計に関連していなければ,対称性が成り立っていなくとも構わない.

以上の前提1と前提2から,不同意の当事者は自分と相手の信念に等しい重みを与えることになる.「等しい重みを与える」とは,「「自分が間違っている」という命題と「相手が間違っている」という命題が同等に確からしいと信じている」ということを意味する(徳永 2018, 16).つまり,不同意に直面した当事者は,互いの意見を相手に譲歩することになる.なお,自分の信念がどれほど正しいものに思えたとしても他者に譲歩しなければならないのは,自分の信念が誤っているかもしれないという自覚をもたねばならないためである(徳永 2018, 21; cf. Christensen 2007b).

しかしながら,同等比重説に対しても,さまざまな角度からの反論が提出されている.ここでは,対称性(Symmetry)に関する反論と、独立性原則(Independent Principle)に関する反論を紹介しよう5

まず,対称性に関する反論である.同等比重説によれば、対等者不同意に直面した当事者は,関連する証拠や認識能力に関して対称的な状況に置かれている.例えば,事例4での会計に関してシロウに当てはまることは,等しくイサミにも当てはまるということである.

ところが,同等比重説の想定する対称性は常に成り立つとは限らない,という反論がある.この反論によれば,私たちは他者よりも自分の証拠や認識能力を信頼する自信(self-trust)をもっているため,不同意の当事者が証拠や認識能力に関して常に対称的であるとは限らないのである(van Inwagen 1996; Wedgwood 2006; Enoch 2010).第一に,私的な直観や洞察は他者と共有できない特別な証拠である(van Inwagen 1996, 30-1).例えば,私の直観や洞察がどのようなものかを相手に説明することはできるが,それによって相手が私の直観や洞察そのものを得るわけではないだろう.第二に,自己中心的バイアス(egocentric bias)も,不同意における対称性を崩す証拠として機能するかもしれない.自己中心的バイアスとは,他者よりも自分自身の認識能力や心的状態を信頼する傾向である(Wedgwood 2006, 261).以上のことは,不同意における対称性が常に成り立つとは限らないことを示していると思われる.

次に,独立性原則に関する反論である.同等比重説によれば,対等者不同意に直面した当事者は独立性原則に従わなければならない.独立性原則とは,「〔命題〕Pに関する他人の信念がどれくらい認識的に信用できるのかを評価するとき,Pに関する自分の信念をどれくらい修正すべきであるのかを決定するためには,Pに関して自分が初めにもっていた信念の背後にある推論とは,独立な仕方で評価を行わなければならない」(Christensen 2009, 758)というものである.同等比重説は,この原則を認めることで,「自分が間違っているかもしれない」と信じるための理由を不同意以外の手段によって得ることを禁じることができる.例えば,事例4において,シロウが「自分は割り勘の金額が10426円だと信じている.しかし,イサミは割り勘の金額が10428円だと信じている.よって,イサミは間違っている」という推論に基づいて,自らの信念を改訂しない可能性がある.こうした可能性は,独立性原則を認めることで否定される.なぜなら,シロウは元の「割り勘の金額が10426円だ」という信念から独立した推論を用いて,イサミの信念を評価してしまっているからである.

ところが,独立性原則は同等比重説の言い分を守るために持ち出された恣意的な原則ではないか、という反論がある.なるほど,独立性原則を認めれば,事例4のシロウはイサミとの不同意という事実だけに基づいて,自らの信念を改訂するのかもしれない.しかし,シロウは「割り勘の金額が10426円だ」という信念の背後にある推論を用いることができないのだろうか.例えば,「割り勘の金額が10426円だ」というシロウの信念の背後には、「自分の計算結果は十分に信頼できる方法によって導き出された」という一階の証拠があるかもしれない.そして,シロウが「自分の計算結果は十分に信頼できる方法によって導き出された」という証拠に基づく推論によって,イサミの信念の改訂を要求することは十分に考えられる(Lackey 2010a, 324).

