Inquiries into Philosophy
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2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 11-37

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1.はじめに

現代規範倫理学の三大理論と言えば,義務論,功利主義,徳倫理学の名が挙げられる.これらは,権利,原理,普遍化可能性,抽象性,理性,推論,自立,自律といった規範や価値を重視する(Tronto 1993, chap.3).これらの優先は多くの場合,自明視され,さまざまな分野における価値の序列づけに影響を与えてきた.そのひとつが発達心理学である.ジークムント・フロイト,ジャン・ピアジェ,その系譜に連なるローレンス・コールバーグが提示した道徳性の発達理論の段階モデルは,主流派の倫理学が提示する価値に依拠して整序されていた.暗黙に忍び込み,知らず知らずのうちに浸透している既存の価値の序列づけに疑問を投げかけ,「ケアの倫理(an ethic of care)」を提唱したのが発達心理学者キャロル・ギリガンである.

従来の規範や価値を理論的基礎に据える「正義の倫理(an ethic of justice)」にたいして,ケアの倫理は責任,関係性,個別性,具体性,感情,文脈,他者依存性,傷つきやすさ 1を理論的基礎に据える(ibid.).ケアの倫理は,『もうひとつの声で』(1982年)のなかでギリガンによって提唱された当初は,看護学,社会学,教育学といった対人サービスに特化した分野に適用されるにとどまる場合がほとんどだったが,現在では政治学や法学,文学といった多岐にわたる適用が散見される 2.ケアの倫理から派生した多くの議論が学際的に広がりをみせている現状は,ケアの倫理の発展にとって歓迎すべき動向だが,反面,ケアの概念規定や文脈を疎かにした適用がすぎれば,今後のケアの倫理の展開の躓きの石となりかねない.

そこで本稿では,ケアの倫理を扱う際の留意点を指摘し,英語圏の初期の代表的な議論を,通時的・共時的に整理する.まず,ケアの概念規定の困難さに言及し,ケアの倫理を扱う際には,論じる次元と文脈への目配りが重要であることを強調する(2節).次に,オレナ・ハンキフスキーによるケアの倫理論者の世代区分をもとに,その論点の推移を通時的に整理する(3節).最後に,ケアの倫理はギリガン由来の流れとサラ・ラディックのそれの,およそ二つの潮流に分類できること,それに関連して,米仏ではやや異なる受け止め方がみられることを指摘する.それにより,ケアの倫理の共時的位置づけについて素描する(4節).

2.ケアの捉えがたさと文脈への目配りの重要性

2.1 予備考察:用語の整理

2.1.1 英語と日本語におけるケアの用法

ケアの倫理を論じるにあたっては,“care”についてある程度の概念規定をする必要がある.ところが,“care”の含意は幅広く,英語と日本語に限っても,その多義性は明らかだ.たとえば,OEDにおける“care”の動詞の項目 3には,(1) 悩む,(2) 心配する,気にかける,関心をもつ,(3) 世話をする,面倒を見るというふうに多様な意味が列挙され,個々の文脈に応じて訳し分けがなされている.

一方,日本におけるケアは,1980年代に登場して以来,主として医療・福祉の領域で用いられてきた 4.ケアの倫理が日本に紹介された当初も,「世話」や「配慮」など,適切な日本語への訳出の模索がなされてきたが,現在では基本的に,「ケア」とカタカナで表記する形が定着している.その理由については,川本隆史による次の指摘が示唆的だ.すなわちケアを訳出するにあたっては,「『世話』や『手入れ』,『心砕き』,『面倒見』といった日本語の含蓄,さらにギリガンの中国語訳が採用している『關懷』という表記にも惹かれるが,『ケア』の多義性を十全にカバーし得るものではない.一九九五年一月一七日の阪神・淡路大震災を経た日本社会に『ケア』の語が浸透・定着したと判断して,その拡散と意味変容に留意しながら──かつ,日本語の在来の語彙に登録されているはずのcareに相当する言い回しの博捜を怠らないで──この語を使い続けるほかあるまい」(川本 2022b, 427).

このように,個別の場面すべてに適用可能な“care”の日本語を見出すことは困難であり,ケアの多様な側面を表現するためには,「ケア」と訳さざるをえない.したがって,英語と日本語ではその含意に違いはあるにしても,ケアが多義性を帯びていることに変わりない.ケアの幅広い含意は,ケアの倫理の学際的広がりをもたらした反面,ケアのつかみ所のなさ,それに伴う語りがたさの原因ともなっている.

2.1.2 ケアの捉えがたさ:ケアの日常性,多義性,主観性

ケアは個別の文脈に応じて多様な様相を呈するため,曖昧でつかみ所がなく,その概念規定は一朝一夕に果たされるものではない.だからといって,ある程度の概念規定を行なわないまま議論に踏み込むと,食い違いやすれ違いが生じ,混乱をきたすこともしばしばだ.そうした事態を避けるために,ケアの捉えがたさが多くの派生的な議論を生み出すという,多様な展開を可能にしたその意義を認めつつも,本稿においても可能な範囲で,ケアをどのようなものとみなすかについて一定の明確化を図っておきたい.ケアの捉えがたさをもたらす原因は,その(a) 日常性,(b) 多義性,(c) 主観性に訴えることで一定の理解を見込みうる.

まず,(a) ケアの日常性,すなわち,ケアは日常の至る所に散見される,ごくありふれたものであるという特徴がもたらすケアの捉えがたさについてだ.このとき参考になるのが,ケアの日常的な側面に注目してケアの行為論を扱う,早川正祐によるケアの捉え方だ.端的に言えば,早川はケアを広義で捉える.すなわち,ケアの多義性を認めたうえで,ハリー・G・フランクファートのケア論に依拠しつつ,数あるケアに共通する特徴を,ある対象への「関心」に求め,関心としてケアを規定する 5

ケアの日常性は(b) ケアの多義性,両義性と密接に関連する.ケアの語源に遡ってみても,ケアに相反する意味があることは明らかだ.ウォーレン・ライクによれば,ケアは,古代文学,神話,哲学に起源を遡ることができ,ガイウス・ユリウス・ヒュギーヌスの神話集『ヒュギーヌスの寓話』の登場人物「クーラ(Cura)」に由来する 6.Curaには相反する二つの含意がある.ひとつは,「重荷」,「負担」といった場合の,「不安」「心配」と結びつくケアであり,もうひとつは「世話」,「関心」といった場合の,「気づかい」,「大切にすること」 7と結びつくケアだ.このことは,ケアが身体的な活動であり行為を伴うと同時に,気づかいや思いやりといった精神的な働きでもあること,さらに文脈に応じてポジティブな意味合いもネガティブな意味合いも帯びることを示唆している.

さらに,(c) ケアの主観性,すなわちケア経験が個別の経験に依拠するがゆえに,特定の個人の主観的な記述にとどまり,妥当性に疑問が残る場合がありうる.これにかんしては,笹谷による次の指摘が示唆的だ.すなわち,「ケアリング研究の困難さは,そこにおける人々の思い入れの複雑さ・多様性にあり,その『経験』は個人的で主観的」(笹谷 1999, 244)だ.ケアの声は往々にしてケア実践の現場から発せられてきた.このとき,ケアするひとが家族か専門職か,ケアされるひとがケアするひとにとってどのような関係にあるのかに応じて,それぞれのケア経験は異なる.すると,どの経験に着目するかによって,ケアの定義もおのずと異なってくる.この点の整理を怠って不用意に議論を始めてしまうと,ただでさえつかみ所のないケアの倫理の輪郭をますます曖昧にしてしまいかねない.

2.1.3 広義のケアと狭義のケア

こうした捉えがたさをはらむケアは,おおよそ二つのしかたで定義可能だ.第一は,日常にありふれたケアに注目し,人間のみならず,動物や植物,事物や観念も同様にケア対象とみなす広義のケアであり,政治学者ジョアン・C・トロントの定義がその代表例だ.第二は,特に対面関係において直接的・具体的になされるケアであり,ケア対象への専心と注意深い気づかいに基づく実践を伴う狭義のケアだ.狭義のケアにおいても,動物や植物,事物や観念はケア対象となる.とはいえ,基本的な対象は,双方向的な関係が十全に成立する特定のひとにたいするケアであり,教育学者ネル・ノディングスの定義がその代表例だ.

まず,広義のケアの定義について確認する.「気づかう」,「心配する」,「気にかかる」,「世話をする」というふうに,個別の状況に応じた多様な訳出がなされるケア,すなわち日常的なケアの用法に通底する特徴が,「関心」に求められるのは,前節で確認したとおりである 8.広義のケアから派生した,ケアの政治学の構想を打ち出すトロントは,次のようにケアを定義する.すなわちケアとは,「私たちが可能な限りよく生きていくために,私たちの『世界』を維持し,継続し,修復するすべてのことを含む,種としての人類の活動」(Tronto 1993, 103; 2013, 19; 2015, 3)だ.トロントは著作を重ねるごとにその思想内容を発展させているが,前記については表現を変えることなく,ケアの定義として一貫して打ち出されている.とはいえ,ケアが具体的な実践であることに鑑みると,トロントによるケアの定義は広範にすぎるため,身近な経済活動までもがケアの範疇に含まれるおそれがある.その結果として,ケアの希薄化を招きかねないとフェミニスト哲学者ヴァージニア・ヘルドは危惧する(Held 2006, 31-32).これにたいしてトロントは,欲求充足といった行為や経済活動はケアには該当しないと述べる(Tronto 1993, 104).トロントにとって,ケアとは人間の生のあらゆる場面に顕現するものであるのにたいして,ヘルドにとって,ケアは特定の個人にたいするケア実践だ(Tronto 2013, 3).ヘルドのケア理解では自己へのケア(self-care)や公的なケアの問題が議論から欠落するというのがトロントの見立てだ(ibid., 20).このようにトロントは,ひとがひととしての生を充実させるための行為すべてをケアとみなす.

