Inquiries into Philosophy
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2023 Volume 2023 Issue 50 Pages 100-112

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未来の哲学者と道徳の自然史

ニーチェ『善悪の彼岸』において

横田幹成

1.はじめに

ニーチェは1886年の著作『善悪の彼岸』(以下『彼岸』と略記)において,自らの理想とする哲学者を「未来の哲学者」「本当の哲学者」(以下,2-1.まで暫定的に一括して「未来の哲学者」と表記)などと呼び,その使命は価値を創造することだと述べる (JGB 211: KSA 5. 144)1.周知のようにニーチェは,「神の死」の自覚によって引き起こされる既存の価値の喪失状態,すなわちニヒリズムを克服することを自らの課題としていた.このことを思い起こせば,価値を創造する「未来の哲学者」が彼の思想において重要な位置を占めていることは間違いないと言えるだろう2.『彼岸』が『ツァラトゥストラはこう言った』の次に出版されたこともあり,価値創造者,ニヒリズムの超克者としての「未来の哲学者」をツァラトゥストラとの関係でとらえる試みもある(Loeb 2019, 97ff.).『この人を見よ』では『彼岸』が反近代的な,「然りを言う典型」を提示するものだとされる(EH, JGB 2 : KSA 6. 350).さらに,近年注目されているメタ哲学の問題圏でニーチェのこの主張を取り上げることもできるだろう.メタ哲学は「哲学とは何か」という問いを扱う「哲学の哲学」とも言えるものだが,この問いは「哲学は実際にどんなものであるか/あったのか」という記述的なdescriptive側面と「哲学はどんなものであるべきか」を提示する規範的なprescriptive側面がある (Overgaard et al. 2013, 18) .ニーチェは「未来の哲学者」と対比される存在として「哲学労働者」を挙げているが,後者は学問的形式に忠実に活動するいわば哲学研究者の姿であり (JGB 211: KSA 5. 144),メタ哲学の文脈においては記述的側面が「哲学労働者」に,規範規範的側面が「未来の哲学者」の描写に対応するだろう3.このように,ニーチェの哲学者に関する記述は意義深いものであるが,不明瞭なまま残された問題を多く抱えてもいる.ニーチェの主張する理想の哲学者はどのようにして誕生するのか,そしてこの哲学者の生み出す価値とはどのようなものか4,この哲学者とはニーチェ自身のことなのか5等々.本稿では第一の問題を取り上げ,未来の哲学者の誕生過程に「自然史Naturgeschichte」と名付けられるニーチェの道徳論がいかにして役立っているのかを検討する.

問題設定の詳細は第2節で行うとして要点を先取りしよう.「自然史」とは『彼岸』第5章のタイトル「道徳の自然史」に登場する言葉であり,過去や現在の様々な道徳のあり方を調査し分類することである.先行研究では自然史が未来の哲学者を視野に入れた道徳批判の方法であると考えられてきたが,どのように関係しているのかが明確ではない.そのため,本稿では未来の哲学者のあり方と誕生過程を確認したのちに道徳の自然史に関係する記述を検討することで,次の二点を示す.①道徳の自然史が様々な道徳のあり方を収集・分類するものであり,未来の哲学者が誕生する必要条件になっていること,②道徳の自然史は未来の哲学者が誕生するための不可欠の出発点である「道徳の真の問題」に取り組むことを可能にするものであること.

議論は以下のように進む.第2節では未来の哲学者の内実とその誕生過程に関してニーチェの記述を整理し,その誕生過程で様々な道徳を視野に入れることが要求されることを確認し,その具体的な方法として自然史が取り上げられうることを指摘する.第3節では道徳の自然史に関して,ニーチェの参照した資料とニーチェ自身の記述からその内実を明らかにする.その上で第4節では自然史の目的である「道徳の真の問題」を明らかにすることによって,自然史が,哲学者が自身の道徳的偏見から解放された立場で思考するための条件として主張されていることを確認する.これはあるべき哲学の出発点であり,未来の哲学者が理想的典型として自己実現するための不可欠の出発点となっているのである.

2.未来の哲学者とその誕生過程

本節では本稿の基本的概念である「未来の哲学者」についての整理を行ったのち,その誕生に道徳の議論が必要になっている次第を確認する.そして,この課題に対応した道徳論ということで『彼岸』第5章に目をむけ,次節に議論をつなぐことにする.

2-1. 未来の哲学者

本項では『彼岸』においてニーチェが理想的な典型として提示している「哲学者」についての概念整理を行う.ニーチェはこの典型を「未来の哲学者Philosoph der Zukunft」(あるいは「新たな哲学者neuer Philosoph」6)「本当の哲学者eigentlicher Philosoph」などの名称で呼ぶが,本稿ではこれらは内容上の違いのない概念として用いる.『彼岸』はその副題を「未来の哲学への序曲」としていることから,この書物が「未来の哲学者」を言祝ぐものであることは確認できる.一方で「本当の哲学者」とは主に『彼岸』211番で主題となっているものであるが,この断章は「今日このような哲学者が存在するであろうか?すでにこのような哲学者が存在したのだろうか?このような哲学者が存在しなくてはならないのではないだろうか?」(JGB 211: KSA 5. 145)と結ばれており,「本当の哲学者」がニーチェの同時代や過去に存在したかどうかが定かではなく,これから存在するべき者であることが示唆されている.このことから,ニーチェがこれから存在するべき理想的な典型である「未来の哲学者」を「本当の哲学者」とも呼んでいると言ってよいだろう8.本項では今後,この理想的典型を鉤括弧なしで未来の哲学者と呼ぶことにする.

