Inquiries into Philosophy
Online ISSN : 2759-6303
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2025 Volume 2025 Issue 52 Pages 126-137

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1.序論

近年、論理学の哲学において、論理学についての反例外主義(Anti-exceptionalism about logic:AEL)と呼ばれる、論理学と科学の間の連続性を強調する立場が注目を集めている。従来、哲学における多くの教説は、論理学に対して他の科学と比べて例外的な地位を認めてきた。つまり、論理学の言明はア・プリオリかつ分析的である点で、論理学以外の諸科学とは本質的に異なった特別なものだとみなされてきた。しかし、AELはこうした前提を認めない。つまり、論理学はなんら特別なものではなく、論理学と諸科学は様々な側面で連続的であるというのである。

現代AELの代表的論者であるノルウェーの論理学者Ole Hjortlandによれば、AELの思想的源流はクワインのホーリズムに遡ることができる1。クワインの有名な論文「経験主義の二つのドグマ」において、論理学の分析的特権性に対する批判が行われて以来、AELはその挑戦的な主張によって現代論理学における最も論争的な主題の一つとされてきた。しかし、1951年の「二つのドグマ」以来、AELは70年以上にも及ぶ議論の蓄積のなかで、その理論的中心についての根本的な見直しの必要が生じてきた。こうした背景のなかで、Hjortlandを含むノルウェーの若手研究者グループが発足したプロジェクト「Anti-Exceptionalism About Logic」(2017-2021)を筆頭に、AELをその根本動機から捉え直し、AELを再定義することでその議論の成否に決着をつけようとする運動が今日盛んになりつつある。

本稿は、こうしたAELの最近の議論の中でも、特にHjortland (2017)が提唱したAELの定義(AEL as Continuous)に着目する。この定義は、論理学と科学の間の連続性(Continuous)をAEL理論の中核とみなすものであり、今日もっとも一般的に用いられているAELの標準的定義である。しかしながら、このAELの標準的定義にはいくつかの重大な問題が指摘されており、その問題は標準的AELの成立の根幹にかかわるために、AELの成立そのものが危ぶまれている。そこで、本稿では、AELの標準的定義とその問題点を明らかにすることによって、AELという枠組みの再考を行う。また、本稿の最後には標準的AELに取って代わる新たなAELの定義としてHjortland&Martin(2022)の提唱するAELの定義(AEL as Tradition Rejection:AEL as TR)を紹介する。この定義は、AELを哲学的伝統の否定(Tradition Rejection)として捉える立場であり、哲学において伝統的に認められてきた論理学の特権性を批判し、そのような特権的性質を論理学は持たない、もしくはその性質は論理学に固有のものではない、ということを明らかにすることによって、論理学が他の科学の例外ではないと主張するものである。この新たな定義は、連続性テーゼをAELの理論的中核から切り離すことによって、標準的AELの問題を解決するだけでなく、最近のAEL論者の主張により合致した立場である点で、これまで標準的AELとされてきた定義(AEL as Continuous)に取って代わることが期待されている。

以上のことを示すために、本稿は次のように進行する。まず、議論の前提条件としてAELが成立した背景を確認する。第2節では、例外主義(exceptionalism)という哲学的に馴染みのない言葉の由来を確認したうえで、論理学についての例外主義(Exceptionalism about logic:EL)という立場について確認する。第3節では、Hjortland (2017)が提唱した標準的AELの定義(AEL as Continuous)について確認する。第4節では、標準的AELに対する代表的な批判として知られるRosberg&Shapiro(2021)を検討する。ここでは、標準的AELの中心的テーゼである連続性テーゼは、実際には EL(例外主義)とAEL(反例外主義)とを区別する基準にはなりえないことが確認される。第5節では、現代AELの主要な論者である二人の哲学者の主張を検討することで、AELを再定義しようとする流れを確認する。ここでは、Hjortland&Martin(2022)に基づき、標準的AELの定義には、方法論的(methodological)AELと証拠論(evidential)AELという二つの主張が含まれていることを確認する。そのうえで、最近のAEL論者がコミットしているのは実は前者の方法論的AELのみであることが判明する。第6節では、Hjortland&Martin(2022)によって提唱された新たなAELの定義(AEL as TR)を確認する。

