2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 57-72
1.はじめに
我々は知覚によって世界と接している.我々が世界にアクセスできるのは知覚を通じてこそなのである.このとき,素朴な日常的な考えでは,知覚された世界の中の対象と主体をさえぎるものは何もない.主体は外界の対象に直接アクセスしているように思われている.この考えは直接実在論と呼ばれる.しかしながら,哲学においては直接実在論と呼ばれるこのもっともな考えは,常にまったく問題ないものとされていたわけではなかった.錯覚や幻覚を使った論証(錯覚論法)が正しければ,直接実在論は成り立たないとされるのである.とはいえ,現代の知覚の哲学は直接実在論を支持する立場が主流である.そして,現代の知覚の哲学の立場は,錯覚論法のどの段階を否定するかに応じて分類される.錯覚論法と呼ばれる論証を導入しよう.ここで誤知覚とは真正な知覚以外のもの,錯覚と幻覚を指す.
(1)誤知覚において,何かが可感的性質Fが持っているように主体Sに思われるが,知覚されるとされた日常的対象はそのような性質を持っていない.
(2)何かが可感的性質Fを持っているように思われるなら,この性質をもった,Sに直接提示されている何かが存在する.(現象原理)
(3)問題になっている日常的対象はFではないので,誤知覚において,知覚されるとされた日常的対象はSに直接提示されていない.(1, 2より)
(4)知覚についての同一の説明が真正な知覚と誤知覚の両方に当てはまらなければならない.(共通要素原理)
それゆえ,
(5)真正な知覚においても,知覚されるとされた日常的対象はSに直接提示されていない.
(5)の結論によれば,真正な知覚においても我々が普段馴染んでいると思っていた日常的な対象に直接アクセスできないことになる.たとえば,机を見ているのではなくて,机のセンスデータを見ていることになる.このような結論にどのように対処するかに応じて,知覚の哲学は立場が分かれることになる.どの前提も否定せず結論を受け入れるならば,それはセンスデータ説になる.センスデータ説は外界へのアクセスを否定してしまう恐れがあるため人気のない立場である.(2)の現象原理を否定し,誤知覚の場合には性質Fは例化されていないと主張するのが志向説である.それによれば,経験の志向的内容が偽のとき,表象の正確性条件を満たすものなどなくていいということになる.(4)の共通要素原理を否定し,真正な知覚において日常的な対象が主体に直接提示されていることを確保しようとするのが本稿で扱う選言説である.
以下では選言説のバリエーションを紹介し,相互の含意関係を検討する.本稿においては選言説そのものを支持するかとは独立に,選言説の分類を行うことを試みる.このような作業を行うことのメリットは,以下で見るように,形而上学的選言説を支持しなくても認識論的選言説を支持するというように,選言説一般を支持するか問うよりもきめの細かい議論が可能になるということにある.本稿はそのような基礎的な作業を目標とする.
まず2節で選言説のさしあたり妥当するような直観的な定義を与える.その後,2節で与えられた定義が,どこに力点を置くかによって,いくつかのバリエーションを許すことを見る.通常は選言説を分類するといっても認識論的選言説を独自のものとして形而上学的選言説から分けるだけだが,本稿では5種類に分類可能であると主張する(3節).さらに,分類した5種類の選言説の相互の含意関係を検討する.特に,そのうちの認識論的選言説と形而上学的選言説の関係を考察する(4節).その結果,形而上学選言説は認識論的選言説を含意し,その逆は言えないものの密接な関係にあるということが示されるだろう.
2.知覚の選言説の暫定的定義
選言説の暫定的な定義を与えよう.暫定的な定義はさまざまな選言説に共通して当てはまるようなものを目指すものである.
選言説:真正な知覚と対応する錯覚および幻覚は重要な点で共通要素を持たない.
ここで,「対応する」とは基本的に真正な知覚と錯覚および幻覚が識別不可能だという意味で対応するということを意味している.トマトを見る真正な知覚とピンク色の象を見ているかのような幻覚が,重要な点で共通要素を持っていないとしてもそのことは特に目新しいことは何も言っていないからである.たとえば,トマトを見る真正な知覚とトマトを見ているかのような錯覚および幻覚の間に共通要素がないということに,選言説の実質的な主張があるのである.選言説は基本的に,識別不可能な真正な知覚と錯覚および幻覚に関する立場である.