さらに以下では未来の哲学者の特徴として述べられていることを主に『彼岸』第6章に依拠して整理する.その特徴とは価値創造という使命を持つこと,諸学問に対して支配的な立場を取ること,同時代の道徳に反対の立場を取りうること,危険へと身を晒しうることだ.

第一に未来の哲学者が価値創造という使命を帯びた存在であることを確認しよう.『彼岸』211番では未来の哲学者の使命を哲学労働者のそれと対比して「この使命そのものは別のものを望む,— すなわちその使命は,彼が価値を創造することを望む.」(JGB 211: KSA 5. 144)とある.そして,同じ断章の末尾近くではこれよりやや詳細な記述がある.引用しよう.

一方で本当の哲学者は命令者であり立法者である.彼らは言う「かくあるべし!」と.彼らは初めて人類の「どこへ?」と「何のために?」を定め,その際に哲学労働者の全ての準備作業を,全ての過去制圧作業を意のままにする. — 彼らは創造的な手をもって未来を掴もうとする.その際に全ての存在するもの,存在したものが手段となり,道具となり,ハンマーとなる.(JGB 211: KSA 5. 145)

ニヒリズムに陥って「どこへ」進むべきか,「何のために」生きてゆけばいいのかという目標を喪失した人類に対して新たな目標としての価値を創造することが未来の哲学者の使命なのである.そしてこの使命は「人間の新たな偉大さを知ること,人間を偉大にする新たな未踏の道を知ること」(JGB 212: KSA 5. 145)と言い換えられ,その偉大さの内実は次のように言われる.

各人を片隅や「専門性」の中に固定しようとする「近代的理念」に直面して,今日哲学者が存在しうるのであればの話だが,哲学者は人間の偉大さや,「偉大さ」という概念をまさに大規模さUmfänglichkeitや多様さVielfältigkeitに,多様の全体性におかざるを得ないのである.(JGB 212: KSA 5. 146)

したがって,反時代的な偉大さ,すなわち大規模さや多様さへと人々を導く価値を定めること,これが立法者や命令者としての未来の哲学者の使命なのである.

第二に,未来の哲学者がどのように諸学問に関わるのかを考えてみよう.未来の哲学者の記述において中心的役割を果たしている『彼岸』第6章のタイトルは「我ら学者たち」であり,学者としての未来の哲学者の立場が問題として考えられていることが窺われる.実際,第6章最初の断章である204番には次のような主張がある.

道徳的考察をすることがここでも,今まで常にあったのと同じく, — すなわち,バルザックに言わせれば大胆不敵に己の傷口ses plaiesを見せることとして現れるという危険の上で私はあえて次のことをしよう.今日では全く気づかれずに,そしてまるで最良の良心をもってするかのように,学問と哲学の間に今にも作り上げられそうな不適当で有害な階級変更に立ち向かうことに.(JGB 204: KSA 5. 129)

ここで述べられる「不適当で有害な階級変更」とは,「学問的な人間の独立宣言や,彼らが哲学から解放されること」(ibid)と言い換えられる7.この潮流に対してニーチェは哲学者が本来は諸学問に対して「主人」の立場にあり,哲学が支配するべきだとする.この内実は,前ページの『彼岸』211番からの引用にあるように未来の哲学者が価値を創造する際に哲学労働者の準備作業を思いのままに利用することを指していると思われる.これはいち学問としての哲学の成果を利用することを意味しており,その他の制度的な学問の成果をも利用することを含意すると思われる.

第三の特徴として,未来の哲学者は同時代の道徳に反対の立場のものであることが指摘できる.これは先に偉大さを理想とすることを確認したところでも明らかになったものである.未来の哲学者たちは「明日と明後日の必然的な人間として」常に現行の規範と対立するものであり,「不愉快な愚か者,危険な疑問符」という自己認識を持っており,「彼らの時代のやましい良心」であったのだ(JGB 212: KSA 5. 145).

第四に,未来の哲学者は危険な実験に身を投じる人間であることが主張されている.のちに述べるように未来の哲学者は懐疑家,批判者であるのだが,批判者であるためには危険を冒して同時代の美徳に挑み,その反対の主張を自らの責任のもとで行う必要があるのだ.

これら来るべきものたちは批判家を懐疑家から区別するところの,かの真剣な危険でなくもない性質を欠いていてはならないのだ.私が思いなしているのは価値尺度の確実さ,方法の統一性の意識的な使用,狡猾な勇気,独立自存,責任を負いうることである.それどころか,彼らは否を言うことや解剖の快楽やたとえ心臓が出血しようとも確実に鮮やかにメスを振るう一種の冷徹な残酷さを自身のものとして認めるのである.(JGB 210: KSA 5. 142f.)

この際に彼らが批判家としてメスを振るう対象は「時代の美徳」(JGB 212: KSA 5. 145)である.未来の哲学者が反道徳的な存在であることにはすでに触れたが,そのような存在であることの危険がニーチェによって強調されているのである9

また,個々のものに執着せずに視野を広げていくことの危険もまた語られている.「独立不羈な命令者」であることを確信するためには人は自らをそのような試練にかけなくてはいけないのである(JGB 41: KSA 5. 58).視野を広げること,それによって内面を多様にすることは直ちに危険を伴うものではないように考えられる.しかし,ニーチェは内面の多様性が人間に危険をもたらすものだと考えているのである.彼は同時代のヨーロッパを「急激な階級混交の,それゆえ人種混交の非常に突発的な舞台」と評しているが,そのような混交を通じて人間は「様々な基準や価値」を持つことになり,「最善の諸力は妨げあい,諸徳は互いに成長し強化されることはなく,肉体と魂においては釣り合い,重点,垂直的安定性が欠けている」ことになり,さらには意志が病気になり,決意することができなくなる(JGB 208: KSA 5. 138).これが内面の多様性に伴う危険であり,ニーチェは同時代の人間がこの危険な状態に陥っているとするが,その危険にあえて赴くのが未来の哲学者たろうとする人間なのである.

