2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 38-56
はじめに
ケアの倫理は誕生以来,しばしば正義の倫理と対置され,多くの議論を呼んできた.一連の論争の多くは,応用・実践の現場をにらんで主に規範倫理学のレベルで論じられてきたように見える.しかし,それとして言及されることは少ないが,ケアの倫理と正義の倫理の論争の出発点の一つとなったL.コールバーグの主張は,実は,メタ倫理学に関するものでもあった.そうだとすれば,ケアの倫理はそもそもいわゆるメタ倫理学のレベルでも,従来の倫理に対して異議を含むものであったと考えることができるのではないか.
本稿では,コールバーグ,C.ギリガン,初期ノディングスらの議論を,主にメタ倫理学の観点から取り上げる.そのため,たとえば何をすればケアをしたことになるのか,どうすれば社会の中にケアが行き渡るのか,といった問いは扱わない.むしろ,ケアの倫理において,道徳とは何か,道徳的判断とは何か,といったことが主題である.そうした周辺を論じることで,従来の議論とは少し別の仕方で,ケアの倫理の特徴を描き出してみたい.そのために,第一節では,コールバーグとギリガンを,第二節ではノディングスの立場をそれぞれ取り上げる.第三節では,メタ倫理学における個別主義とマードックの議論を紹介し,改めてメタ倫理学の観点からケアの倫理について論じて結びとする.
1. コールバーグとギリガン
ギリガンとコールバーグの論争は,その後のケアの倫理と正義の倫理の論争の出発点の一つである.両者の対立は,様々なレベルで生じている.たとえば,品川哲彦は問題を(1)規範レベルでの対立,(2)基礎づけレベルでの対立,(3)メタ倫理学レベルでの対立と三つに区別している(品川 2007 148-149).品川の考えでは,(1)は私たちが実際にどんな規範を有するべきかという問い,(2)はその規範を有する根拠,そして(3)はそもそも道徳とは何か,の理解にかかわる.
(1)と(2)のレベルの議論は,私たちが現実に何をなすかということに直結しており,その意味で倫理学において重要なものである.とはいえ,品川も「ケアの倫理の語る諸規範の意義を的確に理解することを目的とする限り,メタ倫理学的レベルでの対立を視野から外すことはできない」(ibid. 218)と述べているように,(3)のレベルも本来,理論の全体像を理解する際には避けて通れないはずである.そこで,本稿では,あえて,従来の研究においてやや手薄であった(3)のレベル,特に道徳とは何か,道徳的実践とは何かという理解の観点から,両者の対立を捉え直してみたい1.
1.1 コールバーグ
コールバーグは心理学を本職とするが,同時に,心理学の研究には,哲学や倫理学の研究の参照が不可欠だと考えた人物であった.彼の博士論文はR.M.ヘアに関するものであったし,1971年の論文「「である」から「べし」へ:道徳性の発達研究において,自然主義的誤謬に陥る方法,またはそれを避ける方法」(Kohlberg 1971)は,そのタイトルからして,メタ倫理学を意識して書かれたことが明確な著作である.以下,まずは,この1971年の論文に基づいて彼の主張を見てみよう.
文化相対主義としての道徳的相対主義
コールバーグは「この論文の第一のステップは,道徳についてのほとんどすべての社会科学の理論が基づいている,倫理の文化的相対性という多くの人びとのいだく仮定は誤りであると示すことである」(ibid. 155/8)2と述べる.この仮定が誤りである理由は二つある.
第一に,コールバーグによれば,多くの社会科学の研究者たちは「「すべての人びとは独自の価値観をもっている」という考えと「すべての人びとは独自の価値観をもつべきだ」という考えとをしばしば混同している」(ibid. 156/9-10)のであって,事実から誤って規範を導出する「自然主義的誤謬」に陥っている.第二に,文化相対主義は,事実として,道徳が文化によって異なっていると主張するが,コールバーグの行った実証研究によれば,事実として,地域差や宗教の差を越えて,「すべての文化に道徳的価値づけに関する同一の基本的な型があり,その発達は同一の順序に従う」(ibid. 174/36).
これら二つの理由から,道徳についての相対主義は誤りであると結論されるが,後者で挙げられた「道徳的価値づけの発達の同一の順序」が,いわゆる道徳性の六つの発達段階である.その際,コールバーグは「実証的に支持されているからといって,高い段階がより道徳的に適切(the greater moral adequacy)であるということを哲学的に証明したことにはならない」(ibid. 182/49)と注意を促す.だが,それにもかかわらず,彼は最終的に,「第六段階の義務や権利についての判断は,他の段階の判断よりも優れている」(ibid. 214/95),「私たちの上位の判断は低い段階よりも道徳的(形式主義的な意味で,より道徳的に適切)である」(ibid. 215/96)と述べる.では,なぜそのようなことが言えるのか.
ここでコールバーグは高い段階での判断は道徳として適切だと強調している.それが意味するのは,低い段階で下される判断は道徳的に誤っているのではなく,道徳の判断と考えるには不適切だ,ということである.たとえば,主に自己利益のみから判断をしていた小学生が,高校生になって自己と他者を対等に捉える観点から判断をするようになったとしよう.この事例について,コールバーグが述べているのは,小学生の頃は道徳的に間違った判断,劣った判断をしていたというのではなく,その子はまだ道徳の枠外で判断をしていた,と理解すべきだということである.つまり,ここで言う不適切とは,問いに対する答えの形式のずれを意味する.どちらの絵が美しいかという問いに,こちらが高そうだと答えるのが的外れであるのと同様に,どちらの行為が道徳的に正しいかという問いに,こちらを選ばないと怒られると答えるのは的外れである.それは道徳的理由から答えていないからだ.
道徳とは何か ~ コールバーグの場合
ここにはコールバーグの道徳そのものの理解が反映されている.たとえば,彼は道徳的衝突(moral conflict)について次のように述べている.