この定義は,第1節で見た錯覚論法のうち(4)の前提である共通要素原理を退ける役割を果たしている.共通要素原理が退けられれば,錯覚および幻覚と同じ説明を真正な知覚に対して適用する必要がなくなる.そのため,真正な知覚において主体が外界にアクセスする道が開かれる.
この定義の利点は,選言説の主要な論者で異なっている知覚の対象に関してバリエーションを許すものになっているということである.たとえば,マクダウェルは経験において主体に与えられるものは世界で成立している事実だとするが,スノードンは個物としての日常的対象だとする.
かくかくが成立しているという現われは単なる現われ(mere appearance)か,かくかくが成立しているという事実(fact)のどちらかであり,そのときは事実それ自体が主体に明らかになっている.(McDowell 1982, pp.386-7)
見える判断(looks-judgement)は二種類の出来事によって真にされる.幻覚においてはそれらは(対象を含まない)内的経験の何らかの特徴によって真にされるが,知覚においてはそれらは対象,非内的経験(そのような内的経験を含まないもの)へのある関係の何らかの特徴によって真にされる.(Snowdon 1990, pp.56-7)
我々の定義は知覚において何が主体に提示されているかには言及していないため,マクダウェルやスノードンの定式化に対して中立を保つことができている.
また,この定義は真正な知覚とそれ以外が何か共通の要素を持つことを全く排除するわけではない.主体にとって,真正な知覚と錯覚・幻覚が識別不可能であることは認められているので,「…のように見える」という性質が問題のないものであるとすれば,そのような性質が両者に共通のものであるということはもっともらしいのである.
加えて,真正な知覚と錯覚・幻覚が物理的なプロセスにおいて大部分が共通しているというのはもっともらしいだろう.共通要素を全く排除してしまうような選言説の定義は満足のいくものではない(cf. Child 1994, p.144; Martin 1997, p.95; Crane 2006, p.139).
その点は選言説の定式化に含めることができる.「A⋁B」ではなく「xyz1 ⋁ xyz2」のように書けば共通要素x(たとえば単なる現われ(appearance))は明らかになるだろう(Hinton 1967, p.8).選言説(disjunctivism)とは,その名が示すように主体にとっての現われを選言のかたちで説明する立場である.もちろん共通要素原理を拒否するという消極的な態度によってまとめられる立場でもあるため,選言による説明は現われを積極的に説明するというよりは,真正な知覚と錯覚・幻覚が異なることを強調することに力点がある.とはいえ,選言説においても,またその中での現われの分析の定式化においても共通要素を認める余地は十分残されているのである.
この定義でさらに言うべきなのは,あくまでも否定的な見解にとどまっていることである.たとえば,通常,選言説と結びつけて論じられることの多い素朴実在論を取るかどうかに選言説は中立である.そのことはむしろこの定義の利点である.なぜなら,素朴実在論は選言説を帰結するけれども,選言説は素朴実在論を帰結しないからである(Fish 2009, p.37).素朴実在論は外界の対象との関係を要請するが,幻覚の場合はそのような関係は手に入らない.そのため,素朴実在論は真正な知覚と幻覚に対して異なる説明を与えざるをえない.このようにして,素朴実在論は選言説を帰結する.それに対して,素朴実在論を取らない選言説も可能である.たとえば,志向説においても選言説を取る余地がありそうである(3.2節).選言説一般に妥当する定義をあくまでも否定的なものにすることで,このような選言説とその他の知覚の理論の関係を適切に反映することができる.