ここまで未来の哲学者の特徴を四つに分けて提示したが,それらの関係をここで整理しておこう.未来の哲学者の最も重要な特徴は価値創造という彼らの使命であり,それを実現するために他の諸特徴が必要になっていると考えられる.彼らの実現する価値は近代に逆らって人間を偉大にするものであり,彼らの価値を主張することは支配的な道徳に反逆することになる.この点で彼らは反道徳的である必要がある.また,未来の哲学者の創造する価値は人類の偉大さを実現するものであるが,その価値創造の使命そのものも偉大なものと言われる(JGB 212: KSA 5. 145).つまり,未来の哲学者そのものが価値を創造するにあたって偉大さである大規模さや多様性,多様の全体性にあづからなくてはいけないということであり,近代的な学問的良心のもとに専門家であることはできず,逆に諸学の「主人」であることが必要なのだ.そしてすでに述べたように道徳の批判者であり反近代的な価値の創造者である彼ら,学問的良心に従わず偉大さを目指す彼らはその活動において幾多の危険に遭遇するのであり,その危険に進んで身を投じる姿勢を要求されるのである.

2-2. 未来の哲学者の誕生

次に,未来の哲学者が誕生するにはどのような条件が満たされなくてはいけないのかを確認しよう.『彼岸』211番に次のような記述がある.

本当の哲学者の教育のためには,彼の僕である哲学の学問労働者が立ち留まっていて — 立ち留まらなくてはならないところの全ての段階に,彼自身もまたかつて立ち留まったことがあるということが必要なのであろう.彼はおそらく批判者であり,懐疑家であり,独断者であり,歴史家であり,そのうえ詩人であり,収集家であり,旅行者であり,謎解く者であり,モラリストであり,預言者であり,「自由精神」であり,ほとんど全ての者でなくてはならなかっただろう — それは人間的な諸価値と諸価値感情の領域を縦走横断するためであり,多様な目と良心でもって高みからあらゆる遠方を,深みからあらゆる高みを,片隅からあらゆる広域を見ることができるためであった.しかし,これら全ては彼の使命の前提条件でしかない.この使命そのものは別のものを望む, — すなわちその使命は,彼が価値を創造することを欲する.(JGB 211: KSA 5. 144)

未来の哲学者となるものは,哲学労働者やその他のあらゆる典型を経験している必要があり,その目的は「人間的な諸価値と諸価値感情の領域を縦走横断」して,様々な視点から物事を観察し,それらのことを条件として価値の創造という自らの使命に役立てることである.この使命を果たせるようになって初めて未来の哲学者が誕生したといいうるのであり,これら前提条件を明らかにすることが未来の哲学者の誕生過程を暴くことに他ならない.

まず,ここで挙げられている典型のうちの多くのものは道徳との関係によって分類することができる.すなわち,通時的および共時的に様々な道徳に関する資料を収集するものとしての収集家,旅行者,歴史家,道徳の支持者としてのモラリストと独断者(モラリストをフレンチモラリストと考えると,ラ・ロシュフコーなど箴言の形で道徳の利己的な起源をあらわにした道徳の批判者の典型として分類することもできる),道徳の批判者としての懐疑家,批判家10,自由精神11という分類である.残った典型に関しては,詩人は価値創造者の芸術家的側面を,謎解きは真理探求者としてのオイディプス的あり方を,予見者は同時代に反する未来の価値を追い求める点をそれぞれ言い表した典型だと考えることができるだろう.

これらの典型群のうち本稿で注目したいのは収集家,旅行者,歴史家の典型群である.これらの典型によってこそ「人間的な諸価値と諸価値感情の領域を縦走横断」が可能になり,そうして収集された種々の道徳に是々非々の立場で接することが視点の多様化を可能にしているように思われる.したがって,何よりもまず道徳の収集がなされなくてはならない.そのため,本稿は道徳の収集がニーチェにおいてはどのように言われているのかを問題にする.そしてその具体的な記述は『彼岸』第5章の「道徳の自然史」にあると思われる.自然史とは博物学とも言われ,一般的には自然科学の諸対象を収集分類する営みである.さらにこの章の最後の断章は「人間の頽落形態,すなわち卑小化の形態,人間の平準化,価値下落化と思われる」民主主義的運動に憂慮する者たちが希望を託す相手として未来の哲学者が登場する.

我々はその希望をどこに繋がなくてはいけないのだろうか? — 選択の余地なく,新たな哲学者に繋がなくてはいけないのである.反対の価値評価へと踏み出し,「永遠の価値」を評価し直し,逆転するだけの十分な強さと新鮮な精神の人へと,数千年来の意志を新たな軌道へと強いる強制と結び目を現代において結ぶところの先行者,未来の人間へと希望を繋がなくてはいけないのだ.(JGB 203: KSA 5. 126)

これは第5章の道徳論の結論部に相当する箇所であり,同時代の道徳を打開して人間にあるべきあり方をもたらすにはどうすればいいのかという問題意識のもとで書かれている箇所である.したがって,第5章の議論から未来の哲学者が要請されるということは少なくとも確認されるが,前者が後者の誕生に何らかの形で役立っているということは確認できない.Acampore & Ansell - PearsonやLampertは『彼岸』第5章の洞察が未来の哲学者を必要とする次第のみを描いている(Acampore & Ansell - Pearson 2011, 120 : Lampert 2001, 176).一方で,Sommmerは『彼岸』の注釈書において『彼岸』186節が未来の哲学者を意識して執筆されているとし(Sommmer 2016, 494),Brusottiは186番での「収集」が帰結するところの類型学が211番の「本当の哲学者」の価値創造の準備段階になっていること指摘している(Brusotti 2014, 114f.).しかし,それぞれどのように両者が関係しているのかが明らかにされていない.そこで,次節以降ではニーチェが「道徳の自然史」のもとに試みた仕事を概観し,それがどのように未来の哲学者の誕生に役立ちうるのかを示したい.

