2022 Volume 2022 Issue 49 Pages 70-81
無限判断論と充全的規定の関係について
鈴木 元
『純粋理性批判』(以下,『批判』と略す)に登場する判断表において,カントは判断の質を肯定判断,否定判断, 無限判断に区分した.肯定判断とは主語に述語を付加する判断であり(「SはPである」),否定判断とは主語に述語を付加することを否定する判断であり(「SはPではない」),無限判断とは主語に否定的述語を付加する判断である(「Sは非Pである」).さしあたり,このように整理することができるものの,どのような点で無限判断が残りの二つの判断と異なる独自の機能を持っているのかをめぐっては解釈が分かれる.無限判断に関する先行研究を包括的に整理したジーベルは,先行研究を三つに分類し,そのいずれについても,それと齟齬をきたすカントのテキストが存在するため,無限判断についての整合的な解釈を導くことはできないという結論を下している(Siebel 2017, 712).
判断表の一角を占める無限判断の解釈が一意に定まらないことは,弁証論におけるアンチノミー章ならびに理想章を読解する上で大きな問題となる.というのも,無限判断は,アンチノミー論や充全的規定の議論において重要な役割を果たすからである.まず,無限判断がアンチノミー論と関わることは多くの先行研究によって論じられてきた1.世界に始まりはあるのか否か,世界に空間的な果てはあるのか否かを問う第一アンチノミーに対して,カントは,定立「世界は有限である」と反定立「世界は無限である」がともに偽である,という解決を与える.この解決方法は,定立が実際には「世界は非無限である」という無限判断であることが明らかにされることで可能となる(A503-504/B531-532).それゆえ,無限判断を要とする(数学的)アンチノミーの解決方法を説得的に再構成するためには,無限判断がどのような機能をもつのかを明確にする必要があるだろう.また,無限判断が充全的規定の議論と関わることも先行研究によって指摘されてきた2.『批判』の理想章において,神の存在証明が論じられるに先立って,ヴォルフ学派から継承された個体化の原理である充全的規定が取り上げられる.この原理が無限判断と関係することは,『批判』では言及されないものの,覚書と講義録では言及されている.それゆえ,充全的規定を理解する上でも無限判断をどう解釈するかが問題となるのである.
したがって,アンチノミー論や充全的規定の議論を再構成するには,そもそも無限判断がどのような判断かを理解しなくてはならない.しかし,その無限判断が何かをめぐっては解釈が分かれてしまっている.先ほど言及したジーベルは無限判断の解釈を三つに分類する(Siebel 2017, 700).すなわち,無限判断が主語の存在措定(existential import)を含意するという解釈1,無限判断が主語の整合性措定(consistency import)を含意するという解釈2,無限判断が有する否定的述語の外延が制限されているとする解釈3である(Siebel 2017, 702-704).その上で,アンチノミー論に関しては解釈3を採用するのが妥当であるが,充全的規定の議論に関しては解釈2を採用するのが妥当である,という判定を下している(Siebel 2017, 705-707; 710-711)3.
アンチノミー論と充全的規定の議論について異なる解釈が採用されるという事態は,弁証論を解釈する上で大きな問題となる.こうした問題状況を受けて,本稿では,アンチノミー論には解釈3が妥当するという判定には同意した上で,充全的規定の議論を再構成する上で適切な解釈は,解釈2ではなく解釈3であるということを示す.それが成功すれば,アンチノミー論や充全的規定の議論のいずれについても,一貫して解釈3を採用して再構成できるだろう.紙幅の関係で,アンチノミー論に立ち入ることは省かざるを得ない.だが,解釈3によって弁証論の議論を整合的に解釈できることを示す点で本稿の試みは十分意義のあるものであると考える.
本稿の構成を説明しよう.第2節では,無限判断がどのような判断であるのかを確認する.第3節では,ジーベルが示した無限判断の三つの解釈を概観する.第4節では充全的規定の議論を整理した上で,解釈2が適切であるとするジーベルの判定とは異なり,解釈3が適切であるという本稿の立場を示す4.