トロントによる広義のケアの具体的特徴は,次の四点にまとめられる(Tronto 1993, 103-104).第一に,ケアは人間関係のみに限定されず,事物や環境との関係も含む.第二に,ケアは二者関係的(dyadic)でもなければ,自己完結的(individualistic)でもない.二者関係の代表例として母子関係が挙げられるが,トロントは母子関係に限定されるケア理解を否定する.第三に,ケアは文化規定的であるため,文化ごとに異なる様相を呈する.第四に,ケアは継続的な営みであり,プロセスとして定義される.さらに,ケアは知的なものに限定されず,日々の生活に根ざし,「実践(practice)」と「性向(disposition)」の両方を併せもつ.

トロントは,前述したケアを次の四つの段階に分類し,これらに対応づけながら,ケアの四つの道徳的要素を提示する.ただし,その段階は,初期の著作『道徳の境界線』(1993年)と,その後の著作『ケアに満ちた民主主義』(2013年),および『ケアするのは誰か?』(2015年) 9との間で変化がみられる.前者においては四段階だったものが,後者においてはもう一段階追加されて五段階になっている.

第一段階は「ケアを向けること(caring about)」(Tronto 1993, 106; 2013, 22; 2015, 5)だ.ここでは他者の存在とそのニーズを認識する.文化によっても,個人の考えによってもそのしかたは異なる様相を呈する.十全なケアを達成するには,他者を「注視」し,個別のニーズの異なりを細やかに認識する必要があるから,他者の無視は,道徳的悪の一形態とみなされる.この段階のケアの要素は,「注視(attentiveness)」だ(Tronto 1993, 127-131; 2013, 34; 2015, 7).

第二段階は,「ケアを引き受けること(caring for)」だ(Tronto 1993, 106-107; 2013, 22; 2015, 5-6) 10.この段階では,特定された個別のニーズにたいする責任を負い,どのように応答するかを決定する.第一段階において認識されたケアのニーズが確実に満たされるように,ケア責任を認識する段階と言い換えることもできる.この段階でのケアの要素は,「責任(responsibility)」と特徴づけられている(Tronto 1993, 131-133; 2013, 34; 2015, 7).

第三段階は,「ケアを提供すること(care-giving)」だ(Tronto 1993, 107; 2013, 22; 2015, 6).この段階では直接的なケアのニーズ充足と実際のケア行為,すなわち具体的なケア実践が含まれ,ケア対象との直接的な係わりが要請される.この段階では,たとえケア提供の意図をもち,その責任を受け入れていたとしても,よいケア提供に失敗してしまえば,ケアのニーズ充足は果たされたことにはならない.そのためこの段階では,よいケアを提供するための「能力(competence)」がケアに特徴的な要素となる(Tronto 1993, 133-134; 2013, 35; 2015, 8).ただし,金銭が介在した場合はケアには含まれない.なぜなら,金銭では人間のニーズに応答することはできないからだ.

第四段階は,「ケアを受け取ること(care-receiving)」だ(Tronto 1993, 107-108; 2013, 22-23; 2015, 6-7).この段階では,ケア対象が受け取ったケアに応答することで,ケアのニーズ充足が実際になされたかどうかが評価される.言い換えれば,ケアの適切さを検証する段階だ.たとえば,傷つきやすさが虐待や暴力につながるという懸念を払拭するために,自己を他者の立場に置くのではなく,他者の観点から他者のニーズを理解する「応答」という方法をとる.自己の枠組みからでは他者の置かれた状況や事情、背景はとうてい計り知れるものではないからだ.この段階のケアの要素は,「応答(responsiveness)」として特徴づけられる(Tronto 1993, 134-136; 2013, 35; 2015, 8).

トロントにおける適切なケア行為とは,これらのケアの四つの道徳的要素が適切な全体のうちに統合されている場合に達成される(Tronto 1993, 136).ただし,政治理論としてのケア論においては,次のような深刻な問題がつきまとう.その問題とは,ケア関係がケアする側とケアされる側との間の「不平等(unequal)」な関係のうえに成立したものであり,ケアは「個別的(particularistic)」,および「多元的(pluralistic)」といった「きわめて非民主的(highly non-democratic)」な特徴を有することに起因する(Tronto 2013, 10).ケア実践に必然的に付随する不平等で閉鎖的な関係をいかに克服するかという問題を解決し,ケアの倫理を真の意味で政治理論へと昇華させるのが,ケアの第五段階の「共にケアすること(caring with)」であり,この段階においてケアが完成される.

第五段階では,ケアのニーズとそれへの応答が,正義・平等・自由等にかんする民主的コミットメントに合致していることが求められる(ibid., 23).前述のとおり,ケアに重要な要素は応答にほかならない.応答し合うことによって,私たちは水平的な人間関係を構築しうる.しかし,第一段階から第四段階では,自らが他者と築いた関係性が政治的,あるいは政治規範的に適切であるか否かの判断規準が存在しない.そのため第五段階では,正義や平等,自由といった,政治的規範と民主主義との関連のなかで,ケアを評価することが要請される.すなわち,第五段階では,ケアは政治的規範概念として扱われ,「連帯(solidarity)」がその特徴となる(ibid., 35).ここでいう連帯性とは,「多元性(plurality)」,「コミュニケーション(communication)」,「信頼(trust)」,「尊敬(respect)」からなる(ibid., 35).

なお,セルマ・セブンフジセンによれば,連帯はケアとひとびとの相互関係に政治的な意味を与える.ケアをケアしない連帯では,私たちが同情を感じたときにしか他者は認識されず,道徳性や集団的責任の感覚は貧弱なものになる.他方,連帯の存在しないケアはケアの個人化と観念化を招く(Sevenhujisen 1998, 147).つまり,連帯(性)は,一見したところでは相容れないように見える,ケアと政治を結ぶ役割を果たしているのであって,ケアは本来,決して「反」政治的概念ではない.ケアと政治との間の緊張関係が,連帯性を特徴とする「共にケアすること」という第五段階が設定されることによって架橋され,ケアの政治的性格はより明確になると同時に,ケアは,政治的行為の妥当性の判断規準として機能する.

次に,狭義のケアの定義について簡単にみてみよう.ノディングスは,それ以上遡及不可能なプリミティヴな善がケア関係の維持だと述べたうえで,ケア関係の成立条件を次のように規定する.

1)ケアするひとがケアされるひとにたいして「注意(attention)」と「動機の転移(motivational displacement)」によって特徴づけられる意識様態をもつ.

2)ケアするひとはその意識に従って何らかの行為をなす.

3)ケアされるひとは,ケアするひとによってケアされていると認識 11している.(Noddings 2002, 19)

ここでの「注意」とは,『ケアリング』における「専心 (engrossment) 」と互換可能だ.専心とは「誰かについての心配や恐れ,気づかいの状態のなかにあること」(Noddings 1984, 9)であり,動機の転移とは,ケアするひとの動機づけの活力がケアされるひとへと流れ出す状態だ (ibid., 33).たとえば,幼児が靴紐を結ぼうと格闘する姿に接したケアするひとが,幼児を気にかけているうちに,幼児が感じている困惑や苛立ちを自身のなかにいつの間にか受け容れて,思わずその指が幼児の苦心に応答して動いているというふうな事態だ(Noddings 1992, 16-17).このように,専心や動機の転移は,ケアするひとがケアされるひとの欲求やニーズを認識し,充足するためにケア行為をなす手前にある,感じや感情,心の向け方に密接に関連している.専心や動機の転移をケアの成立条件とする狭義のケアでは,特定の人間同士の身近なケア関係がその範型であり,ケアの直接性,具体性,動機の深浅が重要な要素となる.

2.2 フランクファートによる哲学の三つの領域

フランクファートは哲学の問いを,次の三つに区別する.それは,何を信じるべきかに関わる認識論,いかに振る舞うべきかに関わる倫理学,そして「何についてケアすべきか」を問うケアの領域だ(Frankfurt 1982, 257).これらはそれぞれ独立したものとみなされる.倫理学が自他の関係に焦点を当て,その正邪や道徳的責任を取り上げるのにたいして,ケアの領域は「何が私たちにとって大切なのか」(ibid.)に関わる領域だ.つまり,「私たちは道徳の要請と何が自分にとって最も大切かということとを区別する」(品川 2007, 151-152).たとえば,フランクファートの説明に従えば,道徳的配慮を常に最優先する人は,道徳的配慮を最もケアしている(Frankfurt 1982, 259).同様に,認識論とケアの領域もまた,それぞれ独立だ.というのも,何が真であるかと,その真である事実が,ある人にとってケアすべきほど大切なことかどうかは別問題だからだ.このように,フランクファートは,何をケアするかというケアの領域に関わる事柄は,物事の真偽とも正邪をめぐる倫理規範とも独立に決定されるため,独立した領域をなすと説明する.