3.道徳の自然史

先述のように「道徳の自然史」はニーチェの道徳批判の一つの方法を表した言葉であるのだが,彼が自然史Natuegeschichte12という語を使用しているところは少なく,彼の記述のみからその内実を引き出すことは難しい.そこで3-1.ではまずニーチェの同時代までの自然史の変遷,およびニーチェの参照していた文献からニーチェにとっての自然史(あるいは「道徳の自然史」と呼ばれるもの)のあり方を推測する.そして3-2.ではニーチェの記述から「道徳の自然史」の指し示すところを明らかにする.

3-1. 自然史

ヨーロッパにおける自然史と呼ばれる営みの起源はローマの大プリニウスに遡る.彼は全37巻の『自然史Naturalis historiae』という名の,宇宙規模の自然的なものから学問,技術,建築物などの人工物までを集積した百科事典を編纂した (プリニウス 1986, 12ff.).ここに行われた収集と分類の試みを自然史の本領と見るのであれば,その用語を使ってはいないものの,自然史そのものの試みは前四世紀のアリストテレスに遡る.彼の弟子のテオプラストス,先述のローマのプリニウスやディオスコリデスを通じて中世にはアルベルトゥス・マグヌスが出た.近世に入ってリンネを経て,カントの『自然地理学』は自然史を,さまざまな時代における地理学の成果の集積として(Kant 1923, 162),従来共時的であった自然史の記述に通時的な観点を導入した.そして19世紀に入るとダーウィンの登場で自然史は発展を織り込んだ,より通時的なものになった13

先行研究が指摘するようにニーチェは『彼岸』の執筆に先立ってアイルランドの歴史家レッキー14の著作“History of European morals”(1869)を読んでいるが,この本の第1章のタイトルがまさに「道徳の自然史」15であり,道徳的判断の差異や道徳感情の発展,知的発展と道徳的発展の関係などが問題にされている16.レッキーはこの著作の序文で,時代や場所によって変化する道徳のあり方を記述する旨を表明し,さらにその際に収集対象をモラリストの理想に限るべきではなく,実情に定位するべきであることを注意している(Lecky 1920, ⅶf.).また,1885年の遺稿にはヘルヴァルトの著作『人間の自然史』の書名があるが (NF 1885, 39[21]: KSA 11. 627),これは非ヨーロッパの民族をダーウィンの影響も受けつつ分類したものである(Brusotti 2014, 115).これらのことから,ニーチェが当時の自然史に影響され,現実的に存在する,あるいは過去に存在した道徳の知識を収集し分類する方法を構想していたことがわかる.

3-2. ニーチェの道徳の自然史

次に,ニーチェの著作,遺稿の中で「自然史」が登場する箇所を検討しよう.公刊著作に登場する例としては『様々な意見と箴言』(以下『意見』と略記)184番,『曙光』112番,および『彼岸』第5章のタイトル「道徳の自然史」の三つのみである.ここでは前者二つについて検討する.『意見』においては「自然史がどう語られるべきか」を問題にし「不安,妄想,怠惰,迷信,愚昧に対する倫理的精神的な戦いと勝利の歴史としての自然史は精神的肉体的な健康と繁栄への努力へと,人間的なものの相続者であり継承者であることの喜びの感情へと,ますます気高い企図への欲求へと,聞くものを引き留め難く引っ張っていくように語られるべきである」(VM 184 : KSA 2. 460)と述べられる.この箇所では自然史は歴史として時間的な幅を持つ概念であり,それを学ぶことが現代の人間を鼓舞する力を有するべきことが述べられている.『曙光』においては「権利と義務の自然史のために」と題され,我々の権利や義務が他者との力関係,相手が持っている力の査定によって発生するという説明がなされる(M 112: KSA 3. 100ff.).両者において権利と義務,道徳といった人間の精神的な産物を対象としている点に特徴があり,レッキーの試みとの類似性が窺われる.

遺稿での「自然史」の使用例は次のものである.『ギリシア人の悲劇時代における哲学』における例(P 17: KSA 1. 866)17,『彼岸』執筆期の遺稿で『彼岸』の目次やタイトル案として現れるもの18,1888年の遺稿(NF 1888 Frühjar, 14[90]: KSA 14. 267)19である.これらから読み取れることは多くないが,『彼岸』の計画案の多くで自然史の言葉が登場していることからニーチェがこの著作の中心概念の一つとして自然史を扱っていたことがわかる20

ひとまずこれまでの議論から,ニーチェは道徳の自然史を『彼岸』の中心的概念の一つとして考えており,歴史に過去までを視野に入れた様々な道徳の実際のあり方の収集と分類の方法として構想していたことが予想できる.また,ニーチェはこの営みが与える効果を考慮していたことも窺われる.このことを踏まえて『彼岸』第5章での道徳論に分け入っていくことで道徳の自然史の内実を明らかにしよう.この章の冒頭の186番の以下のような記述が自然史の記述になると思われる.