道徳的衝突とは,人びとの競合する権利要求(claim)の間の衝突である――あなたの権利要求と私の権利要求,あなたの権利要求と第三者の権利要求の衝突.道徳的衝突の前提となるのは,役割取得の能力である.大部分の社会的場面は,道徳に関わるような場面ではない.なぜなら,役割取得によってある人が期待することと,他の人が期待することとの間に衝突がないからである.そのような衝突が生じた場合,その衝突を解決するために用いられるのは正義の原理である.(ibid. 192/63)
コールバーグの考えでは,道徳とは,人びとの権利要求が衝突する場面で初めて問題になるものである.その際,他者の訴えを自分の訴えと同等に真正の権利要求と認め,そこに真正の衝突があると認めるということは,それ自体が正義の原理に基づいて考える,ということである.そして,それは役割取得という認知能力を必要とする.逆の方向から言うと,私たちは学校などで役割取得を繰り返す中で,他者を自分と同等の存在と認めるようになる,すなわち正義の原理に基づいて思考するようになり,それによって社会の中に権利要求の衝突,すなわち道徳的衝突が存在すると認識するようになる.
たとえば,第一段階の子どもは,とにかく弱者は強者に服従しなければならないと考えるので,対等な人びと同士の権利要求の衝突がそもそも理解できない.第二段階でももっぱら事態を自己利益の観点から捉えるので,やはり道徳的衝突を理解できない.第五段階や第六段階に至って,初めて子どもは他者を他者として認める正義の原理を獲得し,道徳的衝突の存在を理解できるようになる.
このようにして,コールバーグにとって「道徳原理とは,平等と互酬性としての正義を中心にして組織された,役割取得における認知構造のタイプである」(ibid. 193/65).さらに,道徳原理は,より分化し,より統合され,より包括的であり,同時により均衡に近いものであればあるほど,衝突の解決に資する.彼の考えでは,道徳の問題とは,対等な人間同士の権利要求の衝突のもっとも平等な解決とは何かという問題である.だからこそ,「より高い段階は「より優れているという主張」は,個人の道徳的価値を評価する体系ではなく,ある道徳的思考の形式は他よりも適切さが高い,という主張である」(ibid. 214/94),とコールバーグは強調している.道徳的衝突を道徳的衝突として捉え,その解決を示すことができる点で,「指令性」と「普遍性」を特徴とする第六段階が構成する道徳的思考の形式は,低位の思考の形式よりも,道徳的思考として適切である.
このようにして,「道徳」の観点を獲得する順序について述べたのが,コールバーグの「道徳性の発達段階」である.それゆえに,「道徳性の発達的定義は,直接,道徳的価値についての判断を導くための体系ではない」(ibid. 217/97)のであり,だからこそ,この理論は規範倫理学的なものではなく,むしろ道徳の理解にかかわるメタ倫理学的な理論なのである.
1.2 ギリガン
前節では,コールバーグの立場を確認した.では,彼を批判したギリガンの主張はどのようなものとして理解できるだろうか.コールバーグの第一の主張,道徳的相対主義への批判から考えよう.ギリガンはこの点については,さほどの反対をしていない.というのも,第一に,ケアの倫理は,目の前の人の個別性や文脈を無視して,一般的な原理によってなすべきことを決められることに抵抗する.道徳的相対主義は,その社会の大多数の信じていることによって,頭ごなしになすべきことが決められるとする点で,正義の倫理と同じ穴の狢である.第二に,ギリガンは正義の原理の普遍性を批判するが,あらゆる種類の普遍性を批判するわけではない.「道徳性発達の構想についての女性たちの視座に示される真実を認めることは,自分と相手との間のつながりは,人生を通して,男女ともに重要である,と認めることに他ならない.すなわち,思いやりとケアへのニーズの普遍性を認めることだと言える」(Gilligan 1993 98/243)と言うように,ケアは誰にとっても重要なのであり,それは文化によって異なるものではない.
とはいえ,ギリガンは,実際に求められる行為は文脈相対的であり,個別的な状況に依存すると強調する.「仮説的なジレンマは,その提示のされ方が抽象的である.……しかし,文脈的個別性(contextual particularity)をもってジレンマを再構成することで,原因と帰結を,女性たちの道徳的判断の特徴として繰り返し論じられてきた,同情と寛容をともなった仕方で理解することが可能となる」(ibid. 100/249)と言われるように,事態を個別的,具体的なものとして捉えることで初めて,それがどのような事態なのかが分かるようになる3.
道徳とは何か ~ ギリガンの場合
次に,道徳とは何かという問題について,ギリガンはそれを人間同士の関係の問題と捉える点,三つの視座の移行という形で道徳的発展を捉えるという構造的な理解を行う点で,コールバーグと似た発想に立っている.まずは,この三つの視座について簡単に見ておこう.
妊娠中絶の意志決定に関する調査研究から明らかになった三つの道徳的な視座は,ケアの倫理の発達における順序を示している.……生存保証を目的とした自分自身へのケアリングに焦点を当てるのが第一の視座である.(ibid. 74/196)
この段階では,人の決定はもっぱら自身の生存を中心として行われる.判断者は「自分が一人ぼっちであると感じるが故に,自分自身の世話をすることに焦点を当てる」(ibid. 74/197).しかし,第二段階からすると,このような自己を中心とした判断は利己的とみなされ,それ自体が批判の対象となる.
このような批判の発生は,自己と他者とのつながりに関する新たな理解が生まれたことを意味する.すなわち,責任の概念によって自己と他者との繋がりを示す理解である.二つ目の視座は,この責任概念の緻密化,および責任概念の母性的な道徳性との融合に特徴付けられる.(ibid. 74/196)
こうして第二段階では,「善は他者へのケアリングと同一視される」(ibid.)ことになり,徹底した自己犠牲が道徳によって求められる.我々には他者をケアする道徳的責任があり,他者よりも自己を優先することは不道徳な振る舞いなのである.しかし,そのような自身を排除した活動はいずれ破綻することになり,第三段階への移行が求められる.
