Inquiries into Philosophy
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2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 199-216

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※本論は,分析のために,いくつかの差別的表現を引用しています.

1. 導入

人間は一般化をして生きている.この文それ自体が人間についての一般化である.一般化は便利なことも多いが,時に過剰となり,倫理的な問題を孕むこともある.2015年の選挙演説において,Donald Trumpはメキシコからの移民について以下のような発言をした (強調筆者) 1

When Mexico sends its people, theyʼre not sending their best. (中略) Theyʼre sending people that have lots of problems, and theyʼre bringing those problems with us. Theyʼre bringing drugs. Theyʼre bringing crime. Theyʼre rapists2.

強調部分に繰り返し現れている“they”は,前の内容から,“people sent by Mexico”であると考えられる.とすると,強調部分は“People sent by Mexico are bringing drugs, bringing crime…”という文として解釈できる.これは,Trumpによる,メキシコ人についての一般化を表現している表現と考えられるだろう.Trumpによるこの排外主義的な発言に対して,民主党のTim Kaineは「Trumpはすべてのメキシコ人は性犯罪者だという主張をした」と述べ,Trumpを非難した.しかし,Kaineのこの発言は,入念なファクトチェックの末,不正確だと判断された3.なぜなら,Kaineの主張が《Trumpはすべてのメキシコ移民が性犯罪者だと述べた》というものだったのに対して,Trumpは《メキシコ移民は性犯罪者だ》と述べているだけで,〈すべての〉といった内容に対応する表現を用いてないからである.

確かにKaineの主張は事実と照らし合わせれば誤ったものだろう.つまり,Trumpは《すべてのメキシコ人は性犯罪者だ》という明らかに偽なる発言をしたわけではない.だからといって,Trumpによる上記の発言がまったく問題でないということにはならない.Trumpによる発言は差別的であり非難されるべきものである.では,当の発言のうち引用の強調部分の倫理的な問題点はどこにあるのだろうか.

本論では,《メキシコ移民は性犯罪者だ》《ムスリムは暴力的だ》といった表現の倫理的な問題点は何に由来するのかを考察する.特に本論が注目するのは,これらの表現が持つ文形式である.これらの文は《KはFだ》という形式を共通して持っている.このような形式を持つ文のことを「総称文」と呼ぶ.総称文の定義は難しいが,ひとまず,①ある集団の一般的/総称的な性質を表現しており,②〈すべての〉や〈ほとんどの〉といった明示的な量化表現が出てこない文,という特徴づけをしておこう.本段落冒頭であげた文はどちらもこの二つの特徴を満たしている.

まとめると,本論で取り上げる問題は,一部の総称文の発話の倫理的な問題点は何に由来するのかである.そのために本論では,まず,総称文やその発話は何を意味しているのかという,総称文意味論に注目する.そして,上で述べたような総称文の発話の倫理的な問題点は発話が何を意味したかには由来しない,と主張する.これらの発話の問題点は,その意味によってではなく,それがどのような結果を引き起こすかによって説明されるべきである.

2節では,現在提出されている総称文意味論を大きく二つに分けそれぞれの代表的な論者の理論を確認する.3節では,発話が何を意味するかについての理論として,三木 (2019) による共同的コミットメントを用いた分析を紹介する.4節では,2節と3節で議論したことを元に,一部の総称文の発話は認識論的に正当な仕方で発話者以外が意味内容を同定することができず,発話の意味を媒介する形で発話者に責任を負わせることが難しい,と論じる.5節では,4節までの総括をしつつ,共同的コミットメントでは捉えられない総称文の発話の倫理的な問題点を,三木 (2022) が提案する会話のもう一つの側面,マニピュレーションによって捉えられると述べる.

2. 総称文意味論

本節では総称文の代表的な理論の確認を行う.具体的な議論に入る前に,多くの総称文意味論が共有していると思われる,総称文の論理形式4についての見方を紹介しておこう.多くの論者は,総称文の論理形式について,Lewis (1975) による量化副詞 (adverbs of quantification) のアイデアを踏襲している.量化副詞を含む文の論理形式は以下のように表される.

Quantifier x, …, z [Restrictor x, …, z] [Scope x, …, z]

Lewisは“Usually”や“Sometimes”といった英語の副詞を非選択的な (unselective) 量化子と捉える.量化子が非選択的であるとは文中に出てくる変項のすべてを量化子が束縛するということである.制限部Restrictorは変数が動く範囲を特定する.作用域Scopeは値域に含まれる対象へ帰属される性質を表す.総称文の意味の分析にLewisのアイデアを応用すると,たとえば,“Tigers are striped”という総称文は以下の論理形式を持つと分析される.

Gen x [Tiger (x) ][Striped (x) ]

ここではGenが,量化子として,“Tigers are striped”に出てくる変項を全て束縛している (この場合変項はxのみである) .Genとは,Lewisの分析における“Quantifier”の部分に対応する,量化子の働きを持つ演算子である.制限部にあたる[Tiger (x) ]では当該の文が言及する対象となる個体がトラであると述べられており,作用域にあたる[Striped (x) ]はトラが満たすとされる〈縞模様である〉という性質を表現している.総称文がこのような論理形式を持つことは多くの論者の間で合意が取れている (Leslie 2007; Nickel 2016; Sterken 2015) 5.そのような論者にとって総称文意味論はこの総称演算子Genがどのような役割を持っているのかについての議論といっても良いだろう.