このとき,ケアする側が誰あるいは何になるかは偶然に依拠する.ケア対象が誰あるいは何になるかもまた,偶然に決まる,非選択的なものだ.さらに,そのときケアを動機づけるのは,ケア対象の価値ですらない.というのも,「ケアすることで,そのものがそのひとにとって大切なものとなる」(ibid., 269)ので,そのものと偶然に出会い,ケア関係が始まると,他のものとは代えがたい,その関係に特有の結びつきが生じ,その関係は交換不可能な,かけがえのない価値を帯びるからだ.フランクファートはこのことを,「意欲の必然性(volitional necessity)」と呼ぶ.「そのひとは実際にそのひとがするようにしなければならない」(ibid., 264)と感じ,自分がケアするもの,自分と同一視しているものを「裏切らないように強いられる」(ibid., 268).それにより,そのひとの生は筋がとおり,統合性を帯びてくる.というのも,自身が大切にするケアするものを生の中心に位置づけ,それを基軸に生の優先順位を整序するからだ.「ひとは,自分がケアするものが減殺したり増進したりするのに応じて,自分もまた損失を被ったり利益を享受したりする.その意味で,自分がケアするものと同化する」(ibid., 260).こうして,ケアするひとは自分がケアする対象の成長 12を望み,それに合わせて自分の人生計画を思い描く.ケアすることをケアすべき(大切にすべき)理由もここにある.ケア対象に内在的価値があるとは前提されないから,ケアすることの意義は対象の価値のみによってではなく,「ケアリングという活動そのものの重要性」(ibid., 271)のうちに見出される.

2.3 ケアの倫理とケアの倫理学,ケア倫理学,そしてケア論

ケアの倫理が論じられる際に,どの次元,どのレベルの問題を扱っているのかが十全に意識されないことが多い印象があるが,そうした目配りには一定の意義がある.たとえば,多義的であり,分野ごと,文脈により様相を異にするために,起こりがちなすれ違いや食い違いを防いだり,たとえ解消できなかったとしても,すれ違いや食い違いを引き起こしている原因を顕在化させることに資する場合がある.とりわけ正義の倫理とケアの倫理の対立軸を把握するには,どの次元,どのレベルで対立しているのかを念頭に置くことが役に立つ場合がある.区別をしない選択をするにしても,なぜ区別をせずに論じるのかを提示することもまた,自身が扱うケアの領域,範囲,対象などを規定し,何を論じているのかをある程度明らかにするために重要だ.ケアの倫理を論じるにあたり品川哲彦は,発達心理学の実証的次元と,規範や価値にかんする倫理的次元とを区別し 13,後者に3つのレベルを設ける.すなわち,規範レベル,基礎づけレベル,メタ倫理学レベルだ.

規範レベルでの対立は,それぞれの倫理が示す規範の相違であり,基礎づけレベルでの対立は,その倫理が何を最も基底に据えているかの問題だ.基礎づけレベルでの対立は,倫理をどのような領域と考えるかの違い,すなわちメタ倫理学レベルでの立場の違いに結びつく(品川 2007, 148-149).すなわち,規範レベルでは,具体的な道徳規範としての相違が焦点となり,基礎づけレベルでは,道徳規範における基底的な価値や根拠の相違が問題となり,メタ倫理学レベルでは,道徳規範をいかなるものと捉えるかが扱われる.

さて,本稿では倫理(ethic)と倫理学(ethics)を区別して用いている.ここで,倫理と倫理学の違いや,それぞれどのようなものなのかについて十全に描き出すことはできない.しかし,従来の倫理学そのものを問い直す,その批判的視点を描き出すためには,倫理と倫理学の区別にも目配りする必要がある.

ギリガンがケアの倫理を提起して以来,ケアの倫理が普遍的原理に訴える「倫理学(ethics)」ではなく,個別的な経験に依拠した「倫理(ethic)」 14であることを強調する論者がいる.たとえば,『ケアリング』(1984年)における初期ノディングスの個別主義的なケアの倫理理解がそれに当たる.また,ヘルドは,『ケアの倫理学』(2006年)の註記のなかで,「ケアの倫理学(care ethics)」という表現をそれぞれの論者たちによって「この倫理にはさまざまな種類がある」(Held 2006, 169)という意味で用いていると述べ,それぞれのケアの倫理論者たちが展開する個別の「ケアの倫理」の複数形を「ケアの倫理学」と呼び表す.このとき,さまざまな論者によって展開されているケアの倫理の集まりが「ケアの倫理学」なのだから,「ケア諸倫理」と呼び表す方が穏当だと思われるかもしれない.ヘルドのこの言葉づかいと,ケアの倫理の登場に大きな影響を及ぼしているフェミニズムがリベラリズムにたいする批判点のゆるやかな集まりであることを勘案すると,ケアの倫理論者たちは,個々のケアの倫理に共通する核心的主張を取り出して,その論点の集まりから従来の倫理学とは異なる倫理学理論を構想する方向性をとっていると理解することができる.すなわち,ケアの倫理は従来の倫理学理論への異議申し立てであって,そのあり方をも問い直しているという点を考え合わせると,個別の関係性に共通する特徴の,ゆるやかな集合体という理論的あり方を,もうひとつの倫理学理論のあり方として提案しているという理解が可能かもしれない.

一方で,ケアの制度化・社会化を企図する動向においては,こうしたケアの倫理観には収まりきらないケア倫理学(ethics)の構想が必要になるだろう.制度化・社会化には何らかの普遍性,少なくとも一般性が要請され,その要請に応えるためには批判点のゆるやかな集まりというだけでは不十分だからだ.ケア倫理学の確立には,倫理学そのものを問い直すといった批判的視点や自身を基礎づけようと努める倫理としてのあり方のみならず,自身の概念や言葉による定式化から出発した政治理論に至る構想が必要となるだろう.その際には,社会契約論がそうであったように,独自の人間観,すなわち他者依存的で傷つきやすい関係的な自己から出発する社会構想が要請される.

このように,ケアの倫理は,(1)ケアの倫理,(2)ケアの倫理学,(3)ケア倫理学というふうに,おおよそ三つに区別することが可能だ.第一に,個別のケア関係における態度としてのケアを論じる個別主義的な「ケアの倫理」,第二に,従来の倫理学理論にたいする批判点のゆるやかな集まりとして,個々のケア関係に共通する核心的特徴を取り出して,その論点の集まりから従来の倫理学とは異なるあり方を構想する「ケアの倫理学」,そして第三に,ケアの社会化を念頭に置いた普遍性を備えた「ケア倫理学」である.ケアの倫理学があくまでもケア諸倫理であり,個別主義をとるのにたいして,ケア倫理学は何らかのしかたで普遍主義をその理論内部に含み込む.

こうしたケアの倫理の三つの方向性を踏まえると,前述した品川による三つのレベル分けに加えて,ケア関係における個人のあり方や認識といった態度としてのケアを扱う個人レベルの議論と,ケアの制度化や社会化,政治理論としてのケアを扱う社会レベルの議論とを区別すると,論点の明確化に寄与するように思われる.ここで私は,個人レベルの議論と社会レベルの議論が完全に異なるものだとも,両者に連関がないとも主張するつもりはない.第二波フェミニズムの「個人的なことは政治的である」というスローガンをもち出すまでもなく,個人レベルと社会レベルの議論に連関があることは言を俟たない.そうではなくて,こうした区別の導入がケアの倫理の議論の論点整理に資するところが大きいと示唆したい.というのも,個人レベルのケアの倫理と,社会レベルのケア倫理学が混同して議論された結果,議論がすれ違ったり,混乱をきたしたりするケースが散見されるからだ.

なお,本稿では,社会学や看護学,政治学において論じられているケアをめぐる議論はもちろん,哲学や倫理学の分野においても,ケアするひととしての自己を存在論的に扱ったり,行為論に焦点を当てたり,現象学的に分析したりする議論は基本的に「ケア論」と呼んで,ギリガン由来のケアの倫理と区別している.

3.ケアの倫理の論点の推移

ケアの倫理は,提起された当初から現在に至るまで,公私の別なくヒューマン・サービスと呼ばれる対人サービスに特化した分野を中心に適用が試みられてきた.2000年代に入る頃からは,社会政策論や法学など,これまでケアの倫理は適用しがたいとみなされてきた公的領域 15にも適用範囲を拡大することで,個人的な人間関係といった私的領域を中心に適用されることの多かった,それまでとは異なる新たな可能性を見出す動きが散見されるようになった.このように,ケアの倫理は,他分野への適用はもちろん,ケアの倫理の批判対象である正義の倫理との関係を模索する研究,ケアするひととケアされるひととの間の依存関係をめぐる研究,人間の傷つきやすさにかんする研究など,多様な側面に議論の焦点が移行している.

ここで,ケアの倫理の主張を簡単に確認しておきたい.ケアの倫理が提示された当初から,その理論研究に取り組んでいた論者としては,ラディック,ノディングス,ヘルドがいる.これらの論者たちが議論を重ねるなかで,ケアの倫理のみでは解答しえない問題や,ケアの倫理の理論内在的な問題が指摘されるようになった.ケアの倫理のそうした代表的な問題点として,次の三つが指摘できる.すなわち,(1) 親密な者へのケアを要請するケアの倫理では,遠い者,隔たりのあるものへのケアがなされがたい,あるいは少なくとも疎かになりがちであること,(2) ケアするひととケアされるひととの能力の非対称性から,ケアの倫理は力関係の介在と常に隣り合わせであること,(3) ケアの倫理が理論的拠り所のひとつとするケア能力は,女性にのみ備わる能力なのか,ケアをなすことで誰でも身につけられるかにより,その射程が異なることだ.本節では,ケア論者たちが扱う論点がケア,依存,傷つきやすさというふうに変遷を遂げ,それぞれが前述の三つの問題意識に対応づけられることを示す.

