Inquiries into Philosophy
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2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 2-10

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1.テーマ設定に至る経緯:なぜ「ケアの倫理」ではないのか

2023年度の哲学若手研究者フォーラムでは,「〈ケアの倫理〉と〈倫理学〉」というテーマのもとで,佐藤岳詩さんと講演を担当する機会に恵まれた.お話をいただいた当初,私たちはそろって,戸惑いを覚えずにはいられなかった.というのも,本フォーラムの講演者として適役であると思われる研究者は決して少なくないからだ.英語圏を中心とした哲学・倫理学分野に限っても,ケアの倫理の日本への紹介者であり(川本 1995, 67-70, 202-204),2022年にキャロル・ギリガンの主著『もうひとつの声で』(Gilligan 1982)の新訳を公刊なさったばかりの川本隆史先生,ケアの倫理の理論的整理を行ない,体系的な著作『正義と境を接するもの』第二部を著された品川哲彦先生,マイケル・スロートの著書『ケアの倫理と共感』(Slote 2007)の翻訳者のひとりでもあり,ハリー・G・フランクファートのケアの行為論も熟知しておられる早川正佑先生(早川 2013),というふうに,ケアの倫理に造詣の深い研究者は枚挙にいとまがないからだ.とはいえ,多くの適任者の方々を差し置いて選んでいただいた以上,第一人者の先生方に匹敵するほどの働きはできないまでも,英語圏の倫理学における理論研究に重点を置いて研究を重ねてきた私たちだからこそ可能な,ケアの倫理の描き出し方はできないだろうか.「ケアの倫理」ではなく,「〈ケアの倫理〉と〈倫理学〉」というテーマ設定をした理由の一端はここに求めることができる.先取りして言えば,「ケアの倫理と倫理学」と単に並置するのではなく,両者を〈〉でくくることで,互いを規定することなく,相互に捉え直しと問い直しをつづける試みを目指すという意味をテーマタイトルに込めている.3節において述べるとおり,そうしたアプローチが,私たちが担当させていただいたからこそ可能な,ケアの倫理の描き出し方につながるものと考えた.

身体障害者手帳でいうところの,一種一級の先天的な視覚障害を抱える私にとって,文献アクセスの段階から大きな社会的障壁があり,多くの文献を読みこなすのは至難の業だ.そういう事情も手伝って,私にとってケアの倫理は,大切に取り組んできた唯一の研究テーマである.長年打ち込んできた研究対象をご紹介する栄誉に預かること自体が望外の喜びにほかならず、ケアの倫理の魅力をお伝えしようと意気込み,喜び勇んで構想を練り始めてからはたと気づいた.ケアの倫理をそれ自体で描き出そうとしても,その魅力をほとんど伝えることができないどころか,場合によっては縮減してしまうおそれすら否めないのではないか.こうした問題意識に鑑み,哲学若手研究者フォーラム事務局の坂本美理さん,西本優樹さん,そしてケアワーク論やフェミニスト倫理学に精通しておられる佐藤靜さんにお力添えいただきながら,私たちは次のような問いに向き合うところから構想を練り始めた.すなわち,そもそも「哲学」フォーラム,哲学という分野でケアの倫理を紹介する際に,要請されているものは何だろうか.ケアの倫理は哲学に何をもたらすことができるのだろうか.そもそも哲学とは何だろうか.

意見交換を重ねるなかで,私たちは二人ともこれらの問いにたいする明確な答えを提示することはできないこと,少なくともきわめて曖昧な形でしか答えらしきものを持ち合わせていないことがわかった.それを受けて哲学のなかでも,私たちいずれにとっても馴染み深い,人間の行為を扱う分野とされる「倫理学」に照準を合わせて,ケアの倫理を紹介することに方針を定めた.

そこで私たちは,『正義と境を接するもの』第二部を読み直し,ケアの倫理をどのように描き出すかを考えるところから出発することにした.多様な立場が林立し,ただでさえ自身の研究の位置づけに途方に暮れる場合も少なくないなかで,徳倫理学以上につかみ所のないケアの倫理を紹介する際に,ケアの倫理の議論の端緒として,本書籍は現在もなお学ぶべき点を多く含んでいる.

