Inquiries into Philosophy
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2024 Volume 2024 Issue 51 Pages 89-101

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0.本論文の目的

本論文の目的は,環境保護運動に大きな影響を与えた「ディープ・エコロジー」の提唱者アルネ・ネス(1912‐2009)の思想と,『責任の原理』を著したハンス・ヨナス(1903‐1993)の思想を比較することによって,自然に対する人間の責任を両者がどのように基礎づけようとしたのかを考察し,その着眼点の相違を際立たせることにある.この作業によって,環境倫理の本質的な課題を抉り出し,環境危機に際してわれわれが為すべきことは何か,という問題を考える手がかりを得ることができるだろう.さらに本稿では,ヨナスの構想する倫理学が,ディープ・エコロジー思想の「実践論的アポリア」(第2節参照)を突破し,環境倫理における人間中心主義と非人間中心主義の対立を調停する可能性をもっていることも指摘したい.

環境危機の緊急性については,いまさら述べるまでもないだろう.ここでは環境倫理の重要性について簡潔に触れるにとどめたい.たとえば,哲学者であり環境倫理を日本に紹介した人物でもある加藤尚武は,「何を目標とするかは倫理問題である.どの目標が到達可能であるかは技術問題である.技術は一般に選択可能性の幅を広げる.倫理とは選択可能なもののなかから最善のものを選択する方法である」1と述ベている.この言葉からすでに明らかなように,われわれは技術それ自体に解決の道を委ねるわけにはいかないし,またそうすることもできない.なぜなら,技術をどう用いるかを決めることこそ,まさにわれわれに課せられた役割だからである2.だからこそ,甚大な影響力をもったわれわれの技術を律し,持続可能な未来を切り開いていくために,環境倫理が演じる役割は重要なものになると思われる.

以上のような課題のもとで,本稿ではまずディープ・エコロジーの内容を概観し(第1節),続いてディープ・エコロジーに対して向けられている批判を検討する(第2節).次に,ディープ・エコロジーの抱える課題から出発して,ディープ・エコロジーとヨナスの思想の相違点を明らかにしつつ,後者が前者の課題を克服する可能性を有していることを指摘する(第3節).そして最後に,本稿の議論を踏まえたうえで,ヨナスの倫理学の意義と問題点を確認し,今後の展望を提示する(第4節).

もっとも,本稿はその性格上,ネス(ディープ・エコロジー)とヨナスの両思想を,あくまで一側面から照射するのみにとどまっている.実際には,両者の思想は本稿で触れる内容だけでなく,エコロジー運動や環境教育,生命倫理など,実践的にも非常に広範な射程をもち,影響を与え続けているように思われる.それぞれの立場の実践的な意義やその影響については,他日を期し,改めて検討することにしたい.

1.ディープ・エコロジーの概要

「ディープ・エコロジー」という文言が初めて登場するのは,ノルウェーの哲学者アルネ・ネスによる論文「浅いエコロジー運動と深く,長期的なエコロジー運動」(1973)である.同論文において彼は,従来のエコロジー運動(ネスの用語では「浅いエコロジー運動」)を「先進国の人びとの健康と豊かさ」のために「汚染や資源枯渇とたたかう」ものであるとし,広範にわたる環境危機に対応するためには,より包括的な「深いエコロジー運動(The Deep Ecology movement)」が必要であるとの見解を示した3.ネスによれば,同論文の主張は以下の三点である.「第一に,深いエコロジー運動の規範や性向は心に生じるべきものであり,生態学の理論または帰納的結論に由来するものではない」こと.「第二に,深いエコロジー運動[…]が明瞭かつ力強く基準を打ち立てたことの真価」を十分に認めるべきであること.そして「第三に,エコロジー運動が[…]生態学的というよりむしろ環境哲学的」であるということ.

上のネス自身による要約から,ディープ・エコロジーは「直観的」であり,科学的であるというよりは「哲学的」である,という特徴が引き出せる.約言すれば,ディープ・エコロジーという思想は,直観的に自分が他者との連関のなかで生きていると自覚することによって,生態系中心的な価値観を獲得することを目指す立場である,と言えるだろう4.では,このような自覚はどのようにして為されるのか.

ネスの研究を引き継いだビル・デヴァルとジョージ・セッションズは,ディープ・エコロジーの主張を「自己実現(self-realization)」と「生命中心的平等(biocentric equality)」の2点にまとめている.ここで,それぞれの術語がどのような意味で用いられているのかを簡単に見ておこう.

まず「自己実現」について,デヴァルらは次のように述べる.