また,本稿の関心は,前記三つの論点を時系列に沿って紹介するところにはないことを強調しておきたい.ハンキフスキーは,ケアの倫理論者たちの世代ごとの特徴を述べる.ハンキフスキーは,ラディック,ノディングス,ヘルドらをケアの倫理の「第一世代」,グレース・クレメントやトロントらを「第二世代」と区分する.ハンキフスキーによれば,第一世代は,女性の子育ての経験を重視しすぎるあまり,ケアの倫理の公的領域への適用まで議論を進展させることができなかった(Hankivsky 2004, 11-14).一方,第二世代は,正義とケアとの適切な関係の発見に協同してあたる道を模索し,ケアの倫理の公的領域への適用可能性を検討している(ibid.).とはいえ,ギリガンやノディングス,ヘルドのように,当初の議論から現在に至るまで,その関心を変えながらもケアの倫理に取り組みつづける論者たちもいるなかで,論者ごとに判然とした世代区分をなすことはある面からみると,それぞれの本意を無視して型にはめ込むという,ケアとはかけ離れた対応だ(品川 2007, 197-198) 16.それは少なくとも,個別性に配慮するケアの倫理の姿勢とはそぐわない.したがって本節の目的は,ケアの倫理論者たちを時系列に沿って世代区分し,その特徴を指摘するところにはなく,時系列にとらわれず,ケアの倫理やそこから派生した議論に特徴や論点の移りゆきを描出するところにある.

3.1 論点(1):遠い者や隔たりのある者へのケアの困難さ

では,論点(1)「遠い者や隔たりのある者へのケアの困難さ」は,どのように現出してきたのだろうか.ギリガンがケアの倫理を提起した後すぐに盛んに検討されるようになったのが,正義の倫理とケアの倫理との適切な関係についてだ.これは,前記の論点(1)「遠い者や隔たりのある者へのケアの困難さ」と密接に関連する.というのも,身近な者や親密な者へのケアを重視するケアの倫理の理論内部で,この論点を解決しがたいのは明白であり 17,その解決には,異なる基礎をもつ理論,あるいはその規範を何らかの形で援用する必要があるからだ.ケアの倫理論者たちは,遠い者でも身近な者でも不偏的に扱いうる,正義の倫理にこの問題への解決の鍵を見出し,両者の適切な関係がケアの倫理論者たちの議論の焦点となった.ここで,両者の最も重要かつ深刻な対立点のひとつが,不偏性(impartiality)だということが確認できる.すなわちケアの倫理は,個別の状況における特定の対象にたいする感情のこもったケアを行為の倫理性の不可欠な要素とみなす個別主義(particularism)をとるのにたいして(Bubeck 1995, 190),正義の倫理は,普遍妥当性を満たしていると理性によって判断可能であることを行為の倫理性の不可欠な要素とみなす不偏主義(impartialism) 18を採用するというわけだ(ibid., 191).

正義の倫理論者たちも,正義の倫理を補完する理論として,ケアの倫理,あるいはケアに注目するようになった.たとえば,リベラル・フェミニストのスーザン・M・オーキンによれば,ケアのパースペクティブをロールズの正義論に取り入れることで,よりよい正義論が構築可能だ(Okin 1989).功利主義者ヘルガ・クーゼによれば,ケアを功利性の一つと捉えることにより,より豊かな功利主義が提示できる(Kuhse 1997, 136).もちろん,正義の倫理論者たちは自身の不足を補完する理論として,ケアの倫理,あるいはケアに注目しているにすぎず,ケアの倫理を独立した理論として認めることはきわめてまれだ.とはいえ,正義の倫理論者たちの一部は,ケアの倫理の発想に一定の意義や可能性を見出し,両者の適切な関係を模索する議論を展開している.このように,ケアの倫理やケアに関心を寄せる理由は異なるものの,正義の倫理論者たちとケアの倫理論者たちがともに両者の関係に言及することが,両者の適切な関係についての議論の活発化を促し,ケアの倫理の公的領域への適用可能性の検討といった,新たな展開をもたらす契機となった.

たとえば,フェミニスト哲学者エヴァ・F・キテイによれば,正義の倫理の代表格である,ロールズの正義論では取りこぼされてしまうケアの分配の不均等は,「ドゥーリア・モデル(doulia model)」 19の導入により,一定の解答が見込みうる 20.マーサ・C・ヌスバウムによれば,自身のケイパビリティ・アプローチにケアの主張を組み入れることにより,すべての人を包摂可能な,ロールズとは異なる「正義」の構想を提示できるという.その射程は,障害者,外国人,動物といった,社会のなかで周縁化され,ロールズの正義論でも十全に汲み尽くしえなかった存在にも及ぶ(Nussbaum 2006).トロントによれば,(a) 道徳性と政治学,(b) 道徳的なパースペクティブ,(c) 公的生活と私的生活との間にある三つの境界 21を見直すと,ケアの政治学の構想,すなわち社会的弱者を含むすべてのひとにとって「よい社会」の構築が可能となる(Tronto 1993),こうした着想からトロントは,「ケアに満ちた民主主義(caring democracy)」を提唱する(Tronto 2013).

さらに,ケアの倫理と直接的な関連を見出せないものの,問題意識の一部を共有している議論として,福祉功利主義者ロバート・E・グディンの「脆弱性モデル(vulnerability model)」や,政治学者のアイリス・M・ヤングの「責任の社会的つながりモデル(social connection model of responsibility)」が挙げられる.グディンによれば,個人間の特別な関係における道徳的責任は,他者依存の必要性の根拠たる,人間存在の脆弱性に由来する.脆弱性モデルでは,他者のニーズを満たしうる特別な位置にいる場合,そのニーズが道徳的責任を生じさせ,その責任を果たさないことは不適切だという直観を与える.グディンのこうした発想は,キテイの「つながりに基づく平等」 22の構想に影響を与えた(Goodin 1985a) 23.ヤングの社会的つながりモデルとは,構造的不正義を生み出す,社会構造上のプロセスに関与したすべてのひとびとが責任を分有するという考え方だ.これは,特定の人間に責任を負わせる「帰責モデル(liability model)」とは異なる責任論であり,ヤングはその視座から従来の正義を問い直した(Young 2011, chap. 4).

ここで,国内の議論に目を転じると,ケア対正義論争の成果がケアの倫理の社会政策論や政治理論への適用につながっていく過程を,いっそう明確に描き出せる.品川は,正義の倫理とケアの倫理との適切な関係について,ギリガンが提示する両者の「結婚の比喩」(Gilligan 1982, 174)と,両者は切り替え可能でも,併存不可能だとする「反転図形の比喩」(Gilligan 1995, 31-32)とを対比する.ギリガンは,『もうひとつの声で』のなかで,正義の倫理とケアの倫理との関係を「結婚」になぞらえて提示した.ギリガンは両者それぞれの規範を単に対置しただけではなく,両者の統合可能性をも検討する.「これまで一般的に描かれてきた〔男性〕成人の発達と〔最近〕姿を見せ始めた女性の発達とを結婚させることができれば,人間の発達にたいする理解に変化をもたらし,人間の生にたいする見方が〔複数の世代がつながり合う〕より実り豊かなものとなる将来を思い描けるようになる.(中略)二つの様式を設定してみることで,(中略)いかに異なる言語と思考の様式によって支えられているのかを認識するような,人間の経験についてのより複雑な解釈にたどりつく」(Gilligan 1982, 174) 24.結婚の比喩においてギリガンは,二つの倫理がひとりの人間のなかで互いに排除し合うことなく,併存している状態を表現する.ここでは,正義とケアの両者のパースペクティブを身につけることこそ真の成熟であって,「すべての人が他人から応えてもらえ,受け入れられ,取り残されたり傷つけられたりする者は誰ひとり存在しない」(ibid., 63)という普遍的な広がりをもつケアの理想が,両者のパースペクティブをもって目指される.

ギリガンは当初結婚になぞらえていた両者の関係を,後に反転図形の比喩に言い換えている.反転図形とは,ひとつの絵に複数の見え方が存在するものを指し,ジョセフ・ジャストローのアヒル‐ウサギのだまし絵がその例だ.ひとが対象の形を知覚するためには,対象を背景から分離し,ひとつのまとまりとして認識する必要がある.反転図形では,全体の見え方が一転すると,図の各部分の意味もそのつど別様に立ち現れる.すなわち,どの枠組みで捉えるかによって,その枠組みのなかの個々の要素の意味も変容を遂げる.

このように,反転図形の比喩では結婚の比喩とは別の,両者の関係のあり方が描き出される.「正義への関心からケアへの関心へと注意の焦点が移ることで,何が道徳的に問題なのかについての定義が変わり,同じ状況が別のしかたでみえてくる」(Gilligan 1995, 32).たとえば,他者の世話になることは,ケアのパースペクティブからみると,相手との関係が紡がれている証左として受け止められる一方,正義のパースペクティブからみると,自律への妨害と映る(ibid., 44).正義のパースペクティブとケアのパースペクティブは「切り替えることができる」(ibid., 39)から,同一の人間がどちらのパースペクティブもとりうるわけだ.ギリガンは,反転図形と同様の現象が正義とケアの間にも生じると主張する.たとえば,正義の枠組みのなかからみると不偏的な態度だと評価される姿勢が,ケアの枠組みのなかからみると個別性への配慮を欠いた杓子定規な態度に映るかもしれない.ケアの枠組みのなかからみると専心や注意深さだと評価される姿勢が,正義の枠組みのなかからみると不公平やえこひいきとしか捉えられないかもしれない.これは,特定の考慮や概念はそれが付置されている枠組みなしには解釈しえないことを意味する.そのため,反転図形の比喩は,正義とケアそれぞれの倫理的基礎が異なることを認めたうえで,どちらのパースペクティブで捉えるかによって物事の立ち現れ方が変化することを示している.言い換えれば,ギリガンは当初,結婚の比喩において両者を同時並存可能なものだとみなしていたが,反転図形の比喩を提示するに至り,両者の併存不可能性を主張している.