第2節では,無限判断がどのような判断であるのかを確認する.無限判断の定義を与えるテキストとしては,判断表が登場する『批判』の分析論第9節,そのほかに覚書,論理学講義が挙げられる.それらのテキストを参照し,無限判断の特徴を整理しよう.
まず,無限判断は,否定判断との対比によって特徴づけられる.無限判断とは「Sは非Pである」という形の判断であり,否定が繫辞ではなく述語に作用する.それに対して否定判断の場合,否定が繋辞に作用する.以下,『イェッシェ論理学』からの引用である5.
否定判断において否定はつねに繫辞に作用するが,無限判断において否定によって作用されるのは繫辞ではなく述語であり,このことはラテン語において最も良く表現され得る.(IX 104)
例えば,否定判断「魂は死すべきものではない(anima non est mortalis)」では,否定詞nonは繫辞に作用するのに対して,無限判断「魂は不死である(anima est non mortalis)」では,否定詞nonは述語に作用する6.このように,繫辞否定である否定判断と異なり,無限判断は述語否定を特徴とする.
また,無限判断は,繫辞については肯定的であり,非Pを主語に付加するという機能を持つ.「否定判断は,否定的概念を主語に関して肯定する判断から区別されている」(Refl. 3071, XVI 641)と述べられるように,繫辞否定である否定判断は述語Pの主語への付加を否定するだけである一方,繫辞肯定である無限判断は非Pを主語に関して肯定する.主語に非Pを付加するという無限判断の特徴は,述語概念の外延を表現する領域のメタファーによっても説明される.以下,いずれも覚書からの引用である.
否定命題は,或るものが与えられた概念の領域の下に含まれていないことを示す.無限命題は,或るものが与えられた概念の外部にある領域の下に含まれていることを示す.したがって無限命題は,その概念の領域の外部に,無限命題が含まれる別の領域があること,かくて無限命題が前者の領域を制限する領域に属することを表象する.(Refl. 3063, XVI 638)
無限判断は主語が述語の領域の下に含まれていないことを示すのみならず,主語が無限なものの中にある述語の外部のどこかにあるということを示す.したがって無限判断は述語の領域を制限されたものとして表象する.(Refl. 3065, XVI 639)
否定判断「魂は死すべきものではない」は,主語である魂が述語P「死すべきものである」の外延の中に含まれないことを示すだけである.他方,無限判断「魂は不死である」は,主語である魂がその述語Pの外延の中に含まれないことを示すのみならず,その主語が非Pの外延に含まれることをも示すのである.
このように,繫辞否定であり,肯定的述語をもつ否定判断は,述語Pの主語への付加を否定するだけであり,このことは主語が述語Pの外延に含まれないことを意味する.他方,述語否定であり,繫辞肯定である無限判断は,述語Pの付加を否定するのみならず,非Pを主語へ付加する役割も担う.このことは,主語が非Pの外延中に含まれることを意味する.以上の特徴は,否定判断との差異によって得られるものである.
他方で,無限判断は肯定判断との差異によっても特徴づけられている.以下,分析論第9節からの引用である.
一般論理学においては,無限判断は肯定判断に正当に数え入れられ,特別な分肢を形作らないとはいえ,超越論的論理学においては,無限判断は肯定判断からさらに区別されなければならない.すなわち,一般論理学は(否定的であるとはいえ)述語の一切の内容を捨象し,その述語が主語に付加されるか,あるいは主語と対立するかに注目する.他方,超越論的論理学は判断を,たんに否定的な述語を介したこの論理的肯定の価値あるいは内容の面からも考察し,この論理的肯定が認識全体に関してもたらす収穫を考察する.(A71-72/B97)
カントによれば,一般論理学とは,認識の内容,すなわち対象との関係を捨象し,認識の形式のみを考察する論理学である一方,超越論的論理学とは認識の内容をも考察する論理学である(A54-55/B78-79).一般論理学は無限判断を肯定判断に数え入れるが,無限判断の「価値」あるいは「内容」の面をも考慮する超越論的論理学は無限判断を肯定判断から区別する.石川求が示すように,一般論理学はヴォルフ学派の論理学を指しており,ヴォルフ学派において,無限判断は否定判断を肯定判断に変える換質という操作として捉えられ,肯定判断に分類されていた(石川求 2018, 62-64)7.ヴォルフ学派を念頭において,カントは,超越論的論理学において無限判断を肯定判断から区別することを意図していたのである8.