さて,真正な知覚と錯覚および幻覚は重要な点で共通要素を持たないという考えを,哲学史上誰が最初に唱えたかということは難しい問題である.フレーゲ(Travis 2005),フッサール(Smith 2008),マックス・シェーラー(Riccardi 2016),ヘーゲル(ガブリエル 2019, p.81; Sanguinetti 2020),Cook WilsonやH. A. PritchardのOxford Realism(Travis and Kalderon 2013; Marion 2022)といったいわゆる分析哲学の伝統には属さない哲学者も含めて多様な面々が候補として挙げられている.ここではこの問題には踏み込まないが,哲学史上近い考えを持った哲学者がこれだけいることに鑑みれば,選言説が現代の知覚の哲学における行き詰まりを打破するために無理矢理考案されたものではない,と言えそうだということは注意されてよいだろう(1).選言説は,文および思考内容の理論を形成しようと試みたり懐疑論克服を真剣に考察したりする哲学者が有望なものとしてそこに到る考え方の一つであるかもしれない.
3.五種類の選言説
選言説が真正な知覚と錯覚・幻覚との間に重要な点で共通要素を持たないという立場であるとすると,何が違いとして重要になるか,どのような共通要素が否定されるかという関心に応じて,選言説はいくつかのバリエーションを持つことになる.対象,内容,現象学,状態,証拠という5つの力点の違いに応じて,バリエーションは5種類に分かれることになる.幻覚について選言説は真正な知覚の否定を介して間接的に説明せざるを得ないという消極的選言説と,そうはしないで直接特徴づけることができるという積極的選言説の対立もあるが,今回はそれは扱わない.また,以下では真正な知覚とそれ以外の区別が重要なので,錯覚は考慮せず,真正な知覚と幻覚の二種類に話を限定する.
3.1.経験の対象に関する選言説
経験の対象に関する選言説とは,真正な知覚と幻覚は経験の対象として同じものを持たないというものである.錯覚論法・幻覚論法の何らかの前提を否定せずに結論を受け入れた場合,このタイプの選言説は退けられる.たとえばセンスデータ説においては,経験の直接の対象は,真正な知覚の場合でも幻覚の場合でも心に依存した(mind-dependent)センスデータという対象である.真正な知覚と幻覚においてセンスデータという共通の経験の対象が存在しているため,センスデータ説は経験の対象に関する選言説ではない.また,センスデータを通して外界にアクセスしているので,この立場は間接実在論である.
しかし,現代においては直接実在論が主流である.真正な知覚においては外界の対象が直接知覚されていると考えられている.そして,幻覚においてはそのような外界の対象は存在しないため,経験の対象は何か別のものである.それゆえ,真正な知覚と幻覚で別々のものが経験の対象になっているため,経験の対象に関する選言説が受け入れられていることがわかる.この選言説は現代において正統派(orthodoxy)の地位を獲得しているのである(Logue 2015).
このように,経験の対象に関する選言説は,通常選言説についてイメージされる,真正な知覚と幻覚は心的状態として違うというものよりもかなり弱い主張になっている(2).
3.2.経験の内容に関する選言説
経験の内容に関する選言説とは,真正な知覚と幻覚において,(志向的)内容は異なるとする立場である.この立場は「知覚経験の内容は個物を含むか?」や「単称思考はいかにして可能か?」という問いと密接に関わっている.真正な知覚においては世界の中の個物が主体に提示されている.他方で,幻覚においてはそのような対象は存在しない.経験の内容が個物を含むならば,そのような内容を真正な知覚と幻覚に共通に適用することはできなくなる.真正な知覚は単称的内容を持っており,対象依存的である.それに対して,幻覚はそうでない.
この点で,一見すると志向説を取る論者は経験の内容に関する選言説は取れないように思われるかもしれない.志向説は一般に,真正な知覚と幻覚を志向的内容という共通要素で説明しようという立場であるからである.実際,マッギンやデイヴィスは一般的な要素だけで知覚の内容を与えようとする(McGinn 1997; Davies 1992).しかし,志向説(のある種の特徴)と選言説は両立可能であるという意見もある(Byrne 2001, p.202).実際,志向説の枠組みで単称思考を扱う試みが存在するが,そのような試みは選言説一般には踏み出さない(Burge 1991; 小草2009; Tye 2009).そのような立場は直示的内容というものを志向的内容に組み入れて共通要素説を維持するか,真正な知覚は完全な内容を持つ一方で幻覚は隙間のある(gappy)内容を持つとするようなバリエーションがありうる.
他方で,経験の内容についての選言説が選言説一般を支持する論拠になりうると考える人もいる(Campbell 2002, ch.6(3)).この問題は知覚の(志向的)内容とは何かという大きな問いへつながっている.
