2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 73-88
はじめに
これまでハイデガーの芸術論はさまざまな仕方で論じられてきたが,なぜ彼が芸術を論じたのかということに関しては,彼の哲学に内在的な視点からはほとんど注目されてこなかったように思われる.多くのハイデガー研究者は,ハイデガーが芸術について論じたということをほとんど自明の事柄として受け取り,論じているのである.
しかし本稿の見るところでは,ハイデガーが芸術論を行なったことは彼の思索において必要な一事であった.つまり,彼は中期1になって何の理由もなく芸術について論じ始めたのではなく,ある哲学的理由があって芸術論を開始したのである.
そこで本稿の目的は,なぜ中期ハイデガーの哲学に芸術論が必要となったのかということを,主に方法論的観点から明らかにすることにある.そうした課題に取り組むにあたって本稿は,従来先行研究が積極的には扱ってこなかったように思われる,前期の彼の哲学的方法概念である「形式的告示(formale Anzeige)」と中期芸術論における「詩作(Dichtung)」との差異に着目する.
確かに,いくつかの先行研究は「形式的告示」と「詩作」との間の関係を示唆しているが,そのほとんどはこの関係について主題的に扱うものではなく,あくまでも両者の関係について示唆をするにとどまっている.Dahlstrom (1994)は,形式的告示と芸術作品(楽譜や台本)との類似性を表面的な仕方で指摘しているが,それらの差異を指摘することができていない.Coriando (1998)は,形式的告示と詩作との差異と類似性を指摘しているが,その主張の文献的根拠に乏しいのに加え,表面的な差異と類似性を指摘するにとどまっている.Pöggeler (1999)とKisiel (2006)は,形式的告示と詩作の関係性をハイデガーの記述から読み取っているが,その差異と類似性を明瞭なものにもたらしていない.Hatab (2016)は,形式的告示と詩作との密接な関係に触れており,また詩作を「実質的告示(material indication)」と呼べるのではないかという興味深い主張をしているが,その主張の文献的根拠を全く明示していない.渡邉(2022)は中後期ハイデガーの詩作的語りもある種の形式的告示なのではないかと提案し,中後期の形式的告示においても意味の充実が目指されていると主張するが,やはりその文献的根拠は明白ではない.
本稿は「形式的告示」と「詩作」の関係や差異を明らかにすることを通して中期ハイデガーの芸術論を従来とは異なる仕方で提示することを試みる.あらかじめ述べておけば,本稿は中期ハイデガーの芸術論を,前期の「形式的告示」という方法によっては捉えることができないものを捉えようとする試みとして読解することを試みる2.
本稿は以下のような流れを取る.第一節では,前期ハイデガーの「形式的告示」という方法と芸術観を概観する.第二節では,中期ハイデガーの芸術論の問題意識,中期芸術論の方法,そして芸術作品の「詩作」概念の内実を明らかにする.第三節では,「詩作」と「形式的告示」との差異を検討することを通じて,なぜ中期ハイデガーの哲学に芸術論が必要になったのかを明らかにする.
1.前期ハイデガーの「形式的告示」という方法と芸術観
前期のハイデガーにとって存在(や事実的生)とは,客観的で静的なものとは区別される動的で生き生きとしたもの(事実的生の存在)であった3.通常私たちはある存在者を同一的な何かとして捉えている.これもあれも何か(例えばボールペン,机,本……)として静的に規定されているのである.しかしながら,私たちはそうした静的なものではない動的なもの,概念的・理論的に規定することによっては把握できないものとも関わり合っている.それが存在者とは区別される存在であるのだが,常に存在の「意味は我々には閉鎖されたままである」とされる(GA24, 18).そのつど私たちは存在と関わっているはずであるのに,存在は自らを完全なものとして規定させてはくれないのである.絶えず抜け去ってしまうこの存在は動的であると言える.この動的な存在へと迫るために前期ハイデガーは「形式的告示(formale Anzeige)」という方法を取った。
あるものが何であるのかということを静的に規定することによっては,生き生きとした動的な存在を捉えることは不可能である.よって,あるものが「何であるか(Was-sein)」(内容意味)を規定せずに,「いかにあるか(Wie-sein)」(関連意味と遂行意味)を最初に示し,その後でその「何であるか」を規定する方向を与える方法が考えられることになる.ハイデガーは1920/21年冬学期講義「宗教現象学入門」(GA60所収)において形式的告示について次のように述べている.