述語Pを主語に付加する肯定判断と,非Pを主語に付加する無限判断は,付加する述語の外延が相互排他的であることによって,さしあたり区別されうる.だが,カントは肯定判断と無限判断の違いをその点に求めず,両者の区別の根拠を,非Pの領域が無限であることに求めている.以下,分析論第9節の後続箇所からの引用である.
さて私は「魂は不死である」という命題によって,魂を不死である存在者という無制限の外延に定立する(setzen)ことで,確かに論理的形式の面で実際に肯定したことになる.(……)しかしこれによって,全ての可能なものという無限の領域から死すべきものが切り離され,その空間の残余の外延に9魂が定立される限りでのみ,その無限の領域は制限される.けれども,この空間はこの除去にもかかわらず,なお変わらず無限であり,空間のさらにより多くの部分が取り去られ得るが,とはいえ,だからといって魂の概念は少しも増大せず,肯定的に規定されることもない.(A72-73/B97-98)
無限判断「魂は不死である」は,すでに確認した通り,魂を述語P「死すべきものである」の外延から排除するだけでなく,魂を非Pの外延に帰属させる.そのことをカントは,主語である魂を非Pの外延に「定立する(setzen)」とここで表現している.それによって,「全ての可能なもの」という無限の領域から述語P「死すべきものである」の外延が取り除かれ,全体領域が制限される.だが,述語P の外延の外部にある述語「不死である」の外延は何らかの意味で無限である10.非Pの領域がどのような意味で無限であるのかは,それ自体解釈問題であるため,ここでは深く立ち入れないが 11,少なくとも引用箇所からわかることは,非Pの領域の無限性が意味するところは,無限判断によって「魂の概念の内容が増大することはなく,肯定的に規定されることもない」ということである.無限判断に対して,肯定判断は主語概念の内容を増大させ,肯定的に規定すると思われる.それゆえ,肯定判断と無限判断は,肯定的規定を主語に付加するかどうかという点から区別されていると言えるだろう12.
無限判断の特徴をまとめよう.第一に,繫辞否定であるが,述語肯定である否定判断は,主語への述語Pの付加を否定するだけである一方,述語否定であるが,繫辞肯定である無限判断は,述語Pの付加を否定するのみならず,非Pを主語に付加する機能をも有する.この機能は,主語を非Pの外延に定立する機能として表現されている.こうして無限判断は否定判断から区別される.第二に,無限判断は肯定判断からも区別され,その違いは,肯定判断が肯定的規定を増やすのに対して,無限判断が肯定的規定を増やさないという点にある.以上,無限判断がこれらの特徴をもつことを前提にして,次節では,無限判断をめぐる三つの解釈を概観しよう.
序論でも触れた通り,ジーベルは先行研究の主要な解釈を三つに分類する.解釈1は無限判断が主語の存在措定を含意するというもの,解釈2は無限判断が主語の整合性措定を含意するというもの,解釈3は,無限判断が有する否定的述語の外延が制限されているというものである.ジーベルは無限判断の解釈をこのように分類したうえで,充全的規定の議論については解釈2が適切である一方,アンチノミー論については解釈3が適切であると判定する.第3節では,ジーベルの分類に従って先行研究の主要な解釈を概観し,それによって,充全的規定の議論の再構成のために採用するべきは,解釈2ではなく,解釈3であることを第4節において明らかにするための準備をする.