ではなぜ総称演算子Genの役割についての議論が起こるのだろうか.一言で言えば,総称文が持つ意味が,多様でありそれらを統一的に説明することが難しいからである.たとえば《カラスは黒い》や《トラは縞模様だ》といった総称文の意味はなんだろうか.おそらく,《ほとんどのカラスは黒い》と《ほとんどのトラは縞模様だ》といったところだろう.したがって,《KはFだ》という音声で表現される総称文は,すべて,《ほとんどのKはFだ》と予測したくなるかもしれない.ここで《サメは人を食べる》や《蚊はデング熱を運ぶ》といった文を考えよう.先ほどの予測が正しければ,これらは《KはFだ》という形式を持つため,《ほとんどのサメは人を食べる》《ほとんどの蚊はデング熱を運ぶ》という意味を表現している.しかし,現実世界を考えてみれば,人を食べるサメもデング熱を運ぶ蚊も,それぞれの種に属する個体全体のごくわずかな個体だけであると思われる.したがって,この二つの文は不正確な情報を伝えていると予測される.しかし我々は,これらを聞いた時,間違ったことを述べているとは判断せず,むしろ,サメや蚊についての正しい情報を述べていると判断することの方が多いだろう.以上を踏まえれば,総称文の意味は,《ほとんどのKはFだ》では分析しきれないほどには,多様である.

総称文の意味の多様さは以下の事例からもみて取れるだろう.

ドーベルマンは垂れた耳をしている

文脈a: 進化生物学の話

いくつかの犬種は,聴覚を発達させる方向で進化してきた.このような犬種は,尖った耳

をしている.しかしながら,ドーベルマンは,嗅覚に頼ってきたので,垂れた耳をしている.

文脈b: ブリードの話

ラブラドールレトリバーや,ゴールデンレトリバーが垂れた耳をしているのに対して,ドーベルマンはそうではない.ドーベルマンは尖った耳をしている.

我々が見慣れたドーベルマンといえば,警察犬として採用されていて尖った耳をしている,あのドーベルマンだろう.実のところドーベルマンは,生まれた時は尖った耳をしておらず垂れた耳をしている.ドーベルマンは,生まれた時にブリーダーによって耳の一部を切断され,よく知られた尖った形状の耳になるのだ.このような事実を踏まえると,《ドーベルマンは垂れた耳をしている》は生物学的な文脈aでは正しい情報を伝えているように思われるが,犬のブリードの文脈bでは間違った情報を伝えていると考えられる.文脈aでこの総称文を発話した際に意味されるのは,ブリーダーに耳を切られることがなかった,本来の姿のままのドーベルマンである.他方で,ペットショップでどんな犬を飼うか相談しているときのような,文脈bに置かれた時のことを考えてみよう.このような状況では,我々が見慣れた,耳が尖った状態の典型的なドーベルマンが想定されている.このように,総称文は文脈によって意味が多様になるという性質も備えている.

ここまで,総称文意味論は総称演算子Genの意味の役割についての議論であり,Genの役割が問題となるのは総称文が持つ多様な意味を統一的に説明することが難しいからであると述べた.以下では総称文意味論の簡単な確認を行う.まず2.1節で,数多ある総称文意味論を,Sterken (2015) が〈統一の仮定 assumption of unity〉と呼ぶものを採用するか否かで,二分する.次に,二つの潮流の代表的論者を取り上げ両者の主張を概観する.2.2節では統一の仮定を採用しない論者の代表としてSterkenを,2.3節では統一の仮定を採用するLeslieの理論を取り上げる.

2.1. 統一の仮定

総称文意味論をめぐる議論は,錯綜しておりさまざまな論者がさまざまなアイデアを提案しているが,Sterken (2015) が〈統一の仮定〉と呼ぶものを認めているか否かで大きく二つに分けることができる.

統一の仮定

総称性についての統一された現象が存在し,それは主に,総称文によって例化されている (Sterken 2015, p. 2)

この仮定は,①総称性という統一された現象が存在する,②総称性は総称文によって表現されるという,二つのことを述べている.この仮定を保持する総称文意味論は,総称性という現象の存在を仮定した上で,それがどのようなものかを探求することとなる.たとえば,この仮定を採用していると思われる,Nickel (2016) は,《KはFである》という総称文は《普通のKはFである》という意味を持つと主張する.ここでNickelは〈普通〉という概念を使って総称性を説明していることになるだろう.Nickelの理論を採用するならば,総称文の意味が複雑で捉えづらいのは〈普通〉という概念が複雑だから,という説明になるのである.

Sterkenによると多くの総称文意味論がこの仮定に則って議論を進めてきた (cf. Leslie 2007, 2008; Cohen 1999; Liebesman 2011; Nickel 2008; Asher and Pelletier 2012) .一方で,近年,Sterken本人を筆頭に,統一の仮定を保持しない理論が支持を集めつつある (Sterken 2015; Nguyen 2020; Bosse 2021; Plunkett et al 2023).以下では,まず2.2節でSterkenに代表されるこちらの立場を確認し,2.3節で統一の仮定を保持するLeslieの議論を概観する.

2.2. Sterken (2015) による意図を用いた説明

Sterkenは統一の仮定を保持しない代表的な論者の一人である.Sterkenは総称演算子Genの意味を以下のように捉える.

文脈cにおけるGenの意味は,以下の条件を満たす一般化gである

① 発話者はgをGenの文脈cにおける値として意図している.

② 発話時点における会話の共有基盤を知っている,能力があり,注意深く,合理的な聞き手は,発話者がgをcにおけるGenの値として意図していることを知っている.

SterkenはGenの意味を総称文の発話者が意図した一般化として捉えている.またGenの意味,つまりGenが表す一般化は,発話者がその一般化を意図しているということを発話者と聞き手とが共通認識として持っている時に初めて成り立つ.また,上の定式化で文脈cが登場しているのは発話者の意図が文脈によって変化するようなものだからである.

たとえば,《ドーベルマンは垂れた耳をしている》という総称文をSterkenの理論はどのように捉えるかを考えよう.この文の発話者は,進化生物学的な文脈aにおいて,当該の総称文の論理形式が持つGenの意味を人間によって耳が切除されていないドーベルマンについての一般化として意図している.具体的にいうと,Genが持つ制限部に耳が切除されていないドーベルマンのみが入るように意図しているのである.反対に文脈bでは,制限部に,警察犬のような,耳が尖ったドーベルマンのみが入るようにGenの意味が意図されているのである.文脈aと文脈bにおける《ドーベルマンは垂れた耳をしている》の論理形式を表現すれば以下のようになるだろう.