3.3.経験の現象的性格に関する選言説――形而上学的選言説(1)
経験の現象的性格に関する選言説とは,真正な知覚と幻覚において現象的性格,すなわち主体にとってどのように感じられるかが異なるとする立場である.選言説を論じるに当たっては比較されている真正な知覚と幻覚は識別不可能であることが前提されていた.識別不可能性から本質が同じということに進まないことに選言説の特徴があったからである.それならば,識別不可能なのに現象的性格が異なるということがありえるのかが疑問に思われるかもしれない.識別不可能であるとは主体にとってどのように感じられるかに違いがないということだと思われるからである.
ここで,現象的性格を素朴実在論がどのように考えているかについてのマーティンのコメントを見よう.
素朴実在論によると,知覚の現実の対象,木々,テーブル,虹のような主体が知覚しうる外界の事物と,それらが知覚されているときにそれら事物が主体に露わに(manifest)しうる性質が,主体の意識経験を部分的に構成し,それゆえ主体の経験の現象的性格を決定する.構成や決定というこのような語りは文字通りに受け取られねばならない.その帰結は,知覚された対象が存在していなかったり,あるいはそれらが持っていると知覚された特徴を対象が欠いていたりするなら,主体は自分が持つまさにその経験を持っていることができなかっただろうということである.(Martin 1997, p.93)
外界の事物および性質が主体の経験を構成し,現象的性格を決定するなら,そのような対象や事物が存在しない幻覚の場合は,現象的性格は真正な知覚の場合と異なるということになる.素朴実在論はこのように,経験の構成や決定という観点から現象的性格に関する選言説を要請するのである.ポイントは,素朴実在論が現象的性格,つまり我々に感じられているものが外界の対象であるという常識的な考えを擁護しようとしているということにある.それゆえ,主観的に識別不可能なものが異なる現象的性格を構成するというのは不可能だ,というのは素朴実在論者に対する論点先取でしかない.
マーティンは幻覚に関しては真正な知覚から逸脱したものとしてしか特徴づけることができないと主張している.そのとき,幻覚は真正な知覚から識別不可能なものとして位置づけられる.幻覚には現象的性格が認められない(Martin 2004; Dorsch 2011, p.315).幻覚は固有の現象的性格を持てないのである.
現象的性格に関する選言説は他の種類の選言説と興味深い関係にある.次節で見る経験の状態に関する選言説(一般に形而上学的選言説と呼ばれているもの)の特徴づけとして使われることもある(Cunningham 2016, p.113).現象的性格がその経験の基礎的な種類(fundamental kind)を決定するとすればそうなるだろう.志向説とも深く関わっているかもしれない.志向説の主張として,「経験の志向的内容がその経験の現象的性格を決定する」というものがある(そしてその逆もある).3.2節での経験の内容に関する選言説が正しければ,内容に関してだけでなく現象的性格に関しても選言説が正しいということになりうる.志向説の枠組みにおいては,経験の内容に関する選言説は経験の現象的性格に関する選言説を帰結すると考えたくなる(4).
しかし,真正な知覚の場合は対象依存的・単称思考的な志向的内容を持つ一方で幻覚の場合は存在量化された志向的内容を持つ,としたところで,両者が同一の現象的性格を持つことは可能なように思われる.たとえば,以下の選択肢が考えられる.
(1)両者どちらもが存在量化された志向的内容の側面を持ち,その側面が真正な知覚と幻覚に共通の要素として同一の現象的性格を持たせる(Soteriou 2016, p.202).
(2)両者はひとかたまりの性質を表象するような志向的内容を持ち,それらが共通の構造として同一の現象的性格を持たせる.幻覚の場合は性質が表象される仕方に隙間がある(gappy)(Tye 2009).
もちろん,現象的性格が外界の事物や性質によって構成されたり決定されたりする立場からすれば,どちらの選択も現象的性格を同じものにするには不十分ということになるだろう.現象的性格をクオリアや志向的対象といったものではなく,またその他の知覚関係に立てるか定かではないような普遍者ではなく,外界の対象そのものによって説明するという素朴実在論の動機にはうなずけるところがあると言える.とはいえ,これは現象的性格をマーティンのように外界の事物による構成ないし決定と捉えるかそれともそうはしないかという定義の問題になってしまうかもしれない.