以上の二つの反論に対して,同等比重説を擁護する論者はさまざまな仕方で応答を試みている6.しかしながら,ここでは同等比重説が抱える課題の確認にとどめておき,以下では不動説と譲歩説の折衷を試みる見解――全体証拠説(The Total Evidence View),正当化主義説(The Justificationist View),証拠集積説(The Evidence Aggregation View)――を紹介したい.

3.3 全体証拠説

全体証拠説は,不動説と譲歩説を折衷した見解であり,どちらかと言えば譲歩説に近いアイデアを提示している.全体証拠説を支持するケリーによれば,当事者は対等者不同意の事例において自らの証拠全体によって支持される信念をもつべきであり,証拠全体には一階の証拠だけでなく高階の証拠も含まれる(Kelly 2010, 2013)7

ここで,事例1について考えてみよう.ユウキは「犯人はアキラである」と信じているのに対して,アオイは「犯人はアキラではない」と信じている.ユウキとアオイは事件に関して同等の証拠と認識能力をもっており,事件の犯人に関して互いに対立する信念を抱いている.同等比重説によれば,ユウキとアオイが互いの信念に「等しい重みを与える」,つまり,「「自分が間違っている」という命題と「相手が間違っている」という命題が同等に確からしいと信じている」のでなければならない.

しかし,全体証拠説によれば,ユウキとアオイは互いの信念に対して「等しい重みを与える」必要がない(Kelly 2010, 122-141).例えば,事例1のユウキは指紋や遺伝子情報といった一階の証拠に基づいて「犯人はアキラである」と信じているが,アオイとの不同意に直面した後では「アオイは同等の一階の証拠に基づいて「犯人はアキラではない」と信じている」という高階の証拠も手にしている.こうした高階の証拠によって,ユウキは自らの信念を少しばかり改訂する必要があるかもしれないが,自らの信念を差し控える必要がないと考えられるのである.

3.4 正当化主義説

正当化主義説は,不動説と譲歩説を折衷した見解であり,どちらかと言えば不動説に近いアイデアを提示している.正当化主義説を支持するラッキーによれば,当事者が対等者不同意に直面したときに自らの信念を改訂すべきかどうかは,その信念が元の証拠によって与えられていた正当化の度合いに応じて変化する(Lackey 2010a, 2010b)8

ここで,事例3について考えてみよう.ルリは「あの鳥はサメビタキだ」と信じているのに対し,アサコは「あの鳥はコサメビタキだ」と信じている.正当化主義説によれば,ルリが「ある鳥はサメビタキだ」ということを強く確信しているのであれば,ルリは自らの信念を改訂する必要がない.それに対して,ルリが「ある鳥はサメビタキだ」ということにそれほど確信を持てないでいるならば,ルリは自らの信念を改訂する必要がある.以上のように,正当化主義によれば,当事者の信念の度合いに応じて,自らの信念を改訂する必要があるかどうかが変わることになる.

さらに,ラッキーは自分についての情報を個人情報(private information)と呼び,不同意の中には個人情報のゆえに自分と他者の対称性が崩れる場合があると論じている(Lackey 2010b, 277).そうした情報が自分を他者よりも優位な状況に置く場合には,他者は対等者とみなされるべきではないため,自分の信念を改訂する必要がないことになる.もちろん,当事者の個人情報が同等の証拠として機能することはあるだろうが,その場合でも両者の個人情報が同じ内容だとは限らないのである.

3.5 証拠集積説

証拠集積説は,やはり不動説と譲歩説を折衷した見解の一つであり,どちらかと言えば不動説に近いアイデアを提示している.証拠集積説を支持するウェザーソンによれば,対等者不同意に直面したとき,自分と他者が証拠を共有している場合は自らの信念を改訂する必要はないが,自分と他者が証拠を共有しない場合は不同意が自らの信念を改訂する証拠となる(Weatherson 2019, 220-3)9

まず,事例4について考えてみよう.シロウは「割り勘の金額が10426円だ」と信じており,イサミは「割り勘の金額は10428円だ」と信じている.このとき,両者は会計に関して同等の証拠を共有していると思われるかもしれないが,ウェザーソンはそのようには考えない.というのも,事例4において,与えられたレシートから金額を算出するに至るまでの過程が明らかではないからである.シロウとイサミが暗算する過程は大きく異なるかもしれない.そのため,シロウとイサミは,互いがどのような計算方法をとったのかを確認した上で,その結果がどうだったのかを確認するまで,会計に関する証拠を共有しているとは言えないだろう(Weatherson 2019, 208-9)10.したがって,事例4のシロウとイサミの間で生じる不同意は,互いが自分の手にしていない証拠をもっているかもしれない可能性を示唆する証拠として機能するため,互いが自らの信念を差し控える必要があることになる.