完全な厳しさを持ってここで何が長き将来に向かってなお必要とされているのか,何が差し当たり唯一権利を持つものなのかを白状すべきだろう.つまり,素材を集めること,生き,成長し,産み出し,滅んでいく価値感情と価値差異の途方もない領土の概念的な把握と全体的な序列化がそういったものなのである. — そして,それらはひょっとすると, — 道徳の類型学の準備として — 回帰し生き生きと結晶化する様々な諸形態を明らかにする試みなのである.(JGB 186: KSA 5. 105)

ここで宣言されているのは,実際に存在し,生成変化し消滅する様々な道徳を通覧し,一定の仕方で分類整理することであろう.そのため,「道徳の類型学」と言われているものはここでは道徳の自然史と同じものであると考えられる.

ここで確認した道徳の自然史の営みは,先に1-2.で言及した未来の哲学者の誕生過程にあった,様々な道徳の収集作業に重なるものと考えられる.ここから本稿の第一の結論が導かれる.道徳の自然史は様々な道徳の収集を行う活動として,未来の哲学者の誕生の必要条件の一つになっているのである.しかし,道徳の自然史は直接的には未来の哲学者の誕生の役に立つことを目的に導入されているのではない.ニーチェはこれを道徳批判の方法として導入しているのである.次節では,道徳批判の方法としての道徳の自然史が未来の哲学者の誕生の条件となっているのかを検討する.

4.自然史導入の意図

4-1. 道徳の真の問題

自然史が導入される際のニーチェの問題意識を確認しよう.「彼岸」186番では自然史的手法の主張にあたって「道徳の科学」と呼ばれる営みが批判されている.いわく,「道徳の科学」は精妙に発達した道徳的感覚に対比して,「幼く,素人じみており,不器用で荒々しい手つき」のものにとどまっているというのだ(JGB 186: KSA 5. 105).ニーチェの考える「道徳の科学」の問題点は具体的には次のものである.

哲学者たちはみんな揃って,道徳の科学に取り掛かるやいなや笑わせるような硬直した真面目さをもって,自身に非常に多くのより高いもの,注文の多いもの,大仰なものを要求するのである.彼らは道徳の基礎づけを欲した — そしてあらゆる哲学者がこれまで道徳を基礎づけなくてはいけないと信じてきたのだが,しかし,道徳そのものは「所与のもの」として価値があると信じられてきた.(JGB 186: KSA 5. 105f.)

「道徳の科学」とは具体的には「道徳の基礎づけ」として哲学者たちに試みられていたものである.それは道徳規範を合理的な基礎によって正当化可能かどうかを探る点で道徳の批判的探究たりうる営みであるのだが,その際に「道徳そのものは『所与のもの』として価値がある」と考えられてしまった.すなわち,既存の道徳の追認となってしまったということが指摘されている.以上を踏まえてニーチェの提案するのが「多くの道徳を比較すること」なのであるが,それは「道徳の科学」を試みた哲学者たち(「道徳哲学者たち」)の不手際の原因を意識したものである.

道徳哲学者たちが道徳的諸事実〔事象〕を,恣意的な抜粋においてあるいは偶然的な要約として乱暴にのみ知ったということ,例えばそれらの道徳的事実を彼らの周囲の,地位の,教会の,時代精神の,気候の,地域の道徳性として知るというまさにそのことによって, — 彼らが民族や時代や過去に関して乏しく教育されており,好奇心さえあまりなかったというまさにそのことによって,彼らには道徳の真の問題が現れてこなかったのである. — 道徳の真の問題としての全てのものは多くの道徳を比較することにおいて初めて浮かび上がってくるのである.このことは非常に驚くべきことに聞こえるだろうが,全てのこれまでの「道徳の科学」にはなおも道徳そのものの問題が欠けていたのだ.ここには何か問題となるべきものがありはしないかという猜疑が欠けていたのである.哲学者たちが「道徳の基礎づけ」と呼び,必要としたものは,正しい光のもとで見るのであれば,支配的な道徳への敬虔な信仰の学問ふうな一形式,支配的な道徳の表現の新たな手段に過ぎないのであり,それゆえ,特定の道徳の内部の事実であり,いやそれどころか,最も根本のところでこの道徳が問題として問われて良いのであるということの一種の否定に過ぎないのである. — そしていずれにせよまさにこの信仰を試すこと,解体すること,疑うこと,生体解剖することとは反対のものであった.(JGB 186: KSA 5. 106)

いわく,道徳哲学者たちは道徳にまつわる事実を彼らの経験によってのみ知ったのであり,経験以上のことに関しては好奇心も教育も乏しかったことによって「道徳の真の問題」あるいは「道徳そのものの問題」を扱うことができなかったのである.この「道徳の真の問題」とは「多くの道徳を比較することにおいて初めて浮かび上がってくるのである」.ここでは,「多くの道徳を比較すること」を先に検討した道徳の自然史の営みを指すものとして捉える.

すなわち「道徳の真の問題」とは,自らのすでに従っている特定の道徳を多くの道徳のうちの一つに過ぎないことを自覚し,その権威性に疑問を投げかけること,いわば自身がすでに従っている支配的な道徳を相対化することである.ただ,事柄として考えたときに自身の従っている以外の道徳のあり方を視野に入れるのみでは,自身の従っている道徳が相対化されることはない.他の道徳Aが良い,もしくは悪いと評価する行為は自身の道徳の評価基準によって判断され,道徳Aは訳のわからないものとして却下されるか,自身の道徳に類似する点があることを理由に高く評価されることになるだろう.