自己実現というディープ・エコロジーの規範は,西洋近代の自己――主に快楽主義的な満足感を得ること,あるいは現世か来世において,狭い意味での個人的な魂の救済に励む隔離された自我として定義される自己――を超えるものである.[…]精神的成長あるいは発展(unfolding)は,われわれがわれわれ自身を,隔離され狭く競い合う自我として理解することをやめ,家族や友人から最終的には種としての人類に及ぶまで,他者とともにあることを認める(identify)ことで始まる.だが,ディープ・エコロジーの意味する自己は,さらなる成熟と成長を要求する.それは,人間を超えた,非人間世界をも包括した一体化5(identification)である6

ディープ・エコロジーにおける「自己実現」は,端的に言って,「自然との一体化」を自覚することである.この一体化は,たとえば,生き物と自分を同一視し,同情(compassion)や感情移入(empathy)することによって達成される7.デヴァルらが述べるように,ディープ・エコロジーにおける「自己実現」とは,各々がもつ可能性を実現していくことである.ところで,生態系においてはあらゆる有機体が相互に連関しているのだから,同情や感情移入などを通して他者との関係に着目することは,すなわち自分自身を見つめ直すことでもありうる.これが,ディープ・エコロジーが言う「自己実現」の内実である.

次に「生命中心的平等」について,デヴァルらは次のように説明する.

生命中心的平等の直観とは,生命圏のすべてのものは生きて開花し,またそれぞれの発展形態に到達して,より大きな自己実現(Self-realization)のうちで自己を実現する権利を等しく有しているという直観である.この基本的な直観は,相互に連関した全体のなかの一部としての生態圏において,すべての有機体および存在は本質的価値(intrinsic worth)が等しいということである8

ここで,「より大きな自己実現」,すなわち「大文字の自己(Self)を実現する」とは何を意味しているのだろうか.それは,たとえばネスの次のような言葉を参照することによって,より明確になるだろう.『エコロジー・共同体・ライフスタイル』(1989)において,彼は「『自己実現(Self-realization)』のなかの大文字Sは重荷を背負っている.〔なぜなら〕それは『ギーター』の6章29行と同様,同一性(oneness)の哲学を示唆している〔からである〕」9と述べている.そこで『ギーター』の該当箇所を参照すると,そこでは次のように言われている.「ヨーガに専心し,一切を平等に見る人は,を万物に存在すると認め,また万物を自己のうちに見る」10.ネス(あるいはディープ・エコロジーの立場)に引きつけて解釈すれば,ここで主張されているのはおそらく,西洋近代の自我(ego)を超えた,万物に通底するような自己(Self)を,「一切を平等に見る」ことによって直観する,ということになるだろう11

ネスによれば,生き物への共感や生態学的直観によって自己(self)の意識を獲得すると,やがて「Aの自己実現がBの自己実現に依存する」12ようになる.すると,「自分自身を傷つける」ことは「自分以外の自然」をも傷つけることをも意味するようになり,自分と自然物とのあいだの「境界は存在せず,すべてが相互に関係している」と感じることになる13.このようなプロセスを通して目指されるのが,「生きよ,そして生きさせよ(live and let live)」という格率によって表現されるような,「全生態圏における階級のない社会(class-free society)」を実現することにほかならない14

以上,ディープ・エコロジー思想の内容について,ネスの議論およびデヴァルらの整理をもとに確認してきた.端的に言って,ディープ・エコロジーの狙いは,西洋近代における狭義の自我(ego)の孤立を克服し,人間という存在を生態学が描き出す生命の網の目のなかに位置づけることにあったといってよい.だが,ネス自身が「環境主義の哲学で重要なのは,倫理学から存在論へとすすみ,そして倫理学へと戻ってくることであろう」15と述べているにもかかわらず,ディープ・エコロジーの存在論から倫理学には,埋めることが困難な隔たりがあるように思われる.そこで次節では,ディープ・エコロジーに対する批判のなかでも,特にその倫理学にかかわるものを取り上げ,ディープ・エコロジーに残された課題を摘出することを試みたい.

2.ディープ・エコロジーの諸問題

前節では,ディープ・エコロジーの基本的な主張を確認した.ネスは前述の論文「浅いエコロジー運動と深く,長期的なエコロジー運動」において,ディープ・エコロジー運動の特徴を7点挙げているが,そのうち1つに「生物圏平等主義(biospherical egalitarianism)」がある.そこには次のように記されている.

生物圏平等主義――原則として.「原則として」という部分が付されたのは,いかなる実際の慣習も,なんらかの殺生・搾取・抑圧を必要とするからである.[…]生態学のフィールドワーカーにとって,生きて栄えるという平等な権利は,直観的に明晰判明な価値原理である.それを人間だけに限定することは,人間自身の生命の質にとっても有害な,人間中心主義である.この〔人間自身の生命の〕質は,部分的には,他の生命形態との親密な関係性からわれわれが受ける,深い喜びや満足感に依拠している.この依存関係を無視し,主従関係(master-slave role)を築こうとする試みが,人間の自己疎外の一因となってきた16

ここでは,これまでに見てきたディープ・エコロジーの基本的な考え方が,まとまった形で提示されている.しかしながら,上述の引用のなかにすでに,ディープ・エコロジーの孕む課題を3点指摘することができる.そこで本節では,それぞれの問題について,順を追って見ていくことにしたい.