哲学史を見ると,具体的対象的なものの形式的規定が哲学を完全に支配していることがわかる.この先入観を,この偏見をどのようにして防止することができるだろうか.それをなすものこそ,形式的告示である.[……]形式的なものは関連的なものである.告示は,事前に現象の関連を告示しなければならない──それは,否定的な意味では,いわば警告のためである.現象は,その関連意味が宙に浮いたままになるようにして先行的に与えられていなければならない.その関連意味が根源的には理論的なものであると思い込まないように注意しなければならない.現象の関連と遂行は事前に規定されておらず,宙に浮いたままにされている.それは科学とは正反対の態度である.専門分野へと順応することはなく,その逆である.形式的告示は防御であり,先行的な安全装置であり,そのため,遂行性格は自由なままとなる.こうした予防措置の必要性は,事実的生経験の脱落傾向から生じて来る.こうした傾向は常に客観的なものへと滑り落ちる恐れがあるが,我々はその傾向から現象を取り出さなければならない.(GA60, 63f.)
引用から,形式的告示は,私たちの動的な事実的生の経験を客観化してしまうことから守るための予防措置的な仕方で哲学的対象を指示する方法であるとわかる.まとめれば,形式的告示とは,「何であるか」(内容意味)を空虚にし,「いかにあるか」(関連意味と遂行意味)の規定の指示方向を示しておくことで,存在の動性を客観化することを禁止し,防御する哲学的方法なのである.また,形式的に告示されるものは,告示された規定方向を哲学が遂行することによって最終的には「充実」されるものであると考えられている(GA61, 33)4.
形式的告示は1929/30年冬学期講義「形而上学の根本諸概念」(GA29/30)の頃までハイデガーの方法を規定し続けたとされる5が,それは彼の主著である『存在と時間』においても例外ではない.例えば齋藤(2012)や渡邉(2014)は『存在と時間』を含めた前期ハイデガーの哲学を形式的告示的解釈学として描き出している.『存在と時間』に登場する「現存在」や「実存」といった諸概念は,内容の充実の可能性を示唆するにとどまる形式的告示的な概念であり,現存在はそのつどの文脈においてそうした概念の内実を充実させ,規定していくのである6(vgl. SZ, 43).
このように前期ハイデガーは,存在が形式的告示的概念によって示され得ると考えていたと言える.つまり前期の彼によれば,結局のところ存在の動性は,形式的告示という特殊な仕方ではあるにせよ,最終的には十全に指示できるということになるだろう.前期ハイデガーは,存在について何か充実したものを最終的には取り出すことができると考えていたということ,このことに注目しよう.存在についての規定が最終的には充実され得るのであるとすれば,ここには,何かを静的に捉える傾向が依然として認められるのではないだろうか7.最終的にではあるにせよ,存在についての規定が一度充実されてしまえば,その規定はその後──少なくとも充実した当人にとっては──永遠に妥当し続けるものとなるだろう.すなわち,哲学はそこで役目を終えるわけである.後に見ることになるが,中期以降のハイデガーはこうした考え方を改めることになる8.
さて,前期ハイデガーはいかなる芸術観を持っていたのだろうか.中期芸術論との対比を容易なものにするために,中期になって大々的に芸術論を展開する前の彼の芸術観をここで明らかにしておく.1925/26年冬学期講義「論理学──真理への問い」(GA21,以下『論理学』と略記)を見る限りでは,前期のハイデガーの芸術観は,芸術作品とは,表したい存在者の「いかにあるか」の概念に形像を提供することでその概念を感性化し呈示する(「形像的呈示(bildliche Darstellung)」)存在者である,というものであると言える(vgl. GA21, 364).注目すべきは,この講義でハイデガーは,芸術作品に模写的な機能を認めていることである.芸術を,何らかのものを感性的に模写・呈示するものであるとしている点で,前期ハイデガーは表象主義的であると言える.
また,1921/22年冬学期講義「アリストテレスの現象学的解釈──現象学的研究入門」(GA61)では哲学と芸術の対比がされているが,そこでハイデガーは,芸術よりも哲学にある種の先行性を認めている(vgl. GA61, 48).
こうした,表象主義的な考え方と,芸術に対して哲学は先行するものであるという考え方を,中期ハイデガーは捨て去ることになる.