三つ目の視座では,関係性の力学に焦点が当てられ,他者と自己とのつながり合いに関する新たな理解をもとに,利己心と責任との間の緊張関係が解きほぐされる.(ibid. 74/197)
これらの段階の移行を,単に自己への配慮,他者への配慮,自己と他者両方への配慮という仕方で,ケアの対象の拡大のみとみなすなら,ギリガンの主張の要点を取りこぼすことになる.ここでは道徳とは何か,特に道徳的責任を負うとはどういうことかについての理解が深化し,それにともなう形で,対象の拡大が起きている.この移行では,他者を傷つけるなという義務を果たすこととしての道徳という概念は一度解体され,自分も含めた誰も傷ついてはならないと考えること,自己と他者のニーズに応える[応答]責任(responsibility)を発揮することこそ,本当の意味で,道徳的であるという理解のもとで再構成される.
実際のところ,第二段階の道徳は,当事者に責任を負わせるどころか,それを免除するものとして働いていることを,ギリガンは鋭く指摘する.彼女は,「自分の考慮が「道徳的」なものである限り,妊娠中絶は犠牲の行いという一点においてのみ正当化され得る.すなわち,選択肢が与えられていないのだから責任を負うことは不可能であるという,必然性への服従だと考えられるのだ」(ibid. 86/221)と述べるが,実際,自己犠牲と同一視される道徳的善は,他の選択肢を排除し,特定の行為のみを必然的な仕方で正当化する.善をそのようなものとして理解し,それに従うのなら,その結果の責任は行為者ではなく道徳それ自体に帰される.行為者は「しなければならなかったから,しただけ」なのであって,何も自分で決めておらず,その限りで何も責任を負わない.この道徳理解においては,行為者は自律的であるように見えて,実際のところ,選択の力を奪われている.
それに対し,「犠牲を払うかどうかが自由意志に任されると,問題は丸ごと振り出しに戻る」(ibid. 83/213).しかし,続いて起きることが重要である.
人を傷つけるなという強制命令としての非暴力の重要性を高め,全ての道徳的判断や行為を規定する原理とする.そうすることで,自分と相手との間の道徳的な平等性を主張し,自分と相手の両方をケアの活動範囲に含めることができる.ここで,ケアは普遍的な強制命令となる.そして,人が自ら選んだ倫理となる.慣習的な解釈から自由なこの倫理は,選択にともなう責任を前提とすることを可能とするという点で,それまでのジレンマを一変させる(ibid. 90/229)
ギリガンの考えでは,心理的発達にとって決定的な事柄は「他者との関係における自己の真価,自分には選択する力があるという主張,そして選択に伴う責任の受容」(ibid. /237)と関連している.人は自他の傷を等しく傷と認めること,人間関係の現実/実在性(reality)をきちんと捉えること,それによって初めて,自分自身でケアすることを自らの倫理として引き受けることができるようになる.
このとき,人間関係の現実とは,対等な個人が互いの権利の衝突を避けながら,個々別々に生きているという関係ではない.むしろ,人は相互依存した,つながり合いの網の中で生きている.それが理解されると,ジレンマの状況も,自己と他者,あるいは他者と他者の権利要求の衝突ではなく,誰もが傷を負いあう場面として描き直される.我々は相互依存した存在なのであって,ジレンマの場面では一方が傷つけば他方も傷つく.だからこそ,ケアの倫理のヴィジョンは「すべての人が他人から応えてもらえ,受け入れられ,取り残されたり傷つけられたりする者は誰ひとり存在しないというヴィジョン」(ibid. 173-174)となる.
まとめると,ギリガンにおいては,(自分の外部で決まる)正義に正当化を任せることは,人を無力にする.むしろ,まず個別具体的な現実と向き合い,その中からケアの倫理を自ら選び取ることこそが,道徳的な責任を果たすということであり,人を本当の意味で道徳的に成熟させるのである.
2.ノディングス
前節では,コールバーグとギリガンについて見た.両者では道徳的責任を引き受けるとはどういうことかについての形式的理解が異なっており,それにともなって,我々にはどんな道徳的責任があるかという実質的理解も異なるものとなっていた.しかし,他方で,両者はともに道徳的判断に注目し,道徳的責任を果たすことを,道徳的実践の理解の中心においていた,と見ることもできる.図式的に示すなら,コールバーグとギリガンはともに,多かれ少なかれ,以下のようなモデルにおいて,道徳的実践を捉えていた.
状況の認知 → 道徳的推論 → 道徳的判断 → 道徳的行為
両者は,道徳的推論や判断が段階的に発展し,それによって,道徳的に正しい行為ができるようになり,それが道徳的責任を果たすことにつながるというモデルを思い描き,だからこそ道徳的判断を重要視している.これに対し,N.ノディングスは,ケアを描き出すにあたって,推論と判断よりも前の部分,認知にかかわるものを重視する.以下では,彼女の議論をこの道徳的実践のモデルの観点から検討していこう.
道徳的判断と行為
ノディングスは道徳的判断を道徳的実践の中で過度に重視することに懐疑的である.