三つの解釈は,無限判断が主語概念に否定的な規定(非P)を付加し,その内包を増やす機能を持つことを認める点では同じである13.それぞれの解釈は,無限判断が肯定判断と否定判断から区別される仕方をめぐって異なっている.解釈1は,カントの論理学を名辞論理学と捉え,定言的判断は主語概念と述語概念の間の外延的な包含関係を表現すると考える14.とくに,定言的肯定判断は,主語概念の外延が述語概念の外延に含まれていることを表現する.そこでは,主語概念の外延が空ではないことが前提されている.主語概念の指示対象が存在しないという事態を防ぐためである.この前提が主語の存在措定と呼ばれる.解釈1は,肯定判断と同様に,無限判断もまた主語の存在措定を含意するとみなす.第2節で確認した通り,否定判断は,主語概念の外延が述語概念Pの外延中に含まれないことを意味するだけだったが,無限判断は,主語概念の外延を非Pの外延中に「定立する」ことをも意味した.解釈1は,その領域への定立作用を,主語概念の外延を述語概念の外延中に包含する機能と捉え,その上で,無限判断の主語概念の外延が空でないことが前提されていなければならないと考えるのである.こうした解釈1の下では,無限判断と否定判断は,存在措定を含意するかしないかによって区別される.他方で,無限判断と肯定判断は,無限判断が主語に付加する非Pの外延が,肯定判断が主語に付加する述語Pの外延の補集合であることによって区別される.
解釈2は,解釈1の存在措定を整合性措定に代えたものである.主語の整合性措定とは,主語概念が矛盾をうちに含まないこと,すなわち論理的に可能であることを意味する.解釈2はヴァンツォによって提出された(Vanzo 2014).解釈1とは異なり,ヴァンツォは,あらゆる肯定判断が主語の存在措定を含意し,あらゆる否定判断が主語の存在措定を含意しない,という名辞論理学の想定をカント論理学にあてはめることに異議を唱える.ヴァンツォは,カントの記述をいくつか参照し(A259/B314, A594/B622, VIII 235),分析的な肯定判断が主語の現実存在を前提していないことを指摘した上で,件の想定を修正する.すなわち,肯定判断に関して二つの場合に分けて,あらゆる分析的肯定判断は,主語の存在措定を含意せず,いくつかの総合的肯定判断は主語の存在措定を含意すると修正するのである(Vanzo 2014, 207-208; 213-214).それに伴い,無限判断は,それが分析的である場合,主語の存在措定を含意しないことになる.しかしそれだと無限判断と否定判断は主語の存在措定の有無によって区別できなくなる.そこでヴァンツォは,無限判断(分析的であれ,総合的であれ)が主語の整合性措定を含意していることに着目し,整合性措定の有無によって無限判断は否定判断から区別されると考えるのである(Vanzo 2014, 224-225).
ヴァンツォの解釈は,分析的な肯定判断と無限判断には現実存在しない対象に性質を帰属させる働きがあるという考えに基づいている(Vanzo 2014, 221-223)15.解釈2においても,解釈1と同様に,肯定判断と無限判断が主語概念と述語概念の外延的な包含関係を表現するということは想定されている.だが,解釈2の場合,解釈1と異なり,分析的な肯定判断と無限判断は,存在措定(主語概念の外延が空ではないこと)を含意せずに,対象に肯定的あるいは否定的性質を帰属させると考える.ただし,主語概念の指示対象が現実存在しない場合であっても,主語概念が無矛盾律に従って論理的に思考可能であることは前提されている.こうした考えに基づき,解釈2は無限判断を主語の整合性措定によって特徴づけるのである.解釈2の下では,無限判断は主語概念の論理的可能性(整合性措定)を含意し,それに対して否定判断はそれを含意しないとされる.また,無限判断と肯定判断は,解釈1と同様に,述語Pの外延と非Pの外延が補集合の関係にあることによって区別される.