2.中期芸術論における問題意識,方法,「詩作」
中期に至ってハイデガーは芸術について積極的に論じ始める.周知のように『存在と時間』では存在を問うために,存在を理解している唯一の存在者である現存在という範例的存在者から分析が始められていたが,それに対して中期芸術論では芸術について思索するために,芸術を了解しているように思われる現存在から分析を始めるのではなく,実際の芸術作品について分析を行っている.本節では,こうした彼の芸術論の問題意識がどこにあったのか,また彼はいかなる方法で芸術を論じているのかについて明らかにし,その後芸術作品の「詩作」概念の内実について検討する.
2.1.中期芸術論の問題意識と方法
前節で見た,前期ハイデガーの考えていた「何であるか」(内容意味)と「いかにあるか」(関連意味と遂行意味)は,中期ハイデガーの芸術論ではどのように引き継がれているのだろうか,あるいは引き継がれていないのか.本項ではその点を中期芸術論における「本質」と「根源」という概念を手掛かりに検討する.それにより,中期ハイデガーの芸術論の問題意識を明らかにすることを試みる.
『芸術作品の根源』(GA5所収,以下『芸術作品』と略記)冒頭では次のように言われている.
根源(Ursprung)とはここでは,ある事柄が何であるか(was sie ist)といかにあるか(wie sie ist)ということが,それからかつそれによって存在しているところのものを意味している.我々は,あるものが何であるか(was etwas ist)ということとそれがいかにあるか(wie es ist)ということを,そのものの本質(Wesen)と名付ける.あるものの根源とは,そのあるものの本質の由来である.(GA5, 1)
このように中期芸術論においても,前期で特徴的だった「何であるか」と「いかにあるか」の両意味方向は使用されている.それらがあわせて「本質」9と呼ばれている10.注目すべきは,「何であるか」と「いかにあるか」をあわせて「本質」とした上で,その「本質」の「由来」をハイデガーが問おうとしていることである.
芸術作品と芸術家との根源は芸術である.根源とは本質の由来であり,そこにおいて存在者の存在は本質現成する(west).(GA5, 44f.)
芸術は真理を発源させる.芸術は創設しつつ見守ることとして作品の中で存在者の真理を跳び出させる.あるものを跳び出させること,本質の由来から創設しつつ跳躍することによって存在へともたらすこと,このことこそが根源という語の意味するところである.(GA5, 65f.)
中期ハイデガーはもはや,「何であるか」と「いかにあるか」という意味方向の内部だけを動く存在論を展開していない.引用からもわかるように彼は,芸術についての思索を通じて,「何であるか」と「いかにあるか」,すなわち「本質」の由来である「根源」に迫ろうとしている11.前期とは次元が異なる議論を試みているのである.「根源」があってはじめて,「何であるか」と「いかにあるか」という両意味方向の相互の動性は機能することができる.
前期の芸術における「形像的呈示」では,芸術作品においては「いかにあるか」の概念が感性化され呈示されるとされていたに過ぎない.それに対して中期芸術論では,「何であるか」と「いかにあるか」の動きの由来,すなわち存在の根源的動向への思索が試みられている.中期ハイデガーが芸術に関して注目しているのは,芸術作品が何かを模写したものであるという点ではなく,芸術家が作品を創作することによって「何といかに」が「はじめて原存在として展開され」るという点なのである(GA39, 202).前期とは異なり,中期ハイデガーは芸術について表象主義的な考え方を取っていないのである.
このように見てくると,中期芸術論においては,「何であるか」と「いかにあるか」という両意味方向は前期に引き続いて使用されている一方で,問題意識の大きな変化を見て取ることができないだろうか.その変化とは,「何であるか」と「いかにあるか」,すなわち「本質」の次元の内部での思索から,その次元の「根源」を問う思索への変化である12.
とは言え,こうした前期から中期への変化は,中期ハイデガーにおいて形式的告示の方法が放棄されていることを意味していない.『芸術作品』や1934/35年冬学期講義「ヘルダーリンの讃歌『ゲルマーニエン』と『ライン』」(GA39,以下34/35年ヘルダーリン講義と略記)の両前半部で行われている質料−形相概念や内容−形式概念の解体作業などは,これまでの哲学が何の批判もなしに使用してきた概念の「何であるか」(内容意味)を一度無規定なものにし,新たに再考しようとする形式的告示的な姿勢と捉えることができるからである.『芸術作品』や34/35年ヘルダーリン講義の両前半部で行われていることは確かに前期の現象学的解体や形式的告示を思わせる記述であり,それを否定することはできないように思われる.中期芸術論においても形式的告示的方法は使用されていることは認めなければならないのだ13.中期においても形式的告示はハイデガーの思索にとって必要な方法であったのである14.