実際,道徳的判断は[ケアの倫理学の]中心的な関心とはならないだろう.哲学者らはたいていの場合,「道徳性とは何か」という問いから,「道徳的判断とは何か」という,もっと扱いやすく見えるものへと問題を移行させる.……わたしは,こうした問題の移行がまったくの誤りだとか,道徳的判断の考察からは何も得られないとか,主張しているのではない.それが唯一の可能なやり方であるわけではない,と主張したいのである.……道徳的判断の研究への長らくの強調は道徳の議論に深刻な不均衡を生み出してきた.(Noddings 2003 28/44)
メタ倫理学にせよ,規範倫理学にせよ,主流の学説が長らく分析の対象にしてきたのは道徳的判断であり,そうした判断と行為の関係であった.しかし,ノディングスの考えでは,道徳の実践の探求にあたって,道徳的判断だけからアプローチするのは偏った見解である.代わりに彼女が注目するのはそれ以前の認知にもかかわる道徳的態度や道徳的な衝動である.すなわち,判断以前に,どのように状況を捉え,感じるか,ということに注目する必要があるということである.「大切なのは,判断することに主たる関心があるのではなく,道徳的な知覚と感受性を高めることに関心があるのだということを理解することである」(ibid. 90/141).たとえば,ケアする態度をもっている人とそうでない人では同じ状況に対しても,その捉え方は細部において異なり,それに向ける感情も異なるだろう.
道徳的判断と正当化
この問題は正当化(justification)の問題とも結びついている.道徳的判断を中心に置く学説では,その判断の正しさ(rightness)がしばしば問題とされる.正しい判断をくだし,それに従って行為をすれば,その行為は正しく,その人は正当化される.逆に言うと,私たちはしばしば自分の行為が正当化されるかどうかを気にし,それゆえに道徳の問題は判断と行為の問題だとみなされる.
正当化の問題の考慮は,道徳的判断や道徳的言明に集中するように要求する.それゆえに,我々は具体的な出来事の調査から外れて,道徳的な振る舞いを議論するために用いる言語や推論の探求へと導かれ,その中で道徳的に行動するかどうか,するとすればどのようにかを選択しなければならないことになる.(ibid. 95/148)
しかし,ケアの倫理において,道徳的言明は,ケアリングの態度から生じるものであって,その意味でケアリングの態度という道徳的観点はあらゆる正当化の概念よりも先行する.ノディングスは「私たちは,ケアを維持したり促進したりするために求められていることをすることで,正当化されるわけではない」(ibid. 95/149)と述べる.ケアすることが正しいことだから,ケアしなければならないわけではない.だからこそ,道徳的判断の正当化を中心に置く倫理学では,ケアすることを十分に扱うことができない.
自然なケアリングと倫理的なケアリング
しかし,ケアすることが正当化の対象ではないとしても,なぜ私はケアしなければならないのか,という規範的な問いは残る.ここで,自然なケアリングと倫理的なケアリングという区別が重要となる.「自分がそうしたいからという理由で他人のために行為するという状況では,わたしたちは,自然なケアリングに従って行為している」(ibid. 79/124).これは他人に対して直接に感じられるものである.他方,「他人に接し,私はしなければならない,私はしたくない,という自分自身の欲望と衝突する自然な心痛を感じるとき,わたしはケアの感情を認識し,自分の最善の瞬間になにがそのあとに起こったのかを思い起こ」(ibid. 80/125)し,そこから生じるのが倫理的なケアリングである.「最初の[自然的なケアの]感情を拒否せずに受け容れ,維持しうる最善の自己に向けて,あるいはそれとともに感じられる感情」(ibid. 80/126)が,倫理的なケアリングの源泉となる.
倫理的なケアリングを理解する鍵は,「最善の自己(best self)」である.この理想の自己は「私は何ものになろうか」という問いへの答えを含む点で倫理的な理想でもある4.そしてここでの倫理的な理想は,個人的に構築されるものである.ノディングスは「「私はしなければならない」(I must)ということに,たとえほんのわずかでも,ほんのつかの間でも従うようコミットしたならば,私たちは理想の導きのもとにある」(ibid.)と述べる.
私たちは誰しもケアしたくないような相手と出会うことがあり,その場合には自然的なケアは期待できない.しかし,そこで自分についての理想に想いを馳せることがある.自分自身の最善の在り方の中には,ケアし,ケアされるという関係が含まれるのではないか.あるいは,最善の自己に到達するためには「私はしなければならない」という内なる声に応えなければならないのではないか.
その声に応えなかったならば,「他の人から切り離されるおそれがあるばかりではなく,理想的な自己からも切り離される恐れがある」(ibid. 51/80)とノディングスは述べる.私たちがケアにかかわる「私はしなければならない」に応えなければならないのは,そうすることが正しいからではない.そうしなければ,自分の理想的な自己への道が絶たれてしまうからである.そうして「わたしはわたしをケアしてくれたひとを,さらに自分自身さえ置き去りにして,見知らぬ人たちと孤独の荒野に身を置くことになる」(ibid.).ここから,ノディングスは結局の所,次のように述べる.
すると,私は「なぜ私は道徳的に行動すべきなのか」という問いに対して,「私が道徳的な人間であるか,あるいは道徳的な人間になりたいと願っているかであるからだ」という答えを提起しているのであろうか.おおまかに言えば,これは答えであるし,おそらく唯一の答えとなるであろう.(ibid. 50/80)
ケアの態度
ここで,後回しにしてきた,そもそもケアとは何かという点にも触れておこう.とはいえ,ケアの明確な規準はない,とノディングスは言う.そこで彼女はいくつもの具体例を使ったり,自分の経験に訴えたりしながら,ケアすることが含むものを描き出していくのだが,その中でケアが生じる契機を次のように述べる.「私の中に,私自身の倫理的な実在をかき乱すような何かが触発され,喚起されると,私は他の人の実在を,私自身にとっての一つの可能性とみなさねばならなくなる」(ibid. 14/22).ケアは他人という実在に出会うところから始まる.「他の人の実在を理解し,できるだけ入念にその人が感じるままを感じ取ることは,ケアする人の観点からは,ケアリングの本質的な部分である」(ibid. 16/25).
これは別の角度から見ると,相手に専心没頭すること(engrossment)である.「根底からみれば,すべてのケアリングには,専心没頭が含まれている」(ibid. 17/27)とノディングスは述べ,それをさらに次のように説明する.