2.なぜ『正義と境を接するもの』第二部から出発したのか

ケアは多義的であり,ケアの倫理から派生した議論は多岐にわたる.そのため,ケアの概念規定は一朝一夕になしうるものではない.そうした複雑さを内包するテーマを扱うにあたっては,議論の端緒をどこに求めるかがより重要になる.「ある主題の内容をどのように説明するかは,その主題をいかなる問題の連関のなかに位置づけるかに応じて変わってくる.このことは(中略)とりわけ,さまざまな文脈に結びつく可能性をもった主題」(品川 2007, 140),ケアの倫理にもあてはまる.本節では,その性質上,理論的整理の困難さを抱えるケアの倫理に取り組むにあたり,品川先生のアプローチから学んだ点,なぜその点を重視したのかについてごく簡単に言及する.議論の端緒として共有したのは主に次の三点だ.

第一に,その方法論,すなわち,ケアの倫理のとりあげ方だ.「そこにとりあげる倫理理論を体現した著者が教えを垂れる」わけでもなければ,「自分が研究している哲学者に成り代わってその論敵を論駁する代理戦争を買って出た」(同上, ⅲ)わけでもない.「ケアと正義とを,いわば『合わせ鏡』のようにして,それらのあいだにどのような関係があるかをみてとろうとする」(同上, 6)というケアの倫理へのアプローチのしかたがそれだ.哲学・倫理学が批判的に物事を問い直す学問である以上,無批判に擁護する方向性をとることには疑問が残る.加えて,自身の研究の学問的位置づけを意識することも重要であることに鑑みれば,対置される理論としての「正義の倫理」について一定の定義を示し,徳倫理学や共感論といった重なり合う論点を含む諸理論,倫理学のなかでのケアの倫理の位置づけを意識した議論展開は欠かせない.それは具体的には,ケアの倫理の「理論の核となる部分をとりだし」,「どのような背景のもとで成立してきたかについてその経緯を説明し,そこから逆照射した場合に」(同上, 5)映し出される正義に基づく理論の不足や欠陥を明らかにし,逆に,正義に基づく理論から展開される批判を明らかにするアプローチだ.本講演,ならびに本雑誌に掲載いただいた論攷(以下,「本講演」と表記する)の着想は,こうしたアプローチに触発されて生まれた.

第二に,問題連関の切り分け,論じられる文脈の整理,一定の概念規定の明示を行なう姿勢だ(同上, 147-154).これは,哲学・倫理学において考察するからこそ可能になる取り組み方だ.こうしたアプローチは一見したところ,ケア実践やケアの現場においては必要ないと思われる向きもあるかもしれない.しかし,論じる文脈はもちろん,どのレベルの問題を扱っているかに留意することで,多義的な概念であるケアを扱う場合に生じがちな,食い違いやすれ違いを防ぎうる場合がある.建設的な議論を積み重ね,ケアの倫理の理論研究を企図する視座からは重要な点だと言えるだろう.

第三に,自身の当事者性,および立場性,すなわち,自身が有する属性,ならびにどの立場から発言しているのか,どの立場から発言すべきかに自覚的である点だ1

ケアの倫理の著者たちの多くは,母親として子育てをしながら人並み優れた職業上のキャリアを築いてきた女性である.私は男性で,子どもがない.著者たちの経験に裏打ちされたケアの倫理の文献は,同様の経験をもたない読者の理解をときとして拒絶するかのようにみえることがある.それでも私がその読解を進めてきたのは,彼女たちの著作が私のなかにいつのまにかしみついている男性中心的な価値観に気づかせるからだった.(同上, ⅲ)

上記は男性にのみ当てはまる指摘ではない.視覚障害当事者であり,ともすれば多くの困り事を抱えがちな私にとっても,ケアの倫理が一定の女性にのみ開かれた,特権的な「声」であるように感じられる場合がある.たとえば,ギリガンが中絶の選択に直面した女性へのインタビュー調査をもって「女性の声」と称するのは,産む産まない権利を剥奪されてきた一部の女性障害者を射程に入れていない排除的な姿勢に映ることがある.ここで,ケアの倫理は,ケアするひとの視点,そのなかでも特に白人で教育程度が高く,子どもをもつ環境に恵まれた階層に属するシスジェンダーといったふうな,一定の特権性を有する「女性の声」なのではないかという疑問が湧き上がってくる2.ケアの倫理は,彼女たちが批判する正義の倫理の人間観,すなわち独立して自律的で合理的判断能力を有する個人,具体的には特権的地位にある「男性の声」に基づく権利主張を,「ケアの倫理」の名のもとに,特権的な「女性の声」として,語り方を変えて提示したにすぎないのではないか3.「すべての人が他人から応えてもらえ,受け入れられ,取り残されたり傷つけられたりする者は誰ひとり存在しない」(Gilligan 1982. 63)という普遍的な広がりをもつケアの理想の本来の意味に立ち返るには,当事者性と立場性を反省的に捉え直し,自己理解に努める姿勢が不可欠な要素であるように思われてならない.フェミニスト政治学者のスーザン・ヘクマンは,次のように述べる.