第一に,「生きて栄えるという平等な権利」が,「生態学のフィールドワーカーにとって」の「直観的に明晰判明な価値原理」として語られている,という点である.ネス自身について言えば,彼がノルウェー国内で「傑出したアルピニスト」と呼ばれていたことからもわかるように,ネスは哲学者という経歴のほかに,登山家としての経歴ももっていた17.だが,生態学者や登山家といった経歴をもつ人びとが「直観」によって獲得する価値原理は,果たして普遍的に妥当するだろうか.この点に関して,たとえば社会学者の戸田清は,環境問題には強者が環境を破壊し,強者が環境保護運動を行うという「エリート主義」的な構造があることを指摘している18.ディープ・エコロジーが,(ネスが反階級の姿勢をたびたび強調しているとはいえ実質的に)こうした「エリート主義」の立場から思想を展開していると見るなら,一部のエリートの精神的充足のために,その他大勢の人びとに対して価値観を押しつけることになりかねない.

第二に,引用のなかに「人間中心主義(anthropocentrism)」という文言が見られるが,ディープ・エコロジーはこれに対して「生態系中心主義(ecocentrism)」的立場に立っているとされる19.しかしながら,ディープ・エコロジーにおいて想定されている「自己(self)」は,最終的に「大いなる自己(Self)」へと到達することが目指されているとはいえ,あくまで人間の自己である.事実,ディープ・エコロジーの体系のなかでは,人間からの自己実現は語られるが,自然の側からの自己実現は語られていない.あるいは言い換えるなら,個から全体へといたる原理は語られているが,全体から個へいたる個別化の原理は語られていない20.その意味で,ディープ・エコロジーは個としての自己をすでに前提してしまっており,自らが批判する西洋近代の「狭義の自己(自我,ego)」を脱することができていないのではないのか21

そして第三に,仏教思想家の松岡幹夫が「実践論的アポリア」と呼ぶ問題がある.松岡は,上述の引用にある「原則として」という留保に着目する.というのも,ネスはこの補足によって人間の優越性を示唆しているのだが,ディープ・エコロジーは生存権において人間が優先することの理論的根拠を欠いているからである22.ネスは人間の特異性に関して,「人間存在(human beings)は他の生命存在(living beings)が自己実現への衝動を有していることを意識的に知覚」できる存在者であり,「だからこそわれわれは,他者へとむかうわれわれの行為に関する,ある種の責任を引き受けなければならないのである」と述べているが23, 管見の限り,具体的にどのような責任を負うのか述べている箇所は見当たらない.この点に関して,政治学者アンドリュー・ドブソンは興味深い指摘を行っている.「ディープ・エコロジーは『倫理はどこからやってくるのか』と問い,『形而上学から』と答えてきた.だが,長期的な課題はおそらく,以下の問いに対する答えを見つけることである――その形而上学はどこからくるのか」24

さらに言えば,ディープ・エコロジーは自己と自然が一体化することによって,自己と自然の境界が消失し,利害が一致すると主張する.しかしここからは,ディープ・エコロジーの考える「生きよ,そして生きさせよ」という格率と同じ仕方で,人間も自然の一部であるのだから「己が欲するままに行為せよ」という格率も導出できるのではないだろうか(もちろん,自らを害することも厭わないという条件つきではあるにせよ).結局のところ,生態系中心主義を主張するのも人間である以上,環境倫理はどこまでも「人間中心主義」にとどまらざるをえないのだろうか.

筆者は「否」と答える.視点が人間存在であることは,必ずしも人間中心主義を意味しない25.だが,人間の視点から出発して非人間中心主義へと至るためには,ディープ・エコロジーが試みたように,まず自然のなかに人間を位置づけたうえで,自然の一部としての人間の責任あるいは義務を導出しなければならない.ネスは生態学やゲシュタルト心理学の知見を借用しながらこれらの課題に取り組んでいるものの,人間の責任の源泉については,十分に基礎づけることができていないように思われる.そこでわれわれが注目するのが,人間の自然に対する責任を基礎づけようと試みた,ヨナスの思想にほかならない.よって次節では,彼の基本的な主張を確認することで,上述の2つの課題(人間の自然界への位置づけ,および人間の責任の基礎づけ)が達成されているかどうかについて検討する.

3. ディープ・エコロジーからヨナスへ

ヨナスの主張を検討するに先立ち,まず本節の(そして本稿の)タイトルについて弁明しておかなければならない.というのも,生没年を見れば分かるように,ネスからヨナスへという道筋を描くことは,(ほぼ同時代を生きた哲学者という共通点はあるにせよ)時間的にはむしろ遡行してしまうことになり,また両者に直接的な影響関係があったことは確証できていないからである.それにもかかわらず,筆者は,ヨナスの思想を参照することによって,ディープ・エコロジーが抱えている問題を克服できるのではないかと考えている.そこで,本節ではまず,ディープ・エコロジーが自らその課題を克服しようとした事例を紹介し,次にヨナスの主張を検討することによって,ディープ・エコロジーとヨナスの理論的親近性と,後者による前者の補完可能性を示したい.