ケアリングはおおむね反応的(reactive),応答的(responsive)なものである.ことによると,それは受容的(receptive)と言った方が,もっとうまく特徴付けられるかもしれない.ケアする人は,ケアされる人に耳を傾け,その人の物語ることに喜びや苦しみを感じようとして,そのひとに十分専心没頭する.(ibid. 19/31)
専心没頭とは単に相手に没入することではない.重要なことは相手の実在の受容であり,そのために相手に集中する,ということが専心没頭の要点である.
3. ケアの倫理とメタ倫理学
ここまで,コールバーグ,ギリガン,ノディングスの主張について,おもにメタ倫理学的な関心から,その内容を再構成して見てきた.今度はさらに,個別主義というメタ倫理学上の立場の観点から,ノディングスの考えを掘り下げていきたい.
3.1 個別主義(particularism)
ケアの倫理は個別主義的だと言われることがある.実際,ここまでも個別的という語は何度か登場してきた.では,メタ倫理学における個別主義とはどのような主張であろうか5.典型的には,それはJ.マクダウェルらの影響を受けたJ.ダンシーの一連の主張がその代表とされるもので(Dancy 1993),道徳的一般主義(generalism)と対置される.一般主義が,個別の道徳的事実は一般的な道徳原理(moral principle)を通じて説明される,と主張するのに対し,個別主義はそのような道徳原理の中に十分に擁護可能なものは存在しないと主張する.
ではあらためて,ケアの倫理は個別主義に依拠していると言えるだろうか.まず,ギリガンの場合は,必ずしもそうとは言えない.すでに指摘したように,彼女はコールバーグと同じく,道徳的判断と行為の関係からケアの倫理を論じている.そして,特定のタイプの道徳的原理に基づく判断から,別のタイプの道徳的原理に基づく判断へと,視座のスライドという仕方で,道徳的な発展を捉えている.道徳的原理の中身は,正義の倫理とは異なるとは言え,道徳的原理を否定するものではない以上,ギリガンの立場を少なくとも上の意味で個別主義的であると考える必要は必ずしもない.
他方で,ノディングスの立場は,ギリガンよりも明らかに個別主義に近い.すでに確認したように,彼女は道徳的判断を重要と見なさないからだ.それゆえに,道徳的判断が依拠すべき道徳的原理も登場しない.加えて,個別的な個人の実在をそのまま個別的なものとして捉える専心没頭がケアであるなら,それは普遍的な原理とは相性が悪い.ノディングスの考えでは,具体的な状況から抽象することなしに,原理を状況に適用することはできない.しかし,そのような抽象によって我々は「その状況で道徳的な問いを生じさせる当のその性質や要因を失う.その状況を違ったものにして,それによって真正の道徳的問題を生み出すような状況を,同じ状況で展開される原理の適用によって解決することはできない」(ibid. 84-85/133).倫理の問題が人びとの個別性を前提とした状況で生じているなら,状況を抽象化する普遍的原理はそのような問題の解決の役に立たない.
とはいえ,個別主義を理論的に貫徹することは最初に思われるよりも難しい.たとえば,ケアの倫理をメタ倫理学の観点から検討したD.バベックは,ノディングスが(正義の)原理を自説から排除する仕方には三つの選択肢がありうるが,そのいずれもが何らかの経路で原理を密輸入してしまって失敗すると述べ,最終的に次のように主張する.「私の結論では,ノディングスはケアの実践のうちから生じる正義の原理の議論,あるいはより一般的に正義の考慮を拒否する十分な理由をもたない」(Bubeck 1995 213).
実際のところ,あらゆる原理を完全に拒否することは容易ではない.では,ノディングスはバベックの言うように,正義の原理を部分的にでも受け容れて,個別主義を捨てるべきなのだろうか.現実的に見て,「ケア」を重視するだけなら,必ずしも個別主義に固執する必要はない.「他者の個別性に十分に配慮せよ」という一般的原理を用いても,ノディングスの求める結果は得られるかもしれない.特に,メタ倫理学上の個別主義は採用するコストはかなり高い.仮に多くの判断が個別的であるとしても,一つたりとも十分に擁護可能な一般的原理が存在しないことを論証することはかなり困難だからだ6.
それでも,筆者の考えるところ,ノディングスが個別主義に留まることは不可能ではなく,またそれによってのみ維持できるケアの倫理の主張もあるように見える.しかし,そのためにはノディングスの議論にやや複雑な解釈を施す必要がある.以下では,ノディングスが何度か名前を挙げているI.マードックの倫理学を参照して,その道筋をたどってみたい.
3.2 マードック
ノディングスは『ケアリング』執筆後,専心没頭をS.ヴェイユやマードックの注意(attention)という概念と結びつけている.
専心没頭とは,ケアされる者への開放的で,選り好みすることのない受け入れを意味する.この特徴を表すのに「注意」という言葉を用いている思想家もいる.例えば,アイリス・マードックは,注意を道徳的生活の本質として論じ,そのルーツをシモーヌ・ヴェイユの考えに求めた.(Noddings 1992a 15/43)
道徳哲学者は注意(あるいは私がかつて専心没頭と呼んだもの)にほとんど言及せず,注意受容的な側面が強調されることは滅多にない.シモーヌ・ヴェイユはその際だった例外である.(Noddings 2002 14)
シモーヌ・ヴェイユとアイリス・マードックにしたがって,私は受容的な注意をケアリングの根本的な特徴として,描き出した.(Noddings 2010 8)
注意とは何かを理解するために,まずはマードックの考えの構造を簡単に示していきたい.マードックは,ヘアらの立場を「選択の倫理」と呼んで,それを自分の「ヴィジョンの倫理」と対比する.選択の倫理においては,「彼は道徳的行為者として完全に自由であり,彼自身の責任で行いと理由の間で選択をする」(Murdoch 1959a 268).人物Aは状況Cにおいて,熟慮を通じて理由を吟味し,いくつかの提示された選択肢の中から,もっとも善いものを選び出す判断を行い,実際にそれに従う.このときに,熟慮の過程が適切であるとか,価値や理由に十全に反応しているとかいった条件を充たすことによって,その選択とそれに基づく行為は正しいものとなる.