さまざまな道徳の声が,他者との関係のなかで定義され,言説により構成される主体から発すると見抜いたギリガンの洞察を真剣に受けとめるならば,(中略)道徳の声はそれを産出する主体と同じく多様なものであり,たった二つだけではなく,より多くの道徳の声が定義されねばならない.(Hekman 1995)

3.本講演が描き出したもの,描き出せなかったもの

前節において先行研究から学び取った論点,ならびに私たちの専門分野4を踏まえて,本講演では,現代英米倫理学における主流の枠組みのなかでケアの倫理を内と外から描き出すアプローチをとることにした.それにより,描き出せたもの(少なくとも私たちが描き出そうと意図したもの),ならびに描き出せなかったものに言及する.

まず,私は,ケアの倫理の理論内部からその輪郭を素描した.具体的には,ケアの倫理を論じる際の留意点を指摘し,英語圏における論点の推移を描き出し,米仏におけるその受け止められ方の違いに簡単に触れている.その内容は,拙論「ケアの倫理の通時的・共時的位置づけ」として本雑誌に掲載いただいている.

一方,佐藤岳詩さんは,メタ倫理学の観点からケアの倫理を描き出したうえで,ジーン・アイリス・マードックの議論と対比的に論じることにより,初期ノディングス独自の主張の特徴、およびその意義を浮き彫りにしている.その内容は,「メタ倫理学から見たケアの倫理」として本雑誌に掲載されており,これまでのケアの倫理研究では言及されることがほとんどなかったメタ倫理学の視点から,個別主義的なケアの倫理の可能性を切り開く,画期的なケアの倫理解釈が提示されている.

本講演で描き出せなかったものをあげつらいだすと際限がないが,主要な三点を以下に挙げる.

第一に,本講演全体にあてはまる特徴として,英語圏の分野に偏った検討であることが指摘できる.これは,ケアの倫理を描き出す際に枠組みを共有する必要があったという方法論的な事情に加えて,私たちの専門分野に鑑みて意図してもたらされた結果だ.しかし,それに伴い,フランスにとどまらず,ドイツ,イギリスといった各国の研究状況を踏まえた紹介をなしえなかった.特に日本におけるケアの倫理研究は,英語圏,特にアメリカとカナダの研究に特化している印象が強い.当然のことながら,日常生活に満ち溢れているケアは国を問わず立ち現れるものであり,英語圏の研究のみでそのすべてを把捉しきれるわけではない.

第二に,本講演ではケアの倫理の思想史的な検討はできなかった.ケアの倫理は一般的に,1980年代に「発見」された倫理的立場だと紹介される.だからといって,ケアの倫理の発想すべてが必ずしも画期的というわけではない.それらのいくつかは,思想史のなかに散見される.それらを掘り起こすと,ケアの倫理の核心がどこに求められるか、ひいてはその思想史的位置づけが解明されていく.そのなかで,それぞれの思想との相互触発が期待される5

第三に,本講演ではケアの倫理から派生した応用研究やその広がりには触れられなかった.ケアの倫理はケア実践家の声から展開していったというその由来にふさわしく,多分野に影響を及ぼし,それぞれの分野において独自の展開をみせ,多様な広がりを遂げている6.こうした動向のなかで,哲学・倫理学において,ケアの倫理を理論的に整理することで寄与しうることがあるかもしれないというのが本講演の着想だ.それは,即効性のある形では現れ出ることはないにせよ,少なくともケアの倫理の理論研究を企図する際には欠かせない姿勢ではないだろうか.こうした理由から,本講演のなかでは,理論的側面に特化してケアの倫理を取り上げている.