『エコロジー・共同体・ライフスタイル』の英訳者デイヴィッド・ローゼンバーグは,ディープ・エコロジーの新たな綱領を提案することで,前述の「実践論的アポリア」に取り組もうとしている.たとえば彼は,新たな綱領の三点目として,「人間は自然の一部である.しかし,その与えられた力のゆえに,人間は他のどの生物にもまして地球に対する大きな責任を負っている」と述べ,以下のような補足を続ける.

どのような生物種であれその個体には,それぞれの生存に適した場所を環境のなかに捜し求め,生態系の中に自分の居場所(ニッチ)をつくり出すと同時に占める習性が備わっている.しかし,わたしたち人間はその居場所を定める際,他のどの生物種よりも大きな自然改造を行ってきた.[…]しかし人間の持つ力は破壊の力だけではない.理解力もまた潜在的能力のひとつとして人間に備わっている26

この引用から読み取れるように,ローゼンバーグは人間がなぜ自然に対して責任を負うべきかの根拠を,人間に「与えられた力」(「破壊の力」と「理解力」)のうち,後者の「理解力」によって説明しようと試みている.だが,このような補足を加えたところで,ディープ・エコロジーの実践論的アポリアが解消されるようには思えない.というのも,なぜ「理解力」がある者が「地球に対する大きな責任」を負うのか,いまだ判然としないからである.ディープ・エコロジーが他の生命に共感・感情移入することによって「自己実現」を目指す,という論理にこだわり続ける限り,「理解力」という呪縛から逃れることはできないであろう(第2節で述べたように,ネスもまた人間の自然に対する責任の源泉を,「他の生命存在」の「自己実現への衝動」を「意識的に知覚」できることに求めていた).それはすなわち,ディープ・エコロジーが人口に膾炙するためには,「直観」によって生態学的認識(自分が自然と一体であるという感覚)を得てもらうよりほかない,ということを意味する.そして,生態学的直観を得るためには「瞑想」に類する経験が必要である以上,わずかな自然を残すのみとなってしまった都市部に住む人びと,あるいは日々の仕事に忙殺され,余暇を自然のなかで過ごす余裕のない人びとにとって,ディープ・エコロジーが思想的基盤となる可能性はかなり低いように思われる.さらに言えば,ネスは「『私の方がより多くの価値をもつから,私はおまえを殺すことができるのだ』と述べることは,私の統一性の直観に反している」27と述べているけれども,彼個人の直観が,果たしてどれほどの妥当性をもつのであろうか.

とはいえ,ローゼンバーグのアプローチは,本質的にはヨナスのそれとある意味で軌を一にしている.というのも,ヨナスは人間の責任について述べる際,まさに人間に「与えられた力」を,その責任の根拠として考えているからである.たとえばヨナスは,『責任の原理』(初版1979年)で次のように述べている.

全体としての生物圏およびその一部,すなわち人間以外の(außermenschlich)自然の状態が,いまやわれわれの力に征服されていることによって人間の信託財産(Treugut)となるのであり,またそれによってわれわれに対して道徳的な要求(Anspruch)を――われわれのためだけでなく〔人間以外の自然〕それ自身のために,しかもそれ自身に固有の権利から――もっているのかどうか,と問うことは,少なくともまだ無意味ではない28

ここでヨナスが考えている「力(Macht)」とは,ローゼンバーグの言うような「理解力」ではない.そうではなくて,ヨナスが念頭に置いているのは,現代の「科学技術力」(ローゼンバーグに即して言えば,前者の「破壊の力」)である.彼によれば,「科学技術による自然の征服というベーコンの理想」は長いあいだ経済的成功を収めてきた(ように見える)が,「知によって獲得された力」は自然を征服するだけでは飽き足らず,「力が自らを自らに完全に服従させる(Unterwerfung unter sich selbst)」ようになる.この「力そのもの,およびその働き(Werk)の,絶えず拡大しかつ自己破滅が見通せるような進歩(immer weiteren und vorhersehbar selbstzerstörerischen Fortschritt)」を止めるためには,われわれがもう一度自らの力を「制御下に置く」ための力,すなわち「力を支配する力(Macht über die Macht)」が必要になる.だがヨナスは,ディープ・エコロジーのように個人の内面を変革するという行き方をとらない.それというのも,科学技術という強大な力を制御することができるのは,「個人的な洞察や責任,不安」ではなく「社会(Gesellschaft)」であるに違いない,とヨナスが考えているからである29

以上の論述からわかるように,ヨナスが倫理学の対象とするのは,個人の内面ではなく,人類(社会)という集団である.では,ヨナスは自然に対する人間の責任を,どのように基礎づけようとしたのだろうか.以下では,とりわけ前節で述べたような「自然のなかへの人間の位置づけ」と,「自然の一部としての人間の責任の基礎づけ」が,ヨナスにおいてどのように試みられているかを素描してみたい.