また,ウェザーソンが挙げる以下の事例について考えてみよう(Weatherson 2019, 214).

  事例5(単純な算術)アンキタとボジャンはいくつかの算術の問題に取り組んでいる.両者は,これまでの経験から,そうした問題についてほぼ同等の正答率をもつことを知っている.さて,アンキタとボジャンが「2+2は?」という問題を解くとしよう.アンキタは「4」という答えを導いたのに対し,ボジャンは「5」という答えを導いたとする.このとき,アンキタは自分の答えを差し控えるべきだろうか.

この事例において,アンキタは「2+2は4である」と信じており,ボジャンは「2+2は5である」と信じている.ここで,「2+2は4である」という事実はアンキタの証拠の一部となっており,「2+2は4である」と信じるための強力な理由となっている.しかし,算術に関するボジャンとの不同意は,こうしたアンキタの信念に対していかなる影響も与えないだろう.よって,アンキタはボジャンとの不同意を前にしても,自らの信念を改訂する必要がない(Weatherson 2019, 220).

以上のように,証拠集積説は,対等者不同意の当事者が証拠を共有しない場合(事例4)と共有する場合(事例5)とで,異なる結論を与えている.証拠集積説の特徴は,当事者が証拠を共有する場合には,不同意が証拠としての役割をもたないことを強調する点にある.たしかに,当事者が証拠を共有しない場合に,不同意は相手が自分の手にしていない証拠をもっているかもしれないことを示す間接的な証拠にはなりうる.けれども,自らの信念の改訂を要求するのは不同意そのものではなく,不同意の背後に存在する一階の証拠なのである.

3.6 まとめ

ここまで,理想的な状況下での対等者不同意をめぐる論争を概観してきた.不動説に属する正当理由説と譲歩説に属する同等比重説はそれぞれ課題を抱えており,現在では両者を折衷する全体証拠説,正当化主義説,証拠集積説といった見解が登場している.百家争鳴の盛況を呈していると言えよう.

しかし,最近では理想的な状況下での不同意だけでなく,非理想的な状況下での不同意について認識論の観点から論じようとする研究が増えつつある(King 2011; Frances 2014; Matheson 2014).こうした研究動向をふまえ,次節では,非理想的な状況での不同意が私たちの信念に与える影響について,若干の考察を加えたい.

4.非理想的な状況下での不同意と認識的不正義

ベイカーらによれば,20世紀では理想的認識論(ideal epistemology)が脚光を浴びたのに対し,21世紀以降は非理想的認識論(non-ideal epistemology)が注目されるようになった(Barker, Crerar, and Goetze 2018, 1-3).非理想的認識論とは,悪徳,無知,不正義,不信などのように,認識実践の失敗や未達成という否定的側面に関わる主題を研究する分野である.そこで最後に,非理想的認識論の観点から認識的不同意と認識的不正義の関係について考えてみよう.

認識的不正義(epistemic injustice)とは,認識主体に対する不正の一種である.特に,聞き手が話し手のアイデンティティに関する偏見をもっているために,話し手の信用性を低く見積もることを証言的不正義(testimonial injustice)という(Fricker 2007, 20; 佐藤 2019, 第8章; 佐藤 2021, 205-213).典型的には,「相手は〇〇人だから,言っていることは信用ならない」とか,あるいは「相手は〇〇という性別だから,話し半分に聞いておこう」といった仕方で,話し手の認識能力を不当に扱うことが証言的不正義の例となるだろう.