3.4.経験の状態に関する選言説――形而上学的選言説(2)
経験の状態に関する選言説とは,真正な知覚と幻覚が,心的状態として同じ種に分類されることを拒否する立場である.真正な知覚と幻覚は基礎的な種類(fundamental kind)が異なる.選言説の分類についての議論が登場するまでは,選言説とはこの種のものが意味されていた.Snowdon(2005)までは,主体にとっての識別不可能性から心的状態の違いという形而上学的帰結を引き出さない立場が選言説だったのだが,今ではそれは特に形而上学的選言説と呼ばれている.「経験の基礎的な種類が何で決まるか」という問いに対しての自然な答えは「現象的性格によって決まる」というものであるため,形而上学的選言説ということで,現象的性格と状態に関する選言説を合わせた立場のことが通常は考えられている.そして,形而上学的選言説の内部での関係については,現象的性格に関する選言説は状態に関する選言説を含意するが,逆は成り立たないということが言える(Haddock and Macpherson 2008, pp.17-18).心的状態が異なるとしても,現象的性格が同じだということは整合的だからである(5).
3.5.経験の証拠に関する選言説――認識論的選言説
経験の証拠に関する選言説は,一般に認識論的選言説と呼ばれているものである.認識論的選言説に関しては,今まで通り否定的な主張と,それ以上のことを主張する肯定的な主張の二つのレベルを区別することができる.
the Negative Claim(French 2016, p.87):真正な知覚と幻覚の正当化は異なる.
[…]二つの合理的立場は種的に根本的に異なる(the two rational standings are radically different in Kind.).(Pritchard 2012, p.16)
否定的な主張は真正な知覚と幻覚において,主体に与えられる正当化が異なると言う(6).この段階ではまだ真正な知覚において与えられているような正当化がどのような性質を持っているかは何も言われていない.肯定的な主張は以下である.
the Positive Claim/the Core Thesis:知覚による知識の典型的な事例において,主体Sがφという知覚による知識を,主体Sのφという信念に対する合理的サポートR――叙実的(factive)(すなわちRが成立することはφを帰結する)であり,Sにとって反省的にアクセス可能(reflectively accessible)でもある――を持つことによって持っている.(Pritchard 2012, p.13)
ここでは信念に対する証拠が叙実的であるということと反省的にアクセス可能であるということとの二つの主張がされている.叙実的(factive)であるとは,正当化が事実を含意するということである.別の言い方をするなら,理由の空間で場を占めていることは阻却不可能である(McDowell 1995).伝統的な認識論では正当化されていることと真であることは切り離されていた.しかし認識論的選言説はそれを否定する.正当化されているのに真でない可能性を認めることは,主体が完全な証拠を持っているにもかかわらず,つねにそれが世界で成り立っていないことを認めることである.それゆえ,主体は懐疑論の脅威に脅かされることになる.認識論的選言説は正当化要件と真理要件は切り離せないと主張することで,懐疑論に対処しようとするのである.また,正当化が叙実的でなければならないという要求は,正当化と外界の状況との客観的なつながりを確保するという外在主義の要求でもある(cf. Pritchard 2012, p.3).
証拠が反省的にアクセス可能(reflectively accessible)であるとは,正当化が与えられている場合に,理由に対して主体がアクセスできるということである.我々が理由の空間の住人として正当化に関するゲームを行っているのだとすれば,自らの理由をそのものとして挙げることができなければならない.これは内在主義の要求である.このようにして,認識論的選言説は正当化の内在主義と外在主義のどちらの利点も掬おうとする立場である.
もし認識論的選言説を取らない場合,真正な知覚の場合であっても,主体がアクセス可能な正当化が間違いうると認めることになる.しかしそれでは,真正な知覚の場合であっても我々の知識が世界そのものに届いていないのではないかという懐疑論に常に脅かされることになってしまう.認識論的選言説は懐疑論への対処として有望な選択肢であり,懐疑論の不安を払おうとする哲学者にとって魅力あるものに思われているのである.