3-1. 自然における人間の位置づけ

ディープ・エコロジーの立場では,生態学が援用され,人間は他の自然物と同じ「生命の網の目」に分かちがたく結びつけられている,と主張されていた.他方で,ヨナスは進化論に注目する.彼は『生命の原理』(初版1973年)において,「〔人間が〕動物に由来するという教説〔=進化論〕が人間の形而上学的尊厳に与えた侮辱に対する騒々しい憤慨のなかで,次のことが見落とされていた.すなわち,同じ原理によって,生命の全領域にその尊厳がいくらか返還された,ということである」30と述べている.われわれはここに,進化論に対するヨナスの評価の両面性を読み取ることができる.「進化論が人間の形而上学的尊厳に加えた侮辱」とは,簡潔に言えば,人間が他の生物と共通の祖先から枝分かれしたと考えることによって,「神の似姿」や(デカルト的二元論における)「思惟実体(精神)」といった,人間の特別な地位が否定されてしまうことを指している.これは人間からの特権の剥奪にほかならないが,ヨナスによればそれは同時に,人間以外の生命の復権の可能性が再び開かれるということでもあった.

人間が動物と同系統(verwandt)だとすれば,動物もまた人間と同系統なのであって,さまざまな程度であの内面性(Innerlichkeit)――そのような類の中でもっとも進歩したものとして,人間は自らそれを自覚しているのだが――の担い手(Träger)である.キリスト教的な超越信仰やデカルト的二元論に強いられてきた縮約ののちに,「魂(Seele)」の領域は,それがもつ感覚,努力,苦悩,享受といった諸属性とともに,上昇する段階の原理(Prinzip steiger Abstufung)の力によって,人間から生命の全領域へと,再び拡張されたのだ31

上の引用から読み取れるように,ヨナスは進化論を援用することで,人間を再び自然という領域のなかへと位置づけようとしているのである。そして,ヨナスの考えでは,このような発想はすでに,倫理学へと発展する萌芽を宿している.というのも彼によれば,「精神の哲学は倫理学を含んで」おり、「有機体と精神の,自然と有機体の連続性のゆえに,倫理学は自然哲学の一部となる」32からである.そこで次に,ヨナスが「自然哲学の一部」と目する彼の倫理学を見ることにしよう.

3-2. 自然に対する人間の責任

本稿では,ヨナスが彼独自の倫理学説を導き出すにいたる議論を,順を追って検討することはできない.そこで本節では,ディープ・エコロジーの立場との相違に関する限りで,ヨナスの主張を紹介することにする.

ヨナスは,人間の自然に対する責任を次のように位置づける.

実際には,〔人間の未来と自然の未来という〕両者を分離することは,人間像というカリカチュア〔=戯画〕を除いては不可能である.むしろ,「存続か破滅か(Erhaltung oder Zerstörung)」という二者択一の決定において,人間の利害と,もっとも崇高な意味における人間の故郷(Weltheimat)としての残りの生命の利害とは重なることになる(zusammenfallen).よってわれわれは,人間中心主義的な狭隘化(Verengung)に陥ることなく,人間への義務という主導概念(Leitbegriff)のもとで〔人間への義務と自然への義務という〕2つの義務を取り扱うことができる33

ここで「人間への義務」とは,第一に「将来の人類の生存(Dasein)」に対する義務であり,第二に「将来の人類のあり方(Sosein)」に対する義務である34.第一の義務が第二の義務に優先するのは,人間が「いかに」あるかという可能性の条件が,ひとえに人間の「実在(Existenz)」に懸かっているからである35.このような義務に加え,われわれは昨今の環境危機によって,「人間と自然が運命共同体(Schicksalsgemeinschaft)であることを新たに発見」36することになった.ゆえにヨナスは,人間への義務と自然ヘの義務をひとまとめにして扱うことができる,と主張するのである.

では,ディープ・エコロジーが直面した問題,「実践論的アポリア」についてはどうだろうか.ディープ・エコロジーは人間と自然の利害が一致する境地を自己実現という術語で提示していたが,環境危機に対処するために社会を変革する運動への参加については,彼らの立場に「同意する人びと」の義務にとどまっている(註4を参照).つまり,ディープ・エコロジーの倫理は人間がいかにあるか(Sosein)に関わっていると言ってよい(実際,ディープ・エコロジーの標語の1つは「生き方の質(life quality)の変革」である37).他方で,ヨナスが考える責任はより根本的な問題,すなわち人間があるかどうか(Dasein)に関わっている.彼によれば,「理性と結びついた力は,それ自体に責任をともなう.このことは以前からずっと,人間相互の領域では理解されていた.最近ではそれにとどまらず,責任は生物圏の状態と人間という種(Menschenart)の未来の生存にまで及ぶことになるのだが,それは単純に〔生物圏の状態や未来の人間の生存という〕これらの事柄に対する力の拡大によるものであり,その力が何よりもまず破壊の力(Macht der Zerstörung)だからである」38