以上のように,現在,日本において主流の英語圏の議論はもちろん,各国の研究状況,思想史からの捉え直し,その応用研究など,本講演で描き出せなかったものは多く残されている.そうした積み残しに加えて,そもそも本講演で採用した枠組みそのものを問い直し,倫理学の射程や倫理の意味をつくり直すことも可能かもしれない.描ききれなかった余白のなかに可能性を見出し,それぞれの研究テーマや問題意識からケアの倫理を捉え直していただけたなら,これほどうれしいことはない.

4.ケア実践としての本講演の意義

ケアの倫理はケア実践家の声に由来し,ケア実践にこそ駆動されている.それにもかかわらず,前述のとおり,本講演のなかではケア実践に直接的に触れることはできなかった.しかし,本講演がケア実践とまったく関連がなかったというわけではない。本講演自体が,(1)ケア実践の場であったこと,(2)関係のなかでつくりあげられたこと,そして(3)心理的安全性に重きを置いていたことに言及しておきたい.

まず,本講演が(1)ケア実践,すなわち事務局の方を中心とした気づかい溢れるご対応あればこそ,実現できたことについてだ.本講演は,事務局の方々の合理的配慮に対する取り組み,講師の事情に寄りそう姿勢,若手研究者の声や素朴な疑問もすくい上げようとする,心砕きとお骨折りがあればこそ達成できたものであることを強調しておきたい.障害に伴う制約に限らず,「できなさ」を生み出す制約は多岐にわたる.勤務形態に伴う経済的な制約,加齢や病気に伴う体力的・精神的な制約,職位や属性などの立場性に伴う制約,威圧的な言動や権力に伴う制約.事務局の方々,そして講演をご一緒させていただいた佐藤岳詩さんが,そうした制約を取り除く実践に理解を示し,快くご対応くださったことで,視覚障害に伴う困り事を抱える私が円滑に講演させていただけたものと感謝している.同時に,会場の方々との闊達なやり取りが,私たち二人にとっても学びにつながり,落ち着いたおだやかな雰囲気のなかで有益な意見交換を重ねさせていただけたことにも感謝を申し述べたい.

第一の点に関連して,本講演は(2)関係のなかでつくりあげられたものであることに触れておきたい.特筆すべきは,講演後に設けた講演者同士の意見交換の時間だ.それぞれの研究内容を付き合わせ,素朴な疑問を交わし合うなかから興味深い論点が浮き彫りになったり,新たな発見がもたらされたり,問いから問いが生まれたりするというふうに,対話のなかから生成するものがあること.研究のしかたには,文献との対話のみならず,ひととの対話のなかから関係的につくりあげられる場合もあって,それは意外と楽しく,得るものも多いことをお伝えしたかった.会場でも申し述べたとおり,佐藤岳詩さんと私が以前,読書会を2年間ほどご一緒する機会に恵まれた知己であるからこそ可能であったことは否めない.身内のなれ合いのように思われるかもしれないし,そうしたご批判はある意面では的を射たものだ.しかし,お互いの研究をある程度把握し合い,お互いの人柄をある程度知っているからこそ,諸々の制約を超えて,研究上,忌憚ない意見を交わす対等な関係を結びうる場合もあることをお伝えしたかった.

馴れ合いではないかというご批判を甘受する覚悟で,あえて第二の点を打ち出したのは(3)心理的安全性に鑑みてのことでもある.ともすれば研究上の関係においても権力関係が多かれ少なかれ滑り込みやすく,認識的不正義7をめぐる問題が生じやすい場合があることは否定しがたい.そのなかで,「教授」であり「男性」であり「健常者」であるという社会的に「強さ」となりがちな属性を有する佐藤岳詩さんと,「非常勤講師」であり「女性」であり「障害者」であるという「弱さ」となりがちな属性を有する私との間で,率直に疑問を投げかけ合い,批判的論点を提示し合い,指摘を行い合うことは,心理的安全性が確保された関係があればこそ可能であった.そうした関係を有する,私たちが口火を切ることにより,会場の参加者の方々とも発言しやすい雰囲気を共有し,すべての人にのびのびと発言していただくこと,素朴な疑問をそのまま投げかけたり,わからないことは「わからない」と言えること,「わからない」ことを共有して,社会的地位や属性といった諸々の制約を超えて共に考えていく楽しさがあること,そうした場は心理的安全性が確保されているからこそ実現しうるものであること,そうした場を確保するにはその場を共にするすべてのひとのご理解とお力添えが欠かせないことをお伝えしたかった.「すべての人が他人から応えてもらえ,受け入れられ,取り残されたり傷つけられたりする者は誰ひとり存在しない」(Gilligan 1982. 63)という普遍的な広がりをもつケアの理想の実現に近づくためには,気にかけるべき重要な要素のひとつではないだろうか.