2.議論の背景:AELとはなにか①

AELは、正式名称を「Anti-exceptionalism about logic:論理学についての反例外主義」といい、各単語の頭文字をとったAELという略称で一般的に呼ばれる。ここではまず、AELの名称の起源について確認しておきたい。前節では、AELの思想的源流がクワインのホーリズムに由来することを確認した。しかし、この「exceptionalism:例外主義」という言葉が哲学において論理学を特権視する立場として用いられるようになったのは比較的最近のことであり、その初出はTimothy Williamsonの『The Philosophy of Philosophy』(2007)に由来する2。本書の序文においてWilliamsonは自身の哲学の目的について次のように述べている。

本書の主要なテーマの一つは、哲学的例外主義という広く一般的に受け入れられている前提が誤りであるということを示すことである3

ここで述べられている哲学的例外主義 (philosophical exceptionalism)とは、近世以降、哲学の中心的な問題となった知識の基礎づけの問題において、他の知識の前提となるような特権的言明の存在を主張する立場のことである。そして、伝統的にこの特権的言明は論理学の言明がその役割を担うものだとされてきた。つまり、近世以降の哲学においては、論理学は特別で特権的な地位を享受しているとする論理学についての例外主義(Exceptionalism about Logic : EL)が主流の考え方だったのである。このような背景を持つELであるが、その中心的な主張を定式化すると次の2点にまとめることができる。

(ⅰ)先験性テーゼ(Aprioricity Thesis: APT)

(APT):科学の知識がア・ポステリオリであるのに対し、論理学の知識はア・プリオリである。

前提として、ア・プリオリな知識とは、経験に依存せずに理性のみで認識される知識のことである。他方で、ア・ポステリオリな知識とは、経験や観察を通じて得られるものである。そのうえでELは、論理学の知識をア・プリオリな知識とみなし、科学の知識はア・ポステリオリな知識だとみなす。

例えば、論理学の言明「A → A(もし A ならば A である)」は、論理法則(同一律)に基づくものであり、経験的な観察を必要とせずに真であることが理解できる。そのため、このような論理学の知識は、ア・プリオリな知識であるとみなされる。一方、科学の言明「水は100℃で沸騰する」は、実験や観察を通じて得られる知識である。人間は理性を働かせるだけで水の沸点を知ることはできず、あくまでそれは実際に測定をしなければわからない。したがって、このような科学の知識は、ア・ポステリオリな知識であるとみなされる。

(ⅱ)分析性テーゼ(Analyticity Thesis : ANT)

(ANT):科学が総合的真理を提供するのに対し、論理学は分析的真理を提供する。

前提として、分析的言明とは、主語の概念の中に述語の概念が含まれており、新たな情報を付け加えない言明を指す。これに対し、総合的命題は、主語の概念の中に述語の概念が含まれておらず、新たな情報を付け加える言明を指す。そのうえで、ELは論理的真理を分析的な真理とみなし、科学的真理を総合的な真理とみなす。

例えば、論理的真理「AはAである」の具体例として「すべての三角形は三角形である」を考えてみよう。すると、主語「三角形」の概念の中に述語「三角形である」の内容が含まれており、これは語の定義に基づいて必然的に真である。したがって、このような論理的真理は分析的真理だとみなされる。一方、科学的真理「地球の表面の70%は水で覆われている」を考えてみよう。すると、先ほどの言明とは異なり、「地球」という概念のなかに「表面の70%が水で覆われている」という性質が含まれているわけではない。その関係は、あくまで経験(観察)を通じて確認する必要がある。したがって、このような科学的真理は総合的真理だとみなされる。