ディープ・エコロジーにおいて,人間の力は「理解力」であった.だがヨナスによれば,人間は「ざまざまな因果的影響(die kausale Wirkungen)を世界にもたらす『能力』(das »Können«)」39のゆえに,自然に対して責任を負っている.「今日われわれは,次のように言わなければならない.すなわち,『汝為しうるゆえに,汝為す.汝為すゆえに,汝為すべし』と.つまり,おまえの法外な能力がすでに行為なのである(dein exorbitantes Können ist schon am Werk)」40.それゆえ,自然に対する人間の責任はヨナスにとって基礎づけるべき喫緊の課題だったのであり,彼の考える責任は,強大な科学技術の力を社会が制御できるようになるための実践へと,われわれを駆り立てるのである.

4. ヨナスの哲学体系の課題

これまで見てきたように,ディープ・エコロジーは独自の自然観を有する半面,その「実践論的アポリア」が指摘されるのに対して,ヨナスの思想は「人間の自然のなかへの位置づけ」と「自然に対する人間の責任」に関する考察をともに備えているという点で,ディープ・エコロジーが抱えていたような問題を乗り越える可能性をもっていると言ってよい.のみならず,広く環境倫理を考えるうえでも,ヨナスの主張は有益な示唆を与えてくれるように思われる.たとえばローレンス・ヴォーゲルは,非人間中心主義的立場から見れば「ヨナスは人間中心主義的にすぎるきらいがある」とはいえ,「私はヨナスの形而上学こそが,まさに人間中心主義と非人間中心主義の区別を切り崩すと思っている」と述べ,ヨナスの倫理学に,環境倫理における人間中心主義と非人間中心主義の対立を止揚する可能性を見ている41

だが他方で,ヨナス自身が述べているように,彼の思考法は現代の基本的な2つの教義(ドグマ)に抵触している.それはすなわち,「形而上学的真理は存在しない」というドグマと,「存在から当為は導出できない」というドグマである42.そしてヨナスの予想通り,これらの点に関して,さまざまな論者が批判を寄せている43

本稿では,ヨナスが敢えてこのような(近代以降のドグマに反する)行き方を選んだ,と述べることしかできなかった.だがヨナスの試みの真価を見極めるためには,彼がどのようにこれらのドグマに立ち向かったのか,という課題に取り組まなければならない.そしてその際,なぜヨナスがこのような問題意識をもつに至ったのかという,彼の思想形成の背景にも踏み込んでいく必要があるように思われる.私見では,ヨナスの思想には現代のさまざまな課題に対する手掛かりが,いたるところに隠されている.そのなかからとりわけ光彩を放つものを見つけることこそ,人間存在や生命の意味が揺らぐ現代を生きるわれわれにとって,大切なことなのではないだろうか.