文脈a: Gen [ドーベルマン1 (x) ][垂れた耳をしている (x) ]

文脈b: Gen [ドーベルマン2 (x) ][垂れた耳をしている (x) ]

ここで,ドーベルマン1は耳が切除されていないドーベルマンを,ドーベルマン2は耳が切除されているドーベルマンを,それぞれ指す.このように,Sterkenは総称演算子Genの意味を発話者の意図内容として分析する.

Genの意味を発話者の意図として捉え,総称文に特有の総称的な意味がないとする点で,Sterkenは統一の仮定を拒否している.総称文が意味するのは,あくまで,発話者の意図内容に対応した多様な意味でしかなく,総称文や総称演算子Genに特有な意味を持つわけではないというのが,Sterkenの主張である.ここからわかるように,Sterkenの理論にしたがえば,総称文が持つ意味の多様さは発話者の意図内容の多様さによって説明されることとなる.

Sterkenの理論の説明としてはこれで十分だと思われるが,本論ののちの議論に重要となってくる点として,意図概念を用いて総称文の意味を説明しているということをもう一度強調しておこう.意図内容が何であるかは,究極的には,発話者本人にしか知り得ないように思われる.しかし,このように私秘的な意図概念を総称文の論理形式に含まれるGenの意味とすることで,発話者以外の人間がGenや総称文の意味を認識論的に正当な仕方で同定することが困難になりうると考えられる.この点は4節で詳細に論じる.本節の残りの部分では統一の仮定を保持する総称文意味論の代表的論者による主張を確認する.

2.3. Leslieによる心理学的アプローチ

統一の仮定を拒否するSterkenに対して,Leslie (2007, 2008) は統一の仮定を保持する形で総称文意味論を展開している.つまり,Leslieは統一された総称性概念に基づいた総称文意味論を主張する.

Leslieによれば,総称文は人間がデフォルトで持つ認知メカニズムが行う一般化を表出している (Leslie 2007, p. 22) .

この見方にしたがえば,総称文の理解を支えているのは,先天的に与えられた,一般化を行うデフォルトメカニズムである.このメカニズムは,総称文の理解・評価・生成に際して利用される.ある種Kのメンバーに関する,発話者の知識と経験によって,彼女のデフォルトメカニズムが,Kの性質Fを一般化するとき,彼女は,これ (Kについての性質Fに関する一般化) を「KはFである」という総称文によって表現する.同様に,聞き手がこの発話を真と判断するのは,彼の知識と経験によって,彼のデフォルトメカニズムが,性質FをKの集団へと一般化するときである.

Leslieによれば,《KはFである》という総称文は,人間に備わる認知メカニズムが行う,一般化の発露である.Leslieは別の論文で,このメカニズムは言語を習得する以前の子供にも備わっている原始的なメカニズムであり,総称文はこれを呼び起こす表現であると主張する (Leslie 2007, p. 381) .たとえば《カラスは黒い》という総称文を考えよう.これを発話した人には,黒いカラスをたくさん見たり,あるいは,カラスというものは黒い,という知識を学んできたりしたという経験があるとする.この際,日常的な会話などで《カラスは黒い》とこの人が発話するとき,この総称文が表現するのは彼女がこれまでの経験から獲得したカラスについての一般化である.この人が発話した総称文は,Leslieによれば,デフォルトメカニズムが行った,カラスという種に属する個体への〈黒い〉という性質の一般化である.

以上のように,総称文が表現するのはデフォルトメカニズムによる一般化であるとする点で,Leslieは統一の仮定を保持している6.Leslieによれば,総称文の論理形式に含まれるGenの意味は,人間にデフォルトで備わっている,認知システムが表現する一般化である.統一の仮定で言及されている〈総称文についての統一された現象〉とは,Leslieにとって,このシステムが一般化を行っているということであり,さらにそれは総称文によって表現されている.この意味で,Leslieは統一の仮定を保持する総称文意味論を主張している.

Leslieによれば,このメカニズムが表現する一般化は,特徴的・印象的・統計的の,3種類に分類される7.それぞれの一般化に対応する総称文を,特徴的総称文・印象的総称文・統計的総称文と呼ぼう.以下ではそれぞれの詳細を確認する.

特徴的総称文

第一に,特徴的総称文とはある対象の際立った特徴について言及する総称文である.Leslie (2008) はこの種の総称文が機能する仕組みについて以下のように述べる (Leslie 2008, pp. 32-33).

[特徴的総称文]は,新たな種について集めるべき情報の大筋を与えてくれる.つまり,特徴的側面 (characteristic dimension) は,学習者に新たな情報の枠組みを与える.ある種について,特徴的側面が発見されたとき,その特徴は我々の基礎的な一般化のメカニズムによって種全体へと一般化され,それによって該当の性質を種へと帰属する総称文が受け入れられるようになる.動物種としてのアヒルには,特徴的な側面として繁殖機能があり,帰納的な学習者はこの側面を埋めるために必要な評価を探し求める.そして,帰納のために使えるサンプルが限られていたとしても,〈卵を産むこと〉を適切な値 (value) として与え,この性質が種全体へと一般化され,《アヒルは卵を産む》が真として受けいれられる.

Leslieによれば,特徴的側面とは,動物の種などについての新たな情報を入手する際に,学習者が優先して集めるべき情報のカテゴリーである.アヒルの動物としての特徴を知りたければ,アヒルの繁殖方法や色,あるいは食性などの情報を集めることとなる.アヒルやカマキリなど動物種における特徴的側面には,繁殖方法は何であるか,体はどんな色をしているか,どんなものを食べるかが,と言ったものが挙げられるだろう.我々は,この特徴的側面に沿って,アヒルやカマキリについての情報を集める.こうして集められた情報が一般化されることで,《カラスは黒い》や《アヒルは卵を産む》といった,種全体について言及している総称文が正しい情報を伝えていると判断される.