3.議論の背景:AELとはなにか②

前節では、哲学の伝統としてのELと、その反対運動としてWilliamsonが確立したAELという立場4、そしてその思想的源流がクワインのホーリズムにあることを確認した。本節では、現代のAEL論争において「火付け役」となったとあるプロジェクトの存在に触れておきたい。そのプロジェクトとは、序論でも少し触れたベルゲン大学のHjortlandを筆頭とするノルウェーの若手研究者グループ主導のプロジェクト「Anti-Exceptionalism About Logic」(2017-2021)である。AELにとって、このプロジェクトの存在は大きく、ここで確認されたAELの基本信条が今日AELの標準的な定義とされている。実際、AELの定義が参照されるときには、Hjortland(2017)の以下の記述が引かれることがほとんどである。

  

論理学は特別なものではない。その理論は科学と連続的であり、その方法は科学の方法と連続的である。論理学はア・プリオリではなく、その真理は分析的真理でもない。論理学の理論は改訂可能であり、改訂されるときは科学の理論と同じ証拠に基づいて改訂される5

ここから、AELとは、論理学について以下の3つの前提に立つがゆえに、論理学を科学の例外ではない(anti-exceptional)とみなす立場のことだということがわかる。

(ⅰ)連続性テーゼ(Graduality Thesis : GT)6

(GT):論理学は理論的にも方法論的にも科学と連続的(continuous)である。

AELによれば、論理学と科学は、理論的にも方法論的にも密接に連続している。

まず、理論的連続性に関してである。科学の理論構築や命題の関係性は論理学の枠組みに基づいて整理されている。例えば、進化論における「適応的な個体が生存しやすい」という推論や、ニュートン力学の「外力がなければ物体は等速直線運動を続ける」といった法則は、論理学の演繹的推論の形式に従って導かれたものである。このように、科学は論理学の理論と密接に関連している。

次に、方法論的連続性に関してである。前提として、科学の推論には論理学の規則が不可欠である。演繹法は理論から具体的な事象を導くのに用いられ、帰納法は観察から一般法則を導くために活用される。例えば、「すべての観察された白鳥は白かった」という帰納的推論が「白鳥は白い」という仮説を生み出すように、科学の知識は論理的推論によって整理・検証される。

さらに、科学と論理学は相互に影響を及ぼし合う。量子力学は古典論理の限界を示し、これが新たな論理体系の探求を促した。統計学や機械学習に応用されるベイズ推論のように、論理学の発展が科学の方法論を支える例もある。このように、科学は論理学の枠組みの中で展開され、論理学は科学の発展を通じて深化する。したがって、両者は知識の構築方法において理論的・方法論的に連続しているといえる。

(ⅱ)非先験性テーゼ(Non-Aprioricity Thesis : NAPT)

(NAPT):論理学はア・プリオリではなく、その真理は分析的真理でもない7

論理学がア・プリオリであるとは、論理学の知識が経験に依存せず、純粋に理性によって知られるということを意味する。しかし、この見解に反して、論理学の発展の歴史をみると論理学はむしろ「経験的」な発展を遂げてきたといえる。たとえば、古典論理では「排中律(P ∨ ¬P)」が必ず成り立つとされる一方で、直観主義論理では「命題の真偽は、実際に証明できない限り確定できない」という立場をとるため、排中律を一般には受け入れない。この論理の変化は、数学的証明の方法に関する経験的な考察によって促された。つまり、経験的な数学的実践の変化が論理学の原則に影響を与えたということであり、この点で論理学は純粋にア・プリオリなものとはいえないのである。

他方、論理的真理が分析的であるとは、論理的真理が語の意味の分析だけから導かれるということを意味する。つまり、ELによれば論理的真理は、論理学で使われる語や記号の意味だけから導出できるのである。しかし、実際には論理的真理の確立にはしばしば意味論的な選択や経験的考察が関与する。たとえば、量化論理の意味論は、集合論的なモデルに依存しており、そこでの「真理」は単なる記号操作だけでなく、数学的実践に基づいた概念の選択によって規定される。同様に、非古典論理では、どの論理的真理を受け入れるかは経験的な応用や哲学的動機に依存している。このように、論理的真理は単なる語の意味の分析だけでは確定できず、経験的・実践的な要素を含んでいるため、分析的とはいえないのである。