  1.    加藤尚武『環境倫理学のすすめ』増補新版,丸善出版,2020年,9頁.
  2.    この意志決定そのものをAI(人工知能)などの技術それ自体に委ねることができる,と言ってみたところで,事態は同様である.なぜなら,AIによる選択には,必ずわれわれの倫理観が反映されることになるからである.「生き方,環境に対する振る舞い方,人間以外の生物との最善の関わり方に関する倫理的・政治的な問いに答えるためには,抽象的な人間の知性(たとえば,議論,理論,モデル)やAIのパターン認識以上のものが必要である.[…]こうした実践的知恵は,私たちの技術に対する経験を含めて,人間の具体的で状況的な経験や実践に基づいて養われるのである」(M. クーケルバーク『AIの倫理学』直江清隆ほか訳,丸善出版,2020年,167頁).科学や技術をわれわれの生活から切り離すことはもはや不可能である以上,ディープ・エコロジーが展望する実践的知恵や,ヨナスの構想する未来倫理学などは,われわれが前提している価値観の再考を促すという点で,注目に値するものなのである.
  3.    cf. A. Naess, “The Shallow and The Deep, Long-Range Ecology Movement. A Summary,” Inquiry 16, 1973, 95-100. 邦訳「シャロー・エコロジー運動と長期的視野を持つディープ・エコロジー運動」井上有一訳,アラン・ドレングソン,井上有一編『ディープ・エコロジー――生き方から考える環境の思想』井上有一監訳,昭和堂,2001年,31-41頁所収.以下SDと略し,95-100/31-41. のように原著/邦訳の順で頁数を付記する.なお,引用文中の強調は原著者による.本論文中の引用は,邦訳があるものに関してはそれを参考にしたうえで,すべて筆者が新たに訳出した.
  4.    「本論文の目的」(第0節)でも述べたように,このようなディープ・エコロジー理解は,あくまで一面的なものにすぎない.たとえば,ネスは後年,共同研究者セッションズとともに「ディープ・エコロジーの綱領」を発表しているが,そのなかには「〔ディープ・エコロジーの綱領が掲げる〕前述の諸点に同意する人びとは,必要な変革を実行する企てに,直接的あるいは間接的に関与する義務を有する」という文言が掲げられている(A. Naess, Ecology, Community and Lifestyle, trans. and ed. by D. Rothenberg, Cambridge University Press, 1989, p.29. 邦訳『ディープ・エコロジーとは何か――エコロジー・共同体・ライフスタイル――』斎藤直輔・開龍美訳,文化書房博文社,1997年,51頁.以下ECLと略し,29/51のように原書/邦訳の順で頁数を付記する.なお引用文中の〔 〕は引用者による補足である).この言からも明らかなように,ディープ・エコロジーはその賛同者に対して,実践的な行動を強く促すという側面ももっている.ちなみにネス自身は,実践的な運動の際には非暴力を貫いていたが,これは彼の「自己実現」の哲学の当然の帰結である(註13を参照).ネスのこのような立場に照らすなら,たとえば黒田純一郎がディープ・エコロジーに対して与えている「暴力行為をも辞さない過激主義」という評価は,必ずしも正しくない(黒田純一郎「ディープ・エコロジー運動における自己実現思想」『宗教研究』87巻別冊,2014年,463-464頁).
  5.    この語(identification)は,小原秀雄編『環境思想の多様な展開』東海大学出版会,1995年,117-132頁に所収の,鈴木美幸訳「手段は簡素に,目標は豊かに」(=A. Naess, “Simple in Means, Rich in Ends: A conversation with Arne Naess”, in Environmental Philosophy: From Animal Rights to Deep Ecology, ed. by M. E. Zimmerman, Prentice Hall, 1993, pp. 182-192)では「同一視」,アラン・ドレングソン,井上有一編,前掲書,45-74頁に所収の,井上有一訳「自己実現――この世界におけるエコロジカルな人間存在のあり方」(=A. Naess, “Self-realization. An ecological approach to being in the world”, in Deep Ecology for the Twenty-First Century, ed. by G. Sessions, Shambhala, 1995, pp. 225-239. 以下SRと略し,原著/邦訳の順で頁番号を付記する)では「同化」と訳されている.本論文では,筆者がネスの思想を最も明瞭に反映していると判断した「一体化」に訳語を統一する.なお,同じ「一体化」の訳語を選択しているものとして,前述の斎藤直輔・開龍美訳『ディープ・エコロジーとは何か』(註4を参照)がある.
  6.    B. Devall and G. Sessions, Deep Ecology: Living as if Nature Mattered, Gibbs Smith, 2007, pp. 66-67. 以下DEと略し,頁番号を付記する.なお,引用文中の強調は原著者による.
  7.    SR, 227/49-50.
  8.    DE, 67. 強調は引用者による.
  9.    ECL, 195/312. 〔 〕は引用者による補足である.
  10.    上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』岩波文庫,1992年,66頁.
  11.    このような背景を踏まえれば,ディープ・エコロジーがことさらに瞑想の重要性を強調する(cf. DE, 67)理由も理解できるように思われる.
  12.    ECL, 172/274. 強調は原著者による.
  13.    cf. DE, 68. ここから,ディープ・エコロジーの「非暴力」の哲学も帰結する.というのも,他者と自分の利害が一致しているため,他者を傷つけることは自分自身を傷つけることにほかならないからである(cf. ECL, 193-196/308-313).
  14.    ECL, 173/276.
  15.    ibid, 67/109. 強調は原著者による.
  16.    SD, 95-96/32-33. 〔 〕は引用者による補足,強調は原著者.なお,同論文に掲げられた7つの特徴のうち1つ目と2つ目が,後年『エコロジー・共同体・ライフスタイル』に再録されている(cf. ECL, 28/48-49).ネスがこの2点を,ディープ・エコロジー運動を特徴づけるものとして挙げている(ibid.)ことからも,この「生物圏平等主義」がディープ・エコロジーの急所であることが見て取れる.