カラスやアヒルなどの自然種だけでなく,〈日本人〉のような社会種,あるいは人工物や社会機関などについても,我々は特徴的側面をもとに情報を集めることができる.たとえば,〈若者〉や〈中高年〉や〈老人〉といった世代に関する総称表現は,典型的にどんな人柄か,どんな行動をするかなどを,特徴的側面として考えられる.こうして集められた情報が一般化されることで,《若者はいつもスマホを見る》や《老人はゲートボールをする》といった総称文は,ある程度正しい情報を伝えていると判断される (cf. Leslie 2008, p. 15. cf. Haslanger 2014, p. 6).

印象的総称文

第二に,印象的総称文はある集団が人間にとって脅威となる性質を持つと述べる総称文である.代表例としては,《サメは人を食べる》《蚊はデング熱を運ぶ》が挙げられる.印象的総称文の特徴は,当該の性質を持つ個体がごくわずかであっても正しい情報を伝えていると判断される,ということである.たとえば,〈人を食べる〉という性質は人間にとって避けるべき危険な性質であり,また,実際に人を食べるサメがサメ全体の1%にも満たないにも関わらず《サメは人を食べる》という総称文は正しいように思われる.

印象的総称文が正しいと判断されるのにわずかな個体しか要求しないことは,人間に備わるデフォルト認知システムの傾向性として説明できる.すなわち,〈人を食べる〉や〈デング熱を運ぶ〉といった,人間にとって脅威となる性質に出会った際,デフォルトシステムはわずかな個体のみで種全体への一般化を行うのである.このような一般化によって,脅威を事前に避けられるようになると考えれば,Leslieが述べるように,「この[印象的性質についてはすぐに一般化をする]傾向性が,進化論的な利得を持つことは理解できる」だろう (Leslie 2017, p. 4 角括弧内筆者).

統計的総称文

第三に,統計的総称文と呼ばれ,特徴的性質も印象的性質も表していないが,単に多くのKがFであるというだけの理由で正しいと判断される総称文がある.代表的な例としては,《納屋は赤い Barns are red》が挙げられる8

以上のように,Leslieによれば人間が持つデフォルトメカニズムには3種類の一般化とそれぞれに対応する総称文の意味がある.ここで次のように考えることができる.すなわち,Leslieの理論では,総称文の意味は発話によって表出される発話者の心的状態である,と9.そして,いかなる一般化が発話者の心的状態にあったかは,Sterkenの意図概念同様,究極的には,発話者本人にしか知り得ないように思われる.さらに,もしそうであるとすれば,聞き手が認識論的に正当な仕方で総称文の意味内容を同定することは難しい.この点については4節で詳細に論じる.

2.4. 2節まとめ

本節では,統一の仮定を採用するか否かで総称文意味論を二分し,それぞれの代表的論者であるSterkenとLeslieの理論を確認した.総称文の論理形式に含まれるGenの意味を,Sterkenは総称文の発話者の意図内容と捉え,Leslieは総称文の発話者のデフォルト認知システムが行う一般化,言い換えれば,発話者の心的状態の表出として捉える.また,意図内容と心的状態は発話者本人にしか知り得ないという可能性を指摘し,そのことによって,発話者以外の聞き手が認識論的に正当な仕方で総称文の意味内容を同定することが難しくなりうる,と主張した.この点については4節でより詳細に論じる.次節では,4節の議論に備え,発話一般を分析する方法として,三木 (2019) による,共同的コミットメントを用いた議論を確認する.

3. 共同的コミットメントを用いた発話の意味の分析

本節では総称文から一旦離れ,ある発話の意味一般がどのように分析されるかに焦点を当てる.具体的には,近年の言語哲学において注目を集めている,共同的コミットメントを用いた主張の分析を確認する.本節では共同的コミットメントについての確認と簡単な指摘をし,次節で総称文の発話には共同的コミットメントを用いた説明ではうまく捉えられない部分があると論じる.

具体的な内容に入る前に,共同的コミットメントによる発話の分析を本論で採用する理由を簡単に述べておく.それは,発話に関する規範的な側面を捉えやすいというものである.共同的コミットメントは,規範的な概念であり,発話の責任や発話に対する非難といった,別の規範的な概念と密接に結びついている.そのため,本論が取り組む,総称文の発話の責任は何に由来するのかという課題に対しても,有益な示唆を与えると思われる.以下では三木 (2019) の議論をもとに共同的コミットメントを用いた発話の意味の分析を具体的に確認する.

ある人が発話によって何かを主張するとはどのようなことか.たとえば,本田が「明日は遊園地に遊びに行く」と発話したならば,本田は明日の予定について何かしらの主張をしていると思われるが,これはどのような仕組みをしているのだろうか.三木 (2019) は,主張を分析する代表的な理論としては,話し手10の意図に訴えかける説明,すなわち意図基盤意味論が支持されてきたと述べる (三木 2019, p. 25).意図基盤意味論はさまざまなバージョンが提出されているが,本論の目的はそれらの検討ではないため,ごく簡単なものを紹介するにとどめておく.Grice (1957) によって提案される意図基盤意味論の最もシンプルな形を三木は以下のようにまとめる (三木 2019, p. 39).

話し手Sがxを発話することでpということを意味するのは,Sがpという信念をある聞き手Aに引き起こそうとしてxを発話するときである.