この二つの比喩にかんして品川は,「状況や文脈の個別性を重視し,一律に適用されるような原則はないと主張するケアの倫理の一面からは,後者のほうがいっそう適した解釈にもみえる」(品川 2013, 10)と述べる.ケアの倫理論者たちは,「道徳的観点をケアの観点に切り替えて見ることで,正義を観点として描き出された社会の像を反転させ」,「家庭を範型とする社会の構想を探求」するのみならず,「平等や市民といった社会構築のための基礎概念をケアに基礎づけられたしかたで構想」(同上, 15-16)するところにまで,その射程を広げていると指摘する.これにたいして川本は,「ケアなき正義は空虚であり,正義なきケアは盲目である」というスローガンのもと,両者の統合こそが,政治理論のなかで互いをよりよく生かし合いうる方法だと主張する.というのも,「すべての人が他人から応えてもらえ,受け入れられ,取り残されたり傷つけられたりする者は誰ひとり存在しない」(Gilligan 1982, 63)というケアの倫理の理想が,正義を駆動していると捉えることが可能なのであって,ケアの倫理を個別主義とし,正義の倫理を普遍主義として二元対立させる常套論こそ見直されるべきだからだ(川本 2015).ケアの倫理はリベラリズムについて誤解をしているか,「正義」の解釈が狭隘であるために,両者の議論に齟齬が生じてしまっているにすぎず,本来,両者は共存可能な理論として描き出されうるという.この対立点は,ケアの倫理の根幹に関わる問題であるのだが,2.3節において提示した(2) ケアの倫理学と(3) ケア倫理学のどちらの方向性をとるかの対立と言い換えることもできる.

いずれにせよ,正義対ケア論争から正義の倫理とケアの倫理の適切な関係を模索する議論を経て,政治理論への適用に向かったことがみて取れる.すなわち,品川の言葉を借りれば,両者の統合の議論が,「ふくらみのある正義」として,両者の住み分けの議論が「ケアと正義の反転図形」として(品川 2015),ケアの倫理の政治理論への展開のなかで継承されている 25

3.2 論点(2):ケアするひととケアされるひととの間の力関係をめぐる問題

次に,依存をめぐる議論に移ろう.これも,ケアの倫理の論点(2)「ケアするひととケアされるひととの間の力関係をめぐる問題」と対応づけられる.というのも,ケアされるひとに比べて能力面で優るケアするひとが,ケアを通してケアされるひとに搾取されるおそれがある一方,ケアするひとがケアされるひとにたいして,多かれ少なかれ,パターナリスティックに働きかけざるをえないからだ.これは,他者に依存することなしに生きることもままならないケアされるひとが,自身より何らかの点で力に秀でたケアするひとに頼り,そこに不均衡な力関係が生じることから引き起こされる.ケア関係における力の非対称性,あるいは不均衡は,ケアするひとには力の搾取を,ケアされるひとにはパターナリズム関係のなかでの抑圧や暴力,過度な権力関係を容易にもたらす.

まず,依存状態の検討から出発して,ケア関係においてケアするひとが搾取関係に陥りがちである点を確認するところからこの論点を解きほぐしていこう.この必然性は,ケアの倫理の依存のなかでも特に「不可避の依存(inevitable dependency)」からもたらされる.こうした依存にかんする有益な知見を提示しているのがキテイと,フェミニスト政治学者マーサ・A・ファインマンだ 26

キテイは,「ケアされるひと」,すなわち他者からの援助なしに生きることもままならないひとびとを「依存者」,「ケアするひと」,すなわちケアワークという依存者の世話をするひとびとを「依存労働者(dependency worker)」 27と呼ぶ(Kittay 1999, 34-36).キテイはまず依存を,次のように定義する.すなわち,依存とは「自らを生存させ維持するのに必須の,ある種の能力を欠いている」(ibid., 48)状態である.こうした広義の依存は,次の二つに区別される.ひとつ目は不可避の依存であり,二つ目は,そこから派生する「二次的依存(secondary dependency)」,あるいは「派生的依存(derived dependency)」(ibid., 44-50; 100-112)である.

ひとつ目の不可避の依存とは,人間の条件として誰もが直面する依存を指す.すなわち,「幼児や幼少期の未発達な状態や,(どんなに便宜が図られた環境においても)その人から機能を奪う病気や障害,そして老いることによる衰え」に伴い誰もが経験し,一定期間,あるいは一生涯にわたって継続する依存状態である(ibid., 34-35).キテイはそのような依存を「良いものでも悪いものでも」なく,「単なる事実」であると述べる(キテイ 2011, 54).

二つ目の派生的依存は,依存労働者が,自身と依存者いずれの世話をも引き受けたがために,自身も主に経済的な依存先,すなわち外部から資源を調達するある種の権力を有する稼ぎ手に依存せざるをえなくなった状態だ.この状態において依存労働者は,依存者をケアするという多大な負担と労力を伴う責任を引き受けた結果,自身のニーズにとどまらず,依存者のニーズまでも満たさなければならないという差し迫った要求に直面する.このとき依存労働者は相対的に弱い立場に陥るばかりか,ともすれば暴力や支配,強制を伴う別の依存関係に巻き込まれやすくなるというふうな,傷つきやすさをも引き受けがちである.依存労働者がそうした状況に置かれてしまいがちなのは,依存労働者が稼ぎ手にたいして「劣悪な交渉上の立場にある」(Kittay 1999, 108)からにほかならない.

依存にかんする前記の区別は,キテイにおいてのみ見られる分類ではない.ファインマンも,不可避の依存とそれに付随する派生的依存に言及し,そのような依存関係は社会による直接的な保護の対象とされるべきだと述べる.「私たちはみな,子どものときには依存的であり,私たちの多くは,歳を重ねたり病気になったり障害を負ったりしたときには依存的になる」(Fineman 2004, 28).ファインマンによれば,不可避の依存は多かれ少なかれ,誰もが直面する普遍的な経験,すなわち人間の条件であって,個人が生きていくためにも社会の存続のためにも避けられない.だとすれば,依存に伴うこうしたケアの債務は,社会全体で引き受けなければならないというのがファインマンの要諦だ(ibid., 42).

このように,不可避の依存が人間にとって普遍的な経験であるとすれば,ケア関係もまた,望むと望まざるとにかかわらず,誰もが経験する生の事実にほかならない.しかし実際には,個人レベルはもとより,社会レベルでもケアするひとや依存労働者に過度な負担を強いているのが現状だと言わざるをえない.すなわち,「社会はケア提供者にたいして,そのケア提供を重視し価値づけ補償し,それに必要なものを提供するという応答を」なすどころか,「不可避の依存は典型的に私的な制度――伝統的な婚姻家族」(ibid., 32)に否応なく押しつけられてきた.家族内では,依存にかんする仕事を担うのは女性であるというジェンダー役割が支配的な状況は看過もしくは隠蔽され,女性の「個人的な選択」によってもたらされた,ケアワークの成果を無償で享受するという不当な搾取構造が,疑いを差し挟まれることもなく,長きにわたってまかり通ってきた(ibid., 34-36).しかし,「家族の内部に依存が押し込められている状態や,現在の社会制度のもとでは通常ケア提供者に個人的犠牲が強制されているということを,社会は容認すべきなのだろうか」(ibid., 36).不可避の依存からもたらされる,こうした不当な搾取構造は,社会的なレベルに限らず個人レベルにおいても,ケアするひとが直面せざるをえない問題として立ち現れてくる.

一方,ケア関係のなかでケアされるひとが直面しがちなのが,パターナリズムの問題である.本稿では差し当たりパターナリズムを,「他人を侵害するのではないし,他人に著しい不快を与えるのでもない,公益にも関わらない,不道徳であるという理由でもない,干渉されるその人のためにという理由で干渉する」(花岡 1997, 14)と定義する.ケア関係におけるパターナリズムの問題を解決するために,正義の倫理は,個人個人に自律を促し,他者に依存しないことがパターナリズムの回避に資すると主張してきた.そうした正義の倫理の規範である自律をケアの倫理のなかに組み入れることで,ケアするひととケアされるひととの間に生じざるをえない搾取関係,ひいてはパターナリズムの問題を解消しようとしたのがクレメントだ.

クレメントは個人主義を批判し,ケア関係の重要性を認めながらも,ケア関係においてケアするひとが搾取される危険性に警鐘を鳴らす.「私たちは社会的に構成されているとしても,関係を維持すべしという道徳的責務を課されているわけではない」(Clement 1996, 41)として,ケア関係の継続は,ケアするひとの自律に依拠していると述べる.というのも,ケアするひとにたいしては,無償のケアかどうかにかかわらず,ケアを引き受けざるをえないように強いる社会からの圧力が働きがちであり,ケアするひとの自律は常に脅かされるおそれをはらむからだ.クレメントによれば,健全なケア関係 28はケアするひとの自律によって維持される 29

これにたいしてトロントは,正義の倫理の規範である自律を批判的に検討し,ケアの倫理の主張を,より肯定的に評価する.トロントは,人間の傷つきやすさから目を背けることなく,「私たちは常に自律している,潜在的に平等な市民だという神話」(Tronto 1993, 135)という正義の倫理がつくり出した虚構を暴こうとするケアの倫理の姿勢を大いに評価する.というのも,ケアするひととケアされるひとは能力の点で非対称であるがゆえに,両者の間の力関係が平等だということはありえないからだ.しかし,状況の変化によって,ケアするひととケアされるひとの立場が入れ替わったり,場合によっては特定のケア関係が解消されたりすることはあっても,ケア関係自体は人を変え,関係のあり方を変えつつもつづけられる.このように,ケア関係の維持を理想として掲げるケアの倫理だからこそ,正義の倫理とは異なり,将来世代の存続を念頭に置いた理論展開が可能となる.「ケアなしには子どもは生き残らないし,尊重すべき人格も存在しない」(Held 2006, 17).このように,ケアの倫理に正義の規範である自律を導入すると,一見したところ,ケアするひとが搾取される危険性を防げるように思われるけれども,半面,人間が本来依存的で傷つきやすい存在であるという,ケアの倫理の根幹をなす人間観を看過するおそれが生じる.