しかし,形式的告示を使用する意味は前期とは全く異なるものである.前期において形式的告示は,存在(事実的生)の動性を捉えるために使用されていた.「何であるか」(内容意味)をはじめに規定してしまうのではなく,「いかにあるか」(関連意味と遂行意味)から規定し,そこからそのつどの実存に合わせて「何であるか」を規定していくことで,実存のそのつどの動性を捉えようとしていたのである.ところが中期芸術論における形式的告示的記述にはもはやそのような役割は与えられていない.与えられているのは,これまでの哲学が使い古してきた既成の概念を「根源」へと再考する契機としての役割のみである.この役割は前期にも与えられていたが,中期になるとこの役割のみを担うようになっている.前期の形式的告示は,実存の動性を十全に捉えるのには十分なものであったかもしれないが,存在の根源的動性を捉えるのには不十分であったのである.
より詳しく考えてみよう.形式的告示によって,充実されるべき方向が指し示されることは前節で確認したが,本稿の見るところでは,中期の形式的告示では,根源へと再考を促すという点で何らかの方向を指示する機能を有しているように見えるが,その指し示された方向の充実は見込まれていない.詩作は,「発源するものがそこから発源してくるところとしての根源」と,「発源していることにおける発源したものそのもの」の両方を含意する「純粋に発源されたもの」を開示するとされるが(GA39, 247),そうした「純粋に発源されたもの」は「謎(Rätsel)」ないし「秘密(Geheimnis)」であるとされる(GA39, 240f.).ハイデガーは,こうした「謎」ないし「秘密」を「理解すること(Verstehen)」の重要性について述べているが(GA39, 246f.),それによって最終的にその「謎」が十分に説明ないし解明されることが目指されているわけではない.というのも,そうした「理解すること」は,「説明し得ぬものをまさにそのままにしておくこと(läßt stehen)」であり,「日常的・計算的処理の意味ではどうしてよいかわからないものとして,謎を解放すること(loslassen)」(GA39, 247)であるとされており,それゆえに,充実されないままにしておくことが強調されているからである.前節では,前期の形式的告示は,告示されたものの最終的な充実を見込んでおり,そこにはある種の理論化傾向が見られるということを指摘したが,充実されない方向を指示する中期の形式的告示は,前期の形式的告示以上に存在の動向に寄り添うものとなっていると言えよう.
中期における,「本質」の「根源」への再考を促す形式的告示は,前期の形式的告示と区別して〈根源への形式的告示〉と呼ぶことができる.この〈根源への形式的告示〉は,「本質」の「根源」への方向を指し示しつつ,諸概念の内容を一度無規定なものにし,「根源」から逸れてしまうことのないように防御する.その際,そうした指示方向の充実は見込まれていない.それに対して,前期における形式的告示は〈本質内部における形式的告示〉と呼ぶことができる.こうした命名は,次節で形式的告示と詩作の差異や関係性を考える上で役立つことになるだろう.形式的告示と詩作の差異や関係性を問うといっても,前期と中期とでは異なる形式的告示が行われているのであり,最終的に本稿はこれら三者の差異や関係性を明らかにしなければならない.
2.2.「本質」の「創作」としての「詩作」
34/35年ヘルダーリン講義においてハイデガーは,詩人(Dichter)について詩作する者であるヘルダーリンの詩作(Dichtung)から,詩人や詩作の諸性格を明らかにしようと試みている.ハイデガーによれば,詩人は,「神の電光」ないし「言語(Sprache)」を15受け止め,それを人間の言葉へともたらし,その言葉を「民族の現存在の中に置き入れることを使命とする者」であるとされる(GA39, 30f.).そして,次のように言われる.