折しも2024年4月から民間事業者にも障害者差別解消法に規定された合理的配慮義務が適用される8.このような法律に規定されたれっきとした「権利(right)」だから形式的に合理的配慮に取り組むという観点からでは取りこぼされてしまうものがないだろうか.本講演にあたって事務局の方々の気づかい溢れるご対応に接し9,正義に適ったケアのあり方について,あらためて考えさせていただく機会ともなった.教育学者ネル・ノディングスは,権利はニーズ,ニーズは欲求に遡ることによって実質を与えられると説明する(Noddings 2002, 54-57; 2003, chap.3; 2010, chap.7).権原の背後には実際の生を営む具体的なひとびとがいて,ひとびとが抱えるニーズや欲求,それらを引き起こす苦しみや傷つき,困り事がある.これらは障害に関わりなく誰しも多かれ少なかれ抱えているものだと言えるかもしれない.そうしたニーズを充足し,苦しみを抱えるひとびとの呼び声に応答する「責任(responsibility)」に想いを致していただければ,それこそがひとつのケア実践となりうるかもしれない.ケアの倫理はケア実践に牽引されつつ,理論を変容・更新していく.多くの視点からケアの倫理に関心を寄せ,関わり,ケアの倫理研究への参与をなしていただけるとしたら,このうえない喜びだ.今後,ますます哲学・倫理学分野におけるケアの倫理研究が盛んになることを期待してやまない.

  1.    当事者性と立場性については江原由美子の論攷(江原 2022)を参照.
  2.    ギリガンは当初から,倫理にジェンダー固有の捉え方が存在すると実証しようとする意図はなく,思考様式の違いを描き出すことが目的(Gilligan 1982, 3-4)だと述べていた.すなわち,「異なる声を特徴づけるのは,ジェンダーではなくテーマである.この声が女性に対応しているのは経験的な事実であ」るが,「この対応関係は絶対的ではなく,(中略)いずれの性についても一般化しようとしたわけではない」(ibid., 2).近年のギリガンはさらに踏み込んで,次のように述べる(ギリガン 2022, 7).「女性的な声として聞こえていた『もうひとつの声』(すなわち、〈ケアの倫理〉の声)とは、実のところ〈人間の声〉のひとつ」であり,「〔男か女の二つの性しかないとする〕性別二元論や、ジェンダーによって上下を割り当てる階層構造」を内包する,家父長制の声とは異なる声だ.「家父長制が勢力をふるっていたり,押しつけられているような事情のもとでは,この〈人間の声〉は抵抗の声となり、『ケアの倫理』は解放の倫理とな」る.しかし,はたしてそうした「人間の声」を語ることができるほど,ケアの声は響きわたっているのだろうか.抵抗する力すら奪われ,苦しみのなかで身動きをとれずに困り果てている具体的なひとびとはいなくなったのだろうか.苦しみを緩和されることなく,「取り残された」ままのひとびとがいるなかでは,こうした理想は正義の理念以上に,実質を伴わない空虚な響きを帯び,時に暴力的に感じられ,場合によっては正義の声として困り事を抱えて苦しむひとびとを傷つけ抑圧する場合がないだろうか.ここで私は,ギリガンがとる方向性を必ずしも否定しているわけではない.留意すべきは,第一に,個別の経験に依拠するがゆえの偏りが排除的に働きうるというケアの倫理が抱えざるをえない危険性であり,第二に,偏りを内包したまま,ケアの倫理を一般化,ないしは普遍化することが,多くの取り残されたひとびとや傷つきを抱えるひとびとを排除しはしないかという危惧だ.
  3.    フェミニスト哲学者であり,重度の障害者の娘セーシャの母でもあるエヴァ・F・キテイもこの点に自覚的だ(Kittay 1999).
  4.    佐藤岳詩は英米倫理学を専門とし,『メタ倫理学入門:道徳のそもそもを考える』(勁草書房),『心とからだの倫理学:エンハンスメントから考える』(筑摩書房)などの著作がある.ケアの倫理,ないしはケア論について触れたものとしては,バーナード・ウィリアムズ解釈にあたってギリガンの反転図形の比喩に触れた論攷(佐藤 2015)や,『先端倫理研究』の「髙橋隆雄先生追悼号」において彼のケア論を紹介,解釈したエッセイ(佐藤, 2021)がある.私はケアの倫理を専門とし,『知のスイッチ:「障害」からはじまるリベラルアーツ』(岩波書店,共著),『語りの場からの学問創成:当事者研究,ケア,コミュニティ』(京都大学学術出版会,共編著)などの著作がある.ケアの倫理を扱ったものとしては,ロザリンド・ハーストハウスの徳倫理学とケアの倫理との比較検討を行なった拙論(Yasui 2021)や,ケアの倫理の基本的な潮流を紹介した「第5章 ケアの倫理:〈そのものらしさ〉を受容する倫理」(昭和堂,共著)などがある.
  5.    『行為論研究』(行為論研究会)所収の諸論攷, および大河内泰樹の論攷(大河内 2023)を参照.
  6.    ケアの倫理から派生した研究については,『もうひとつの声で』の新訳所収の「[解題]『もうひとつの声で』を読みほぐす」,および「訳者あとがき」のなかで丁寧に紹介されている.
  7.    認識的不正義については,2021年の哲学若手研究者フォーラムのテーマレクチャー「現代認識論」において取り上げられている.詳しくは,『哲学の探究』第49号を参照.
  8.    詳しくは,リーフレット(内閣府)を参照.
  9.    私が把握している限りでは,フォーラム当日の会場のバリアフリーマップが哲学若手研究社フォーラムHP上に事前公開されていたことや,私にたいする本講演を通じた合理的配慮が挙げられる.後者については,講演時の代読者の手配を引き受けてくださったこと,拙稿の校正時にPDFファイルや紙媒体の校正原稿への書き込みができないことにたいする対応などが挙げられる.校正時に細やかにご対応くださったことについて,編集担当の米倉悠平さんに感謝申し上げる.