解釈1と解釈2は主語の性質に着目して定式化を試みる立場であった.それに対して,解釈3は否定的述語の性質に着目して定式化を図る立場である.解釈3は,否定的述語である非Pの意味内容によって,その外延が制限されると考える.例えば,「死すべきものである」と「不死である」は生物にのみ帰属しうるため,どちらの述語も無生物である石には帰属されえない.この例のように,解釈3は,述語Pと非Pに関して物を規定できるかどうかが,述語の意味内容によって左右されると考える.言い換えれば,解釈3は,述語Pと非Pの両方が付加され得ない物の存在を前提とするのである16.解釈3の下では,無限判断と否定判断は,非Pの外延が制限されているかいないかによって区別される.また,無限判断と肯定判断は,述語Pの外延と非Pの外延の相互排他性によって区別される.ただし,解釈3の場合,先の二つの解釈と異なり,非Pの外延がPの外延の補集合とはならない17.
以上,三つの解釈をまとめよう.まず,解釈1と解釈2は,主語の性質に着目して,無限判断を定式化する.解釈1は,無限判断は主語の存在措定を含意すると考える.解釈1の下では,無限判断は,存在措定の有無によって否定判断から区別される一方,述語Pの外延と非Pの外延の相互排他性によって肯定判断から区別される.ただし,解釈3とは異なり,非Pの外延が述語Pの外延の補集合となる.解釈2は,無限判断が主語の存在措定ではなく整合性措定を含意すると考える.解釈2の下では,無限判断と否定判断は整合性措定の有無によって区別され,無限判断と肯定判断は解釈1と同じ理由で区別される.解釈1と解釈2に対して,解釈3は述語の意味内容に着目して無限判断を定式化する.つまり非Pの意味内容によって,非Pを述定可能な物の領域が制限されると考える.解釈3の下では,無限判断と否定判断は,非Pの領域の制限の有無によって区別される.他方,無限判断は,述語Pの外延と非Pの外延の相互排他性によって肯定判断から区別される.ただし,先の二つの解釈とは異なり,非Pの外延が述語Pの外延の補集合とはならない.というのも,解釈3は,両方の述語が帰属し得ない物の存在を前提とするからである.第4節では,ジーベルによる無限判断の解釈の分類を踏まえて,充全的規定の議論を再構成するためには解釈3を採用するべきであることを示す.
すでに述べた通り,ジーベルは充全的規定の議論を再構成する上では解釈2が適切であり,アンチノミー論を理解する上では解釈3が適切であると判定した.本稿は第4節で,ジーベルとは異なり,充全的規定の議論についても解釈3が適切であることを明らかにする.それによって,充全的規定の議論とアンチノミー論の双方について,一貫して解釈3を用いて解釈できる可能性を提示する.
そのために,4-1節では,充全的規定とは何かを確認した上で,充全的規定と無限判断がどのように関連するのかを説明する.『批判』など公刊された著作においては,無限判断は充全的規定と関係づけられていない.両者の関係が論じられるのは,覚書と『ヴィーンの論理学』においてである18.本稿は,覚書の記述を跡づけて,両者の関連を示す.その上で,4-2節では,ジーベルが充全的規定の議論について解釈2を採用した理由とその問題点を明らかにし,解釈3を採用するべき理由を示す.
まず,『批判』の理想章第2節「超越論的理想(超越論的原型)について」に即して,充全的規定とは何かを確認する.カントは,理想章第2節において,概念が従っている規定可能性の原則と,物が従っている充全的規定の原則を順番に論じている.
各々の概念は,それ自身の内に含まれていないものに関して未規定的であり,規定可能性の原則の下に立つ.その原則とは,互いに矛盾対立する,それぞれ二つの述語の内で,一方の述語のみがその概念に帰属しうるというものである.その原則は無矛盾律に基づいているのであって,認識の内容を度外視し,認識の論理的形式のみに着目するたんに論理的な原理なのである.(A571/B599)
規定可能性の原則とは,述語Pと非Pに関して未規定的な概念について,両方の述語のうち一方のみをその概念に帰属することができるという規則であり,無矛盾律を前提とする.無矛盾律は一般に,同一の主語において述語Pと非Pが両立不可能であるという規則を指す.だが,規定可能性の原則では,二つの対立する述語の一方のみが概念に帰属するという二つの述語の間の排他的な選言性をも含んでいる.実際,カントは,この原則が排中律に基づくとも述べている(A572/B600 Anm.).したがって,規定可能性の原則は排中律にも従っている19.