(ⅲ)改訂可能性テーゼ(Revisionability Thesis : RT)

(RT):論理学の理論は、他の科学の理論と同じ証拠に基づいて改訂される。

前提として、科学の理論は観察や実験の結果に基づいて経験的に改訂される。例えば、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論への移行がその典型である。ニュートン力学は、低速・低重力の環境では非常に精密な予測を提供するが、光速に近い高速や強重力の状況では誤差が生じる。また、水星の近日点移動(水星の軌道のズレ)は、ニュートン力学では完全に説明できなかったが、アインシュタインの一般相対性理論によって正確に説明された。これは、観測事実が理論の修正を促した例だといえる。したがって、科学の理論は科学の理論は観察や実験の結果に基づいて改訂されるといえる。

これに対して、論理学は一見すると、純粋に概念的な学問のようにみえる。しかし、実際には論理学も数学や科学の実践に応じて修正されることがある。たとえば、物理学における量子論の発展である。古典論理では説明できない量子現象(例えば、二重スリット実験での波動と粒子の二重性)があり、その現象をより適切に扱うために論理体系を見直すことで、量子論理が考案された。古典論理では、ある命題 P とその否定 ¬P は必ずどちらかが真であるが、量子論理では、状況によってはどちらも確定できない場合を認める。このように論理学の理論もまた観察や実験の結果に基づいて改訂されるのである。

以上のように、科学と論理学の両方が、経験的証拠によって修正される可能性がある。科学では観察や実験が理論の見直しを促し、論理学では数学的実践や物理学の新発見が論理体系の修正をもたらす。つまり、論理学もなんら固定的なものではなく、人間の実践や経験に応じて変化しうるものなのである。

4.標準的AELの問題点①

ここまでは、AELの基本信条について確認してきた。ここからは、AELという概念そのものを問い直す二つの代表的な批判を検討する。前もって確認しておくならば、その批判とは、第一に、標準的AELの中心思想である連続性テーゼに対する批判であり(第4節)、第二に、現代AELの論者にとって標準的AELの定義は本当に適切であるのかという観点からの批判(第5節)である。本節ではこのうち、Rossberg&Shapiro(2021)が提起した標準的AELの中心思想である連続性テーゼの問題を扱う。

第三節でも確認したように、連続性テーゼ(GT)は標準的AELの中核をなす基本信条である。しかし、Rossberg&Shapiroによれば、AELが強調する論理学と科学の連続性の主張は、ELに対する批判にはなりえていないのだという。なぜなら、EL論者においても論理学と科学が様々な点で連続的であるということは認めうるものだからである。Rossberg&Shapiroは、フレーゲを引き合いに出し、論理的真理をア・プリオリで分析的なものとみなした点でELの筆頭とされるフレーゲですら、連続性テーゼの観点でみればAELに近い主張を行っていることを指摘している。以下は、フレーゲの後期の著作における興味深い記述である。

もちろん、すべての科学はそれらのゴールとしての真理を持っているが、論理学は「真である」という述語をかなり特殊な形で、すなわち物理学が「重い」や「温かい」という述語を、化学が「酸性である」や「アルカリ性である」という述語を扱うのと同じような形で扱っている。(中略)真理というゴールに到達するためには、人はどのように思考しなければならないのか。私たちは論理学がこの問いに答えを与えてくれることを期待しているが、論理学に対して、知識の各分野やその主題に特有なことにまで踏み込めと要求しているわけではない。(中略)私たちは「論理学は真理の最も一般的な法則に関する科学である」ということもできる8

前提として、フレーゲにとって科学とは「真理の体系(a system of truth)」9である。そのため、全ての科学は真理に到達することを目的としている。では、真理に到達するためには、どのように思考すべきなのか。私たちは論理学がその答えを与えてくれることを期待する。なぜなら、論理学こそが「真である」ことに関する真理を探究する学問に他ならないからである10。そしてこのことは、科学の他の分野においても同様のことがいえる。つまり、物理学は「重い」や「温かい」ことに関する真理を探究する学問であり、化学が「酸性である」や「アルカリ性である」ことに関する真理を探究する学問であるように、諸科学はそれぞれ真理を探究する専門の領域を持ち、それに関連した特有の術語(technical terms)を持つのである。したがって、論理学は「最も一般的な法則(the most general laws of truth)」に関するものという特徴はあるにせよ、他の諸科学と同様に真理を求めることを目的とする同一の営みの中に位置づけられるのである。