先ほどの例で言えば,「明日は遊園地に遊びに行く」という発話が《本田は明日遊園地に遊びに行く》という命題を意味するのは,発話者たる本田がこの命題を内容として持つ信念を聞き手に引き起こそうと意図したときである.このように,意図基盤意味論によると,〈意味する〉という概念が〈意図〉という心理的な概念によって分析される.

三木によれば,意図基盤意味論には,一見,直感との合致をはじめとした,さまざまな利点があるように思われる11.しかし,三木は,意図基盤意味論は,意図の無限後退という原理的な問題を抱えており,話し手の意味の分析としては失敗していると述べる.そこで三木が,意図基盤意味論に代わる話し手の意味の分析方法として,提案するのが共同性基盤意味論である.共同性基盤意味論による説明として,三木は話し手がpを意味するという状況を以下のように特徴づける (三木 2019, p. 206).

話し手がpと信じているということを一体となって信じるということに,話し手と聞き手が共同的にコミットする.

「一体となって信じる」と「共同的にコミットする」はそれぞれ説明が必要だろう.まず「一体となって信じる」は,話し手と聞き手がpという同じ信念を持つということであり,集合的信念を持つとも言い換えられる.集合的信念とは,「あの政党はこんな方法で景気が回復すると信じている」や「あの企業は毛皮製品の使用が倫理的に問題であると信じている」と語ったりする際に見られる,人間の集合に帰属される信念のことであり,人間個人に帰属される個人的信念とは区別される (三木 2019, p. 199).

「共同的にコミットする (共同的コミットメントを持つ) 」に,必要十分な定義を与えることは難しいと思われるが,三木は,義務や権利といった規範的な道具を用いて,ある程度の特徴づけを行なっている (三木 2019, p. 206).

話し手がpと信じているということにあからさまに反するような振る舞いを取らないよう,話し手と聞き手は義務付けられることとなり,その義務に背いたならばもう一方の側はそれを非難する権利を持つ. (中略) これから雨が降るということを意味しながらも,傘もレインコートも持たずに徒歩で出かけようとする話し手は,まじめに話をしていないだとか,場合によっては嘘をついているだとか責められるだろう.少なくとも聞き手にはその権利があるはずだ.

上の例では,話し手が,何らかの発話や行為によって,《これから雨が降る》ということをすでに意味したことが想定されている.話し手が意味したある命題pについて共同的コミットメントが形成された場合,話し手と聞き手は〈話し手がpと信じている〉という事態と整合しない言動を行わない義務が発生する.さらに,もしこの事態に整合しない言動をした場合,もう一方にはそれを非難する権利が認められるという.引用部分の例は話し手が聞き手によって非難される場合だが,その逆もあり得る.たとえば,話し手が傘やレインコートを持って出かけようとしているのを聞き手がみて「何で傘なんか持ってくの?」と問いかけるとしたら,話し手は,「あなたは私の話をきちんと聞いていない」などと,聞き手を非難することができるだろう.

このように,共同的コミットメントは,非難や義務といった規範的な概念で特徴づけられる,それ自体が規範的な概念である.三木は〈話し手がpと意味する〉という事象を,共同的コミットメントという規範的な概念によって分析している.

三木による発話の意味の分析は以上である.ここで本論は以下のような場合に注目する.すなわち,〈話し手がpと信じている〉という事態に反する言動を話し手が行い,聞き手がそれを非難する場合である.本論の主張は,聞き手による非難が正当なものであれば,聞き手は話し手が信じているpの内容が何であるかを理解している,というものである.

仮に,聞き手による話し手への非難が正当であり,かつ,聞き手がpの内容を理解していないとする.これは,聞き手は,pの内容を理解していなくても話し手に対して正当な非難を行えるということを前提している.たとえば,前段落の例と,聞き手が発話を理解していないという点だけが,異なるケースを考えよう.つまり,本田が発話によって《外は雨が降っている》と意味したが,神崎は別のことに集中しており本田が何をいったのかを正確に理解していないようなケースである.ここで,先ほど同様,話し手である本田は,傘を持たずに出かけようとするなど,自分の発言に反するような行動をとる.仮定より,神崎は本田に対して正当な非難を行うので,「外は雨が降っていると言っているのに,なぜ雨が降っていないかのような行動をするのか.真面目に話をしていないじゃないか」などと,本田を非難する.この際,神崎は先ほど本田が発話によって意味したことを理解しているように思われる.しかしこれは明らかにおかしい.なぜなら神崎は,本田の述べたことを理解していないのに,本田を正当に非難する際には本田が述べたことを理解していなければならないからだ.よって,聞き手がpの内容を理解していないという前提はおかしい.ここでの結論は,聞き手は,共同的コミットメントに反する言動をしたとして話し手を正当に非難するためには,話し手が意味した命題内容pを理解している必要がある,ということである.この点は,4節で総称文の発話の責任や,総称文の発話に対する非難を考える際に,重要になってくる.

本節では共同的コミットメントによって主張を分析する方法を確認した.さらに,この分析にしたがえば,聞き手は,話し手の発話を正当に非難するためには,話し手が発話で何を意味したのかを理解している必要があると述べた.次節では,2節で論じた総称文意味論についての議論と,本節で述べた聞き手による話し手への正当な非難の成立条件とを組み合わせ,総称文の発話の聞き手は総称文の話し手への非難を行うことが難しいと述べる.

4. 総称文の発話と共同的コミットメント

本節では,2節と3節での議論をもとに,総称文の発話の聞き手が発話者を正当に非難することは極めて困難であると論じる.

2節では,統一の仮定の有無で総称文意味論を二分し,それぞれの代表的な論者の主張を確認した.統一の仮定を拒否するSterkenは,総称文の論理形式に含まれるGenの意味を,総称文の発話者の意図内容と捉え,統一の仮定を保持するLeslieは,総称文の発話者のデフォルト認知システムが行う一般化,発話者の心的状態の表出として捉える.また,意図内容と心的状態は発話者本人にしか知り得ないという可能性を指摘し,そのことによって,聞き手が,認識論的に正当な仕方で,総称文の意味内容を同定することが難しくなりうると,簡単に指摘した.以下では聞き手が総称文の意味を同定する際の難点について詳しく論じる.