それに引き続いて,カントは充全的規定の原則について述べている.
他方,各々の物は,その可能性に関して,さらに充全的規定の原則の下に立つ.その原則に従って,各々の物には,諸物の全ての可能な述語のうち,それらの述語がその反対物と比較される限りで,一つの述語が帰属しなければならない.この原則20は無矛盾律にのみ基づくのではない.というのも,その原則は,二つの互いに対立する述語の関係を考察するばかりでなく,各々の物をさらに,諸物一般が有する全ての述語の総括としての可能性総体との関係においても考察するからである.(A571-572/B599-600)
規定可能性の原則が概念の規定にかかわるのに対して,充全的規定の原則は物の規定にかかわる.充全的規定の原則とは,諸物一般が有するあらゆる述語Pについて,述語Pと非Pのいずれかが物に帰属しなければならないという規則である.充全的規定の原則は,規定可能性の原則と同じく無矛盾律に従うばかりではなく,諸物一般が有するあらゆる述語Pをも前提とする.
カントはこの充全的規定の原則をヴォルフ学派から受容している.充全的規定の由来はライプニッツの個体概念に求められる.ライプニッツの哲学においては,「個体的実体の概念は一度に自らにいつか起き得る全てのことを含んでいる」(GP4, 436)21と述べられるように,個体概念は無数の述語(出来事)を含んでいるとされ,完足的概念とも呼ばれる.例えば,カエサルの個体概念には,彼の身に起きる全ての出来事(述語)が内在しているのである.ヴォルフやバウムガルテンはこのような個体概念を受け継ぎ,個体を充全的に規定された(omnimode determinatum)存在者として捉えている22.カントの哲学においても充全的に規定された物は個体を意味する.
では,無限判断は充全的規定とどのように連関するのだろうか.カントが両者の連関を語るのは,次の覚書においてである.
前者〔否定判断〕は排中律に従って起こる(aと非aの間で第三者を与えない).後者〔無限判断〕は充全的規定の原理に従って起こり,充全的規定は無限である.前者は,二つの対立する判断の間で一方の判断が真である,という規定の原理である.その原理が語るのは,ただ命題「魂は死すべきものではない」が,命題「魂は死すべきものである」と対立するということのみである.後者〔無限判断〕は充全的規定の原理に従って起こり,この原理は物一般に関して起こるべきで,事象性一般すなわち実在性(Realität)に関してのみ規定するのであり,概念の領域を招来するのみならず,あらゆる物の規定という無限の領域,すなわち事象性,つまり実在性という無限の領域をも招来する.(……)命題「魂は不死である」は規定判断であり,その判断は,二つの対立する述語aと非aの内,後者の述語が魂に帰属することを語っている.全ての規定判断は,物を充全に規定し,たんに結合あるいは対立という関係を示すだけではないために,無限である.論理学は,内容すなわち概念の規定に着目せず,ただ一致あるいは対立という関係の形式にのみ着目する.(Refl. 3063, XXVI 638)
この覚書においては,否定判断が排中律にもとづく「規定の原理」と結びつけられている一方,無限判断は「充全的規定の原理」と結びつけられている.これら二つの原理がそれぞれ,理想章に登場する規定可能性の原則と充全的規定の原則に対応することは容易に見て取れる.前者の排中律は,肯定判断(魂は死すべきものである)と否定判断(魂は死すべきものではない)の内,一方が真で他方が偽であることを意味し,そのため否定判断は排中律に従って起こる23.理想章で登場した規定可能性の原則にならって言えば,同じ概念は述語Pによって規定されるか(肯定判断),非Pによって規定されるか(否定判断)のいずれかであり,対立する両命題は両立不可能であるため無矛盾律に基づいているばかりではなく,排他的選言性を意味する排中律にも基づいている.