詩作とは永続するものの創設(Stiftung),つまり永続するものを実現する基づけである.詩人とは原存在(Seyn)を基礎づける者(Begründer)である.[……]神々の合図が詩人を通じていわば民族の言語の土台壁の中に埋め込まれることで,おそらくはじめ民族はこのことに気づかないだろうが,民族の歴史的現存在のうちに原存在が創設され,この原存在の中に指示と指針が入れられてその中で保存される.(GA39, 33)
つまり,詩人の詩作によって,歴史的現存在において永続して機能するものが創設されるのである.詩人は,私たちが日常的に使用する言葉を創設する者として考えられているわけである.それゆえ,詩作されたものは「民族の原言語(Ursprache)」(GA4, 43; GA39, 217)とも言われる.創作者である詩人は詩作することにおいて,未だ発源したことのない「根源的根源」を聴き,それを言うのであり,そうした言うことを通じてはじめて根源的「何」が「立て置」かれるとされる(GA39, 201ff.).
前節では,中期芸術論におけるハイデガーの哲学的関心が「本質」(「何であるか」と「いかにあるか」という意味)の「根源」にあるということを見たが,いまや明らかなように,彼は「詩作」を,「本質」の「根源」を「創設」することであると考えていたのである.こうした「根源」の「創設」たる「詩作」を,「実質的告示」(Hatab 2016, 8)のように単に具体的なものによる指示と捉えようとすることは短絡的ではないだろうか.というのは,「根源」があってはじめて具体的なものや形式的なものについての語りが可能になるはずだからである.
3.なぜ中期ハイデガーの哲学に芸術論が必要だったのか
──「形式的告示」と「詩作」の差異を手掛かりとして──
本節では,これまでの成果を踏まえて,本稿の目的であった,中期ハイデガーが積極的に芸術について論じるようになった哲学的理由を明らかにすることを試みる.
次のような問いから始めてみよう.中期ハイデガーが前期よりも根源的なものに迫ろうとしているのは先に見たが,前期ハイデガーの「時間性(Zeitlichkeit)」や「テンポラリテート(Temporalität)」といった哲学的概念は少なくとも前期の彼の思索においては根源的なものと考えられていたはずであるが,これは,前期と中期とで根源的なものの意味が変化したということを意味しているのだろうか.こうした問いは,前期ハイデガーの哲学を知る者ならば当然抱く問いであろう.確かに前期の彼は「時間性」ないし「テンポラリテート」を根源的なものとして捉えていた.そのことを本稿は否定するつもりはない.例えば哲学史的に見ても重要な事柄である「個別性」に関しても,前期ハイデガーはそれを「時間性」に由来すると考えていたほどである16.そうした前期において根源的なものとして捉えられていた概念について本稿がここで試みたいのは,前期の彼の根源的なものについての議論を,中期の彼の根源的なものについての思索から捉え直すことである.
前節で見たように,中期ハイデガーは芸術の内に根源的なものを見出していた.ところで,彼によれば,「あらゆる芸術は,存在者それ自体の真理の到来を生起させることとして,本質においては,詩作である」(GA5, 59).ハイデガーにおいてあらゆる芸術は,「真理」を生起させるものである点で,「民族の原言語」を創設する「詩作」なのである17.「民族の原言語」が創設されることで存在が創設されるのであり,そうした創設によってはじめて人間のあらゆる語りが可能になるのだった.そうだとすれば,既成の言語を用いて思索する哲学者の言説もまた,「原言語」に全てを負っているはずではないだろうか.現にハイデガーは,「哲学は,偉大な詩作の気分的に転調された(umgestimmte)残響に過ぎない」(GA94, 22)のであり,「思索家(Denker)」は「詩人が先行的に詩作したものを追思索する」(GA94, 299)と述べている.「時間性」や「テンポラリテート」といった概念も「原言語」の創設によってはじめて存在できるのであり,問い,語ることが可能となる.こうしたことをPöggeler (1999)は,「思索は思い上がって聖なるものを名付けること(Nennen)はできない.思索にとっては存在についての語りを展開することが依然として課題である」(Pöggeler 1999, 36)とまとめている.こうして最初の問いに答えることができたことになるだろう.さらに,前期において「個別性」が「時間性」に帰されていたことを思い出すならば,中期ハイデガーは,その「時間性」もまた「原言語」に全てを負っている限りで,「個別性」を「原言語」としての芸術に由来するものであると考えるようになったとも言えるだろう.
また中期ハイデガーは,前期の彼の哲学の根源を芸術の内に見出そうとしていたと言うことができ,彼が芸術論を行なった理由の一つとして,哲学の根源を芸術のうちに見出そうとしたから,と答えることも許されよう.現に彼は34/35年ヘルダーリン講義において,哲学に対する芸術の先行性を認めている.