では,ケアするひととケアされるひととの間に不可避的に生じる力関係についてはどうだろうか.この問題は,本来であれば,ケアされるひとの声を踏まえて論じられなければならない.なぜならば,ケアの倫理は従来の規範のなかで看過されてきた者や抑圧されてきた者の「もうひとつの声」(Gilligan 1982)や,そうしたひとびとの異議申し立てに端を発する主張なのであって,ケアするひとはケアを通してケアされるひとが「それらしくなる」(Mayeroff 1971, 8) 30ことを望み,「他者をあるがままに許容する」(Benner 1997, 48)必要があるからだ.だとすれば,ケアするひとがケアされるひとにたいしてパターナリスティックに振る舞ってしまわざるをえないという問題を扱う際には,ケアされるひとの視点なしに論じることは,ケアの倫理の本意に反する.とはいえ,この問題が取り上げられる際に,ケアの倫理論者たちの議論のなかでも,ケアされるひとの声に焦点を当てた記述はわずかだ 31.それは,ケアされるひとが何らかの抑圧や制約のもとで生きているために,自身の声を発する機会に恵まれないという社会的な要因のためであるかもしれないし,そうした声を発する能力に恵まれない,あるいはそうした能力を身につける機会を奪われてきたことに起因しているのかもしれない.いずれにせよ,現時点では,ケアの倫理におけるケアされるひとにかんする研究が不十分であることを強調するにとどめる.

3.3 論点(3)ケア能力とジェンダーとの関係

最後に,論点(3)「ケア能力とジェンダー」について触れる.ケアの倫理が登場した当初から,注目されつづけている論点が,ケアするひとがもつケア能力あるいはケア志向とジェンダーとの関連についてだ.すなわち,ケアする能力は女性にのみ備わった能力なのか,ケアの務めを果たすことで身につく能力なのかという問題である.この論点は,男女の道徳性の発達過程の違いをギリガンが指摘することで,ケアの倫理が提起されたというケアの倫理の出自,それを受けて,ケア論者たちが,ケアの倫理を,「母的思考(maternal thinking)」(Ruddick 1989),「女性の声」(Gilligan 1982),「女性的アプローチ(feminine approach)」,「女性の倫理(feminine ethic)」(Noddings 1984),などと表現したことで,ケアの倫理がはらむ重大な問題点の一つとして,ケアの倫理が提起されて以来,再三にわたって指摘されつづけることになった.もちろん,ほとんどのケアの倫理論者たちは,ケア能力は男女問わず誰でも身につけられうるものだと考えている(Gilligan 1982, 2).とはいえ,誤解されやすい表現を使用したことで,ケアと女性性とが結びついているかのような印象を与えてしまい,ケアの倫理はクローディア・カードやアリソン・ジャガーの批判に顕著なように,多くのフェミニストたちから鋭い批判を向けられることとなった(Bubeck 1995, 207; Card 1990, 105-107; Houston 1990, 115-119; Jaggar 1983).

こうした批判にたいして,ケアの倫理論者たちは前記の表現を,単に象徴的に使用しているにすぎないと抗弁しつづけてきた.こうした誤解は,実証的次元と倫理的次元の議論の混同からもたらされた.すなわち,伝統的に女性がケア役割を担ってきたために,ケア傾向を示しやすいという実証的次元の議論と,ケア傾向を示しやすいという「事実」から「女性がケアを担うべき」という倫理的次元における「評価」を根拠なく結びつけることで,誤解が生じるというわけだ.

こうした誤解を解くために,多くのケアの倫理論者たちが何度も弁明を繰り返し,ジェンダー役割を伝統的な枠組みと反対に表記するといった細かな努力によって,誤解の解消に努めている(cf. Noddings 1984).また,ノディングスもこうした意図を明示するために,2013年に,『ケアリング』(1984年)の再版にあたって,副題を,「女性的アプローチ」から「関係的アプローチ(relational approach)」に改訂している.しかし,そうした意図が批判者に正しく伝わっているかは甚だ疑問であるし,また,そもそも「象徴」として使用すること自体が問題含みであることにケアの倫理論者たちは無頓着だ.クーゼも指摘するとおり,「女性」や「母親」という表現を象徴として,あるいはメタファーとして使用することによって,ジェンダー役割の規定はもとより,場合によっては生物学的本質主義を導きかねない.批判者たちの意図はこの点をこそ踏まえた懸念であるにちがいなく,この懸念にたいしては表現の改定といった表面的な対応にとどまらず,もっと真摯に受け止められ応答されてしかるべきだ.ケアの倫理論者たちは,こうしたフェミニストたちからの重要かつ妥当な批判に十全に応答し,こうした懸念を払拭する方向性を模索する必要がある.ケアの倫理と一部のフェミニストたちの主張に親近性が見出せるにもかかわらず,ケアの倫理がフェミニストたちに受け入れられないどころか忌避されてさえいる節がみられるのも,この点について根深い隔たりが存在していることに起因する.

4.ケアの倫理の二つの潮流と米仏におけるその受け止め方

英語圏の倫理学においては、ギリガンの『もうひとつの声で』をケアの倫理の出発点とみなす理解が一般的だが(Engster and Hamington 2015, 4-5),もうひとつの潮流を指摘する論者もいる(Held 2006).その潮流が,ラディックの論文「母的思考」(1980年)にその原点を求める解釈だ.論文「母的思考」においてラディックは,女性がいかにして母親の務め(mothering) 32を通じて,女性に特有の道徳性を涵養させていくのかを描き出し,母親の務めを担うことから生じる諸価値が,個別のケア実践を超えて,平和を推進することへつながると主張した(Ruddick 1980; cf. Ruddick 1989).ヘルドによれば,1980年当時,フェミニズムの枠外で,母親の務めというケア実践を理論化しようとする試みはもとより,母親が思考する(think),あるいは推論する(reason)こと,また母親の務め,すなわちケアの価値を認める研究はほとんどみられなかった.女性が思考したり道徳的問題に向きあったりするのは,家庭を越え男性の世界へ足を踏み入れたとき,すなわち,私的領域から公的領域へと越境したときのみだろうと「想像」されていた.このように,ラディックの研究は,ケア実践を行なう女性たちの経験に注意を促すことで,道徳やケア実践についての捉え方を問い直す契機となったというのがヘルドの見立てだ(Held 2006, 26-27).

一方,『もうひとつの声で』におけるギリガンの主張の核心は,人間一般の道徳観の発達を記述していると称されてきた従来の発達心理学が,実際には男性の経験を基準としており 33,そこには隠された「男性中心主義」(川本 2002, 283)があることを明示したところにある.すなわち,ギリガンによって,従来の発達心理学が指し示す普遍性・合理性を到達点とする人間の道徳性の発達理論に異議申し立てがなされると同時に,従来の道徳発達理論とは異なる発達過程が指摘されたわけだ.

このように,ケアの倫理は,母親の務めというケア実践にその端緒を求める流れと,従来の発達心理学にたいする異議申し立てというギリガン由来の流れがある.こうした特徴は,米仏におけるケアの倫理の受け止め方の違いに反映されている.たとえば,アメリカでは,ギリガンの提唱したケアの倫理からそのまま派生して議論が繰り広げられたために,ケアや責任は正義,すなわち権利や公正と対置される価値として位置づけられた.一方で,フランスではケアの倫理といっても,主に政治哲学の分野におけるケアへの関心が際立ち,ギリガンの『もうひとつの声で』によってケアの倫理をめぐる議論が賦活されたという印象は,少なくともアメリカほどには強くない.シモーヌ・ド・ボーヴォワールの議論に触れていたフランスにおいては,ギリガンの議論はさほど目新しくなく,ケアの政治理論の方が関心事となった.このことは,ファビエンヌ゠ブルジェールによるネオリベラリズム批判(ブルジェール 2014; 2016)が登場するまで,ケアの倫理の議論がほとんど顧みられなかったということにも顕著に表れている.