それに対して,後者の充全的規定の原理は,「事象性一般」あるいは「実在性(Realität)」に関して物を規定する規則である.実在性とは,バウムガルテンの用語である実在性(realitas)に由来し,物がなんであるかを示す肯定的な規定を意味し,否定的な規定である否定性(negatio)と対立する24.充全的規定は,物についてP(実在性)と非P(否定性)のいずれかを規定することであり,無限判断(魂は不死である)は,物を非P(否定性)によって規定する判断である.覚書から読み取れることは,概念を述語Pと非Pのどちらかによって規定する場合には,肯定判断と否定判断のペアが必要となるのに対して25,物を両述語のいずれかによって規定する場合には,肯定判断と無限判断のペアが必要となるということである26.
ここまで4-1節で,覚書3063番に基づき,無限判断と充全的規定の連関を示すことができた.次節では,両者の連関にかんするジーベルの解釈を検討しよう.
すでに述べたように,ジーベルは,充全的規定の議論に関しては,解釈2を採用するのが適切であるという判定を下している.充全的規定の原則とは,ある物について,物一般が有する全ての可能な述語Pと,それを否定した非Pのうち,一方のみを規定しなければならないという規則であった.そのため,この原則は,Pと非Pの両方の述語によって規定することのできない物の存在を許容しない.ジーベルは,そのことを踏まえて,両方の述語が帰属し得ない物の存在を前提にする解釈3を採用しない.そこで,ジーベルは,充全的規定の原則が,「物の可能性」,「諸物の全ての可能な述語」,「可能性総体」に関わる点に着目し(A571-572/B599-600),そこで意味されている可能性を概念に矛盾が含まれないという意味での論理的可能性として解釈することで,無限判断が主語の整合性措定(主語概念の無矛盾性)を含意するという解釈2を採用するのである(Siebel 2017, 710-711).
それに対して本稿は,解釈3が充全的規定の議論を再構成する上で適切であることを示す.解釈3を採用することを阻む障壁は,解釈3においては述語Pと非Pの両方が帰属しえない物の存在が前提されているが,物の充全的規定においては両方の述語の一方が必ず帰属するという排他的選言性が前提されているという点にある.五十嵐が示すように,この問題点を解消するためには,物の充全的規定が統制的原理にすぎず,充全的に規定された概念が可能な経験を超越した理念に過ぎないということに着目すればよい(A573/B601; A655-656/B683-684; 五十嵐 2020, 7-8).『イェッシェ論理学』において,カントは充全的規定について次のように述べている.
最高で完全な規定は充全的に規定された概念(conceptum omnimode determinatum),つまり,さらなる規定をそれに対してもはや付け加えて思考されることができない概念を与えるだろう.(IX 99)
個別的な物あるいは個体のみが充全的に規定されているから,充全的に規定された認識も直観としてのみ存在しうるのだが,しかし概念としては存在しえない.後者の概念について論理的な規定は完全なものとしてみなされえない(11節註解).(IX 99)
カントによれば,充全的規定は,あらゆる述語Pと非Pのペアのどちらかによって物を規定し尽くすことであるから,充全的に規定された概念があるとすれば,それに新しい規定を付け加えることはできないだろう.充全的に規定された概念は,すでに確認した通り,個体の概念であるが,充全的に規定された個体認識は直観を通じてのみ可能であり,概念を通じては不可能であるとカントは述べている.その際,11節註解が参照されており,その註解では,概念が複数のものに共通するという一般性ゆえに,あらゆる概念は必ず種別的な差異を(気づかれていないにせよ)持っており,そのため概念を規定し尽くすことはできないと述べられている(IX 97).カントにとって,充全的に規定された個体概念は経験的に可能なものではなく,理念に過ぎない.個体の認識を可能にするのは直観であり,概念ではないのだ.
充全的に規定された個体概念が統制的な理念にすぎないという点を踏まえるなら,あらゆる述語Pについて,Pと非Pのいずれか一方が必ず物に帰属することを要求する充全的規定と,両方の述語が帰属しえない物の存在を前提とする解釈3の両立が可能であることを示せる.充全的規定と解釈3を両立させるには,感性的直観を通じた物の認識が可能な範囲内で(可能な経験の領野の内で),物を無矛盾律と排中律に従って述語Pと非Pのいずれかによって規定することができると考えればよい.つまり,物を述語Pと非Pのいずれかによって規定する営みは,直観を通じたその物の認識が可能であることを前提すると解釈するのである.充全的規定は,物を述語Pと非Pのいずれかによって規定せよ,と命じる規則であるが,物の規定が実際に可能であるのは物の直観が可能な限りであり,物の直観が不可能な場合には,物を規定することはできないのである.