4.それぞれの含意関係
対象,内容,現象学,状態,証拠にそれぞれ関係する5種類の選言説を見たが,それらの間の関係はどのようになっているのだろうか.今まで論じてきたことによると,現象的性格に関する選言説は状態に関する選言説を含意する.しかしそれ以上の含意関係は考えられないだろうか.ここでは,特に認識論的選言説と形而上学的選言説(以下では現象的性格に関する選言説と状態に関する選言説を合わせた立場を指す)との関係に焦点を当てる.認識論的選言説と形而上学的選言説に関係については以下の問いが問題になりうるだろう.
(1)形而上学的選言説は認識論的選言説を含意するか?
(2)認識論的選言説は形而上学的選言説を含意するか?
(1)の問いを4.1節で扱う.(1)の問いには肯定的に答えられる.そしてその逆,認識論的選言説は形而上学的選言説を含意するか?という(2)の問いに対しては肯定的に答えることができるとまではいかないが,認識論的選言説は形而上学的選言説とともに主張することがもっともらしいとは主張する(4.2節).その主張は以下の問いに沿って探究される.
(2-1)認識論的選言説がもっともよく説明されるのは形而上学的選言説が取られたときではないか?
(2-2)認識論的選言説は形而上学的選言説と同時に主張されたときに安全か?
4.1.形而上学的選言説は認識論的選言説を含意する
一般的に形而上学的選言説と認識論的選言説は互いに独立だとされている.片方を主張し,もう片方を主張しないことが可能であると言われている(Snowdon 2005; Millar 2007, p.189; Haddock 2011, p.25, p.39n6; Dorsch 2011, p.307; Pritchard 2012, pp.23-24).そのように考える人が多い理由は,それまで特段区分がされていなかった選言説を形而上学的選言説と認識論的選言説に分類するにあたってのモチベーションが,そのように分類することで負荷の高い形而上学的選言説を受け入れなくても,真正な知覚と幻覚に正当化に関する違いを認められるようにするというものであったからである.「一つの単純で基礎的な経験の種類が,異なった場合に異なった認識論的差異を持てないのか?」というスノードンの反語的な問いかけはまさにこの点を指摘するものだった.特に,マクダウェルの選言説は認識論的選言説であり,形而上学的選言説とは別であるとされ,マクダウェル自身もそれを認めているふしがある(McDowell 2008, p.382n7)(しかしその根拠とされる註は解釈の余地がある.).
他に,形而上学選言説とは切り離された認識論的選言説だけを主張することには,知覚経験の状態・種類については共通要素を認めるため,その立場を知覚の因果説と両立可能にできるという利点がある(7)(Pritchard 2012, pp.54-55).
しかしながら,ByrneとLogueは形而上学的選言説は認識論的選言説を含意すると主張している(Byrne and Logue 2008, p.69).その論証は私の解釈する限り以下のように進む.
(1)幻覚の場合にはセンスデータを見ているというオースティン流選言説を考えよう.そのとき,真正な知覚ではトマトを見ているが,幻覚ではセンスデータを見ている.
(2)ここで「自分の目の前に赤くて球形のものがある」という命題への証拠を考えよう.すると,幻覚では証拠はセンスデータについてのものになるだろう.
(3)しかし,オースティン流選言説において真正な知覚ではセンスデータは存在しないのだから,証拠はセンスデータについてのものではありえない.
(4)それゆえ,真正な知覚と幻覚では証拠が異なる.
(2)のステップでセンスデータについての証拠以外の可能性はないのかという疑問が浮かぶかもしれない.「赤く球形のものがあるように見える」というのでは駄目だろうか.しかしこれに対してはそのようなものから得られる証拠は真正な知覚の場合に十分に良い証拠ではないと指摘されるだろう.真正な知覚においては幻覚の場合と違って,主体に対象が現前している.形而上学的選言説が維持されるなら,この点は尊重されなければならない.そしてそのようなときに主体が知るのは「一般的に赤く球形のもの」についての事実ではなく,あくまでも外界に存在する対象についての事実である.つまり主体は特定のトマトについて赤く球形であると知る.そのような事実を真正な知覚と幻覚に共通な証拠から引き出せると考えるのは誤りである.