根本気分,すなわち民族の現存在の真理は,詩人によって根源的に創設される.このようにして露わにされた存在者の原存在が原存在として把握され,接合され,そしてそれによってはじめて開示されるのは,思索家によってであ[る].(GA39, 144)(角括弧内・木下)
人間の歴史的現存在は,詩人が先に経験してまず言葉(Wort)に包み,そうして民族の中に立て置いた原存在によって根底から担われ,導かれる,と[ヘルダーリンの詩は]言っている.この出来事を我々は一つにまとめて,詩人は原存在を創設する,と言う.(GA39, 184)(強調,角括弧内・木下)
つまり,詩人=芸術家によって創設されたものを把握し,接合し,開示することが思索家の務めであるとされていることになるだろう18.こうしたことを踏まえれば,次の記述も理解することができる.
芸術先品の根源,つまり同時に,民族の歴史的現存在のことを意味する,創作する者たちと見守る者たちの根源は,芸術なのである.そうであるのは,芸術がその本質において根源であるからである.つまり,芸術が,真理が存在するようになる,つまり歴史的になる卓越した仕方であるからである.(GA5, 66)(強調・木下)
ここでは,民族の歴史的現存在の根源が芸術であるとされており,芸術に比類ない地位が認められている19.第一節で見た,前期ハイデガーにおける芸術に対する哲学の優位は逆転されているのであり,彼の芸術に対する態度は前期と中期とで大きく転回していると言える.
では,思索は詩作=芸術の従者でしかないのだろうか.本稿はこの問いに答えることで,思索と詩作との間の関係性を考察することを通して,中期ハイデガーが芸術論を行なった理由を一層明らかにすることを試みる.
思索と詩作の関係は非常に複雑なものである.先行研究を見ても,両者の関係についての確固とした見解があるようには思われない.小林(2022)のように両者を完全に切り離してそれぞれの特異性を強調する解釈もあれば,斎藤(2004)のように両者を同一視する解釈もある.本稿が取る解釈は,そのいずれでもなく,思索と詩作との間には類似性と差異のいずれもがあると捉え,また両者は互いを必要とし合う関係にあるというものである.
先に見たように,思索は詩作による原言語の創設を必要としているのだった.原言語なしには思索は語ることができないからである.しかし他方で,詩作も思索を必要としている.詩人によって創設された原存在を原存在として開示するのは思索だったからである.だが原存在を原存在として開示するという思索の役割とは何であろうか.ハイデガーによれば,詩作によって名付けられた存在は,「秘密」においてあり,「本質的には覆蔵されたものであるので,たとえ名付けられ言われた場合でも」,「それは捉え難く,保持することは一層難しい」ものであるが,「本質的な思索」はそれを耐え抜くことができる20(GA39, 286f.).これこそ,原存在を原存在として開示することなのである.思索の役割は,詩作によって名付けられた存在を根源的に保持し,開示することであると考えられているのである.こうした役割は,二節で見た〈根源への形式的告示〉と同様のものではないだろうか.思索は,詩作されたものを問い,根源的に保持することで詩人の原言語が頽落的な語りに陥らないように守る存在なのである(vgl. GA39, 64).存在が覆蔵することに対しては,「十分ならざる仕方で問うことが,唯一のふさわしい近さであり続ける」(GA65, 95)のであり,そうした問うことは,「合図し続けること(Weiterwinken)」(GA65, 4)である21.こうしたことから,前期と中期の形式的告示の差異は以下の点にあると言えるだろう.すなわち,前期の〈本質内部における形式的告示〉は,存在について告示された規定が充実されることで役目を全うし終えるのに対して,中期の〈根源への形式的告示〉は,いつまでも原存在を原存在として保持しなければならないが故に,いつかどこかで終わるということがあり得ない不断の試みであるという点にあると言えるだろう.そして,〈根源への形式的告示〉と詩作は,どちらも「根源」との関わりを持つ点で類似性を持つ.