以上の点から、Rossberg&ShapiroはEL/AELの対立は、論理学と科学の連続性の観点からは峻別不可能であると結論付ける。

5.標準的AELの問題点②

本節では、AELに対する主要な批判の二つ目である「現代AELの論者にとって標準的AELの定義は本当に適切であるのか」という問題を検討する。

Martin&Hjortland(2022)によれば、標準的AELには「方法論的AEL」と「証拠論的AEL」という二つの主張が含まれている。しかし、最近のAEL論者は「方法論的AEL」のみにコミットしており、「証拠論的AEL」にはコミットしていない。したがって、標準的AELと現代AEL論者の立場にはミスマッチがある。このことを理解するために、まずは「方法論的AEL」の定義を確認する。

・方法論的AEL(methodological AEL : m-AEL)

  (m-AEL):論理学と科学は理論選択の方法と基準において共通のものを持つ。

これは、AELの基本信条の一つである連続性テーゼ(GT)、つまり論理学は理論的にも方法論的にも科学と連続的であるとする前提から導かれる主張である。現代AELの主要な論者に挙げられるTimothy WilliamsonとGraham Priestは、共に科学でおなじみの理論選択の方法であるアブダクションを論理学の理論選択にも利用すべきだとするアブダクティビズムの立場を採用している。ここで、聞き馴染みのないアブダクティビズムという立場を理解するために、その定式化を行っておこう。

・アブダクティビズム(Abductivism:ABD)

(ABD): 論理学の理論選択はアブダクティブな議論、すなわち最良の説明への推論に基づいて行われる。

彼らの説明によると、論理学の諸理論、例えば古典論理や直観主義論理といった論理体系は、与えられた現象の説明候補として競合する。そして、このように競合する理論同士は、「単純さ、強さ、統一力、データに対する適切さ」といった基準に従い評価される。そして、最も評価が高かったものが最良の説明として選択される。現代AELの主要論者がアブダクティビズムを採用していることから、論理学と科学が共通の方法に基づいているという方法論的AELに現代AELはコミットしているといえる。次に、「証拠論的AEL」の定義について確認しよう。

・証拠論的AEL(evidential AEL : e-AEL)

(e-AEL):論理学の理論は、科学と同じ形の証拠、とりわけ経験的証拠によって支持される。

これは、AELの基本信条の一つである改訂可能性テーゼ(RT)、つまり論理学の理論は科学理論と同じ証拠に基づいて改訂されるとする前提から導かれる主張である。それでは、現代AELは理論選択において具体的に参照される「証拠」を何として考えているのか。ここでも、現代AELの主要な論者に挙げられるWilliamsonとPriestを見てみよう。

まず、Priestの場合である。彼にとって論理学は妥当性(validity)を探求する学問である。しかし、妥当性は自然科学の対象と違って観察可能な現象ではない。そのため、彼は日常の場面に現れる推論に着目する。そして、日常言語の使用のなかに現れる「理論以前の直観」こそが、論理学が具体的に参照することができる唯一の証拠であるとしている。

次に、Williamsonの場合である。彼は、Priestと違い論理学を「世界の一般的側面」に関することだとみなす。そのため、経験的事実や直観を含めた「知っていることすべて」が証拠となりうるとしている。しかし、次の記述にもみられるように、彼は証拠の妥当性に関して、経験より直観を圧倒的に重視している。

理論的には、自然科学のどの分野からの結果も、今回の研究に適用することを妨げるものではないが、それが実際に大いに役立つという証拠はほとんどない。特別な実験をしたり、特別な測定をしたりすることはほとんど意味がないだろう11