以上の議論が正しければ,形而上学的選言説は認識論的選言説を含意するということになる.
4.2.認識論的選言説は形而上学的選言説と同時に主張可能である
それでは,認識論的選言説は形而上学的選言説を含意するだろうか.含意するという論証はないが,そう考えることの自然さに訴える議論はある(Neta 2008, pp.313-314; Pritchard 2012, p.24; Wright 2013, p.256).「なぜ真正な知覚と幻覚とでは認識論的身分が異なるのか」という問いに対しては,「心的状態として違うから」と答えるのが自然だからである.認識論的選言説が形而上学的選言説によって実現されるなら,同じタイプの心的状態がどのようにして正当化の違いをもたらすのかという問いは回避することができる.
しかしそれに対してMitovaは認識論的選言説は形而上学的選言説と一緒に主張されると,動機づけ理由に関する選言説を帰結するが,それはもっともらしくないとして,上の自然さに訴える議論を攻撃する(Mitova 2019).もしこれが正しければ,4.1節の論証により形而上学的選言説は認識論的選言説を帰結するので,形而上学的選言説と認識論的選言説を同時に主張することはできないというMitovaの論証によって,形而上学的選言説を取ることができなくなってしまう.これは形而上学的選言説こそ選言説の実質を成すと考える立場にとって困った事態である.
さて,現代においては理由についていくつかの種類に分類するのが通例となっている(Alvarez 2016).ここで大事なのは規範理由と動機づけ理由の区別である.規範理由とは行為者がそれをすべき(いわば客観的な)理由である.それに対して,動機づけ理由とは行為者の観点から見られた実際に行為を導いた理由である.動機づけ理由と規範理由は異なりうる.たとえば,ペンキを飲みたくてたまらない男がいて,実際にペンキを飲んだとする.このとき,ペンキを飲むべき客観的な理由はない(むしろ健康面を考えるならペンキは飲むべきではない)ので,規範理由はない.しかしそれに対して,男が実際にペンキを飲んだのは飲みたかったからで,つまりはそれを実現させた本人の観点からの理由はある.つまり,動機づけ理由はある.我々が考察するのは知覚によって信念を形成する際の規範理由と動機づけ理由である.
認識論的選言説は規範理由について選言的な説明を与えている.真正な知覚の場合はそれをもとに信念を形成すべき規範理由があるが,幻覚の場合はそのような規範理由はない.さて,動機づけ理由という概念は,理由が形而上学的にどのようなものなのかに関して,そもそも存在論的に中立的なものである.pという知覚による信念に対する動機づけ理由は,pという真正な知覚経験によっても幻覚によっても与えられうる.そこにおいては主体の観点から識別不可能である.そして,認識論的選言説はそれらから得られる正当化に関してしかコミットメントをしていないので,認識論的選言説だけでは動機づけ理由の存在論に対して中立的である.それらが同種のものに属するということは排除されていない.しかし,真正な知覚と幻覚が形而上学的に異なった心的状態に属するという形而上学的選言説も同時に主張されると,認識論的選言説は動機づけ理由の存在論に対して中立的ではなくなり,動機づけ理由に関する選言説を帰結する.というのは,知覚による信念の動機づけ理由となるのは知覚または幻覚なので,真正な知覚と幻覚が存在論的に異なるとすれば,動機づけ理由の存在論的地位が異なるということになるからである.
動機づけ理由に関する選言説:知覚的信念のための動機づけ理由は二つの異なった形而上学的種類からなる.すなわち,動機づけ理由は,主体にとって部分的に外的な叙実的状態である(ないしそれによって提供される)か,主体にとって純粋に内的な非叙実的状態である(ないしそれによって提供される).(Mitova 2019, p.201)
これがまずいのは,真正な知覚と幻覚が交互に現れるような仮想的状況においては,主体の観点からは認識不可能なのに,動機づけ理由がコロコロ変わるということになってしまうからである.たとえば,気まぐれな悪魔がいると仮定しよう.そのような悪魔は主体が知覚する際に介入して,真正な知覚の間に幻覚を挟むのである.目の前に赤いトマトがあるのを見ている主体Sに対して,悪魔は以下のようなスケジュールで幻覚を見させたとしよう.