思索(〈根源への形式的告示〉)と詩作の関係を簡潔にまとめるならば,詩作は存在を創設し,思索は創設された存在を根源的に開示するのだと言える22.「存在の思索は言葉(Wort)を守り(hütet),そしてそのように守ることの用心深さの中でその思索の天命を果たす」(GA9, 311)のである.思い返せば,中期以降のハイデガーの思索の根本語の多くが,芸術作品由来のものであることは,こうした思索と詩作との関係を実証するものとなるだろう.「性起(Ereignis)」,「世界」と「大地」,「四方界(Geviert)」,「歴史的運命(Geschick)」,「原初」,「回想(Andenken)」,「通り過ぎ(Vorbeigang)」などの語はいずれも芸術作品についての考察から取り出されてきたものである.それらを思索は問いに値するものとして「根源」へと問わなければならない.すなわち,〈根源への形式的告示〉を行わなければならない23.芸術家に先行的に詩作=創設してもらってはじめて,思索家は存在についての語りを展開することができるのであり,詩作なしに存在の(意味の)思索はあり得ないのである.
形式的告示と詩作の差異と類似性に関して簡潔にまとめてみよう.前期の〈本質内部における形式的告示〉と詩作は,全く次元の異なるものである.そもそも〈本質内部における形式的告示〉は「本質」の「根源」へのパースペクティブを欠いており,それが示すものはあくまでも「本質」(意味)であるが,詩作が指し示すのは「根源」である.中期の〈根源への形式的告示〉と詩作は,共通項を持ちながらも,やはり異なるものである.〈根源への形式的告示〉は,詩作された「原言語」を「根源」へと不断に問い返すものであるのに対して,詩作は,〈根源への形式的告示〉が問うところのもの,すなわち「原言語」をそもそも創作するものなのである.両者は,「根源」との関わりを有するという点で確かに共通しているが,詩作はより先行的であるという点で異なるのだ.
さて,思索と詩作との関係が明瞭になったことで,徐々に芸術を論じる中期ハイデガーの意図も見えてきた.これまでの成果を踏まえて本稿は,中期になって芸術論が展開されたことを,中期ハイデガーがあらゆる「本質」──そこには,「何であるか」と「いかにあるか」という意味方向を前提にしていた彼の前期の哲学そのものが含み込まれている──の「根源」への思索を行うようになったことと相関して行われたものであると解釈する.前期ハイデガーが形式的告示を行うにあたって用いていた「何であるか」と「いかにあるか」の両意味方向の「根源」への彼の関心からして,詩作という根源的創設を論じることは必然的なものであったと言える.中期ハイデガーの芸術論は,前期の〈本質内部における形式的告示〉では捉えることのできない「根源」への思索のために必要な一事だったのである.
ただし,古荘(2002)も指摘しているように24,『存在と時間』においても詩作的な語りに固有の可能性が確かに次のように示唆されてはいた.「情態性(Befindlichkeit)の持つ実存論的可能性の伝達(Mitteilung),つまり実存の開示は,「詩作する」語り(Rede)に固有の目標となり得る」(SZ, 162).そのため,前期ハイデガーが芸術に対して何らかの希望を抱いていなかったとまでは言えないということだけは指摘しておきたい.だがそうであったとしても,少なくとも前期において芸術について議論を展開する必要がないとハイデガーが考えていたことは確かであろう25.というのも,芸術への言及が前期においてはほとんどなされていないからである.また,『存在と時間』では先の引用からもわかるように,あくまでも詩作の持つ「伝達」の側面(「伝達」による「開示」の側面)が捉えられていたに過ぎず,中期以降で思索されることになる,詩作の持つ,存在の「創設」の役割は全く捉えられていなかったということも指摘しておきたい.前期のハイデガーにおいては「創設」する/されるまさにその時は重要ではなく,その代わりに,すでに「創設されたもの(Geschaffene)」(SZ, 174)がいかにして機能するようになるのか,頽落的語りとしてまかり通るようになるのか,といったことが主な関心事であったのである.中期の思索から遡って眺めてみると,前期の彼はその地点までしか関心を示していないということがわかる.後年になってハイデガーは,詩作的語りについての言及がある『存在と時間』の先の文に対して,「詩作は,実存論的可能性を伝達する=共に分かち合う(Mit-teilung)だけのものではないのだ.そうではなくて,原存在の創設[……]である」(GA82, 89)と自己批判しているが,これは,中期における彼の問題意識の変化を如実に表していると言えるであろう.
おわりに
本稿は,中期ハイデガーの哲学になぜ芸術論が必要になったのかということを,主に,前期の形式的告示という方法との関連から検討してきた.検討を通して,彼の芸術に対する態度や彼の思索の向かう先が中期に至って大きく変化していたということが明らかになった.そして,中期芸術論は「本質」の「根源」への彼の哲学的関心の変化と相関的に試みられたものとして解釈できるということが示された.前期の「形式的告示」(本質内部における形式的告示)では捉えることのできない「根源」への思索のために,中期芸術論が必要だったのである.