他方,ヴィジョンの倫理では,評価においてもっとも重要なことは,Aが「実在」に対して「ちゃんと」(justly)注意を向けているかどうかである.この実在を捉えようとする態度は愛とも呼び換えられる.そして「愛とは個別的なもの(individuals)の知覚である.愛とは自分以外の何かが実在であることの,極めて困難な理解である」(Murdoch 1959b 215).つまり,愛とは実在に注意を向けることであり,私たちの外側の個別性に向けて想像力を働かせることである.
選択の倫理が意志を自由に働かせて正しい選択をすることを求めるのに対し,ヴィジョンの倫理はそもそも自由な主体を想定しない.私たちはそのように無から何かを選択できる存在ではなく,むしろ,善を志向しながらも,様々な力に引きずられて,世界を歪めて見てしまうような存在である.たとえば私たちは,自分の過去から逃れることができず,容易に利己心の重力に屈する.私たちにできるのは日々の生活の中で,小さなことに気を配り,なんとかして,少しでもそうした重力に抵抗することだけである.そこで手がかりとなるのは愛である.愛は善とつながっている.「善は愛が自然に向かう磁力の中心である.……愛は,不完全な魂とその向こうに横たわるとされる磁力を持った完全性との間にある緊張なのである」(Murdoch 1967 100/159-160).
ここで,マードックはプラトンを意識しており,善は実質的にイデアの位置にある.太陽に比されるイデアと同様に,マードックの善も直接に理解可能な対象ではなく,むしろ,愛の向けられる先にあって決してたどり着くことのない完全性の理念である7.善という光は物事を理解可能にするものとして世界に遍在する.「太陽は光とエネルギーをもたらし,我々が真理を知ることを可能にする.その光の中で,我々は世界の事物をその真の関係において見る」(ibid. 90/144)のであり,「善の概念は場面全体に広がっており,そこにあり得るただ一種類の漠然とした未完の統一性を与えている.道徳の領域は,それゆえ道徳哲学の領域は,今や負債と約束といった末端の問題ではなく,我々の生き方全体や世界との我々の関係の質を覆うものとみなされうる」(ibid. 94-95/151).したがって,ヴィジョンの倫理においては,善は選択の倫理のように理由や正しさとの関係で語られるものではなく,むしろ愛の焦点となって,世界と私たちを結びつけるものと理解される.
3.3 ノディングスとマードックの重なり
ヴィジョンの倫理とノディングスのケアの倫理の親和性は明らかである.いずれの立場も選択や道徳的判断のみを重視することを拒否し,「正しさ」といった一般的で空虚な概念で抽象化することなく,個別の対象の実在をそのまま捉えることに重きを置く.その際に,手がかりになるのは完全性や理想といった理念である.それらと現在の自己のギャップは規範として表れ,私たちは愛やケアという仕方でそれに応えようとする.
ギリガンの段階では,ケアの倫理は道徳的判断を中心とするものであり,正義の倫理との違いは,責任の捉え方の違いという側面が大きかった.それはケアを重視する思考が受動的でも利己的でも無力でもなく,むしろ真に責任を負った判断を導く,という要素をもつ.しかし,ノディングスやマードックの観点から言うならば,それはまだ正当化に囚われているととることもできる.必要なのは,正当化にこだわらない勇気をもつことである.たとえば,息子が何か大事なことのために,嘘をついて学校を休もうとするという事例について,ノディングスはただ息子をケアすることに注力し,それ以上のことを求めないと述べる.
驚かれるかもしれないが,わたしは,この結論をこのままの形にしておくつもりである.同僚の男性ならこう言い張るかもしれない.君は自分の行いを正当化しなければならない.特に嘘をつくことを正当化しなければならないと.しかしそうする必要があるのだろうか? そんな試みにかかずらって何を認めようと言うのか? なんらかの原理への不服従や拒絶を私が正当化しようとしたなら,私はそうした原理が倫理的な生活において至高の地位を占めることを暗黙のうちに認めていることになる.同僚の言い分は通ることだろう.だが,私はケアリングの違反はなかったという観察に満足するだろう.(Noddings 2003 57/90)
マードックもまた,「目的とされるべきは善であって,自由や正しい行為ではないと言うことは(確かに正しい行為や謙遜という意味における自由は,善への注意の自然な産物ではあるが),言葉以上の意味を持つ」(Murdoch 1969 69/110)と述べて,正当化から倫理を捉えることを避けるよう主張する.両者は,あらゆる抽象化を避けて,勇気を持って具体的で個別的な実在に留まり続けるように求めるのである.
ここでようやく,個別主義の問題に戻ることができる.バベックは,ノディングスのケアの倫理は,道徳的判断から原理を完全に排除することができないとして,それゆえに個別主義から手を引くことを求めていた.しかし,上で述べてきたように,ノディングスは,道徳的判断と手を切ることで,原理を回避することができる.
あるいは,マードックの観点から別の言い方をすれば,ケアの問題を選択の問題にすることは,事柄の本質を見失わせる.私たちはどのような態度をもつかを自由に選ぶことなどできない.選択の倫理と違って,ヴィジョンの倫理においては,実際の選択の場面においては,すでになすべき事は終わっているとされる.