さて,レイジワードによれば,証言的不正義が生じる場面では,抑圧する側と抑圧される側の非対称性が存在している(Lagewaard 2020, 1582; cf. Narayan 2004, 221).抑圧する側は,抑圧される側がもつ一人称視点の経験という証拠にアクセスすることができない.それにもかかわらず,抑圧する側が抑圧される側の一人称視点の経験を証拠としてみなさず,あたかも「対等」であるかのように扱うことは,抑圧される側の声を沈黙させることに繋がるかもしれない.証言的不正義に基づく対等性の押し付けが繰り返されれば,抑圧される側のものの見方が大きく変化する恐れがある(Lagewaard 2020, 1579-85).

また,スピアによれば,証言的不正義が生じる場面では,ガスライティング(gaslighting)と不同意の関係が深刻な問題をもたらすかもしれない(Spear 2019).ガスライティングとは,加害者が嫌がらせなどの手段を用いることによって,被害者が自らの認識能力を疑うようにさせる精神的虐待である.例えば,(ガスライティングという言葉の元になった)『ガス燈』(1938)という演劇作品で,夫は毎日のように妻に隠れて嫌がらせをしている.その夫は妻に「普通じゃない」と言い続けることで,妻の現実感覚を歪め,妻の正気を疑わせるように仕向けているのである.これは妻に対する精神的虐待の一種であり,ガスライティングの典型的事例であるとみなされている.

認識論の観点から見れば,加害者が行うガスライティングは,被害者がもつ信念の阻却証拠となりうる(Spear 2019, 19-22).というのも,ガスライティングによって自信喪失した被害者は,加害者に譲歩する必要がない場面ですら,加害者の信念に従ってしまうかもしれないからである.例えば,『ガス燈』の妻は,さまざまな日常の変化が自分の「勘違い」や「記憶違い」のためだと言われ続け,現実認識に対する自信を喪失しまっている.そのような状況では,夫に譲歩する必要がない事実についても,「自分の認識が間違っているかもしれない」と思って自分の信念を差し控えたり,撤回したりするかもしれないのである.

以上の議論から得られる教訓は,日常生活の不同意において対等性を無理やり当てはめようとすることが,一種の認識的不正義をもたらすことになりかねないということである.私たちは,非理想的な状況下での不同意に直面するとき,当事者の証拠や能力だけでなく,当事者が置かれている社会的地位や環境などの要因についても注意深く考慮しなければならない.

5.おわりに

まとめよう.現代認識論では,事実に関して何を信じるべきかをめぐる認識的不同意が主題的に扱われており,不同意が信念に与える影響に関する問いを中心に活発な議論が展開されてきた.対等者不同意をめぐる論争は,不動説と譲歩説の対立を出発点として,現在では両者の折衷を試みるさまざまな立場が提案されている.最近では,非理想的な状況下での不同意が信念に与える影響に焦点が当たっており,認識的不正義と認識的不同意の関係についての研究がその一例として挙げられる.

最後に,本稿では紹介できなかった研究動向について述べておこう.まず,対等者不同意をめぐる不動説と譲歩説の対立は,論理や確率に関する議論に基づいた形式認識論(formal epistemology)の観点からも検討されている.また,非理想的な状況下での不同意は,認識的不正義を含む認識的暴力(epistemic violence)や認識的抑圧(epistemic oppression)との関係が盛んに論じられ始めている.そして,認識的不同意は,道徳的不同意や宗教的不同意といかなる点で共通しており,いかなる点で異なるのかという問題もあるだろう.

本稿では,認識的不同意をめぐる論争の一端を示したにすぎない.不同意の認識論は対等者不同意をめぐる不動説と譲歩説の対立に尽きるわけではないし,非理想的な状況下での不同意に関する考察は端緒についたばかりである.私たちは,日常生活のいたるところで認識的不同意に直面する可能性があるにもかかわらず,そうした不同意が私たちにどのような影響を与えるのかについては謎めいたままである.不同意の認識論は皆さんの挑戦を待っている.