意図内容をGenの意味と考えるSterkenと,発話者の心的状態をGenの意味と考えるLeslieの,どちらが正しいとしても,総称文の発話の聞き手が発話の意味内容を正当な仕方で同定できない可能性が残されている.なぜなら,第一に,意図内容や心的状態は,概念的に,発話者にとって私秘的で聞き手がアクセスを持たないものであり,第二に,仮に聞き手にアクセスがあったとしても,現実的に,聞き手は意図内容や心的状態の内実を同定することができないからである.以下ではそれぞれを詳細に論じる.

第一に,発話者の意図内容や,発話者が表出する心的状態といった概念自体が私秘的であり,その内実を正確に理解するためには,発話者の視点に立つことが要請されていると思われる.反対に,聞き手といった発話者以外の視点からは,発話者の意図内容や心的状態を正確に理解することが難しいと思われる.

Langton et al (2012) が取り上げる例を考えよう.Langtonらは,Leslieによる特徴的総称文・印象的総称文・統計的総称文の分類を引き継ぎ,総称文の発話者は,何を意味していたかをはぐらかし,発話の責任を回避することができると指摘している.たとえば,《ムスリムは暴力的だ》という発言がなされた際,発話者が意味しているのは《多くのムスリムは暴力的だ》という統計的な一般化であると,聞き手が解釈したとしよう.発話者に対して,この一般化は誤っていると反論するために,聞き手が平和的なムスリムの例をたくさん挙げるとしよう.Langtonらは,このような反論に遭ったとしても,発話者には,自身の発言の意味を統計的な一般化として捉えるのは誤解であって,本当に意味していたのは,《ムスリムには暴力的な特徴がある》という一般化だったのだと,聞き手による自身の発話解釈を訂正できる余地があると述べる.反対に,発言を特徴的総称文として捉えてみよう.この場合,聞き手は,ムスリムに暴力的な性質や傾向性はないと示すことで,発話者に反論することができるかもしれない.しかし,ここでも発話者は,自身の発言の意味を特徴的な一般化として捉えるのは誤解であって,自分が本当に意味していたのは《実際に多くのムスリムは暴力的である》という一般化だったのだと,聞き手による自身の発話解釈を訂正できる余地がある.このような事象に鑑みて,Langtonらは,「[総称文の]発言の異なる解釈を行ったり来たりすることで,発話者は,主張の含意について責任を取ることを回避することができる」 (Langton et al 2012, p. 764 角括弧内筆者) と結論づける12

Leslieの理論を援用するLangtonらからすれば,発話者によるこのような責任回避が可能になっているのは,総称文の意味である,〈発話者の心的状態〉が,発話者にしかアクセスがない,私秘的なものとして解釈されているからだと思われる.〈発話者の心的状態〉の内容は,差し当たり,発話者の意識に現れるものとして解釈できるだろう.この際,発話者の意識へのアクセスは発話者にしかないので,〈発話者の心的状態〉の内容が何かを同定できるのは発話者のみであるように思われる.だとすれば,上段落の例における発話者が,自分が本当に意味していたのは統計的な一般化ではなく特徴的な一般化だったと述べた際に,聞き手による「あなたが本当に意味していたのは,統計的な一般化である」といった再反論が成功する見込みは薄いだろう.Leslieのように,総称文が持つGenの意味を発話者の心的状態に対応させる場合,発話者が想定していた一般化は発話者にしかわかりえず,それゆえ,総称文の意味も発話者にしか把握可能でなくなると考えられる.同じことが〈心的状態〉を〈意図内容〉へ置き換えても言えるだろう.総称文が持つGenの意味が発話者の意図内容であった場合,《ムスリムは暴力的だ》といった総称文で何を意味していたかは発話者の意図内容によって決まる.意図内容は,第一には,発話者の現象的意識にのぼる内容として捉えられ,発話者にしか内実を同定できないようなものだろう.もしそうなら,総称文で何を意味していたかを認識論的に正当な仕方で同定できるのは発話者のみとなる.

第二に,意図内容や心的状態が完全には私秘的ではなく,聞き手がそれらの内容を同定できる可能性があったとしても,どんなリソースをどれほど用いれば良いのかが定かではない.2節で述べたドーベルマンの発話の事例では,警察犬のように耳が尖ったドーベルマンについて述べているか,耳が垂れたドーベルマンについて述べているかの差し当たり二通りの解釈しかなく,ある程度の文脈があれば発話の意味内容が特定できるだろう.しかし,Trumpによる発話や上段落で取り上げたLangtonらが用いる事例においてはそうはいかない.Leslieの総称文意味論が,総称文の意味は発話者の認知メカニズムにおける一般化の表出である,というものだとしたら,《KはFである》という総称文の意味は,《KはFという性質を持つ》という特徴的解釈や《多くのKはFである》という統計的な解釈の二つだけでなく,発話者の心的状態に応じて,《多くのKはFという性質を持つ》や《これまで発話者が見てきた多くのKはFである》などの,多種多様な解釈を候補として持ってもおかしくない.これほど多様で入り組んだ意味候補のうち,どれが発話の意味だったかを聞き手が同定するためには,発話がどのような文脈で行われていたかだけでは不十分だと思われる.