このように解釈3が充全的規定の議論と両立しうることを示せた.それに加えて,解釈2を採用することの問題点がどこにあるのかも説明しよう.解釈2が充全的規定に妥当すると考えられる根拠は,まず,解釈2が述語Pと非Pの両方が帰属し得ない物の存在を前提せず,さらに,充全的規定が問題とする物の可能性が,解釈2の下で無限判断が含意する主語の無矛盾性(論理的可能性)に対応するということであった.本稿としては,解釈2を充全的規定の議論に採用することの問題点は,後者の点にあると考える.というのも,カントは概念の論理的可能性と物の実在的可能性を区別しており(B302 Anm.; A596/B624 Anm.),充全的規定で問題となる可能性は,概念の論理的可能性(無矛盾性)ではなく,物の実在的可能性であると思われるからである.このことは,充全的に規定された概念が,選言的理性推論の論理的形式を「直観の総合的統一」に適用することで生じることからも支持されるだろう(A321-323/B378-379).
解釈2を提示するヴァンツォは,論理的に思考可能な対象を否定的に規定する無限判断を分析的な判断とみなし,充全的規定で行使される無限判断が分析的であると考えている(Vanzo 2014, 220-223).だが,充全的規定は概念の論理的可能性ではなく,物の実在的可能性を問題とする総合的な原則である.そのため,充全的規定において働く無限判断は総合的であると考えるべきであり,解釈2を採用することはこれに反していて問題がある27.
最後に,解釈1を採用するべきではない理由も示そう.解釈1は,無限判断が主語の存在措定を含意するとみなす解釈であった.これは,無限判断では主語概念の対象が現実存在することが前提されていることを意味する.充全的に規定された概念は理念であって,可能な経験の範囲内にはないことを踏まえると,充全的規定において働く無限判断は,少なくとも主語概念の対象が現象として現実存在することを含意しているとは言えない.したがって,解釈1を採用することにも問題があると言える.
以上の議論をまとめよう.本節では次の二つのことを示した.第一に,充全的に規定された概念が統制的な理念であることを踏まえれば,述語Pと非Pのいずれか一方が必ず物に帰属しなくてはならないことを要求する充全的規定と,両方の述語が帰属され得ない物の存在を前提する解釈3が両立しうるということを指摘した.というのも,無矛盾律と排中律に従った物の規定は,物の直観が可能であることを前提しており,逆に物の直観が不可能な場合には,その物を規定することはできないと解釈すればよいからである.第二に,解釈2と解釈1の問題点を指摘した.無限判断が主語の整合性措定を含意するという解釈2は,充全的規定で行使される無限判断が物の実在的可能性に関わり,総合的であることを見落としているという問題点を抱えている.他方,無限判断が主語の存在措定を含意するという解釈1は,充全的に規定される物が現象として現実存在しないことを踏まえると、採用できない.以上の理由から,ジーベルの判定とは異なり,充全的規定の議論を再構成する上では,解釈2(および解釈1)よりも解釈3が適切であると判断することができる.
結論
ジーベルが,アンチノミー論については解釈3,充全的規定の議論については解釈2が適切であると判定したのに対して,本稿は,前者の判定には同意しつつ,後者については,むしろ解釈3が適切であることを明らかにした.それによって,アンチノミー論と充全的規定の議論を一貫して解釈3を用いて再構成できる可能性を提示した.紙幅の都合上,今回は,アンチノミー論に立ち入ることはできなかったが,将来的に,本稿の成果に基づいて,アンチノミー論も論究されることで,弁証論の議論と無限判断論がより豊かに解釈されることになるのは間違いないだろう28.
註
参考文献
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