  17.    尾崎和彦『ディープ・エコロジーの原郷――ノルウェーの環境思想』東海大学出版会,2006年,126-128頁を参照.なお同書は,ネスの思想形成の背景をノルウェーの土壌という文脈から論じた,国内における貴重なディープ・エコロジー研究の1つである.
  18.    戸田清『環境的公正を求めて――環境破壊の構造とエリート主義』新曜社,1994年を参照.
  19.    もっとも,このような区別は環境思想を概観するために有益であるとはいえ,粗雑にすぎるきらいがある.この点に関して,たとえばA. クレプスは,環境思想(彼の言葉では「自然倫理学」)をおおまかに「人間中心主義」と「自然中心主義」との対立として捉えたうえで,「誰あるいは何が道徳的世界に属するのか」という観点から,これらを計12の立場に分類することを試みている.詳しくは,アンゲーリカ・クレプス『自然倫理学――ひとつの見取図』加藤泰史・高畑祐人訳,みすず書房,2011年,第3章(54-66頁)を参照のこと.
  20.    この点に関して,ほかならぬネス自身が「個々の自己の拡大と深化は,なぜか一つの『集塊(mass)』を決して形成しない」(ECL, 173/275. 強調は原著者による)と述べていることからもわかるように,ディープ・エコロジーの理論は生態学の知見を基盤として直観を強調するあまり,独自の理論を構築し切れていないように見える.
  21.    このような批判に関して,たとえば浅野俊哉「ディープ・エコロジー派によるスピノザ解釈の再検討――環境倫理学における《自然》の問題」『哲学・思想論集』第23号,1998年,69-89頁,とくに79-80頁を参照のこと.
  22.    松岡幹夫『京都学派とエコロジー――比較環境思想的考察』論創社,2013年,119-122頁を参照.ちなみに松岡は,西田幾多郎の自己実現思想に,ディープ・エコロジーを乗り越える実践的な環境倫理の可能性を見ている.「自己実現を完成させるには,西田の言う道徳的修養のごときものが必要になろう.ディープ・エコロジーの共感的な自己実現は,人格の完成に高められてこそ,恒常的な自然保護運動に帰結するのである」(同書,287頁).
  23.    ECL, 170/270. 強調は原著者による.
  24.    A. Dobson, Green political thought: An introduction, Unwin Hyman, 1990, p. 62. 邦訳『緑の政治思想――エコロジズムと社会変革の理論』松野弘訳,ミネルヴァ書房,2001年,84頁.
  25.    このような考え方は,2023年度哲学若手研究者フォーラム(2023年7月16日)における筆者の発表に際して,丸山文隆氏から頂いたコメントに示唆を得ている.この場を借りて感謝申し上げたい.
  26.    デイヴィッド・ローゼンバーグ「ディープ・エコロジーのプラットフォーム――新たな提案」藤公晴・井上有一共訳,ドレングソン,井上編,前掲書,第7章(141-157頁)所収,147-148頁.
  27.    ECL, 168/267.
  28.    H. Jonas, Das Prinzip Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Suhrkamp, 2003, S. 29. 邦訳『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み――』加藤尚武監訳,東信堂,2000年,16-17頁.以下PVと略し,原著/邦訳の順で頁数を付記する.
  29.    vgl. PV, 251-255/248-252. 引用文中の強調は原著者による.なおベーコンによる自然支配という理想については,H. Jonas, Das Prinzip Leben: Ansätze zu einer pjilosophischen Biologie, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 2011 (2. Aufl.), Kap. 10, S. 311-341. 邦訳『生命の哲学――有機体と自由』細見和之・吉本陵訳,法政大学出版局,2014年[新装版],第10章,340-376頁(以下PLと略し,原書/邦訳の順で頁番号を付記する)に所収の論考「理論の実践的使用について」を参照.ちなみに,環境危機についての理解として,たとえば伊東俊太郎は,デカルトの機械論的自然観とベーコンの自然支配が「車の両輪のごとく」結びつくことによって,近代の科学技術を推し進めてきたことが原因であると考えている(伊東俊太郎『比較文明』東京大学出版会,1985年,141-143頁を参照)が,このような理解が一般的であろう.
  30.    PL, 100/95. 〔 〕は引用者による補足である.
  31.    ebd, 100/95-96.
  32.    ebd, 401/445.
  33.    PV, 245/243. 強調は原著者,〔 〕は引用者による補足である.
  34.    vgl. PV, 86/71, 90-91/76, 186-187/175-177.
  35.    vgl. ebd, 249-250/247.
  36.    ebd, 246/244.
  37.    cf. ECL, 29/50-51, A platform of deep ecology movement, no. 7. あわせて本稿第2節の最初の引用も参照.
  38.    PV, 248/246. 〔 〕は引用者による補足である.
  39.    ebd, 231/219.
  40.    ebd, 230-231/219.
  41.    L. Vogel, “Does Environmental Ethics Need a Metaphysical Grounding?”, The Hastings Center Report, Vol. 25, No. 7, 1995, p. 37. なおヴォーゲルは,ヨナスの思想に対する疑問および懸念を4点挙げている.Cf. ibid., pp. 38-39.
  42.    PV, 92/78.
  43.    代表的なものを紹介すれば,討議倫理学者カール=オットー・アーペルは次のように述べる.「ヨナスの存在概念は,価値中立的な自然の実情(Faktizität)という近代の構想に,意識的に対置されたものである.それゆえ,いわゆる『自然主義的誤謬』という論理的な異議は,ここでは場違いだろう.しかしながら,ヨナスの存在概念は,カントが酷評した『独断的形而上学』に変わりない」(K. O. Apel, “Die ökologische Krise als Herausforderung für die Diskursethik”, S. 389. in Ethik für die Zukunft: Im Diskurs mit Hans Jonas, Hg. D. Böhler, C. H. Beck, 1994, S. 369-404).

 
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