註
しかし,『存在と時間』とそれに続く著作におけるこれまでの試み,すなわち真理のこの本質を,表象定立や言明の正しさに対抗して,現-存在それ自体の根拠として貫通させようとする試みは,不十分なままにとどまらざるを得なかった.なぜなら,これらの試みは,未だなお防御から遂行されているからであり,したがってやはりそれに対して防御されるべきものを常に照準として持ち,そのようにして,真理の本質を根底=根拠(Grund)から知ることを不可能にするからである.そうした根底=根拠として真理の本質それ自体が本質現成する.この本質現成が成功するには,[……]従来のものから原存在の真理への道が一歩一歩開拓され得るだろうという意見によって,原存在の本質について言うこと(Sagen)をこれ以上押しとどめてしまわないことが必要である.(GA65, 351f.)
このように,「防御」から「遂行」される形式的告示に対して自己批判が行なわれているが,しかしここでは前期の自らの思索が「不十分」であったと言われているに過ぎず,形式的告示が不要であるとまでは言われていない.二節以降で見るように中期にもハイデガーは形式的告示を行なっている.形式的告示的思索と非形式的告示的思索との共存が何を意味しているのかということについては今後の課題としたい.
また,ハイデガー全集102巻における後期の記述には,明確に形式的告示を自己批判している箇所がある.そこでは,形式的告示が「プラトニズムの名残」であり,「普遍的妥当的で超時間的な自体(An sich)」を欲するものだったのではないかということ,そして形式的告示には「学的な妥当性と拘束性への狙い」が依然としてあるということが言われている(GA102, 59).だが中期における形式的告示は,ここで批判されているようなものではなくなっており,そうした普遍妥当的なものへの探求の意味合いを全て捨て去ったものであるということを二節以降で見ることになる.それゆえ,この全集102巻で批判されているのはあくまでも前期における形式的告示に対する批判であるとみてよいだろう.
またCoriando (1998)も,中期以降のハイデガーの考えていた思索が防御機能を持っており,形式的告示的性格を持っていることを指摘している.Vgl. Coriando (1998), 37ff.
また,1927年夏学期講義「現象学の根本諸問題」(GA24)では,詩作の世界開示機能について触れられているが,そこでもそれについて詳述されることはない.Vgl. GA24, 244-247.
参考文献
◯ ハイデガーの著作
『存在と時間』については略記号SZの後に頁数を,『ハイデガー全集』については略記号GAの後に巻号と頁数を括弧に入れて記した.本文中の訳は適宜邦訳を参照した私訳である.
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GA5: Holzwege, hrsg. Friedrich-Wilhelm von Herrmann, 1977.
GA6.1: Nietzsche Ⅰ, hrsg. Brigitte Schillbach, 1996.
GA9: Wegmarken, hrsg. Friedrich-Wilhelm von Herrmann, 1976.
GA20: Prolegomena zur Geschichte des Zeitbegriffs, hrsg. Petra Jaeger, 1979.
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GA29/30: Die Grundbegriffe der Metaphysik. Welt - Endlichkeit - Einsamkeit, hrsg. Friedrich-Wilhelm von Herrmann, 1983.
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GA52: Hölderlins Hymne »Andenken«, hrsg. Curd Ochwadt, 1982.
GA60: Phänomenologie des religiösen Lebens, hrsg. Matthias Jung/ Thomas Regehly/ Claudius Strube, 1995.
GA61: Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles: Einführung in die phänomenologische Forschung, hrsg. Walter Bröcker und Käte Bröcker-Oltmanns, 1985.
GA65: Beiträge zur Philosophie (Vom Ereignis), hrsg. Friedrich-Wilhelm von Herrmann, 1989.
GA82: Zu eigenen Veröffentlichungen, hrsg. Friedrich-Wilhelm von Herrmann, 2018.
GA94: Überlegungen Ⅱ-Ⅵ (Schwarze Hefte 1931-1938), hrsg. Peter Trawny, 2014.
GA102: Vorläufiges Ⅰ-Ⅳ (Schwarze Hefte 1963-1970), hrsg. Peter Trawny, 2022.
◯ その他の著作
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