ここで私は,ケアの倫理をめぐる米仏の研究動向に連関がないと主張しているわけではない.両者の議論には呼応する点もみられる.主に政治学においては,ラディック由来のケアの倫理に触発されて,トロントの『道徳の境界線』(1993年)から,『ケアに満ちた民主主義』(2013年)を経て,『ケアするのは誰か?』(2015年)に至る,ネオリベラリズム批判として展開されているケアの政治学の流れがあり,これはフランスの動向と親和的だ.こうしたケアの倫理のもうひとつの流れという捉え方は,ラディックが,第二波フェミニズムのスローガン「個人的なことは政治的である」をギリガン以上に反映した,フェミニズムの立場からの知識批判を繰り広げたと捉えることでもたらされる.このように,ケアの倫理のもうひとつの潮流を解釈し,その流れを位置づける研究は,女性の連帯を呼びかけた『抵抗への参加』(2011年) 34から,『人間の声で』(Gilligan 2023)の議論を踏まえて解釈し直すことで,いっそう明確に立ち現れてくるかもしれない.このとき,英米圏での最新の動向を注視するにとどまらず,フランスを中心としたケアの倫理受容とその展開と付き合わせて理解することで,ケアの倫理の潮流の整理やケアの倫理の理論同士の関係を明らかにすることに寄与するばかりか,その思想史上の位置づけを明らかにすることにも資するかもしれない.2.3節における(1) ケアの倫理,すなわち当初のケアの倫理はもとより,そこから派生して新たな展開を遂げている,前述の諸議論,すなわち(2) ケアの倫理学と(3)ケア倫理学にも,新たな進展がみられることが期待される.

以上のように,ケアの倫理は,理論的にも実践的にもある種の知識批判として既存の枠組みを問い直してきた.その受け止め方は米仏における関心によって異なるものの,新たな価値を浮き彫りにする役割を果たしてきたことは確かだ.周縁化された者の声に端を発し,多様な展開を遂げつつあるケアの倫理の批判的な視点は,異なる視座から捉え返すからこそ,今後もさまざまな分野の既存の枠組みや価値を問い直し,異なる枠組みや価値を生成する可能性を秘めている.