以上のように,総称文の発話内容を聞き手が認識論的に正当な仕方で同定することは,概念的に不可能であるか,可能であってもリソースの問題から現実にはできないケースが存在する.つまり,意図内容と心的状態は発話者本人にしか知り得ず,そのことによって,聞き手が正当な仕方で総称文の意味内容を同定することが難しくなっている.これは,いかなる状況においても聞き手が総称文の発話の意味を同定することができない,ということを意味しない.発話者が,聞き手に協力的であり,自身の意図内容や想定していた一般化を正直に伝えてくれる場合であれば,聞き手も発話者の意図内容や心的状態の内容を知ることができ,それゆえ,総称文の意味を正当に同定することができるだろう.しかし,聞き手が総称文の意味を同定できるか否かは発話者が会話に協力的であるか否かにかかっている.総称文の意味へのアクセス権は発話者が握っているからである.このような仕組みを利用して,発話者は総称文を用いた責任回避をすることが可能となっている.以下では,総称文の意味を聞き手は認識論的に正当な仕方で同定することができないということから,共同的コミットメントを用いて総称文の発話者に責任を帰属したり,非難をしたりすることが難しいと論じる.

ここまで,総称文の聞き手は発話の意味内容を認識論的に正当な仕方で同定することが難しいと論じた.ところで,3節の最後では,共同的コミットメントを用いた分析の枠組みの上では,聞き手は,話し手の発話を正当に非難するために,話し手が発話で何を意味したのかを理解している必要があると述べた.以上のことをまとめると,以下のような結論が出る.すなわち,総称文の聞き手は正当な仕方で発話者を非難することが難しい13

先ほど紹介した,Langtonらが挙げている例を用いて説明しよう.《ムスリムは暴力的だ》という総称文が何を意味しているかを同定することは,聞き手にとっては,難しい.たとえば,この発話の意味が,《多くのムスリムは暴力的だ》なのか,《ムスリムには暴力的な性質がある》なのか,聞き手は認識論的に正当な仕方で判断することができない.その一方で,共同的コミットメントの枠組みにしたがえば,聞き手は,この発話を正当に非難するためには,それが何を意味しているかを理解している必要がある.つまり,聞き手が非難を正当に行うためには,発話の意味が統計的な意味か特徴的な意味かを,認識論的に正当な仕方で見極められている必要があるのである.そのため,聞き手は,この発話についての非難を正当に行うことができず,発話者の責任を問いただすことができないのである.

このことを別の角度から説明してみよう.Langtonらが挙げていたような,発話者が発話の意味を訂正する事例は,聞き手にとっては,発話者と聞き手との間で形成されたと思われた共同的コミットメントが実は間違っていたものであると発覚するような事例であると捉えられる.たとえば,《日本人は論理的ではない》という発話で,発話者が《多くの日本人は論理的でない》という統計的な意味を表現していたと,聞き手が解釈したとする.このとき,聞き手にとっては,《発話者は多くの日本人は論理的でないと信じている》ということに発話者と聞き手とが共同的にコミットしていると,思われるだろう.その上で,統計的な意味に反論するために,多くの論理的な日本人を聞き手が提示するとする.これに対して,発話者は,先ほどの発話の意味は《日本人には論理的でないという性質がある》という特徴的な意味であったと,聞き手による発話解釈を訂正したとする.聞き手にとってこれは,自分が発話者との間で結んでいたと思っていた,《多くの日本人は非論理的である》という命題についての共同的コミットメントが自分の思い違いであったと,発話者によって指摘されるように感じられるだろう.

以上のように,総称文の発話は,聞き手が正当に意味を同定することができないために,聞き手が発話者を正当に非難することが難しいと考えられる.

5. 結び

本節では,4節までの主張のまとめを行い,今後の展望を簡単に述べる.1節では,Trumpによる発言を例として取り上げ,一部の総称文の発話の倫理的な問題点は何に由来するかを本論が取り扱う問題とした.2節では,総称文が何を意味するかという,総称文意味論に注目した.統一の仮定を採用するか否かで総称文を二分し,双方の代表的論者である,SterkenとLeslieによる主張を確認した.また,両者がそれぞれ,発話者の意図内容と,発話者の心的状態という,発話者以外からのアクセスが難しいと思われる概念を総称文の意味の説明に用いていると論じた.3節では,発話の分析理論として,三木 (2019) による共同性基盤意味論を確認し,さらに,この理論の枠組みでは聞き手が発話者を非難するためには発話の意味を理解している必要がある,と論じた.4節では,2節と3節の議論から,総称文の発話を正当に非難することは難しいと論じた.なぜなら,共同性基盤意味論のもとでは,発話者や発話を非難するために,発話が何を意味していたかを聞き手が理解している必要があるが,総称文の意味は,意図内容や心的状態といった,発話者以外がアクセスすることが難しい概念によって説明されるため,聞き手が総称文の発話の意味を正当に理解することが難しいからである14

ここまでの議論からは,総称文の発話の責任や,総称文の発話を非難する方法について,異なる2種類の帰結が示唆される.第一に,総称文の発話の倫理的な問題点や,非難が当たるポイントを,発話の意味に求めるべきではないという,規範的な主張である.これは,1節で取り上げたTrumpによる発言など,問題があるように思われる総称文の発話を非難したいのであれば,その発話が何を意味したかに焦点を当ててもうまくいかないため,発話の意味以外に問題の根幹を求める,という戦略的な提案である.第二に,総称文の発話の倫理的な問題点は,実際に,発話の意味にあるのではないという,記述的な主張である.これは,Trumpによる発言等は,責任を発話の意味に求めない方が非難をしやすいというだけでなく,実際に,発話者に責任を求めるポイントが発話の意味ではないという,発話の責任に関する存在論的な主張である.

いずれにせよ,発話の意味に頼らない形で発話の責任を捉えることが必要である15.その際に参考になると思われるのが,三木 (2022) が提案した,会話のコミュニケーション的側面とマニピュレーション的側面という区分である.会話をコミュニケーション的側面から考えるとは,発話者と聞き手とが形成する共同的コミットメントから会話を捉えることであり,会話を,発話者と聞き手との間での約束事の積み重ねとして捉える見方である (三木 2022, p. 27).その一方で,会話のマニピュレーション的側面とは,「相手の心理や行動を,自分の望む方向へと変化させようと」 (p. 30) することである.ここから三木は,両者に対応する責任も別物として扱うべきであると主張している (三木, p. 284).