  1.    本稿は,哲学若手研究者フォーラムテーマレクチャー「現代認識論」で発表したスライドに大幅な加筆修正を施したものである.岡本慎平,笠木雅史,高田敦史,徳永和朗,中根杏樹,松本将平,渡辺一暁より,初期の発表原稿について有益なコメントをいただいた.ここに記して感謝する.
  2.    本稿では,disagreement の訳語として「不同意」を採用する.もちろん,「不一致」(須田 2021, 38)や「意見の不一致」といった訳語でも議論に差し障りはない.
  3.    ここでは,信念を二値的に理解している.つまり,主体Aが特定の命題Pを信じるとき,AはPが真であると信じるか,AはPが偽であると信じるか,AはPが真か偽かの信念を差し控えるかのいずれかだとみなしている.それに対して,信念を度合的に理解する方法もある.それによれば,AがPを信じるとき,AがPをどの程度確信しているかは,AがPに対して絶対的な確信をもっているときに1,Pの否定に対して絶対的な確信をもっているときに0となるような,0から1までの実数値によって表現される(なお,信念の二値的理解と度合的理解の整理は,徳永 2018, 5-7とSchwitzgebel 2019の説明に従っている).信念の二値的理解と度合的理解はどちらも重要であるが,本稿では議論の錯綜を避けるため,基本的には二値的理解に基づいて議論を進めつつ,必要に応じて度合的理解も紹介したい.
  4.    正当理由説を提唱したのはケリーである(Kelly 2005).しかし,その後にケリーは正当理由説を放棄し,一階の証拠だけでなく高階の証拠も考慮に入れる全体証拠説と呼ばれる見解へと立場を変更した(Kelly 2010).全体証拠説の概要については,本稿の3.3を参照してほしい.
  5.    本稿では混乱を避けるため詳細を紹介できないが,さらに同等比重説に対しては自己論駁(self-defeating)に関する反論と一意性(uniqueness)に関する反論がある.自己論駁に関する反論とは,同等比重説の主張自体の真偽について不同意が生じたとき,同等比重説の擁護者は「同等比重説の主張は真である」という信念を差し控えるか,もしくは撤回しなければならなくなるため,同等比重説は自己論駁的であるというものである(Weatherson 2013).この問題に対して,Elga 2010やMatheson 2015や徳永 2018が詳細な検討を試みている.また,一意性に関する反論とは,「ある証拠全体が与えられたとき,任意の命題に対してとりうる合理的な信念的態度が一意に存在する」(White 2005, 445)というテーゼを拒否すれば,不同意に直面しても譲歩する必要がないことになるというものである.この反論に対しても,White 2005やBallantyne and Coffman 2012が詳細な検討を試みている.
  6.    van Wietmarschen 2013は独立性原則に関する応答を試みているが、須田 2021はその応答が不十分であると考えて議論の補強を試みている.また,徳永 2018は同等比重説の擁護にあたって独立性原則が不要であるという議論を展開している.
  7.    全体証拠説の紹介は,Frances and Matheson 2018, sec. 5.4と徳永 2018, 39-46に基づいている.
  8.    正当化主義説の紹介は,Ferrari and Petersen 2020, 177に基づいている.
  9.    証拠集積説の紹介は,徳永 2018, 34-9に基づいている(ただし,徳永はWeatherson 2019で展開される議論の元になった「証拠主義説(The Evidentialist View)」の議論を紹介・検討していることに注意).
  10.    ウェザーソンの議論は,Harman 1986における推理(inference)と含意(implication)の区別に基づく証拠概念の理解に依拠している(Weatherson 2019, 208).それによれば,ある結論への帰結関係を支持する証拠を持っていることは,その帰結を支持する証拠を持っていることとは異なる.例えば,「双子素数は無数に存在するか」という未解決問題について,ある数学者がもつ証拠は「双子素数は無数に存在する」という結論を含意するかもしれない.しかし,当の証拠は「双子素数は無数に存在する」という結論を支持する証拠にはならない.なぜなら,その数学者が実際に推理して結論を確かめるまで,そのような証拠を手にすることはできないからである.

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