人はしばしば自分が見ることのできるものによってほぼ自動的に強制される.……もし注意の作用がどのようなものか,またそれがどのように継続的に働くのか,さらにまたそれが私たちのまわりにどのように価値構造を知覚なしに形成していくかを考えるなら,選択の肝心な瞬間においては,選択の仕事はほとんどが終了しているということに何の不思議もないだろう.(Murdoch 1962 36/57)
むしろ,「道徳的生活とは継続的に生じているものであって,はっきりした道徳的選択の瞬間の間でスイッチが切られるものではない.そのような選択と選択の間に生じてくるものこそが重要なのである」(ibid.)とマードックが言うように,ケアとは選択と選択の間に不断に生じているものである.日常の一瞬一瞬のすべてが愛であり,ケアなのである.ある特定の状況において,ケアをするかしないかを選ぶとか,このように振る舞うことはケアかそうでないか,といった問いはその意味では二次的なものである.
たとえば,ノディングスは,差別反対のデモに参加しようとする黒人の同級生と,人種差別的な自分の家族との間で引き裂かれる大学院生Aの事例に関して次のように述べている.
ケアされる二人の人が争っていて,ケアするひとがケアリングの衝突に巻き込まれているとき,そのひとは,できることなら,両者をともに擁護し保護するような行動を採らなくてはならない.したがって,そのひとはまず先に,脅威を感じている方の人へと注意をむけなくてはならない.……彼女がケアリングにコミットしていることは明らかだが,しかし,はるかに重要なのは,[わたしのケアされるひとがそんなことをするはずがないという]彼女の答えは,ケアリングの根本的な強さを示しているということである.……Aさんの答えは,生活に浸透した態度であり,信仰と同じように,わたしたちが依存する人間のきずなを確立する態度である.自分の愛する人びとは「そんなことをするはずがない」という彼女の主張は信頼の表明であり,その信頼は関係性に基づいている.……それは関係性のうちで過ごされた年数という証拠に跡づけられ基礎づけられた主張である.(Noddings 2003 111-112/174-175)
目の前で傷ついている人をケアすることは重要である.しかし,それと同等以上に,そこに至るまでに日常の中で長い時間をかけて築いてきた関係は重要であり,そうした関係を築くことがケアすることの中核にある.この場面に至ったとき,すでにAさんがするだろうことは決まっていたのだ.
マードックは「もし私が適切に注意するならば,私は選択の余地がなくなることになろうし,これが目指すべき最高の状態なのである」(ibid. 38/60-61)とまで述べる.ケアの関係が築かれ,他者のなかでケアが出来上がっているのなら,その場で私が選択することはなくなるだろう.私はただケアを続ける.そこには原理が関係する余地はない.
3.4 ノディングスとマードックの相違
以上のように,ノディングスとマードックの倫理理解には重なる箇所が多く,マードックの倫理学を参照することで,ノディングスの議論の輪郭も際立つ.とはいえ,両者には異なる点もある.マードックはラディカルに主流派の唱える善の概念を解体し,実在の側に組み込み直すことで,事実と価値の区別を否定する.完全性の理念,善の光のもとで,私たちのヴィジョンを通して事実は事実として我々の前に現れてくるからである.その意味で彼女は善はあらゆるもののうちに遍在すると述べる.ノディングスは自然的なケアリングと倫理的なケアリングを区別し,倫理的なケアリングは自然的なケアリングから生じると述べたが,マードックの観点から言えば,純粋に自然的なケアリングなど存在しない.むしろ,どんな自然的なケアリングのうちにも倫理的な価値が浸透している.そうして善の磁力に惹かれて,私たちは価値をともなった個物を個物として見るようになる.
その点と関連して,ノディングスは,ケアは本来的には人間と人間の間に生じるものであるとして,動植物やその他の事柄に対しては,たとえケアのようなものが生じたり,そこからケアを学ぶことができたりするとしても,それは人間同士のケア関係とは本質的に異なると論じている(Noddings 2003 ch.7).だからこそ,彼女はケアリングの際には,自己を離れて相手に共感する動機の転移を重視する.マードックは私益のために注意を歪めることを批判し,そのために無私を強調するが,それは相手の感情を獲得することを含まない.
あるいは,数学や語学への没頭,探求を通じてでも人は善に近づくことはあり得るとするヴェイユやマードックに対して,ノディングスはそのような善はケアの目指すものとは異なるとも論じており,この点で自分はヴェイユらと袂を分かつと述べている(Noddings 1992a 48頁, 1992b p.16).これは良かれ悪しかれ,人間同士のケアと結びついた倫理的価値をその他の諸事実や諸価値から区別して特別なものと見なす,ノディングスの独自の態度から来ているものに見える.たとえば,同じケアの論者でもJ.トロントとB.フィッシャーは,私たちの生きる「世界を維持し,継続し,修繕するあらゆるものを含む人類の活動」(Fisher B. & Tronto J. 1990 p. 40)とみなすが,ここでの世界は周囲の人間だけではなく,我々の生命にかかわるあらゆるものを含む.これは最も広い定義であるとして,実践レベルではより限定する必要があるとトロントは認めるものの,ケアそのものはこのような拡張の可能性をもつ.
しかし,逆にケアする人とケアされる人という,人間と人間の関係にこだわり続けることでしか,見えてこないものもあるのではないか.つまり,ヴィジョンの倫理と同じように主流の選択の倫理に抵抗し,世界そのものと向き合う姿勢をもちながら,その中心に人と人の関係を置く点が,ノディングスのケアの倫理を独自の倫理たらしめている.それは,ある種の人間中心主義を持ち込みかねない危うさを含むとも感じられるが,それをうまく乗り越えられるなら,ケアの倫理はケアの倫理として独立した道を拓けるのではないだろうか.