それゆえ,道徳を自然史の対象とすることが,自身の道徳へ疑いを向けるという,「道徳の真の問題」を扱うことになる事情を確認しなくてはいけない.『彼岸』第5章終盤において「我々の真理」「我々の新しい洞察」として同時代のヨーロッパの道徳が「畜群道徳Heerdenthier-Moral」であることが主張される.

今日のヨーロッパにおける道徳とは畜群道徳である.— それゆえ,我々が事柄を理解する限りでは,それはたんに人間の道徳の一つの種類に過ぎず,それに並んで,その前に,その後ろに多くの他の道徳が,特により高い道徳が可能なのであり,あるべきなのだ.そのような「可能性」に対して,そのような「べき」に対して,この道徳は全力で抵抗する.この道徳は強情に,聞く耳を持たずにいうのである「私が道徳そのものである,私の他に道徳などありはしない!」と.(JGB 202: KSA 5. 124)

ここに至るまでにニーチェは同じ章でショーペンハウアー(JGB 186),カント倫理学(JGB 187),同時代のイギリスの労働者のあり方(JGB 189),ソクラテスを自己流に継承したプラトン(JGB 190, 191)ユダヤ人(JGB 195),「熱帯的」人間を恐れる人間(JGB 197)などの種々の道徳が検討されている.畜群道徳という概念はこれらの議論の結論として語られていると考えることができ,自然史はニーチェと同時代のヨーロッパにおいて道徳論を行う者が自身の従っている道徳を疑わなくてはいけないということを帰結することになる.というのも,ある道徳が畜群道徳であるということは,それ自身のうちに他の道徳の可能性を排除する傾向が含まれていることになり,種々の道徳が併存する現実に対して,徳論者は自らのコミットしている道徳が畜群道徳であることを悟るに至って,その道徳が絶対性を僭称していることを自覚し,その絶対性へと疑いの目を向けることを余儀なくされるのである.これが,自身のコミットする道徳の追認ではなく,「道徳の真の問題」に取り組むことである.

では,そのように自身の従っている道徳を自明の支配的規範性を失ったものとして観察することがどうして「道徳の真の問題」だと言えるのだろうか.ここで考慮すべきなのは,誰にとっての「道徳の真の問題」なのかということである.道徳論を展開する哲学者の態度,つまり,道徳をどのようにして哲学的に扱うべきなのかということがなぜ問題になっているのか.この点を次項で検討しよう.

4-2. ニーチェの哲学観に沿った道徳批判

哲学者と道徳の関係についての批判的論究として,『彼岸』第1章「哲学者の先入見」での議論を取り上げることができるだろう.ここでは同時代までの哲学者が真理の価値に疑いを向けることなく,盲目的に真理への意志に駆り立てられていることへの批判が行われ,真理の価値,そして真理への意志の価値を問い直す議論が行われる.

実際のところ,何が我々のうちで「真理へ」と意志しているのか?― 本当のところ,この意志の起源に関する問いの前で我々は長く止まったのである.— ついにより根底的な問いの前で完全に立ち止まってしまうようになるまで.我々はこの意志の価値について問うた.我々が真理を意志するとして,なぜむしろ非真理を意志しないのか?なぜ不確実性を,非知をさえ意志しないのか?(JGB 1: KSA 5. 15)

ここでは真理にそれ自体絶対的な価値があるという哲学者たちの前提に疑いが向けられる.ニーチェの分析によれば,真理へ高い価値を帰する営みの根本には「価値対立への信仰」がある.これは,あるものがそれとは対立的な価値を持つものからは絶対に生じることはないという信念である(JGB 2: KSA 5. 16).この信念に従うと,真理などの価値の高いとされたものは価値の低いものと絶対的に通約不可能なものとなり,価値の高いものを求める場合にはまさにそれのみが求められるべきだということになる.ここで問題なのは,哲学は真理を求める営みであり,仮象や虚偽を求めるものではないという規定が,真理を評価する基準に依存したものであるということだ.

全ての論理やその運動の見かけ上の専制〔的正しさ〕の背後にさえ,価値評価が,はっきりいうのであれば,ある種の生eine bestimmte Art von Lebenを保持する生理学的な要求があるのである.例えば,確かなものは不確定なものより価値があるというものや,仮象は「真理」よりも価値が少ない,といったものである.(JGB 3 : KSA 5. 17)

評価基準とは「ある種の生を保持する」ことなのである.「ある種の生」とは,その哲学者が何者であるのかということだが,ニーチェはそれを「彼の道徳〔…〕すなわち,彼の内的な本性の諸衝動は序列のどの段階において共に位置づけられるのかということ」 (JGB 6 : KSA 5. 20)と規定するのである.このことから,ある哲学者の営む哲学において真理が価値のあるものか否かを判定する基準は,その哲学者が自身の道徳に従って生きることを可能にするのか否かということになる.仮に,非真理であるものがその基準を満たすのであれば,非真理を求めてもよいのであり,真理への意志は無条件的なものではなく,道徳に条件づけられているということになる.従来の哲学の第一原理は本人が抱く道徳だったのである.しかし,そのことは彼らの誠実性の欠如ゆえに告白されることはない(JGB 5 : KSA 5. 18f.).

このような既存の哲学者はニーチェによって批判されるものであるが,この批判の背景にはニーチェのあるべき哲学観がある.第2節第1項で確認したように,ニーチェの理想とする未来の哲学者はその使命の達成のために反道徳的となる危険をあえて冒す者であった.