  1.    Vulnerabilityとは,自らのコントロールを超えるしかた、すなわち意図せざるしかたで影響を受ける可能性であり(Gilson 2014, 2),そのなかでも特にケアの倫理論者たちが焦点を当てるのが,人間が意図せざるしかたで何らかの危害にさらされる可能性だ.Vulnerabilityは,「ヴァルネラビリティ」,あるいは「脆弱性」と訳出される場合も多いが,本稿では,ギリガンが描き出した当初のケアが「苦しみの緩和」(cf. 川本 2022a, 416)であり,苦しみを生み出すものは「傷」であるということに鑑み,基本的に「傷つきやすさ」と訳出する.ただし,『もうひとつの声で』における「傷つけられやすさ」(ギリガン 2022, 108頁)という訳語が表す点にも注意を促したい.すなわち,「傷つきやすさ」は傷つけられることによってはじめて露わになるという側面を内包しているのであって,単に傷つきやすい性質を有しているということに回収されるわけではない.
  2.    日本に限っても,看護学では池川清子(池川 1991; 2005)や西村ユミ(西村 2001; 2014; 2016),社会学では村上靖彦(村上 2021),ケアワーク論では上野千鶴子(上野 2011)や山根純佳(山根 2005),教育学ではケアの教育論を展開するノディングス(Noddings 1992; ノディングス&ブルックス 2023)やジェイン・R・マーティン(Martin 1987; 2011)をめぐる数多くの論攷がある.また,政治学では岡野八代(岡野 2012; 2024),法学では池田弘乃(池田 2022)や服部高宏(服部 2017),文学では小川公代(小川 2021; 2023)などが挙げられる.
  3.    The Oxford English Dictionary, Second Edition, Vol. V, (dvandva- follis), p. 894.
  4.    日本においてケアという言葉が受け入れられていった経緯については,川本(1995, 196-198頁)を参照.なお,英語でも,ケアという語は狭義では医療・福祉の領域で盛んに使われる傾向もあるが,英語のケアはそのように限定的に用いられるだけではなく,日常的に使用されている.
  5.    早川 2013, 第1章1節.なお,ケアを広義で捉えると「関心」に帰着するという指摘は浜渦(浜渦 2005, 14-15頁)にもみられる.
  6.    クーラの神話とは,およそ次のようなものだ(Reich 1995, 319).かつてクーラが川を渡っていると,白亜を含む粘土を目にする.クーラはその粘土で人型を創り,その人型に思いをめぐらせていたところ,そこにユピテル(収穫の神ジュピター)がやってきた.クーラがユピテルに人型に精神を与えるよう頼むと,ユピテルはあっさりと成し遂げる.そこでクーラがその人型に自身の名をつけようとすると,ユピテルは,「その人型には私が精神を与えたのだから,私の名が与えられるべきだ」と異議を唱えた.クーラとユピテルがもめているところに,テルス(大地の神)が現れ,「人型にからだ(粘土)を提供したのは私だから,自分の名こそがつけられるにふさわしい」と求めた.途方に暮れてサトゥルヌス(時間の神クロノス)に判断を仰いだところ,次のような判決が下された.精神を与えたユピテルは,人型が死すときにその精神を受け取るように,人型の身体を提供したテルスは人型が死すときにその身体を受け取るように,人型を最初に形づくったクーラは生きている間の面倒をみるように,と.
  7.    なお,早川は,ケアにおける「大切にする」の含意の重要性を認めながらも,「大切に思う」がさらに重要な意味をもつと指摘する.ケア関係のなかでひとは多かれ少なかれ,傷つきやすさを抱えるものとして描き出される.傷つきやすさを抱えることは,自身のコントロールの及ばないしかたで翻弄される可能性を伴う(Gilson, 2014, 2).このことを表現するには,「大切にする」では,ケア対象のためになることから逸脱していくあり方を捉えきれないというのが早川の要諦だ(早川 2013, 12-13).この指摘にはケアについての重要な示唆が含まれているが,本稿はあくまでもケアの倫理という価値や規範と結びつく理論を扱っていること,また,ケア実践はケアの倫理において最も重要な点であることに鑑み,「大切にする」という表現を採用している.
  8.    ケアを広義で捉えた場合,関心として解釈できるという点については,浜渦 2005, 14-15; 早川 2013, 6-7.早川はこれを「ケアの日常的解釈」と呼ぶ.
  9.    トロントはWho Cares?というタイトルに次の二つの意味を込めている.第一は、文字通り「ケアするのは誰か?」,すなわち実際にケアを担う/歴史的に担ってきたのは誰かという問いである.第二は,「自分の知ったことか!」,というふうに日常的に使用される反語表現に込められた含意,すなわちケアワークを放擲してきた特権者に,ケアの担い手がはたして誰なのかという問いを突きつけることである.
  10.    なお,トロントは,『道徳の境界線』においては,“taking care of”という表現を,『ケアに満ちた民主主義』と『ケアするのは誰か?』では“caring for”という表現を用いている.とはいえ,それぞれの定義はほぼ同じ内容であり,単に表現を変更したものと推測される.
  11.    この「認識」という表現は誤解を与えるかもしれない.ここでの「認識」は特殊な感受性に基づく認識も含む独特なものとして理解するのが穏当だろう.ノディングスによれば,赤ん坊はもちろん,昏睡状態のひとや植物状態のひとであっても,ケアされていることは看取可能だとみなされる.西村ユミは,「植物状態」の患者とプライマリーナースとの特殊なつながりを描き出しているが(西村 2001, 第1章),こうしたつながりの認識が,「ケアされることの認識」に当たるひとつの例と言えるかもしれない.
  12.    ノディングスの記述では,非対称なケア関係のなかでも,特に教師-生徒関係や親子関係におけるケアが念頭に置かれている.そのため,ケアの倫理の「成長」概念に問題が残されることは強調しておきたい.
  13.    実証的次元の対立とは,コールバーグとギリガンの間に巻き起こった道徳性の発達段階をめぐる論争だ.実際には,両者の議論自体もまた,すれ違いをはらむ,かみ合わない論争であるおそれは否めず,本来はこの点から問い直すことが望ましい.とはいえ,たとえすれ違いをはらむ論争のなかから登場したものであったとしても,ケアの倫理の発想自体には,倫理的次元において一定の意義があるというのが本稿の立場である.
  14.    ケアの倫理における「倫理」の含意については,アルド・レオポルドの「土地倫理(land ethic)」や,ハッカー・エシック」と類似の使用法だと捉えうる.すなわち,ケアの倫理は普遍的な原理に基づく体系的理論を提示する倫理学とは異なり,ケアのエートスというべき,ケアの態度や心構えと言い換えることができる.
  15.    ケアの倫理論者たちの多くは,こうした公私区分にたいする異議申し立てを行なっている(Tronto 1993).そのため,そうした意図を反映するのであれば,「公的領域」「私的領域」といった言葉遣いはやや不適切かもしれないが,便宜上,これ以降の議論においてもそのような用語法を採用する.ケアの倫理論者たちがそうした公私区分を必ずしも採用しているわけではないことには留意されたい.
  16.    品川も指摘するとおり,ハンキフスキーの「世代理解はたしかにケア対正義論争の論点の推移を表わしている」(品川 2007, 198)というのも,ある面からみると事実である.
  17.    この問題については,ノディングスの以下の一節が特に有名だ.「私がケアする責務を負っているひとびとを見捨てない限り,アフリカの飢えている子どもたちへのケアをまっとうできないなら,アフリカの飢えている子どもたちをケアする責務は私にはない」(Noddings 1984, 86).ただし,品川も指摘するとおり,この一節は,「ケア可能な範囲の有限性を指摘しているととるべきであって,一部の論者からそう誤解されているように,見知らぬ人びとをケアする責務を否定しているわけではない」(品川 2007, 196).
  18.    ここでいう不偏主義は,通常いわれる,普遍主義(universalism)と同義である.
  19.    ドゥーリア・モデルは,出産後,母として赤ん坊のケアをする女性をサポートする人を指す「ドゥーラ(doula)」に由来する.ドゥーリア・モデルが目指すのは,自分が他者に依存するようになったときには誰かにケアされることを期待でき,自分に依存する人をケアしなければならないときには必要な支援を要請でき,自分が他者に依存するようになったときには自分がケアしてきた人のケアを誰かが担う保障がある社会構想だ(Kittay 2001, 534).ドゥーリア・モデルについて詳しくは,キテイ自身による説明(Kittay 2001; キテイ 2011)に加えて,品川(2013)や佐藤(2015)の議論を参照.
  20.    Kittay 1999の邦訳は初版の訳出であり,第2版において改訂されている.改訂された点で本稿において必要な場合は第2版も参照した.なお,本稿では邦訳の初版を参照したが,2023年5月に邦訳新装版が出版されている.
  21.    トロントが見直すべきとする三つの境界とは,(1) 道徳性と政治学との間の境界,(2) 道徳的な観点の境界,(3) 公的生活と私的生活との間の境界だ.一つ目の境界は,道徳性と政治学がそれぞれ別々に論じられてきた歴史からつくり出された.二つ目の境界は,公平無私の立場から,抽象的な普遍的原理に従って行為することをよしとする,カント主義倫理学に代表される道徳的観点と,私たちの日常の道徳経験との齟齬によって生み出された.三つ目の境界は,子育てや介護などのケアが,私的領域に区分されているところからもたらされている(Tronto 1993, 3-11).
  22.    キテイは「つながりに基づく平等」を核心に据えた社会構想を提案する(Kittay 1999, 28).最初のケア関係は一対一の二者関係にとどまるかもしれないが,そうしたケア関係はそれぞれがつながり合うことによって拡大される.ここでは正義の概念は中心的な問題にはなり得ない.ケアそのものにたいする責任はその依存者と特定の関係にある依存労働者が負うべきだというのがキテイの基本姿勢だが,そうしたケアの責任を負う人のケアのニーズにたいしてはまた別の人が応答すべきだという社会全体での互恵関係を構想する.というのも,誰もが依存を経験するのだから,そうした人間のあり方を社会全体で包摂しうるように,ケアする人のニーズを満たす関係を構想すべきなのは,「つながりに基づく平等」を企図する立場からは当然の帰結だからだ.
  23.    キテイは当初,グディンの脆弱性モデルのなかに,ケアの倫理の理論的基礎を見出しうるのではないかと期待していたが,望んだとおりの結果は得られなかった(Kittay 1999, 63).グディンの脆弱性の捉え方は,複数の存在同士の関係のなかで,もし一方の意志や行動が他者の利害に影響を与えるとしたら,後者は前者にたいして脆弱性を負っているというものだ(Goodin 1985b, 779).キテイによれば,脆弱性モデルは、他者が抱えるニーズにたいする応答責任を中核に据えている点でケアの倫理に特徴的な責任のありようと重なり合うが,グディンの脆弱性と,ケアの倫理における一般的な脆弱性理解との間には,次のような違いがある.すなわち,ケアの倫理は他者との関係性を重視するが,それ以上に配慮されるのが,人間存在が本質的に有する脆弱性である.グディンの場合,個々のひとびとの脆弱性よりも、ひとびとが織りなす関係のなかで生じる脆弱性に注目する.脆弱性モデルは,心身の障害といった個別具体的な脆弱性にとどまらず、社会のなかのさまざまな関係に適用可能だが,ケアの倫理が重視してきた傷つきやすさを曖昧にする危険がある.
  24.    基本的にギリガン(2022)の訳文に従ったが,“marriage”が「むすびつく(マリアージュ)」と訳出されている点については,出版当時の時代状況に鑑み,「結婚」に置き換えている.なお,当引用文中における[]は,ギリガン(2022)における翻訳者による補足である.
  25.    正義の倫理とケアの倫理の適切な関係のあり方を,クレメントは次の三つに区別している.すなわち,(1)一方の理論枠組みのなかに他方を組み入れる「収束」,(2)ケアと正義の二つの観点が並存し,状況に応じて切り替わっていくという「反転図形」,(3)正義志向とケア志向が相互依存する「統合」だ.(1)「収束」の場合には,一方を他方に吸収可能なものとして捉え,(2)「反転図形」の場合には,両者は倫理的基礎を異にするがゆえに,両者を併存不可能なものとして位置づけ,(3)「統合」の場合には,どちらかに優位性のある形で両者が併存している.詳しくは,品川の整理(品川 2007, 第10章),および拙論(安井 2014)を参照.
  26.    ケアの分配論としては他に,ナンシー・フレイザーの「普遍的ケア提供者モデル(Universal Caregiver Model)」がある.フレイザーは,ジェンダーの公平(gender equity)の理念に適う有償労働と無償労働の分担のしかたにかんする三つのモデルを比較検討する(Fraser 1997, chap.2; cf. 野崎 2003, 77-80).第一は,「普遍的稼ぎ手モデル(Universal Breadwinner Model)」.第二は,「ケア提供者等価モデル(Caregiver Parity Model)」だ.前者は,育児等のケア提供を公的になすことで女性の就労を促進するモデルであり,後者は,私的領域のケアワークにたいして,国家が一定の金銭を支払うことなどにより支援するモデルだ.これにたいしてフレイザーはジェンダー公平を,平等からでもなければ差異からでもなく,複合的に捉える,普遍的ケア提供者モデルという第三の選択肢を提案する.このモデルは,ケアワーカーの現在の生活様式をすべてのひとに共通の規範とし,これまでケアを担ってこなかったひとびとを,ケアワークの担い手に近づけるというものだ.
  27.    dependency workerを「依存労働者」と訳出すると,laborとの取り違えが生じかねないが,「依存者」という表現との対比に鑑みて,この訳語を採用している.
  28.    健全なケア関係については,たとえば,ノディングス(Noddings 2002)は,ナチスの高官の生育環境などに言及しつつ,ケア関係が「病理的なケアリング(pathological caring)」に変貌してしまう危険性に警鐘を鳴らす.とはいえ,この点にかんするノディングスの記述には,どういう規準や条件で判定するのかが示されていない.
  29.    このように,クレメントはケアするひとの自律について鋭い考察を繰り広げている一方で,品川も指摘するとおり,ケア関係における「ケアする者による抑圧的な干渉」(品川 2007, 198)のおそれがあることには触れない.
  30.    ケアの倫理における「成長」は基本的に,メイヤロフのケアリングの定義,すなわち「最も深い意味において,他の人格の成長と自己実現を援助すること」(Mayeroff 1971, 1)という記述を踏襲しており,必ずしも能力的に向上することや成熟することのみを意味するわけではない.メイヤロフによるケアリングの定義は,「ケアされるひとの自己実現」,すなわち「それらしくなる(to be itself)」という成長の強調だ,ここでの成長は,大切なひととの関係を失うことや,今までできていたことができなくなるなど,大切なひと,もの,能力などを喪失する際にも,自身が実現可能な選択肢の範囲内でなしうるものである.ケアするひとがケアされるひとの自己実現を援助することは,単に相手の意思を尊重するにとどまらない,そのひとそのものにたいするケアにほかならず,そのひとの全人格的な統合性に係わる.なお,「それらしくなる」という表現から「男らしさ」や「女らしさ」を想起する向きもあるかもしれない.しかし,ケアの倫理の論者たちによる主張を踏襲すると,この表現はジェンダーによる役割分業はもちろん,性差決定論を含意するものではないと捉えられる.なお,「それらしくなる」ことにおける「それ」の意味合いについて詳しくは,品川 2016, 3.2節を参照.
  31.    ノディングスはケアするひととケアされるひとの相互性(reciprocity)の分析を行なう際に,ケアされるひとがケア関係において果たす役割について述べている(Noddings 1984, chap. 3).また,キテイは娘のセーシャについて,愛情溢れる分析を行なっている(Kittay 1999, chap. 6).こうした記述がケアされるひとの声を反映したものでないとは思わない.むしろ,教師として教育現場で長く生徒をケアしてきたノディングスだからこそ,また,障害のある娘をケアしてきたキテイだからこそ発せられる声が存在することも事実である.しかし,特にキテイはその点について自覚的であるように,両者があくまでもケアするひとの視点からケアされるひとを描き出しているという事実も見落とされてはならない.
  32.    Motheringは「母親業」と訳出されることも多いが,ラディックが描き出すケアは必ずしもケアワークであるとは限らないこと,また,母親を役割と捉えることを忌避する見解があるという品川の指摘(品川2015, 24」も踏まえて,本稿では「母親の務め」と訳出した.
  33.    ギリガンの着想は,発達心理学者ローレンス・コールバーグの次の研究方法に違和を感じたところからもたらされた(Gilligan 1982, 18).すなわち,84人の男子を対象とする20年にわたる追跡調査のなかで,平均すると女性は男性ほど高い道徳的推論のレベルに達しない,言い換えれば,平均して女性は男性に比べて道徳的成熟度が低いという傾向が見られた.これにたいしてギリガンは,男性という一方の性のみを対象とした調査で得られた発達理論が,普遍的な有効性をもつ,すなわち,人間一般の道徳発達に適用できるかのように語られていることに異議を唱え,女性は男性とは異なる「もうひとつの声(a different voice)」で語っているのであって,コールバーグの道徳性の発達理論では,女性の道徳発達の道筋を十全に説明しきれていないと主張した(ibid., 73).
  34.    ここでは邦訳タイトルを示したが,participateではなくjoinという表現が使用されていることに鑑みると,忠実に訳出するとすれば,『抵抗への加担』とするのが穏当だろう.本書タイトルからは,ギリガンの抵抗にたいする決意,抵抗に加担することによって生じざるをえない偏りをも引き受ける姿勢を読み取ることができる.

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