Williamsonによれば、自然科学の手法を用いて論理に関する何らかの実験や測定を行い情報を得ることで、論理学の体系を改訂することは理論的には可能である。しかし、実際にはそうして得られた実験結果は大部分が役に立たないのであり、ほとんど意味がないという。理論選択において参照すべき証拠として経験を「中核」に据えていたクワインと比べて、経験的証拠を「ほとんど意味がない」とみなしているWilliamsonを証拠論的AELの支持者だとは認めがたい。実際、 Martin&Hjortland(2022)は、Williamsonの立場を証拠論的AELを支持するものだとは認めていない。したがって、最近の主要なAEL論者であるWilliamsonとPriestは、ともに証拠論的AELにコミットしていないと結論付けられる。

以上より、最近のAEL論者が実際に主張しているのは方法論的AELのみであるため、方法論的AELと証拠論的AELの二つの主張を両方とも含んでいる標準的AELは、最近のAEL論者の立場として適していないと結論付けられる。

6.新たなAELの定義(AEL as TR)

ここまでで明らかになったAELに対する批判点を一度まとめよう。第一に、連続性テーゼの問題である。論理学と科学の連続性の観点からは、EL/AELを峻別することは困難であり、ELの代表的論者であるはずのフレーゲまでもが極めてAEL的な主張を行っているものとして理解されてしまう。そのため、連続性テーゼをAELの中心的テーゼとしてみなすことには問題があるのであった。第二に、標準的AELと現代AEL論者の主張の間の乖離である。標準的AELの定義からは、方法論的AELと証拠論的AELという二つの主張が導かれるが、最近のAEL論者は方法論的AELにはコミットしているものの、証拠論的AELにはコミットしておらず、標準的AELの定義は最近のAEL論者が主張しているものとしては適切ではないのであった。

以上の批判を受け、Hjortland&Martin(2022)は、AELの基本信条から連続性テーゼを切り離した新たなAELの定義を提案している。それが、AEL を伝統の否定(Traditional Rejection)、つまり論理学に対して伝統的に認められてきた特権的性質やそれに紐づく立場(たとえば、論理学の一般性、ア・プリオリ性、認識論的基礎づけ主義など)の否定として特徴づける方法である。

・伝統の否定としてのAEL(AEL as Traditional Rejection:AEL as TR)

 (AEL as TR):AELは、論理学に対して伝統的に認められてきた特権的性質やそれに紐づく立場を否定することによって、論理学が諸科学の例外ではないと主張する。

AEL をこのように考えることの直接的な利点の一つは、AELとして分類される立場の多様性を尊重した仕方で、AELを定義できることである。Hjortland&Martinによれば、AEL は論理学の哲学における単一の見解を示すものではなく、むしろ、それぞれの立場に重要なつながりはあるにせよ、きわめて多様な動機と目的に由来するさまざまな見解の集まりであると捉えるべきだという。

ここで描かれたAELの姿によれば、AELは論理学を科学と一致させるという目標を掲げた単一の立場として紹介されることが多いが、実際には、時につながっていることは認めつつも、いくつかの立場が集まったものとして理解するのがよい。さらに、これらの立場の成否が他の立場にも影響を及ぼすことは間違いないが、これらの立場のすべてが一緒になって立ったり倒れたりする必要はない。AELを理解するためのこの新しい枠組みが、最終的にAELをどう評価すべきかを明確にし、AELの長所と短所をより体系的に評価することにつながることを願っている12

この新たなAELの定義(AEL as TR)のような穏健なAELについては、有効性などについて当然議論の余地があるだろう。しかしながら、AELの主張をあり得ないほど強く解釈したために、AELの立場が簡単に否定されてしまったり、逆にAELの主張を必要以上に弱く解釈したために、AELの有用な議論が損なわれるようなことがあってはならない。本定義はその点において、程よいバランス感覚を持った定義だといえるのではないだろうか。

7.結論

本稿では、AELの標準的定義はなぜ問題であるのかを明らかにするために、標準的AELの定義(AEL as Continuous)が直面する二つの本質的な問題の検討を行った。