このことから,道徳の自然史によって初めて明らかになる「道徳の真の問題」が,自身の従っている特定の道徳へ疑いを向けることであり,しかもそこで道徳を扱う哲学者にとっての問題とされている理由が明らかになった.それゆえ,自然史はニーチェの主張するところのあるべき哲学を実現するために,自らを支配する道徳の追認を中止し,その道徳を疑うための不可欠の出発点となるものである.このことは旧来の哲学者と同じく自らの道徳に従っていた者が未来の哲学者としての道程を進むための第一歩となっているのである.

5.結論

以上の議論から,自然史が,未来の哲学者の誕生に必要な「諸価値と諸価値感情の領域を縦走横断」のために既存の様々な道徳の資料を提供すること,そしてニーチェの主張するあるべき哲学者を実現するためその道徳的偏見を削除することに貢献していることを確認した.自然史は『彼岸』において取り入れられた道徳批判の方法論であるのみならず,未来の哲学者の誕生に欠かせない作業でもあったのだ.このようにして本稿では,これまで曖昧にしか指摘されてこなかった,自然史と未来の哲学者の誕生過程との関係を指摘することができた.今後は,類型の遍歴,未来の哲学者の創造する価値とその妥当性が問題になるだろう.

本稿を執筆するにあたって多くの方にお世話になった.反出生主義勉強会や関東ニーチェ研究会の方々及び指導教官には構想や執筆途中の原稿をご確認いただき,非常に有益な助言と励ましをいただいた.助言を反映し切れなかったことに申し訳なさを感じるばかりである.また,昨年夏の発表に続き論文投稿の機会を与えてくれ,筆者の拙い原稿の校正を行なってくれた哲学若手研究者フォーラムの方々にも重ねて感謝を申し上げる.本稿に評価すべき点があるとすれば全てこれらの方々によるものあり,至らぬ部分は筆者の責任に帰されるものである.

  1.    ニーチェからの引用はKSA(“Kritische Studienausgabe“, Nietzsche, Sämtliche Werke, Hge. Colli, G. und Montinari, M. W. de Gruyter, 1980.) から行い,著作名の略号と断章番号,KSA巻数,ページ数を付す.一部の著作に関しては章の名称などをドイツ語で付す.訳は執筆者のものであり,原文のゲシュペルトは傍点,クォーテーションは鉤括弧を付す.各著作の略号は次のとおり.

    P: Die Philosophie im tragischen Zeitalter der Griechen. 『ギリシア人の悲劇時代における哲学』

    VM: Vermischte Meinungen und Sprüche.『様々な意見と箴言』

    M: Morgenröthe. 『曙光』

    JGB: Jenseits von Gut und Böse.『善悪の彼岸』

    EH: Ecce homo. 『この人を見よ』

    NF: Nachgelassene Fragmente. 遺稿断片(執筆期間と整理番号をグロイター版に従って付す.例:NF 1888 Frühjahr – Sommer 16[32])

  2.    主にいわゆる後期の時期にニーチェがニヒリズムの克服を課題としていたことに関してはReginster(2006)など.価値喪失状態において「未来の哲学者」が価値を生み出すことの必要性は梅田(2021)など.また,「未来の哲学者」をテーマにしたその他の研究としてはNehamans(1988)やLoeb(2019)がある.
  3.    ニーチェ思想をメタ哲学の問題圏で取り上げる試みはLoeb & Meyer(2019)所収の諸論考で行われている.
  4.    梅田(2021, 254f.)は,自ら価値を創造することそのものが哲学者の価値であるとする.
  5.    本稿ではこの問題に関して議論は行えないが,「未来の哲学者」と呼ばれる以上,ニーチェが自身の後世のことを意識してこの言葉を使っていたと考えられるし,『彼岸』の記述の中でも「未来の哲学者」と特徴を共有しているニーチェやその同胞(我ら自由精神)が「未来の哲学者」に呼びかけるものがあり,ニーチェと「未来の哲学者」は異なったものだと考えられる.Loeb(2019)も同様の立場を取っている.
  6.    「未来の哲学者」と「新たな哲学者」が同じものであることは,『彼岸』42番から44番の記述から窺うことが出来る.ここでは基本的に「未来の哲学者」という言葉が使われているが,44番末尾においては「君たち新たな哲学者たちよ?」(JGB44: KSA 5. 63)と呼び掛けられている.内容的にも,その誕生が期待されているが未だ存在しない,既存の哲学者とは一線を画する哲学者ということだろう.
  7.    カントが批判哲学において,自然諸科学の成果に基づいていわゆるコペルニクス的転換を行なったこと(Kant 1998, 21, BXV)はこの哲学と諸学問の階級変更の典型的な例だと思われる.
  8.    なお,ニーチェはこの理想的典型をたんに「哲学者」と呼ぶこともある.この場合は批判されるべき,これまで哲学者と呼ばれている存在とは対比して理想的典型を「哲学者」と呼んでいるのである.
  9.    それを問うこと自体が危険とみなされるような問題をあえて問うために,既存の哲学者とは「異なった逆の種類の趣味と傾向」を持っているような「新たな哲学者」が必要になる次第は『彼岸』2番でも指摘されている(JGB2: KSA 5. 17).
  10.    未来の哲学者が懐疑家や批判者でもなくてはいけないものの,結局それは彼らの価値創造の手段に過ぎない点は『彼岸』209, 210番で述べられている(KSA 5. 140-144).
  11.    自由精神とは『人間的,あまりに人間的』『曙光』『悦しき知識』における鍵概念であり,道徳から自由な精神性のことである(竹内 2008)
  12.    この語は「博物学」とも訳されるものである.白水社版全集の吉村博次訳では「博物学考」,ちくま学芸文庫版(旧理想社版全集)の信太正三訳では「博物学」,岩波文庫版の木場深定訳では「自然誌」とそれぞれ訳されている.本稿では,直後に論じられるようにNatuegeschichteが元来必ずしも時間的な広がりのあるものとしての歴史を含むものではなかった一方でニーチェは過去のものも収集の対象にしていたことを踏まえ,より通時的な意味合いを含み込むことのできる「自然史」という訳を採用する.
  13.    以上の自然史の歴史的変遷の記述は岩槻(2018) pp. 1-59およびKambartel (1984)を参考にしている.
  14.    Lecky, William Edward Hartpole, 1838­-1903.
  15.    英語版原著ではThe Natural History of Morals.であり,ドイツ語版ではDie Naturgeschichte der Sitten.となっている.
  16.    Jensen (2013) p. 190, Sommer (2015) p. 493.
  17.    アナクサゴラスが彼の自然哲学においてヌースを原理とした点を評価し,それが自然を脱神話的に,また「擬人論的な目的や功利性」を排除して説明する試みだとする(P17: KSA1. 866).なお,ここで登場する「自然史」はカントの著作『天体の自然史』への言及であり,カントが同著作で自身の用いられて然るべきだという内容になっている.したがって,ここでの「自然史」という言葉に関するニーチェの含意を読み取ることができないが,ニーチェがカントの自然史の試みを知っていたことは読み取れる.
  18.    実際に出版されたもののように,「道徳の自然史」を目次に含むもの(NF1885Herbst –1886Herbst, 2[50]など)や,別の章のタイトルに「自然史」を含むもの(NF1886Anfang – Frühjahr, 3(12)),そして著作そのもののタイトルが「自然史」を含むもの(NF1885Herbst – 1886Herbst, 2[41, 43, 46]など)の大別して三つのパターンがある.
  19.    ラファエロの絵画への批評.生理学の成果の集成として自然史を捉えているようだ.
  20.    Brusotti (2019)はこのことから自然史を『彼岸』の中心概念に据えた分析を行なっている.