1:00-1:05 主体Sはトマトを見ている.
1:05-1:18 主体Sはトマトの幻覚を見ている.
1:18-1:25 主体Sはトマトを見ている.
1:25-1:30 主体Sはトマトの幻覚を見ている.
1:30-1:45 主体Sはトマトを見ている.
このようなとき,主体Sの動機づけ理由は真正な知覚と幻覚が切り替わるごとに変わるはずである.だが,動機づけ理由は主体の観点を把握するために必要とされる理由のはずである(Mitova 2019, pp.201-203).主体の観点からすれば一定なのであるから,それとは反対の帰結を導く認識論的選言説と形而上学的選言説の結合はもっともらしくないということになる.
この論証に対して,動機づけ理由についてのデフレ的多元主義を取ればいいという応答が可能なように思われるかもしれない(Phillips 2022, pp.8-10).動機づけ理由についてのデフレ的多元主義とは,行為や信念の理由をあえて一つに限らなくていいという立場である.行為の哲学においては「本当の」理由というものを行為の説明に際して特定しようとするが,この立場はそのような試みをあえてする必要はないのだと主張する.真正な知覚の場合に「p」を理由にするのではなく「pと見える」ということを理由にするのは,語用論的に不適切かもしれないが,間違いであるわけではない.我々の行為はたとえば以下のようないくつもの理由に導かれている.
(火事で逃げるとき)
1. I leave the building because there is a fire.
2. I leave the building because I believe there is a fire.
3. I leave the building because I know there is a fire.
4. I leave the building because I smell smoke.
5. I leave the building because I hear the alarm.
6. I leave the building because I want to stay alive.
7. I leave the building because I am afraid of fire.
このように考えれば,動機づけ理由としてどれが正しいか決める必要はなく,Mitovaの論証は不発に終わることになるだろう.
だがこの応答は,セラーズの「である」の「見える」に対する優越性を引くまでもなく,真正な知覚の場合に「p」のおかげで「pに見える」が真になっているということを過小評価している.多元主義を採用してしまうと理由の間の優越関係をうまく捉えることができない.動機づけ理由に関するデフレ的多元主義は代償の多い立場である.
Mitovaの論証に対しては,そもそも動機づけ理由は認識論的選言説においてあまり重要ではないと応答すべきである.真正な知覚と幻覚が交互に現れるような仮想的状況において,動機づけ理由がコロコロ変わりうる可能性を認めても問題はない.認識論的選言説において重要なのは規範理由である.真正な知覚の場合には事実が主体に直接与えられ,幻覚の場合には単なる現われが与えられるにすぎないということを,与えられる正当化の違いで捉えているからである.認識論的選言説は理由に反省的にアクセスできることを認めるけれども,識別不可能性を認めているので主体の観点から本当にアクセスできているかどうかはわからない.ここにおいて動機づけ理由は役割を果たさないのである.
結論として,Mitovaの論証は脅威にならず,認識論的選言説は形而上学的選言説と同時に主張することができると言える.
結論
本稿では知覚の選言説の暫定的な定式化を与えた後に,それぞれの含意関係を検討してきた.特に,認識論的選言説と形而上学的選言説の関係に注目した.本稿の議論が正しければ,形而上学的選言説は認識論的選言説を含意する.また,認識論的選言説と形而上学的選言説は同時に主張するともっともらしくない帰結が生じるという論証に対しては,反論を提起することができた.それゆえ,認識論的選言説にとって真正な知覚と幻覚では主体が得る証拠とが異なると主張するためには,形而上学的選言説を取るのが自然であるという議論を問題のないものとして重視するならば,認識論的選言説と形而上学的選言説は同時に主張されるべきだという結論が得られる.その意味で,選言説は知覚の哲学の特定のイシューに対する解答として何種類も(それぞれ独立に)考えられるものというよりは,一連の問題に対して統一的な答えを与えていけるリサーチ・プログラムとしての役割を持つものと言えるかもしれない.認識論的選言説も形而上学的選言説もその一側面なのである.
註
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