特にヴィジョンの倫理では,世界はこちらを見つめ返してくるわけではない.エゴイスティックな自我を離れて,ただ目の前の一羽の鳥に心を奪われる,山を山として,川を川として見られるようになることが理想であるとマードックは述べたが,山は私をまなざし返してはこない.しかし,人間同士の関係はそうではない.私のヴィジョンは,他者のヴィジョンによって反射されて再び私の中に,あるいはさらなる別の他者に拡散する.そしてケアの網の目が少しずつ紡がれていく.こうした拡がりのダイナミズムはマードックの発想にはない.それはノディングス流のケアの倫理が有しうる独自の魅力なのかもしれない.
3.5 ケアの倫理とメタ倫理学
最後に,ケアの倫理とメタ倫理学の関係について,少しだけ述べておこう.ここでは先に言及したバベックに着目したい.品川は「バベックはメタ倫理学レベルでの対立を不毛と断ずる」(品川 2007 215)と述べた.ここで,バベック本人の言を引いてみよう.
個別主義論争は,ギリガンを誤解しただけでなく,ケア倫理と,ケア倫理の枠内での正義の考慮の役割の検討の発展にとっては迷惑なものだった.それらは,ケアの倫理と正義の倫理の間の形式的な対称性に注目し,それらの内容の違いの詳細な議論を実質的に排除したからだ.(Bubeck 1995 199)
この部分だけを読むと確かに,バベックは個別主義という観点からギリガンを論じたこと自体が誤りだったと述べているように見える.しかし,本当にそうだろうか.むしろ,それ以前の部分で,ギリガンの主張をメタ倫理学のレベルで子細に検討したからこそ,ケアの倫理と正義の倫理は必ずしも排他的ではない,というバベックの主張が可能になったのではないか.その点は,ノディングスの検討の際により顕著である.
私はさらに次のように結論したい.正義の考慮を論じるために一つのメタ倫理学上の立場をとる必要はない.まったく原理に依拠しないものを除けば,どんなメタ倫理学の枠組みも,正義の原理を許容するだろうからだ.そして,この「許容」だけが,私の議論の目的に必要なものだ.……ノディングスが,まったく原理に依拠しないメタ倫理学の枠組みを支持していないことは明らかにみえるので,原理,規則や配分的正義の考慮における計算の方法に対する彼女の反対は誤りであった,と私は結論する.(Bubeck 1995 214)
ここから分かるように,ノディングスの述べた実質的な内容にかかわる議論を否定せずに,正義の原理をケアの倫理と結びつけるという,バベックの目的のために,メタ倫理学的な分析はむしろここで積極的な役割を果たしている.
実のところ,メタ倫理学的な観点まで遡っても,両者の対立が直接に解消されるわけではない.しかし,実質的な内容の差異以前に,道徳の理解や道徳への妥当なアプローチの仕方,道徳的実践のどの部分に焦点を当てるか,なぜ道徳的であるべきなのか,などといったレベルで,何が共有されており,何が異なっているのかを明らかにすることで,互いを理解することができる(もしくは,どこが理解できないのかを理解できる).このような理解は理論のレベルにおいて重要なことだが,同時に実践においても別の仕方で重要性を持ちうる.倫理学の理論家は,何がもっとも妥当な理論なのか,何が真理なのかということを,可能な限り中立の視点から求めようとする.そうして,どちらの理論が妥当だとか,この部分の論証がおかしい,といってより妥当な理論をつくり出そうとする.
しかし,日常の中で私たちが有するスタンスは必ずしもそのようなものではない.むしろ,自分のコミットする立場が先にあり,それを生きる中で私たちは自分とまったく異なる立場を奉じる人に出会う.そのときに人が抱くのは,どうして,目の前のこの人はわけのわからないことを言うのか,どうして分かってくれないのか,という想いではないだろうか.
正義を重視する人物とケアを重視する人物が,困っている親友への接し方を巡って対立するとき,そこで実質的な事柄,たとえば,親友にかけるべき言葉,なすべき行為だけを論じていても互いに対する不信が消えることはない.相手が守りたいのは親友なのか,親友の親友としての自分の立ち位置なのか,三人が属する共同体なのか,いろいろなことが頭をよぎる.しかし,そこで実質的な内容以前の部分で,相手の考え方が依拠する世界の捉え方がどのようなものなのかを知れば,どうだろうか.もちろん,それを知ったからといって相手を論破などできない.場合によっては,ますます腹が立つということもありえる.だが,少なくとも,自分たちの考えの相違がどこから来ているのか,ひいては自分自身の考え方がどんなものなのかを考えるヒントを得ることができるし,結局,私たちはそこからしか始めようがない.それは長い目で見れば,再び両者が関係を新たにして,自分の信じる正義やケアを生きることにつながるのではないだろうか.
おわりに
メタ倫理学の研究は無味乾燥な概念分析などによって進められることが多い.しかも,従来のメタ倫理学は規範倫理学に対する中立を謳う傾向にあったため,その点はさらに顕著だった.その点で,実践に従事する研究者,政治を動かし,さまざまな制度を変える活動に従事している人びとからメタ倫理学が白眼視されるのには仕方がない側面もある.
しかし,マードックが明確に論じているように,メタ倫理学は必ずしも規範倫理学や実践に対して中立ではない.たとえば,彼女によればヘアのメタ倫理学には,彼のリベラルな思想が明確に反映されている.その意味ではメタ倫理学と規範倫理学を互いに独立させたままで十分に研究できるというのは幻想である.そして,メタ倫理学が規範倫理学から自由ではないとすれば,その逆も然りである.どんな規範理論もそれを支えるメタ的な部分との関わり合いをもつ.そして,規範理論は結局,私たちが日々過ごす日常の実践につながっていく.自分と異なる立場と出会ったとき,そして両者の相違が容易に消えてはなくならないとき,相手を傲慢に否定することなく,同時に,自分が一方的に間違っていると自信を失うこともなく,私たちのヴィジョンを維持し,少しでも良い方に変えていこうというときに,ケアの倫理とメタ倫理学の両方に携わる意味はあるのではないだろうか.
註
参考文献
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