参考文献

Kritische Studienausgabe“, Nietzsche, Sämtliche Werke, Hg. Colli, G. und Montinari, M. W. de Gruyter, 1980.

ニーチェ『ニーチェ全集』白水社編, 1979-1987年

———『ニーチェ全集』筑摩書房編, 1993-1994年

———『善悪の彼岸』木場深定訳, 岩波文庫, 2010年

———『この人を見よ』手塚富雄訳, 岩波文庫, 2010年

Acampore, C. & Ansell – Pearson, D. (2011). “Nietzsche's Beyond good and evil,” Continuum International Publishing Group.

Brusotti, M. (2014). „Vergleichend Beschreibung versus Begrüngund,“ Born, M, A. Hg. Friedrich Nietzsche, Jenseits von Gut und Böse, (Klassiker Auslegen, Bd. 48), S. 111–130.

——— (2019). “Metaphilosophy and "natural history": Nietzsche's "Beyond good and evil" on the free spirit,” Loeb, P. S. & Meyer, M. (eds.) Nietzsche’s Metaphilosophy, Cambridge University Press, pp.9-21.

Jensen, A, K. (2013). “From Natural History to Genealory,” Born, M, A. & Pichler, A. Hg. Texturen des Denkens, de Gruyter, S. 189-204.

Kambartel, F. (1984). “ Naturgeschichte,“ Historisches Wörterbuch der Philosophie, Bd.6, Schwabe, S.526f.

Kant, I. (1998). „Kritik der reinen Vernunft,“ Felix Meiner Verlag. (『純粋理性批判』原佑訳, 平凡社ライブラリー, 2005年)

——— (1923). „Immanuel Kants physische Geographie,“ Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften. Band Ⅸ. (『カント全集16』宮島光志訳, 岩波書店, 2001年)

Lammert, L. (2001). “Nietzsche’s Task,” Yale University Press.

Lecky, W, E, H. (1920). “History of European Moral,” Longman.

Loeb, P. (2019). “Genuine philosophers, value-creation, and will to power: an exegesis of Nietzsche's "Beyond good and evil" §211,” Loeb, P. S.& Meyer, M. (eds.) Nietzsche’s Metaphilosophy, Cambridge University Press, pp. 83-105.

Nehamas, A. (1988). “Who Are “the Philosophers of the Future”? A Reading of “Beyond Good and Evil”,” Solomon, R, C. & Higgins, K, M. (eds.) Reading Nietzsche, Oxford University Press, pp. 46–67.

Overgaard, S., Gilbert, P. & Burwood, S. (2013), “An Introduction to Metaphilosophy,” Cambridge University Press.

Reginster, B. (2006). “The Affirmation of Life”, Harvard University Press. (『生の肯定』岡村俊史・竹内綱史・新名隆志訳, 法政大学出版局, 2020年)

Ritter, J.et. al, Hg, (1984). „Historisches Wörterbuch der Philosophie,“ Bd.6, Schwabe.

Sommer, A, U. (2016). „Kommentar zu Nietzsches Jenseits von Gut und Böse,“ Heidelberger Akademie der Wissenschaften, de Gruyter.

岩槻邦男. (2018). 『ナチュラルヒストリー』, 東京大学出版会.

梅田孝太. (2021). 「ニーチェによる価値転換の思想」,『ニーチェ 外なき内を生きる思想』法政大学出版局, pp.248-267.

竹内綱史. (2008). 「自由精神と自由意志 — 『人間的, あまりに人間的』におけるニーチェの自由論」関西倫理学会『倫理学研究』第38号, pp. 100-111.

プリニウス. (1986). 『プリニウスの博物誌 第Ⅰ巻』中野定雄・中野里美・中野美代訳, 雄山閣出版.

 
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