マニピュレーションに関して責任を求めるときには,別の道筋が必要となります.要するにマニピュレーションの責任を問う場合には,「自分の言ったことは言ったと認めよ」というコミュニケーションのレベルでの責任を問うのではなく,「それによってどのような結果がもたらされるのか」「そのような結果をもたらすということを予見してそのような発言をしているのか」といった,より一般的な行為の善悪の次元で責任を問うべきなのではないでしょうか.

本論の主張は,総称文の発話の責任を共同的コミットメントによって捉えられる側面――コミュニケーション的側面――から捉えることは難しい,ということである.では,総称文の発話の責任を問う際に,そのマニピュレーション的側面から考えることはできないかと疑問が湧くのは,自然なことである.総称文の発話の責任を,三木がいう,「より一般的な行為の善悪の次元」で問うことができるのではないだろうか.

最後に,総称文の発話のマニピュレーション的側面に注目するとはどのようなことか,簡単に具体例を挙げて,イメージを掴めるようにしておこう.導入で取り上げたTrumpによる発言は,4節までで論じたように,発話が何を意味したかという次元では,責任を帰属することが難しい.では,「それによってどのような結果がもたらされるのか」「そのような結果をもたらすということを予見してそのような発言をしているのか」という点から,Trumpの発言はどのように評価されるだろうか.前者については,それを聞いた人がメキシコ移民への偏見を強めるといった事態や,それによって,特にアメリカ社会の分断が進行するといった事態などが,Trumpによる発言が引き起こす帰結として予測できる16.発話によってこうした事態が引き起こされたのであれば,Trumpはその分だけ非難に値する,道徳的に問題のある行為をしている,といった評価になるだろう.後者については,そういった帰結が,《メキシコ移民は性犯罪者である》という発言によって引き起こされるということを予見,あるいは期待して,Trumpは発話を行ったのかが争点となる.もしそのような帰結が起こることを把握しており,さらに期待して発言していたのであれば,Trumpはその意図や信念を持っていたという点において非難に値する,といった評価になるだろう.総称文の発話におけるマニピュレーション的責任がどのように問えるかについては,今後の課題としたい.

  1.    この事例の分析は (和泉2022, pp. 180-182) から.

  1.    https://www.washingtonpost.com/news/post-politics/wp/2015/06/16/full-text-donald-trump- announces-a-presidential-bid/ (最終閲覧日2024年2月18日)
  2.    https://www.politifact.com/factchecks/2016/aug/08/tim-kaine/tim-kaine-falsely-says-trump-said-all-mexicans-are/ (最終閲覧日2024年2月18日)
  3.    論理形式とは,ある文が持つ,論理的な構造を表したものであり,音声で表現される文の表層的な形とは区別される.たとえば,《本田はポチが好きだ》と《ポチは本田に好かれている》という文とは,音声的・表層的には異なるが,どちらも,L (本田, ポチ) という同じ論理形式を持つとされる.ここで,L (x, y) は,xとyの,《xはyを好き》という関係を表している.
  4.    例外として,Liebseman (2011) は総称文の論理形式にGenはないと主張するが,本論では取り上げない.
  5.    Sterken (2015), Almotahari ( forthcoming ).
  6.    一般化の種類は3種類あるが,その元となるメカニズムは一つであるという点で,Leslieの理論は,統一の仮定を保持している.
  7.    “Barns are red”は,アメリカ人による総称文意味論についての文献で,統計的総称文としてよく紹介される.おそらく,アメリカの納屋はほとんど赤い,という前提に基づいて使用されていると思われる.
  8.    水谷 (2023) は,Leslieによる総称文意味論を,表出主義意味論の形で形式化している.
  9.    3節では,三木 (2022) にしたがい,〈話し手〉という言葉を用いるが,これは本論で使っている〈発話者〉とほぼ同じである.一方で,三木は,〈話し手〉という言葉によって,〈わざとらしく咳き込む〉のような,非言語的だが何かを意味しているといえるようなふるまいの分析も想定している (cf. 三木 2022, pp. 35-36).
  10.    意図基盤意味論の利点として挙げるのは,直感との合致・物理主義との親和性・言語を超えた意味・推論の理論の基礎・話し手の意味の心理性への説明の5つである(pp. 54-59).三木は,その後これら5つは利点ではないか,三木が提案する共同性基盤意味論によっても説明可能であると主張する.
  11.    冒頭で取り上げたTrumpによる発言も,同じように分析できる.
  12.    このことは,いかなる状況でも,総称文の発話者に責任を帰属したり,正当な非難をしたりすることができない,ということを意味しない.発話者が協力的であり,意図内容や心的状態の内容を,正直に伝えてくれるような場合には,総称文の発話の意味が正当に同定できるため,発話に対して,責任を帰属したり非難をしたりすることができる.
  13.    本論では,少なくとも,SterkenとLeslieの意味論を採用する場合には,総称文の発話を非難することが難しいと論じただけであり,別の論者について同じ議論が当てはまるかは,検討が必要である.
  14.    一部の総称文の発話を,適切性条件を満たしていない会話として見做し,この点において,たとえば,誠実に主張をしていないという点において,発話者を非難したり,発話の責任を捉えたりするということもできるだろう.
  15.    総称文の使用は,偏見の拡大やステレオタイプ的な人種の見方といった現象に,密接に関連している.Domínguez-Armas, Soria-Ruiz & Lewiński (2023) は,政治的言説において,印象的総称文がプロパガンダ的に使用され,ヘイトメッセージを伝達する仕組みについて論じている.総称文と人種やジェンダーにまつわるステレオタイプとの関係について論じたものには,Haslanger (2014) やLeslie (2015) が挙げられる.

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