参考文献

江原由美子(2022).「差別問題を研究する社会学者の「ポジショナリティ」をめぐる問題」,『現代社会学理論研究』,第16 巻,日本社会学理論学会,5-19頁.

Gilligan, C. (1982). In a Different Voice: Psychological Theory and Women’s Development, Cambridge: Harvard University Press.(川本隆史・山辺恵理子・米典子訳『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』,風行社,2022年.)

ギリガン, キャロル(2022).「本書を読んでくださる日本の皆さまへ」,川本隆史・山辺恵理子・米典子訳『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』,風行社,7-10頁.

早川正祐(2013).「ケアと行為者性の哲学: 揺れ動くものとしてのケアと行為者性」,東京大学,博士論文.

Hekman, S. (1995). Moral Voices, Moral Selves: Carol Gilligan and Feminist Moral Theory, Cambridge University Press.

川本隆史(1995).『現代倫理学の冒険――社会理論のネットワーキングへ』,創文社.

Kittay, E. F. (1999). Love’s Labor: Essays on omen, equality, and dependency, New York: Routledge. (岡野八代・牟田和恵監訳『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』,白澤社,2010年.)

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内閣府「リーフレット『令和6年4月1日から合理的配慮の提供が義務化されます!』」,2024年3月1日閲覧.https://www8.cao.go.jp › suishin › sabekai_leaflet-r05

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大河内泰樹(2023).「〈正義の批判〉としての倫理――フランクフルト期ヘーゲルのイエス論とケアの倫理の接点」,『哲学研究』,第610号,京都哲学会,1-26頁.

佐藤岳詩(2015).「倫理学における内的視点と外的視点――『全一性に基づく反論』と間接功利主義」,『西日本哲学年報』,(23),西日本哲学会,91-108頁.

―――(2021).「髙橋隆雄先生追悼エッセイ: 髙橋隆雄の倫理思想とその展開について――自由からケア、そして恩の倫理へ」,『先端倫理研究』,第15号,熊本大学倫理学研究室,28-45頁.

品川哲彦(2007).『正義と境を接するもの――責任という原理とケアの倫理』,ナカニシヤ出版.

Slote, M. (2007). The Ethics of Care and Empathy, New York: Routledge. (早川正祐・松田一郎訳『ケアの倫理と共感』,勁草書房,2021年.)

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