第4節では、一つ目の問題としてRossberg&Shapiro(2021)が指摘する連続性テーゼがEL/AELを峻別できないという問題について検討した。ここでは、標準的AELの定義の理論的中核である論理学と科学の連続性テーゼを強調すると、むしろEL/AELの境界が曖昧になってしまうためにAELの定義としては問題があるということが明らかになった。

第5節では、二つ目の問題としてMartin&Hjortland(2022)が指摘する標準的AELの定義と最近の主要なAEL論者の主張が一致していないという問題について検討した。ここでは、まず標準的AELからは方法論的AELと証拠論的AELという二種類の主張を導かれることを確認した。そのうえで、最近の主要なAEL論者として挙げられるWilliamsonとPriestは前者の方法論的AELにはコミットしているものの、後者の証拠論的AELにコミットしていないため、標準的AELは最近のAEL論者の主張と合致していないということが明らかになった。

最後に、第6節では、以上のような問題含みの標準的AELに取って代わる新たなAELの定義の有力な候補としてMartin&Hjortland(2022)が提唱する伝統の否定としてのAEL(AEL as TR)について確認した。この立場は、標準的AELの定義のように特定の主張にコミットするのではなく、論理学が伝統的に持つとされてきた特権的性質に対する批判という緩やかな条件によってAELを定義することで、標準的AELの問題を回避しようとするものであった。この説の有効性については本稿では検討しきれなかった。そのため、この点については今後の課題としたい。

参考文献

César Frederico dos Santos, (2021), Intuitions, theory choice and the ameliorative character of logical theories, Synthese, 12, pp. 199-223

Chen, B. (2024), Logical exceptionalism:Development and predicaments, Theoria, 90, pp295-321

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Frege, G. (1979), Posthumous writings, In H. Hermes, F. Kambartel, and F. Kaulbach (Eds.), trans. by P.

Long and R. White. Oxford: Basil Blackwell.

Martin, B. & Hjortland, O. T. (2022), Anti-exceptionalism about logic as tradition rejection, Synthese, 200, pp. 148-181

Hjortland, O. T. (2017), Anti-exceptionalism about Logic, Philosophical Studies, 174, pp. 631–658.

Priest, G. (2016), Logical disputes and the a priori, Logique et Analyse, 59 pp. 347–366.

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Williamson, T. (2007), The Philosophy of Philosophy, Wiley-Blackwell

Williamson, T. (2013). Modal logic as metaphysics, Oxford University Press

Footnotes

Hjortland, 2017, p. 632

Chen, 2024, p. 295

Williamson, 2007, p. 3

ここであえて「古典的」ではなく「標準的」という言葉を使っているのは、「古典論理(classical logic)」を擁護するAELと誤解されることを避けるためである。標準的AELの論者には、古典論理の擁護者も非古典論理の擁護者もいる。例えば、AELの代表的な論者とみなされるプリーストは、非古典論理の擁護者として知られる。

Hjortland, 2017, p. 631

ここでは、連続性を表す言葉として「Graduality」を用いている。これは、クワインの「二つのドグマ」における表現に準拠している。AELの議論では、他に「Continuous」を連続性を表す言葉として用いるが、本稿では両者は基本的に同様のものであると考えて差し支えない。

ここで問題となる分析性は基本的に認識論的分析性のことである。カルナップやクワインに代表されるように、認識論的分析性の正否を巡る議論においては、分析性と先験性を明確に区別せずに使用することが多く、Hjortlandもその議論の流れを汲んでいる。そのため、ここでは非先験性テーゼの中に非分析性の主張も含んだ形で定式化している。

Frege, 1979, p. 128

本来ならここでフレーゲの科学観や真理論について説明しなければならないだろうが、フレーゲの難解な思想を解説することは本稿の意図するところではないため省略する。

真理について探究するのは、論理学ではなく真理論なのではないかという疑問を抱いた読者もいるだろうが、両者は密接に関係しているとフレーゲは考えていたことが同著作からうかがえる。

Williamson, 2013, p. 423

Hjortland&Martin, 2022, p. 147

 
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